大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

大西鐡之祐 むかし²ラグビーの神様は、知と理を縦糸に、情熱と愛を横糸に、真っ赤な桜のジャージを織り上げました。

「どんな人でも夢を持たない人間はいない。 夢は人間を前進させ、幸福にする。 唯、夢がその人を幸福にするかしないかは、その人の夢の実現に対する永続的な努力と情熱にかかっている。」


大西鐡之祐

早稲田大学に入学し、ラグビー部に所属し、2年連続優勝を経験。
卒業後、東芝に就職。
戦争では、兵隊として転戦。
戦後、早稲田大学ラグビー部監督となる。
早稲田大学は再び常勝校となった。
ラグビー日本代表)監督として、オールブラックスジュニアに勝利。
大西鐡之祐のラグビーと、そのスピリットは、今なお日本のラグビー選手たちに受け継がれている。

大正6年創部

大正6年の秋のある日、井上成意とその仲間たちが、早稲田大学の校舎の片隅でパスやキックの練習に興じた。
そして翌年、早稲田ラグビー部が創立された。
このころの日本の大学ラグビーは、慶応、京都三高(京大)、同志社しかなく、相互に交流試合をするくらいだった。
早稲田大学ラグビー部、初代主将:井上成意は
「野球の早慶戦のような対抗戦が実現できれば・・・」
と思い、大学関係者を説いて回った
創立2ヵ月後、早稲田の第1戦は泥んこの戸塚グランドでの京都三高(京大)戦で、0-15で敗れた。
大正11年には早慶戦が始まり、早稲田は赤黒のジャージーを着用するようになった。
昭和2年、 早稲田大学ラグビー部は、当時としては画期的なオーストラリア遠征を行った。
試合前、オーストラリアチームは士気を高めるためのパフォーマンス「WarCry」を踊った。
早稲田も負けじと「佐渡おけさ」を踊った。
当時のオーストラリアは2-3-2システムで、7フォワードを軸とする戦法だった
早稲田はオーストラリアからフォワードのカバープレー(スクラムブレイク後のフォワード-フランカー・NO.8のオープンプレーへの参加)を学び、これがやがてお家業となる展開、ゆさぶり戦法となっていく。
そして早稲田は、この展開ラグビーで、早慶戦が始まって以来、はじめて早稲田が打倒慶応の悲願を果たした。
だが新たに同志社と明治が早稲田の行く手を阻んだ。
早稲田が全国優勝を実現するまで、なお5年の歳月を費やすこととなった。

わけもわからないまま、ラグビー部入部

昭和6年、大西鐡之祐は、全国大会2回優勝の名門、奈良の郡山中学陸上部に入っていた。
毎日走ってばかりで、何度もやめようと思ったが、最終学年時には、ハードルで関西中学陸上大会で2位に入った。
昭和9年、大西鐡之祐は中学を卒業した。
「早稲田を受けるぞ」
そう手紙に書いて兄に送った。
兄(大西栄蔵)は早稲田大学のラグビー部の監督をしていた。
「よっしゃ来い」
大西栄蔵は、そう返事したものの、監督業が忙しかったため、ラグビー部のマネージャーに書類、手続きなどすべてを丸投げした。
「おい、弟がくるから入学試験頼むよ」
マネージャーはラグビー部を受けるのだろうと勝手に決め込み、他のラグビー部希望者と一緒に手続きをした。

東伏見のグラウンド

上京すると、大西鐡之祐はラグビー部の名前で呼ばれ、集合場所や入学試験の注意事項を連絡された。
「なんかおかしいな」
そう思いながらもラグビー部の入部希望者と一緒に行動し試験を受けた。
結果は合格だった。
するとラグビー部の練習日が連絡されてきた。
大西はあまり何も考えずに東伏見のグラウンドに行った。
すると先輩がいった。
「これに着替えろ」
パンツ、ジャージなどが手渡された。
それを着ていわれるままに練習を始めてしまった。
こうして大西はわけもわからないまま、あれよあれよとラグビー部に入部してしまった。

「これはすごい。 これは俺もやらなくてはいかん。」

標高1500mにある菅平高原(すがだいらこうげん、長野県上田市真田)は、夏のラグビー合宿で有名。

昭和7年、菅平高原で合宿する早稲田大学ラグビー部

当時の早稲田大学ラグビー部は
昭和7年、8年と全国優勝し3連覇を狙っていたときだった。
「そのときに部の空気を感じました。
やはり僕らのような中学で遊び半分で陸上やっているのと違って、日本一の地位を獲得する、あるいは獲得した日本一を維持していこうとするなかに、日本のいろいろなところからラグビーの1番うまいやつらがダーッと集まってくる。
その雰囲気。
そういう俊才たちがものすごく一生懸命やっている姿をみて、これは違うな、最優秀チームになろうとするチームは違うなと、その雰囲気に非常に打たれました。
そういう俊才どもが集まって100人もいる中から15人の選手にならなくてはいけない。
そういう環境に置かれている連中の自己鍛錬の仕方がいかに峻厳なものか。
そういうことを非常に感じた。
これはすごい。
これは俺もやらなくてはいかんと思い、とにかく一生懸命やりましたが、これはどうせ2、3年はだめだわい。
選手になんてとてもなれんと思っていた。」
大西鐡之祐と同期の新入部員にも、全国からラグビーをするために来た者もいた。
彼らはすぐに先輩に混じってラグビーの練習ができた。
しかし大西はラグビーの素人だった。
だからゴールラインの外のインゴールで新人係の先輩にキックとかパスなどの基本を教えてもらった。
大西はグラウンドの真ん中でいろいろやっているのを見ながら基本をやった。
指導者がいないときは1人でやるしかないので人の練習を見てそれを真似た。

「スタープレーヤーがいなくても勝てる。みんなちゃんと自分のポジション、自分の役割をしっかり果たせば負けることはない。」

1・3番 PR(プロップ)
  スクラム前列の左右にいて、スクラムを強力に押し込んだり、突っ込んだりする。

2番 HO(フッカー)
  スクラム前列の真ん中にいて、ボールをかき取る。

4番、5番 LO(ロック)
  スクラムを中心で支える。

6番、7番 FL(フランカー)
  スクラムの外側にいて、ボールが出るとすぐ走り出し、タックルしたり、味方のサポートをする。

8番 NO8(ナンバーエイト)
  フォワードとバックスをつなぐポジションでありフォワード8人のまとめ役。

ラグビーのポジション FW(フォワード)

9番、SH(スクラムハーフ)
  フォワードが獲得したボールをすばやくバックスに渡す。

10番、SO(スタンドオフ)
  バックスの中央にいて攻撃を組み立てる司令塔。

11番、14番 WTB(ウイング)
  ボールを持って走るのが主な役目、俊足のトライゲッター。

12番、13番 CTB(センター)
  突破力やキック力があり、パスやタックルもうまい選手が起用される。

15番 FB(フルバック)
  最後尾にいて守りを固める最後の砦。

ラグビーのポジション BK(バックス)

そして大西鐡之祐は、ポジションも決まっていなかった。
試合があれば、空いたポジションに入った。
最初は足が速かったからウイング(11番、14番)をやった。
次にフルバック(15番)。
それからフランカー(6番、7番)。
そうやってあらゆるポジションをやった。
「昔からラグビーをしてきた連中は自分たちの経験でラグビーをやっていた
僕は何も知らんかったから、いろいろなものからいろいろなものを吸収してラグビー全般について理論的に考察した。
これが1番大きかったのでないか。
彼らだと自分はスクラムハーフやっているとか、自分はスタンドオフやっているとか、そのポジションのことだけを直接的経験で技能を身につけてやっていく。
僕はいろいろなことを教えられても、その新人係は何でこんなことをやるんだということは1つもいわない。
しかしルールを読めというからルールを読んでみる。
そうするとプレーには目的があって、その目的を果たすために様々な動きをやっていくということがわかる。
その根本がルールなんです。
だからルールに基づいて技術があって、その技術がみんなに伝えられていくわけなのですが、今やっていることは何なんだ、どんな意味なんだということは誰も教えてくれないんです。
僕もやっていて不服はあったけど、そんなこといっているよりも毎日毎日の練習についていくのが精一杯でした。
ほかの人はみんな多くの場合、ポジションは最初から1つに決まってしまって、それでずうっと卒業まできてしまうけど、僕はポジションをあちこちやらされたものだから、ラグビーにはいろいろなポジションがあり、1つのチームがちゃんとバランスがとれたものであるとき、その役割1つ1つがちょっとぐらい弱くてもチームは強くなるというチームワークの原理を身をもって知った。
だから若い選手にスタープレーヤーがいなくても勝てるといったり、みんなちゃんと自分のポジション、自分の役割をしっかり果たせば負けることはないというのは、自分が経た体験から話しているのです。
僕がもっとうまいプレーヤーで、入ったときからレギュラーを与えられていたら、おそらくそういう考え方は出てこなかったでしょう。
1人1人が各ポジションが持っている役目、責任を自覚し、ほんとに忠実にそれを果たすということが1番重要であるということ。
もう1つは経験的な直感だけで、たいていの人は技術をつかんでいく。
要するに技術を盗んでいくということだ。
これはすごく重要なことだが、それだけに頼っていると全体のゲーム理論を忘れてしまう。
ラグビーは1人1人の直感を通じて技術が重要であると同時に、ラグビーの理論を知っていなければ、その技術はほんとうに生かされない。
全体の理論がわかって、そのなかでそういう技術が生きてくる。
だから僕は普通の人よりラグビー理論を重要視する。
よく天才的なプレーヤーとかうまいプレーヤーが監督になると、大変直感的な経験による直感を重視した技能、スキルを重要視する。
僕はそのスキルを重要視するけれど、それよりもっとそれに関連のある理論を重要視する点で、ほかの監督とはちょっと違うと思う。
まずラグビーにはルールがあり、ルールがある以上、ラグビー理論というものが成り立つ。
机上のこうしたらトライを獲れるだろうとか勝てるのだという理論が必ずある。
その理論の目的を果たすするために技術は考えられ、その技術の練習をやっていってその目標を達成する。
技術というのはそんなものだということです。
そういう考え方を僕はラグビーの根本にもっている。
それは僕の経験からきたものだろうと思います。」

「毎日目標に向かって技術を追求していく。
技術を追求していくというのが練習ですから、戦法を立てたらその戦法で勝つための技術を追求していくことにになる。
そしてその技術を追求していくと次第に熟練していく。
英語で言うならテクニックをスキルにしていく。
その過程です。
そのやり方をどのようにしていくか。
経験的にそれをやっていくのではなしに、それを合理的に理屈に合ったように科学的にやっていく。
それが現在の追求だと思います。
科学的、合理的に練習をやっていく。
1つの技術には何か理屈がある。
その理屈を必ずつかんで、その理屈に従ってやっていくという方法が現在の技術の追求のやり方ではないかと思う。
これは直感的にあるものを見てそれを真似て模倣してやっていくというものではなく、ある情報を集めて、その集めたものを理論的に考えて、こういう方法でやっていったらうまくやっていけるぞという方法を見つけて、それを技術的に実験して繰り返していくという方法です。
知性的行動というか創造的行動とかいわれるものになると思います。
それを自分で情報収集して理論を立てて実験して反省し吟味し、そして実行していく。
その過程が創造的行動だといわれる。
その創造的行動が現在のスポーツの戦法理論を達成するための技術の追求のやり方と同じだと思います。
しかしゲームとの関係から言いますと、技術だけをつかむだけではどうしても勝てないのです。
技術は合理的に理論的にやればうなくはなりますが、それだけではどうしても勝てない。
そこでどのようにやっていくのかというと、結局、技術というものは技術それ自体によって検証されるではなしに、ゲームにおいて使われて初めて検証されて本物かウソ物かがわかるのです。
要するにゲームをやって技術をゲームで検証して、そこで役立ってうまくいったというとき初めてその技術は完成されるわけです。」

下剋上

監督は、1軍、2軍、3軍、4軍、5軍の練習をザッとみて
「アイツはアカンから3軍へ落とせ。」
「アイツはいいから2軍に上げろ。」
などとキャプテンにいう。
するとキャプテンは
「お前はここへ入れ・」
「お前はこのグループへ入れ・」
と指示して、何も教えない。
そして選手は、そのチームでやるだけだった。
だから自分の力で1人ずつ落として上がっていくしかないシステムだった。
先輩は後輩に教えるのが普通だが、人に教えていたら自分が落ちてしまう、抜かれてしまうと思って教えない先輩もいる。
みんな敵というわけである。
「1、2、3軍くらいの練習は猛烈にキツいですよ。
それにみんなレギュラーになろうとするから自分の競争相手を倒そうとする。
非常に厳しいものだった。
ものすごいキツい練習に上に競争意識が非常に強かったということです。
つくづく1軍の選手になるには、レギュラーになるのは大変だなと思った。
去年レギュラーをやっていた選手でも下から追いかけられて落とされる人がドンドン出てくる。
そういう練習の中で日本一のチームができていった。」

「今の選手は感受性が非常に鈍くなっているのではないかな。」

練習ノルマは合同練習形式で2時間だけだったが、合理的で、密度が濃くキツかった。
その後は自主練習、自由練習となった。
遊びに行きたい者は、風呂に入って、遊びに行き
練習したい者は、20個のボールを分け合って、5人くらいのグループとなって暗くなるまで熱心に練習した。
練習方法は、グループで話し合ったり、本で研究したりした。
「今は誰でも教えてもらえるから気が入らないんだよ。
もっと自分でまずうまい選手のプレーを盗んでみることをやらんと身につかん。
やはり自分で研究したものは自分のみにつくものです。
その頃のラグビー本というと、ラグビーフットボール、新式ラグビー、それに早稲田の西尾、兼子両氏の本が2冊、慶応のラグビー部から出た翻訳本が1冊、これくらいしかなかった。
それを一生懸命呼んで勉強した。
あとは原書。
ルールなんて全部、原書でやった。
おかしいじゃないか、ここはそういう解釈じゃないなとかいっていろいろ議論したもんだ。
技術は盗むもので真似るのはダメ。
うまいのを見て盗む。
それが選手が伸びるために1番重要ではないでしょうか。
これは感受性と非常に関係がある。
勢いよく走って次の動作をするというようなことを、感受性の強い天才みたいな人だと、パッと見たら2日ほどでそれをやりますよ。
今の選手はどうもそういう感受性が非常に鈍くなっているのではないかな。
僕たちは教えてくれなかったから、それを何とかしてつかもうとした。
今そういうのが要らなくなったから、その分その勘が弱くなったのではないかという気がするんです。
例えばカール・ルイスが走るというと、今の選手はビデオか何かで撮るでしょう。
私は「何撮っているんや、見ろ」という。
そうすると「これ撮ったら後で何ぼでも見れます」という。
だが私は「アホタレそんなもん実物と違うわい」というのです。
一生懸命見ろと、そこで盗まなければダメだと、本物は盗まないとね。
本物が訴える力と映像の訴える力とは全然違うんです。
その訴える力をつかまなければ本物ではない。
今の練習法に欠けているのはそこだと思う。
昔は「これ今見ておかないともう1回見られん」と思うから真剣に見たわけです。
有名選手が向こうから来るでしょ。
そうしたらその試合を日本で6試合やるのを6回しか見れないぞと思うから一生懸命見る。
ちょっと今は違うような気がする。
国際試合を見た後で感想などを学生などに聞くのですが、みんなアホみたいなことをいっている。
そんなことではダメなんですけどね。」

1年生の新入部員は、春が過ぎて夏合宿に終わるまではキツい練習が課せられた。
夏合宿が終わるころに30人いた1年は半分くらいになった。
それはまるでふるいにかけて退部するのを待っているような練習だった。
「そのうち夏休みになるわけです。
夏合宿がこれがまたキツい。
そのころは明治は、富士吉田で夏合宿やって、毎日、富士山を駆け足でやるという練習をやったときですから、各大学が夏合宿で勝つか負けるかが決まると思って練習していたのです。
早稲田もものすごい練習で、僕が1年のときは菅平で3人くらい脱走して帰ってしまった。
そのくらいキツい練習をやったわけです。」

しかし秋になると練習はそれほどキツくなくなった。
試合が始まるからである。
早稲田大学の目標は、明治大学と慶応大学だった。
当時の日本の大学ラグビーは、明治と早稲田が覇を競い合い、そこに慶応がからんでくるという感じだった。
毎年、12月の第1日曜は早稲田-明治戦が行われるのが恒例である。
この試合は大変劇的な試合が多く名勝負が多く生まれている。
この年(昭和9年)の試合は、試合前の下馬評は5分5分。
早稲田は7年、8年に続く3連覇を狙っていた。
神宮外苑競技場は満員でインゴールの外に観客がはみ出た。
1円の入場券がヤミで5円に跳ね上がった。
そんな騒ぎの中、両校は激突した。
早稲田の監督(大西の兄)は、前夜(といっても夜中)、選手の名を墨書きした白装束を着て水をかぶって精進し気合を入れていた。
前半は明治が攻め続け点差が開いた。
しかし後半は早稲田が攻め大接戦になった。
後半32分(当時は前後半35分)
試合残り3分で早稲田がゴールをとって24対19。
もう1つとれば3連覇となる場面。
(当時は1ゴール5点)
早稲田はゆさぶりで明治陣内奥深くで絶好のボールを回した。
観衆は総立ちになった。
1番最後にウイングにボールが渡り、ウイングは内側にボールを返した。
明治は2人、早稲田は5人。
飛び込んだらトライというシーンだった。
「ピー」
しかしその寸前に笛が鳴った。
レフリーは早稲田のウイングの放ったパスがスローフォワード(前にいる味方にパスをする反則)と判定した。
そしてノーサイドの笛が鳴った。
早稲田はスローフォワードではないと抗議した。
しかし覆るはずもなく早稲田の3連覇の夢は消えた。
(翌日の新聞にも同様の記事が出た。
その後このレフリーは辞めた。)

