3強の一角誕生
1984年5月7日、北海道紋別にのちのイナリワンが誕生します。
父方の血統は良血ながらも、生まれた当初はあまり目立った存在ではありませんでした。
2歳の時に大井競馬場の調教師・福永二三雄(福永洋一元騎手の兄、福永祐一騎手の叔父)に見いだされ、千葉の牧場での訓練後、3歳の時に福永二三雄厩舎へ入厩します。

激しい気性と強靭なパワー
1986年、数え3歳の時に大井競馬場の福永厩舎に入厩し「イナリワン」が誕生します。
彼の馬房の壁には、畳が張られました。パワーが強いうえに気性が激しく、壁を蹴り上げるので、脚を傷めないようにするためでした。その気性の荒さは、のちのレースで事故を招くことになります。
デビュー戦は遅く、12月9日の大井新馬戦でした。2着に4馬身差をつけての見事な勝利でした。
1987年、数え4歳になった第2戦、1月2日に事故が起きます。
レース直前、ゲート内で頭部をぶつけ、前頭骨打撲で出走取消、そのまま療養に入り、春のレースをすべて回避するのでした。
連勝街道まっしぐら
充実の4歳
復帰戦は大井・5月20日でした。2着を2馬身はなして1着でゴール。休み明けとは思えない強さでした。その後も、勝ち続け、11月、長丁場の東京王冠賞(現在は廃止されている)2600mも制し、4歳ラストランの船橋・東京湾カップも勝利し、デビューから破竹の8連勝!すべて1番人気での勝利という快挙をやってのけたのでした。
南関東最強の4歳馬と称され、大井にイナリワンありと言われるようになりました。
試練の5歳
数え5歳となったイナリワンは、1988年3月3日に大井で初戦を迎えます。
しかし、着順は3着。結果を残せませんでした。
この時馬場は重馬場。小さな体を目一杯使って走るイナリワンには、足元が滑る雨が天敵となったのでした。デビュー後、初めての敗退でした。
最悪の着順
第1回全日本サラブレッドカップ 11月23日 ダート2500m
全国の地方競馬の猛者たちが集結した、記念すべき第1回目のレースに参加します。場所は岐阜県笠松競馬場。11頭の強力なライバルを相手に、イナリワンは勝利することができるのでしょうか!?
結果は敗北でしたが、手ごたえを感じた陣営は、東京大賞典への期待をかけると同時に大いなる決断をするのでした。
東京大賞典(大井) 12月29日 ダート3000m
このレースに勝てば中央入り、が具体化していました。馬主・保手浜氏の意向でした。保手浜氏は「イナリワンの走りっぷりはダートより芝が向いている」と感じていたようでした。
そんなことを知るよしもないイナリワンは、復調の兆しを保ったままレースに向かいます。

このレースの勝利によって中央移籍が決定しました。イナリワンを見出した福永二三雄氏は、さぞや感無量だったでしょう。そして移籍後も、イナリワンの世話役としてアドバイザーを務めるのでした。
中央転籍
1989年1月、数え6歳になったイナリワンは三浦トレセン・鈴木清厩舎へ移籍になります。
「盾」取り、春の天皇賞に向けたローテーションがスタートしました。
しかし、急な環境の変化に精神が昂り、食が細って体重が落ちてしまったのです。
鞍上には小島太、本年初戦の、2月11日スバルS(京都)は4着。
第2戦、阪神大賞典3月12日は5着、厳しい結果となりました。
南関東最強馬と称されて中央入りしたイナリワンですが、結果を残せず、大一番を迎えることになります。
天皇賞と武豊との出会い
タマモクロスは引退、スーパークリーク・オグリキャップも脚部不安のため回避という、絶対的主軸不在で迎えたにもかかわらず、イナリワンは4番人気。前2レースの凡走により人気は落ちていました。しかし、食が徐々に戻り、体調は良化してきました。
そして、鞍上には、あの武豊を迎えることになったのです。
武 豊

