柔道の基本理念、『柔よく剛を制す』
『柔よく剛を制す』
これは太公望が書き、神仙の黄石公が選録したとされる中国の兵法書『三略』上略篇に記載されている「柔能制剛、弱能制強」の句から来ている。
相手の力を巧みに利用すれば、小さい人でも大きい人を投げ飛ばすことができるとして、柔道の基本理念になっている。
だが、一流同士の戦いで軽量級・中量級の柔道家が、体格に勝る重量級の柔道家に勝つことは非常に難しく、近代柔道においてその事例は殆どない。
その『柔よく剛を制す』の実現に挑んだ古賀稔彦・吉田秀彦。
二人のオリンピック金メダリストが出場した体重無差別の全日本柔道選手権大会での活躍について紹介。
全日本柔道選手権大会は、体重や体格は関係なく真の強さだけを競い合い、たったひとりだけの“日本で一番強い”柔道家を決める大会である。
1990年『全日本柔道選手権大会』古賀稔彦vs小川直也
1990年、当時22歳の古賀稔彦は体重無差別の全日本柔道選手権大会に出場。
100キロ超の重量級選手が多く出場する大会に、75kg前後という軽量にもかかわらず挑戦し、マスコミからも大きな注目を浴びた。
「無謀だ」、「ケガをしたらどうする」という声も多かったが、古賀にとって柔道人生のなかで一度挑戦してみたい舞台だったという。
中学・高校時代は団体戦で自分より大きな選手を相手にするのは得意であり、逆に闘志が湧いたとも語っている。
試合には二回戦から出場し、その二回戦で体重135Kg、三回戦では体重120Kg、準々決勝では体重155Kg、準決勝では体重108Kgの重量級選手を相手に、すべて判定の優勢勝ちでまさかの決勝進出。
決勝で当時最重量級(95kg超)の世界チャンピオンで前年覇者である小川直也(当時の体重130Kg)と対戦した。
【決勝】古賀稔彦vs小川直也 試合内容と結末
準決勝までの試合時間は6分間だが、決勝戦は10分間。
決勝まで重量級の選手と戦い続けた古賀は疲労困憊であった。
体重差50Kg以上のハンデを乗り越え善戦するも、開始から4分を過ぎたころ小川に奥襟と左袖をつかまれ足車で一本負けを喫した。
敗れた古賀は畳の上で大の字になり涙した。

当時の新聞記事(サンケイスポーツ)
古賀稔彦が流した涙の理由とは
決勝で敗れたとはいえ、重量級相手に奮闘した古賀の活躍に会場は拍手喝采の大盛り上がりであった。
だが、古賀は自分自身の甘さを痛感し、許せなかったのだという。
小川に足車で投げられる直前、古賀は小川にとって有利な組み手を持たれた。
つかまれた左袖を切らなければならない場面だったが、肉体的・精神的な疲労から「これは切らなくても大丈夫かな。まあいいか」という考えが頭をよぎった。
その瞬間に古賀の身体が思いっ切り宙を舞った。
古賀の回顧によれば「柔道の試合で自分の体が宙に飛んだのはあれが生まれて初めて」だったという。
涙の理由は、一瞬でも「大丈夫かな」と自分に甘くなったために負けたことへの悔しさだったと古賀は後に明かしている。
また、「小川選手には『絶対に勝つ、負けられない』という恐ろしいほどの気迫があった。だが私は「挑戦してみるか」という安易な気持ちだった。既に勝負する前から心の部分で大きな差があったのだ。」と敗因を分析している。
小川直也にとっての古賀稔彦戦
小川は体重の軽い古賀が決勝まで上がってくると思わっていなかった。
だが、所属するJRAの監督である関勝治に「小さい相手ともよく練習しておけ」と言われ、古賀と同じくらいの体格の選手とよく練習していたことで、決勝ではスムーズに勝つことが出来たという。
決勝までの古賀の試合を見て、「古賀は大きい相手に対して、無理に投げようとせず、判定で勝つ作戦。だから自分も判定に持ち込まれたらマズイ。」と感じた。