「惚れ込んだら苦しみも楽しみに変わる。惚れ込めないような者はラグビーをする資格なし。」

創業1905年。
早稲田大学の歴史と共に一世紀。
伝統の味を守り続ける、早稲田大学南門前の老舗洋食レストラン。

高田牧舎

毎年、早明戦の後、早稲田大学は「高田牧舎(早稲田大学本部キャンパス南門真向かいにあるレストラン)」にOBと現役が集まって祝勝会か残念会をするのが恒例だった。
そこで、あるOBが演説した。
「今日の試合は敗れた
しかし内容は決して負けていない
お前らはようやった」
すると学生はみんなワーッと泣いた。
「その雰囲気に、僕は一流のラグビーというのはすばらしいものだとつくづく感じた。
このときが僕のラグビーというものとの本当の出会いでしょうね。
いつもバカみたいなこといってる友達どもが、ラグビーをほんとうに純粋にいろいろなことについて話し合っている。
泣いているやつもおる。
嘆いているやつもおる。
赤裸々な人間の集団。
そういう雰囲気は個人競技にはないですね。
やはり日本一を目指してみんなでチームをつくって狙っていくという、そういう連中にしかわからない1つの雰囲気に大変感動しました。
そのうえ試合に出た選手は、我々1年生のところまできて謝るんです。
申し訳なかった、だから来年はお前らが頑張ってやるんだぞと。
そういうことを日本一のプレーヤーが謝っていくわけです。
そういうのをあっちでもこっちでも泣きながらやっている。
およそ100名の部員の中でみんな競争してレギュラーになっていくから、レギュラー争いに勝って選手になったやつが、出られなかった部員のところまで手を握り合いながらいろいろしゃべっている。
そういう光景を見て、僕はなんてラグビーというものはすばらしいものだと、こう思ったのです。
そのときのそういう純粋感性がその後の僕を決定したような感じがします。
僕はそれから50年以上ラグビーに取り組んでいくという人生を決定してしまったのです。
純粋感性なんていうと大哲学者カントに対抗するようで恐悦至極だが、私は出会いにおける最も重要なものとは人間の最も敏感な生粋の感受性だと思っています。
最初に感ずる5感の混じりけのない直感的認識こそ出会いにおける感動の中心なのです。
文化、社会に貢献した人の多くは感動的な出会いの感激によってその一生の一歩を決定している。
こうした偉人たちだけがそうなのではなく、我々普通人もまた感動的な出会いによって一生の幸福や楽しさを見出している。
それを僕は「ほれ込む」と言っています。
今の若い人にも幾多の感動的な場面や行為が与えられているのに、何だかほれ込みが足りないように思える。
人は誰も名誉とか金銭的なものを獲得できるというときには大きな関心を持つけど、スポーツとか遊びとか、その中に何も打算がないようなものに人間は感動する。
そこに人間の価値があるのだという18世紀の純粋論みたいなものは今は残っていないのでしょうか。」

「僕はこの出会い、ほれ込むということを大変重要視するんです。
幸いにも1つの集団-素晴らしいワセダラグビーの中でほんとに青春時代の純粋な感情、人間の純粋な感情が爆発した。
そのるつぼの中に僕は初めて入って、そこから人間の重要さ、勝利の歓喜、そういうことを感じ取れたことは大変幸福だったと思う。
僕はラグビーをして世界をあちこち歩いて、ニュージーランドやイングランドでもフランスでも、いろいろな国でラグビーが好きなやつが集まって、試合後には必ずミーティングをするのを見てきた。
そのミーティングをやったときに、純粋にラグビーを愛するものが集まるという、その雰囲気が世界中どこでもある。
つい30分ほど前まで激しくタックルし合い、時には取っ組み合いをした男たちがビール片手に語り合う。
そういうのを見るとラグビーが終わることを、「NoSide(ノーサイド)」というのは言い得て妙だと思う。
敵味方を超えて
「ナイスタックルだった」
「あのライン参加は読めていた」
とお互いのプレーを語り合うんだ。
年齢、職業、社会的地位の異なる者たちが1つの楕円球に夢中になっていることがよくわかる。
「OneForAll、AllForOne(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」などというと、キレイごとと思われるかも知れんが、ラグビーはその精神を持っているんです。
1試合で4つも5つもトライを決めるトライゲッターがいるかと思えば、フォワード第1列の3人などは80分で1度しかボールに触らないこともある。
実に地味なポジションで、密集戦では下敷きになって踏まれたり蹴られたり、おまけに1発パンチを食らったりすることもある。
でも痛い思いをして自分たちが奪い獲ったボールをバックスがトライしてくれた時、フォワードは喜びを感じることができるんだ。
フォワードが頑張ってくれないことには自分たちの仕事が成り立たないことをバックスも知っている。
そういう信頼関係がフィフティーンの中にないとラグビーは成り立たないんだ。
様々な個性を生かせるというのもラグビーの魅力の1つなんだ。
1チーム15人を並べると1人1人の体格はあまりに違うことに気づく。
この凸凹感はラグビー独特だ。
190cm100kgを超える大男もおるし、160cmあるかないかの小兵も珍しくない。
いかにも俊足そうな筋肉質もいれば、首も体もとても太く耳がつぶれたブロッブ一筋もいる。
野球やバレーではこうはならないだろう。
ラグビーはポジションによって仕事がかなり違うんだ。
言い換えればいろいろな特性を生かすポジションがあるということ。
そんなサイズが違う男たちが同じ色のジャージを着て闘う。
そしてNoSideになると、敵味方関係なくポジションの区別なく語り合い、またの機会の奮闘を誓い合う。
そういうラグビーならではの世界が地球上様々な場所にあるということを感じる。
それがラグビーの偉大さではないか。
そういうことをつくづく感じています。
なんとなく始めてしまったラグビーとの付き合いが、もう50年以上になりますが、ラグビーの持っている魅力に引き込まれたまま僕は歩んできたように思います。」

チームがマンネリに陥るということは、1人1人が考えてプレーしなくなることと裏腹

着物姿で自転車の荷台に乗り田舎道を行く女性
1935(昭和10)年

昭和10年、大西鐡之祐が2年生になったとき、早稲田大学ラグビー部は15人、まったく非の打ち所のない選手がそろった。
主将の野上は160cm足らずながら、日本ラグビー史上3本指に入るであろうスタンドオフ。
ハーフ、山本、伊藤、野上。
スリークォーター、坂口、林、川越、原。
フルバック、鈴木。
この8人は日本一のバックスだった。
「通常はバックス7人、フォワード8人だが、この時の早稲田はこのシステムをとらなかった。
7人のフォワードはスクラムで押すのではなく、支えて速く球出しし、バックスに回し、バックスはオープン攻撃で球を散らし、フォワードは速いフォローで球を奪取し、ゆさぶってゆさぶって敵の防御網に穴をあけトライをとる。
それが早稲田のお家芸といわれる「ゆさぶり戦法」だったんだ。
7人のフォワードはセットプレーに弱いが、展開力があればスクラムで相手に球を獲られても密集戦を支配しバックスに球を供給することができる。
そういう自信に裏付けられていたんだ。
野上の最後の年だったし、すばらしい選手たちがゆさぶり攻撃に磨きをかけて勝てるという自信にあふれていた時期だった。
この年、部員も110名を超えて史上最多になった。
その中から力に応じてスコッド(戦闘小隊)が編成され猛練習に励んでいた。
この年ほど練習をやった年はなく、練習量においても技術的な水準においても1番レベルが高かった年ではないかと思う。
だからあの当時の2軍の連中は「1軍がもし日本一になったら俺たちは日本で2番だ」といった。
事実それくらいの精鋭がそろっていた。」

この年の早明戦も劇的だった。
早稲田はここまで明治以外のチームにはほとんど全部失点0で勝っていた。
明治は2週間グラウンドに天幕を張って見張りを立て、誰にも見せないようにしてダブリンシステムというフォワードを7人にしてスリークォーターとフルバックの間にセブンエースを置いて攻撃するやり方を練習した。
早稲田に負けず元来8人フォワードの明治も戦術を模索していた。
試合終盤、13対13で同点の時、運命的なプレーがあった。
早稲田のバックスが蹴ったボールが両チームの真ん中に飛んだが、球は早稲田側に転がらず、明治のウイングのところへ転がり、明治はこれをトライに継げた。
早稲田は最後、明治に負けた。
「もしボールが早稲田の方に転がっていたらと今でも思うことがある。
ラグビーというのはどんなに技術的な練習をやり、心技体に抜きん出た力を持っていて、絶対そのときに勝てるというようなチームでも運に見放されると負けるということをつくづく感じた。
気の毒に監督をしていた兄が禅好きだったものだから、試合が終わってしばらくしてからみんなは禅寺にいって3日間座禅を組んだ。
監督も考えたのだろう。
何が足りなかったか。
練習も日本一きつくやった。
技術も磨いた。
それでもだめだったということはどこか精神的に何か欠陥があったのだろう。
その精神を鍛えようではないかということだったのだと思う。
それで野方のお寺で3日座禅を組んだ。
ラグビーはスキルという技能、直接経験的な技能が重要とされるが、早稲田はゆさぶりという昭和7、8年に優勝したときに確立した1つの戦法が決まっていたから、それに基づくスキルをやっていくということで、スキルばかりやっていた。
そのとき疑問に思ったのは、ラグビーの戦法としてゆさぶり戦法というのをやるなら、なぜゆさぶりを早稲田がやるのだということをもっと部員全員に徹底して教えるべきではなかったか。
早稲田はゆさぶりをやるのだ。
それで勝ってきたのだということをみんな知っているけど、部員全員がゆさぶりというのはどういう理論に基づいてどういうふうにやるのかは、慣習的にサーッと練習で覚えているだけで、しっかりした理論をまだ持っていなかった。
それがあの年に技術も練習も非常に積んだけれど負けた1つの原因ではないか。
もっと部全体に選手全員にゆさぶり理論を徹底していけば勝てたのではないかという感じがする。
だから僕が監督になってからはその点を大変変えた。
ラグビー部のように伝統が長いと、伝統という1つのベルトコンベアに流れているのと同じで、その上でずっとやっているとやることが似てくる。
そしてマンネリ化に陥ってしまう。
それで勝っているとそのやり方にやっていても勝てるじゃないかということになり、なぜこれをやるのかということを忘れてしまう。
勝ち続けるとなんだかこうやっていれば勝てるのだということに慣れてしまって、後は研究しないで、そしてマンネリ化に陥って負けていく。
そうなっていたのではないかという気がします。
チームがマンネリに陥るということは、1人1人が考えてプレーしなくなることと裏腹なのです。」

昭和11年、扇風機と原節子さん

昭和11年、大西は2軍に上がった。
インゴール組から。試合に出られるか出られないかというところまで上がってきた。
1軍選手がケガでもすれば試合に出られる。
大西の同ポジションの1軍は、主将の米華真四郎だった。
大西を米華から学び、米華を目標に努力した。
100mを走れば大西のほうがはるかに速かった。
持久走でも負けなかった。
しかしゲームで米華は、攻撃では味方のを必ずフォローし、ディフェンスでも忠実にバッキングアップしていた。
地味な役割をがんばれってやれる男だった。
昭和9、10年と早稲田は負けていた。
そこで米華は監督を廃止し、あくまで学生自身の力でやっていくことをした。
ただし技術的なサポートのためにコーチを1人置いた。
またさらに今までの敵に点を獲らせないゲームのやり方から
「獲られてもいいからもっと積極的にいこう。
獲られたら獲っていけばいい。
それが俺たちの行き方だ。」
と宣言した。
「練習をしっかりしなければならないのは当然だが、練習に対する心構えと態度を考えてみると、自ら進んでそれを真剣にやっているチームこそ本当の強さを獲得していくのだと思う。
だから練習は僧侶の修行と同じことだと思うのです。」

夏合宿で大西は練習を2倍やらされた。
練習は午前と午後。
1軍は午前は軽くして午後はきつくする。
2軍は午前きつくして午後は軽くする。
大西を含む1軍に上がるかどうかの選手は、午前は2軍できつくやって、午後は1軍に入ってまたきついのをやる。
これが2週間続く。
大西はだんだん食が細くなり怪我の数が増えていった。
しかしここで弱音を吐けば1軍どころか3軍に落とされる。
ここで耐えなければ1軍にはなれないという1つの試練だった。
「1軍になるまで3、4年、2軍以下で下積みをする。
1軍と試合をすると1軍は強いから攻める。
下積みチームは守る。
下積み側はいかに相手を止めることを学ぶわけだ。
だからディフェンスが弱いチームは速く1軍になれるチームだ。
1軍はしょっちゅう攻撃はやっているけれどディフェンスはしない。
防御に回ることが少ない。
だからそれだけ苦労していない。
僕らは1軍の強いやつが攻めてくるのをどのように止めてやろうかと、そればかり考えた
タックルというと突っ込んで相手を倒せばいいと思われがちだが、それでは棒倒しになってしまう。
タックスポイントをつかむということが大切になってくる。
相手との間合いをはかって膝から大腿辺りめがけて踏み込んで気合もろとも1発で倒す。
相手を倒してもパスをつながれたら無意味だから、とにかく1発で倒す。
そしてディフェンスで大事なことはチームディフェンスでなくてはならないということ。
フランカーはディフェンスの責任が重い。
とりわけ敵バックスが内側に入ってきた時は必ず止めなければならない。
僕はそれを一生懸命やって覚えた。
その結果2軍から1軍に上がったときはディフェンスの強いチームが出来上がる。」

昭和12年1月6日の新聞記事。
名古屋城の金鯱のうろこ110枚のうち58枚が剥ぎ取られているのを発見。
同月27日、犯人を逮捕。

昭和12年、大西鐡之祐は早稲田大学ラグビー部のレギュラーになった。
初めての試合は一橋大学との試合だった。
観客は部員が50人くらいだった。
おそらく楽勝の試合だったが、大西ははじめて赤黒のジャージを着てアガッてしまった。
無我夢中だったため、試合後、思い出そうとしても、何をしたか思い出せなかった。
早稲田はセンターの川越藤一主将のもと、春の練習試合から連戦連勝し、全国大会でも優勝した。
「なるまではなれたらいいと思っていたけど、1軍になって1番いい思いができるのは1軍になった1年くらい。
要するに責任のない地位にいる1軍は1番楽なんだ。
楽というか面白い。
というのは、早稲田は明治、慶応以外には負けないのでどこへいっても勝ってばかりいる。
一気に攻められるし、それは面白い。
ラグビーとはこんなに楽しいものかと思った。
どこへ行っても負けないし、どこへ行っても思うようにプレーできるし、たまに失敗しても怒る人はいない。
そういう中で大いにエンジョイした。」

「ラグビーの本当の楽しさやおもろさを満喫したいなら、伝統があり誇り高い優秀なクラブにはいることです・
こうしたクラブは理想をもち現実の集団をそれに近づけようとする強烈な熱情を持っている。
そうしたクラブでプレーすることによってこそラグビーの醍醐味を感じられると思うのです。
こうしたクラブに入ったプレーヤーは、そのクラブの代表選手を目指して研鑽を積むことになる。
技術の追求は科学的体力養成理論的技術の学習に専念することから始まります。
理論をしっかり学ぶことは技術の上達に欠かせません。
技術が上達していけばゲームをやるごとにラグビーの面白さを満喫できるでしょう。
自分が考え研究した技術理論が自分のプレーを改善させていくことになります。
最初はできなかったプレーが熟練的技術として身についていく楽しさもさることながら、それがゲームにおいて有効に立証されたときのうれしさと満足は他に例えようもありません。
苦しい練習を自分で合理的に積み重ねた者のみが味わえる理論的醍醐味ともいえるでしょう。
プレーヤーの中にはこうした理論的熟練的技術で相手を抜いて、また合理的戦法を駆使して勝利を追及することをラグビーの醍醐味だという人もいます。
しかしそれだけでは本当の勝利は掴めないのです。
ラグビーは15名でチームをつくり闘います。
優秀なチームをつくるためには50名のメンバーを持たねばならない。
これらの人間関係およびクラブメンバーのチームワークをいかにつくり上げるか。
共通の精神とロイヤリティー、愛情と信頼を持ったラグビーが好きだといって集まった仲間の純粋な感性に訴えて、いかにして闘志あふれチームを強くしていくことに熱意のあるチームにするかは、そこに集まったプレーヤーの共同生活にかかっている。
プレーヤーとして最高の技術と誇り高い勇気と闘志をもち、選ばれてクラブの代表として試合に出る栄誉を担うようになったとき、それはラグビーの醍醐味を味わえる絶好の舞台でしょう。
相手が決まって、作戦が確立し、作戦に基づくチームプレーと分担するポジションプレーの練習に精進し、準備万端整えて実力伯仲の一戦に出場するとき、すでにゲームの目的である勝負への意識は、ただゲームに集中することのみを自己目的とした自由の行動となり、そのとき初めてそれまでに修得した熟練的技術が自由自在に働いて試合に熱中できるのです。
それらはあたかも試合前日の作戦的イメージに順応するように、自然に自由に、チャンスと見れば突進し、ピンチと見れば守り、追いつ追われつ展開して、そして最後にノーサイドの笛が鳴り響く。
ああ、終わったか。
やった!
すばらしいゲームだった。
相手と握手を交わす。
サンキュー。
感謝と感激。
こんなゲームこそプレーヤーにとって最高のラグビーの醍醐味といえるでしょう。」

