1984年6月10日、オリンピック予選が、テキサス州フォートワースで行われた。
イベンダー・ホリフィールドは、アメリカ代表になるためには再びシャーマン・グリフィン、リッキー・ウィマックスと勝たなくてはならなかった。
シャーマン・グリフィンには勝ったものの、世界ランキング1位のリッキー・ウィマックスには負けてしまった。
しかしまだオリンピック出場の可能性は残っており、2ヵ月後に行われる選考会で、1位と2位が対戦することなっていた。
つまりリッキー・ウィマックスと再戦である。
だがナンバー1になるつもりだったイベンダー・ホリフィールドは落胆しながら、ケン・サンダースに電話した。
「負けました、ケン」
「知ってる。
みてたから。
だがあれくらいでガッカリしちゃいかん。
よくやったじゃないか。
誇りに思うべきだ。
オイッ、もっと自信を持て。
仕事が欲しいなら、ここにちょうどいいのがあるから心配するな。
だがお前はまだ戦える。
自分でもわかっているはずだ。
とにかくきっとうまくいく」
イベンダー・ホリフィールドは、言葉がなかった。
マイク・タイソンも初回にロープ際で右フックからの連打を決めてダウンを奪うもヘンリー・ティルマンに判定負けし2位。
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイント。
もちろん倒れた相手が10カウント以内に立てなければKO勝ちとなる、がアマチュアの厚いグローブでそれは難しく、相手のベルトラインより低いダッキングや、深い前傾姿勢で飛び込む行為がアマでは反則と取られやすいこともあり、常にノックアウトを狙う荒々しいマイク・タイソンのファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった。
しかしマイク・タイソンも、まだオリンピック出場の可能性は残っており、2ヵ月後に行われる選考会で、ヘンリー・ティルマンと対戦することなった。
2ヵ月後、1984年7月7日、イベンダー・ホリフィールドは、選考会が行われるラスベガスのシーザースパレスへへ。
試合会場に入るとマイク・タイソンがいたので
「やあ」
と声をかけた。
イベンダー・ホリフィールドはリッキー・ウィマックスに負けたが、マイク・タイソンもヘンリー・ティルマンに負けていて、2人とも「負け組」と呼ばれるグループの一員だった。
「負け組」は2勝する必要があり、1戦目に勝てば、翌日、オリンピック出場をかけて翌日、もう1度戦うことになる。
もし1戦目で負ければ出場のチャンスは消える。
2人は一緒に練習し、一緒に試合を観戦。
イベンダー・ホリフィールドは、マイク・タイソンと一緒にいるのが楽しかった。
まずイベンダー・ホリフィールドがリッキー・ウィマックスと対戦。
夜の試合までベッドで横になってエネルギーを蓄えようとしたが、一定時間ごとに起き上って
「ジャブを続けるのを忘れるな」
「動き続けるんだ」
「ヤツはこうくる、オレはこう対処する」
自分にいいながら鏡に向かってパンチを繰り出した。
そして最後は膝まづいて祈った。
「私に最善を尽くさせてください」
「私とリッキーをお守りください。
2人とも大きなケガをしませんように」
祈りによって安らぎを得ると、後は自分の役目を果たすだけ。
「リングの外では膝まづくが、リングでは膝はつかない」
とすさまじい決意で戦いに入り、判定で勝利した。
その夜は、勝った後なのに
「オリンピックアメリカ代表まで、あと3ラウンド」
と思うと眠れなかった。
その10分足らずで今後、数十年の自分の人生が大きく左右され、ポーレットとジュニアをボクシングで養っていけるかどうかもかかっていた。
翌日、第2戦の開始のゴングが鳴ったとき、イベンダー・ホリフィールドの心構えは万端で、リッキー・ウィマックスの攻撃を軽快にさばいた。
俊敏に動くイベンダー・ホリフィールドにリッキー・ウィマックスは体力をロスし、ラウンドが進むにつれて失速。
最終ラウンド、イベンダー・ホリフィールドは打ち勝ち、試合は判定に。
レフリーが2人の間に立って、
「オリンピック代表は・・・・・・・・・」
アナウンサーが長い間をあけ、イベンダー・ホリフィールドは
(耐えきれない!!)
と思った。
「アトランタ出身・・・・」
(ウォマックはデトロイト出身だ!!)