第99回天皇賞(春) 京都芝3200m 4月29日
中央移籍後、照準を合わせた天皇賞を見事に圧勝したイナリワン、陣営の喜びは最高潮に達していました。
そして、ウィナーズサークルにはあの福永二三雄氏の姿もありました。
天皇賞(春)の栄冠を初めて手にした武豊騎手は、この後4連覇を達成します。
天馬イナリワンは、様々な人に様々な贈り物をしたのでした。
宝塚記念 阪神芝2200М 6月11日
「盾」取りに沸いた陣営は、年度前半のグランプリ「宝塚記念」を狙います。
イナリワンは2番人気。そして、鞍上は武豊。天皇賞コンビでGⅠ連取なるか!?
強豪馬が不在だったとはいえ、見事にGⅠを連勝したイナリワンと武豊騎手。しかし、このレースを最後に、彼がイナリワンに騎乗することはありませんでした。
この後イナリワンは、秋の戦線に向けて4か月の療養に入ります。
武豊騎手はイナリワンと出会ったことで、後々の騎手生活に多大な影響を与える、大きな大きなプレゼントをもらうことになります。それは、かねてからの希望だったアメリカ遠征を、馬主の保手浜氏が実現させてくれたことでした。彼はのちに、「イナリワンは僕に幸運をプレゼントしてくれた」と述べています。
最強のライバル出現
休養明け初戦で、イナリワンは「芦毛の怪物」と対決することになります。
あの「オグリキャップ」です。
イナリワンが中央入りしたこの年(1989年)2月に故障し、長い療養生活を送っていたため、春には対戦しなかったのです。
前方に立ちはだかる大きな壁。鞍上に柴田政人を迎えて、乗り越えることができるか。
毎日王冠 東京芝1800m 10月8日
単枠指定4頭、「史上最高の毎日王冠」と言われ、最後の直線200mを6頭が叩き合った壮絶なレース。敗れたとはいえ、イナリワン健在をアピールするには十分すぎる内容でした。
平成の3強、揃い踏み
のちに、「平成3強」と呼ばれた3頭、イナリワン・オグリキャップ・スーパークリークが、天皇賞(秋)で初対決します。しかし、イナリワンは、前走の毎日王冠後、体調を崩し、食も細くなって、とても万全の状態とはいえないまま、レースを迎えます。
天皇賞(秋) 東京芝2000m 10月29日
体調不良のまま挑んだレースは、いいところがなく惨敗。オグリキャップとスーパークリークが輝いたレースでした。
続くジャパンカップ(東京・11月26日)も不調のまま出走。まったくいいところがなく、11着と惨敗。ニュージーランド牝馬のホーリックスを追い詰めるオグリキャップが光ったレースでした。
イナリワンの直近2レースは、春のGⅠ2勝馬とは思えない大乱調で、すでにピークアウトしたのかも、という憶測が、ファンや競馬会に広がりました。
そして、グランプリ・有馬記念を迎えます。
3強の頂へ
食が徐々に戻り、復調していたイナリワンですが、単勝人気は4番目、16.7倍と人気はガタ落ちでした。前2レースの凡走からすれば、いたしかたないことでした。しかも馬場は良ながらも、イナリワンの天敵、雨がぱらついていたのでした。
3強対決3度目の正直、イナリワンは勝利することができるのか!?
第34回有馬記念 中山芝2500m 12月24日
圧倒的不利の大外から2番目の15番ゲート(イナリワンが勝利して以降26年間(2015年現在)3着以内なし)での勝利。「3強」と呼ばれながらオグリキャップとスーパークリークが別格に見られる中、改めて存在を示した圧巻のレースでした。
そしてこの1989年、GⅠレース3勝をあげたイナリワンは、年度代表馬に選出されるのでした。
2度目の「盾」取りへ
1990年、数え7歳となったイナリワンの初戦は、3月11日阪神大賞典(芝3000m)。天皇賞を照準においてのローテーションでした。が、何と斤量が62キロ。前走より6キロも増やされてのレースでした。結果は6頭立ての5着と惨敗でした。
ハンディがあったとはいえ、不安の残るスタートとなったのです。
天皇賞(春) 京都芝3200m 4月29日
春の天皇賞連覇にはならなかったのですが、阻止したのはあの武豊騎乗のスーパークリーク。昨年イナリワンとともに同じレースを戦った武豊騎手だったのです。
しかし、大一番になると必ずと言っていいほど力を発揮するイナリワンを、いつしか、「荒武者」と呼ぶファンが増えていたのでした。
ターフよ、さらば
天皇賞後、イナリワンは宝塚記念に出走しますが、荒れた馬場で本領発揮できず、4着となります。そして、この後脚部不安が発生し、そのまま引退が決断されます。


数奇な余生
北海道日高町に移ったイナリワンは、種牡馬としてはあまりいい成績(産駒)に恵まれませんでした。その後、2004年、20歳で種牡馬も引退し、功労馬として門別町に移ります。2007年12月には「里帰りイベント」で、大井競馬場を20年ぶりに訪れ、その後何度か繁養先が変わり、2010年頃から、なんと所在不明となります。
これほどの実績馬が所在不明とは。。。
そして、2014年12月以降、北海道トマムのアルプスペンションで過ごしていることが判明。
気性が荒く、ヤンチャ坊主だったイナリワンは、年輪とともに成長し年老いて、他馬の面倒見がいい親分肌の大人の馬に変身していました。
