初試合は16歳のときだった。
黒いトランクス、規定のヘッドギアとグローブ、「カーター・モーガン・ボクシングチーム」と入ったタンクトップを身につけた67㎏のイベンダー・ホリフィールドは、ロープをくぐってリングに上がり、1R KO勝ち。
その後、数試合、相手を次々と片づけて、準決勝に進出。
相手のジャッキー・ウィンターズをみたとき、
「自分より大きくない。
ソワソワして自信がなさそう」
と思った。
1、2ラウンドとポイントで上回り、順調だったが、3ラウンド、一瞬、前触れもなく頭の横で大きな音がして、衝撃を感じると共に倒れていく自分をどうしようもできずにダウン。
レフリーは、腕を振りながらカウント。
カーター・モーガンは、ロープをつかみながら大声で
「立て!
根性をみせてやれ!
グローブを上げろ!
明日はないぞ!
立つんだ!
起きろォー!!」
イベンダー・ホリフィールドはノロノロと動き始め、やがて力強く立ち上がった。
ジャッキー・ウィンターズはトドメを刺そうと襲いかかり、ガードを固めるイベンダー・ホリフィールドと交錯。
クリンチ状態になり、イベンダー・ホリフィールドはマウスピースを吐き出して相手の肩を噛んだ。
ジャッキー・ウィンターズは、その痛さでクリンチを解いて後退。
ここでゴングが鳴った。
イベンダー・ホリフィールドは足を引きずりながら自陣のコーナーへ戻り、イスに座り、下を向いた。
(ヤロウ、見かけよりタフだな)
ジャッキー・ウィンターズのパンチより自分が初めてダウンをしたという事実の方がショックだった。
そして
(自分が最も嫌っている他人の行動を自分もやってしまった。
愚かだ)
と相手を外見だけで判断してしまったことを悔やんだ。
カーター・モーガンは、下を向いて物思いにふけるボクサーをみて
(自分のことや自分の評判のことばかり考えて試合のことを考えていない。
自分を憐れむのがすべての大失敗の原因だ)
と思い、気合を入れた。
「済んだことは済んだことだ。
考えるな。
先のことに目を向けろ。
問題は今だ。
次のラウンドなんだ。
明日はないんだ!
自信がないんならいくら考えたって仕方がない。
信念を持てば何も考えることはないんだ。
行け!
やっちまえ」
イベンダー・ホリフィールドはスッキリした顔で力強くうなずいた。
その後、試合は一進一退。
イベンダー・ホリフィールドは足元がフラついて判断が狂うのは初めてだったが、勇気と粘りを発揮して戦い抜いた。
そしてスプリット(ジャッジによって勝敗が分かれた)で判定勝利。
イベンダー・ホリフィールドといえば
「決してあきらめないボクサー」
として有名だが、初ダウンを喫したこの試合が、そのデビュー戦となった。
この頃、家は、多くの兄や姉が出ていき、祖母、母親、兄のバーナードと4人暮らしだった。
そしてバーナードも高校卒業後、陸軍に入隊したため、家が3人になるとイベンダー・ホリフィールドは、自分の部屋を手に入れた。
準決勝同様、決勝戦の相手、ロックデール群のセシル・コリンズも強敵にはみえなかったが、イベンダー・ホリフィールドは、
「何事も何物も何人も見かけ通りに受け取らない」
と慎重に心をコントロールしつつ、自信満々で試合に挑んだ。
1R、ゴングと共に2人は中央で激突し、ラウンド終了まであまり動かずに打ち合って好勝負を展開。
ジャッジのポイントは全く互角だった。
2R、イベンダー・ホリフィールドは、一気に出て懐に入って、大きなフックでセシル・コリンズをフラつかせた。
その手応えに満足し、間を置いた瞬間、セシル・コリンズがよろめきながら放ったフックをアゴにもらった。
これまで1発で決め、打ち返されたことがなかった自分のパンチが利かなかったことにショックを受けたイベンダー・ホリフィールドは、ラウンドが終わってコーナーに戻るとカーター・モーガンに
「アイツ、殴ったら殴り返してきました!」
「そうだな。
ようこそ、ボクシングへってなもんよ。
ところでやっつる気はあるのか?
