実をいうと僕は学生を1人殺したんだ。
「努力家の選手を教えるのは実に楽なのです。
その選手の課題を自覚させ、そのために練習させると、いつまでもやっている。
性格的にも素直で吸収が早い場合が多い。
だが数は少ないけど天才みたいな選手もいる。
天才みたいな人は本当に怖いですよ。
ある1つのことを理論的に、こういう風に練習したら、これはできるぞと言っただけで、普通の人ならまず2週間はかかると思っているのに3日か4日でやってのける。
教えていくとどんどんいろんなことを覚えていく。
だからあるところまでくると教えるものがなくなってしまう。
そういう人がいます。
そういう人が本当に才能のある、優秀な人なのですね。
個性的にちょっと変わった優秀な人がいると、チームプレーに影響があるという意見もありますが、逆に個性的な秀でた人がいるときは、それにどのように協力させるかということをほかの者に教えればいい。
強烈な個性をもっているやつはケンカするかもしれない。
天才プレーヤーみたいな人がいると、その人とほかの人がどうしても合わないという場合がある。
どちらかがうまく合わせてやるといいのですが、両方ともうまいものだから、両方とも生かそうとすると失敗するでしょう。
かえって火花を散らせて競争してもいいように思えるけど、うまくいかない場合が多いです。
だから名プレーヤーが2人いても、片方が追従してこれを生かしてやるように動いているということが多いですね
それぞれ選手の個性は秀でたほうを生かせるように協力させたほうがいいわけだ。
また同時にラグビーはチームプレーである。
そこのバランスをうまくとるというのは監督の力量だろうね。
本当は天才プレーヤーみたいな人がキャプテンになると大変困るのです。
キャプテンと監督と2人いるようになってしまう。
早稲田の歴史の中でもそういう時代がありました。
天才プレーヤーがいて、ほかの者の言うことを聞かない。
それで監督が非常に困ったということがあった。
選手がいくら練習しても行き詰まるときがある。
その時はやはり抜け道というか、それを打開する道を、これじゃないかと少しずつ与えて、それがわかるまで待つより仕方ないでしょう。
ところで技術的なことはわかるけど、プライベートな問題で、恋愛の問題とか、家との関係とか、会社がつぶれて家がだめになってしまうとか、そういう問題になってくると本当に困りますね。
この頃は少ないけれども、戦後のあるときなど、社会の変化と経済的な変動によって、いつ家がつぶれてしまうかわからない。
そういうのがたくさんいました。
家がつぶれてラグビーをやめるしかしようがないといった人には、OBのみんなから金を出させて援助して卒業させた人もいました。
実をいうと僕は学生を1人殺したんだ。
それは天才的な選手で、僕が教えたうちですごく伸びていったという意味ではまったく天才みたいな人だった。
早稲田の1年の秋のシーズンが終わったらAll関東の代表になるまでいったんです。
ところが1年でAll関東の代表になったときに粟粒結核になってしまって入院してしまった。
みんなで話して、絶対治るからといって、いろいろ励まして、その入院は1年間で、死線を超えて治って帰ってきた。」
自殺について | ショウペンハウエル
自殺について | ショウペンハウエル, 河井 眞樹子 | 本 | Amazon.co.jp
「よかったなというわけで僕らも非常に喜んだけれども、粟粒結核やったものだから医者がどうしてもラグビーはやめさせなければいけないというわけだ。
本人は帰ってきて、背も高くなったし、みんなと会ったからラグビーをやりたくてやりたくてしようがないわけです。
そこが天才と凡才との分かれ道になってしまうところですが、何回も僕に向かって
「先生やらせてくれ。
死んでもいいからやらせてくれ。」
という。
けれども彼は将来性のある青年だったし、ちゃんと医者もついていて、そんなものやらせたらいけないというので、僕は困ってしまって、やったらいけない、絶対やったらいかんといったんだ。
そして4月に帰ってきて5月だったから学校へも行って勉強していたけれども、5月になったら家へフラリとやってきて、どうしてもやらせてくれないかというわけだ。
それはアカンといろいろ話をして
「それなら帰りますわ。
さようなら。」
といって帰った。
そしてその晩、従容と毒をあおって死んでしまった。
僕はその天才というやつの気分をわからなかった。
後からみたらショウペンハウエルの『自殺について』なんていう本を読んでいるんだ。
そういうのに影響されたのだろう。
本棚のなかにその本がある。
才能のある人間が、ピアニストが片手を切られたからその人生はないのだ。
その才能がなくなってしまった人間というのはモヌケの殻で、全然存在価値がないのだということを本を読みながら考えたのだろうか。
俺からラグビーを除いたら、ほんとに生き甲斐がないというので死んでしまったのだろうな。
現在、台湾ラグビー界のリーダーである柯子彰は、変則的なステップと名人芸のパスワークで一世を風靡した。
