昭和13年、大西は最上級生になった。
ラストシーズンである。
おまけに早稲田は昭和11、12年と連覇し、この年は3連覇がかかっていた。
明治は夏合宿で主将が頭蓋骨骨折で死亡し、早稲田も試合当日に高田総長が亡くなり、両チームとも喪章をつけてプレーした。
明治はフォワード8人システムで真正面からフォワード戦を挑んだ。
早稲田は明治の圧倒的に強いフォワードに押しまくられて27対6の大差で敗れた。
「11、12年と連覇してずうっと勝っていたから、今まで通りやっていれば勝てると思って、新しい創造というものがなくなった。
それが1番の敗因でしょうね。
もっと新しいものをつくり上げてみんなでやっていくのだ。
そういう気迫が無かったということでしょう。
2年優勝して3年目でボーっとしていて、まあゆさぶりをやっていれば勝てるだろうという安易さがあったから負けてしまった。」
第二次世界大戦
昭和14年、大西は早稲田を卒業し東芝へ就職した。
この年、ドイツがポーランドに侵攻し」、このことが第二次世界大戦と発展していく。
この年(14年)と15年、明治大学ラグビー部は早稲田大学ラグビー部を圧勝し、早稲田は3連敗となった。
昭和15年1月10日、大西鐡之祐は現役兵として神宮の近衛歩兵第4連隊第11中隊に入隊した。
あるとき軍装で駆け足行軍が命じられ、習志野の演習場から神宮の兵舎まで全装備で走らされた。
大西は初年兵で一緒に2年兵もたくさん走っていた。
大西は日頃いびられていた2年兵に負けてなるものかと走った。
次々に落後していき完走は4人だけだった。
褒章として外泊1日を許可された。
近衛歩兵第4連隊第11中隊は神宮球場付近に駐屯していた。
すぐそばにプレーした神宮競技場もあった。
大西は無性に競技場が見たくなり、就床後、見回りの目を盗んで兵舎の4階に上がり、競技場の時計台を見ながら泣いたこともあった。
昭和16年、早稲田大学ラグビー部は、何とか4連敗を免れようと、再び大西栄蔵(大西の兄)を監督に起用した。
そして明治に圧勝した。
この試合の翌日、日本が真珠湾を攻撃。
太平洋戦争が始まった。
日本はドイツ・イタリアと3国同盟を結び連合国と対峙した。
昭和17年、日本の国全体が戦争にまっしぐらに進んでいく中、多くのスポーツが統制されていった。
ラグビーは「闘球」と名称を変えながらも、かなり後まで続けられた。
しかしこの年の卒業生は6ヶ月繰り上げて卒業となり、シーズンも前後2期に分けられた。
ラグビー部も多くの部員が軍隊に入っていった。
「同時代の若者と同じように、僕の人生観は戦争で変えられた。
僕の場合、ラグビーをやっておったということ、1人のラガーマンとして青春を燃焼したことは、戦地に行っても僕について回った。
ラグビーで体を鍛えて丈夫だったから生き延びられたと思う。
でもなまじ体が強かったのが悪かったのかずいぶん運命に翻弄された。
教育教官として中隊に残る予定だったのに、体力があるために野戦向きということになってしまった。
その結果、結婚を約束していた婚約者に6年待ってもらうことになってしまった。
仏印(ベトナム)、タイ、マレーシア、シンガポールと各国を転戦した。
タイ、マレーシアの国境を過ぎた後、ポートディクソンという英軍の下士官養成学校のあったところに上陸したことがあった。
そこで思いがけず立派なグラウンドに出くわした。
白いゴールポストが立っていた。
思わず直立不動の姿勢で敬礼してしまった。
戦争に敗れたとき僕はスマトラにいました。
従軍慰安婦の女性たちが、大切にしてきた軍票紙幣が無駄になってしまった時に怒りを爆発させたことを思い出します。
従軍慰安婦という存在が国家によって認められていたことだけでなく、戦争とは人間を集団的に狂気に追い込むものであるということを、数十回の戦闘を通して身をもって僕は体験した。
戦争とラグビーが表面的には似ている面を持ちながらも決定的に違うことは、戦争は人間を人間でなくしてしまう。
殺す殺されるの世界だ。
それに対してラグビーは、闘争を人間の理性的な統制によってゲームに転化する。
理屈でなくその2つの違いがいかに大きいかを僕は体験した。
また植民地で過ごした体験から、1つの民族にとって教育がどんなに重要であるかを僕は痛感した。」
昭和20年8月15日、敗戦当時、大西はシンガポールで捕虜だった。
「戦争が終わってもすぐに日本に帰れるなどとは思っていなかった。
スマトラ占領以来警備隊長をしていたから、いよいよ年貢の納め時かなという気持ちもあった。
だが僕は日本に帰ってまたラグビーにかかわれるようになったのも、ある意味、ラグビーのおかげかもしれない。
戦犯調査を担当する英軍の少佐に呼び出され、僕が所属していた部隊の部隊長について尋問された。
「お前の部隊長はオランダ人の女を囲い虐待していたのではないか?」という。
居場所を含めて知っていることをいえというわけだ。
偽証したら絞首刑になるブラックキャンプ行きだという。
しかし僕は知らないと言い張りました。
最後の日、ブラックキャンプ行きになれば切腹することも覚悟して僕は正装して行った。