昭和13年4月29日、中国大陸へ出征する兵士満載の列車を見送る人々

昭和13年、大西は最上級生になった。
ラストシーズンである。
おまけに早稲田は昭和11、12年と連覇し、この年は3連覇がかかっていた。
明治は夏合宿で主将が頭蓋骨骨折で死亡し、早稲田も試合当日に高田総長が亡くなり、両チームとも喪章をつけてプレーした。
明治はフォワード8人システムで真正面からフォワード戦を挑んだ。
早稲田は明治の圧倒的に強いフォワードに押しまくられて27対6の大差で敗れた。
「11、12年と連覇してずうっと勝っていたから、今まで通りやっていれば勝てると思って、新しい創造というものがなくなった。
それが1番の敗因でしょうね。
もっと新しいものをつくり上げてみんなでやっていくのだ。
そういう気迫が無かったということでしょう。
2年優勝して3年目でボーっとしていて、まあゆさぶりをやっていれば勝てるだろうという安易さがあったから負けてしまった。」

第二次世界大戦

昭和14年、大西は早稲田を卒業し東芝へ就職した。
この年、ドイツがポーランドに侵攻し」、このことが第二次世界大戦と発展していく。
この年(14年)と15年、明治大学ラグビー部は早稲田大学ラグビー部を圧勝し、早稲田は3連敗となった。
昭和15年1月10日、大西鐡之祐は現役兵として神宮の近衛歩兵第4連隊第11中隊に入隊した。
あるとき軍装で駆け足行軍が命じられ、習志野の演習場から神宮の兵舎まで全装備で走らされた。
大西は初年兵で一緒に2年兵もたくさん走っていた。
大西は日頃いびられていた2年兵に負けてなるものかと走った。
次々に落後していき完走は4人だけだった。
褒章として外泊1日を許可された。
近衛歩兵第4連隊第11中隊は神宮球場付近に駐屯していた。
すぐそばにプレーした神宮競技場もあった。
大西は無性に競技場が見たくなり、就床後、見回りの目を盗んで兵舎の4階に上がり、競技場の時計台を見ながら泣いたこともあった。
昭和16年、早稲田大学ラグビー部は、何とか4連敗を免れようと、再び大西栄蔵(大西の兄)を監督に起用した。
そして明治に圧勝した。
この試合の翌日、日本が真珠湾を攻撃。
太平洋戦争が始まった。
日本はドイツ・イタリアと3国同盟を結び連合国と対峙した。
昭和17年、日本の国全体が戦争にまっしぐらに進んでいく中、多くのスポーツが統制されていった。
ラグビーは「闘球」と名称を変えながらも、かなり後まで続けられた。
しかしこの年の卒業生は6ヶ月繰り上げて卒業となり、シーズンも前後2期に分けられた。
ラグビー部も多くの部員が軍隊に入っていった。
「同時代の若者と同じように、僕の人生観は戦争で変えられた。
僕の場合、ラグビーをやっておったということ、1人のラガーマンとして青春を燃焼したことは、戦地に行っても僕について回った。
ラグビーで体を鍛えて丈夫だったから生き延びられたと思う。
でもなまじ体が強かったのが悪かったのかずいぶん運命に翻弄された。
教育教官として中隊に残る予定だったのに、体力があるために野戦向きということになってしまった。
その結果、結婚を約束していた婚約者に6年待ってもらうことになってしまった。
仏印(ベトナム)、タイ、マレーシア、シンガポールと各国を転戦した。
タイ、マレーシアの国境を過ぎた後、ポートディクソンという英軍の下士官養成学校のあったところに上陸したことがあった。
そこで思いがけず立派なグラウンドに出くわした。
白いゴールポストが立っていた。
思わず直立不動の姿勢で敬礼してしまった。
戦争に敗れたとき僕はスマトラにいました。
従軍慰安婦の女性たちが、大切にしてきた軍票紙幣が無駄になってしまった時に怒りを爆発させたことを思い出します。
従軍慰安婦という存在が国家によって認められていたことだけでなく、戦争とは人間を集団的に狂気に追い込むものであるということを、数十回の戦闘を通して身をもって僕は体験した。
戦争とラグビーが表面的には似ている面を持ちながらも決定的に違うことは、戦争は人間を人間でなくしてしまう。
殺す殺されるの世界だ。
それに対してラグビーは、闘争を人間の理性的な統制によってゲームに転化する。
理屈でなくその2つの違いがいかに大きいかを僕は体験した。
また植民地で過ごした体験から、1つの民族にとって教育がどんなに重要であるかを僕は痛感した。」

昭和20年8月15日、敗戦当時、大西はシンガポールで捕虜だった。
「戦争が終わってもすぐに日本に帰れるなどとは思っていなかった。
スマトラ占領以来警備隊長をしていたから、いよいよ年貢の納め時かなという気持ちもあった。
だが僕は日本に帰ってまたラグビーにかかわれるようになったのも、ある意味、ラグビーのおかげかもしれない。
戦犯調査を担当する英軍の少佐に呼び出され、僕が所属していた部隊の部隊長について尋問された。
「お前の部隊長はオランダ人の女を囲い虐待していたのではないか?」という。
居場所を含めて知っていることをいえというわけだ。
偽証したら絞首刑になるブラックキャンプ行きだという。
しかし僕は知らないと言い張りました。
最後の日、ブラックキャンプ行きになれば切腹することも覚悟して僕は正装して行った。
正装したときの常で早明戦で2連勝したことを記念するラグビーボールのメダルを腰につけた。
少佐はそのメダルを眼にすると「お前はラガーマンか?」といった。
少佐も軍隊でラグビーをやっていたといって、ひとしきりラグビー談義に花が咲いてしまった。
最後にラグビー談義が終わった後で「お前の言うことを信用する」といってくれた。」
この戦争で、25名の早稲田ラグビー部員(OBを含む)が戦死、その中にミンダナオ島ダバオで戦死した大西栄蔵(大西の兄)も含まれいる。
大西栄蔵は
「兵法常住之身、常信兵法之身」
を信条に、
「トイレのスリッパを脱ぐときも、後から入る人がはきやすいようにそろえて脱げ。
それはパスを受けやすいように投げる心に通じる。」
といい、ラグビーにひたむきで厳しい人間だった。

戦争体験から、教育者を目指す。

昭和21年6月、大西は広島の呉に帰ってきた。
そして元いた東芝に戻った。
「戦争から帰ってきて学校の先生になってやろうと思い小学校へ行った。
そしたら免許がないからだめだという。
代用教員なら何とかなるかもしれないとかいうから、何をぬかすかっと今度は中学校へ行った。
僕が出た中学校へ行って話をしたらそれもだめなのです。
日本の教育制度は本当におかしいと思った。
それでしょうがなく戦争に行く前に勤めていた会社に帰って会社員をしていた。
それでも教育というものに僕は興味を持つというか関心を持っていた。」
その頃、早稲田大学ラグビー部も復興していた。
しかし部員は少なく試合をするにはOBが出なければならないような状態だった。
大西が母校のラグビー部の惨状を聞き、どうしようかと悩んでいると理工学研究所からお声がかかった。
「内緒だけどラグビーを思う存分やっていいから」
ということだった。
こうして大西は東芝を辞めて早稲大学の非常勤教師となった。
「教育の場への念願を果たした私は猛烈に勉強を始めた。
アメリカが持っている教育哲学、ジョン・デューイに代表されるプラグマティズム(20世紀に米国にて生まれた実験的合理主義、米哲学者:パースが初めにプラグマティズムという用語を創始し、ジェームズがこれを確立、そしてジョン・デューイが『民主主義と教育』を発表し大成させた)とはいかなるものか。
と同時にラグビーを通じて英国における有名なパブリック・スクール(長きにわたる伝統の中で洗練されてきた教育方法を持ち、スポーツからはフェアプレイの精神を、寮生活からは心と体を鍛え、責任感やリーダーシップなどを身につけることを目的とし、昔のパブリックスクールの生活は過酷かつ質素なもので、精神と肉体の鍛錬に重点を置いた「スパルタ式教育」を取り入れ、上級生の下級生使役(いじめ)が制度としてあったといわれ、自由を奪うことで学生に自由の意義と規律の必要性を理解させることが目的だった)の教育とはいかなるものかと。」

秩父宮ラグビー場

「東伏見のグラウンドへ戦後初めて行った時、グラウンドではカマキリみたいなやつが20人ほど集まってラグビーをやってた。
感激した。
実際、まさか練習なんかやっていないと思って行ったのです。
戦後の皆が食うか食わずのときです。
部員たちも地方から出てきて寮みたいなところへ泊まりながら、毎日よその畑へ芋を取りにいって芋で食いつないでいるというようなことをやっていたのだから、ようやっておったと思う。
だいたいすいとんというおもゆみたいな中に3粒ほど小麦粉の団子が入っているものをよく食べた。
その入っている団子が1つ多いというので東伏見にも食堂があるのに、わざわざ東伏見から下落合まで電車で食いに行くという時代です。
そのへんの芋畑なんかをみんなあさって芋ドロボウなんかしたものだからラグビー部のやつは嫌われていたんですよ。
その頃は兵隊から帰ってきて大学に復学したものもいる。
そいつらがラグビー部に帰ってきたら、ラグビー部にいたほかのやつは腹ペコばかりで、そんなやつよりもずっと動きがよかった。
復員してきては選手になって試合に出た。
だから昭和21年の試合を見ると、シーズン初めの10月はまだ東大に負けたりしている。
しかし12月には明治に勝っている。
兵隊帰りが集まってきてメンバーが出来上がり、それで強くなったということでしょう。
そういう兵隊帰りというのは学生とは年も違ったからね。
帰ってはきたものの靴も何もない。
だからわらじをはいて試合したものです。
俺、足痛いからわらじはいてやるといって、それでも勝ったものです。」

国立霞ヶ丘競技場

国立霞ヶ丘競技場 - Wikipedia

昭和22年、
戦前、関東のラグビーの試合は明治神宮競技場を専用グランドに近い格好で使用していたが
戦後、アメリカ軍に明治神宮競技場は接収されて「ナイルキニックスタジアム」と名を変え、日本人は自由に使うことができなくなった。
そのためラグビーの試合は神宮球場や後楽園球場(現東京ドーム)で行わざるをえなかっくなった。
そんな状況から関東ラグビー協会は女子学習院の焼け跡でアメリカ軍の駐車場になっていた土地に新しいラグビー場を建築することを決めた。
これが「東京ラグビー場」、後の「秩父宮ラグビー場」である。
建設資金にはラグビーOBの浄財も含まれた。
彼らはある者は時計やカメラ、ある者は家のじゅうたんを売って自分たちの心のふるさとを築き上げようとという情熱に燃えた。
工事が始まったある日、雨のふるなかゴム長ぐつの秩父宮殿下が来て、工事関係者に
「ラグビー協会は貧乏だからよ ろしくたのむ」
と頭を下げたという。
昭和22年11月、
東京ラグビー場(秩父宮ラグビー場)が完成した。

早稲田大学ラグビー部監督となる

昭和25年、大西鐡之祐は、正式に早稲田大学ラグビー部の監督になった。
(そしてこの年、全国優勝した。)
「監督として適任であるかどうか。
まだ自信はなかった。
すくなくてもはじめの2年くらいは自信なかった。
その後2年間くらいの研究と経験がある程度、僕を監督らしくしていったのではないか。」
終戦後は、とにかくモノがなく、逆にいうとモノがあれば何でも売れる時代だった。
だから農家や商人は強かった。
なにもモノをもっていないラグビー部の食料の調達は大変だった。
進駐軍のタバコやチョコレートを持って、千葉の農家に行って米俵と交換した。
帰りは、警察官に見つからないようにしなければならなかった。
革製品は統制がかかっていたので、ボールや靴は配給だった。
ジャージもなかったので、みんなシャツを着た。
ゴールポストは、がんばって集めた金でつくったものの、翌日には盗まれていた。
「1番困ったのは飯だよ。
食わず飯がない。
マネージャーは米びつの上に寝ていた。
そうしないと部員にかっぱわれてしまう。
みんな持って行って炊いて食うのです。
米を買ってきて中に入れてはその上に座って番をする。
そんな時代だった。
夏合宿も食糧事情で選んだ。
あちこちの先輩に頼んで米の手に入る場所に行ったものです。」
大西はラグビーについてわからないことは、素直に早稲田の先輩にその答えを求めた。
監督経験者から各ポジションのスペシャリストまで、それぞれの分野の専門家を訪ねた。
そして自分のものにしていった。
「新人のときから僕はいろいろなポジションをやって、ある程度は知っていたけれど、本当に専門といえばフランカーです。
そのことについては誰にも負けないだけのものを持っているけれど、ほかのポジションはわからない。
一般的なことはわかっていても、ほんとに第一線で専門的にやっていることはわからない。
うちのOBのなかでも、例えばセンターなら川越藤一だというように、誰が見てもこいつの言うことしかないという人がいる。
そういう人が全国にいるということは非常に幸運だった。
それが伝統のあるクラブの有利なところでしょう。
最初の2年はOBの方とか一緒にプレーした仲間から聞いて、そのほかに実際に監督として選手との接触もあった。
アドバイスを聞いても本当かどうかテストする場を持っていたということ。
それが非常によかった。
部員と一緒に研究し実験してはじめて、これは正しい、これはいいという検証ができるのです。
実証されたものでない限りいくら立派なものでも、そんなものは空理空論です。
頭ではいくらでも考えられる。
しかしそれがほんとうにできるかどうかということはテストしないとわからない。
そのテストの場を僕は持っていた。
そしてそれを試しながら勝っていったということが非常に大きな自信を持たせた。
25年と27年と28年に勝って、26年と29年は負けたけど、5年やっているうちの3回は全国で優勝している。
1つ1つ新しい戦法をやらせて、そしてこれは正しい、いい、これはいけるというものを実証していった結果です。」

「例えば、スクラムの組み方で、従来の3・2・3に対して、3・4・1というフォワードシステムがある。
まず3・2・3と3・4・1がどう違うということを、両方で組ませて学生にやらせて、3・2・3より3・4・1のほうがいいという判定をする。
そして次に3・2・3のチームと試合して、それをやっつけて、これはいけるという結論を出す。
なぜ3・4・1のほうがいいかを簡単にいうと、3・2・3は押す力が最も集まるのはフッカーだが、3・4・1は左右のプロップに押す力が加わる。
スクラムはフロントロー3人の面の押し合いだから、押す力の指向性が、1重点であるより2重点であるほうがよい。
さらに3・2・3の場合、フッカーはフッキングすることが役目だから、後ろから押しが集中すると足が出しにくくなる。
またフランカーとナンバー8がバインディングしているので、スクラムから球が出た後、ブレークしてフォローに参加するのが遅れる。
それらの理由があったのです。
新しい理論を導入する時にも1つ1つの実証があったのです。
それが僕の大きな自信となったということです。
ただ新しい理論や戦法も学生がやりましょうといわんかったらできんからね。
学生も大変進歩的だったと思う。
その点で早稲田のラグビーは進歩的なのです。
たいていのチームでは新しいことはなかなかやりませんよ。
そんなものやらんでも今まで通りでいいじゃないですか。
だいたいそうなる。」

