『鳥人』と呼ばれた棒高跳びの達人、セルゲイ・ブブカ

セルゲイ・ブブカ(Sergey Bubka)
幼い頃、両親が離婚し、ブブカは貧しい家庭で育った。
元々ソ連のスポーツ校で体操のクラスだったが、成績が伸び悩んだ時に、身体能力が優れていることを知っていたコーチが陸上競技を勧め、10歳の時に陸上競技に転向。
色々な陸上競技を試してみたところ、コーチのビタリー・ペトロフに体操の素地が活かせる棒高跳びの適性を見出される。
貧しい家庭で育ったブブカは、「一番高く飛び、一番高い車に乗って、一番いいアパートに住んでやろう」と心に誓った。
他の競技でも通用する圧倒的な身体能力
ブブカは、単に棒高跳びだけの練習だけでなく,100m走、重量あげ、体操と毛色の違うトレーニングを取り入れた。
「踏み切りまでは100m走と跳躍の選手。踏み切ってからは体操選手」
棒高跳びについてそう語っているブブカは、助走の練習として100m、バーを持って走るときの筋力として重量上げ、空中で体をひねるバランス力ために体操のトレーニングを導入し、何種類の筋肉を鍛えていた。
こうしたトレーニングによって培われた類稀な身体能力は他の競技でも通用するレベルまで到達していた。
非公式ながら100mを10秒2、走り幅跳びは8m20cm、走り高跳び2m12を記録したという。
どれも当時の日本なら五輪に出場できるレベルであった。
また、10種競技で8,000点以上(世界陸上の参加標準記録)を出したことがあるといわれている。
幼少から続けていた器械体操においても、つり輪や平行棒などの本職さながらの動きであった。

セルゲイ・ブブカの筋肉

卓越したボディコントロール
【世界陸上】第1回ヘルシンキ大会から第6回アテネ大会まで6連覇
1983年、ブブカが19歳で迎えた第1回世界陸上ヘルシンキ大会、 5m70で優勝。
これがブブカの『鳥人』伝説の始まりだった。
1987年 ローマ大会 優勝
1991年 東京大会 優勝
1993年 シュツットガルト大会 優勝
1995年 イエテボリ大会 優勝
1997年 アテネ大会 優勝
世界陸上において大会史上唯一となる同一種目6連覇の偉業を成し遂げる。
世界記録を35回更新、「ミスターセンチメートル」と呼ばれた。
ブブカは1㎝単位で少しずつ世界記録を更新していくことで有名だった。
屋外17回、室内18回、合計35回も世界記録を更新している。
そのため、「ミスターセンチメートル」と揶揄する声もあった。
これは国や世界陸連、スポンサーから貰える「世界記録更新ボーナス」の為だったという。
貧しい家庭で育ったブブカにとって、棒高跳びでいかに稼ぐかは真っ当な手段であり、「僕が持っているものは、すべて努力によって手に入れた。」と自身で獲得した富と名声に対して、胸を張っている。
【最終的に保持していた世界記録】
棒高跳び(屋外) 6m14cm (室内) 6m15cm
これは歩道橋の高さを超えている。
練習中に6m20を跳んだとか6m50を跳んだとか、挙句の果てには7mを跳んだという噂もあった。
だが、全盛期のブブカが本気を出せばどれだけ高く跳べたのかは誰にもわからない。