後に続いた川越藤一郎はすべてのプレーに秀でていた。
この2人の13番が戦前を代表するプレーヤーなら、彼はあのままプレーしていたら、戦後を代表する13番になっただろう。
彼がもし生きていたら早稲田のラグビーは変わっていたと思う。
将来早稲田のコーチでもやってたら、一生先生でもやってくれていたら、あれだけの天才が教えていたら、すばらしいラグビーができたのではないかと思うのですが、本当にあのときだけは凡才は天才のことがわからないと後悔しました。」
ナショナルチームの養成について
昭和30年代、オーストラリア学生選抜、ニュージーランドのオールブラックス・ジュニア(23歳以下)A、カナダ、オックスフォードとケンブリッジの混合チームなど、海外から多くの強豪チームが来日し、日本代表チームと対戦した。
しかし日本代表は全然勝てなかった。
大西は朝日新聞に文を寄せた。
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日本ラグビーはいまや、国内の優勝争いに終始するか、あるいは国際的に進出するか 、岐路に立たされている。
国際的進出を真剣に考えるなら、数回の来日国際ゲームを十分に再検討して、小中高大学および社会人の各ラガーマンに一貫した指導方針を確立し、具体的な指導方針を研究すべきであろう。
日本ラグビーは伝統の精神的規範を守ることが因習化し技術的には固定化と画一化の方向をたどってしまったといえる。
日本ラグビーの将来は若きラガーマンがこうした因習をいかに日本人のものとして改造していくかということにかかっている。
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「僕の言い分は、世界の情勢は各国が自分のところのナショナルチームを養成しそれを世界との試合に出している。
日本はそれまでどこかのチームがやってくると、そのときに全国のいろいろなチームから人を選んで、それでチームをつくって試合をしていた。
そんなやり方ではとても勝てない。
ちゃんとAllジャパンを平静からつくり、練習して、それを来日したチームと当てないと勝てないと言った。
ところがなかなか聞いてもらえませんでした。」
2度目の早稲田大学ラグビー部監督 「土方ラグビーをやる。」
早明戦の人気は低迷し、昭和35年の早明戦の観衆はわずか1235名だった。
昭和36年、中央大学、法政大学などの新興勢力が台頭し、早稲田大学ラグビー部はBグループへの転落した。
部員数も激減した。
これに危機感を感じた早稲田OBは、総長秘書をしていた大西鐡之祐に再び監督になってくれと頼んだ。
こうして2度目の監督就任が決まった。
「監督を引き受けるとき条件として、「(1年でAグループに戻るために)土方ラグビーをやる」と僕は宣言し、OBがそれに反対しないという確約を取りつけました。
「土方ラグビー」とは、言葉が適切かどうか知らんが、どうやってもとにかく勝つラグビー、なりふり構わずやるラグビーという意味です。
というのは全勝しなければAグループに復帰できないから必死だった。
どんな条件下でも、どんな実力の差があろうと、ベストを尽くすというラグビーの精神からいうと、A、Bなどと区別するのは邪道だと思うんだ。
対抗戦という形が望ましい。
でも当時のシステムはそうなっていないので、とにかくAグループに復帰することが先決でした。」
また大西鐡之祐は、部員減少を食い止めるため週休2日制をとった。
そして自信を失っているチームに自信を取り戻させるため、春先からベストメンバーで勝ちに行った。
しかし今1つ成績はふるわなかった。
木本健治
主将の木本建治は燃えた。
木本はAグループ復帰はもちろん、日本一も視野に入れ、下級生を鍛えに鍛えた。
練習後、部員がグラウンドに倒れ込んでしまうまで引っ張った。
「タコやん(大西)といえば、理論家であり、勝負師であり、教祖だったっちゅうことかな。
トコトン考えて考え抜いとったね。
そしてそれが90%当たる。
自分のものを確立していた。
人を暗示にかけようと思ったら、まず自分がかからないとダメなんだ。
その点でも類まれな指導者だろうね。
監督とキャプテンは一心同体だから、何かを教わったというより一緒に苦労したなという感じだった。
自分が監督をやるようになってもそれは生きてるよ。
こういうときオヤジはこう考えるやろなとかね。
あの年(昭和36年)はね、別に汚いことをやったわけじゃないんだ。
要するに早稲田ラグビーを封印して、負けない試合をやるということに集中した。
敵陣までは全部タッチに出していく。
見てて面白くない。
でも勝つために近道に徹する。
やっぱりチームの力が落ちとったんだよ。
その前の富永キャプテンのときに優勝したチームは、谷口さんというセンターがゲインラインを切って
ウイングに回し、豊岡、尾崎の両フランカーにリターンパスしてトライを取る、という強い選手を核にした点を取るパターンがあったんだ。