大西鐡之祐はシーズンが始まるとき、その年の1番強いチームはどこかを考え、そのチームを目標にする。
そして設定した目標の戦力診断をする。
戦力を分析したらそれに基づいて勝つためにどうやっていくかを考える。
「監督の仕事の第1歩は、シーズン当初において自らのチームを診断することです。
チームの現状の詳細な把握なくして何の方針も立てることはできないからです。
まずラグビー技術の程度と理解度とセンス、チームの士気とフィットネス、そしてそのチームが持っている歴史と組織などはその主要な調査項目です。
そのシーズンのチーム主力プレーヤーの技術程度を綿密に分析して、自分たちが実験した戦法の中からこのチームに最も適したものを選び出し、このシーズンのこのチームの戦法を決定する。
戦法の完遂と成功は各ポジションのプレーヤーの戦法遂行に適応した個人技の完成にかかっている。
したがって各ポジションごとに最も必要な個人技術を重要度に基づいて列記し、その完成期間を予測します。
次いで、戦法に基づくユニットプレー(フォワード、バックスの集団技術)の完成期間を予測し、戦法完成のチームプレーの完成期間も予測します。
シーズン中の最重要試合を決定し、それまでの練習期間をなすべく正確な練習時間に換算して、予測した個人、ユニット、チームの練習期間と照合して正確な練習期間を決定します。
いかに立派な監督でも時間がなければチームは完成できません。
こうして練習指導計画が全シーズン、春季、夏季、秋季を分けて作成され、それがまた月間、週間、1日単位の計画に細分化されて綿密に立てられ実施される。
しかもそれが何日かおきかのゲームによってテストされ、練習目標が達成されているかどうか反省、吟味され、新しく再組織されて実施されていく。
秋季ともなれば毎週他チームとの試合が行われ、1つ1つが最重要試合へのテストゲームとして戦法完遂へのステップとなる。
その間、常に最重要ゲームの相手チームの状況に最大の注意を払い、その作戦の変化には充分対応できるように対処する。
最重要試合の1ヶ月くらい前になれば、そのシーズンのレギュラーメンバーが決定され、約22、3名が選ばれて合宿に入る。
といったやり方がチームのコンディションを整えるのに好都合のように思います。
これが戦法完成へのチーム練習の仕上げです。
この間、監督はキャプテンの訓育に特に留意しなければなりません。
この間における対外試合については、とくに作戦を与え、そのイメージトレーニングを繰り返し、キャプテンの統率の下にチームだけで試合ができるように指導する指導する必要があります。
最後の1週間はそのシーズンの戦法は完成し、その上に何か新しい作戦をやる企図があるならその完成に努めるべきです。
新しい作戦は大試合の勝負を左右することがあるから慎重を期さなければなりません。
こうしてシーズン当初から考察して戦法がチーム全員に浸透し、懸命な練習によって最重要の試合に主導権をとって闘い、イメージどおり相手を翻弄し勝利を収めたとき、監督としてはラグビーの醍醐味の極致にあるということができます。
プレーヤーは確かに勝敗も大事ですが、ゲームに集中し無心に無欲に自由の中に闘います。
しかし監督は最後まで自分の戦法を信じて信じて断じて勝つの信念を持ち続けなければ、試合に負けるように思えてなりません。
もうこれでやるだけのことはやった。
あとは神に任せようと思ったとき、そこに逆転負けが潜んでいるのです。
ここがプレーヤーと監督の違うところのように思えるのです。」

「相手チームと自分チームを診断をして、それに基づきどういう作戦、どういう戦法で行くかを決める。
次に各ポジション候補を2人ずつくらい考え、1ポジションごとにその戦法を達成するための技術、例えば、スクラムハーフはどういう技術をやる、スタンドオフはどういう技術をやると技術を賦与する。
技術を賦与した者に、できれば1人ずつにコーチをつけて、まずはこれ、その次はこれと順番をつけてやらせていく。
その練習計画をずうっとつくっていくと、ラグビーは15ポジションですが、同じポジションが左右あるのでコーチが8人くらいいればやれます。
そのように分担して各ポジションの技術練習計画を立てていく。
この技術は何日くらい、この技術は何日くらい練習させたらいいかということで練習計画を立てる。
ただ計画を立てただけでは不十分なので、その終わりにどれくらいできたかという到達度テストをどのようにやるかというテストの計画もちゃんと立てて、それを各コーチに渡してやる。
それで今度は戦法練習。
要するに1番初めに大綱を決めた戦法のやり方をテストするときに、全部チームとしてまとめて、その戦法と各ポジションに当たる技術とかがマッチしているかどうか、それがどう進んでいるかを見ていくわけだ。
春のシーズンがそれに充てられる。
春の練習はだいたいある戦法を決めて、その戦法に基づいた各ポジションのやり方をある到達水準まで上げるということが目標になる。
もっとも走りこみやウエイトトレーニングなどで個人の体力やパワーを向上させることも春先から目標を決めてしっかり取り組んでいかなければいけません。
これを怠るとどんな理論や戦法も無意味になってしまいます。」

春は各ポジションごとの練習をやって、夏合宿ではチームとしてどういうことに重点を置くか、どこに攻撃の重点を置くかということをやっていって、チーム全体の志向を磨いていく。
ラグビーは自分のチームの強みを敵の弱点にぶつけていく。
チーム全体の力を敵の弱点に集中できるような攻撃方法、サインプレーを決め徹底的にやっていく
攻撃は一次攻撃だけでなく二次、三次と連続攻撃をやっていく。
さらに防御も大事である。
いかに攻撃的なディフェンスからチャンスをつくるか。
その練習をする。
また体力の限界まで走りこみトレーニングしてパワーアップする。
夏合宿を終えて9月に入ると毎週のように試合がある。
走りこみやウエイトトレーニングの量が減り、実際に試合をやって出てきた課題を修正することに練習の主が置かれる。
「チーム全体で自分たちの戦法を確認していく。
コンビネーションプレーというのも何となくやっているというのではまずいんです。
例えば、敵陣深く入ったところでのスクラムで攻撃ラインを引く場合とか、自陣25mでのラインアウトからの攻撃、あるいはペナルティからのサインプレーというように、さまざまな状況を設定して目的意識的に練習することが必要なんだ。
あえてタックルに行かずに相手が内に切り込んできたら誰と誰が止めるのか。
スクラムをホイールされたらどうするか。
あらゆる場面を設定しながらチームとしてディフェンスに磨きをかけるわけだ。
こういう実践的な練習を集中的にやる。
時には試合と試合の間に練習ゲームをやって動きを点検してみたりする。
そして1週間そういうことをやっていって2日前に作戦会議をやって、そこでは今まで通り
攻撃はいくんだ、防御はこういくのだ、ゴール前の攻め手はこれとこれとこれと最終的な会議をやる。
それでもう1日あるからその1日でそれをうまいこと理解しているかどうかということを確認して、それであがりです。
だいたい1週間くらいは具体的な戦法をずうっと練習でやってくるわけです。
だから試合当日になって、まだサインプレーについて指導をしなければいけないということになったら負けですね。
それまでにちゃんとやってなければ、前の日までに全部言って、その日はグラウンドに出てしまったら奴らに任すという状況のほうがうまいこといく。
そのときカッカしていたらダメです。
そのくらいの余裕はないとね。
そのくらいの信頼感をキャプテン、ゲームリーダーに持ってなければね。」

国際試合(International Game)

昭和27年5月19日、後楽園球場に集まった4万5000人が見守る中、白井義男がダド・マリノとの死闘の末、ボクシング世界フライ級チャンピオンとなった。
日本人初の世界チャンピオンだった。
同年9月、イギリスの強豪オックスフォード大学が来日。
大西鐡之祐は、これをAll早稲田を率いて迎え撃った。
早稲田大学ラグビー部は、昭和2年にオーストラリアに遠征し、それ以来5年間研究を重ねゆさぶり戦法を編み出した。
大西は戦後、それを4年かかって復活させた。
「ALL早稲田の監督なった僕は、夏合宿にOBの有力選手を補充し、チームプレー練習に専念した。
幸い、早稲田は過去5年でゆさぶり戦法復活に全力をあげ、全国優勝もして充実していたし最高潮にあった。
僕はこの素晴らしい早稲田のゆさぶり戦法が本場のラグビーに通用するか試してみたいと考えたのです。」
早稲田戦の前に行われた慶応vsオックスフォードは6対28。
オックスフォード大学は、国際クラスの選手である両センターに中心に深いラインをしいて、横に流れるような動きをしながら、パスを受けるときは体勢を立て直し加速し直進しパスを受け取る。
防御する側にとってタックルするポイントがつかみにくく、体格に恵まれたバックスが加速して走っていくと1発のタックルでは止められなかった。
「しかし対面のプレーヤーを追って、タックルポイントをつかみ、忠実にバッキングアップすれば恐るるに足りないと僕は思った。
攻撃も接近戦でいけば抜ける自信をもった。
作戦会議でこれを指示し、あとはゆさぶりで走りまわり相手の疲労をつくことを命じた。」

昭和27年9月17日、東京・秩父宮。
ALL早稲田は、全日本クラスの堀、橋本、横岩のOBをリーダー格として補充し、現役中心のメンバーで布陣した。
オックスフォードは、攻守に深いラインを敷く重く分厚い陣形。
早稲田は、シャローディフェンス(浅いディフェンス)で速い攻撃重視の陣形。
また大西鐡之祐は、チャンスの判断、ゆさぶり、タックルの徹底を強調した。
試合開始早々、オックスフォードのスリークォーター:ブーブバイヤーが深いラインからあっさり抜いていってトライ、ゴール。
続くペナルティゴールも決め8対0。
しかし早稲田はひるむことなく一丸となって健闘した。
前半終了前、右のスクラムから左へ展開、堀が絶好のロングパスを小山に送り、完全にオックスフォードのラインの後ろへ抜けて青木がノーマークでトライ。
8対5で前半を終えた。
後半、早稲田は善戦し、負けていたスクラムはホイールで活路を見出し、ラインアウトで多様な方法でボールを獲り、ラックでは5分にわたりあい、フォワードはパスとドリブルでオックスフォードをかく乱し、バックスは鉄壁の浅い防御陣でタックルを決めて互角に戦った。
22分、早稲田はペナルティを決め8対8の同点にした。
引き分けかと思われたノーサイド直前、早稲田ゴール前15mからのタッチキックがタッチにならず、それを受けたオックスフォードのフルバック:マーシャルが見事なドロップゴールを決めて、オックスフォードが11対8で勝った。
早稲田にとってはあきれめきれない悪夢のような幕切れだった。
試合終了後、「ほたるの光」が流れるなか、両軍はグラウンド中央に集い健闘を称え合った。
オックスフォードはこの後、日本代表と対戦し、0対52という圧倒的な強さを見せつけて帰国した。

大西鐡之祐は今後、増えていくだろう国際試合について、日本ラグビーに対して、5つの点を問題提起した。
これは後に大西がAllジャパン(全日本代表チーム)を指導するときも、重要視したポイントとなった。

1 ラグビーは合理的な理論と戦法で技術をマスターしてゲームをやらばければいけない。
2 体力と走力と粘りによってゲームを寸断することなく相手を疲労混乱させるように練習しなければならない。
3 プレーヤーに各ポジションの任務と分担範囲を理解させ、キャプテンはチーム全体を有機的組織体として運用できるようにならなければならない。
4 チームは組織でゲームしなければならない、チームとしての組織的な動きを身につけることが基礎プレーである。
5 以上の点を身につけることでゲーム中、冷静な情勢判断によるプレーができるようになる。

「展開・接近・連続戦法の欠点は、球の奪取が抜けているということである。
身体の小さな日本人が外人と対戦する時にふさわしい戦術はそんなにない。
チームで組織的に目標を定めて集中的にやらなければ到底かなわない。
個々に勝手に努力しても無理である。
フォワード戦はなるべく避けて、展開、接近して、集中する地点を決めて連続的に球をとる。
連続プレーを休まず行うことが大事である。
ゲインライン突破のための新戦法を考えよ。
例えば、バックスのダブルライン。
第1ラインをスタンドオフ-センター-ウイング、第2ラインをスタンドオフ-フルバック-ウイングとし、第1ラインで相手をかく乱し第2ラインでゲインライン突破-連続攻撃。
また例えば、第1ラインをスクラムハーフ-スタンドオフ-ウイング、第2ラインをスクラムハーフ-フルバック-センターとし、第1ラインで相手をかく乱し第2ラインで突破する。
こうしたダブルライン攻撃は防御が厳しくなればなるほど有効となってくる。
例えば、フォワードの集中地点を設定。
サインプレーでその地点にラックをつくり、連続的に球をとって攻撃、戦略パターン攻撃を続ける。
こうしたサインによる創造的プレーの連続が必要であろう。
またセブンフォワードの早いヒールアウトは、創造的なプレーを考える場合にいろいろなヒントとなる。
こうした先人の試みてきた栄光のプレーに挑戦し、それを土台にチームプレーの基本的タイプとリズムを呼び起こすこと。
新しい創造的戦法を大胆に採用し実施することにより、チームの士気を鼓舞することも有効な方法である。
いずれにせよ、国際試合においては、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の心を忘れた選手、ひたむきにタックルすることを怠る選手は、桜のジャージを着る資格がない。」

明治大学ラグビー部

この年(昭和27年)の早稲田vs明治戦は、奥村竹之助協会理事が興奮して卒倒するほど、伝説の名勝負となった。
「監督の僕にしてみれば、明大選手が骨折で退場したため、14名の相手に勝っても本当の満足は得られなかった。
当時はまだ怪我で退場してもリザーブ選手の交代出場が認められていなかった。
ラグビーは勝敗ではなく与えられた条件でベストを尽くせばいいという考え方だった。
このあたりがラグビーらしいところなんだ。
僕はむしろゆさぶり戦法とオックスフォードから受けた影響を研究することで勝利した早明戦が記憶に残っている。
3・4・1のフォワードシステムの研究を重ねたが、右プロップとこれを押すフランカーの押力の方向がうまくいかない。
そこで右フランカーを下げて3・3・2の変則システムで戦うことにした。
ラインアウトはダイレクトで直ちにスクラムハーフに返すことにし、密集戦はなるべくモールにして球を早く出し展開を図る。
バックスのシザースプレーはセンターとウイングのクロスを行い、フォワードのサポートを助けて連続プレーに持ち込みゆさぶりをかける。
防御はシャローラインを中心にして攻撃的タックルを敢行。
それに適合した防御網を張る。
こうした攻防理論を立て練習し得た1つの攻撃法は、3・3・2に最も適したホイール攻撃だったのです。
例年、明治戦で手こずるのは直進して体当たりで攻めてくること。
いくらゆさぶっても敵バックスはフォワードの密集に巻き込まれず。
速やかに自分のポジションに帰り再度タックルに来ることでした。
そこでこの年はまずホイールでサイド攻撃をかけ、早い浅い相手防御ラインを後退させ、その時球を出しオープン攻撃。
速やかにセンターとウイングでシザース。
それにフォワードがサポートして連続攻撃を敢行する。
こうした戦法で明治に臨んだのです。」

早稲田大学と明治大学は実力伯仲で常に優勝を競い合った。
明治の北島忠治監督は、
「前へ」
を信条とし、FWで押しまくるスタイルを追求した。
北島は昭和4年(1929)から平成8年(1996)5月に95歳で亡くなるまで67年間明治大学ラグビー部監督をつとめ、大学選手権優勝20回、準優勝10回という成績を残した。
明治大学ラグビー部には「明大ラグビー部10訓」がある。
北島は自分の作ったこの訓戒を自らも実践した。

(1)監督・委員の命を守れ
(2)技術に走らず精神力に生きよ
(3)団結して敵に当たれ
(4)躊躇せず突進せよ
(5)ゴールラインに真っ直ぐ走れ
(6)勇猛果敢たれ
(7)最後まであきらめるな
(8)低いプレーをせよ
(9)全速力でプレーせよ
(10)身を殺してボールを生かせ

これらのもとで激しい練習が世田谷区八幡山グラウンドで繰り広げられた。
北島は大学生時代、相撲部だったが、部員不足でスカウトされラグビーを始めた。
スクラムセンター(フッカー)として活躍し、4年生時には主将となり、卒業と同時に監督に就任した。
日本が戦争に敗れ、学生たちは困窮のドン底にあった。
新潟に疎開していた北島は、
「敗戦後に目的を失った青年を鍛えるのはラグビーしかない」
といって世田谷の合宿所を再開した。
部員と共に畑を耕し、野菜をつくり、基本的にグラウンド上では学生の判断に任せるが、手抜きは許さず、手抜きを見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。
自宅に選手が来ると、
「ご飯食べたか?」
といって自ら味噌汁を作り、ご飯を出す。
選手のために労を惜しまなかった。
火事で合宿所が焼けてしまったときも
「家の一軒くらい惜しくない。」
と新潟の実家を売り払い、金をすべて合宿所につぎ込み、新たに合宿所が建て直し再スタートさせた。
監督の心意気に選手は燃えた。
彼らは試合に勝つことで新しい宿舎に大きな土産をもって帰った。
火災から12年の歳月がたち、成長した選手たちは皆で金を出し合宿所のわきに監督の家を建てた。
また卒業してからも何度も厳しくも温かい北島の元を訪れ続けた。

明治大学の男子トイレの小便器 北島忠治監督の魂の言葉、「前へ」!

