基本的に、大竹しのぶは超マジメ。
中3の秋に初デートを体験し、相手はスポーツ万能、成績優秀というクラスで1番モテていた男子だったが、毎日、一緒に下校し、途中、公園でおしゃべりするだけの清い交際。
それも進学と共に自然消滅し、高1のとき、ドラマのオーディションに応募すると5700人中11人の合格者の中の1人に選ばれた。
このときは大勢いる脇役の1人だったが、次に映画のオーディションを受けると主人公の恋人役に大抜擢され、吉永小百合、仲代達也、小林旭らと一緒に撮影。
ラブシーンもあって、まだ男の子と手をつないだこともなかった17歳の大竹しのぶは、静まり返るスタジオで服を脱いで田中健と抱き合った。
その後、NHK朝の連続テレビ小説「水色の時」でもヒロインとなり、風邪薬の「ルル」で初CMも体験。
このとき大竹しのぶより2歳上の明石家さんまは、兵庫県で師匠の家に通いながら修行する「通い弟子」をしていた。
西宮市の家賃7500円のアパートで1人暮らしをしていたが、家具は瓶ビールのケースを並べた上に板を置いたベッドとテレビだけ。
その小さなテレビで「水色の時」をみて大竹しのぶに憧れを抱いた。
大竹しのぶは、短大に進学すると「みかん」という曲でレコードデビューも果たした。
清純派美少女として人気を得ながら、恋愛や男子とはまったく縁がなく、数回だけ参加したコンパでは、即席カップルが消えていくのをみて、親友のメグやマコと
「フケツー」
「許せなーい」
とささやきあった。
20歳のとき、舞台で共演した2歳上の歌舞伎役者、中村勘九郎にデートに誘われ、中3以来、5年ぶりのデートが決まったが、
「ボーイフレンドでもない男の人と2人きりで会うなんて常識から明らかに外れている」
と気が重くなり、かといって断るのも悪く、
「メグかマコを連れていこう」
と3人でデート。
同じく20歳のとき、CM撮影がアメリカで行われ、初めて海外へ。
オフの日にディズニーランドへ行くことになると朝から興奮状態。
行きのバスで遠足の小学生のようにはしゃぎ、開園時間に到着。
いくつか乗り物に乗った後、「イッツ・ア・スモールワールド」へ。
船に乗って水路を回り、世界で1番幸せな船旅を楽しめるアトラクションで、シンデレラなどディズニーキャラクターも登場したが、1番感動したのは世界中の国々の民族衣装を着けた子供の人形が、それぞれの国の言葉で歌う「小さな世界」
その
「世界はひとつ♪」
というフレーズを聞いて、
「そう、世界はひとつ。
戦争なんかしちゃいけない!」
と嗚咽を漏らしながら号泣。
イッツ・ア・スモールワールドには3回乗って3回とも泣いた。
2年後、22歳のとき、ドラマのロケでハワイへ。
パールハーバーにある公園で撮影があったが、そこには日本の真珠湾攻撃で命を落としたアメリカ人兵士の墓地もあった。
淡々と準備をするスタッフをみながら
「ちゃんとお参りしてから始めるべきでは・・・」
と思ったが、いい出せないまま撮影。
お昼の休憩時間に、
「せめて自分だけでもお参りしよう」
と1人で墓地にいき、1つ1つのお墓に手を合わせた。
墓石には名前と戦死したときの年齢が刻まれていて、ほとんど18、19、20歳の若者ばかり。
「私たち日本人が彼らを殺したんだ」
と思うと涙がボロボロ流れた。
すると公園の掃除をしていたオジサンがやってきて
「どうしたの?
なぜ泣いているの?」
大竹しのぶは、未熟な英語で必死に訴えた。
「私たちが殺したの。
ごめんなさい」
「我々だって多くの日本人を殺した。
お互い、同じことをしたんだ」
その言葉を聞いてオジサンに抱きつき、さらに大泣きした。
この頃、軽妙なしゃべりで大阪を制し、東京に進出した明石家さんまは、自叙伝「ビッグな気持ち」とCD「Bigな気分」をリリース。
朝のワイドショーで歌うためにテレビ局へいき、その廊下で大竹しのぶとスレ違った。
これが2人のファーストコンタクトだったが、大竹しのぶは、ガラガラ声で歌う明石家さんまをみて
「この人はきっとすごい大病を患っている人だ。
若くてしてもうすぐ死ぬ人のためにテレビ局の人が最後に出させてあげたんだ」
と泣きそうになり、家で番組をみていた大竹しのぶの母親も
「あんな声で・・・
かわいそうに・・・」
と思った。
23歳の大竹しのぶは、「恋人たち」というドラマに出演し、TBSのディレクター、41歳の服部晴治と出会った。
「オシャレで優しそう」
というのが第1印象で
「服部さんってかっこいいよね」
と共演していた田中裕子と盛り上がり、最終的に
「ジャンケンで負けた方が服部さんに電話しよう」
ということになった。
そして公衆電話のダイヤルを回したのは大竹しのぶ。
ドキドキしながら自分の名を告げ、
「何?