ところが早稲田が弱いときの典型的な例なんだが、ただ外に展開するだけでゲインラインを突破できないという「ゆさぶりの誤解」というか弊害が出た。
大西さんは、型よりもまずゲインラインをどうやって超えるかを重視していたから、その年のメンバーではゆさぶりを捨てざる得なかったんだと思う。
まず言われたのは「お前らは非力だからウエイトトレーニングをやれ」ということ。
ウエイトリフティング部に練習しにいったよ。
後、昔は春のゲームは2軍戦といって、4年生やキャプテンなんかは出なかったんだが、勝ち犬にするために全員出場させてとにかく勝ちにいった。
敵陣に入ってから1発でトライを取るために「カンペイ」も考えた。
それと夏合宿を10日くらいしかやらなかったんだ。
普通は2週間以上やるんだが、「お前らにそんな力はない」ということでね。
あの人はね、あまり細かいことは言わないんだ
「展開・接近・連続」もそう。
それを具体的にしていくのが僕らの仕事だと思っている。
でもゲームでは細かかった。
あの頃、本を書いたりしていたから蓄積があったんだろう。
「こう行け!」と言い切っていたよ。
みんなは勘というけども、僕は違うと思う。
自分の洞察力で読み切っていたんだ。
そこがすごい。
「僕が責任を取る」が口癖だったな。
コーチは潜在的にもっと選手に練習させたいものなんだ。
自信がないと特にそうなる。
例えばゲームに負ける。
お前らに気合が入っていなかったんだと反省練習をさせる。
これはおかしんだよ。
そうならないようにチームと選手を導くのがコーチなんだから。
大西さんには戦争体験という下地がある。
弾の下をくぐってきたわけだから。
判断が間違ってたら死んでしまうんだ。
これからはそんな経験を持っている人がいなくなる。
じゃあ何かと言えば選手に昨日までの自分と違う自分を見せてあげられるかどうか。
その辺りが大切なんじゃないかな。
あのBブロックで全勝した年はね。
異常な雰囲気だった。
勝っても恥ずかしそうに合宿に帰ってすぐに布団に入って寝るようなね。
だからBブロック優勝が決まって早慶戦の前に大西さんに言いにいったんだ。
「たまには好きなことやらせてくれ」とね。
大西さんは「好きにやれ」と言った。
試合では5-6で負けたけど、何か爽快だった。」
(木本建治)
カンペイ
「チーム全体の問題もあるのですがバックスの決定力不足が気になりました。
練習でバックスを集めて「お前たち何か手はないか?」と聞いたのです。
必ずトライにつながるような戦法を考えられないかということです。
そうしたら4年のフルバックの中村が、こうやっておとりを使ってフルバックにパスしてくれたら絶対にとれる、というのです。」
これがきっかけになって早稲田のお家芸といわれる「カンペイ」という新戦法を生まれた。
早稲田はBグループを全勝優勝し、Aグループ全勝の明治にも勝った。
マスコミは「大西マジック」と称えた。
「土方ラグビーというだけあって、フォワード戦重視、キック攻撃重視という早稲田らしくない試合運びが多かったのですが、とにかく立ち直るきっかけはつかみました。
しかし翌年(昭和38年)からは、明治が長い低迷期に入ります。
一方、この時期、全盛期を迎えていたのは法政で38、39年は打倒法政を目指して猛練習したんだがかなわなかった。」
ラグビー・オール・ジャパン Rugby All Japan
昭和39年、カンタベリー大学(ニュージーランドの大学)チームが来日し、全日本代表チームは負けたが、大西鐡之祐の早稲田は勝った。
大西はラグビー協会会長に自らの構想を進言し、「オールジャパン」の結成が決まった。
そして昭和41年、大西はオールlジャパンの監督になった。
この日本代表監督は、昭和41年~46年まで続いた。
大西は、寄せ集め的なチーム編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げ、学閥やポジションに偏らないチーム編成を行った。
「従来のオールジャパンの選手は、いろいろなチームからセレクションしてきました。
だから早稲田の者は早稲田の者、明治の者は明治の者、みんな考えが違う。
そうしても1本にならない。
1つのチームとしてやる場合、かえってコンビがうまくいかなくて負ける。
単独チームの方が強い。
単独チームのようにするには戦法、やり方、戦い方を統一しなければいけない。
僕はその戦い方を「展開・接近・連続」という言葉で簡単にあらわして彼らに説明した。
ラグビー先進国の模倣ではなく、その国の土壌の上に成り立った戦い方を考えていくのだ。
よそのものを持ってきて日本でやってもそれは借り物だから勝てない。
そこで日本選手の特質をしっかり考えろと教えた。
体のでかい外人とフォワードが揉み合っているようではロスである。
日本人はどういう特質を持っているかというと、体格の大きさでは負ける。
だからスクラムから早く球を出して展開をなるべく速くして、その展開の中で相手と接近して、その接近する間に相手を抜くということを考えた。」
「要するに相手は長い槍で来る。