EVENT〜♪〜おお、明治〜!『第11回明治大学 生明祭』 - 一日一冊一感動!小野塚 輝の『感動の仕入れ!』日記

しかし大きな試練が、明治大学ラグビー部にはあった。
ライバル、早稲田大学ラグビー部の存在である。
早稲田は、毎年のように大学選手権を勝ち取り、大西鐵之祐監督の斬新な戦術は、ラグビー界を席巻した。
それに対し基本に忠実な北島忠治監督は「時代遅れ」、「化石」ともいわれた。
その頃を北島はこう回想する。
「苦しい時だからこそ明治のスタイルを変えてはならない。
そんな気持ちだった。」
北島は不振だからこそ基本に立ち返った。
土台が完成すればどんなプレーもできるからと、走り方、ボールの持ち方、パスの出し方・受け方、反則に対する厳しいチェック、など選手に徹底して基礎を教えた。
それに対して早稲田は、技を磨き、戦法を磨き、ひたむきで果敢、俊敏なプレーこそが早稲田ラグビーの真骨頂だった。
強力フォワードを擁した「縦の明治」に対して、軽量フォワード・バックス中心の展開ラグビーは「横の早稲田」といわれた。
そして早稲田の自陣ゴール前で見せる厳しく粘り強いディフェンスは「ゴール前3m の奇跡」、
必殺のタックルで相手プレイヤーを倒し、一気に攻守を逆転する様は「アタックル」と呼ばれた。

もっと新しいラグビーを考えなければいけない

昭和28年、大西鐡之祐は1冊の本に出会った。
それは南アフリカのラグビー協会のダニー・クライブンが書いた本だった。
ダニー・クレイブン(Danie Craven)は、南アフリカ代表のスクラムハーフで、人類学、心理学、スポーツ学の博士号を持つ学者である一方、はじめてダイヴィングパスをやったり、『ダニー・クレイブン・オン・ラグビー』など多くのラグビー文献を残し、1956~1992年、南アフリカラグビー協会会長をつとめた人物である。
「これはすごい本だと思った。
これ1冊読むだけでラグビーの理論や戦法についての考え方が一新された。
僕の考えてきたラグビーとは全然異質なもので、しかも非常に理論的だった。
それで僕はこれは何とか日本も考えなくてはならない。
早稲田式とか慶応式とか京都大学式とか各校の特色だけではいけない。
もっと理論的なレベルで新しいラグビーを考えなければいけない。
ラグビーは、オープンに展開して、フォワード、バックスが一体となって展開攻撃するゲームで、そのためにはフォワードはフォローしやすいように従来の3・2・3システムを3・4・1システムに変える必要がある。
攻防理論の第1歩はゲインラインの突破にある。
攻防のバックラインは深いラインをやめて浅いラインを使用する。
ラインアウトは展開を主眼とし、頭進結合方式を背進結合方式に変えるわけです。
密集戦はモール(ボールを持ったプレーヤーの周囲に、双方のプレーヤーが立ったまま身体を 密着させて密集する状態)をつくるようにする。
球を地面に落としてラックにせず、球を持ったままモールにする。
攻撃方向は一定方向のみに偏らず、特にバックスはシザースプレーを敢行し方向転換を行い、フォワードのサポートプレーを助ける。
こうしたボールの獲得-展開-方向転換-連続プレーを目標とした近代ラグビー理論が、ダニー・クレイブンの理論です。
ラインアウトで球をキャッチした選手が敵に背を向けることは、球を確実にバックスに供給するために絶対欠かせないことは今ではわかりきっている。
実際にプレーしている人ならそれが合理的だとよく知っている。
ラインアウトで前が球をとるのだけど、敵は球をとることは最初からあきらめて、彼が球をとると同時に腹にまとわりついてモールから球を出させない。
彼は困ってしまってキャッチした球をハーフに直接パスしていいかと僕に言ってきたことがある。
今ならスクラムハーフに球を送る。
しかし当時はそれが当たり前ではなかったんだ。
敵に背を向け球をハーフに渡すというのは大和魂に反すると一蹴されたのだ。
そういう古びた考えにとらわれていた中でダニー・クレイブンとめぐりあったのである。
日本のラグビーは、エイトとセブン両システムの拮抗によって発達してきたといえる。
早稲田のゆさぶりと明治の戦車フォワードも、その中でしのぎを削ってきたわけです。
しかしその両者にしても、ただ相手を打ちのめす研究に腐心する傾向がありました。
もちろんワセダラグビーは戦前からラグビー理論や戦法を研究してきたわけですが、国際的なラグビーを目指すまでには至らなかった。
これに対しダニー・クライブンは、それ以前のラグビーの理論的欠陥を矯正し、国際的ラグビーの目指すべき方向性を示したといえる。」

昭和29年、大西は最初の本「ラグビー」を出した。
「その本には僕のラグビーに対する考え方と日本が今までやってきたラグビーのやり方と、それからダニー・クレイブンのラグビーのやり方と一緒に書いた
その本を出してから、これは何とかして僕がやらなければ日本のラグビーはダメになってしまうぞと1つの自負が起こってきた。
それでも日本には僕より先輩がたくさんいるわけだ。
この人たちが何やかんやいってくる。
論争しなければならない。
まだ若かった僕はそういう先輩との間でも、日本ラグビーを進化、発展させていくためには激しい論議をしていく必要があると思っていました。
ある時はケンカし、先輩たちにいろいろ挑戦しながら、何とかジャパンチームをつくり上げていこうとしたのです。」

早稲田大学ラグビー部1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウィングとして活躍。
早稲田大学ラグビー部監督、早稲田大学人間科学部教授、ラグビー日本代表監督、日本ラグビー協会理事。

日比野弘

「私は29年4月に早稲田に入学し、大西監督の下でラグビーを始めました
その年は早稲田が3連覇を目指した時で、私は1年生ながら試合に出してもらいました。
早慶戦では19対19で引き分けましたが、私自身3トライし、
「1年生にしてはよくやった。」
とほめられました
早明戦の前にはタックルダミーに明治のジャージを着せて練習します。
当時、私のトイメン(対面)はラグビー界のスーパースターといわれた宮井邦夫さんでした。
練習のとき、監督はこわい顔をして、
「日比野、トイメンは誰だ。」
というわけです。
「宮井です。」
と答えると、
「お前、宮井にタックルするときどこを見てる?」
「目を見てます。」
というと
「へそを見ろ。
へそは動かない。」
と教えられたのです
試合当日はどしゃぶりで敵味方の区別もつきません。
その中にあって宮井の姿を求め走り続けたのですが、14対8で負けてしまいました。
試合後、高田校舎で監督が
「今日は精一杯やった。
でもお前たちの中で今年1年やれるだけやったと言い切れる者はいるか?」
といわれたのです。
この言葉は私の胸に深く突き刺さりました。
その後何度も試合に出ましたが、この負けた明治戦が1番印象に残っていますね。」
(日比野弘:早稲田大学ラグビー部1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウィングとして活躍。
早稲田大学ラグビー部監督、早稲田大学人間科学部教授、ラグビー日本代表監督、日本ラグビー協会理事。)

ラグビー部監督から早稲田大学総長の秘書に

大濱信泉総長

大西は昭和25年に初めて早稲田の監督になり全国制覇。
26年は明治に敗れるが、27、28年と2連覇し、29年までラグビー部監督を務めた。
そして昭和30年から大濱信泉総長の秘書となった。
以後、数年間は「必勝」の呪縛を解かれ牧歌の時代を過ごした。
大浜はフェミニストでどこに行くのも奥さんを同伴していた。
総長秘書といっても、寝台車に乗って、地方に出張にいったときなど、いびきをかいて寝ている大西を総長が
「大西君、着いたよ」
と起こしたこともあったという。

実をいうと僕は学生を1人殺したんだ。

「努力家の選手を教えるのは実に楽なのです。
その選手の課題を自覚させ、そのために練習させると、いつまでもやっている。
性格的にも素直で吸収が早い場合が多い。
だが数は少ないけど天才みたいな選手もいる。
天才みたいな人は本当に怖いですよ。
ある1つのことを理論的に、こういう風に練習したら、これはできるぞと言っただけで、普通の人ならまず2週間はかかると思っているのに3日か4日でやってのける。
教えていくとどんどんいろんなことを覚えていく。
だからあるところまでくると教えるものがなくなってしまう。
そういう人がいます。
そういう人が本当に才能のある、優秀な人なのですね。
個性的にちょっと変わった優秀な人がいると、チームプレーに影響があるという意見もありますが、逆に個性的な秀でた人がいるときは、それにどのように協力させるかということをほかの者に教えればいい。
強烈な個性をもっているやつはケンカするかもしれない。
天才プレーヤーみたいな人がいると、その人とほかの人がどうしても合わないという場合がある。
どちらかがうまく合わせてやるといいのですが、両方ともうまいものだから、両方とも生かそうとすると失敗するでしょう。
かえって火花を散らせて競争してもいいように思えるけど、うまくいかない場合が多いです。
だから名プレーヤーが2人いても、片方が追従してこれを生かしてやるように動いているということが多いですね
それぞれ選手の個性は秀でたほうを生かせるように協力させたほうがいいわけだ。
また同時にラグビーはチームプレーである。
そこのバランスをうまくとるというのは監督の力量だろうね。
本当は天才プレーヤーみたいな人がキャプテンになると大変困るのです。
キャプテンと監督と2人いるようになってしまう。
早稲田の歴史の中でもそういう時代がありました。
天才プレーヤーがいて、ほかの者の言うことを聞かない。
それで監督が非常に困ったということがあった。
選手がいくら練習しても行き詰まるときがある。
その時はやはり抜け道というか、それを打開する道を、これじゃないかと少しずつ与えて、それがわかるまで待つより仕方ないでしょう。
ところで技術的なことはわかるけど、プライベートな問題で、恋愛の問題とか、家との関係とか、会社がつぶれて家がだめになってしまうとか、そういう問題になってくると本当に困りますね。
この頃は少ないけれども、戦後のあるときなど、社会の変化と経済的な変動によって、いつ家がつぶれてしまうかわからない。
そういうのがたくさんいました。
家がつぶれてラグビーをやめるしかしようがないといった人には、OBのみんなから金を出させて援助して卒業させた人もいました。
実をいうと僕は学生を1人殺したんだ。
それは天才的な選手で、僕が教えたうちですごく伸びていったという意味ではまったく天才みたいな人だった。
早稲田の1年の秋のシーズンが終わったらAll関東の代表になるまでいったんです。
ところが1年でAll関東の代表になったときに粟粒結核になってしまって入院してしまった。
みんなで話して、絶対治るからといって、いろいろ励まして、その入院は1年間で、死線を超えて治って帰ってきた。」

自殺について | ショウペンハウエル, 河井 眞樹子 | 本 | Amazon.co.jp

自殺について | ショウペンハウエル

自殺について | ショウペンハウエル, 河井 眞樹子 | 本 | Amazon.co.jp

「よかったなというわけで僕らも非常に喜んだけれども、粟粒結核やったものだから医者がどうしてもラグビーはやめさせなければいけないというわけだ。
本人は帰ってきて、背も高くなったし、みんなと会ったからラグビーをやりたくてやりたくてしようがないわけです。
そこが天才と凡才との分かれ道になってしまうところですが、何回も僕に向かって
「先生やらせてくれ。
死んでもいいからやらせてくれ。」
という。
けれども彼は将来性のある青年だったし、ちゃんと医者もついていて、そんなものやらせたらいけないというので、僕は困ってしまって、やったらいけない、絶対やったらいかんといったんだ。
そして4月に帰ってきて5月だったから学校へも行って勉強していたけれども、5月になったら家へフラリとやってきて、どうしてもやらせてくれないかというわけだ。
それはアカンといろいろ話をして
「それなら帰りますわ。
さようなら。」
といって帰った。
そしてその晩、従容と毒をあおって死んでしまった。
僕はその天才というやつの気分をわからなかった。
後からみたらショウペンハウエルの『自殺について』なんていう本を読んでいるんだ。
そういうのに影響されたのだろう。
本棚のなかにその本がある。
才能のある人間が、ピアニストが片手を切られたからその人生はないのだ。
その才能がなくなってしまった人間というのはモヌケの殻で、全然存在価値がないのだということを本を読みながら考えたのだろうか。
俺からラグビーを除いたら、ほんとに生き甲斐がないというので死んでしまったのだろうな。
現在、台湾ラグビー界のリーダーである柯子彰は、変則的なステップと名人芸のパスワークで一世を風靡した。
後に続いた川越藤一郎はすべてのプレーに秀でていた。
この2人の13番が戦前を代表するプレーヤーなら、彼はあのままプレーしていたら、戦後を代表する13番になっただろう。
彼がもし生きていたら早稲田のラグビーは変わっていたと思う。
将来早稲田のコーチでもやってたら、一生先生でもやってくれていたら、あれだけの天才が教えていたら、すばらしいラグビーができたのではないかと思うのですが、本当にあのときだけは凡才は天才のことがわからないと後悔しました。」

ナショナルチームの養成について

昭和30年代、オーストラリア学生選抜、ニュージーランドのオールブラックス・ジュニア(23歳以下)A、カナダ、オックスフォードとケンブリッジの混合チームなど、海外から多くの強豪チームが来日し、日本代表チームと対戦した。
しかし日本代表は全然勝てなかった。
大西は朝日新聞に文を寄せた。
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日本ラグビーはいまや、国内の優勝争いに終始するか、あるいは国際的に進出するか 、岐路に立たされている。
国際的進出を真剣に考えるなら、数回の来日国際ゲームを十分に再検討して、小中高大学および社会人の各ラガーマンに一貫した指導方針を確立し、具体的な指導方針を研究すべきであろう。
日本ラグビーは伝統の精神的規範を守ることが因習化し技術的には固定化と画一化の方向をたどってしまったといえる。
日本ラグビーの将来は若きラガーマンがこうした因習をいかに日本人のものとして改造していくかということにかかっている。
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「僕の言い分は、世界の情勢は各国が自分のところのナショナルチームを養成しそれを世界との試合に出している。
日本はそれまでどこかのチームがやってくると、そのときに全国のいろいろなチームから人を選んで、それでチームをつくって試合をしていた。
そんなやり方ではとても勝てない。
ちゃんとAllジャパンを平静からつくり、練習して、それを来日したチームと当てないと勝てないと言った。
ところがなかなか聞いてもらえませんでした。」

2度目の早稲田大学ラグビー部監督 「土方ラグビーをやる。」

早明戦の人気は低迷し、昭和35年の早明戦の観衆はわずか1235名だった。
昭和36年、中央大学、法政大学などの新興勢力が台頭し、早稲田大学ラグビー部はBグループへの転落した。
部員数も激減した。
これに危機感を感じた早稲田OBは、総長秘書をしていた大西鐡之祐に再び監督になってくれと頼んだ。
こうして2度目の監督就任が決まった。
「監督を引き受けるとき条件として、「(1年でAグループに戻るために)土方ラグビーをやる」と僕は宣言し、OBがそれに反対しないという確約を取りつけました。
「土方ラグビー」とは、言葉が適切かどうか知らんが、どうやってもとにかく勝つラグビー、なりふり構わずやるラグビーという意味です。
というのは全勝しなければAグループに復帰できないから必死だった。
どんな条件下でも、どんな実力の差があろうと、ベストを尽くすというラグビーの精神からいうと、A、Bなどと区別するのは邪道だと思うんだ。
対抗戦という形が望ましい。
でも当時のシステムはそうなっていないので、とにかくAグループに復帰することが先決でした。」
また大西鐡之祐は、部員減少を食い止めるため週休2日制をとった。
そして自信を失っているチームに自信を取り戻させるため、春先からベストメンバーで勝ちに行った。
しかし今1つ成績はふるわなかった。

現役時代に、低迷する早稲田大学ラグビーを、大西鐡之祐と共に改革し、番狂わせを演出。
日本代表選手にも選出。
監督として、早稲田大学ラグビー部を16年振りに学生日本一。
日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)で東芝府中(現 東芝ブレイブルーパス)を破り、16年ぶり4度目の同大会優勝。