正装したときの常で早明戦で2連勝したことを記念するラグビーボールのメダルを腰につけた。
少佐はそのメダルを眼にすると「お前はラガーマンか?」といった。
少佐も軍隊でラグビーをやっていたといって、ひとしきりラグビー談義に花が咲いてしまった。
最後にラグビー談義が終わった後で「お前の言うことを信用する」といってくれた。」
この戦争で、25名の早稲田ラグビー部員(OBを含む)が戦死、その中にミンダナオ島ダバオで戦死した大西栄蔵(大西の兄)も含まれいる。
大西栄蔵は
「兵法常住之身、常信兵法之身」
を信条に、
「トイレのスリッパを脱ぐときも、後から入る人がはきやすいようにそろえて脱げ。
それはパスを受けやすいように投げる心に通じる。」
といい、ラグビーにひたむきで厳しい人間だった。
戦争体験から、教育者を目指す。
昭和21年6月、大西は広島の呉に帰ってきた。
そして元いた東芝に戻った。
「戦争から帰ってきて学校の先生になってやろうと思い小学校へ行った。
そしたら免許がないからだめだという。
代用教員なら何とかなるかもしれないとかいうから、何をぬかすかっと今度は中学校へ行った。
僕が出た中学校へ行って話をしたらそれもだめなのです。
日本の教育制度は本当におかしいと思った。
それでしょうがなく戦争に行く前に勤めていた会社に帰って会社員をしていた。
それでも教育というものに僕は興味を持つというか関心を持っていた。」
その頃、早稲田大学ラグビー部も復興していた。
しかし部員は少なく試合をするにはOBが出なければならないような状態だった。
大西が母校のラグビー部の惨状を聞き、どうしようかと悩んでいると理工学研究所からお声がかかった。
「内緒だけどラグビーを思う存分やっていいから」
ということだった。
こうして大西は東芝を辞めて早稲大学の非常勤教師となった。
「教育の場への念願を果たした私は猛烈に勉強を始めた。
アメリカが持っている教育哲学、ジョン・デューイに代表されるプラグマティズム(20世紀に米国にて生まれた実験的合理主義、米哲学者:パースが初めにプラグマティズムという用語を創始し、ジェームズがこれを確立、そしてジョン・デューイが『民主主義と教育』を発表し大成させた)とはいかなるものか。
と同時にラグビーを通じて英国における有名なパブリック・スクール(長きにわたる伝統の中で洗練されてきた教育方法を持ち、スポーツからはフェアプレイの精神を、寮生活からは心と体を鍛え、責任感やリーダーシップなどを身につけることを目的とし、昔のパブリックスクールの生活は過酷かつ質素なもので、精神と肉体の鍛錬に重点を置いた「スパルタ式教育」を取り入れ、上級生の下級生使役(いじめ)が制度としてあったといわれ、自由を奪うことで学生に自由の意義と規律の必要性を理解させることが目的だった)の教育とはいかなるものかと。」
秩父宮ラグビー場
「東伏見のグラウンドへ戦後初めて行った時、グラウンドではカマキリみたいなやつが20人ほど集まってラグビーをやってた。
感激した。
実際、まさか練習なんかやっていないと思って行ったのです。
戦後の皆が食うか食わずのときです。
部員たちも地方から出てきて寮みたいなところへ泊まりながら、毎日よその畑へ芋を取りにいって芋で食いつないでいるというようなことをやっていたのだから、ようやっておったと思う。
だいたいすいとんというおもゆみたいな中に3粒ほど小麦粉の団子が入っているものをよく食べた。
その入っている団子が1つ多いというので東伏見にも食堂があるのに、わざわざ東伏見から下落合まで電車で食いに行くという時代です。
そのへんの芋畑なんかをみんなあさって芋ドロボウなんかしたものだからラグビー部のやつは嫌われていたんですよ。
その頃は兵隊から帰ってきて大学に復学したものもいる。
そいつらがラグビー部に帰ってきたら、ラグビー部にいたほかのやつは腹ペコばかりで、そんなやつよりもずっと動きがよかった。
復員してきては選手になって試合に出た。
だから昭和21年の試合を見ると、シーズン初めの10月はまだ東大に負けたりしている。
しかし12月には明治に勝っている。
兵隊帰りが集まってきてメンバーが出来上がり、それで強くなったということでしょう。
そういう兵隊帰りというのは学生とは年も違ったからね。
帰ってはきたものの靴も何もない。
だからわらじをはいて試合したものです。
俺、足痛いからわらじはいてやるといって、それでも勝ったものです。」
国立霞ヶ丘競技場
国立霞ヶ丘競技場 - Wikipedia
昭和22年、
戦前、関東のラグビーの試合は明治神宮競技場を専用グランドに近い格好で使用していたが
戦後、アメリカ軍に明治神宮競技場は接収されて「ナイルキニックスタジアム」と名を変え、日本人は自由に使うことができなくなった。
そのためラグビーの試合は神宮球場や後楽園球場(現東京ドーム)で行わざるをえなかっくなった。
そんな状況から関東ラグビー協会は女子学習院の焼け跡でアメリカ軍の駐車場になっていた土地に新しいラグビー場を建築することを決めた。
