アイドルホースの産駒
1976年(昭和51年)5月13日、北海道に1頭のサラブレッドが誕生します。
母はコウイチスタア、そして父はあの超有名馬「ハイセイコー」
大型馬の誕生を願った生産者の思いとはうらはらの小型馬で、ハイセイコーの初年度産駒
「初仔」でした。

厳しい新馬の時代
1978年9月1日、明けの3歳となったカツラノハイセイコのデビュー戦です。札幌のダートに挑みましたが、結果は4着。惨敗でした。
続く第2戦は、9月10日の札幌ダート。ここでも5着と結果が残せませんでした。
10月14日の第3戦は京都に移ります。2着に入るも勝利には手が届きません。
デビューから3戦勝ち無し。陣営はここで「天才福永」に手綱を託します。
第4戦、11月11日京都(ダート)。待ちに待った初勝利となりますが、その後の2戦は勝つことができず、1勝5敗で3歳のシーズンが暮れていくのでした。
躍 進
1979年1月7日、明け4歳の初戦です。「天才福永」を背に、呉竹賞・京都芝に挑みます。
結果は見事1着。4歳は白星でのスタートとなりました。
しかし、このレースを最後に「天才福永」はカツラノハイセイコに騎乗することはありませんでした。
天才と呼ばれた男

「福永洋一」
本年白星スタートとなった第2戦は、福永洋一の兄弟子「松本善登」が騎乗します。
400万下から800万下へランクアップしての挑戦は、見事1着でゴール。
続く第3戦、京都4歳ステークス。2着以下に2馬身半の差をつけて圧勝。
4歳になってから3戦3勝負けなし、となったのでした。
3歳時には平凡すぎた馬が4歳で見事開花して見せた瞬間でした。
日本ダービーへの道
勢いに乗った陣営はクラシックに参戦、まず、日本ダービーへと照準を合わせます。
スプリングステークス(皐月賞トライアル) 中山芝1800m 3月25日
陣営は当初、福永騎乗を予定していたと言われていますが、3週間前のレース中の事故の関係で、前3走騎乗している松本善登に託しました。松本は当時45歳の超ベテラン騎手でした。
カツラノハイセイコは1番人気に推されてのレースとなりましたが、逃げるリキアイオーを捉えることができず、2着に終わります。
皐月賞 中山芝2000m 4月15日
前走の敗北、そして、スプリングステークス前後から体調が今一つだったことから、カツラノハイセイコは5番人気止まりとなりました。
1番人気はリキアイオー、ビンゴガルーは3番人気。
レース前の不評を吹き飛ばすことができるでしょうか!

NHK杯 東京芝2000m 5月6日
前走で敗れたカツラノハイセイコでしたが、2番人気で推されました。1番人気はメジロエスパーダ。
4コーナーから早めにしかけたテルテンリュウを追い、サエキヒーローとの2番手争いをしつつトップに迫りますが、首の差届かず、結果は3着。肉薄した戦いでした。
敗れはしたものの、陣営は日本ダービーに向けて確かな手ごたえを感じていました。
父の無念をはらすべく いざ、日本ダービーへ
第46回日本ダービー 東京芝2400m 5月27日
実力伯仲の中、カツラノハイセイコは1番人気。父と同じでした。
6年前、1番人気に推されながらも3着に敗れた父ハイセイコー。
ここでまた、親子で敗れるわけにはいきません。
25頭のライバル達と、いざ、決戦!!
長い長い写真判定の結果、ハナの差で1着!
カツラノハイセイコは父の無念を晴らし、見事ダービー馬に輝いたのでした。
この時、スタンドからは歓喜の大歓声があがりました。
題名は「いななけカツラノハイセイコ」