あの白いヤツに勝たせる気か。
行け。
ヒドい目にあわせてこい」
3R、イベンダー・ホリフィールドは突進。
相手の腹に1発入れると、セシル・コリンズも打ち返してきた。
乱打すれば乱打され、パンチの応酬が続き、イベンダー・ホリフィールドはたまりにたまった欲求不満が爆発。
セシル・コリンズを抱えてリングに放り投げてしまった。
かけつけたレフリーは2人を引き離し、イベンダー・ホリフィールドに
「失格」
と言い渡し、セシル・コリンズの手を上げて勝利を宣言。
コーナーに戻ったイベンダー・ホリフィールドに、カーター・モーガンが
「何やってるんだ!」
と怒ると
「ヒドい目にあわせてこいっていったでしょ?」
セシル・コリンズとの再試合が決まるとイベンダー・ホリフィールドは
「汚名をそそぐ」
と勝利の決意を新たにしたが、結果は判定負け。
イベンダー・ホリフィールドは泣きそうになり、子供の頃、自分に殴られて泣いた相手の気持ちが初めてわかった。
カーター・モーガンは、
「世の中、タダのものはないんだ。
何かを手に入れたかったら、それに代わるものがいる。
どうしても欲しければ、それに見合うことをするんだ。
お前はコリンズに勝ちたいんだろ?
それなら努力しないといかん。
努力してこそ褒美があるんだ」
これ以上、どうしたらいいかわからなかったイベンダー・ホリフィールドは、その言葉を聞いて、
「この窮地から自分を救い出せるのは自分しかない。
最大の障害は自分だ」
と気づいた。
「人間は不思議なことに、良くなるとわかっていながら、それをしようとしない。
苦しいことが良い結果をもたらすとわかっていても、何とかしてその不快さを逃れようとする
世界チャンピオンになるためには、まずよりはるかに困難なこと、すなわち自分を征服しなければならない。
自分を征服することは世界チャンピオンになるより難しく、自分を征服してこそ、チャンピオンになれる」
悟ったイベンダー・ホリフィールドは、より練習の虫と化した。
早朝のランニング、高校の授業、ボクシングの練習と肉体的トレーニング。
1日が終わって体を休めるときも心は戦わなければならなかった。
深夜、自分の部屋で1人でいると勝ち名乗りを受けるセシル・コリンズの姿が浮かんでくる。
心は何度も敗北のシーンを再現し、答えのない疑問を繰り返し、一種の不眠症となった。
何度も記憶を巻き戻し、勝利の手がかりを漁る中、祖母が教えてくれた旧約聖書のダビデとゴリアテの戦いの話も思い出した。
それは10代の羊飼いの少年、ダビデは、自分の鎧や兜を貸してやろうといいう王様の申し出を辞退し、石投げ器と5つの滑らかな石、羊飼いの杖を持って、鎧と槍と剣と盾を身につけた巨人、ゴリアテと対峙。
そして素早くゴリアテに向かって走り、石投げ器の石1発でゴリアテを倒した。
イベンダー・ホリフィールドは無意識に妨げとなる雑音を締め出し、自分がやるべきことに集中しようとした。
相変わらず毎朝、走って、高校に行き、ゴリアテに勝つためにボクシングの練習をするという生活が続いたが、徐々に強がりが消え、熱くも賢明で謙虚な姿勢でボクシングができるようになった。
セシル・コリンズとの3戦目は、またもや打ち合いになった。
「心が『2度の敗北で被った痛手を思い出せ』とささやいたが耳を貸さなかった。
心の中の不安には耳を貸さず、理性を失うこともなかったし、今しなければならないこと以外に気を散らすこともなかった。
精神力、魂が導くがままに任せた」
というイベンダー・ホリフィールドは強気で勝負。
連打と強打の応酬となって互角の展開のまま終わったが、イベンダー・ホリフィールドが判定で勝った。
「肌の色で人を判断してはいけない。
外見をみただけでは、その人がどれほどタフなのかわからない。
外見で決めつけると痛い目にあうことになる。
私の腕はセシルより太い。
ヤツの肌は白い。
目はちょっと寄り目だ。
こんなのチョロい。
そんな私の思いとは裏腹に彼は私を2度も負かした。
本当にタフそうなヤツが大したことなくて問題にならないと思ったヤツがすごい勝負をするのを、私は何度も経験している。