「当時の重量級は技はあっても戦術がなかった。それが古賀を決勝まで行かせた一因でしょう。ならば僕は理詰めで古賀を倒そうと考えたんです。僕は準決勝までポンポンと勝ち上がってきて、古賀はいっぱいいっぱいで疲れている。だから、時間をうまく使いながら、相手を消耗させる作戦でしたね。体だけでなく、精神的にもきつい状態に追い込めば勝てると考えました。」と明かしている。
結果として、肉体的・精神的な疲労から古賀が「まあいいか」と組み手を許した一瞬のゆるみを逃さず足車で一本とった小川の作戦は見事に成功している。
この古賀との対戦は、負けられないプレッシャーは大きかったが日本武道館が超満員になって盛り上がり、柔道人生で忘れられない試合だと小川は述べている。
古賀稔彦と小川直也の関係性
古賀稔彦と小川直也は同級生。
国体では同じ東京代表に選ばれ、東京都の優勝に貢献した。
その後はともに日本代表となり励ましあってきた仲である。
小川は「古賀は世田谷学園で当時からスーパースターでした。『どんなヤツだろう』と実際に会ってみると、そんなに大きくない。『どこがすごいんだ?』と実際に試合を見ていると、先輩たちがいとも簡単に投げられてしまう。あんな小柄な人間に負けるわけにはいかない。柔道に本腰を入れたのは彼がいたからこそなんです。」と古賀の存在を語っている。
2008年8月10日放送のフジテレビ『ボクらの時代』では柔道経験者のロンドンブーツ1号・2号の田村亮を交えて仲良く対談している。

ボクらの時代「小川直也×古賀稔彦」対談
ともに出場した1987年柔道世界選手権。
古賀は優勝の大本命あったが重度のプレシャーもあり、残念ながら優勝を逃した。
一方の小川は、もともと補欠選手だったが正選手の怪我により急遽出場し19歳の最年少で優勝を果たした。
この時、古賀と小川はホテルで同室だった。
減量との闘いを続ける古賀をよそ目に、減量を気にしなくてよい最重量級の小川は外食から戻ってからもおにぎりを部屋に持ち帰り食べていた。
古賀は隣で寝たふりをして我慢していたと明かした。
小川が柔道からプロレスに転向したとき、各方面から様々なバッシングを浴びたが、古賀は『がんばれよ!』と励ましの手紙をくれたという。(古賀は手紙を出してことを覚えていなかった。)
古賀は「柔道やってるヤツが『あっち(プロレス)行ってなんだよ』って言うヤツがいるけれども。オレなんかは全然そんな事思わないで、仕事として行ったんだとしか思ってなかった。」と当時の気持ちを語っている。
小川と古賀の息子は共に柔道をやっており、全国高等学校柔道選手権の団体戦であたっている。
団体戦では小川の息子・雄勢が大将、古賀の男・颯人が先鋒だった為、直接対決は見られなかった。
小川「もっと演出考えて欲しかったな。(大将で)だせよ自分の子供をって。盛り上がったのに」
古賀「絶対、こっち(小川の息子)が勝つからイヤなの(笑)」
と息子同士の対戦について楽しそうに語った。
1994年『全日本柔道選手権大会』吉田秀彦vs小川直也
1994年の全日本柔道選手権、バルセロナ五輪78キロ級金メダルの吉田秀彦が参加。
吉田は1991年にも出場したがこの時は3位に終わっており、雪辱を果たす意気込みで臨んだ。
切れ味抜群の投げ技を武器に重量級相手に勝ち続け、1989年から5連覇中の小川直也と準決勝で対戦することになった。
吉田はバルセロナ五輪の頃より増量し、体重は86Kgであったがそれでも130Kg近い小川とは大きな体重差が存在していた。
バルセロナ五輪で先輩・古賀稔彦と共に金メダルを獲得し日本中から称賛された吉田秀彦と、優勝候補と言われながらも銀メダルに終わりマスコミや世間から激しいバッシングを受けた小川。