こちらは短い短刀で戦うのだから接近戦を挑まなければだめだ。
日本人は接近戦は得意だ。
接近する間に相手を抜くということを考える。
そのことが重要なのです。
もう1つはマラソンが強いということから、ジャパニーズラガーマンは長い距離を走ることを練習して耐久力、持久力をつけることはできると思う。
その持久力を利用して走って走って走りまくって、次から次へ連続プレーをやっていって相手をへばらす。
そして相手の弱点を突いていく。
これが「展開・接近・連続」という戦法の中心となる考え方なのです。
フォワードは組んだらなるべく球を早く出す。
早く出したら展開をする。
スタートダッシュを早くして相手に近づいて、近づいたらすれ違いざまに何かやる。
そしてキックではなしにパスしてパスして、パスでどんどん進んでいく。
そしてパスを続けることで連続プレーを連続させていく。
それにはパスの技術が1番大切だ。
パスのやり方はこうだ。
ゆさぶりはこうしてゆさぶっていくのだ。
なるべく早くパスをするためにはこうだと、いろいろな技術をそれぞれのポジションごとに練習させて、ゆさぶりを中心とした日本のやり方を練習していったわけです。
外国チームが日本の攻め方についてよく批判することの1つは、日本の攻め方はすぐにわかる。
ここへきたらこうなる、ここへきたらこうしようということがすぐにわかるというのです。
だからこの点を考えていけば、日本は負けることはないというのです。
ところが僕たちからいわせると、身体のハンディがあって、それ以外に方法がないのです。
そこに日本チームの弱さがある。
戦法がある程度決まってしまってそれしか日本人にはできない。
それくらい身体的制約があった。
そこが日本人が外人と戦うときに非常に難しいところでしょう。
何しろ日本で1番難しいのは、国内で優勝しようと思うのと、外人と戦おうとするのでは、そこに作戦的なギャップがあること、勝負だけにこだわるなら、外人に勝つための戦法は、国内で積極的にはやれないという見方があるということでしょう。
例えば「展開・接近・連続」と僕はいうでしょう。
しかし「ゆさぶり」でいく作戦には二の足を踏む監督もいるでしょう。
積極的にバックスに回していくのは、ある意味、相手に逆襲される危険性を伴うのです。
またチームとしてゆさぶり戦法を熟知していなければなりません。
そればかりやっていたら日本では確実に勝っていけないというわけです。
その結果、とにかくキック中心で敵のゴール前まで攻め込みスクラムトライでの得点を狙う。
フォワード8人だけのラグビーと酷評されながらも、確実に勝っていくためにはその方法が良いなってしまう。
どんなにゆさぶり攻撃を練習しても、蹴ってゴール前で戦う単調な相手の作戦に耐えられなければ負けてしまう。
そのあたりが1番考えるところです。
やはりスクラムでパーッと押されてきたら、それに耐えるだけのスクラムをつくらないと、何ぼ走っていくんだといっても日本では負けてしまう。
外人選手は、ゴール前にきてスクラムトライを狙うこともありますが、それだけに執着したりしない。
サイドにもぐったり、バックスに回したりで、スクラムだけで相手をむちゃくちゃに押し潰すということはしない。
だからそういう点、日本でやるときには、日本人の押しに対してキチンと守れるだけのことをやっておかないと負けてしまうということが起こるのです。
一般的な傾向として、外人チームは、彼等の性格としてフォワード、バックスの連携に欠けている。
また個人プレーを尊重する風潮が強い。
逆に日本のラグビーは、英雄をつくらず、全員の協力こそ最高のプレーだと指導し続けてきた。
また連続プレーの根源は持久力であり、日本マラソンに見られるように、身体は小さくとも持久力をつけることは十分可能である。
彼等より強い持久力を作り、彼等より速く、長く走り、彼等のくずれた穴を作るならば、ゲームの主導権は握れるはずである。」
オールジャパンは、日本人選手の特徴を考えて、さまざまな戦法を編み出した。
背が低くてもラインアウトでボールが獲得できるショートラインアウト。
体重差があってもスクラムでマイボールが確保できるダイレクト・フッキング。
インサイド・センターからアウトサイド・センターにボールが回る瞬間、フルバックがライン参加してそのパスを受けるカンペイ。
体格差を乗り越えるための戦法としてさまざまな作戦を習熟させた。
「小さな者が大きな相手と戦うには何が必要か。
カンペイなんかで、アっという間に球を動かせた。
ラインアウトのスロワーは石田という小さな(163cm)選手で、彼は毎日、壁に向かって投げて、真っすぐに投げたら真っすぐに返ってくることを見つけ、狙った所へ寸分の狂いもなく投げ込めるようになった。」
石田は法大を出てからは、ラグビー部のない企業に就職し、孤独の練習を続けた。
壁に向かってスローイングの練習を繰り返した伝説の日本代表フランカーである。
坂田は速いだけではなく、パスをもらった瞬間、止まって即座に動き出す「イン・アンド・アウト」を、京都の街中でしばしば実験をした。
