佐山聡が虎のマスクを脱ぐまで

佐山聡が虎のマスクを脱ぐまで

1981年4月23日、突然、リングに現れたタイガーマスクは、2年4カ月後、突然、消えた。


1981年4月21日、イギリスにいた佐山聡が成田に到着。
4月22日、虎のマスクが渡されたが、日本にマスクをつくる職人や工房がなく、新日本プロレスのグッズをつくっていたビバ企画が制作し、しかも与えられたのが数日間だったので、白いマスクに黄色と黒のポスターカラーで描いただけにシロモノだった。
4月23日、試合当日、マントが届いたが、マスク同様、ペラペラでチープなつくりだった。
佐山聡はそれをつけ、アントニオ猪木 vs スタン・ハンセンのメインの前、セミファイナルの花道に出た。
満員の蔵前国技館に拍手はほとんど起こらず、失笑さえあった。
対戦相手の「爆弾小僧」ダイナマイト・キッドは、173cmと小柄ながら圧倒的な筋量を誇り、まるで命を削るような危険を顧みない激しいファイトが身上。
ケガを恐れないことを自らに課すと同時に、自分の攻撃に対戦相手が対応できなければ壊すことも厭わず、古舘伊知郎に
「全身これ鋭利な刃物」
「カミソリファイト」
といわれていた。
試合が始まるとタイガーマスクは組み合おうとせず、軽快なステップでリングを回り、距離を保ちつつ、速くて多彩なキックを繰り出し、手首をリストをつかまれるとヘッドスプリングで切り返した。
打点の高いドロップキック。
後方宙返りしながら相手を蹴るサマーソルトキック。
場外のダイナマイトキッドに飛ぶと思いきや、ロープの間をクルリと旋回してリングに戻るフェイント。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した「3次元殺法」に観客は驚愕。
一瞬の気の緩みも許されない、緊張感あふれる試合を古館一郎は、
「肉体の表面張力の限界」
と表現。
最後はスープレックス爪先立ちの完璧なブリッジで抑え込み、タイガーマスクが勝利した。
この10分間の戦いでスーパースターが誕生。
空前のタイガーマスクブームが到来した。

新日本プロレスは、アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰己、長州力、「不沈艦」スタンハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどヘビー級のスターが揃っていた。
藤波辰巳や佐山聡はジュニアヘビー級で、迫力と強さで劣るはずだが、タイガーマスクの人気はそのすべてを超えた。
試合会場は、常に超満員。
毎週金曜日20時の「ワールドプロレスリング」の平均視聴率は20%を超え、裏番組の人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」を脅かした。
それまでプロレスに興味を持っていなかった女子中学生や女子高生にもタイガーマスクは話題になった。
タイガーマスクの正体は誰なのか、みんな知りたがり、
「千代の富士」
という人もいた。
新日本プロレスはバスで会場入りするとき、多くのファンが待ち受ける中、全員が虎のマスクをかぶって出ていって巻いた。
タイガーマスクグッズはバカ売れ。
次々とサイン会や握手会などイベントが開催され、佐山は数十万円のギャラをもらい、スポンサーの食事会にもマスクをかぶったまま出席。
あまりの忙しさに深夜、1人でトレーニングすることもあった。

新日本プロレスに入ったばかりの山崎一夫は、タイガーマスクをみて
「こんな動きできる人いるんだ」
と思っていたが、坂口征二に
「お前、ついちゃれ」
といわれ、5歳上の佐山聡の付き人になり、マスクやマントを洗濯した。
「佐山さんの付き人は大変そうと思うかもしれないですが、ホントに気の優しいお兄ちゃん的な感じで、付き人の中で1番ってくらい楽でした。
地方に行くたびにサイン会があるんです。
僕とケロちゃん(田中秀和リングアナ)がついてって、ケロちゃんが司会をするんですが、控え室に数百枚、色紙が置いてあって、それを3人で分けて『TIGERMASK』って書くんです。
それで終わったら『はい、山ちゃん』ってお小遣いをもらってました。
巡業に出るとみんな最後はすっからかんなんですよ。
でも僕だけは増えているんです」