僕と結婚したいの?」
とダンディな声でいわれると動機がして倒れそうになり、あわてて田中裕子に受話器を渡した。
すると田中裕子も同じセリフをいわれて卒倒しそうになった。
服部春治にノックアウトされた2人だったが、その後も機会をみては電話。
大竹しのぶは、服部春治が過去に2度の離婚歴があり、現在は女優の中村晃子と交際中と知ると
「なんだかガッカリ」
しかし服部春治の誕生日には
「服部さん、台本のカット割りにエンピツ使うから」
とスヌーピーの鉛筆削りを買って、2人で映画を観にいったときにプレゼント。
3ヵ月後、服部春治は中村晃子と別れ、大竹しのぶは初めて男性と心と身体で愛を交わした。
マスコミは2人の交際を、
「17歳差!
清純派女優、2度の離婚歴がある中年テレビディレクターと熱愛!」
「中村晃子から略奪愛」
とスキャンダラスに報じ、これまでロクに恋愛経験がない大竹しのぶは
「魔性の女」
と書かれ、驚いた。
周囲からは
「あの人はプレイボーイだから絶対に浮気される」
「だまされている」
「遊ばれて、いずれは捨てられる」
会社からも
「映画監督や演出家があなたを可愛がってくれたこと、わかっているでしょ?
このままじゃ、みんなからソッポを向かれる。
そしたら女優としておしまいなのよ」
ととにかくみんなに交際を反対された。
しかし気持ちは変わらず、逆に
「自分からハッキリと交際していることを公表したい」
と進言。
会社は血相を変えて
「交際宣言するなんて絶対許さない。
それだけはいっちゃダメ。
一生のお願い。
絶対にいわないで。
約束して」
ちょうどドラマの発表記者会見があり、会社に
「交際を公表したら大勢の人に迷惑かけることになるのよ。
だから逆に否定してちょうだい。
つき合っていませんって。
お願い」
といわれた大竹しのぶは、自分の気持ちで素直でありたいと思ったが、周りに迷惑をかけてしまうことを考えると従うしかなく、
「服部さんのことは尊敬しています。
でも好きっていう感情とは違うんですよねぇ。
もちろん交際はしていません。
本当に何でもないんです。
誤解を受けるような行動をした私がいけなかったんです。
ごめんなさい」
と交際を否定。
これをマスコミは
「したたかな女」
とバッシングした。
大竹しのぶは、人生最大級の自己嫌悪に陥った。
「ウソをついた。
妙にはしゃいだりしながら。
どんなことがあっても正直でいようと、ずっと心がけてきたのに、とうとうその信条を曲げてしまった。
後で記者会見の映像をみたら、とてもイヤな顔をしていた。
その後も2人は人目を避けてデートを続け、交際を始めて約1年後役所に婚姻届けを提出。
さらに2ヵ月後の1982年10月12日に結婚式を挙げ、2時間の披露宴の間、大竹しのぶは泣きっぱなしだった。
結婚して約1年半後、服部春治が胃ガンであることが発覚。
医師は大竹しのぶに
「だいたい1年くらいです」
と余命宣告し、かつ本人は告知せずに治療していくことを提案。
大竹しのぶは、涙を流しながらそれに合意し、
(取り乱しちゃいけない)
と自分にいい聞かせながら病室へ。
医師から
「胃潰瘍です」
といわれている服部春治から鋭い視線を受け、自分の病状を読み取ろうとしている意図を感じ、目をそらさず
「もう情けなくて、思わず泣いちゃった。
どうして潰瘍がこんなにひどくなるまで放っておいたのかって叱られたよぉ。
気づかなくて本当にごめんね」
とウソをついた。
(あと1年しか生きられないなんて絶対に信じない。
私が必ず治してみせる。
スタートだ。
ここからだ)
服部春治は、1983年11月30日に入院し手術を受け、12月31日に退院し、年が明けると仕事に復帰。
そして半年後、大竹しのぶは妊娠した。
服部春治は、最初の結婚で2人、2度目の結婚で1人、合計3人の子供がいたため、さらに子供を持つことに戸惑い、出産に反対。
これまで励まし続けてくれた服部春治の担当医も
「父親が抗ガン剤を服用している場合、障害を持った子供が生まれる可能性が高いんです。
それに父親がいない子供を産むつもりですか」
と反対。
「どんなことがあっても絶対にこの子は産む。
たとえどういう状態で生まれてこようと立派に育ててみせる」
と決めていた大竹しのぶは、
「どうしても産みたいんです」
と訴え続け、最終的に服部春治は、
「天から授かった命をどうすべきかと一瞬でも迷った自分が恐ろしいよ。
葬るなんて許されるわけがない。
それに何よりしのぶが子供を望んでいる。
躊躇して悪かった」
と謝罪。
担当医も胎児の異常を専門にしている大学病院の医師に紹介状を書いた。
1985年1月29日、大竹しのぶは、男の子を出産。
服部春治は
「2000年に羽ばたく」
という願いを込めて
「二千翔(にちか)」
と名づけた。
大竹しのぶは、出産7ヵ月後に仕事に復帰し、1986年 の正月は、家族3人で正月を迎えた。
医師のいった余命1年はすでに過ぎ、大竹しのぶは、
「もしかすると彼はガンに勝ったんじゃないだろうか」
と思った。
そして半年後、ドラマ「男女7人夏物語」で明石家さんまと共演することになった。
好感度ナンバーワンタレントとなり、お笑い芸人として初めてトレンディドラマの主役に抜擢された明石家さんまは、初顔合わせの日、いきなり遅刻。
「今井良介役の明石家さんまさんです」
と紹介された後、隣に座っていた神埼桃子役の大竹しのぶに話しかけられた。
「ねえ、さんまって芸名、気に入ってるの?」
「気に入るも何も・・」
「イワシじゃイヤだったの?」
「・・・・師匠がつけてくれたんで」
「あ、そうなんだ。
師匠、魚が好きなんだ」
「・・いや」
「明石家サバでもよかったかも」
大竹しのぶは、制作発表の記者会見で、
「私は今までちらかというと思い役が多かったと思うんです。
テレビの前のみなさんが観終わった後に疲れたと感じるような。
今回はさんまさんの力で私の明るい面や軽い部分を引き出していただけたらいいなあと思っています」
とコメント。
カメラが回っていなくてもテンションを下げず共演者やスタッフを笑わせる明石家さんまに驚いた。
「笑いのためなら何でもやるってことだよね」
「そうそう、面白ければイイ」
出演者は売れっ子ばかりで全員が揃うシーンを撮る機会は限られため、ときには24時から撮影が始まって終わったときは空が明るくなっていたり、深夜にスタジオ撮影をしてから数時間後、外にロケに出たり、過酷なスケジュールとなった。
出演者にとって移動のバスの中だけ唯一の睡眠時間だったが、明石家さんまだけは、ここでも1人、しゃべり続けた。
大竹しのぶは
「ねぇ、わかってる?