「歩いていて向こうから人が近づいてくる。
僕が急に止まると歩いてきた人も止まってしまう。
そういう習性が人間にはあるんです。」
(坂田)
大西鐡之祐の戦法を「展開、接近、連続」といわれていた。
パスをつないで展開し、相手とコンタクト後にボールを確保して再び・・・・・
だが坂田はこれにいささか違和感を感じていた。
「突破が抜けているのではないか?」と。
「実は大西さんの『展開、接近、連続』の中にも突破の要素はあったんですよ。
だけど私は『接近、突破、連続』ではないかと思っている。
スピードの変化によってどんな相手でも交わせる。
1人で交わせなければ、おとりを使って2人で突破すればいい。
大型化は必要でも、大切なのは日本人選手の特質を生かした戦い方、日本のラグビーを貫いて、たとえ負けても評価されるように、外国のチームが持っていない日本人しか出来ない技術を見せるのがラグビーではないかと思っている。」
(坂田)
衝撃のラグビー王国(ニュージーランド)遠征
大西鐡之祐がオールlジャパンの統一を図り始めて2年過ぎた頃、ニュージーランドの大学協議会から親善試合のオファーが来た。
「まだちょっと早いと思ったけど、いっぺん行ってやろうじゃないか。
そしてこのやり方が外人チームに合うかどうか試してこようということになった。」
昭和43年5月、オールlジャパンはニュージーランドへ渡った。
日本ラグビー史上、初めて計画的に強化育成した大西監督率いる日本代表が、「世界と戦う日本ラグビー」を体現すべく行ったラグビー強国への初遠征。
勇んでラグビー王国ニュージーランドに乗り込んだものの、言葉も通じず、食事も合わず、慣れない生活がたたって力を出し切れず、第1戦からいきなり4連敗した。
修正練習をしようとしても、2名1組で民泊し、各家で手伝いをしながらの転戦のため、朝2時間の全体練習以外は時間を取れない。
追い討ちをかけるように、記録的な豪雨や、マグニチュード7の大地震に襲われた。
国土の大きさでは日本の方が大きいのに、人間のサイズはジャパンのほうがが小さかった。
最も大きな選手が185cm85kg。
フォワード8人の平均体重76kg。
フォワードの第1列で1番重い選手で78kg。
バックスは大半が170cm以下で、1番重い選手が73kgだった。
選手は職場や家族の理解があって実現した長期の遠征だけに、みんな「このままでは、日本に帰れない」と思い詰めていた。
メンバーの1人、小笠原はホームスティ先の家で
「日本に勝算はない」
といわれ
「いい死に場所ができた」
と奮い立ったという。
同じくメンバーの井沢は、まだ早稲田大学の3年生でチーム最年少だった。
まだ実績も経験も不足していると言われていた彼は、恐怖に近い気持ちがあったという。
「体力、技術において劣る日本人が相手に食い下がるためには、どうしても気合、気迫が欠けていては問題にならん。
友好を目的に我々はニュージーランドまでラグビーをしに来たんじゃない。
日本のラグビーが世界に通用することを試すんだ。
日本ラグビーの新しい歴史を切り拓くんだ。
そういって選手を叱咤激励しました。
そんなこというとハッタリとか精神主義とか思われるかもしらん。
だが戦法や技術をトコトン磨くだけで勝負に勝てるか。
それなしでは勝負にならんでしょう。
最後は勝ちたいという気持ちが強いほうが勝つというのもまた真理なのです。」
昭和43年6月3日、第5戦はウェリントンのアスレチックパークラグビー場で行われた。
相手はこの遠征で最強のAll Blacks Jr.(オールブラックスジュニア)だった。
「ジュニア」こそついていたが、後に11人が世界最強の軍団:オールブラックス入りを果たす準代表チームである。
観客は16000人、うち50人が日本人だった。
その中には、船から日章旗をはずして持ってきた漁師、コンビーフ会社の技術者、鉄道技術者などもいた。
試合前、大西鐡之祐は選手にジャージを渡した。
「死ぬ気のねえ奴はジャージを返してくれてもいいから」
そして選手が一口ずつ回した水杯を床に叩きつけて粉々にした。
「日本ラグビーのために死んでくれ!」
前半2分、オールブラックスジュニア、ペナルティゴールで0対3。
3分、日本のキックオフのボールをオールブラックスジュニアがとって、モールからパントキックで日本の背後に入れてトライ、0対8。
6分、日本はオールブラックスジュニア陣内でペナルティをとるがペナルティゴールを失敗。
7分、オールブラックスジュニア陣内の中央でスクラム。
日本が押したためにオールブラックスジュニアのバックスがオフサイド。
日本はペナルティキックを決めて3対8。
10分、オールブラックスジュニアの右オープン攻撃を日本バックスがタックルで阻止し、日本がこぼれ球を拾ってトライ、6対8。
17分、オールブラックスジュニア陣内で日本オープン攻撃からゴロキック。
オールブラックスジュニアがボールをハンブルしたボールを日本が拾ってトライ、11対8。