人は外見で判断してはいけない。
外見や肌の色に関係なく、人は誰でも尊敬に値し、いつか親友や同僚になるかもしれないのだから」
16歳のイベンダー・ホリフィールドは、リージョナル(地域)ディビジョンを制し、ステート(州)ディビジョンが次の目標となった。
が、直後、カーター・モーガンが肺気腫によって入院。
息子で助手だったテッド・モーガンが代役を務めた。
やがてカーター・モーガンはジムに戻ってきて数回、イベンダー・ホリフィールドの指導を行ったが、その後、亡くなってしまった。
8年間、人生の半分の間、ボクシングを教えてくれたカーター・モーガンの死にイベンダー・ホリフィールドは激しく動揺した。
「モーガンさんがいなくなってどうして続けていったらいい?
モーガンさんなしにボクシングなんてできない。
もう終わりだ」
自暴自棄になり、一時は闘志を失ったが、
「明日はない」
という口癖を何度も思い出すうちにボクシングをやめることはカーター・モーガンを侮辱することになるように思え、気持ちを改めた。
「トレーニングしなきゃ。
今やめたら、これまでの自分の8年間学んだことが無駄になるし、ここで頑張らないとモーガンさんの努力も無になってしまう」
高校卒業後、アトランタのエップス空港に就職した。
朝4時に起きて仕事前にジョギングし、実家から空港に通勤し、自家用飛行機の給油の仕事を行い、夜はボクシングとトレーニング、休むのは日曜日だけという生活を続けた。
リージョナル(地域)ディビジョンとステート(州)ディビジョンの試合を確実勝ち続け、それを観に来た同僚、デビッドの
「すごい!」
という口コミが職場に広がって
「チャンプ」
と呼ばれるようになり、会社から支給される制服にも「チャンプ」と刺繍されるようになった。
ある日、仕事が終わって家に帰ったイベンダー・ホリフィールドが着替えるために押入れを開けるとワイシャツとスラックスがなくなっていた。
犯人は、すぐにわかった。
1人暮らしをしている長兄のジェームズが実家に帰ってくるといつも衣類を持って帰っていたからである。
怒ったイベンダー・ホリフィールドが母親に訴えると、
「兄弟なら分け合わないと・・・」
といわれ、
「分け合う?
アイツは勝手に欲しいものを持っていくんだ。
そんなの分け合うとは・・・」
とさらに声を荒立てたが、途中で口を閉じた。
母親に盾つくのはホリフィールド家では絶対に御法度だったからである。
おまけにホウキで叩こうとする母親を反射的にボクシングの動きでかわしてしまった。
さらに怒った母親は、再度、息子に向かってホウキを振り
、イベンダー・ホリフィールドは、それを受けた。
「この家のやり方に従えないなら、お前は家を出るときが来たのだろう」
母親にいわれ、イベンダー・ホリフィールドは、すぐに部屋に戻って荷物をまとめ、友人の部屋に転がり込んだ。
ある日、イベンダー・ホリフィールドは、50歳を過ぎた空港の先輩社員の給料を知って、驚いた。
その先輩社員の勤続年数、経験、資格と見合っているとは思えなかったのである。
「もっと頑張らないと・・」
ボクシングをするのにお金がかかるイベンダー・ホリフィールドは、以前、ボーイズクラブで取得した人命救助の資格を使って、週末だけトマスビルコミュニティープールで監視員の仕事をした。
プール監視員は、監視用の高い椅子に座って、プールの中と周辺の危険を少しも見落とせない緊張感のある職務だったが、普段、ボクシングしているイベンダー・ホリフィールドにとっては平穏な仕事だった。
そんな平和な雰囲気の中、女友達と一緒に遊びにきている。カラメル色の肌をした美人を発見。
イベンダー・ホリフィールドは、そばを通って、目が合えば微笑み、ナンパ男が群がり、彼女がそれを楽しんでいるのをヤキモキしながら見守った。
やがてイベンダー・ホリフィールドとポートレット・ガーデンは言葉を交わすようになり、その夏のうちに交際を始めた。
イベンダー・ホリフィールドにとって初めての彼女で、孤独な鍛錬の日々に現れたオアシスにように心が満たされた。
