芦毛の子誕生
1985年3月27日、北海道日高・稲葉牧場に良血とは言えない1頭の芦毛のサラブレッドが誕生します。右前脚が大きく外向していました。サラブレッドではたまにあるケースなのですが、この仔馬は自力では立ち上がれないほどでした。このままでは競走馬生命が危ういくらいひどかったのです。牧場長みずから蹄の矯正を行い、仔馬の右脚は長い時間をかけて徐々に治っていきました。

笠松にオグリキャップあり
1987年1月、岐阜笠松の鷲見厩舎に入厩し、「オグリキャップ」が誕生します。
約4か月の調教期間を経て、5月19日新馬戦にてデビュー。結果は2着。
続く第2・3戦は見事勝利しますが、第4戦で2着と敗れます。
しかし、この後のオグリキャップはすごかった!
第5戦で勝利すると中央入りするまでの12戦までなんと、8連勝するのでした。
笠松競馬での戦績は12戦10勝、2着2回。枠連対率100%という強さでした。
中央の檜舞台へ
オグリキャップの強さに惹かれた佐橋五十雄氏の熱意に、馬主の小栗氏は売却を決意します。この時、厩舎内ではゴタゴタがあったようですが、中央への移籍が決定しました。
しかし、4歳クラシック登録をしていなかったため、オグリキャップは圧倒的な強さを発揮しながら、皐月賞・日本ダービー・菊花賞の大舞台に立つことが叶わなかったのです。(現在は規制緩和されている)
このことが、後々人気に拍車をかけていきました。
ペガサスステークス 阪神芝1600m 1988年3月6日
中央デビュー戦は、いきなり重賞レースとなりました。しかも、2番人気に押されての出走です。
あのハイセイコーが歩んだ道(中央デビュー戦の弥生賞を勝利)を、オグリキャップも進むことができるのか!?

毎日杯 阪神芝2000m 3月27日
華やかなデビュー戦を飾った第2戦は、1番人気に推されました。
しかし、荒れた馬場は重馬場。追い込み馬には不利となり、距離も前走より400m長くなってのレースとなりました。
中央デビュー後2連勝、しかも2レースとも重賞。「芦毛の野武士」オグリキャップファンが急増していきました。
続く第3戦、京都4歳特別5月8日を2着に5馬身差。第4戦、ニュージーランドトロフィー6月5日では7馬身差をつけてブッチギリの1着。
圧倒的強さを見せつけてくれました。
あまりの強さに、規則とはいえ、日本ダービー・菊花賞といったクラシック戦線に出走できないのはおかしいという声が競馬界にあがり、こののち、規制緩和がされていくのでした。
高松宮杯 中京芝2000m 7月10日
中央入り後古馬が相手となった初めてのレース。
ここでも1番人気、単勝1.2倍に推されました。
不動の人気、5連勝はなるのか!?
見事、宮杯を手にしたオグリキャップは、中央入り後負けなしの重賞5連勝。笠松から通算で14連勝という快挙をやってのけたのでした。
4歳クラシック戦線の裏街道ともいえるスケジュールで、オグリキャップは圧倒的な強さを示し、「影のダービー馬」と称されるようになりました。
中央入り後、4か月で5連戦というハードスケジュールで戦ったオグリキャップに、やっと療養の時間が訪れます。この後、秋に向けて調整に入るのでした。
休養明け初戦