25分、日本はオールブラックスジュニア陣内隅のスクラムからオープン攻撃から縦に突いてトライ、14対8。
27分、オールブラックスジュニアがペナルティキック、14対11。
35分、オールブラックスジュニア陣内で日本ボールのスクラムからオープン攻撃、トライ、17対11。
後半16分、オールブラックスジュニアが自陣よりオープン攻撃からパントキック。
日本がハンブルし、それを拾ってトライ、17対16。
25分、日本はオールブラックスジュニア陣内で右にオープンしトライ、20対16。
30分、日本は中央ラインのラインアウトから左へオープン攻撃からトライ、23対16。
34分、日本陣内でオールブラックスジュニアが左へオープンしクロスプレーからトライ、23対19。
こうして試合終了し、オールジャパンは初勝利で大金星をあげた。
「ニュージーランドでは全部で10試合やりました。
試合前は相手はどんなチームかわかりませんでした。
日本にもニュージーランドのチームが来ていたので、だいたいニュージーランドはこういう戦い方をするということはわかっていましたが、それぞれのチームの詳しい特徴はわからない。
僕がいまやってる、展開・接近・連続というやり方が外人チームに合うかどうかわからない。
だから10戦同じやり方でやって、それが通じるかどうかテストするという作戦で行きました。
だから10戦とも1つもやり方を変えずに展開・接近・連続の戦法で押し切りました。
そして最初の5戦は負けましたが、6戦目からずっと勝って、オールブラックスジュニアというニュージーランド代表のオールブラックスの次に位置するチームに勝ってしまった。
だから日本の人はびっくりする。
向こうも日本から来たやつがこんなに勝ってとびっくりしたわけです。
もう1つ、その頃、ニュージーランドのアップ・アンド・アンダーというキックとフォワードラッシュを繰り返す作戦に対し、ニュージーランド本国でも疑問が出ていたのです。
そこに日本がやってきて、キックをあまり使わずなるべくパスを回していく展開のオープンプレーで勝ったものですから、向こうもこれこそ我々の目標とするラグビーだということになり非常にほめたたえてくれました。
オールブラックスジュニアというのはオールブラックスとやっても大接戦するようなチームですから、世界中もびっくりするし、日本でもあいつの言うことはだいたいわかってきたと評価されて認められたわけです。
これが僕のラグビーの歴史からいえば1つのエポックだったでしょう。
傑作だったのは、この試合の記録が残っていないのです。
実はリザーバーの島崎(文治)に8mmの撮影をやるようにいっていたのですが、島崎は途中から引き込まれてしまったらしい。
途中から撮影を放棄しまったらしい。
その8mmにはコンクリートばかりが映っている。
ブンジのとっては同じポジションの先輩である尾崎と横井のプレーを肉眼で見たかったのだろう。
そしてブンジが2人の後継者になるために、それでよかったと思っています。
ニュージーランド側はこの試合のビデオテープを持っているはずなんだ。
でも後に複数の日本の関係者が問い合わせても、そんなものはないと言われたり閲覧を拒否されている。
幻の試合となっているわけです。」
ラグビー母国(イングランド)の襲来
昭和46年9月24日、ラグビー母国:イングランドが、ニュージーランド遠征でオールブラックスジュニアを破って、世界的な評価を得た日本を「ラグビー協会設立100周年を記念すべき相手」として選び、来日した。
イングランドの緒戦はオール早稲田戦だった
早稲田が、ゴロパントで1トライとった他はイングランドのなすがままだった。
翌日の朝刊のスポーツ欄には「早稲田ラグビー最悪の日」と書かれた。
その後、イングランドはジャパンと花園と秩父宮で2回対戦することになっていた。
オールジャパンはニュージーランド遠征から2年が過ぎていた。
その間、「展開・接近・連続」がさらに検討され、
1 まずボールをとること
2 ゲインライン突破に多彩なプレーを敢行すること
3 防御網を完備すること
4 漸進的な攻撃を加えること
が加味され、練習を重ねた。
またオールジャパンのフォワードは、平均180cm、80kgとかなり大型化が進んだ。
しかしそれでも対するイングランドのフォワードの平均は、188cm、96kgだった。
「攻撃は大胆不敵にやる。
防御は組織を崩さず、捨て身のタックルを敢行。
まず球をとらねば攻撃は不可能。
したがってフォワードは非常に危険性はありましたが、真正面から対決をして球をとることに専念せよと厳命したのです。
フォワードの平均体重1人当り16kgの差を考えればまことに過酷な命令であり1つの賭けでした。」
日英親善ラグビー第1戦、イングランドvsジャパン。
花園ラグビー場は、太陽光がカンカン降り、当時、まだ芝生ではなかったグラウンドは、土ぼこりが舞った。
試合は、イングランドが点を入れれば、すぐにジャパンが点を入れるという大接戦になった。
そして結局、19-27でノーサイド。