栄光の後の悲運
日本ダービーの後、カツラノハイセイコは休養にはいり、10月の京都新聞杯に出走しますが、10着と惨敗します。
前年9月の新馬戦からダービーまで走り続けた疲労が蓄積しすぎたのか、夏バテ、脚部不安、肺炎も患い、鼻骨を折るなど病気とケガの連続となったのです。
そして菊花賞を断念し、約1年もの長期休養・闘病生活となるのでした。
と同時に、主戦騎手の松本善登が病に倒れ、京都新聞杯を最後に、河内洋へと乗り替わることになります。カツラノハイセイコは、またしてもパートナーを失うことになったのでした。
試練を乗り越えて
長い長い療養生活を余儀なくされたカツラノハイセイコが、ターフに戻ってきたのは、約1年後の1980年9月7日の阪神・サファイヤステークス、鞍上は河内洋騎手でした。
休み明けということもあり、人気は6番目。
危ぶまれた復帰戦でしたが、見事な末脚を見せ、2着に食い込んだのでした。
京都大賞典 阪神芝2400m 10月12日
前走で、見事な復活を果たしたカツラノハイセイコは1番人気に推されましたが、
結果は3着。勝つことはできませんでした。優勝は牝馬シルクスキー。
次戦でも戦うことになる相手でした。
目黒記念 東京芝2500m 11月2日
敗れてもなお人気は高し。今回も1番人気となったカツラノハイセイコのライバルは、前走で敗れた牝馬シルクスキー。
レースは、古馬のカネミノブを抑え、シルクスキーも頭差抑えての1着。
見事な勝利でした。
ちなみに最下位は、逃げの牝馬プリティキャストでしたが、この後とんでもないレースをするのでした。
伝説の天皇賞
長い休養明けを、順調にこなしてきたカツラノハイセイコは1番人気に推されます。
ライバルはホウヨウボーイ、シルクスキー、メジロファントムと強豪が揃いました。
父が果たせなかった「盾」取りに向けたゲートが今、開きます。
第82回天皇賞(秋) 東京芝3200m 11月23日
こうして、牝馬プリティキャストの大逃げ・逃げ切りとなる「伝説の天皇賞」が誕生したのです。
ゴールの後の「カツラノハイセイコもホウヨウボーイも・・・みんなまとめて、みんなまとめてぶっちぎって」という解説者の絶叫どおり、敵ながら大アッパレの勝ちっぷりでした。
カツラノハイセイコもなすすべがなかったレースでした。
なるか、グランプリ制覇
ファン投票1位で向かえた有馬記念ですが、単勝は3番人気。天皇賞の惨敗が影響したようです。
ライバルは前走でも戦った、ホウヨウボーイ、メジロファントム、そしてプリティキャストもいます。人気に応え、カツラノハイセイコはグランプリ馬となりえるか!?
有馬記念 中山芝2500m 12月21日
直線で一旦はトップに立ったものの、抜き返すことができず2着に敗れた陣営は、すでに先を見ていました。6歳となる来シーズンは、カツラノハイセイコにとって、おそらくラストシーズンになるでしょう。有終の花を咲かすべく、静かに起動していたのでした。
「盾」取りに向けて
1981年(昭和56年)、陣営は照準を春の天皇賞に定めます。
6歳となったカツラノハイセイコの初戦は、3月8日阪神マイラーズカップ。1600mが不利と見られ、人気は3番目。前年のダービー馬・オペックホースとの対決かと思われたが、ウエスタンジョージ・ニチドウアラシ等との叩き合いを見事制し、1着でゴール。
続く第2戦は、4月4日阪神大阪杯。馬場は不良。斤量は59キロ。様々なハンディが重なったとはいえ、6着惨敗。いいところのなかったカツラノハイセイコは不安視されました。
天皇賞(春) 京都芝3200m 4月29日
体調がイマイチすぐれず、馬体重が昨年ダービー以来の440キロ台にまで落ち込んでいました。完全復調とまでいかないまま、レースを迎えます。
ライバルはリンドプルバン、カツアール、メジロファントムと強豪がひしめきます。
「盾」取り2度目の挑戦、父の思いを背負って、ターフに向かいます。

直線最後のカツァールとの壮絶な叩き合いを制し、並んだら抜かせない、強い競走馬根性を見せつけられたレースでした。
杉本清アナウンサーの「見てくれこの脚、見てくれこの根性!!」は名セリフとなりました。
こうして、父もなしえなかった天馬へと上り詰めたのでした。
ラストラン
宝塚記念 阪神芝2200m 6月7日
ファン投票1位。そして、単勝480円で1位。ラストランを飾るにふさわしい、1番人気での出走となりました。
レースは、ハギノトップレディが先頭。カツラノハイセイコは後方待機。
4コーナーから直線を向いても、先頭はまだハギノトップレディ。
カツアールが懸命に追いトップに立つと、馬群を割ってカツラノハイセイコが猛襲、その外からメジロファントムも突っ込んでくる。カツアールを急追しますが、あと1馬身届かず、2着。
陣営は、宝塚記念の前に引退声明を出していませんでした。なぜなら、日本で初めて行われる、外国招待馬とのレース、第1回ジャパンカップに参戦を予定していたからです。しかし、宝塚記念のレース後、脚部損傷が判明しそのまま引退となってしまったのでした。
引退式は、出走が叶わなかったジャパンカップ開催日、1981年11月22日でした。
その約1か月後、4歳時の1年間をともに戦ったパートナー松本善登騎手が、カツラノハイセイコの最後の雄姿を見届けたかのように、12月14日、癌によりこの世を去りました。
48歳という若さでした。
ターフを離れて

父の無念、人々の様々な思いを背負いつつも、自身の体を限界にまで追い込み、それらを見事にやってのけた、根性の馬・カツラノハイセイコ。
お疲れさまでした。そして、感動をありがとう。