カムイオー生誕
1979年(昭和54年)4月1日。北海道の牧場に1頭のサラブレッドが誕生します。
幼名は「カムイオー(神威王)」。
「黄金の馬」ハギノカムイオー誕生
1979年10月23日、北海道静内町にて「カムイオー」はセリに出され、とんでもない金額が提示されました。
セリの初値は8000万円!それまでの最高落札価格が5000万円(馬名:ランドギフト)でしたので、初値の時点でこれを上回る史上空前のセリが始まったのでした。
こうして、これまでの最高落札額の4倍近い超高額馬「黄金の馬」が誕生したのです。
史上空前の金額に新聞・テレビ・雑誌、あらゆるマスコミが大騒ぎしたのは、言うまでもありません。人々の期待を背負わされ、ハギノカムイオーの競走馬としてのステージが準備されたのでした。
ちなみに、当時のサラリーマンの平均年収は約280万円。1億8500万円の超高額馬のニュースを見た人たちには、様々な感情が生じたようです。
いざ、華麗なるデビューへ
落札から約1年半の時を経て、1981年4月、北海道から姉の「ハギノトップレディ」が所属する、栗東トレセン(滋賀県)の伊藤修司厩舎に入厩します。いよいよ、競走馬としての準備段階に入り、デビューは8月の函館に決まりました。しかし、函館に入厩した7月、左前脚の亀裂(ヒビ)が判明し、出走断念、デビューは白紙となります。
波乱のレース人生の幕開けとなりました。
そして、仕切り直しのデビュー戦は、翌1982年(昭和57年)1月の京都となったのです。
デビュー戦 新馬戦 京都芝1600m 1月31日
注目の的となったレースは、伊藤清章(ハギノトップレディの主戦騎手)とのコンビ。
スタートダッシュ良くトップに躍り出ると、そのままレースを引っ張り続け、みごと1着でゴール。スピードもさることながら、2着馬との差が7馬身(約17m)もの大差をつけての
大勝利でした。
このレースは、東京競馬場などでも音声放送(当時はオーロラビジョンによる中継放映のシステムなどなかった)によって、終始中継されました。関西の新馬戦のレース模様を、関東の競馬場で音声中継をすることはなかったので、ハギノカムイオーへの関心の高さを再認識させられた出来事でした。
第2戦 桜草特別(400万下) 中山芝2000m 3月14日
鮮烈なデビューをして臨んだ第2戦は、千葉・中山競馬場に舞台を移します。
圧倒的な支持率の1番人気に応え、みごと1着でゴールします。2着馬と3馬身もの差をつけ、あらためて強さを見せつけたのでした。
なお、このレースは条件戦(400万下)でしたが、メインレースに変更された前代未聞のレースでした。
波乱の幕開け
皐月賞トライアル
順調に勝ち進んだハギノカムイオーは、初の重賞にチャレンジします。しかし、ここで予想だにしない事件が勃発します。「サルノキング事件」です。
1番人気の「サルノキング」と2番人気の「ハギノカムイオー」が同じオーナーだったために起こった騒動でした。
競馬関係者やファンに、様々な憶測や、大きな疑念を抱かせてしまったレースですが、人間の勝手な思いで、ハギノカムイオーにはこの後、悪いイメージがつきまとってしまいます。
第3戦 スプリングステークス 中山芝1800m 3月28日
前2戦と同じようにトップに立ち、スローペースのレース展開をし、そのまま逃げ切りの1着でみごとゴールイン。皐月賞への切符を手中にしました。
試練のクラシック戦線
皐月賞(GⅠ) 中山芝2000m 4月18日
無傷の3連勝で迎えた皐月賞。ここでもハギノカムイオーに新たな試練が起こります。
無謀ともいえるゲイルスポート(鞍上;加賀武見)の壮絶な逃げ、追随するハギノカムイオーは超ハイペースの先行争いに巻き込まれます。3コーナー付近でいったん先頭に立ちますが、4コーナーを回って直線に向いた時には、もう残された力はありませんでした。
結果は16着。惨敗でした。