敗れたもののオールジャパンはラグビーの本場イングランドから2トライを奪った。
「第1戦はもう何も言うことはありませんでした。
それよりも疲労を回復し、緊張を解き解すことに専念した。
第2戦は必ずやるという気持ちがヒシヒシと選手たちの皮膚を突き破って感じられたからです。
細部の打ち合わせ慎重にやったけど、作戦の大網は変えていません。
ただ今回のイングランドの主な作戦は、第1戦の経験から次の4つだとわかったので、その対応策を充分研究しました。
1 スクラムサイド攻撃、とくに2回繰り返して攻めてバックスに球を送る
2 バックスはゲインラインを突破するためにクロスして中に切れ込んできてモールをつくり再度攻撃
3 キック・アンド・ラッシュ、とくにハーフで前に蹴りモールをつくる
4 キックで前進、ゴール前では体当たり戦法でトライをとる」
昭和46年9月28日、日英親善ラグビー第2戦、大西鐵之祐監督率いるジャパン vs 大型フォワードを擁するイングランド。
秩父宮ラグビー場には、定員17500人のところ23000人が押しかけたため、グランド周囲の芝生にも観衆を入れれざるをえなかった。
(この超満員の教訓がきっかけとなり秩父宮ラグビー場は大改修が行われることになった。)
19時7分、ジャパンのキックオフ。
イングランドが激しく攻め、アッという間にジャパンのゴールライン前まで迫り、ボールを抱えて力まかせに突進した。
ロールスロイスがトップギアで走っているようだった。
3人ぐらいのジャパンがすがりつくが、ゴールラインへ体を預けるように倒れこんだ。
しかしノートライ。
その後もイングランドは攻め続け、ジャパンは守り続けた。
ジャパンのディフェンスはよく守り、イングランドの攻撃をバシバシ止めた。
しかし所詮それは自陣に攻め込まれての苦しい防戦だった。
18分、ジャパンのペナルティーに対し、イングランドは60ヤードの長いペナルティーゴールを決め先制、0-3。
その後、一進一退で点が入らない。
ジャパンのディフェンスにイングランドは左へ攻めた。
「バシッ!」
突き刺さるような音がして、ジャパンの選手がイングランドの大男をヘッドオンで抱え上げた。
「ピーッ!」
笛が鳴った。
ジャパンの選手はイングランド選手を投げ飛ばした。
「ウォオオオオ!」
と観衆がどよめいた。
35分、ジャパンのペナルティにイングランドがキックを決めて、0-6。
後半、イングランドはスクラムで有利なので、スクラムからサイド攻撃を繰り返す。
ジャパンはラインアウト、ラックで勝り、そこからのパスを継いでゆさぶりと突進、横と縦の動きで攻撃する。
31分、藤本からボールをもらった伊藤が機を突いてタッチラインを快走。
「トライか?」と思われたが、残り数ヤードというところでイングランド選手に押し出された。
32分、ジャパンは左のタッチラインアウトから、ゆさぶって宮田が中央突破、再び「トライか?」と思われたが、イングランド選手が長い腕を宮田の足を引っ掛け転倒させた。
33分、ジャパンは左へ展開、カンペイが決まり、「そこだ、ゴールだ、行け」というところで、笛が鳴った。
「ピーッ!」
レフリーはスローフォワード(反則)と判断した。
「ウオー」
「殺せー」
スタンドから怒りの声が沸き起こった。
「ピーッ!」
またペナルティの笛が鳴った。
しかし今度はイングランドの反則だった。
ジャパンはキックを選択した。
蹴るのは、大ヒットドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった山口良治。
角度は約45度、距離は約30ヤード。
山口はジッとゴールのポールをにらんだ。
そして数歩下がって息を整えた。
秩父宮は息をひそめて見守った。
助走開始、
「ポンッ!」
蹴ったボールはグンと伸びて、ゴール成功、3-6。
大観衆の手拍子の波と歓声が大きくどよめく中、1トライ逆転のチャンスとなったジャパンは懸命にパス、キックを間断なく攻めまくった。
が、ノーサイド。
イングランドの選手が両手を空に突き上げた。
ジャパンの選手の顔も輝いていた。
大観衆の拍手がなりやまない。
両チームの選手が中央に集まってジャージ交換。
すると観客がスタンドから飛び降り出し、グラウンド内に座って観戦していた客も、選手めがけて走り彼らを取り巻くように集まった。
「グランドに入らないで下さい。」
というアナウンスは無視された。
「ワーッショイ、ワーッショイ」
選手をつかまえて胴上げが始まった。
ジャパン選手もイングランド選手も関係なく全員、宙に舞う。
肩に担がれてフィールドを1周する選手もいた。
イングランドのロジャースキャプテンは日本選手、イングランド選手の2名に肩車されて退場した。
止まることを知らない日本選手の胴上げにアナウンスが鳴った。
「選手は疲れておりますのでそろそろ解放してやって下さい。」
結局、大西鐵之祐監督率いるオールジャパンは、大型フォワードを擁するイングランドをノートライに抑え、許した得点は前半に成功させた2つのPG(ペナルティーゴール)のみ。