みんな眠りたいと思っているのよ」
と注意。
それでも雑談に花を咲かせる明石家さんまに、出演者は
「バス乗るのは罰ゲームみたい」
といい、ロケバスの人数が減っていった。
明石家さんまは、ガラガラになったバスの中から、
「照明さんの車がギチギチになった」
のを目撃。
出演者は休憩時間を利用して一緒に完成した映像をチェックしていたが、ここで明石家さんまは、必ずペンと紙を持ってスコアリング。
「コレッ、俺かっこいい」
「俺おもろい」
と自画自賛しながら
「鶴太郎さん、いまの残念」
「奥田瑛二さん、今のはダメでしたね」
と他人を減点し、
「ハイッ、今週も俺の勝ち」
大竹しのぶも負けじと
「女子の部では私が優勝」
といってはしゃいだ。
「自分が好きなんです。
誰よりも何よりも自分が好きなんです」
明石家さんまは、よく遅刻した。
あまりの遅刻の多さに大竹しのぶと生野慈朗監督が
「驚かせてやろう」
とドッキリを企画。
まず遅れてきた明石家さんまにスタッフが
「大変です。
大竹しのぶさんが怒って帰っちゃいました」
と伝え、明石家さんまが
「すみません」
「どうしよう」
とウロたえるところに隠れていた大竹しのぶが登場するという筋書きだった。
が、明石家さんまは、大竹しのぶが帰ったと聞くと
「ああ、どうでっか。
ほんなら今日は撮影おまへんな。
お疲れっス!」
といって帰ろうとした。
少しは凹むかと思っていた大竹しのぶは、激怒して飛び出し、
「いいかげんにしてよ!
何、いっているの!」
その後、
「すんません」
「堪忍してください」
とひたすら謝る明石家さんまと
「みんな笑っているけれどスタッフがどんな思いをしているのか知っているの?」
と決して許さない大竹しのぶに周囲は、
「2人で夫婦漫才ができるわ」
と笑った。
成田空港でのラストシーンの撮影では、事前に許可をとったにもかかわらず別の映画のロケとバッティング。
「男女7人夏物語」の撮影を止めようとする空港の担当者とやめるわけにいかにスタッフが怒鳴り合いの押し問答。
撮影を強行したスタッフが空港関係者をブロックする中、階段を下りていく大竹しのぶを明石家さんまが見送るシーンが撮影された。
「男女7人夏物語」は、毎週金曜日21時から放送され、若い男女の気持ちがうまく描いた内容と大竹しのぶと明石家さんまのかけ合いが話題となって、最高視聴率は31%の大ヒット。
「男女7人夏物語」の撮影が終わった後、大竹しのぶは家族3人で静岡県の下田温泉へ。
運が悪いことに、その日は「男女7人夏物語」のオンエア日。
「春治さんと二千翔に100%の愛情を注がないと・・・・」
と思いつつ、でも
「観たい」
葛藤の末、ホテルの部屋にあったテレビのスイッチをつけてしまった。
大竹しのぶは気づかなかったが、そのとき服部春治はドラマを観る妻をカメラで撮った。
後日、大竹しのぶは家族旅行の写真をみていて、その1枚に気づき、罪悪感を感じた。
一方で
「このドラマで役の幅が広がったんじゃないかと思う。
さんまさんに自分の違う一面を引き出してもらった」
と本人にはいわなかったが、明石家さんまに感謝していた。
友人に
「さんまさんってすごく面白い人なの」
と話すと
「なんか嬉しそうに話してない?