「ジョージア州、イベンダー・ホリフィールド!!」
その瞬間、イベンダー・ホリフィールドは足をガクガクさせながら天を仰いだ。
(ありがとうございました、主よ)
そして外に出ると、プールに向かって疾走し、ヘッドギアをつけたまま飛び込んだ。
しかしマイク・タイソンは、ヘンリー・ティルマンに判定負け。
1戦目は裁定を潔く受け入れ、自分から進んでティルマンの手を挙げていたマイク・タイソンだったが、2戦目は思わず抗議。
長身のティルマンは、ジャブとフットワークで背の低いタイソンの接近をかわし、距離が潰れるとクリンチという戦い方だったので、勝者でありながら2戦ともブーイングを浴びた。
(ヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得)
「オリンピックには出られなかったが代表選考試合はいい経験になった。
ホリフィールドの戦い方は野心的で俺のスタイルと似ていた。
相手を軽くノックアウトする素晴らしいボクサーだった」
マイク・タイソンは、この後、プロに転向。
アマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗だった。
その後、イベンダー・ホリフィールドはテキサス州ゴンザレスで行われたオリンピック強化キャンプに参加。
24人のボクサーは、人里から10マイル(16km)離れたキャンプ地に
「車持ち込み禁止」
で入場。
トレーニンググラウンドは巨大な農園の真ん中にあって、コーチは、
「農地にはたくさんのヘビがいるから気をつけろ」
と注意した。
宿泊所は2棟あって、それぞれで12名ずつ寝起き。
閉じ込められたボクサーは、厳しい練習を行い
夜は漆黒の闇となり、各棟に1台ある電話が、唯一の気晴らしとなった。
ある日の夜中の2時、イベンダー・ホリフィールドは電話だと呼び出されて出てみると
「ハットンおばあちゃんが死んだ」
といわれた。
オリンピックを前に休めるか心配だったが、帰ることができたイベンダー・ホリフィールドは、家族や友人と共に葬儀に参列し、兄弟で棺を担いだ。
「我々の人生の大半の間、祖母は私たちを支えてくれた。
いま私たちが祖母を支えている。
それを思うと心が張り裂けんばかりだった。
スポンサーが見つからなかったときもランキングボクサーになれなかったときもオリンピック出場の夢を追い続けた。
祖母の強さが私に力を与えたのだ」
その後、数日間、呆然と過ごし、
「これといって記憶がない」
というイベンダー・ホリフィールドは世界を相手に戦うことが決まったときに、1番の心の支えを失いながら、テキサス州に戻り、2週間行われたトレーニングキャンプを終了した。
1984年に行われたロサンゼルスオリンピックは、140ヵ国、男子5263人、女子1566人が参加。
4年前、1980年のモスクワオリンピックは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するために、アメリカ、日本、西ドイツ、韓国、サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシアなどの国々が不参加。
その報復として今大会は、ソ連、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどがボイコットしていた。
1984年7月29日~8月11日、ロサンゼルスオリンピックからスーパーヘビー級を加え12階級となったボクシング競技に、イベンダー・ホリフィールドライトヘビー級(-81kg)アメリカ代表としてエントリー。
空港で、たくさんの人に旗を振られ
「ビートルズになったような気がした」
というイベンダー・ホリフィールドは、その巨大な歓声に酔いながら英雄扱いされるのをできるだけ楽しもうといながらできるだけゆっくりと歩いた。
アメリカには、ラッシー事件のような黒人が無視され除外される人種差別が存在していたが、そこにはそんなものはまったくなかった。
また会場では世界各国から来た選手と一緒になり、YesかNo、そして笑顔とボディランゲージでコミュニケーションをとって不思議な連帯感を感じるなど、イベンダー・ホリフィールドは神聖な体験をした。
「優れた競技の技を追求するために集まっているのは、ただ1つ、人類でしかない!」
コーチには
「ここでおとなしくしていろ」
といわれたが、国から支給されたジャージを着てオリンピック村を抜け出し、ロサンゼルスの街へ繰り出し、人々から声援を受けた。
イベンダー・ホリフィールドは、それから毎日、午後に練習し、シャワーを浴びてから、仲間と一緒にディスコに行き、リラックス。
ソ連、東欧圏が出場しない中、開催国、アメリカは各競技で最大限に力を発揮していた。
ボクシング種目は男子のみで
ライトフライ級(– 48 kg)
フライ級(– 51 kg)
バンタム級(– 54 kg)
フェザー級(– 57 kg)
ライト級(– 60 kg)
ライトウェルター級(– 63.5 kg)
ウェルター級(– 67 kg)
ライトミドル級(– 71 kg)
ミドル級(– 75 kg)
ライトヘビー級(– 81 kg)
ヘビー級(– 91 kg)
スーパーヘビー級(+ 91 kg)
の12階級で行われたが、日本の柔道代表同様、金メダル獲得が義務づけられており、全員が強烈な重圧を感じていた。
24ヵ国、24名が参加するライトヘビー級のトーナメント戦は7月30日~8月11日に行われ、
イベンダー・ホリフィールドは、初戦でアフリカ代表を3RでKO