一方、日本は、右ウイングの伊藤忠幸やセンターの宮田浩二がイングランドゴールを脅かすも、イングランド人の長い手につかまりトライに至らず。
そしてドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとなる山口良治が1PGを決め、3点差に詰め寄るが時間切れ。
3 -6でラグビー母国に日本が肉薄した歴史的な名勝負だった。
「1番熱い青春時代を一言では言い尽くせないほど最高に燃えさせていただいた人です。
日本代表のときは10年近く、共にやらせていただきましたが、目に見えない方法で自分たちの気持ちを試合に集中させてくれました。
昭和46年の対イングランド戦は、6対3で負けはしましたが、水杯を交わし、「日本ラグビーの新しい創造者たれ」といって送り出してくれた時の事は今でも忘れません。
また「信じることは力を生み出す」ということもラグビーを通して教えられました。
私は他の誰よりも多くのことを教えていただいたように思います。
私自身が指導者になってからも、ラグビーのみならず教育について壁にぶつかることが多々ありました。
その時も電話したりご自宅に伺ったりして相談に乗っていただきました。
私が腕力を使わずに生徒を指導したということの基本は、やはり体の小さい日本人がラグビーをどう戦うか、という先生の理論から生まれたように思います。
厳しくできる人は懐の深い方です。
常に選手を100%信頼して選手に向き合っていました。
自分自身受け継いでいかなければならないことが多いと思っています。」
((山口良治、伏見工業高校ラグビー部総監督、ドラマ「スクールウォーズ」のモデル)
早稲田大学高等学院ラグビー部、ヘッドコーチ
早稲田大学高等学院ラグビー部は国学院久我山ラグビー部を破り、花園初出場を果たした。
昭和52年、大西鐡之祐は、早稲田大学高等学院ラグビー部のヘッドコーチに就任。
あらゆる条件で劣る中、東京都予選決勝で、集中力とタックルだけで、常勝:国学院久我山に9対6の勝利を収めた。
このとき早大高等学院の寺林努は、高校、大学と2度にわたってキャプテンとして大西の指導を受けて、後に自身も早大学院高の監督となった。
「大西先生の言葉で思い出すのは、「コーチとは片想いの愛や」と言っていたことかな。
高校の頃は、正直、どれだけすごい人なのかわからなかったけど、緻密な感じはした。
春は久我山に負けているんだ。
24-40とかで。
その後、大西先生を交えて夏合宿をどうするか話し合ったときに、ロックだった安田をフルバックにしようって言う。
ビックリしたよ。
安田はチームで1番背が高いし、フルバックにはもっとうまいのがいたしね。
でも大西先生には見えていた。
ハイパントを上げられて、競り合いになったり、ゴール前のスクラムからサイドを突かれたときに当たり負けしないフルバックが必要だとね。」
日本ラグビーは世界から評価され、尊敬さえされた
昭和54年11月、ジム・グリーンウッドが、日本ラグビーフットボール協会機関誌『ラグビー』に、「日本ラグビー見たまま」と題した寄稿をした。
ジム・グリーンウッドは、スコットランド代表として20キャップ、昭和30年の全英代表ブリテッシュライオンズの南アフリカ遠征ではキャプテンをつとめた偉大な選手で、その後、イングランドやスコットランドなどの代表チームのコーチを歴任し、昭和54年に筑波大学の客員教授として来日し、同大学のラグビー部を指導していた。
グリーンウッドは「日本ラグビー見たまま」の中で、日本ラグビーの問題点をこう指摘する。
「それにしても不思議なのは、産業界においてこれだけ優秀な問題解決能力を誇る日本が、なぜラグビー界ではそういかないのかということである。
1918(大正7)年に輸入した練習法を、60年後の今日でもなお変えることなく使い続けているのである。
日本ラグビーの問題点はコーチングのシステムにあるのだということに気がつくまで、あと何年間諸外国に負け続けなければならないんだろう?」
グリーンウッドは、そう嘆いてみせて、1人の異質な日本人コーチを紹介している。
「当時の日本代表チームを見て、私は大西鐡之祐という人は何と偉大なコーチだろうと思った。
彼は、日本ラグビーの特長を生かすラグビーを作り出した。
気迫と才能と知性をつなぎ合わせ、適切な戦法の中で巧みに15人を動かした。
この時こそ、まさに日本ラグビーは世界中から評価され、尊敬さえされたのである。
しかし今思うと、その後なぜ大西氏のラグビーが日本で立ち消えになってしまったのかを理解するのは難しくない。
日本ラグビー界全体の傾向が、大西氏の方向とは反するからである。
この国には、ナショナル・レベルのコーチング案というものが存在しない。
個人的に言わせていただければ、それなしには、いかなる改革も不可能である。
さらにその改革を全国的に広める手段がないうちは、いくら外国人コーチを呼んだところで金と時間のムダである。」
3度目の早稲田大学ラグビー部監督 「ワシが倒れたらポケットのニトログリセリンを飲ませるんだぞ」