毎日王冠 東京芝1800m 10月9日
芦毛頂上決戦
中央入り後、負け無しの6連勝。しかもすべて重賞勝ちという圧倒的強さを誇るオグリキャップの前に、大きな大きな壁が現れます。
同じ芦毛の「白い稲妻・タマモクロス」です。
この年、他の古馬たちをことごとく破り、天皇賞(春)、宝塚記念等々、重賞5連勝中の古馬最強馬です。乗り越えるにはあまりにも高い壁です。
「芦毛の怪物」対「白い稲妻」の激突が始まります。
天皇賞(秋) 東京芝2000m 10月30日
対決第1戦目はオグリキャップが1番人気、2番はやはりタマモクロス。タマモクロスが休み明け初戦ということもあり、2番人気となりましたが、実力は伯仲。しかも相手は史上初の春秋連覇を狙っています。今まで以上に力の入る1戦となりました。
第8回ジャパンカップ 東京芝2400m 11月27日
対決第2戦目となったのは、外国馬を招いての国際レース。
1番人気はタマモクロス。2番人気は凱旋門賞馬トニービーン(イタリア)。
オグリキャップは3番人気となりました。
またもタマモクロスに敗れたオグリキャップ。しかも、2戦とも並ぶことさえできませんでした。白い稲妻「タマモクロス」は大きな壁となってオグリキャップの前に立ちはだかったのでした。しかし、このレースは終盤のコーナーで不可解なことがあったのです。河内騎手は先行集団からオグリキャップを一旦さげたのでした。あれがなければもしかしたら、という陣営の思いが募るのもうなづける騎乗でした。
このままでは終われない陣営は、次走「有馬記念」に雪辱を期すことになります。
第33回有馬記念 中山芝2500m 12月25日
1番人気はタマモクロス。オグリキャップは2番人気。鞍上は河内騎手から岡部騎手に変更となりました。タマモクロスはこのレースを最後に引退を表明しており、頂上決戦はこれが最終戦となります。2戦2敗のオグリ。一矢報いることができるでしょうか!?
3度目の正直、そして最後の頂上決戦を見事制したオグリキャップは、グランプリ馬という栄冠をも手にしたのでした。
名実ともに最強馬になった瞬間でした。
戦線離脱
1989年5歳となるオグリキャップは、天皇賞(春)に合わせローテーションを組みましたが、2月・4月と立て続けに脚部故障を起こし戦線離脱。9か月もの間、療養調整を余儀なくされることになります。しかも、馬主の佐橋五十雄氏が脱税容疑となり、中央での馬主資格剥奪。新たなオーナーとして近藤俊典氏がなったのでした。佐橋氏は以前「競馬はビジネスだ」という発言をしていたこともあり、「あんな人間のために走らされていたなんて」という同情論も巻き起こりました。後日、売却額は5億5千万と明かされますが、この莫大な金額がのちのちオグリキャップにのしかかってくることになるのでした。
新たな戦い「平成3強」
休み明けの初戦は、9月17日オールカマー(中山)。
人間社会の身勝手なゴタゴタに振り回されているオグリキャップに、待望と同情と期待と様々な思いを持ったファンが中山競馬場に集結しました。そして、鞍上は南井騎手に変更となっていました。あの、白い稲妻タマモクロスの主戦騎手です。このこともあり、オグリキャップは単勝1.4倍というダントツの1番人気で推されたのです。そして、レースは見事1着でゴール!期待に答えたのでした。
毎日王冠 東京芝1800m 10月8日
前走からわずか3週間での出走となりました。
そして、後に「平成3強」(オグリキャップ・スーパークリーク・イナリワン)と呼ばれるうちの1頭、イナリワンが待ち構えていました。
天皇賞(秋) 東京芝2000m 10月29日
「平成3強」が初めて揃った大一番となりました。オグリキャップは1番人気。
スパークリーク、イナリワンをかわし、トップでゴールインすることができるか!?
抜くことができなかった「クビの差」。南井騎手は後に「勝てたのに負けてしまったレース」と述べています。直線に入った時に前がふさがり追い出しが遅れてしまったのでした。スーパークリークの武豊騎手が万全の騎乗をしただけに、南井騎手への批判がでたのはしょうがないことでしょう。悔いの残るレースとなりました。この夜、悔しさのあまり南井騎手は眠れなかったそうです。
過酷なローテーション
天皇賞の敗北により、馬主サイドからマイルチャンピオンシップ、ジャパンカップを2週続けて連闘するとの発表がなされました。そうでなくとも、3週間おきに使われてきたオグリキャップは、休養明け後1か月半で、すでに3レースも走っていたのです。GⅠを狙う通常のローテーションの倍近く走ることに、ファンやマスコミから批判がでるのも当然でした。