1982年1月、週刊ヤングジャンプが
「タイガーマスクと素人挑戦者と戦わせる」
という企画を発案し、新日本プロレスはOK。
誌上で挑戦者が募集され、書類選考の末、10名が選ばれた。
その中には190cm、95kgの空手の有段者も含まれていた。
彼らはまず新日本プロレスのレスラーと予選を戦い、互角以上の勝負をすればタイガーマスクと対戦できることになった。
新日本プロレス側は、山本小鉄、藤原喜明、前田日明が相手をした。
1人目を小鉄、2~4人目を前田が片づけ、藤原は5人目と6人目を倒した後、7人目にアームロックを極めた。
ギブアップしない相手に小鉄は
「早くまいったしろ。
腕が折れるぞ」
といったが、それでも我慢するため藤原は最後の一押しを加えた。
「ギャー」
という絶叫と共に腕が折れ、それをみて190cm、95kgの空手使いを含め、残りは辞退。
この後(1982年2月)、前田日明は、契約が残っていた佐山聡に代わりにイギリスに行くことになった。
5年間、藤原喜明とスパーリングを積んできた前田日明は、待望の初海外遠征でサミー・リーの弟「クイック・キック・リー」としてイギリスのリングに上がった。

1982年8月26日、スポニチと東スポが
「タイガーマスク結婚」
と報道。
マスクをかぶった佐山聡と婚約者の女性の写真を大きく掲載。
佐山聡は
「恋人の写真を信頼していた記者に預けたところ無断で暴露されてしまった」
というが、その女性は、1977年に練習中に猪木に投げられて肩を痛めていった整骨院の娘。
彼女は高校生のときに治療に来たキラー・カーンに、
「乳首の色は何色かな」
と1人のときにいわれて以来、プロレスラーに悪い印象を持っていたが佐山と付き合うようになった。
新聞記事を知った新間寿は烈火のごとく怒った。
「まだまだタイガーマスクはこれからなのにいったい何を考えているんだ。
そんな浮ついたことでスター街道が歩めるか」
翌27日、後楽園ホール大会で新間寿は観衆の前で
「タイガーマスクは結婚しません」
と報道を否定。
マスコミは
「人権無視」
と非難した。
「冗談じゃない。
タイガーマスクと佐山聡は別ものだ。
タイガーマスクは会社の財産であり、これからまだまだ稼いでもらわねばならないレスラーだ。
企業防衛として結婚を打ち消すのは当然のことだ」

1982年11月、小林邦昭がタイガーマスクをコーナーに逆さづりにしてマスクに手をかけて破った。
会場は騒然となり、16分57秒、小林は反則負けとなったが、2ヵ月後の再戦でもマスクを破り、敗れたマスクの下から髪の毛や顔の一部がみえて、カメラマンが群がった。
以後、小林は「虎ハンター」といわれるようになり、タイガーマスク vs 小林邦昭戦の視聴率は必ず20%超えた。
小林は試合後、タイガーファンの女子高生に囲まれ
「バカじゃないの」
といわれたり、上部分にカミソリを仕込んだ封筒で指を切り、中の手紙をみると
「死ね」
と赤い文字で書いてあったり、長野県の実家も2階の窓に生卵を食らった。
しかし小林邦昭は内心
「やった」
と思った。
佐山聡も人間として尊敬していた先輩、小林邦昭が売れたことを喜んだ。
小林邦昭がマスク剥がし、山崎一夫が替えのマスクを持ってリングに上がってかぶらせたことがあった。
以後、マスクが剥がされると会場から
「山ちゃん、早くぅ」
という声が上がった。


1982年10月、アントニオ猪木の個人事業の1つ「アントン・アイセル」が社債を発行し、新日本プロレスの全社員は購入が義務づけられた。
すべての社員、レスラーが100万円以上を出し、坂口征二は自宅を担保に入れ、藤波辰巳は妻の実家から借りるなどして幹部クラスは数千万円を出した。
アントンハイセルは1980年、ブラジルで設立された。
当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けだった。
猪木は自民党の大物議員に
「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ、逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得された。
実際、プロジェクトを進めていくとサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りカス(バガス)が公害問題となった。
バガスを土中に廃棄すると土質が悪化し農作物が取れなくなり、家畜に飼料として食べさせると下痢を起こし、バガスを食べた家畜の糞を有機肥料としようとしたが気候の問題で発酵処理に失敗。
さらに追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレによりアントンハイセルの経営は悪化していった。