これが「東京ラグビー場」、後の「秩父宮ラグビー場」である。
建設資金にはラグビーOBの浄財も含まれた。
彼らはある者は時計やカメラ、ある者は家のじゅうたんを売って自分たちの心のふるさとを築き上げようとという情熱に燃えた。
工事が始まったある日、雨のふるなかゴム長ぐつの秩父宮殿下が来て、工事関係者に
「ラグビー協会は貧乏だからよ ろしくたのむ」
と頭を下げたという。
昭和22年11月、
東京ラグビー場(秩父宮ラグビー場)が完成した。
早稲田大学ラグビー部監督となる
昭和25年、大西鐡之祐は、正式に早稲田大学ラグビー部の監督になった。
(そしてこの年、全国優勝した。)
「監督として適任であるかどうか。
まだ自信はなかった。
すくなくてもはじめの2年くらいは自信なかった。
その後2年間くらいの研究と経験がある程度、僕を監督らしくしていったのではないか。」
終戦後は、とにかくモノがなく、逆にいうとモノがあれば何でも売れる時代だった。
だから農家や商人は強かった。
なにもモノをもっていないラグビー部の食料の調達は大変だった。
進駐軍のタバコやチョコレートを持って、千葉の農家に行って米俵と交換した。
帰りは、警察官に見つからないようにしなければならなかった。
革製品は統制がかかっていたので、ボールや靴は配給だった。
ジャージもなかったので、みんなシャツを着た。
ゴールポストは、がんばって集めた金でつくったものの、翌日には盗まれていた。
「1番困ったのは飯だよ。
食わず飯がない。
マネージャーは米びつの上に寝ていた。
そうしないと部員にかっぱわれてしまう。
みんな持って行って炊いて食うのです。
米を買ってきて中に入れてはその上に座って番をする。
そんな時代だった。
夏合宿も食糧事情で選んだ。
あちこちの先輩に頼んで米の手に入る場所に行ったものです。」
大西はラグビーについてわからないことは、素直に早稲田の先輩にその答えを求めた。
監督経験者から各ポジションのスペシャリストまで、それぞれの分野の専門家を訪ねた。
そして自分のものにしていった。
「新人のときから僕はいろいろなポジションをやって、ある程度は知っていたけれど、本当に専門といえばフランカーです。
そのことについては誰にも負けないだけのものを持っているけれど、ほかのポジションはわからない。
一般的なことはわかっていても、ほんとに第一線で専門的にやっていることはわからない。
うちのOBのなかでも、例えばセンターなら川越藤一だというように、誰が見てもこいつの言うことしかないという人がいる。
そういう人が全国にいるということは非常に幸運だった。
それが伝統のあるクラブの有利なところでしょう。
最初の2年はOBの方とか一緒にプレーした仲間から聞いて、そのほかに実際に監督として選手との接触もあった。
アドバイスを聞いても本当かどうかテストする場を持っていたということ。
それが非常によかった。
部員と一緒に研究し実験してはじめて、これは正しい、これはいいという検証ができるのです。
実証されたものでない限りいくら立派なものでも、そんなものは空理空論です。
頭ではいくらでも考えられる。
しかしそれがほんとうにできるかどうかということはテストしないとわからない。
そのテストの場を僕は持っていた。
そしてそれを試しながら勝っていったということが非常に大きな自信を持たせた。
25年と27年と28年に勝って、26年と29年は負けたけど、5年やっているうちの3回は全国で優勝している。
1つ1つ新しい戦法をやらせて、そしてこれは正しい、いい、これはいけるというものを実証していった結果です。」
「例えば、スクラムの組み方で、従来の3・2・3に対して、3・4・1というフォワードシステムがある。
まず3・2・3と3・4・1がどう違うということを、両方で組ませて学生にやらせて、3・2・3より3・4・1のほうがいいという判定をする。
そして次に3・2・3のチームと試合して、それをやっつけて、これはいけるという結論を出す。
なぜ3・4・1のほうがいいかを簡単にいうと、3・2・3は押す力が最も集まるのはフッカーだが、3・4・1は左右のプロップに押す力が加わる。
スクラムはフロントロー3人の面の押し合いだから、押す力の指向性が、1重点であるより2重点であるほうがよい。
さらに3・2・3の場合、フッカーはフッキングすることが役目だから、後ろから押しが集中すると足が出しにくくなる。
またフランカーとナンバー8がバインディングしているので、スクラムから球が出た後、ブレークしてフォローに参加するのが遅れる。
それらの理由があったのです。
新しい理論を導入する時にも1つ1つの実証があったのです。
それが僕の大きな自信となったということです。
ただ新しい理論や戦法も学生がやりましょうといわんかったらできんからね。
学生も大変進歩的だったと思う。
その点で早稲田のラグビーは進歩的なのです。
たいていのチームでは新しいことはなかなかやりませんよ。
そんなものやらんでも今まで通りでいいじゃないですか。
だいたいそうなる。」