「馬主変更によって生じた莫大なトレード料の回収」これが本当に近藤氏の思いだったのかは不明です。しかし、現実は勘ぐられてもしょうがない過酷すぎるローテーションでした。
ジャパンカップ 東京芝2400m 11月26日
凱旋門賞馬キャロルハウス、ニュージーランドの名牝ホーリックス、前年覇者ペイザバトラー、スーパークリーク、イナリワン、バンブーメモリーと強豪馬が勢揃いした国際レース。
タイムは2400mの世界記録、2分22秒2をホーリックスとオグリキャップが樹立したのでした。
2着となったオグリキャップに、スタンドからは称賛の声があがりました。
そして、オグリキャップの人気は絶大なるものへと進化していくのでした。
第34回有馬記念 中山2500m 1989年12月24日
オグリキャップは有馬記念史上最高票を獲得し、堂々の1位に選ばれました。苦しいレースを続けながらも、競馬ファンはオグリキャップに心を寄せていたのでした。しかし、人気とは裏腹に、レース前の調教で苦しいしぐさを見せるなど、疲れ切っているのではという情報が流れていました。
さあ、スーパークリーク、イナリワンとの「3強」対決を制するのは!?
疲労がピークに達していたオグリキャップは、これから約5か月間、療養・調整に入ります。
今まで見たことのない有馬記念の惨敗によって、ファン・マスコミ・競馬界の各方面から、馬主や陣営に対し批判が集中しました。GⅠを狙うローテーションとしてはあり得ない、約3か月間で6レースへの出走。
過酷すぎた時を終え、オグリキャップは静かに休息するのでした。
不調とケガの狭間で
数え6歳となったオグリキャップは体調が戻りきらず、天皇賞(春)を回避、安田記念(5月13日)に出走し見事1着となりますが、続く宝塚記念(6月10日)では、本来の走りが出ず2着となり、この後両前脚の骨膜炎を発症。さらに、後脚にも疾病を発症し療養生活に入ります。
秋になっても脚部故障を起こしつつ天皇賞(秋)10月28日に出走、6着。ジャパンカップ(11月25日)11着と精彩を欠き、苦しいレースが続きました。ファンの悲しみは限界だったのでしょう。あってはならないことですが、馬主や中央競馬会への爆破脅迫事件まで勃発しました。
そして、陣営は有馬記念をオグリキャップの花道に選んだのです。騎手は武豊でした。
ラストラン 永遠の夢を人々に
第35回有馬記念 中山芝2500m 1990年(平成2年)12月23日
17万人大観衆のいつまでも続く鳴りやまない大歓声と「オグリ」コール。
実況アナウンサーの「オグリ1着!」の凄まじい連続コール。
左手を高々と挙げる武豊を見て「右手を挙げた武豊!」とアナウンサーをも大興奮させた世紀の大レースでした。不調続きの中で、最後の底力を見せてくれた瞬間でした。
鮮烈な中央デビュー、陣営のゴタゴタ、激しい騎手の入れ替わり、故障に次ぐ故障、凄まじくも過酷なローテーション等々、様々な試練と苦難を乗り越えて名勝負をしてきたオグリキャップに、感謝の言葉や称賛の拍手が鳴りやむことはありませんでした。
「芦毛の怪物」オグリキャップの競走馬人生は終わりました。
32戦22勝(地方10勝、中央12勝、有馬記念2勝・毎日王冠連覇など)
数字だけでは表しきれない、燦燦たるサラブレッドでした。
興奮の引退式
1991年1月、史上初めて東京・京都・笠松の3競馬場で引退式が行われました。
すべての競馬場が熱狂的なファンで埋め尽くされたのですが、特に笠松では、最後の雄姿を一目見ようと、入場できないほどの人数が押し寄せ、大騒ぎになりました。
オグリキャップは引退しても「オグリキャップ」でした。

1991年1月15日引退式にて 笠松競馬場
余生 人に愛されて
種牡馬となったオグリキャップは、北海道新冠の優駿スタリオンステーションにいました。
しかし、この年の7月、突然の病がオグリキャップを襲います。
頭部炎症による咽頭マヒ、その後の大量出血により生死をさまようことになるのです。関係者の懸命な治療・看護によりどうにか回復、10月には多少の放牧ができるようになりました。
病を乗り越えたオグリキャップですが、産駒には恵まれませんでした。
2007年に種牡馬引退、功労馬として余生を送ることになりました。
引退後も年間1万人前後のファンがオグリキャップのもとを訪れ、愛されてやまない存在となったのでした。
2010年7月、突然の訃報が流れます。右後肢の複雑骨折による安楽死。手の施しようがなかったそうです。25歳でした。
どんなに酷使されても精いっぱい力の限り走りきる姿に、人々は奇跡を目の当たりにし、感動と夢を与えてくれたオグリキャップに、果てることのない称賛と感謝を送ったのでした。
オグリキャップ、おつかれさま。
そして、ありがとう、ありがとうオグリキャップ。


オグリキャップ馬像