しのぶ、人妻としてそれはまずいよ。
あなたには服部さんという大切なダンナ様がいるじゃない」
と注意されたが、当の服部春治は、それを聞き
「3人で食事をしよう」
といった。
そして初対面で16歳下の明石家さんまと意気投合。
その後も一緒にテニスを楽しむ仲となった。
こうして服部春治は、1986年も生き抜き、大竹しのぶは
「もう大丈夫。
奇跡は起きる」
と信じた。
しかし翌年の3月、服部春治は再び入院。
医師は
「ご自宅にはもう帰れないでしょう。
最後の入院だと思ってください」
と告げた。
その日の夜、大竹しのぶはTBSへ。
それは「男女7人夏物語」のNGシーンをみながら明石家さんまとトークするという番組の収録で
「こんなときに、よりによってバラエティに」
と自分の運命を呪った。
1ヵ月後、「男女7人夏物語」の続編、「男女7人秋物語」の製作が決定。
撮影は夏からスタートするといわれ、大竹しのぶは数日間、悩んだが、出演を断ることにした。
それを誰よりも先に明石家さんまに、それも自分の口で伝えようとオフィスを訪ねた。
「今度のドラマ出られそうにないんです。
ごめんなさい」
怪訝そうな顔をする明石家さんまに
「悪いけど、理由は聞かないで」
と機先を制し
「本当にごめんなさい。
今回は他の女優さんと組んでお仕事してください」
「わかりました」
明石家さんまは、そう答えたが、その後、ドラマのプロデューサーに
「大竹さんに出演を断られてしまいました。
できれば別の女優さんで考えたいんですが・・・」
といわれたとき、
「いやダメです。
大竹さんが出られへんのやったら僕も降ろさせてもらいますわ」
とキッパリ断った。
一方、大竹しのぶからドラマを降板したことを聞いた医師は、
「それはいけない。
服部さんに懸念を与えるようなことは避けた方がいいです。
奥さんは今まで通りふるまってください」
と反対。
服部春治も
「絶対にやるべきだよ」
といって大竹しのぶを仕事に送り出し、明石家さんまには手紙を書いた。
「僕が遊んであげられない分、秋からしのぶを楽しませてあげてください」
入院して2ヵ月後の5月、服部春治は体の数値が良くなって退院したが、7月に再び入院。
以降は急激に悪化し、自分で立てなくなるほど弱ってしまった。
大竹しのぶは、病院から仕事に通った。
病室では服部春治の世話をしながら、ずっと手を握り、寝るのは仕事場で少し横になるだけ。
ある日、帰ろうとするとスタッフに呼び止められ、振り向くと大きなケーキと
「おめでとうございます」
という声。
そこで初めて自分の30歳の誕生日であることに気づいた。
みんなに祝福されて嬉しいがツラく、やっとの思いで笑って、ケーキを一口食べた後、
「本当にごめんなさい」
といって飛び出した。
翌朝8時、仕事に向かわなければならず
「じゃ、いってくるね」
すると服部春治は
「ちょっと待って。
そこの引き出しの中をみて」
大竹しのぶがみるとラッピングされた箱があり、中にはカルティエのペンダントが入っていた。
「誕生日おめでとう。
自分で買いに行けないから姪っ子に頼んだんだ」
大竹しのぶは涙を流しながら、それをつけ、仕事に向かった。
それから間もなく服部春治はモルヒネ注射が必要な状態になった。
医師は
「会わせたい人がいるなら今のうちに会わせてあげてください」
といい、それまで事情を知らされなかった服部春治の母親や関係者が病室へやって来た。
大竹しのぶは、一睡もしない日が続いた。
最後の夜、危篤状態になったとき、強く手を握り締め、息を引き取るのを見届けた。
そのとき二千翔は、
「泣いちゃダメよ」
といいながら祖母(大竹しのぶの母)や叔母(大竹しのぶの姉)のホッペを叩きながら病室を歩き回っていた。
こうして服部春治は47歳でこの世を去った。
告別式のとき、祭壇の前で二千翔は
「お父さん、飛んできて」
といった。
「飛んできてくれた?」
と聞くと
「ここにいるよ」
といって自分の胸をトントンと叩いた。
それからも二千翔は時折、遠くを見つめるような目をしていたが、あるときポツリといった。
「今日、お父さん、お空にお家建てたね」
そして不思議なことに眉間に、服部春治と全く同じ場所にホクロができた。
告別式から1週間後、大竹しのぶは仕事に復帰。
明石家さんまは、その舞台を観にいった
何度かお見舞いにいき、自らの死期が近いことを悟った服部春治から密かにいわれていた。
「僕がいなくなってから、しのぶのことを面倒みてやってくれ」
一方、大竹しのぶは、服部春治の死後、夜になると涙がこぼれて眠れなくなっていた。
睡眠薬を飲んだこともあったが、すると今度は朝起きられなくなり、あるとき
「起きて、起きて」
と必死に叫ぶ二千翔の声で目が覚めた。
父親が失った息子が朝、目覚めない母親に恐怖にかられたのをみて
「どんなことがあっても薬は飲んではいけない」
と誓った。
そして夜、眠れないと強い孤独感を紛らわせるために友達に電話。
しかしいくら親しい友人でも毎晩かけるわけにはいかなかった。
8月の終わり、「男女7人秋物語」の撮影が始まると、すぐに大竹しのぶは明石家さんまに電話した。
「もしもし、さんまさんですか?