愛の戦士となり、1982年の州南東部地区大会で勝ち続けたイベンダー・ホリフィールドの次の目標は、インディアナポリス(インディアナ州中央部に位置する都市)で行われるアマチュアボクシング・フェデレーション・ナショナル(全米選手権大会)だった。
1戦目、2戦目は楽勝したが、ロニー・ヒューズ戦で判定負け。
「技術では負けていなかった。
敗北の原因は、スタミナ切れだっだ」
イベンダー・ホリフィールドは、トレーニング量を増やして時間を有効利用するためにスケジュール表を作成。
早朝ランニング、仕事、ウエイトトレーニング、ボクシングというこれまでのスケジュールに追加項目を書込み、上に
「実行」
と書いた。
ウエイトトレーニングのパワートレーニングのメニューを取り入れ、ボクシングの練習の後に1日300回の腕立て伏せを行い、生卵、牛乳、ハチミツを混ぜた「ロッキードリンク」を飲み始めた。
フェデレーション・ナショナル(全米選手権大会)と共に権威を持つナショナル・ゴールデングローブ大会(全米オープントーナメント)を目標に、遊ぶのはポートレットとファストフードを食べに行くくらいで、後は仕事かボクシングかジムでバーベルを挙げた。
ゴールデン グローブは、アメリカ最大のアマチュアボクシング大会で各地でトーナメントによる地方予選を行われ、勝ち上がれば、マジソン・スクエア・ガーデンで行われる全国大会に進出できる。
イベンダー・ホリフィールドは、ウォームアップとして小さな大会に出場した後、ナショナル・ゴールデングローブ大会で、世界ランキング1位のシャーマン・グリフィンと対戦。
ランキングに入っていないイベンダー・ホリフィールドは、第1ラウンド、第2ラウンド、第3ラウンドと各ラウンドで1回ずつダウンを奪った。
レフリーは、うち1つをスリップと判断したが、自分は1度も倒れることなく試合が終了。
イベンダー・ホリフィールドは、勝利を確信していたが、5人のジャッジの判定は割れ、レフリーはシャーマン・グリフィンの手を挙げて勝者とした。
会場はブーイングが起こって大混乱に陥り、翌日の新聞にも取り上げられた。
イベンダー・ホリフィールドは、
「ナショナルタイトルを強奪された!」
と思ったものの、まったく抗議はせず
「ノックダウンが十分でないならノックダウンの仕方を学ばなければならない」
とさらに一撃必殺の拳を磨くことを誓った。
1983年4月、キューバとの対抗戦に出るのアメリカ代表選手が負傷したため、イベンダーホリフィールドは代役としてコロラド州のオリンピックトレーニングセンターから招聘された。
この全国的に認められるチャンスにキューバ人選手との苛烈な試合を行い、勝ったと思ったが判定負け。
イベンダー・ホリフィールドは、機会を与えられたことに感謝し、潔く受け入れたが、勇猛果敢な戦いぶりが、オリンピックコーチ、ルーズベルト・サンダースの目に止まった。
「オイッ、お前、ファイターだな。
ランカーになれるぜ。
もう1回チャンスをやろう。
パン・アメリカン大会(Pan American Games、4年に1度開催される総合競技大会)だ。
お前をトレーニングキャンプに連れてっいてどれくらいやれるかみてやる。
だが負けたら家に帰る。
わかったな?」
イベンダー・ホリフィールドはうなずいた。
「きっと勝てる。
でももし勝てなかったら家に帰るんだ」
ルーズベルト・サンダースは念を押した。
ミズーリ州東部、セントルイスで行われたスポーツフェスティバルが、パン・アメリカン大会出場のテストとなった。
イベンダー・ホリフィールドは、以前に負けているシャーマン・グリフィン、ロニー・ヒューズと
「1発見舞ってやる」
と意気込んで対戦し、勝利。
次の相手は、世界ランキング1位のリッキー・ウォマックス。
おまけにトレーナーにエマニュエル・スチュワードがついていた。
自身、10代でボクシングを始め、ナショナルゴールデングローブ、バンタム級トーナメントで優勝。
経済的理由からプロの道は諦め、働きながらクロンク・ボクシングジム(Kronk Boxing Gym)で指導を始め、1980年に初めてヒルマー・ケンティを世界チャンピオンになり、その後も「ヒットマン」トーマス・ハーンズをはじめ複数の世界チャンピオンを輩出しているトレーナーだった。