大西鐡之祐はシーズンが始まるとき、その年の1番強いチームはどこかを考え、そのチームを目標にする。
そして設定した目標の戦力診断をする。
戦力を分析したらそれに基づいて勝つためにどうやっていくかを考える。
「監督の仕事の第1歩は、シーズン当初において自らのチームを診断することです。
チームの現状の詳細な把握なくして何の方針も立てることはできないからです。
まずラグビー技術の程度と理解度とセンス、チームの士気とフィットネス、そしてそのチームが持っている歴史と組織などはその主要な調査項目です。
そのシーズンのチーム主力プレーヤーの技術程度を綿密に分析して、自分たちが実験した戦法の中からこのチームに最も適したものを選び出し、このシーズンのこのチームの戦法を決定する。
戦法の完遂と成功は各ポジションのプレーヤーの戦法遂行に適応した個人技の完成にかかっている。
したがって各ポジションごとに最も必要な個人技術を重要度に基づいて列記し、その完成期間を予測します。
次いで、戦法に基づくユニットプレー(フォワード、バックスの集団技術)の完成期間を予測し、戦法完成のチームプレーの完成期間も予測します。
シーズン中の最重要試合を決定し、それまでの練習期間をなすべく正確な練習時間に換算して、予測した個人、ユニット、チームの練習期間と照合して正確な練習期間を決定します。
いかに立派な監督でも時間がなければチームは完成できません。
こうして練習指導計画が全シーズン、春季、夏季、秋季を分けて作成され、それがまた月間、週間、1日単位の計画に細分化されて綿密に立てられ実施される。
しかもそれが何日かおきかのゲームによってテストされ、練習目標が達成されているかどうか反省、吟味され、新しく再組織されて実施されていく。
秋季ともなれば毎週他チームとの試合が行われ、1つ1つが最重要試合へのテストゲームとして戦法完遂へのステップとなる。
その間、常に最重要ゲームの相手チームの状況に最大の注意を払い、その作戦の変化には充分対応できるように対処する。
最重要試合の1ヶ月くらい前になれば、そのシーズンのレギュラーメンバーが決定され、約22、3名が選ばれて合宿に入る。
といったやり方がチームのコンディションを整えるのに好都合のように思います。
これが戦法完成へのチーム練習の仕上げです。
この間、監督はキャプテンの訓育に特に留意しなければなりません。
この間における対外試合については、とくに作戦を与え、そのイメージトレーニングを繰り返し、キャプテンの統率の下にチームだけで試合ができるように指導する指導する必要があります。
最後の1週間はそのシーズンの戦法は完成し、その上に何か新しい作戦をやる企図があるならその完成に努めるべきです。
新しい作戦は大試合の勝負を左右することがあるから慎重を期さなければなりません。
こうしてシーズン当初から考察して戦法がチーム全員に浸透し、懸命な練習によって最重要の試合に主導権をとって闘い、イメージどおり相手を翻弄し勝利を収めたとき、監督としてはラグビーの醍醐味の極致にあるということができます。
プレーヤーは確かに勝敗も大事ですが、ゲームに集中し無心に無欲に自由の中に闘います。
しかし監督は最後まで自分の戦法を信じて信じて断じて勝つの信念を持ち続けなければ、試合に負けるように思えてなりません。
もうこれでやるだけのことはやった。
あとは神に任せようと思ったとき、そこに逆転負けが潜んでいるのです。
ここがプレーヤーと監督の違うところのように思えるのです。」
「相手チームと自分チームを診断をして、それに基づきどういう作戦、どういう戦法で行くかを決める。
次に各ポジション候補を2人ずつくらい考え、1ポジションごとにその戦法を達成するための技術、例えば、スクラムハーフはどういう技術をやる、スタンドオフはどういう技術をやると技術を賦与する。
技術を賦与した者に、できれば1人ずつにコーチをつけて、まずはこれ、その次はこれと順番をつけてやらせていく。
その練習計画をずうっとつくっていくと、ラグビーは15ポジションですが、同じポジションが左右あるのでコーチが8人くらいいればやれます。
そのように分担して各ポジションの技術練習計画を立てていく。
この技術は何日くらい、この技術は何日くらい練習させたらいいかということで練習計画を立てる。
ただ計画を立てただけでは不十分なので、その終わりにどれくらいできたかという到達度テストをどのようにやるかというテストの計画もちゃんと立てて、それを各コーチに渡してやる。
それで今度は戦法練習。
要するに1番初めに大綱を決めた戦法のやり方をテストするときに、全部チームとしてまとめて、その戦法と各ポジションに当たる技術とかがマッチしているかどうか、それがどう進んでいるかを見ていくわけだ。
春のシーズンがそれに充てられる。
春の練習はだいたいある戦法を決めて、その戦法に基づいた各ポジションのやり方をある到達水準まで上げるということが目標になる。
もっとも走りこみやウエイトトレーニングなどで個人の体力やパワーを向上させることも春先から目標を決めてしっかり取り組んでいかなければいけません。