2戦目もイラクの選手をKO。
3戦目のケニア代表、シラヴァナ・スオケロは優勝股補だったので、
「気をつけろ」
KOばかり考えるな」
とアドバイスされたが
「全部KOで片づけたいんだ
そしたらどちらが勝ちかハッキリするからな」
といって1RでKOし、連続KOでベスト4に入り、世界中から注目を集めた。
「僕はアメリカのボクシング選手の中で最後に選考され、誰も僕がメダルをとれるとは思っていなかった。
ところが最初の3試合を全てノックアウトしてメダル候補になった。
準決勝の相手は、ニュージーランドのケビン・バリー。
これに勝てば決勝の相手は、ユーゴスラビア代表のアントン・ヨシポビッチだったが、どちらもイベンダー・ホリフィールドよりも格下に思われた。
準決勝、2Rまでイベンダー・ホリフィールドは技術とパワーで圧倒。
KOの機会をうかがいながら完全に試合を支配した。
2R残り20秒、粘るケビン・バリーは打ち合った後、イベンダー・ホリフィールドの頭を抱えてクリンチにいこうとした。
イベンダー・ホリフィールドは、頭を抱えられたまま、ボディにパンチ。
相手の頭を抱えたまま腹を叩かれて左右に体を振られるケビン・バリーをみて、フィニッシュを予感した観客の興奮はピークに達した。
そしてたまらずクリンチを外したケビン・バリーの顔面をイベンダー・ホリフィールドのパンチが打ち抜いた。
ケビン・バリーは、糸が切れた操り人形のようにダウン。
この時点で残り時間は13秒。
レフリーは、イベンダー・ホリフィールドにニュートラルコーナーに行くよう指示し、カウントを始めたがバリーは立ち上がれず、カウントアウト。
するとレフリーはイベンダー・ホリフィールドに向き直り、
「ストップを命じたのにパンチを出した」
といって
「失格」
を宣言した。
イベンダー・ホリフィールドは信じられなかった。
頭を抱えられていたし、歓声が大きかったせいでレフリーの声は聞こえなかった。
レフリーのグリゴリエ・ノヴィチッチは、
「ストップを命じたが2人は打ち合い、イベンダーがバリーをノックアウトしたときも打ち合いをやめさせようとしていた」
というが、2人の間に割って入ったり、体を触ったりせず、口頭のみで分けようとしたことにも問題があった。
「失格はおかしい」
とにかくひどい判定に観衆は怒り、会場は収拾のつかない大混乱となった。
リング上で勝者のコールを受けたケビン・バリーは、イベンダー・ホリフィールドと握手し、その手を高く挙げ、
「君は正々堂々と試合に勝った」
といっていた。
グリゴリエ・ノヴィチッチは、警備員にガードされながら退場。
それでも罵声を浴び、モノを投げつけられ、伸びてきた手に着衣を裂かれた。
イベンダー・ホリフィールドは、自信に満ちた何食わぬ顔で平然と試合場を出ていった。
アメリカのテレビ解説は
「ホリフィールドは冷静に耐えています」
と伝えたが、イベンダー・ホリフィールドは
「何とか怒りを抑え口から出そうになる言葉を飲み込んだ」
と文句もいわず判定を受け入れた。
本人は何もいわなかたが、アメリカアマチュアボクシング連盟会長、ロリング・ベーカーは抗議文を提出。
グリゴリエ・ノヴィチッチが、決勝進出を決めているアントン・ヨシポビッチと同じユーゴスラビア人だったことで大きな疑惑が起こった。
アマチュアボクシング規定でノックアウトされたボクサーは28日間試合をすることができないため、ケビン・バリーは決勝戦を戦うことができない。
すなわちアントン・ヨシポビッチは、戦わずして金メダルが決定したので、
「ホリフィールドはハメられた」
「ユーゴスラビアのレフリーによってユーゴスラビアの選手が金メダルをとった」
といわれた。
リングの上に表彰台を置いて行われた表彰式で、首に銅メダルをかけてもらったイベンダー・ホリフィールドは、笑顔で持っていた小さなアメリカ国旗を振って歓声に応えた。
金メダルを首にかけ、1番高い場所に立っていたアントン・ヨシポビッチは、イベンダー・ホリフィールドに手を差し出した。
イベンダー・ホリフィールドが握手に応じると、その手を握ったまま、自分の立っている場所にイベンダー・ホリフィールドを引き上げ、2人は肩を組んで手を挙げた。
最終的に男子ボクシング競技は、12階級中、9階級でアメリカが金メダルを獲得。
しかし1番人気者になったのは、1番無名だった21歳のイベンダー・ホリフィールドだった。
自己主張の国に生まれ、人種差別のつらさを経験して育ちながら、オリンピックという人生の大舞台で不公平なジャッジを受けても全体の調和のために甘受するイベンダー・ホリフィールドを人々は称えた。
イベンダー・ホリフィールドは、
「こういう悪いことがあった後は、飛び切りいいことがあるんだ」
とおどけたが、無名のボクサーから一躍有名人に。
オリンピック後、イベンダー・ホリフィールドは他の選手と一緒にホワイトは椅子に招待されて、ロナルド・レーガン大統領に会った。
アメリカ国内5都市で行われたパレードにも金メダリストと一緒に招待された。
彼は銅メダリストだったが、誰もが金メダリストの実力があることがわかっていて、
「愛してる」
「アメリカの誇りだ」
「君は真の金メダリストだ」
などとと声をかけた。
生まれて初めて人々に称えられ、イベンダー・ホリフィールドは失望を癒された。
家に戻ると郵便受けは、世界中から電報やハガキ、手紙でいっぱいだった。
郵便物はオリンピック後、数週間続き、イベンダー・ホリフィールドは、祖母のいっていたことを思い出した。
「神様を愛し、神様の思し召しで召された者には、どんなことでも一緒になっていい方向に働いてくれるんだよ」