6m08の世界記録を達成した時のセルゲイ・ブブカ
オリンピックとの相性は悪かったブブカ。
ソ連がボイコットし不参加だったロサンゼルスオリンピック
1984年のロサンゼルスオリンピックは、前回1980年のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットした報復措置の影響でソ連がボイコット。
世界王者として臨むはずだったブブカの出場は叶わなかった。
大苦戦の末に金メダルを手にしたソウルオリンピック
1988年ソウルオリンピック。
当時24歳だった棒高跳びセルゲイ・ブブカは世界でただ一人、6m超えの記録を持つ、金メダルの大本命。
米ソ冷戦のこの時代、アメリカとメダル争いを繰り広げるソビエト連邦にとって、ブブカは絶対に金メダルを取らなくてはいけない存在であった。
ブブカは5m70をクリアすると、75、80、85を連続パス。
次に跳んだのは5m90。
風はなく、最高のコンディションだったが、1回目、2回目はまさかの失敗。
そして失敗が許されない3回目の跳躍。
誰よりも早い助走で加速したブブカは高く宙に舞った。
そして、悲願のオリンピック金メダルを獲得。
このときは自身が持つ6m06の世界記録更新を棄権している。
決勝記録なしに終わったバルセロナオリンピック
5m70からブブカは跳び始めた。
当時6m11の世界記録を持っていたブブカにとっては楽に跳べて当然の高さであった。
だが、タイミングが合わず、1回目はバーを足で落とし、2回目も体が十分に越えていながら落下の際に胸がバーに触れて失敗。
ブブカは気持ちを落ち着かせるために3回目をパスして5メートル75への挑戦に切り替えた。
しかし、結果はまたも失敗。
最も金メダルに近い男といわれた鳥人ブブカは、一度もバーを越えることなく決勝記録なしに終わった。
予選で棄権したアトランタオリンピック
ブブカは6m14の圧倒的な世界記録保持者として参加。
しかし、両足のアキレス腱に痛みを抱えたブブカは予選で棄権。
はだしのまま競技場を後にした。
最後のオリンピックとなったシドニーオリンピック
36歳のブブカは2000年、4度目のオリンピックとしてシドニーに参加。
だが、度重なるアキレス腱の故障に苦しみ、手術とリハビリを繰り返してきたブブカに『鳥人』と呼ばれたころの力強いジャンプは戻っていなかった。
全盛期なら慣らし程度の5m70。
しかし一回目はタイミングが合わず、バーの下を走り抜けた。
二回目、体が上がったものの、空中でバーを引っ掛けてしまう。
そして三回目、今度は体が上がらなかった。
記録なしで予選落ち。
鳥人と呼ばれた男、セルゲイ・ブブカはこのシドニーオリンピックを最後に引退した。
引退後、現在までのセルゲイ・ブブカ
引退後は、故郷ウクライナに「ブブカ・スポーツクラブ」を設立したほか孤児施設に通うなど、 貧困下で精力的に慈善活動をおこなっている。
2000年9月、IOC(国際オリンピック委員会)の理事に選出、 2012年の再選を受けて4期目を務めている。
2005年よりウクライナオリンピック委員会会長も務めている。
2007年8月よりIAAF(国際陸上競技連盟)の副会長を務め、2011年に再選を受けて2期目を務めている

現在のセルゲイ・ブブカ
息子はプロテニスプレーヤー
次男のセルゲイ・ブブカ・ジュニアはプロテニスプレーヤーで、2009年の島津全日本室内テニス選手権大会に優勝している。

セルゲイ・ブブカ・ジュニア
TBSの石井大裕アナウンサーはジュニアのテニスプレイヤーだった時代に、ブブカ・ジュニアとダブルスのパートナーであった。
「(ブブカ・ジュニアに)雑誌のBUBKAを渡したこともあります」と明かしている。
2012年、パリにある友人宅のアパートの窓から転落。
複数箇所を骨折する重傷を負い、命に別状はなかったが『鳥人ブブカの息子は空を飛べない』などとニュースになってしまう。
2014年、不可能と言われていたブブカの記録が破られる。
陸上男子棒高跳びでロンドン五輪金メダリストのルノー・ラビレニ(フランス)が2014年2月15日、ウクライナのドネツクで行われた室内競技会で6メートル16の室内世界新記録を樹立。
「鳥人」と呼ばれたセルゲイ・ブブカの故郷で、二度と破れらることがないと言われた世界記録を21年ぶりに更新した。
ルノー・ラビレニが出した6m16cmは室内大会での記録である。
だが、IAAF(国際陸上競技連盟)が検討した結果、屋内外合わせての世界新記録となった。
陸上競技では室内と屋外では風など大きな影響があるため、通常は別々の記録とされる。
だが、前世界記録保持者のブブカの記録が屋内外で1cmの違いしかないことから「棒高跳びにおいては記録を統一しても影響はない」となり今回のルノー・ラビレニの記録は統一記録になった。
記録を破られてなお、ブブカがいかに大きな存在であることが改めて示された。