木本健治

主将の木本建治は燃えた。
木本はAグループ復帰はもちろん、日本一も視野に入れ、下級生を鍛えに鍛えた。
練習後、部員がグラウンドに倒れ込んでしまうまで引っ張った。
「タコやん(大西)といえば、理論家であり、勝負師であり、教祖だったっちゅうことかな。
トコトン考えて考え抜いとったね。
そしてそれが90%当たる。
自分のものを確立していた。
人を暗示にかけようと思ったら、まず自分がかからないとダメなんだ。
その点でも類まれな指導者だろうね。
監督とキャプテンは一心同体だから、何かを教わったというより一緒に苦労したなという感じだった。
自分が監督をやるようになってもそれは生きてるよ。
こういうときオヤジはこう考えるやろなとかね。
あの年(昭和36年)はね、別に汚いことをやったわけじゃないんだ。
要するに早稲田ラグビーを封印して、負けない試合をやるということに集中した。
敵陣までは全部タッチに出していく。
見てて面白くない。
でも勝つために近道に徹する。
やっぱりチームの力が落ちとったんだよ。
その前の富永キャプテンのときに優勝したチームは、谷口さんというセンターがゲインラインを切って
ウイングに回し、豊岡、尾崎の両フランカーにリターンパスしてトライを取る、という強い選手を核にした点を取るパターンがあったんだ。
ところが早稲田が弱いときの典型的な例なんだが、ただ外に展開するだけでゲインラインを突破できないという「ゆさぶりの誤解」というか弊害が出た。
大西さんは、型よりもまずゲインラインをどうやって超えるかを重視していたから、その年のメンバーではゆさぶりを捨てざる得なかったんだと思う。
まず言われたのは「お前らは非力だからウエイトトレーニングをやれ」ということ。
ウエイトリフティング部に練習しにいったよ。
後、昔は春のゲームは2軍戦といって、4年生やキャプテンなんかは出なかったんだが、勝ち犬にするために全員出場させてとにかく勝ちにいった。
敵陣に入ってから1発でトライを取るために「カンペイ」も考えた。
それと夏合宿を10日くらいしかやらなかったんだ。
普通は2週間以上やるんだが、「お前らにそんな力はない」ということでね。
あの人はね、あまり細かいことは言わないんだ
「展開・接近・連続」もそう。
それを具体的にしていくのが僕らの仕事だと思っている。
でもゲームでは細かかった。
あの頃、本を書いたりしていたから蓄積があったんだろう。
「こう行け!」と言い切っていたよ。
みんなは勘というけども、僕は違うと思う。
自分の洞察力で読み切っていたんだ。
そこがすごい。
「僕が責任を取る」が口癖だったな。
コーチは潜在的にもっと選手に練習させたいものなんだ。
自信がないと特にそうなる。
例えばゲームに負ける。
お前らに気合が入っていなかったんだと反省練習をさせる。
これはおかしんだよ。
そうならないようにチームと選手を導くのがコーチなんだから。
大西さんには戦争体験という下地がある。
弾の下をくぐってきたわけだから。
判断が間違ってたら死んでしまうんだ。
これからはそんな経験を持っている人がいなくなる。
じゃあ何かと言えば選手に昨日までの自分と違う自分を見せてあげられるかどうか。
その辺りが大切なんじゃないかな。
あのBブロックで全勝した年はね。
異常な雰囲気だった。
勝っても恥ずかしそうに合宿に帰ってすぐに布団に入って寝るようなね。
だからBブロック優勝が決まって早慶戦の前に大西さんに言いにいったんだ。
「たまには好きなことやらせてくれ」とね。
大西さんは「好きにやれ」と言った。
試合では5-6で負けたけど、何か爽快だった。」
(木本建治)

カンペイ

「チーム全体の問題もあるのですがバックスの決定力不足が気になりました。
練習でバックスを集めて「お前たち何か手はないか?」と聞いたのです。
必ずトライにつながるような戦法を考えられないかということです。
そうしたら4年のフルバックの中村が、こうやっておとりを使ってフルバックにパスしてくれたら絶対にとれる、というのです。」
これがきっかけになって早稲田のお家芸といわれる「カンペイ」という新戦法を生まれた。
早稲田はBグループを全勝優勝し、Aグループ全勝の明治にも勝った。
マスコミは「大西マジック」と称えた。
「土方ラグビーというだけあって、フォワード戦重視、キック攻撃重視という早稲田らしくない試合運びが多かったのですが、とにかく立ち直るきっかけはつかみました。
しかし翌年(昭和38年)からは、明治が長い低迷期に入ります。
一方、この時期、全盛期を迎えていたのは法政で38、39年は打倒法政を目指して猛練習したんだがかなわなかった。」

ラグビー・オール・ジャパン Rugby All Japan

昭和39年、カンタベリー大学(ニュージーランドの大学)チームが来日し、全日本代表チームは負けたが、大西鐡之祐の早稲田は勝った。
大西はラグビー協会会長に自らの構想を進言し、「オールジャパン」の結成が決まった。
そして昭和41年、大西はオールlジャパンの監督になった。
この日本代表監督は、昭和41年~46年まで続いた。
大西は、寄せ集め的なチーム編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げ、学閥やポジションに偏らないチーム編成を行った。
「従来のオールジャパンの選手は、いろいろなチームからセレクションしてきました。
だから早稲田の者は早稲田の者、明治の者は明治の者、みんな考えが違う。
そうしても1本にならない。
1つのチームとしてやる場合、かえってコンビがうまくいかなくて負ける。
単独チームの方が強い。
単独チームのようにするには戦法、やり方、戦い方を統一しなければいけない。
僕はその戦い方を「展開・接近・連続」という言葉で簡単にあらわして彼らに説明した。
ラグビー先進国の模倣ではなく、その国の土壌の上に成り立った戦い方を考えていくのだ。
よそのものを持ってきて日本でやってもそれは借り物だから勝てない。
そこで日本選手の特質をしっかり考えろと教えた。
体のでかい外人とフォワードが揉み合っているようではロスである。
日本人はどういう特質を持っているかというと、体格の大きさでは負ける。
だからスクラムから早く球を出して展開をなるべく速くして、その展開の中で相手と接近して、その接近する間に相手を抜くということを考えた。」

「要するに相手は長い槍で来る。
こちらは短い短刀で戦うのだから接近戦を挑まなければだめだ。
日本人は接近戦は得意だ。
接近する間に相手を抜くということを考える。
そのことが重要なのです。
もう1つはマラソンが強いということから、ジャパニーズラガーマンは長い距離を走ることを練習して耐久力、持久力をつけることはできると思う。
その持久力を利用して走って走って走りまくって、次から次へ連続プレーをやっていって相手をへばらす。
そして相手の弱点を突いていく。
これが「展開・接近・連続」という戦法の中心となる考え方なのです。
フォワードは組んだらなるべく球を早く出す。
早く出したら展開をする。
スタートダッシュを早くして相手に近づいて、近づいたらすれ違いざまに何かやる。
そしてキックではなしにパスしてパスして、パスでどんどん進んでいく。
そしてパスを続けることで連続プレーを連続させていく。
それにはパスの技術が1番大切だ。
パスのやり方はこうだ。
ゆさぶりはこうしてゆさぶっていくのだ。
なるべく早くパスをするためにはこうだと、いろいろな技術をそれぞれのポジションごとに練習させて、ゆさぶりを中心とした日本のやり方を練習していったわけです。
外国チームが日本の攻め方についてよく批判することの1つは、日本の攻め方はすぐにわかる。
ここへきたらこうなる、ここへきたらこうしようということがすぐにわかるというのです。
だからこの点を考えていけば、日本は負けることはないというのです。
ところが僕たちからいわせると、身体のハンディがあって、それ以外に方法がないのです。
そこに日本チームの弱さがある。
戦法がある程度決まってしまってそれしか日本人にはできない。
それくらい身体的制約があった。
そこが日本人が外人と戦うときに非常に難しいところでしょう。
何しろ日本で1番難しいのは、国内で優勝しようと思うのと、外人と戦おうとするのでは、そこに作戦的なギャップがあること、勝負だけにこだわるなら、外人に勝つための戦法は、国内で積極的にはやれないという見方があるということでしょう。
例えば「展開・接近・連続」と僕はいうでしょう。
しかし「ゆさぶり」でいく作戦には二の足を踏む監督もいるでしょう。
積極的にバックスに回していくのは、ある意味、相手に逆襲される危険性を伴うのです。
またチームとしてゆさぶり戦法を熟知していなければなりません。
そればかりやっていたら日本では確実に勝っていけないというわけです。
その結果、とにかくキック中心で敵のゴール前まで攻め込みスクラムトライでの得点を狙う。
フォワード8人だけのラグビーと酷評されながらも、確実に勝っていくためにはその方法が良いなってしまう。
どんなにゆさぶり攻撃を練習しても、蹴ってゴール前で戦う単調な相手の作戦に耐えられなければ負けてしまう。
そのあたりが1番考えるところです。
やはりスクラムでパーッと押されてきたら、それに耐えるだけのスクラムをつくらないと、何ぼ走っていくんだといっても日本では負けてしまう。
外人選手は、ゴール前にきてスクラムトライを狙うこともありますが、それだけに執着したりしない。
サイドにもぐったり、バックスに回したりで、スクラムだけで相手をむちゃくちゃに押し潰すということはしない。
だからそういう点、日本でやるときには、日本人の押しに対してキチンと守れるだけのことをやっておかないと負けてしまうということが起こるのです。
一般的な傾向として、外人チームは、彼等の性格としてフォワード、バックスの連携に欠けている。
また個人プレーを尊重する風潮が強い。
逆に日本のラグビーは、英雄をつくらず、全員の協力こそ最高のプレーだと指導し続けてきた。
また連続プレーの根源は持久力であり、日本マラソンに見られるように、身体は小さくとも持久力をつけることは十分可能である。
彼等より強い持久力を作り、彼等より速く、長く走り、彼等のくずれた穴を作るならば、ゲームの主導権は握れるはずである。」

オールジャパンは、日本人選手の特徴を考えて、さまざまな戦法を編み出した。
背が低くてもラインアウトでボールが獲得できるショートラインアウト。
体重差があってもスクラムでマイボールが確保できるダイレクト・フッキング。
インサイド・センターからアウトサイド・センターにボールが回る瞬間、フルバックがライン参加してそのパスを受けるカンペイ。
体格差を乗り越えるための戦法としてさまざまな作戦を習熟させた。
「小さな者が大きな相手と戦うには何が必要か。
カンペイなんかで、アっという間に球を動かせた。
ラインアウトのスロワーは石田という小さな(163cm)選手で、彼は毎日、壁に向かって投げて、真っすぐに投げたら真っすぐに返ってくることを見つけ、狙った所へ寸分の狂いもなく投げ込めるようになった。」
石田は法大を出てからは、ラグビー部のない企業に就職し、孤独の練習を続けた。
壁に向かってスローイングの練習を繰り返した伝説の日本代表フランカーである。
坂田は速いだけではなく、パスをもらった瞬間、止まって即座に動き出す「イン・アンド・アウト」を、京都の街中でしばしば実験をした。
「歩いていて向こうから人が近づいてくる。
僕が急に止まると歩いてきた人も止まってしまう。
そういう習性が人間にはあるんです。」
(坂田)
大西鐡之祐の戦法を「展開、接近、連続」といわれていた。
パスをつないで展開し、相手とコンタクト後にボールを確保して再び・・・・・
だが坂田はこれにいささか違和感を感じていた。
「突破が抜けているのではないか?」と。
「実は大西さんの『展開、接近、連続』の中にも突破の要素はあったんですよ。
だけど私は『接近、突破、連続』ではないかと思っている。
スピードの変化によってどんな相手でも交わせる。
1人で交わせなければ、おとりを使って2人で突破すればいい。
大型化は必要でも、大切なのは日本人選手の特質を生かした戦い方、日本のラグビーを貫いて、たとえ負けても評価されるように、外国のチームが持っていない日本人しか出来ない技術を見せるのがラグビーではないかと思っている。」
(坂田)

衝撃のラグビー王国(ニュージーランド)遠征

大西鐡之祐がオールlジャパンの統一を図り始めて2年過ぎた頃、ニュージーランドの大学協議会から親善試合のオファーが来た。
「まだちょっと早いと思ったけど、いっぺん行ってやろうじゃないか。
そしてこのやり方が外人チームに合うかどうか試してこようということになった。」
昭和43年5月、オールlジャパンはニュージーランドへ渡った。
日本ラグビー史上、初めて計画的に強化育成した大西監督率いる日本代表が、「世界と戦う日本ラグビー」を体現すべく行ったラグビー強国への初遠征。
勇んでラグビー王国ニュージーランドに乗り込んだものの、言葉も通じず、食事も合わず、慣れない生活がたたって力を出し切れず、第1戦からいきなり4連敗した。
修正練習をしようとしても、2名1組で民泊し、各家で手伝いをしながらの転戦のため、朝2時間の全体練習以外は時間を取れない。
追い討ちをかけるように、記録的な豪雨や、マグニチュード7の大地震に襲われた。
国土の大きさでは日本の方が大きいのに、人間のサイズはジャパンのほうがが小さかった。
最も大きな選手が185cm85kg。
フォワード8人の平均体重76kg。
フォワードの第1列で1番重い選手で78kg。
バックスは大半が170cm以下で、1番重い選手が73kgだった。
選手は職場や家族の理解があって実現した長期の遠征だけに、みんな「このままでは、日本に帰れない」と思い詰めていた。
メンバーの1人、小笠原はホームスティ先の家で
「日本に勝算はない」
といわれ
「いい死に場所ができた」
と奮い立ったという。
同じくメンバーの井沢は、まだ早稲田大学の3年生でチーム最年少だった。
まだ実績も経験も不足していると言われていた彼は、恐怖に近い気持ちがあったという。
「体力、技術において劣る日本人が相手に食い下がるためには、どうしても気合、気迫が欠けていては問題にならん。
友好を目的に我々はニュージーランドまでラグビーをしに来たんじゃない。
日本のラグビーが世界に通用することを試すんだ。
日本ラグビーの新しい歴史を切り拓くんだ。
そういって選手を叱咤激励しました。
そんなこというとハッタリとか精神主義とか思われるかもしらん。
だが戦法や技術をトコトン磨くだけで勝負に勝てるか。
それなしでは勝負にならんでしょう。
最後は勝ちたいという気持ちが強いほうが勝つというのもまた真理なのです。」

昭和43年6月3日、第5戦はウェリントンのアスレチックパークラグビー場で行われた。
相手はこの遠征で最強のAll Blacks Jr.(オールブラックスジュニア)だった。
「ジュニア」こそついていたが、後に11人が世界最強の軍団:オールブラックス入りを果たす準代表チームである。
観客は16000人、うち50人が日本人だった。
その中には、船から日章旗をはずして持ってきた漁師、コンビーフ会社の技術者、鉄道技術者などもいた。
試合前、大西鐡之祐は選手にジャージを渡した。
「死ぬ気のねえ奴はジャージを返してくれてもいいから」
そして選手が一口ずつ回した水杯を床に叩きつけて粉々にした。
「日本ラグビーのために死んでくれ!」

前半2分、オールブラックスジュニア、ペナルティゴールで0対3。
3分、日本のキックオフのボールをオールブラックスジュニアがとって、モールからパントキックで日本の背後に入れてトライ、0対8。
6分、日本はオールブラックスジュニア陣内でペナルティをとるがペナルティゴールを失敗。
7分、オールブラックスジュニア陣内の中央でスクラム。
日本が押したためにオールブラックスジュニアのバックスがオフサイド。
日本はペナルティキックを決めて3対8。
10分、オールブラックスジュニアの右オープン攻撃を日本バックスがタックルで阻止し、日本がこぼれ球を拾ってトライ、6対8。
17分、オールブラックスジュニア陣内で日本オープン攻撃からゴロキック。
オールブラックスジュニアがボールをハンブルしたボールを日本が拾ってトライ、11対8。
25分、日本はオールブラックスジュニア陣内隅のスクラムからオープン攻撃から縦に突いてトライ、14対8。
27分、オールブラックスジュニアがペナルティキック、14対11。
35分、オールブラックスジュニア陣内で日本ボールのスクラムからオープン攻撃、トライ、17対11。
後半16分、オールブラックスジュニアが自陣よりオープン攻撃からパントキック。
日本がハンブルし、それを拾ってトライ、17対16。
25分、日本はオールブラックスジュニア陣内で右にオープンしトライ、20対16。
30分、日本は中央ラインのラインアウトから左へオープン攻撃からトライ、23対16。
34分、日本陣内でオールブラックスジュニアが左へオープンしクロスプレーからトライ、23対19。
こうして試合終了し、オールジャパンは初勝利で大金星をあげた。
「ニュージーランドでは全部で10試合やりました。
試合前は相手はどんなチームかわかりませんでした。
日本にもニュージーランドのチームが来ていたので、だいたいニュージーランドはこういう戦い方をするということはわかっていましたが、それぞれのチームの詳しい特徴はわからない。
僕がいまやってる、展開・接近・連続というやり方が外人チームに合うかどうかわからない。
だから10戦同じやり方でやって、それが通じるかどうかテストするという作戦で行きました。
だから10戦とも1つもやり方を変えずに展開・接近・連続の戦法で押し切りました。
そして最初の5戦は負けましたが、6戦目からずっと勝って、オールブラックスジュニアというニュージーランド代表のオールブラックスの次に位置するチームに勝ってしまった。
だから日本の人はびっくりする。
向こうも日本から来たやつがこんなに勝ってとびっくりしたわけです。
もう1つ、その頃、ニュージーランドのアップ・アンド・アンダーというキックとフォワードラッシュを繰り返す作戦に対し、ニュージーランド本国でも疑問が出ていたのです。
そこに日本がやってきて、キックをあまり使わずなるべくパスを回していく展開のオープンプレーで勝ったものですから、向こうもこれこそ我々の目標とするラグビーだということになり非常にほめたたえてくれました。
オールブラックスジュニアというのはオールブラックスとやっても大接戦するようなチームですから、世界中もびっくりするし、日本でもあいつの言うことはだいたいわかってきたと評価されて認められたわけです。
これが僕のラグビーの歴史からいえば1つのエポックだったでしょう。
傑作だったのは、この試合の記録が残っていないのです。
実はリザーバーの島崎(文治)に8mmの撮影をやるようにいっていたのですが、島崎は途中から引き込まれてしまったらしい。
途中から撮影を放棄しまったらしい。
その8mmにはコンクリートばかりが映っている。
ブンジのとっては同じポジションの先輩である尾崎と横井のプレーを肉眼で見たかったのだろう。
そしてブンジが2人の後継者になるために、それでよかったと思っています。
ニュージーランド側はこの試合のビデオテープを持っているはずなんだ。
でも後に複数の日本の関係者が問い合わせても、そんなものはないと言われたり閲覧を拒否されている。
幻の試合となっているわけです。」