シャーマン・グリフィンとロニー・ヒューズにリベンジを果たし、少し満足していたイベンダー・ホリフィールドは、あまりに豪華な肩書とセコンドを持つ相手に、
「不公平じゃないか」
と心の中で毒づいた。
第1戦、リッキー・ウォマックスに負けたイベンダー・ホリフィールドは、第2戦の棄権を真剣に考え、ルーズベルト・サンダースに電話。
「明日、試合できるかどうかわからないんです。
腕を痛めたんで・・・」
とウソを混ぜて報告したが
「ダメだ!
弁解するな!
腕が痛かったらもう一方でやれ!」
と怒鳴られた。
(そう簡単にやめられそうにない)
しかしイベンダー・ホリフィールドは、すでに勝つ自信も勝とうとする気持ちも失っていた。
どうしていいかわからず、ベッドから起き上がり、膝まづいて祈った。
すると迷いは消えた。
「神は自分をボクサーとして創造された。
ここで断念すれば全能の神に唾を吐くことになる」
興奮して立ち上がったとき、イベンダー・ホリフィールドは挑戦者の顔になっていた。
祈りは、この後もイベンダー・ホリフィールドの武器となった。
「すべてのボクサーが懐疑と倦怠に遭遇することから免れない。
それと戦う有力な武器がお祈りだ。
この超自然的な力が勝利と成功には絶対に欠かせない」
第2戦、第1R、イベンダー・ホリフィールドは突進し、明らかに打ち勝った。
第2ラウンドは、リッキー・ウォマックスに主導権を取り戻され、疲労困憊で自コーナーに戻り、イスに座ると、ひどい疲労を感じ、もう戦う気がしなかった。
第3ラウンド開始早々、気のないパンチを出すイベンダー・ホリフィールドを、リッキー・ウォマックスがコーナーに追い詰め、連打から強烈なパンチを頭部にヒットさせた。
疲れ切っていたイベンダー・ホリフィールドが、
(チャンスだ。
これで倒れれば試合が終わる)
と思ったが、前のめりになった瞬間、鼻にリッキー・ウォマックスの頭突きをもらった。
おそらく故意の頭突き(反則)で、イベンダー・ホリフィールドの疲労は激しい怒りによって消え失せ、猛烈なパンチを打ち返した。
リッキー・ウォマックスは、怒りのパンチを受けて、後退。
イベンダー・ホリフィールドは追い、数秒前には自分が追い詰められた場所にリッキー・ウォマックスを追い詰め、すさまじいパンチで圧倒。
一気に形勢は逆転し、そのままゴングが鳴り、イベンダー・ホリフィールドは、勝者となり、初めて全米ナンバーワンの称号を手に入れた。
「まずボクシングをやめることを許さなかった神に感謝した。
これ以上ないところまで落ち込んで不安と疲労を正面から見つめ、それからどれほどそれを克服したかを発見する。
ボクシングとは何かを示す瞬間だった」
リッキー・ウォマックスが繰り出した頭突きさえ、
「神が最善を尽くせと励ましてくれた手段」
といった。
パン・アメリカン大会出場の選考試合に勝利したイベンダー・ホリフィールドは、1度、ジョージア州へ戻り、ゴールデングローブ大会に出場するためにコロラド州、オリンピックトレーニングセンターへ。
ここで初めてマイク・タイソンに会った。
マイク・タイソンは、イベンダー・ホリフィールドより4歳下だが、歩んできた人生は対照的だが、ボクシングに対する姿勢は非常に似ていた。
イベンダー・ホリフィールドが田舎で生まれ育ったが、マイク・タイソンは、ニューヨーク生まれ。
黒人男性の平均寿命が25歳というアメリカ最悪のゲットー(Ghetto)、ブルックリン地区ブロンズビルのアンヴォイ通りにある集合住宅の2階で育った。
イベンダー・ホリフィールドは、アメリカンフットボールとボクシングをしながら小中と通い、高校からはボクシング1本に絞って、毎朝、走って、学校に行き、ボクシングの練習をするという生活が続けた。
マイク・タイソンは、小学校から学校にいかず、9~12歳の間に51回も逮捕され、13歳でニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監された。