必然的に場内は吉田を応援するムードで染まっていた。
【準決勝】吉田秀彦vs小川直也 試合内容と結末。「マジかよ!」発言
吉田は重量級の小川を相手にしても序盤から積極的に攻撃を仕掛ける。
場内は吉田が仕掛けるたびに沸く。
自分よりもはるかに重い小川を投げで一瞬浮かせる驚異の身体能力をみせた。
だが、中盤以降は体格とパワーで勝る小川が攻勢にでる。
次第に吉田は防戦に追われて攻撃を仕掛ける機会は失われていった。
互いに有効なポイントがないまま、勝負は判定に。
副審の旗が赤・白に分れた後、主審の手は吉田に上がった。
この瞬間に、小川直也の大会6連覇は阻まれ、山下泰裕の持つ9連覇更新の夢も崩れ去った。

判定勝利に喜びを爆発させる吉田と、うなだれる小川
判定の旗が上がった瞬間の小川による「マジかよ!」発言は、今も語り草になっている。
吉田は試合後に「負けたと思った」と語ったという。
優勝候補の小川を破り、中量級による優勝が期待された吉田だったが決勝では重量級の金野潤に判定で敗れた。
2005年、吉田秀彦と小川直也は総合格闘技でも対戦

『PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI-』小川直也vs吉田秀彦
柔道からプロレスに転身した小川と、総合格闘技に転身した吉田は、2005年12月31日『PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI-』で対戦。
柔道時代より体重を落とした小川の体重は約115Kg、逆に増量した吉田の体重は約105Kgと体重差はかなり縮まっている。
ともに柔道で世界を制した日本人『柔道王』同士の戦いとして注目された。
また、小川と吉田には確執があるとスポーツ誌を中心にはやし立てられた。
吉田秀彦と小川直也、報道された確執の理由
明治大学時代、小川と吉田は先輩後輩の関係にあった。(吉田が二学年下)
報道された二人の確執理由としては以下のものがある。
【明治大学柔道部時代に吉田が反乱】
明大時代・小川直也主将が率いる柔道部の方針に、後輩の吉田が反発。上下関係が絶対の柔道界において許されない反乱だと小川は根に持っている。
【バルセロナオリンピックでの明暗】
バルセロナオリンピックで後輩・吉田が金メダルと獲得する一方で、先輩・小川は優勝候補ながら銀メダルに終わった。屈辱にまみれた小川にとって吉田の存在は目の上のたんこぶであった。
【恩師への態度に激怒】
吉田がプロ格闘家へ転向した時、柔道時代の恩師と距離を置き、この態度に対して小川が怒っている。
【Gacktやったぞ事件】
2004年の6月『PRIDE GRANDPRIX』で吉田はマークハントを下し、「ガクト(Gackt)~やったぞ~」と絶叫。同じくPRIDEに参加し控室に戻ってきた小川は「なんでマイクを握って最初に呼ぶのが知り合いの芸能人なんだ。まずは応援してくれたお客さんにお礼をいうのが普通だろ!」と語った。
【プロレス侮辱事件】
吉田は「PRIDEのリングは命がけの真剣の場。プロレスを持ち込んでほしくない」と小川を挑発。プロレスラーとしての誇りを持つ小川が激怒した。
これらと柔道時代の対戦を絡ませ、マスコミは『因縁の二人が対決』と大々的に報道。
PRIDE側も「これは競技会ではない、果たし合いだ」と煽った。
PRIDE 吉田秀彦vs小川直也の試合内容と結末
開始早々、二人の元柔道家は打撃戦を繰り広げる。
吉田は、打撃からの連携で、テイクダウン。小川の足を取って極めにいく。