夜分遅くにすみません。
大竹です」
「ああ、どうも。
どないしたん」
「ごめんなさい。
なんか全然眠れなくて」
以後、毎日かけ続け、深夜に他愛のない話を2~3時間した
「この真夜中の電話にどれほど救われたことか」
ドラマの収録が終わりに近づいたある日、
「なんでやろうなあ」
「何が?」
「なんで俺は毎晩、まっすぐ家に帰ってきて電話を待ってるんやろうと思って」
「うん」
「別に彼女でもないわけやろ」
「彼女?」
「俺にはちゃんと彼女がいてるのに、こうしてアンタの電話を待ってるのはなんでなんや?」
大竹しのぶは、明石家さんまに恋人がいることを知り、
(本当は電話をするのをやめるべきかもしれない)
と思ったが、夜になると受話器に手が伸びてしまい、12月に「男女7人秋物語」の収録が終わっても電話をかけ続けた。
「やっと元気になったみたいやな。
よかったわ」
「ありがとう」
「でもなんでやろ。
俺はやっぱり毎晩家で電話を待ってるんや」
「・・・・・・・・」
「電話くれたのに自分が家にいなかったら悪いなあと思って。
なんや、待機してることが義務みたいな感じになってますわ」
年が明け、1988年1月29日に千翔が3歳の誕生日を迎えた頃には、男と女として付き合い始めていた。
大竹しのぶは、夫を亡くして1年も経っていなかったので、明石家さんまと交際していることは誰にも打ち明けなかった。
芸能界一、女性スキャンダルが多い明石家さんまのマンションの前には、常に記者が乗った車が数台いて、向かい側の建物にカメラマンがいることもあった。
だからデートは、事務所などで待ち合わせをして、人目に避けて
「部屋から部屋」
へ移動。
あるとき大竹しのぶはコロコロつきのキャリーバッグに入れられ、明石家さんまは、9階からそれを転がしていった。
タクシーを拾って、バッグを積もうとしたが重くて乗せられない。
「トランク開けましょうか?」
運転手がいってくれたが、バッグの中から拒否のうめき声が聞こえたので、なんとか座席に放り込んだ。
車が走り出すとガタガタ揺れ、バッグの中の大竹しのぶは体が痛くなった。
「苦しい」
バッグの中から声がしたので明石家さんまがチャックを少し開けると口が現れて息をした。
7月、服部春治の1周忌が迫った頃、映画「いこか・もどろか」で2人は共演することが決定。
さらに大竹しのぶは体に変化があった。
「私、妊娠したみたい・・・」
「結婚しよう」
明石家さんまの反応は速く、かつストレート。
しかし大竹しのぶは
「服部春治を裏切ってしまう」
という思いがあり、即答できなかった。
プロポーズは保留したが、子供産むことにためらいはなかった。
事務所に妊娠したことを報告すると
「自分の立場、わかってる?
それにテレビの連ドラが決まっているのよ。
お願いだから産まないで」
といわれたが、
「絶対に産みます」
と答えた。
仕事で迷惑をかけてしまうことに申し訳ないという気持ちはあったが、妊娠したことに後ろめたい気持ちはなかった。
「夫の1周忌を過ぎたばかりで世間の目にはふしだらと映るかもしれない。
自分自身「少し早い」と思ったのも事実。
だけど私は過ちを犯して妊娠したわけでじゃない」
しかしこの後、大出血し、あわてて病院にいくと緊急入院を命じられ、流産したことがわかった。
「アカンかったか」
かけつけた明石家さんまは肩を落としてつぶやいた。
そして真顔でいった。
「結婚しよう。
退院したらすぐに記者会見やろう」
大竹しのぶは黙ってうなずいた。
明石家さんまは、東京のマンションで村上ショージ、Mr.オクレ、ジミー大西にいった。
「まだ誰にもいうたらアカンで。
結婚する」
「け、け、結婚」
「あの女ちゃうで。
もう別れた」
「ほな誰と」
「大竹しのぶや」
「若っ、おめでとうございます」
「おう、ありがとな」
「結婚なんて滅茶苦茶うらやましいです」
「そうか。
ジミーも結婚願望あるんか?」
「滅茶苦茶あります」
「結婚のどこがエエねん」
「結婚したらソープ行かんでええやないですか」
「それ?
いやもしかしたら金とられるかもわかれへんで。
女は怖いからのお。
ええか、くれぐれも内密にな。
頼むで」
大竹しのぶが退院した日、2人は記者会見を開いた。
かねてから交際の噂はあったものの、事前に結婚の情報はマスコミにも一切知らされておらず、突然の発表に世間は驚いた。
島田紳助は明石家さんまに祝儀袋を投げて渡した。
「それ、お前にやないで。
大竹さんに渡してや」
「何で嫁やねん」
「お前に渡しても感謝せえへん」
「人聞き悪いこというな。
最近、お礼いえるようになったんや。
ありがとう」
「礼はできても、自分、心がないやんか」
「あるわ!」
一緒に暮らし始める日、大竹しのぶと二千翔は、新しいマンションで明石家さんまを出迎えた。
二千翔が何かをいったが、明石家さんまは、よく聞きとれず、
「んっ?