これを怠るとどんな理論や戦法も無意味になってしまいます。」
春は各ポジションごとの練習をやって、夏合宿ではチームとしてどういうことに重点を置くか、どこに攻撃の重点を置くかということをやっていって、チーム全体の志向を磨いていく。
ラグビーは自分のチームの強みを敵の弱点にぶつけていく。
チーム全体の力を敵の弱点に集中できるような攻撃方法、サインプレーを決め徹底的にやっていく
攻撃は一次攻撃だけでなく二次、三次と連続攻撃をやっていく。
さらに防御も大事である。
いかに攻撃的なディフェンスからチャンスをつくるか。
その練習をする。
また体力の限界まで走りこみトレーニングしてパワーアップする。
夏合宿を終えて9月に入ると毎週のように試合がある。
走りこみやウエイトトレーニングの量が減り、実際に試合をやって出てきた課題を修正することに練習の主が置かれる。
「チーム全体で自分たちの戦法を確認していく。
コンビネーションプレーというのも何となくやっているというのではまずいんです。
例えば、敵陣深く入ったところでのスクラムで攻撃ラインを引く場合とか、自陣25mでのラインアウトからの攻撃、あるいはペナルティからのサインプレーというように、さまざまな状況を設定して目的意識的に練習することが必要なんだ。
あえてタックルに行かずに相手が内に切り込んできたら誰と誰が止めるのか。
スクラムをホイールされたらどうするか。
あらゆる場面を設定しながらチームとしてディフェンスに磨きをかけるわけだ。
こういう実践的な練習を集中的にやる。
時には試合と試合の間に練習ゲームをやって動きを点検してみたりする。
そして1週間そういうことをやっていって2日前に作戦会議をやって、そこでは今まで通り
攻撃はいくんだ、防御はこういくのだ、ゴール前の攻め手はこれとこれとこれと最終的な会議をやる。
それでもう1日あるからその1日でそれをうまいこと理解しているかどうかということを確認して、それであがりです。
だいたい1週間くらいは具体的な戦法をずうっと練習でやってくるわけです。
だから試合当日になって、まだサインプレーについて指導をしなければいけないということになったら負けですね。
それまでにちゃんとやってなければ、前の日までに全部言って、その日はグラウンドに出てしまったら奴らに任すという状況のほうがうまいこといく。
そのときカッカしていたらダメです。
そのくらいの余裕はないとね。
そのくらいの信頼感をキャプテン、ゲームリーダーに持ってなければね。」
国際試合(International Game)
昭和27年5月19日、後楽園球場に集まった4万5000人が見守る中、白井義男がダド・マリノとの死闘の末、ボクシング世界フライ級チャンピオンとなった。
日本人初の世界チャンピオンだった。
同年9月、イギリスの強豪オックスフォード大学が来日。
大西鐡之祐は、これをAll早稲田を率いて迎え撃った。
早稲田大学ラグビー部は、昭和2年にオーストラリアに遠征し、それ以来5年間研究を重ねゆさぶり戦法を編み出した。
大西は戦後、それを4年かかって復活させた。
「ALL早稲田の監督なった僕は、夏合宿にOBの有力選手を補充し、チームプレー練習に専念した。
幸い、早稲田は過去5年でゆさぶり戦法復活に全力をあげ、全国優勝もして充実していたし最高潮にあった。
僕はこの素晴らしい早稲田のゆさぶり戦法が本場のラグビーに通用するか試してみたいと考えたのです。」
早稲田戦の前に行われた慶応vsオックスフォードは6対28。
オックスフォード大学は、国際クラスの選手である両センターに中心に深いラインをしいて、横に流れるような動きをしながら、パスを受けるときは体勢を立て直し加速し直進しパスを受け取る。
防御する側にとってタックルするポイントがつかみにくく、体格に恵まれたバックスが加速して走っていくと1発のタックルでは止められなかった。
「しかし対面のプレーヤーを追って、タックルポイントをつかみ、忠実にバッキングアップすれば恐るるに足りないと僕は思った。
攻撃も接近戦でいけば抜ける自信をもった。
作戦会議でこれを指示し、あとはゆさぶりで走りまわり相手の疲労をつくことを命じた。」
昭和27年9月17日、東京・秩父宮。
ALL早稲田は、全日本クラスの堀、橋本、横岩のOBをリーダー格として補充し、現役中心のメンバーで布陣した。
オックスフォードは、攻守に深いラインを敷く重く分厚い陣形。
早稲田は、シャローディフェンス(浅いディフェンス)で速い攻撃重視の陣形。
また大西鐡之祐は、チャンスの判断、ゆさぶり、タックルの徹底を強調した。
試合開始早々、オックスフォードのスリークォーター:ブーブバイヤーが深いラインからあっさり抜いていってトライ、ゴール。
続くペナルティゴールも決め8対0。
しかし早稲田はひるむことなく一丸となって健闘した。
前半終了前、右のスクラムから左へ展開、堀が絶好のロングパスを小山に送り、完全にオックスフォードのラインの後ろへ抜けて青木がノーマークでトライ。
8対5で前半を終えた。