一瞬、決まったかにみえたが、小川は吉田の顔面にパンチ一閃、このピンチを抜け出す。
周囲の誰も気が付かなかったが、実は試合後、小川自ら、このとき吉田に取られた左足首を骨折していたことを明かした。
吉田も「足がボキッといったのが分かった」と談話を残している。
だが、後輩・吉田相手に意地でも引けない小川は試合を続行。
攻守がめまぐるしく入れ替わるグランドの展開は、両者とも上のポジションを取ると、相手の顔面めがけ、ためらいも無く拳を振り下ろしていった。
もはや先輩後輩など関係ないグランド戦の応酬は、吉田が一瞬のスキを見逃さなかった。
上のポジションに付いた小川が吉田の顔面にパンチを連打。
その腕を取った吉田が腕ひしぎ逆十字固めを極める。
完全に腕が極まった状態だったが、ここでも先輩としての意地から小川はタップしない。
結局レフェリーが試合を止め1R6分4秒、吉田がTKOで勝利を収めた。
吉田は勝者のコールを受けた後、起き上がれない小川に声をかけにいった。
ようやく立ち上がった小川がマイクを取ると、吉田に向かって「最初に取られたところで、足が折れたわ。吉田~!オマエ、これからがんばれよ。ホントはよ。お前ともっとやりたかったけどよ。1分1秒な、大事にしたかったけどさ。俺の足もたなかったゴメン」とコメント。
吉田は小川に歩み寄り、リング内で抱擁をかわした。

決着後、抱擁をかわす小川と吉田
ただ、小川の「一緒にハッスルやってくれよ!でも、オレは足が動かねぇから、オマエがおぶってくれ」というワガママな要望には、さすがに吉田も「今日はいい試合でした、それはありがとうございます。でもハッスルは…自分は格闘家ですので、引退したときに、お願いします」と苦笑しながら、かわしていた。

古賀稔彦も来場
小川直也と吉田秀彦に実は因縁などなかった?
PRIDEの対戦時にさんざん報道された両者の確執や因縁だが、実はそんなものはないという説もある。
格闘家に転身する前の吉田は、小川が出場したプロレスの試合に「小川先輩の試合、もっと見たかったスねえ」などと嬉しそうに実況席で語っている。
小川も吉田がプロ転向を表明した時に「吉田をUFOに勧誘する」などと歓迎のコメントを残している。
また、柔道関係者からは二人の確執に関する具体的な証言が上がっていないことから、「大会を盛り上げるための双方合意の演出」であったともみられている。
2012年、ロンドン五輪で史上初の金メダル「0」の大惨敗に終わった柔道男子に関して、小川は「(新監督の)適任は吉田だろ。外の世界を知ってて経験豊富。あいつでいいんじゃないか。オレと違って柔道界に戻ったわけだし。」と東スポの取材に語っている。
古賀・吉田が残した『柔よく剛を制す』の夢
アテネと北京で金メダルを獲得した五輪連覇の内柴正人(66kg級)が二度『全日本柔道選手権』に挑戦したが、2005年・2009年とも初戦敗退であった。
アトランタ・シドニー・アテネと五輪3連覇を成し遂げた野村忠宏(60Kg級)は、『全日本柔道選手権』参加を辞退している。
全日本選手権出場辞退|柔道家・野村忠宏のブログ 『Nomura Style』
軽量級の内柴・野村にとって無差別級は、中量級の古賀・吉田よりもさらに不利な戦いである。
オリンピックを連覇・3連覇した猛者にとっても『全日本柔道選手権』で重量級を相手に活躍することはなかった。
このように柔道の『柔よく剛を制す』の実践は非常に難しい。
だが、世界選手権を4回も制した重量級の小川直也を相手に名試合を残し、体重無差別で戦う『全日本柔道選手権』優勝にあと一歩まで迫った古賀稔彦と吉田秀彦。
二人が残してくれた『柔よく剛を制す』の夢を託せる存在がまたいつか登場することを期待したい。