そこで75㎏くらいの白人教官がボクシングを教えていて、マイク・タイソンは
「ボクサーになりたいんだ」
と頼み、1ヵ月後、許可が出て練習場にいくと
(やっと叩きのめせる)
と思いながら白人警官にスパーリングを申し込んだ。
そして打って、打って、打ちまくったがパンチはかすりもせず、わきをすり抜けられてボディにパンチをめり込ませられて呼吸困難になり、倒れ、吐いた。
「このまま息ができず、死んでしまうんじゃないかと本気で思った」
白人教官、ボビー・スチュワートは、アメリカゴールデン・グローブ大会ライトヘビー級で優勝した事のある元アマチュアボクサーだった。
その後、マイク・タイソンは、ボクシングを教わり、部屋に戻ってもずっと1人でシャドーボクシング。
ある週末、
「お前を伝説のボクシング・トレーナーのところに連れていってやる」
といわれ、ボビー・スチュワートの車に乗って少年院から南へ80kmのニューヨーク、キャッツキルへ。
そして町の警察署の上にあったジムで71歳のカス・ダマトに引き合わされた。
カス・ダマトはニューヨークでイタリア系移民の子として生まれ、幼少の頃にボクシングと出会い、街ではストリートファイトを繰り返し、12歳のとき、24歳の男とケンカをして凶器で殴られ片目の視力を失った。
22歳でマンハッタン14丁目のユニオン・スクウェアの近くにあったグラマシー・ジムでコーチを始めたとき、すでに白髪で、残った片目も色盲だった。
ボビー・スチュワートとマイク・タイソンのスパーリングをみて、カス・ダマトは
「未来の世界ヘビー級チャンピオンだな」
といった。
マイク・タイソンは、その後、毎週末、カス・ダマトのところで練習。
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ。
打たれなければ試合に勝つからだ」
というカス・ダマトが教えるスタイルはオーソドックスではなかった。
通常、右利きならば左の腰と肩を前に出して、相手に対して斜めに構えるが、両脇をしめて両腕でボディと顔面をガードして、相手とほぼ正面に向き合って、頭を振って相手のパンチをかわして、飛び込んでパンチを叩き込むというピーカブー(Peekaboo、いないいないばあ)スタイルだった。
14歳になり仮退院になると、マイク・タイソンはカス・ダマトの家に住み、週7日、トレーニング。
腹筋は50回もできず、腕立て伏せも13回しか出来なかったが、カス・ダマトに
「Never Say Can't(できないっていうな)!!」
といわれ続けた結果、腹筋2000回、腕立て伏せ500回を毎日こなすようになった。
イベンダー・ホリフィールドは、高校卒業後、アトランタのエップス空港に就職。
朝4時に起きてジョギングし、実家から空港に通勤し、自家用飛行機の給油の仕事を行い、夜はボクシングとトレーニング、休むのは日曜日だけという生活を続けていたが、さらに日曜日もプール監視員のアルバイトを行い、ポーレット・ガーデンと出会って同棲を始めた。
一方、マイク・タイソンは、スポンサーがいてボクシングに専念。
あまりにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労したが、マイク・タイソンは20オンスという大きなグローブ、スパーリングパートナーは14オンスを着用し、週給1000ドル(約10万円)という賃金は、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した。
ボクシング界きっての篤志家であるビル・ケイトンは、マイク・タイソンのビジネスやマネージメントを担当。
ジム・ジェイコブスは、26000本ものボクシングフィルムを所有し、古今東西のボクサーを研究するマニアで、カス・ダマトとは古くから知り合いで協力者でマイク・タイソンを様々な面でサポートした。
「自分がそのファイターをAといい、ダマトがBといえば、そのファイターはBになってしまう。