ラグビー母国(イングランド)の襲来

昭和46年9月24日、ラグビー母国:イングランドが、ニュージーランド遠征でオールブラックスジュニアを破って、世界的な評価を得た日本を「ラグビー協会設立100周年を記念すべき相手」として選び、来日した。
イングランドの緒戦はオール早稲田戦だった
早稲田が、ゴロパントで1トライとった他はイングランドのなすがままだった。
翌日の朝刊のスポーツ欄には「早稲田ラグビー最悪の日」と書かれた。
その後、イングランドはジャパンと花園と秩父宮で2回対戦することになっていた。
オールジャパンはニュージーランド遠征から2年が過ぎていた。
その間、「展開・接近・連続」がさらに検討され、
1 まずボールをとること
2 ゲインライン突破に多彩なプレーを敢行すること
3 防御網を完備すること
4 漸進的な攻撃を加えること
が加味され、練習を重ねた。
またオールジャパンのフォワードは、平均180cm、80kgとかなり大型化が進んだ。
しかしそれでも対するイングランドのフォワードの平均は、188cm、96kgだった。
「攻撃は大胆不敵にやる。
防御は組織を崩さず、捨て身のタックルを敢行。
まず球をとらねば攻撃は不可能。
したがってフォワードは非常に危険性はありましたが、真正面から対決をして球をとることに専念せよと厳命したのです。
フォワードの平均体重1人当り16kgの差を考えればまことに過酷な命令であり1つの賭けでした。」

日英親善ラグビー第1戦、イングランドvsジャパン。
花園ラグビー場は、太陽光がカンカン降り、当時、まだ芝生ではなかったグラウンドは、土ぼこりが舞った。
試合は、イングランドが点を入れれば、すぐにジャパンが点を入れるという大接戦になった。
そして結局、19-27でノーサイド。
敗れたもののオールジャパンはラグビーの本場イングランドから2トライを奪った。
「第1戦はもう何も言うことはありませんでした。
それよりも疲労を回復し、緊張を解き解すことに専念した。
第2戦は必ずやるという気持ちがヒシヒシと選手たちの皮膚を突き破って感じられたからです。
細部の打ち合わせ慎重にやったけど、作戦の大網は変えていません。
ただ今回のイングランドの主な作戦は、第1戦の経験から次の4つだとわかったので、その対応策を充分研究しました。
1 スクラムサイド攻撃、とくに2回繰り返して攻めてバックスに球を送る
2 バックスはゲインラインを突破するためにクロスして中に切れ込んできてモールをつくり再度攻撃
3 キック・アンド・ラッシュ、とくにハーフで前に蹴りモールをつくる
4 キックで前進、ゴール前では体当たり戦法でトライをとる」

昭和46年9月28日、日英親善ラグビー第2戦、大西鐵之祐監督率いるジャパン vs 大型フォワードを擁するイングランド。
秩父宮ラグビー場には、定員17500人のところ23000人が押しかけたため、グランド周囲の芝生にも観衆を入れれざるをえなかった。
(この超満員の教訓がきっかけとなり秩父宮ラグビー場は大改修が行われることになった。)
19時7分、ジャパンのキックオフ。
イングランドが激しく攻め、アッという間にジャパンのゴールライン前まで迫り、ボールを抱えて力まかせに突進した。
ロールスロイスがトップギアで走っているようだった。
3人ぐらいのジャパンがすがりつくが、ゴールラインへ体を預けるように倒れこんだ。
しかしノートライ。
その後もイングランドは攻め続け、ジャパンは守り続けた。
ジャパンのディフェンスはよく守り、イングランドの攻撃をバシバシ止めた。
しかし所詮それは自陣に攻め込まれての苦しい防戦だった。
18分、ジャパンのペナルティーに対し、イングランドは60ヤードの長いペナルティーゴールを決め先制、0-3。
その後、一進一退で点が入らない。
ジャパンのディフェンスにイングランドは左へ攻めた。
「バシッ!」
突き刺さるような音がして、ジャパンの選手がイングランドの大男をヘッドオンで抱え上げた。
「ピーッ!」
笛が鳴った。
ジャパンの選手はイングランド選手を投げ飛ばした。
「ウォオオオオ!」
と観衆がどよめいた。
35分、ジャパンのペナルティにイングランドがキックを決めて、0-6。
後半、イングランドはスクラムで有利なので、スクラムからサイド攻撃を繰り返す。
ジャパンはラインアウト、ラックで勝り、そこからのパスを継いでゆさぶりと突進、横と縦の動きで攻撃する。
31分、藤本からボールをもらった伊藤が機を突いてタッチラインを快走。
「トライか?」と思われたが、残り数ヤードというところでイングランド選手に押し出された。
32分、ジャパンは左のタッチラインアウトから、ゆさぶって宮田が中央突破、再び「トライか?」と思われたが、イングランド選手が長い腕を宮田の足を引っ掛け転倒させた。
33分、ジャパンは左へ展開、カンペイが決まり、「そこだ、ゴールだ、行け」というところで、笛が鳴った。
「ピーッ!」
レフリーはスローフォワード(反則)と判断した。
「ウオー」
「殺せー」
スタンドから怒りの声が沸き起こった。
「ピーッ!」
またペナルティの笛が鳴った。
しかし今度はイングランドの反則だった。
ジャパンはキックを選択した。

蹴るのは、大ヒットドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった山口良治。
角度は約45度、距離は約30ヤード。
山口はジッとゴールのポールをにらんだ。
そして数歩下がって息を整えた。
秩父宮は息をひそめて見守った。
助走開始、
「ポンッ!」
蹴ったボールはグンと伸びて、ゴール成功、3-6。
大観衆の手拍子の波と歓声が大きくどよめく中、1トライ逆転のチャンスとなったジャパンは懸命にパス、キックを間断なく攻めまくった。
が、ノーサイド。
イングランドの選手が両手を空に突き上げた。
ジャパンの選手の顔も輝いていた。
大観衆の拍手がなりやまない。
両チームの選手が中央に集まってジャージ交換。
すると観客がスタンドから飛び降り出し、グラウンド内に座って観戦していた客も、選手めがけて走り彼らを取り巻くように集まった。
「グランドに入らないで下さい。」
というアナウンスは無視された。
「ワーッショイ、ワーッショイ」
選手をつかまえて胴上げが始まった。
ジャパン選手もイングランド選手も関係なく全員、宙に舞う。
肩に担がれてフィールドを1周する選手もいた。
イングランドのロジャースキャプテンは日本選手、イングランド選手の2名に肩車されて退場した。
止まることを知らない日本選手の胴上げにアナウンスが鳴った。
「選手は疲れておりますのでそろそろ解放してやって下さい。」
結局、大西鐵之祐監督率いるオールジャパンは、大型フォワードを擁するイングランドをノートライに抑え、許した得点は前半に成功させた2つのPG(ペナルティーゴール)のみ。
一方、日本は、右ウイングの伊藤忠幸やセンターの宮田浩二がイングランドゴールを脅かすも、イングランド人の長い手につかまりトライに至らず。
そしてドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとなる山口良治が1PGを決め、3点差に詰め寄るが時間切れ。
3 -6でラグビー母国に日本が肉薄した歴史的な名勝負だった。

「1番熱い青春時代を一言では言い尽くせないほど最高に燃えさせていただいた人です。
日本代表のときは10年近く、共にやらせていただきましたが、目に見えない方法で自分たちの気持ちを試合に集中させてくれました。
昭和46年の対イングランド戦は、6対3で負けはしましたが、水杯を交わし、「日本ラグビーの新しい創造者たれ」といって送り出してくれた時の事は今でも忘れません。
また「信じることは力を生み出す」ということもラグビーを通して教えられました。
私は他の誰よりも多くのことを教えていただいたように思います。
私自身が指導者になってからも、ラグビーのみならず教育について壁にぶつかることが多々ありました。
その時も電話したりご自宅に伺ったりして相談に乗っていただきました。
私が腕力を使わずに生徒を指導したということの基本は、やはり体の小さい日本人がラグビーをどう戦うか、という先生の理論から生まれたように思います。
厳しくできる人は懐の深い方です。
常に選手を100%信頼して選手に向き合っていました。
自分自身受け継いでいかなければならないことが多いと思っています。」
((山口良治、伏見工業高校ラグビー部総監督、ドラマ「スクールウォーズ」のモデル)

早稲田大学高等学院ラグビー部、ヘッドコーチ

早稲田大学高等学院ラグビー部は国学院久我山ラグビー部を破り、花園初出場を果たした。

昭和52年、大西鐡之祐は、早稲田大学高等学院ラグビー部のヘッドコーチに就任。
あらゆる条件で劣る中、東京都予選決勝で、集中力とタックルだけで、常勝:国学院久我山に9対6の勝利を収めた。
このとき早大高等学院の寺林努は、高校、大学と2度にわたってキャプテンとして大西の指導を受けて、後に自身も早大学院高の監督となった。
「大西先生の言葉で思い出すのは、「コーチとは片想いの愛や」と言っていたことかな。
高校の頃は、正直、どれだけすごい人なのかわからなかったけど、緻密な感じはした。
春は久我山に負けているんだ。
24-40とかで。
その後、大西先生を交えて夏合宿をどうするか話し合ったときに、ロックだった安田をフルバックにしようって言う。
ビックリしたよ。
安田はチームで1番背が高いし、フルバックにはもっとうまいのがいたしね。
でも大西先生には見えていた。
ハイパントを上げられて、競り合いになったり、ゴール前のスクラムからサイドを突かれたときに当たり負けしないフルバックが必要だとね。」

日本ラグビーは世界から評価され、尊敬さえされた

昭和54年11月、ジム・グリーンウッドが、日本ラグビーフットボール協会機関誌『ラグビー』に、「日本ラグビー見たまま」と題した寄稿をした。
ジム・グリーンウッドは、スコットランド代表として20キャップ、昭和30年の全英代表ブリテッシュライオンズの南アフリカ遠征ではキャプテンをつとめた偉大な選手で、その後、イングランドやスコットランドなどの代表チームのコーチを歴任し、昭和54年に筑波大学の客員教授として来日し、同大学のラグビー部を指導していた。
グリーンウッドは「日本ラグビー見たまま」の中で、日本ラグビーの問題点をこう指摘する。
「それにしても不思議なのは、産業界においてこれだけ優秀な問題解決能力を誇る日本が、なぜラグビー界ではそういかないのかということである。
1918(大正7)年に輸入した練習法を、60年後の今日でもなお変えることなく使い続けているのである。
日本ラグビーの問題点はコーチングのシステムにあるのだということに気がつくまで、あと何年間諸外国に負け続けなければならないんだろう?」
グリーンウッドは、そう嘆いてみせて、1人の異質な日本人コーチを紹介している。
「当時の日本代表チームを見て、私は大西鐡之祐という人は何と偉大なコーチだろうと思った。
彼は、日本ラグビーの特長を生かすラグビーを作り出した。
気迫と才能と知性をつなぎ合わせ、適切な戦法の中で巧みに15人を動かした。
この時こそ、まさに日本ラグビーは世界中から評価され、尊敬さえされたのである。
しかし今思うと、その後なぜ大西氏のラグビーが日本で立ち消えになってしまったのかを理解するのは難しくない。
日本ラグビー界全体の傾向が、大西氏の方向とは反するからである。
この国には、ナショナル・レベルのコーチング案というものが存在しない。
個人的に言わせていただければ、それなしには、いかなる改革も不可能である。
さらにその改革を全国的に広める手段がないうちは、いくら外国人コーチを呼んだところで金と時間のムダである。」

3度目の早稲田大学ラグビー部監督 「ワシが倒れたらポケットのニトログリセリンを飲ませるんだぞ」

昭和55年12月、早稲田大学ラグビー部は大学選手権へ出場できなかった。
OBは大西鐡之祐に頼んだ。
「監督を監督する役をお願いします。」
「何言ってもええのか。」
「構いません。」
昭和56年1月、しかし年が明けると話が変わった。
「先生、どうしても監督の受け手がいません。
何とか今年1年だけお願いします。」
「監督なんてやったらすぐ倒れるよ。」
大西は心臓を患っていた。
毎日薬を飲み、ニトログリセリンの小瓶を手放せない身だった。
「ワシが倒れたらポケットのニトログリセリンを飲ませるんだぞ!」
昭和56年3月、こうして大西鐡之祐は17年ぶり、3度目の早稲田大学ラグビー部監督となった。
どうやってチームを再建するか。
大西とOBの間で議論が続いた。
共通して指摘されたのはフォワード。
フォワードを徹底的に鍛えるということだった。
スクラムで押されると早稲田得意のバックス攻撃が不発に終わる。
バックスはフォワードに比べて選手はいいが決定力が不足していた。
個々の選手というより、チームとして、ゴール前から、どうやってトライを獲るかという戦法を持っていなかった。
相手ディフェンスを突破する集中攻撃をしなければならない。

大西鐡之祐は、部員全員に対して、サーキットトレーニングとウエイトトレーニングの義務づけ1日の日課に組み込んだ。
そして1週間に2時間、ラグビーの基本理論、練習計画、なぜこんな練習をするのか、どのような理論に基づきどのような戦法で攻めていけばいいのか、そのためには1人1人がどのような技術を身につけ、チームとしてどう動けばいいかなどティーチングに取り組んだ。
部員も徹底的に疑問を出して勉強した。
「大学4年の春、元旦から練習して、しばらく休んで
「2月の何日頃から始めましょうか?」
って聞いたら、
「遅すぎる。
練習の計画は日数じゃなく時間で計算しろ。
早明戦からキチっと逆算するんだ。」
と言われた。
その年はとにかくいろいろなことをやった。
寮では、起床後に本格的な筋力トレーニングを毎日続けた。
それまでは半分寝ながら体操やってただけだから、特に1年生はキツかっただろう。
鍛える重点は首の筋力だった。
フォワードは体重を増やすために「食うのも仕事」と言われ、春の間は毎晩チャンコ鍋を食った。
練習は地域ごとに何をやるというパターンを繰り返しやった。
練習が休みの月曜日には大学の教室でティーチング。
過去、早稲田ラグビーが創り上げてきたノウハウを全部おさらいしたようなものだった。
それまで春は散々だった。
特に1本目は明治、日体大、慶応に惨敗した。
おまけに大西先生は腰を痛めて入院してしまった。
俺と卓(佐々木卓副キャプテン)は病院に呼ばれ
「どうなっとるんや」
と聞かれたんだけど、何が何だかよくわからなかったんだ。
自分でもあの頃が1番キツかった。
先生はあのとき、「理論的な進め方がどうもうまくいっていないから夏合宿では方向を修正しよう」って思ったようだ。」
(寺林努)

「全部兵隊に教えるように一律に教えていくと、あるレベルまではいくけれど、それ以上は上がらない。
そのレベルよりちょっと上がれば勝つわけです。
レベルが上がるということは、15人なら15人のうち何人かを個性的に仕込んでいくということができるかということになります。
これは本人の才能だから、その才能を見る目のあるコーチが育てる以外しようがないでしょうね。
見る目のないコーチだったらみんな一様に兵隊教育してしまうことでしょう。」
菅平の夏合宿では、とにかく走って走って体力の限界の挑戦し、秋からのシーズンを乗り切る体力と気力を養った。
「菅平では、体力の限界に挑戦することと、チームに1本の芯を通すことに目標を置いた。
合宿中日のキャンプファイアーでは、禁酒禁煙を誓って炎の中にタバコを投げ込んだりした。」
(寺林努)
9月、アイルランドの名門ダブリン大学とAll早稲田と対戦した。
ダブリンは来日してここまで、27-16でAll明治を、44-10でAll慶応に勝っていた。
All早稲田はOBと現役の混合チームだったが、鋭いタックル、緻密なサインプレーで終始圧倒し、終了直前には平均体重差12kgを跳ね返し、スクラムトライを奪い、27対9でダブリンに勝った。
ダブリンはノートライだった。
この試合でチームに、
「大西監督についていけば勝てるかも・・・」
という雰囲気が出てきた。
「チームの中には大西先生が何を考えているのか理解できない奴もいたと思う。
それは一気に変わったのは、先生の作戦がものの見事に当たってダブリン大に完勝してからだ。
あれで先生に対する信頼度がグッと高まった。」
(寺林努)
そしてシーズンインしてから、早稲田大学ラグビー部は一戦一戦ハッキリと強くなっていった。
こうしてシーズンが深まるにつれてチームは強化され、慶応にも勝って7戦全勝した。