なんて?」
すると二千翔は新しい父親に向かって、もう1度ハッキリといった。
「愛の始まりやな」
それは両親が共演した映画「いこか・もどろか」の中で明石家さんまがいったセリフだった。
関西人が相手を
「お前」
と呼ぶのは親しみの証。
京都出身の島田紳助が
「最初は人の心にズケズケと土足に入ってこられるのがイヤだったが、だんだん気持ちよくなる」
という大阪独特の文化のひとつ。
しかし明石家さんまがそう呼ぶと、東京生まれ東京育ちの大竹しのぶは
「お前とかいわないで」
同居しているおばあちゃん(大竹しのぶの母親)にも、
「失礼ね」
と怒られた。
そして
「お母さん」
と呼ぶと
「私、あなたを産んだことはありません」
といわれた。
ある日、
「もう寝るね」
といって大竹しのぶが先に寝室へいくと、夜中、
「ヒィー、ヒィー」
という声が聞こえてきたのでリビングをみると自分が出ている番組をみる明石家さんまがいた。
謎の声は、息を吸いながら笑うことにより発生する引き笑い音。
自分が出ているシーン以外を早送りしながら、
「うまいな」
「ナイス」
と1人で自画自賛しながら笑う明石家さんまに
(どこまで自分が好きなんだろう)
とコワくなった。
基本的に明石家さんまの風呂は早く、15分くらい。
ある日、風呂上りにキンキンに冷えたプッチンプリンを食べようと冷蔵庫から冷凍庫へ。
楽しみにしながら風呂から出ると、テレビをみながら
「プッチンもせずに」
プリンを食べる大竹しのぶがいた。
「俺のプリンやないかい」
と怒ると
「買ってくればいいじゃん」
と返されたので
「プッチンくらいしろ」
といった。
ある日の午前3時、きな粉が大好きな明石家さんまがどうしても食べたくなって買いにいくために支度をしているところ、大竹しのぶが起きてきた。
「どこ行くの?」
「きな粉買いにいくねん」
「なんで?
明日にすればいいじゃない」
「明日やったらアカンねん。
今やねん」
いかにも明石家さんまらしい言葉だが、大竹しのぶは、
「おかしいんじゃないの?」
といい捨てて、寝室へ戻っていった。
大竹しのぶが魚を焼いていると煙が出て、火災報知機を鳴ったことがあった。
明石家さんまは、それをテレビで
「『ウーッ、ウーッ』ってサイレンが鳴って消防車はくるわ、『さんまさんのウチよ』って近所の人が集まってくるわ、大騒ぎになった」
「ホースを持った入ってきた隊員に「すいません、サンマ焼いてて煙が出て」と説明すると「じゃあここ(ホース)にサインしてもらえます」といわれた」
と話した。
大竹しのぶが
「魚を焼いていて煙が出て火災報知機が鳴ったまでは本当だけど消防自動車は来てないから!
そういうのやめてくれる!」
と抗議したが
「火災報知機が鳴っただけで終わられへんやろ」
といった。
間寛平が、 アテネからスパルタまで246kmを不眠不休で36時間以内で走るというスパルタスロンスに挑戦。
番組から
「なんとかさんまさんも・・・」
といわれた間寛平は
「テレビが来てくれんねんけど一緒にギリシャにいってくれへんか?」
明石家さんまは
「寛平兄やんの頼みならいったんで」
と応じた。
ギリシアに着くと100kmまでは取材禁止ということがわかり、暇で仕方ない明石家さんまは女性スタッフに
「走るわ」
といって42.195㎞のマラソンに挑戦。
練習も何もしていないので
「20㎞くらい走れたらええな」
と思いながらスタートし、途中、タバコも吸いつつ走ったが、あれもかれよと6時間半で完走。
帰国して女性スタッフと共に家に戻った明石家さんまは、大竹しのぶに
「どうだった?」
と聞かれ、
「おう、マラソン走ったで。
あんなもんな、かんたんに走れるわ」
と答えた。
すると大竹しのぶに別室に連れていかれ
「なんでぇ?
人の気持ちわかんないの?」
と怒られた。
実はその女性スタッフは、「マラソンを走れるまで」という1人の人間が42.195㎞を走れるようになるまでの感動ドキュメンタリー番組を撮っていて、それが代表作だった。
そんなことは知らない明石家さんまは、
「ハァッ?」
と聞き返し、わけのわからないうちに、また夫婦の絆に亀裂が入った。
結婚式もせず、新婚旅行も行かず、結婚指輪もつくっていなかったので、明石家さんまは、オーストラリアでダイナマイト9本を使ってつくった25mの深さの穴に自ら潜ってオパールを採掘。
オパールは、サンスクリット語で「宝石」を意味する 「upālā[s] 」が語源。
和名「蛋白石(たんぱくせき)」という人気の宝石。
それを大事に持って帰国し、家の玄関を開けたとき、台所からお手伝いさんに話す大竹しのぶの声が聞こえてきた。
「今日帰ってきちゃうのよね。
早いわよね
またご飯の支度しなくっちゃ」
明石家さんまは、めげずにオパールを研磨に出して指輪を制作。
その
「自分で命がけ掘り当てたヤツ」
を使って
「死ぬ思いでつくった指輪」
はオパールの周りにダイヤが敷き詰めた豪華なものだった。
それを
「喜ぶやろな」