ダマトは『マイク・タイソンこそ世界ヘビー級チャンピオンになる男だ』といった。
私はその考えに従うだけだ」
2人ともボクシング界とマイク・タイソンの未来に期待していた。
イベンダー・ホリフィールドのトレーナー、カーター・モーガンは、
「明日はない」
といいながら、毎日、激しい練習メニューを課し、 ボクシングの技術を教えつつ、
「戦いは10%の肉体と90%の精神だ」
と精神力の重要性を強調したが、カス・ダマトも同様で、マイク・タイソンに戦う技術だけでなく心を教えた。、
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力である」
「ボクシングでは人間性と創意が問われる。
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」
「勇者と臆病者には、大きな違いはない。
両者とも同じように倒されるのを恐れている。
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ。
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者、恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ」
「自分の心は友達じゃないぞ、マイク。
それを知ってほしい。
自分の心と戦い、心を支配するんだ。
感情を制御しなくてはならない。
リングで感じる疲れは肉体的なものじゃない。
実は90%は精神的なものなんだ。
試合の前の夜は眠れなくなる。
心配するな、対戦相手も眠れてやしない。
計量に行くと、相手が自分よりずっと大きく、氷のように落ち着いて見えるだろうが、相手も心の中は恐怖に焼き焦がされている。
想像力があるせいで、強くもない相手が強く見えてしまうんだ。
覚えておけよ。
動けば緊張は和らぐ。
ゴングが鳴って、相手と接触した瞬間、急に相手が別人に見えてくる。
想像力が消えてなくなったからだ。
現実の戦い以外のことは問題でなくなる。
その現実に自分の意志を定め、制御することを学ばなければならない」
さて話をコロラド州、オリンピックトレーニングセンターに戻すと、イベンダー・ホリフィールドは、初めて会ったマイク・タイソンの練習をみて驚いた。
「俺も努力家だと自負している。
だがヤツがジムで練習するのを横目でみて驚いたよ。
コイツはやられたと思った。
まだ17歳の若造なのに・・・
俺以上に練習していたのはヤツだけだった。
タイソンほど一生懸命やるヤツはいない。
誰もかなわないと思ったよ。
それになんでも誰より速いんだ。
バッグを叩くときも誰よりも速く叩いたし、ロープを跳ぶときも誰よりも速く跳ぶ。
ヤツのやることは、なんでも人より速かった」
21歳、ライトヘビー級(-81kg)のイベンダー・ホリフィールド。
17歳、ヘビー級(-91kg)のマイク・タイソン。
2人は共にゴールデングローブ大会を勝ち進んだ。
1戦目、イベンダー・ホリフィールドがKO勝ちすると、それをみていたマイク・タイソンは同じように相手を片づけた。
2戦目、3戦目、2人は共にKO勝ち。
イベンダー・ホリフィールドは、絶対に負けない気持ちで4戦目もKO。
マイク・タイソンは、4戦目の相手が失格になったので勝つには勝ったがKO数で1つ後れを取った。
イベンダー・ホリフィールドは、第5戦もKO勝ちして、ゴールデングローブのライトヘビー級のチャンピオンに。
マイク・タイソンも、5戦目をKO勝ちし、ヘビー級のチャンピオンになった。
イベンダー・ホリフィールドは5勝5KOだったが、「最優秀ボクサー」に選ばれたのは5勝4KOのマイク・タイソンだった。
「この2人が戦ったらどうなるんだろう?」
周りが思うのは当然だった。、
ある日
「お前らがやるのをみたいもんだな」
といわれたイベンダー・ホリフィールドは、
「やってもいいよ」
と答え、隣に座っていたマイク・タイソンに
「やるか?」
と聞いた。
「イヤッ、お前は小さすぎる」
「じゃスパーリングしよう」
「俺と?