NHK杯(ダービートライアル) 東京芝2000m 5月9日
皐月賞の惨敗後も、陣営の照準は日本ダービー(東京優駿)でした。
NHK杯に望みを託したのです。が、ここでもあのゲイルスポートが逃げに参戦し、皐月賞とまったく同じような展開となり、ハギノカムイオーは馬群に沈んでいきます。
結果は12着。またしても惨敗でした。そして、陣営はダービー出走を断念したのです。
この後、ハギノカムイオーは休養に入り、過熱したカムイオー人気も下火になっていきました。
秋のクラシック戦線へ
NHK杯から約5か月の時を経て、ハギノカムイオーがターフに戻ってきます。
照準は秋の菊花賞。GⅠ初制覇へ向けた戦いが始まりました。
神戸新聞杯 阪神芝2000m 10月3日
4歳秋の初戦は、神戸新聞杯。単勝3番人気。
やはり、春の時のような人気はありませんでした。
しかし、このレースには、日本ダービーの優勝馬、バンブーアトラスが出走しています。負けるわけにはいきません。
スタートから順調に逃げたハギノカムイオーは、他馬の追随を許さず、そのまま1着でゴールし、復活をアピールしたのでした。
京都新聞杯(菊花賞トライアル) 京都芝2000m 10月24日
菊花賞(GⅠ) 京都芝3000m 11月14日
ハギノカムイオー復活!
年が明けて1983年(昭和58年)、福島県の温泉で療養したハギノカムイオーは5歳になり、GⅠ初制覇に向け始動します。初戦はスワンステークス。
スワンステークス 京都芝1600m 5月15日
菊花賞でファンの期待を裏切り、散々な結果を残したまま再登場したハギノカムイオーを待っていたのは、意外にも、1番人気の本命という人気の高さでした。しかも、単枠指定のおまけつき。ハギノカムイオーはこれに見事応え、本来のスタイルである逃げ切りで1着ゴールインしたのです。このレースで、やはりスピード競馬には強いという印象を残したのでした。
このレースは母「イットー」も制しており、母子制覇の達成となりました。
宝塚記念 阪神芝2200m 6月5日
高松宮杯 中京芝2000m 6月26日
燃え尽きるまで
高松宮杯を制したハギノカムイオーは、療養後、オープン戦(東京芝 1800m 11月12日)に復帰します。しかし、ここで信じられない光景を目にすることになります。8頭立ての7着。平場のレースでいきなり惨敗をするのです。何が起きているのかわからないまま、ファンたちは次のレースを迎えることになります。
ジャパンカップ 東京芝2400m 11月27日
有馬記念 中山芝2500m 12月25日
ジャパンカップの悪夢から約1か月後、ハギノカムイオーは1983年のグランプリの舞台にいました。ファン投票第3位。あれだけのレースをしながらも、根強い人気がありました。
ハギノカムイオー引退
有馬記念の後、陣営はカムイオーの引退を決断。
伊藤調教師の「これ以上ファンの夢を壊したくありませんので」のコメントに、涙した人も多かったのではないでしょうか。
こうして、勝つか着外かの激しいレースをしたハギノカムイオーの競走馬人生はエンディングを迎え、ターフを後にし、種牡馬として第2の人生を歩むことになるのでした。
ありがとう、カムイオー
北海道・中村畜産で種牡馬生活をスタートしたハギノカムイオーですが、高額な(200万)種付け料の割には、産駒に恵まれませんでした。目立った成績を残す子供を輩出できないまま、2000年以降、種牡馬から功労馬へと隠居していきます。
そして、余生を送っていた本桐牧場で、2013年4月10日午前8時10分、34歳の生涯を閉じるのでした。
燦燦たる成績を残しながらも、引退後はたいしてマスコミに取り上げられることもなく、人間のエゴ社会から様々な洗礼を受け、揶揄されながらも、ただただ、懸命に走ることに生涯を掛けた、悲運の名馬ハギノカムイオー。お疲れさまでした。そして、感動をありがとう。
本桐牧場 馬房