と思いながら大竹しのぶに渡すと
「オパール、小っちゃ」
といわれた。
直径10㎝程度あったオパールは、研磨後、米粒のようになっていたが、明石家さんまの心もスリ減った。
1988年10月に結婚した大竹しのぶは、自主的に仕事を休んで家庭に入った。
2歳のときに実母を亡くし、
「ウチの子供はこの子だけや」
といって自分が産んだ子供をだけをかわいがる継母をみて、枕を濡らした経験を持つ明石家さんまも、それを望んだ。
しかし16歳でデビューし、出産前後以外は人が大勢いる現場で仕事をしてきた大竹しのぶは、主婦業は決して嫌いじゃなかったものの、いきなりそれだけになったことでエネルギーを発散させる場所がなくなり、さみしさを感じた。
また明石家さんまは仕事先から1日何度も電話をかけてきて、出かけるときは何時に帰るのか伝えなければならず
「窮屈だな」
と息苦しさを感じることもあった。
驚いたのは、明石家さんまの金銭感覚。
まったくお金に無頓着で、誰かが旅行に行くというと100万円をポンと渡す気前のよさが理解できなかった。
また芸人特有の風習や上下関係にも馴染めなかった。
明石家さんまの師匠が初めて家に来たとき、大竹しのぶは子供をあやしながら料理をつくり、キッチンとテーブルを往復。
1度も同席を求められることもなく、
「私はお手伝いさんなの?」
と思いながら、会食が終わった後、1人さみしくお茶漬けをすすった。
あるとき明石家さんまが後輩とテニスするのをみていると、さんまが打ったボールがラインをオーバーしてもアウトにならない。
最初は黙っていたが何回も不正が行われるのをみてガマンできなくなって
「今のアウトじゃない?」
しかし後輩たちは、
「入ってるようにみえましたけど」
「入ってました」
と口をそろえ、明石家さんまも
「あ、うん。
まあそれはエエがな」
といったため、
「なんでぇ~?」
後輩が入院してお見舞いにいった明石家さんまが
「こんなに忙しいのに、後輩のお見舞いにいく俺って・・・」
というをみたときも
「心からしてるんじゃないんだ
お見舞いしてもらった人がかわいそう」
と思った。
また明石家さんまは、よく仲間を家に呼んでマージャンやポーカーをした。
賭け事が嫌いな大竹しのぶは、外でやられる分はまだ我慢できたが、自分や子供の前でお金をやり取りをされるのは見過ごせず、
「お願い。
子供の前でギャンブルはやめてくれない?」
と頼んだ。
大竹しのぶは家事をこなしていたが、その中に明石家さんまを家から送り出すこともに自分の仕事として課していた。
しかし二千翔の幼稚園で初めて参観日があって、前日から母子共にとても楽しみにしていたのに、翌日、明石家さんまが朝寝坊。
送り出すのに時間がかかっった大竹しのぶは、20分遅刻して幼稚園に到着。
すると下駄箱でポツンと1人、二千翔が立っていた。
「ここでお母さんを待つんだっていうもんですから。
1人にさせちゃてすみませんでした」
出てきた先生は、申し訳なさそうにいった。
大急ぎで途中から参加して必死にみんなに追いつこうとする二千翔をみて、大竹しのぶは胸をしめつけられた。
「私が遅刻したばっかりに・・・
私がさんまさんに気を遣うあまりに二千翔にこんなさみしい思いをさせてしまっている」
一緒に暮らし始めて数ヵ月で、
「こういう人だったのかあ」
とギャップを感じていたが、この一件以降、明石家さんまといい争うようになった。
それまで
「価値観の違い」
と目をつむっていたこともつむらず、明石家さんまが「いい」というものを賛同するのがイヤだったので否定し、自分の方が正しいと主張。
そしてケンカをする度に
「仕事をしていないからネガティブ思考になっているのかな?」
と気持ちが落ち込んだ。
明石家さんまは、つき合っていたとき、
「私、握力が12㎏しかないの。
・・・・・・(少し間をおいてからかわいく)ホントだもん」
といっていた大竹しのぶに胸ぐらをつかまれて
「58㎏はある」
と思った。
明石家さんまといい争っては自己嫌悪に陥るという悪循環を繰り返しながら、大竹しのぶは妊娠。
前回、流産した経験から身体を大事にしたが、いい争いの日々は続き、再び大出血。
病院で医師に怒られたが、流産は免れ、その後はお腹の子供に、
「ごめんね
お母さん、頑張るからね」
「あなたのこと大好きだから。
待ってるからね」
としょちゅう話しかけて気持ちを立て直した。
そして1989年9月19日、女の子を出産。
明石家さんまは、興奮状態で病院にかけつけてデレデレ顔で赤ちゃんをのぞきこんだ。
そして「イマル」と命名。
これに
・1.イマル、2.二千翔、3.さんま、4.しのぶ
・生きているだけで丸儲け
というは2つの意味があった。
大竹しのぶは素直に感動したが、一緒に暮らしているおばあちゃん(大竹しのぶの母親)は、
「イマルなんて。
絶対にオマルとかいわれてイジめられますよ」
と反対。
明石家さんまは心の中で
[ そういうアンタの名前、エステルやないかい!]
