1984年~1996年まで、広島の若大将として、チームを引っ張ってきた選手である。あの名選手、山本浩二の引退後に後継者として期待され、ルーキー初年度からクリーンナップを任された。チャンスに強く、1987年には最多勝利打点のタイトルを取るほどの活躍ぶりでした。そんな小早川の、現役から今までの軌跡をご紹介します。
赤ヘルの新人王!小早川毅彦の記録
小早川毅彦(こばやかわ たけひこ)
小早川毅彦の獲得タイトル・主な表彰と記録
・ 最多勝利打点:1回(1987年)
・ 新人王(1984年)
・ 月間MVP:1回(1987年6月)
・ オールスターゲーム出場:2回(1984年、1987年)
小早川毅彦のプレースタイル
記憶に残る4番打者
生涯打率.273、本塁打も171本と、決して凄い選手とはいえないでしょう。安打数も現役生活16年で1093安打と、はっきりと言って普通ですね。
そんな選手がなぜ、こんなにみんなの記憶に残るのでしょう。広島東洋カープの4番打者と言えば山本浩二、衣笠祥雄につぐ小早川毅彦と名を連ねるでしょう。
それだけ、みんなの記憶に残るプレーをする選手だったということです。
小早川毅彦の生い立ちとプロ入りまで
広島東洋カープに入り、1980年代の4番として活躍!!
法政大学時代に三冠王をとるなど、周囲の期待はすごかった。
1983年にドラフト2位で入団後、長内を押しのけていきなりクリーンナップを任せられることになる。その年の1984年のシーズンには新人王を獲ることになり、パワーもあるしチャンスにも強いと山本浩二の後継者として期待されていた。
しかしその期待とは裏腹に、足は遅く内野安打は少ないいことから、普段の成績は悪かった・・・・。
入団当初の1984年から1990年代に入るまでは赤ヘルの4番として君臨していたが、1990年代に入ってからはファースト争いが白熱してきたことからも加えて、控え選手としての出番が増えてきた。
怪物、江川卓が引退を決めた小早川毅彦の一打席!
1987年9月20日 小早川毅彦が怪物、江川卓からサヨナラ本塁打を放つ!その一球が江川に引導を渡すものとなったことは有名な話です。
広島カープからヤクルトに移籍・・・。そこでも。
広島を自由契約となる、1996年度のシーズンはわずか8試合の出場と打席数も8打席と、前田智徳など後輩の活躍が目立ってきたこともあって出番が無くなってきた。
広島在籍13年で広島を去ることになりました。
広島東洋カープを自由契約となった小早川毅彦を、ヤクルトスワローズ野村監督が拾ってくれる。
そこで野村監督から一言「お前は大学で1年から4番、プロで新人王、だから移籍一年目も必ずやれる」と言われ、5番スタメンに抜擢されるのです。
当時の相手投手は、3年連続開幕戦完封勝利をあげる斎藤雅樹投手。なんと、その球界一の投手から、3打席連続本塁打を放つのです。
野村再生工場はここまですごいのか。それとも、小早川毅彦の心機一転パワーがすごいのか。どちらにしても素晴らしいことです。
その年、見事復活を果たした小早川はヤクルトのリーグ優勝。日本一に貢献するのである。
その3年後の1999年、20世紀最後のシーズンを期に、現役の幕を下ろすのであった。
小早川毅彦の口コミ♪
今も、あの頃のベストメンバーと言えば、小早川と話題になるほどです。
そんな集中力の強者が本も出しております。
一振りで、流れを持ってくる力を持っている小早川毅彦だからこそ、この本は説得力があります。
この本を読んで、ここぞとばかりの極意を学んでみてはいかがでしょうか。
引退後の小早川毅彦はどうした♪どうした♪どうした♪
記憶の選手、小早川毅彦はこんな人物です。
赤ヘルの若大将!小早川毅彦を振り返って!!
赤ヘルの若大将は、心機一転で奮起を奮い立たせるタイプのようです。大学での4年間、広島カープでの5年間、ヤクルトスワローズでの2年間と、最初の年はすごく成績が顕著によくなっているようです。
全体的にプロの成績はパッとした成績ではありませんが、やはり、ここぞ!と言う時の打撃能力は良かったので、記憶に残る選手になれたのでしょう。
みんなが苦手な投手からはばっちりと打てた選手で、単年度でいろいろ変わると活躍し続けるタイプかもしれません。そんな小早川毅彦の今後の活躍に注目したいと思います。
余談ですが、結婚も実は離婚しているのです。。。