中学のとき相撲で全国2位、2浪のして早稲田大学に入り、未経験のラグビー部入部。
4年生の時にレギュラーを勝ち取った。

渡邊隆 通称「ドス」

「ある先輩がいっていたんだけど、「お前らが4年のとき、7番を誰にするかコンピューターではじき出したら、間違いなく謙太郎だろうと。
でも結果的にはドス
(渡辺隆、中学では相撲で全国で2位、高校では陸上競技をやり、2浪のハンディとラグビー未経験の2重苦を不屈の精神力で克服、飛びかかるような果敢なタックルでフランカーの要職を務め上げた。
愛称の「ドス」は相撲のドスコイを略したもの。)
を使って成功した。
大西先生にはホントにかなわないよ」と。
ドスは器用じゃなかったけど、明治なんかに絶対負けないという凄みというか迫力があった。
先生はそこを見抜いて3年のときクラブをやめようとまで思っていたあいつを生き返らせたんだ。
あの年は新しい戦法もいろいろ試している。
本城をスクラムのすぐ後ろに立たせてダイレクトでタッチキックを蹴る2ハーフのシステム。
6人ラインアウトでハーフの位置にドスを立たせてピールオフでつないでいくプレー。
スクラムを3・3・2で組んでサイドアタックするバリエーションもいくつか持っていた。
センターなんかは1対1で抜く練習をしろとよく言われていたんじゃないか。
とにかくやれることだけのことはやったという感じだった。
ケガ人も多く出て決して万全とはいえなかったけど、早明戦の前日は不思議とのんびりしていた。
もちろんミーティングルームでジャージをもらうところまでは緊張しているけど、食堂に戻ったら先生が
「差し入れの煎餅があったな。
みんなで食べようか。」
って言うんだ。
お茶を飲んで煎餅をかじりながら
「早明戦まであと300何日」
から始めた日めくりが、あと1日になっているのを見て
「ああ、ここまで来たか。」
とスッキリした気持ちだった。」
(寺林努)

「この試合は勝てる。 もう作戦や理屈じゃない。 頑張れ。 頑張れ。」

昭和56年12月6日、国立競技場、早稲田 vs 明治。.
今シーズン、互いに全勝同士の対戦。
しかし明治は早稲田に前年まで4連勝中で、このゲームに勝てば5連勝。
対して早稲田は早明戦勝利を経験した選手が1人もいない。
この年も下馬評は圧倒的に明治有利だった。
試合前、明治の北島監督がOB達と談笑をしているとき、大西鐡之祐は最後まで寺林主将にいろいろと指示を与えていた。
そして大西監督は選手に向かって檄を飛ばした。
「マスコミを信じるのか?
それとも俺を信じるのか?
俺を信じれば勝てる。」
フォワードの平均体重は明治が87.6kg、早稲田は79.0kg。
しかし大西は勝てると思った。
「あれだけ大きなフォワードが80分間走り続けれられるだろうか。
相手より速くフォローすれば必ずチャンスはある。」
ゲームは、明治FWの優勢かと思いきや、早稲田のタックルが鋭く、たびたび明治No8河瀬がゲインを見せるが得点には至らない。
スクラムは、明治が圧倒的優勢で、早稲田はズルズル後退してしまう。
しかし早稲田は明治からのプレッシャーが強くなる前にボールをバックスに渡してしまった。
初トライは早稲田。
前半35分、右オープンでCTB吉野が相手DFをかいくぐる走りを見せ、右隅にトライ。
前半を9対3で早稲田リードで終わった。
早稲田は反則が多く、明治はPKのチャンスが何度もあったが、キッカーが不調でほとんど決まらなかった。
ハーフタイムに大西はグラウンドに降り後半への指示を与えた。
「この試合は勝てる。
もう作戦や理屈じゃない。
頑張れ。
頑張れ。」
涙ぐんだ大西はそう叫んで選手を激励した。
選手は監督のこんなに大きな声を聞いたのは初めてだった。
後半早々、早稲田陣ゴール前でのスクラムが数回続いた。
ゴール前ギリギリのスクラムで、早稲田は最前列の3人以外はゴールエリアに入ってしまっている状態でボールを投入。
ひたすら耐える早稲田だったがペナルティーを繰り返し、7回組み直した後、明治に認定トライを取られた。
こんどは早稲田の反撃。
モールの状態でロック杉崎が相手ボールを奪い取り本城-佐々木薫-吉野-野本と渡りトライ。
押す明治vs耐える早稲田。
ガンガン前に進んで行く明治vsひたすら耐えてここぞという時に展開する早稲田。
後半35分、明治はPKを決め、15対15。
後半36分、明治陣内でのスクラムから出たボールを明治がパントで上げた。
そこに早稲田センターがチャージ。
こぼれたボールは走りこんだ吉野の胸に吸い込まれそのままトライ。
ゴールも決まって21対15。
そしてノーサイドの笛が鳴った。
大西鐡之祐はコーチ陣とガッチリ握手した。
OBたちと記者たちが大西を取り囲もうとした。
大西はとにかく選手に会いたかった。
「みんなのところへ行かせてくれ。」
ロッカールームは歓喜が爆発していた。
4年間公式戦に出ずに卒業していく4年生と1年生が、喜びを共にしていた。
「早明戦の最中のことはあまり覚えていないけど、ハーフタイムのとき先生が泣いていた。
「この試合は勝てる。
もう作戦や理屈じゃyない。
頑張れ。
頑張れ。」
大きな声でそう言われてハッとした。
そうだ。
後40分間攻めるんだって。
今思うと先生は1人1人をよく見ているし、よく憶えていた。
最後は純粋にプレーヤーのことしか考えていなかったんだと思う。
早明戦に勝った翌朝、俺と卓(佐々木卓副キャプテン)が先生の家でTBSのインタビューを受けたんだけど、普通だったらそんな取材は受けないだろう。
あれはTBSに入社する卓に対する優しさだったんじゃないかな。」
(寺林努)

フレンチ・フレアー

昭和57年2月、All早稲田と大西鐡之祐監督は、1927年の豪州遠征以来55年ぶりに英仏遠征を行った。
そしてまずパリでパリ大学と対戦し50対3で完敗した。
フランスのシャンペンラグビーの自由奔放さ、変幻自在さは大西を魅了した。
「早稲田といわず日本ラグビーの今後はフランスを研究すること。
以前からそんな考えをもっていたが、今度の一戦で痛感したよ。
どんなトレーニング法で鍛え上げたのか。
人材がいるならトレーニング学を学ばせたいし、機会があれば選手のフランス留学も考えたい。」
イギリスでは、All早稲田は、オックフォード大に27対40で敗れるが、エジンバラ大に20対10、そしてケンブリッジ大には13対12で勝利した。
ケンブリッジ戦前、大西は
「(平均体重)早稲田64kg、ケンブリッジ79kg」
と相手選手と早稲田選手をエネルギー数値化し、早稲田が対等になるためには、どれだけのスピードでどれだけのカロリーを消費しなければならないかを計算し、運動強度を上げないと対等に勝負できないことを訴え、それに勝つためには、1人がどれくらいカロリーを余分に消費しなければいけないかを結論づけ、選手の自覚を促した。
まだ代謝計算もパソコンもない時代に、物理の公式を使って、客観的な指標、勝つためのハードルを選手に示し、この数字を前提に対ケンブリッジの作戦を練った。
オープン攻撃で、選手がパスを受けてから離すまでの時間を計り表にした。
0.6秒、0.9秒、0.7秒などと個人名別に書き、
「平均、0.8秒を切らないといけない。」
というように指示した。
同じようにスクラムハーフからボールが出てウイングにわたるまでの時間も計った。
徹底してデジタル化した。
例えば
「お前は球を放るのが遅い」
というのと
「お前は0.2秒遅い」
というのとでは全然違う。
大西鐡之祐は、サイズで劣る日本が、大型の外国チームに対抗するには、フレンチ・フレアーしかないと確信する。
帰国後まとめられた「早稲田ラグビー 英仏遠征記1982」に大西は次のように書いた。
「私は南仏遠征後、フランスラグビーに注目すべきだといい続けてきたが、今回の遠征でその意を強くしている。
こうして常に新しい刺激を受けて、前進する環境に置かないと、クラブは前進しないという証左として、ワセダラグビークラブの前進のためにも考えなければいけないものと思われる。」

「狼飢作戦」

大西鐡之祐監督が退いた後、ラグビー日本代表は、韓国やオランダに敗れるなど、強豪国に大きく水をあけられ、低迷した。
そんな中で、昭和58年、ウェールズのラグビー協会から、日本ラグビー協会に遠征の招待状が届いた。
日本ラグビー協会専務理事:金野滋は
「とんでもない話だ。
断る。」
との意向だった。
それまでテストマッチの惨々たる結果を考えれば仕方なかった。
しかし日比野弘監督は、
「何とか行かせて欲しい。
近年にない大型化したフォワードは大丈夫だ。」
と金野を説得した。
この日比野監督の
「もう1度、日本のラグビーを世界へ」
という想いに押される形でウェールズ遠征は決定した。
日比野監督は熟考した。
「日本人のラグビーとは何なんだ?」
そして
「倒されても倒されても、勇猛に襲いかかる飢えた狼の軍団たれ」
という理念を基に
「狼飢作戦」
と名づけて、チームを構築。
当時はまだ珍しかった計画的な筋力トレーニングを取り入れたり、水分の多いウェールズの芝を想定して「水に浸したボールでパス練習」など、大西ジャパンの戦術をベースにしながらも、新たに開発した戦術や練習メニューで強化を図った。

松尾雄治
平尾誠二
林敏之
大八木淳史

キャプテンの松尾雄治は、ゲーム全体の流れから最も的確な判断し、味方の疲労度、敵の疲労度を見てのプレーの選択し、また試合以外でも、緩める時には先頭を切ってボケ役に徹し、練習の時はギュッと手綱を締めるあざやかさは達人のようだった。
松尾の卓越したキャプテンシーにより、ウエールズ遠征は好成績をおさめていた。
最終戦はウエールズとのテストマッチだった。
いかに遠征の成績が良くても、テストマッチで結果を出せなければその遠征は成功したとは言えない。
テストマッチ当日の朝のミーテイングで監督の日比野監督は言った。
「ウエールズを破ったらオリンピックの金メダルに等しい。
たとえ勝てないまでの6位入賞といわれる試合をしてくれ。
もし再び大差をつけられて敗れるようなことがあれば、日本ラグビーは救いのない。
暗黒の時代に逆戻りしてしまう。」
マイボールさえ満足にとれず、子供扱いされた屈辱のウエールズ戦から10年。
地道にFWの大型化と体力アップを続けてきた。
日本ラグビーの将来をかけた1戦の幕が切って落とされた。
ウエールズの首都、カーディフのアームズパークには3万人の大観衆がつめかけた。

キックオフと同時に、壊し屋、林敏之が、ウエールズFWめがけて核弾頭タックル。
大八木淳史は、相手が外人であろうが誰であろうがおかまいなしにケンカを吹っかける男である。
この林-大八木のロックは、日本代表はじまって以来の100kg超重量コンビである。
スクラムは、日本の誇る石山次郎-藤田剛-洞口孝治の第1列で安定したボールが出る。
ロックでもおかしくない川池光-千田美智仁-河瀬泰治の大型第3列がレッドドラゴン(ウエールズの愛称)に食らいつく。
このオールジャパンのフォワード陣は、平均183cm、94kg。
松尾は卓越したゲームコントロールで日本代表を確実にゲインさせ、電光石火のカミソリスッテップも随所に見られた。
新人の平尾誠二も確実にゲインする。
谷藤は安定したプレー日本のピンチを救う。
それでもウエールズは強かった。
前半を終わって10-19。
ハーフタイム中、メンバーがキャプテン松尾に言った。
「松尾さん。
これいけますよ。
ウエールズの連中は腰が引け出しましたよ。」

後半が始まって10分というところで、ウエールズから立て続けに2トライを奪われ10-29。
松尾はキックを捨て、ボールをフィールドいっぱいに展開することに撤した。
自陣22mからもタッチキックを狙わずどんどんオープンに回した。
そこにFWが走り込み連続攻撃を仕掛けた。
しかしノーサイド、25-29。
追い上げに追い上げたが、あと少し足りなかった
惜しくも日本代表は負けた。
ノーサイド直前、ボールを持った大八木がウエールズ相手にぶちかまして相手を吹き飛ばし、フォローした藤田にパス-トライというシーンはセンセーショナルな一幕だった。
こうして日本代表は強豪ウエールズにあと一歩というところまで迫った。
こうしてオールジャパンは2勝2敗1分でウェールズ遠征を終えた。

大西鉄之祐のカリスマを受け継いだ鬼のキモケン

昭和62年、大西鐡之祐の指導を受けた熱血主将:木本健治、通称:キモケンが早稲田大学ラグビー部監督に就任。
この年、木本監督は1年生選手3人を1軍に起用した。
中でも、3軍にいた藤掛三男を、フォワードのフランカーからバックスのセンターに転向させたことには、周囲は驚かされた。
藤掛は、パスは放れず、ボールは正確に蹴ることが出来ない新人だったからだ。
ただ藤掛は、体を張って相手を倒すタックルだけは強烈だった。
木本は
「(藤掛は)ほかのことはやらなくてよい。
ただタックルせよ。」
とだけ言った。
木本ラグビーはまずタックルだった。
体の小さな選手の多い早稲田大学ラグビー部が、大きな相手と戦うには、守る側に許された唯一の攻撃手段、タックルしかない。
そして点数をやらずに守り抜き、勝機を図る。
タックルに不可欠なのは勇気だ。
これは自分で磨き、研ぎ澄ますものだった。
この辺り、木本健治は大西鉄之祐のカリスマを受け継いでいる。
そして早稲田大学ラグビー部は、「雪の早明戦」を乗り切り、大学選手権でも同志社を下した。
そして日本一に挑戦した。
(ラグビーでは、学生王者と社会人王者が戦って日本一を競う。)

社会人の覇者・東芝府中の中村賢治監督も、早稲田大学ラグビー部OBで、現役時には木本健治の指導も受けた人だった。
早稲田は圧倒的に不利と見られた。
しかしシーズン中、何度か組んだスクラムでは東芝の一押しでズルズル後退してしまったが、いざ試合になると押し負けることはなかった。
そして東芝のラインアウトでは、東芝のサインは全て読んでボールをことごとく奪った。
そして早稲田は22-16で快勝した。

巨星堕つ

平成5年、大西鐡之祐は、早稲田大学監督:益子俊治の要請でコーチになった。
試合前のロッカールームで、大西は人目もはばからず涙を流した。
それをみた選手は感激し、テンションを上げた。
アヤ夫人はいう。
「家にいてもときどき目が宙をさまよっていましたね。
私は、アッ、ラグビーのこと考えているなと感じて話しかけないようにしましたよ。
益子さんには、寝ているときに思いついたことを伝えるために毎朝7時に電話していました。
それだって6時に電話しようとする大西を、普通の人はまだ寝ている時間よと言って私が遅らせたんですから・・・」
(大西アヤ)
「最近70歳を超えてやっとラグビーを一観衆として見る心境になってきました。
習慣とは恐ろしいもので、大学チームの試合なら、早稲田の相手としてどうだろうと思って見るし、高校以下のチームの試合だと、スクラムトライとキック攻撃ばかりの試合ぶりで将来の日本ラグビーのためにはよいのかと思い、社会人の試合を見ては、なぜここまでしかうまくならないのかと思ってしまうのです。
長い間観衆の前で試合をしてきて感ずるのは、チームはその試合が重要であればあるほど真剣に青春の全てを賭けて闘っているのです。
観衆の人たちも入場料を払った以上自由に行動されてよいのです。
しかしゲームをスポイルすることだけは慎んでもらいたいと思うのです。
ラグビーでは対抗戦の相手とは年に1回しか試合しません。
ですからこれにすべてを賭けている選手たちに一生の思い出となるような声援を送ってやってほしいのです。
そして各国にはその観衆の独自のマナーがあるように、日本独特のチームの応援と一体となった観衆的マナーが将来できあがってくることを期待したいと思います。
ただ僕が現在の立場で皆さんにおすすめすることができることは、まず好きなチームをつくることです。
そしてそのチームの監督になったつもりで、このチームを優勝させるにはどうやればよいかを考える。
はじめはわからなくても素人なりにだんだん面白くなってきます。
そのチームが振るわなくて、コーチや監督は何しとるんだと思うようになれば楽しさは倍増される。
好きなチームが出場して、俺ならこうするなと考えていると、監督、選手がそれをやってのける。
いいぞ次はこれだと思うと、今度はそれをやって勝つ。
こうなってくるとたまったものではありません。
観衆がラグビーの醍醐味を味わう早道はこれだと思っているのです。
少しラグビーを見て研究すればこんなことくらいは解ってきます。
ぜひ好きなチームを選んで、毎年そのチームと勝負を共にしてラグビーの醍醐味を味わっていただければと思います。」
平成7年、大西鐡之祐は、胸部大動脈瘤により死去。
享年79。

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