1982年11月7日、TBS「マイスポーツ」で「タイガーマスクは本当に強いのか」という特集があり、さまざまな体力テストが行われた。
佐山聡は90kg台の体で

100m走、12秒7
背筋力 293kg

など驚異的な記録を出した。
その後、タイガーマスクはメキシコ、ニューヨークに遠征。
MSG(マジソンスクエアガーデン)でWWFジュニアヘビー王座を防衛。
12月15日、長期遠征から帰国した翌日、佐山聡は京王プラザホテルで婚約式を行い、新郎新婦の親族、仲人夫妻、新間寿、坂口征二が参加。
「3年間結婚させない」
といっていた新日本プロレスは海外で式を挙げてもよいと譲歩。
ただし仲人は会社が選定し参加するのは当人たちの両親のみで入籍はしないという条件だった。

佐山聡は秘密裏に行うことは仕方ないにしても、親族や友人を連れていきたいと主張した。
「その年(1982年)の暮れになって今度はロサンゼルスで結婚式を挙げさせるという話になった。
秘密裏に、もちろん籍も入れず、参加するの僕と彼女の両親だけという・・・・
その頃から新日本プロレスのフロントの腐敗がわかり始めた。
聞いてビックリみてビックリで、どうしてこんなことが許されるのかと悩むようになった。
なんのためにレスラーは痛い思いをしているのか・・・」
(佐山聡)
タイガーマスクのサイン会では謝礼のうち一定のパーセンテージが佐山聡の取り分だったが、あるとき新日本プロレスの経理部を通す場合と通さない場合があって、現地の主催者と直接取引して自分の懐に入れている社員がいることに気づいた。
同様のことがテレビCMやレコードでも起こっていた。
佐山聡はキーボードと液晶画面が一体になった東芝TOSWORD JW-1、59万8000円を購入。
まだ珍しかったワープロに身の回りで起こったことを打っていった。

1983年4月、春の契約更改で、ほとんどのレスラーが現状維持。
客は常に満員なのに給料が上がらないことにすべての社員やレスラーが不満に思う中、5月16日、長州力、アニマル浜口らが新日本プロレスの三重県津大会を無断欠場し
「新日(新日本プロレス)から脱退したい」
と表明。
「社長、これは職場放棄ですよ。
謹慎処分か退職処分にすべきではないですか」
新間はアントニオ猪木に訴えた。
「そう派手にやってくれるなよ。
そもそもは俺が昨年の長州造反を押さえつけなかったことが原因なのだろうが、長州が今回やったことにしてももう1つ心から怒れない部分があるんだよ。
この前もいったように俺も長州と同じことをして自分を主張してきたし・・・」
「いや、ペナルティを科して、それが受け入れられなければ辞めさせるべきです」
「俺は長州を信じている」

1983年5月6日に第1回IWGPが始まった。
「プロレス界における世界最強の男を決める」
とアントニオ猪木が世界中に乱立するベルトを統合し、最強の統一王者を決める「IWGP(インターナショナルレスリンググランプリ)」構想をブチ上げたのは2年前。
以降、新日本プロレスは新間寿が中心になって準備を進めた。
当初、IWGPは、開幕戦を日本で行い、韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし、ニューヨークで決勝戦を行うという計画だったが、プランが壮大すぎることや「プロレス最強の男を決める」ということに対し(当然、負けたほうが損だから)各地区のチャンピオンやプロモーターは難色を示すなど紆余曲折あり、日本国内でのリーグ戦に大幅に縮小され、

日本代表:アントニオ猪木、キラー・カーン、ラッシャー木村
北米代表:アンドレ・ザ・ジャイアント
アメリカ代表:ハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド
中南米代表:カネック、エンリケ・ベラ
欧州代表:オットー・ワンツ、クイック・キック・リー(前田日明)

の10名がリーグ戦を行うことになった。
前田日明はIWGPに参戦するため、3年の予定だったイギリス修行を1年で終了。
帰国する前にアメリカのフロリダに寄り、約1ヵ月間、カール・ゴッチからトレーニングを受けた。
このときトレーニングパートナーを務めたのが20歳の高田延彦だった。