後半、早稲田は善戦し、負けていたスクラムはホイールで活路を見出し、ラインアウトで多様な方法でボールを獲り、ラックでは5分にわたりあい、フォワードはパスとドリブルでオックスフォードをかく乱し、バックスは鉄壁の浅い防御陣でタックルを決めて互角に戦った。
22分、早稲田はペナルティを決め8対8の同点にした。
引き分けかと思われたノーサイド直前、早稲田ゴール前15mからのタッチキックがタッチにならず、それを受けたオックスフォードのフルバック:マーシャルが見事なドロップゴールを決めて、オックスフォードが11対8で勝った。
早稲田にとってはあきれめきれない悪夢のような幕切れだった。
試合終了後、「ほたるの光」が流れるなか、両軍はグラウンド中央に集い健闘を称え合った。
オックスフォードはこの後、日本代表と対戦し、0対52という圧倒的な強さを見せつけて帰国した。
大西鐡之祐は今後、増えていくだろう国際試合について、日本ラグビーに対して、5つの点を問題提起した。
これは後に大西がAllジャパン(全日本代表チーム)を指導するときも、重要視したポイントとなった。
1 ラグビーは合理的な理論と戦法で技術をマスターしてゲームをやらばければいけない。
2 体力と走力と粘りによってゲームを寸断することなく相手を疲労混乱させるように練習しなければならない。
3 プレーヤーに各ポジションの任務と分担範囲を理解させ、キャプテンはチーム全体を有機的組織体として運用できるようにならなければならない。
4 チームは組織でゲームしなければならない、チームとしての組織的な動きを身につけることが基礎プレーである。
5 以上の点を身につけることでゲーム中、冷静な情勢判断によるプレーができるようになる。
「展開・接近・連続戦法の欠点は、球の奪取が抜けているということである。
身体の小さな日本人が外人と対戦する時にふさわしい戦術はそんなにない。
チームで組織的に目標を定めて集中的にやらなければ到底かなわない。
個々に勝手に努力しても無理である。
フォワード戦はなるべく避けて、展開、接近して、集中する地点を決めて連続的に球をとる。
連続プレーを休まず行うことが大事である。
ゲインライン突破のための新戦法を考えよ。
例えば、バックスのダブルライン。
第1ラインをスタンドオフ-センター-ウイング、第2ラインをスタンドオフ-フルバック-ウイングとし、第1ラインで相手をかく乱し第2ラインでゲインライン突破-連続攻撃。
また例えば、第1ラインをスクラムハーフ-スタンドオフ-ウイング、第2ラインをスクラムハーフ-フルバック-センターとし、第1ラインで相手をかく乱し第2ラインで突破する。
こうしたダブルライン攻撃は防御が厳しくなればなるほど有効となってくる。
例えば、フォワードの集中地点を設定。
サインプレーでその地点にラックをつくり、連続的に球をとって攻撃、戦略パターン攻撃を続ける。
こうしたサインによる創造的プレーの連続が必要であろう。
またセブンフォワードの早いヒールアウトは、創造的なプレーを考える場合にいろいろなヒントとなる。
こうした先人の試みてきた栄光のプレーに挑戦し、それを土台にチームプレーの基本的タイプとリズムを呼び起こすこと。
新しい創造的戦法を大胆に採用し実施することにより、チームの士気を鼓舞することも有効な方法である。
いずれにせよ、国際試合においては、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の心を忘れた選手、ひたむきにタックルすることを怠る選手は、桜のジャージを着る資格がない。」
明治大学ラグビー部
この年(昭和27年)の早稲田vs明治戦は、奥村竹之助協会理事が興奮して卒倒するほど、伝説の名勝負となった。
「監督の僕にしてみれば、明大選手が骨折で退場したため、14名の相手に勝っても本当の満足は得られなかった。
当時はまだ怪我で退場してもリザーブ選手の交代出場が認められていなかった。
ラグビーは勝敗ではなく与えられた条件でベストを尽くせばいいという考え方だった。
このあたりがラグビーらしいところなんだ。
僕はむしろゆさぶり戦法とオックスフォードから受けた影響を研究することで勝利した早明戦が記憶に残っている。
3・4・1のフォワードシステムの研究を重ねたが、右プロップとこれを押すフランカーの押力の方向がうまくいかない。
そこで右フランカーを下げて3・3・2の変則システムで戦うことにした。
ラインアウトはダイレクトで直ちにスクラムハーフに返すことにし、密集戦はなるべくモールにして球を早く出し展開を図る。
バックスのシザースプレーはセンターとウイングのクロスを行い、フォワードのサポートを助けて連続プレーに持ち込みゆさぶりをかける。
防御はシャローラインを中心にして攻撃的タックルを敢行。
それに適合した防御網を張る。
こうした攻防理論を立て練習し得た1つの攻撃法は、3・3・2に最も適したホイール攻撃だったのです。
例年、明治戦で手こずるのは直進して体当たりで攻めてくること。
いくらゆさぶっても敵バックスはフォワードの密集に巻き込まれず。