スパーリングを?」
「そうだ。
金はいらんぜ」
「ヨシッ!
でもお前が好きだから、片手だけ使おう」
「両手でやったほうがいいぜ。
それともノシてやろうか」
こうして2人のKOキングはリングに上がり、周囲には人が集まった。
ゴングが鳴り、2人はグローブを合わせると、すぐに戦いを開始。
188cm、オーソドックススタイルのイベンダー・ホリフィールドが小さな速い2、3発を打ち込むと、178㎝、ピーカーブースタイルマイク・タイソンは大きなのを狙って、数発出してたが、当たったのは腕をかすめた1発だけだった。
2人は、もう止まらない。
それはライトなものではなく、フルの試合のようなスパーリングだった。
そのときオリンピックコーチがやってきて、
「お前らのはスパーリングじゃない。
真剣勝負だ。
激しすぎる。
どちらかがケガをするぞ。
2度とやるんじゃない。」
と怒鳴り、スパーリングを止めた。
イベンダー・ホリフィールドは
(勝った)
と思ったが同時にマイク・タイソンを尊敬した。
乱暴者という世間の評判と違い、思いやりのある温かい人柄にも心を打たれた。
スポーツフェスティバル、ゴールデングラブと2大会連続で、全米ナンバーワンになったイベンダー・ホリフィールドの次なる目標は、オリンピック。
国の代表になり、金メダルを持ち帰りたいと思っていた。
それは実力的には十分可能に思えたが、金銭的なことが問題だった。
収入はエップス空港の給料だけで大会で休暇をとれば減ってしまうという状況で、ポーレット・ガーデンが3700gの赤ちゃんを産んだのである。
初めての子供は、イベンダー・ホリフィールド・ジュニアと名づけられたが、これで経済的な問題が決定的となった。
以前、イベンダー・ホリフィールドに数学を教えていた教師、ジョン・スミスは、全米ナンバーワンになった元教え子を連れて、オリンピック出場のためのスポンサーを探して、アトランタ中を回った。
実業家、建設業者、銀行など、さまざまな人に話を持ち掛けたが、乗ってくれる人はいなかった。
「なんでみんな、俺を信じようとしないんだ?」
イベンダー・ホリフィールドは失望した。
請求書が溜まっていく中、愛車、1968年型ダッジスタークが故障。
ポーレット・ガーデンに
「この車では子供を連れて病院に行けない」
といわれ、2000ドルを借りて、ビュイック (BUICK、ゼネラルモーターズ(GM)が製造・販売する乗用車のブランドの1つ) の代理店へ。
そこで1982年型、ビュイック・センチュリーが気に入った。
「今、2000ドル払います。
後は2ヵ月以内に全部」
「連帯保証人はいますか?」
「連帯保証人?
あの、なんとかならないでしょうか。
私は地元のアマチュアボクサーです。
今年のオリンピックチームに入れそうなんです」
「オリンピック?
それは大したもんだ」
イベンダー・ホリフィールドは、エップス空港の仕事のこと、オリンピックのこと、子供が生まれたことなど自分が置かれた状況を詳しく説明。
オーナーのケン・サンダースは、好奇心をそそられて熱心に話を聞いた。
そして連帯保証人なしで車を売り、その上、スポンサーを買って出た。
イベンダー・ホリフィールドは、新しい車に乗って家に帰り、スポンサーがついたことを話した。