1983年6月2日、IWGPリーグ戦は、最終的にアントニオ猪木とハルク・ホーガンが勝ち点で並び、蔵前国技館で優勝決定戦が行われた。
2人の戦いは一進一退だったが、途中、猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け、リング下に転げ落ち、レフリーのMr.高橘はカウントを数え出した。
「高橋、バカ野郎、待てよ」
坂口征二はリングサイドから飛び出し、猪木を抱えてリングに入れようとした。
しかし猪木はエプロンでうつ伏せになり舌を出したままピクリとも動かない。
坂口は舌が巻きついて呼吸困難ならないよう自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ。
試合はハルク・ホーガンの勝ちとなり、猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ、面会謝絶となった。
坂口と新間寿は病院で一夜を明かし、翌朝、病室に入ると、なんとベッドに寝ているのは猪木ではなく猪木の弟。
猪木は夜中にコッソリ抜け出していた。
自分が勝つよりも失神KOという衝撃的に負けるほうがカネになるという判断だったことに気づいた坂口は激怒。
「こんな話あるか。
ふざけるんじゃないよ。
俺は当分、会社出ないよ」
といい
「人間不信」
と書いた紙を会社の自分のデスクの上に置いてハワイへ旅立った。

2、3日後、新間寿は病院に挨拶にいき、猪木が途中で帰ってしまったり、マスコミが病院に押しかけて大騒ぎになったことを謝った。
「ご迷惑をおかけしました」
すると看護師がいった。
「私たちはあの試合を見させていいただきました。
新間さんや猪木さんはプロレスではプロかもしれません。
でも私たちは看護のプロです。
猪木さんがやったように舌を出したま失神するというのは医学的にありえません。
あれは猪木さんの芝居です」
新間はショックだった。
勝つべき試合で猪木は失神KOされ、今は雲隠れしている。
坂口はいなくなってしまう。
いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからなかったが、この事件をきっかけに新日本プロレスは悪い方向に向かっていった。
「やはりレスラーはリング上で強くなくてはならない。
そうでなけれぱ示しがつかなくなる。
IWGPの優勝を猪木が逃すことによって組織のタガが外れてしまったのだ」
(新間寿)

1983年6月18日、新日本プロレスの株主総会が行われ、
「売上19億8000万円、利益750万円」
と発表。
アントンハイセルは数年で数十億円の負債を出し、猪木はテレビ朝日に放送権を担保に12億円を肩代わりしてもらったが補え切れず、新日本プロレスの収入の大半を補てんに回していた。
「ハイセルを軌道に乗せて新日本プロレスのレスラーたちの引退後の受け皿にするつもりもあった。
レスラーはケガや事故の危険と隣り合わせの商売だ。
将来の生活が約束されていれば安心して過激な戦いに没頭できる」
猪木はそういうが私的流用であることは間違いなかった。
山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹(新日本プロレス営業部長)らは、密かにに新団体をつくることを画策。
「そのためにはタイガーマスクがいる」
と考えた。

1983年7月、サマーファイトシリーズを猪木は欠場。
7月12日、佐山聡は札幌のホテルで藤波辰巳に声をかけられ、会社の問題について話し合った。
7月14日、札幌中島体育センターでの試合が終わってホテルの部屋に戻るところで佐山聡は大塚直樹に
「話がある」
と声をかけられ、クラブに移動。
「私達は新日本プロレスを辞めて新しい組織をつくります。
8月いっぱいで営業の者は突然いなくなります」
といわれた。
7月22日、函館にいた佐山聡は、1ヵ月後(8月18日)にロサンゼルスでの結婚式をすることが決まっていたが、東京の新日本プロレス事務所から、
「もしタイガーが友人をロスに連れていくなら結婚式はブチ壊す」
という新間寿の伝言を受けた。
ブチ壊すと聞いてブチ切れた佐山聡は、伝言を伝えた伊佐早敏夫(宣伝企画担当主任)に
「会社を辞める」
と伝えた。
7月27日、新間寿は興行が行われていた金沢市産業展示場に飛んで、佐山聡に友人の参列を認めた。

7月29日、富山で山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹、佐山聡らが会合。
山本小鉄に
「新団体は猪木、新間、坂口を除く」
といわれた佐山聡は違和感を感じた。
師であり恩人であり神であるアントニオ猪木を裏切るなど考えられなかった。
「本当にクリーンな会社ができるというのなら100%協力します。
ただ猪木さんは僕にとってどんな人間かわかってください」
会合後、態度を明らかにしない佐山聡に大塚直樹は
「新日を出るなら500万円払う」
といい、
「もう営業は全員やめるつもりなんですよ、ほら」
と部下から預かっていた辞表をみせた。
佐山聡は
「猪木さんは恩師、山本さんは先生、他のレスラーも仲間なんです。
新日本をクリーンな団体にすることは賛成なんですけど、どちらかの側に立つということはできません」
と答えた。