大竹しのぶの母方の祖父は、吉川一水というキリスト教の大家で、娘(大竹しのぶの母親)を「江すてる(エステル)」と名づけていた。
大竹しのぶとイマルが退院した日、3人で病院の近くを歩いていると、ジャガーが横を通り過ぎて停車。
そしてバックしてきた。
明石家さんまは
「ウワッ、変なんにカラまれた」
と思ったが、横づけになったジャガーのパワーウィンドウが下がると、美輪明宏がいて
「イチャイチャしてんじゃない」
といわれた。
1989年9月にイマルが誕生した後、10月に「俺たちひょうきん族!!」が終了。
明石家さんまは、育児に専念するため、レギュラー番組を「笑っていいとも」「さんまのまんま」「あっぱれさんま大先生」の3本に仕事量をセーブ。
家に帰ってくるとイマルよりも先に二千翔に触れて、顔をくしゃくしゃにしながら遊んだ。
大竹しのぶは、それをみて
「実の子ではない息子に引け目を感じさせたくないという思いやりからそうしてくれている」
自分のことを「ボス」と呼ばそうとすることも
「もしかしたら実の父親でない自分をお父さんと呼ぶことを無理強いしたくないということかもしれない」
と思った。
二千翔は、喘息持ちで、かつアレルギー体質。
よく発作が起きるため、常に薬を持ち歩き、食事制限を強いられていた。
「こんな小さい時期から薬漬けで成長に必要な食べ物も摂ることができないなんて、本当に正しいのかな?」
大竹しのぶは疑問を抱きながらも気をつけて食事をつくり、薬を飲ませていた。
明石家さんまにしてみれば、それは
「心配しすぎ」
あるときに二千翔が発作を起こしたとき、
「ヨシッ、俺が治す。
エエか、絶対に薬飲ませたらアカンぞ」
と宣言。
当時、
「人間痛いときに手で押さえるっていうのは、気を送っているんだと。
手のひらに治す能力があるっていうのをずっとやってた」
と気や気功というものに凝っていた明石家さんまは、二千翔の枕元に座って
「気って信じてるもん同士しかアカンねん。
どうする?」
と聞いた。
「信じる」
と答える二千翔は、激しくせき込んだせいで目が涙ぐんでおり、大竹しのぶは、それを涙を流しながら見守っていた。
「大丈夫や。
俺の気で直したる」
明石家さんまはいったが、同居しているおばあちゃん(大竹しのぶの母親)は血相を変えて、
「こんなに苦しんでいるのになにいってるの?」
「お義母さん。
1日だけ時間をください」
明石家さんまも譲らず、おばあちゃんは最終的に
「もう離婚です」
というほど怒った。
電話で事情を知った大竹しのぶの姉も
「自分が病気したことがないから病人に気持ちがわからないのよ」
「気で病気が治るわけないわよ」
と明石家さんまのやり方を否定した。
それでも明石家さんまは
「大丈夫や。
がんばれ。
治したるから」
といって一晩中、一睡もせずに必死に二千翔を励まし続けながら、患部に手を当てて、文字通り「手当て」
不思議なことに朝になると二千翔の発作は治まり、さらに不思議なことに、それ以降、発作はピタリとなくなった。
薬を飲むことがなくなった二千翔は、風邪をひいて熱が出て、大竹しのぶに
「ボスに気を遣わなくていいんだよ。
薬飲みなさい」
といわれても
「自分で治す」
といって拒否するようになり、他力本願から自力本願へ変貌。
散々、反対していた大竹しのぶの姉は、明石家さんまに謝罪もせずに気功教室に通い出した。
大竹しのぶと明石家さんまは、絵本を読んでイマルと寝かせていた。
大竹しのぶが舞台のように表現豊かに読み聞かせていると、イマルは
「うるさーい」
と怒り出し、さんまも
「感情込め過ぎ」
とダメ出し。
続いてさんまが気合いを入れて面白おかしく話すとイマルは興奮して
「ダァーっ」
大竹しのぶは
「オーバ過ぎ。
寝ないでしょ」
とダメ出しした。
ある日、家に遊びに来ていたジミー大西が絵本を読むことになった。
ジミー大西を顔をみた途端、ベッドの中のイマルはケタケタと笑った。
「いくで」
といってジミー大西が絵本を読み始めると、たどたどしい読み方ながら、どこかユラユラゆれるゴンドラのような優しいリズムがあり、みるみるイマルの目はトロトロになり、気づけば寝息を立てていた。
「イマルちゃん、寝てもうた」
ジミー大西がベッドの向かい側をみると、さんまと大竹しのぶも伏せるように眠っていた。
ジミー大西は、休みになると明石家さんまの家に遊びにいっていた。
ある日、大竹しのぶが朝食をつくっているとジミー大西がやってきて
「コレ、つまらないものだんですけど」
と紙袋に入った大量のジャガイモを渡された。
「なになに、どうしたの。
何かボスに頼み事?」
「ちゃいます」
「ホントかなあ」
2階から寝起きの明石家さんまが下りてくると大竹しのぶは紙袋をみせた。
「久しぶりに来たと思ったら、なに企んどんねん」
そういう明石家さんまにジミー大西は頭をかいて仕事の悩みを打ち明けた。
「ようわからんのです。
なにをしたらエエか」
「アホか。
そんなん、お前、好きなんやったらエエがな」
「好きなことしていいんですか?」
「人間はな、好きなことせな進歩せえへんの」
ここで大竹しのぶが
「でもさ、嫌いなことでも好きになる努力すれば進歩じゃない?」
「それもありや。
でも好きなことしてるときは努力してるなんて意識ないやろ」
「そうだよね」
「そもそも俺は努力いう言葉、嫌いやねん。
辞書から消したいねん。
俺、エエこというたな。
よしっ、メシ食おう」
「はい、いただきましょう。
ほら、ジミーちゃんも」
別の日、ジミー大西は突然やってきて
「引退したいんです」
明石家さんまは、
(1週間もすれば気が変わるだろう)
と思い
「1週間しっかり考えろ」
といって帰した。
そして1週間後、家に来たジミー大西に明石家さんまが確認。
「それでどうすんねん」
「ストリッパーのヒモになります」
それを横からみていた大竹しのぶはいった。
「あなた本当にバカね」
ちなみにあるとき、大竹しのぶが村上ショージのことを思い出せず
「ドゥの人」
といったとき、明石家さんまは
「違う。
(勢いよく、ジェスチャーつきで)ドゥーンや」
と訂正した。