速やかに自分のポジションに帰り再度タックルに来ることでした。
そこでこの年はまずホイールでサイド攻撃をかけ、早い浅い相手防御ラインを後退させ、その時球を出しオープン攻撃。
速やかにセンターとウイングでシザース。
それにフォワードがサポートして連続攻撃を敢行する。
こうした戦法で明治に臨んだのです。」
早稲田大学と明治大学は実力伯仲で常に優勝を競い合った。
明治の北島忠治監督は、
「前へ」
を信条とし、FWで押しまくるスタイルを追求した。
北島は昭和4年(1929)から平成8年(1996)5月に95歳で亡くなるまで67年間明治大学ラグビー部監督をつとめ、大学選手権優勝20回、準優勝10回という成績を残した。
明治大学ラグビー部には「明大ラグビー部10訓」がある。
北島は自分の作ったこの訓戒を自らも実践した。
(1)監督・委員の命を守れ
(2)技術に走らず精神力に生きよ
(3)団結して敵に当たれ
(4)躊躇せず突進せよ
(5)ゴールラインに真っ直ぐ走れ
(6)勇猛果敢たれ
(7)最後まであきらめるな
(8)低いプレーをせよ
(9)全速力でプレーせよ
(10)身を殺してボールを生かせ
これらのもとで激しい練習が世田谷区八幡山グラウンドで繰り広げられた。
北島は大学生時代、相撲部だったが、部員不足でスカウトされラグビーを始めた。
スクラムセンター(フッカー)として活躍し、4年生時には主将となり、卒業と同時に監督に就任した。
日本が戦争に敗れ、学生たちは困窮のドン底にあった。
新潟に疎開していた北島は、
「敗戦後に目的を失った青年を鍛えるのはラグビーしかない」
といって世田谷の合宿所を再開した。
部員と共に畑を耕し、野菜をつくり、基本的にグラウンド上では学生の判断に任せるが、手抜きは許さず、手抜きを見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。
自宅に選手が来ると、
「ご飯食べたか?」
といって自ら味噌汁を作り、ご飯を出す。
選手のために労を惜しまなかった。
火事で合宿所が焼けてしまったときも
「家の一軒くらい惜しくない。」
と新潟の実家を売り払い、金をすべて合宿所につぎ込み、新たに合宿所が建て直し再スタートさせた。
監督の心意気に選手は燃えた。
彼らは試合に勝つことで新しい宿舎に大きな土産をもって帰った。
火災から12年の歳月がたち、成長した選手たちは皆で金を出し合宿所のわきに監督の家を建てた。
また卒業してからも何度も厳しくも温かい北島の元を訪れ続けた。
明治大学の男子トイレの小便器 北島忠治監督の魂の言葉、「前へ」!
EVENT〜♪〜おお、明治〜!『第11回明治大学 生明祭』 - 一日一冊一感動!小野塚 輝の『感動の仕入れ!』日記
しかし大きな試練が、明治大学ラグビー部にはあった。
ライバル、早稲田大学ラグビー部の存在である。
早稲田は、毎年のように大学選手権を勝ち取り、大西鐵之祐監督の斬新な戦術は、ラグビー界を席巻した。
それに対し基本に忠実な北島忠治監督は「時代遅れ」、「化石」ともいわれた。
その頃を北島はこう回想する。
「苦しい時だからこそ明治のスタイルを変えてはならない。
そんな気持ちだった。」
北島は不振だからこそ基本に立ち返った。
土台が完成すればどんなプレーもできるからと、走り方、ボールの持ち方、パスの出し方・受け方、反則に対する厳しいチェック、など選手に徹底して基礎を教えた。
それに対して早稲田は、技を磨き、戦法を磨き、ひたむきで果敢、俊敏なプレーこそが早稲田ラグビーの真骨頂だった。
強力フォワードを擁した「縦の明治」に対して、軽量フォワード・バックス中心の展開ラグビーは「横の早稲田」といわれた。
そして早稲田の自陣ゴール前で見せる厳しく粘り強いディフェンスは「ゴール前3m の奇跡」、
必殺のタックルで相手プレイヤーを倒し、一気に攻守を逆転する様は「アタックル」と呼ばれた。
もっと新しいラグビーを考えなければいけない
昭和28年、大西鐡之祐は1冊の本に出会った。
それは南アフリカのラグビー協会のダニー・クライブンが書いた本だった。
ダニー・クレイブン(Danie Craven)は、南アフリカ代表のスクラムハーフで、人類学、心理学、スポーツ学の博士号を持つ学者である一方、はじめてダイヴィングパスをやったり、『ダニー・クレイブン・オン・ラグビー』など多くのラグビー文献を残し、1956~1992年、南アフリカラグビー協会会長をつとめた人物である。
「これはすごい本だと思った。
これ1冊読むだけでラグビーの理論や戦法についての考え方が一新された。
僕の考えてきたラグビーとは全然異質なもので、しかも非常に理論的だった。
それで僕はこれは何とか日本も考えなくてはならない。
早稲田式とか慶応式とか京都大学式とか各校の特色だけではいけない。
もっと理論的なレベルで新しいラグビーを考えなければいけない。
ラグビーは、オープンに展開して、フォワード、バックスが一体となって展開攻撃するゲームで、そのためにはフォワードはフォローしやすいように従来の3・2・3システムを3・4・1システムに変える必要がある。
攻防理論の第1歩はゲインラインの突破にある。
攻防のバックラインは深いラインをやめて浅いラインを使用する。
ラインアウトは展開を主眼とし、頭進結合方式を背進結合方式に変えるわけです。
密集戦はモール(ボールを持ったプレーヤーの周囲に、双方のプレーヤーが立ったまま身体を 密着させて密集する状態)をつくるようにする。
球を地面に落としてラックにせず、球を持ったままモールにする。
攻撃方向は一定方向のみに偏らず、特にバックスはシザースプレーを敢行し方向転換を行い、フォワードのサポートプレーを助ける。
こうしたボールの獲得-展開-方向転換-連続プレーを目標とした近代ラグビー理論が、ダニー・クレイブンの理論です。
ラインアウトで球をキャッチした選手が敵に背を向けることは、球を確実にバックスに供給するために絶対欠かせないことは今ではわかりきっている。
実際にプレーしている人ならそれが合理的だとよく知っている。
ラインアウトで前が球をとるのだけど、敵は球をとることは最初からあきらめて、彼が球をとると同時に腹にまとわりついてモールから球を出させない。
彼は困ってしまってキャッチした球をハーフに直接パスしていいかと僕に言ってきたことがある。
今ならスクラムハーフに球を送る。
しかし当時はそれが当たり前ではなかったんだ。
敵に背を向け球をハーフに渡すというのは大和魂に反すると一蹴されたのだ。
そういう古びた考えにとらわれていた中でダニー・クレイブンとめぐりあったのである。
日本のラグビーは、エイトとセブン両システムの拮抗によって発達してきたといえる。
早稲田のゆさぶりと明治の戦車フォワードも、その中でしのぎを削ってきたわけです。
しかしその両者にしても、ただ相手を打ちのめす研究に腐心する傾向がありました。
もちろんワセダラグビーは戦前からラグビー理論や戦法を研究してきたわけですが、国際的なラグビーを目指すまでには至らなかった。
これに対しダニー・クライブンは、それ以前のラグビーの理論的欠陥を矯正し、国際的ラグビーの目指すべき方向性を示したといえる。」
昭和29年、大西は最初の本「ラグビー」を出した。
「その本には僕のラグビーに対する考え方と日本が今までやってきたラグビーのやり方と、それからダニー・クレイブンのラグビーのやり方と一緒に書いた
その本を出してから、これは何とかして僕がやらなければ日本のラグビーはダメになってしまうぞと1つの自負が起こってきた。
それでも日本には僕より先輩がたくさんいるわけだ。
この人たちが何やかんやいってくる。
論争しなければならない。
まだ若かった僕はそういう先輩との間でも、日本ラグビーを進化、発展させていくためには激しい論議をしていく必要があると思っていました。
ある時はケンカし、先輩たちにいろいろ挑戦しながら、何とかジャパンチームをつくり上げていこうとしたのです。」
日比野弘
「私は29年4月に早稲田に入学し、大西監督の下でラグビーを始めました
その年は早稲田が3連覇を目指した時で、私は1年生ながら試合に出してもらいました。
早慶戦では19対19で引き分けましたが、私自身3トライし、
「1年生にしてはよくやった。」
とほめられました
早明戦の前にはタックルダミーに明治のジャージを着せて練習します。
当時、私のトイメン(対面)はラグビー界のスーパースターといわれた宮井邦夫さんでした。
練習のとき、監督はこわい顔をして、
「日比野、トイメンは誰だ。」
というわけです。
「宮井です。」
と答えると、
「お前、宮井にタックルするときどこを見てる?」
「目を見てます。」
というと
「へそを見ろ。
へそは動かない。」
と教えられたのです
試合当日はどしゃぶりで敵味方の区別もつきません。
その中にあって宮井の姿を求め走り続けたのですが、14対8で負けてしまいました。
試合後、高田校舎で監督が
「今日は精一杯やった。
でもお前たちの中で今年1年やれるだけやったと言い切れる者はいるか?」
といわれたのです。
この言葉は私の胸に深く突き刺さりました。
その後何度も試合に出ましたが、この負けた明治戦が1番印象に残っていますね。」
(日比野弘:早稲田大学ラグビー部1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウィングとして活躍。
早稲田大学ラグビー部監督、早稲田大学人間科学部教授、ラグビー日本代表監督、日本ラグビー協会理事。)
ラグビー部監督から早稲田大学総長の秘書に
大濱信泉総長
大西は昭和25年に初めて早稲田の監督になり全国制覇。
26年は明治に敗れるが、27、28年と2連覇し、29年までラグビー部監督を務めた。
そして昭和30年から大濱信泉総長の秘書となった。
以後、数年間は「必勝」の呪縛を解かれ牧歌の時代を過ごした。
大浜はフェミニストでどこに行くのも奥さんを同伴していた。
総長秘書といっても、寝台車に乗って、地方に出張にいったときなど、いびきをかいて寝ている大西を総長が
「大西君、着いたよ」
と起こしたこともあったという。