1983年8月3日、新日本プロレスは兵庫県三木市から神奈川県横須賀市に移動。
横須賀市総合体育館での試合の後、吉田稔(新日本プロレス営業部)、上井文彦(新日本プロレス営業部)、藤波辰巳、佐山聡が話し合った。
山本小鉄たちがやろうとしている新団体が
「本当にレスラーのためものなのか?」
「本当にクリーンな団体なのか?」
「今度は自分たちが甘い汁を吸おうとしているだけではないのか?」
などと疑っていた4人は、最終的に
「信用できない者に加担するより、信じられる者同士でユニオン、またはプロダクションをつくろう。
ただし本来は全員一緒が1番いいので山本さんたちとは最後まで話し合う」
ということになった。
「よし、これからはまとまってやっていこう」
(藤波辰巳)

しかし佐山聡は、すでに新日本プロレスを辞めて、新しい格闘技をやることを決めていた。
8月4日、藤波辰巳たちと話し合った翌日、シリーズ最終戦で
「新日本プロレスはこれが最後だろう」
と思いながら蔵前国技館のリングに立ち、タイガースープレックスで勝利。
8月8日、新日本プロレスはシリーズ終了後の慰安旅行で群馬県の草津温泉へ。
ここで佐山聡は新間寿と2時間ほど話をした後、翌日に行われるサイン会のために東京へ引き揚げた。
8月9日、東京行の特急「谷川8号」に乗ろうとしていた新間寿に東京から
「下関 キエタ」
と電報が届いた。
これは佐山聡がサイン会に現れなかったことを意味し、あわてる新間寿をみながら大塚直樹は
「いよいよ動き出したか」
と思った。
佐山聡は2日後(8月11日)にカナダが試合が、8月18日には)ロサンゼルスで結婚式が決まっていたが、
「新日本プロレス主導の結婚式を阻止するために何か起こす」
と予想していたのである。
同日18時、佐山聡は、新日本プロレスの道場でテレビ朝日のスタッフと「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に出演するための打合せを行った。
翌8月10日18時、収録開始。
この後、同じテレビ朝日でヘルシンキ世界陸上にタイガーマスクの出演が決まっていたが、佐山聡はスタジオに姿をみせず、新日本プロレスに自らの契約解除書類を送付した。


8月11日午前1時、佐山聡は東京スポーツ編集部に電話した。
「10日付で新日本プロレスに契約解除を申し入れました」
『えっ!?』
「一方的に私のほうから辞める旨を申し出たんです」
『なぜ?』
「いまは詳しいことはいえません。
ただプロレスが好きだから私はプロレスを去らなければならないということなんです」
『もっと具体的に・・』
「私には1つの夢があった。
今のまま新日本プロレスにいては、それが潰れてしまう。
それ以外の理由はいえない」

朝になると新日本プロレスは緊急会議を行った。
新間寿は何が起こったのか理解できず、大塚直樹は新日本プロレスを離脱した佐山聡を自分たちの団体に引き入れることを考えていた。
佐山聡が送った書類は、1ヵ月前から弁護士と作成したもので

・会社の経理の不正
・一部の社員の不正

を指摘した上で
「穏便に契約解除すれば公表しない」
としていた。
昼になると東京スポーツの早刷りが届き、新日本プロレス事務所は次々に問い合せの電話が鳴り
「タイガーマスクが辞めるかどうかは、まだわかりません」
と答えた。
13時半、新間寿、大塚直樹、坂口征二が記者会見。
「ウチとしてはどんなことがあっても引き止めに全力を尽くす」
とコメント。
会見後、新間樹は試合が行われるカナダに向かった。

8月12日、二子玉川駅近くの富士観光館で大塚博美(新日本プロレス副社長)、望月和治(新日本プロレス常務取締役)、山本小鉄、佐山聡が会合。
佐山聡は頭を下げて、虎のマスクと保持していた2つのチャンピオンベルトを返した。
大塚博美(副社長)、望月和治(常務取締役)は、テレビ朝日からの出向社員で、会社に佐山聡の主張を伝え、新日本プロレスの組織改革の必要性を訴えた。

8月13日、タイガーマスクがカナダでタイトルマッチを行い、日本でも中継される予定だったが、佐山聡がいないため、猪木の付き人として同行していた高田延彦が急遽、代役を務めることになった
21歳の高田延彦は、このTVデビュー戦をレッグロールクラッチで勝利。
古館一郎に
「青春のエスペランサ(ポルトガル語で「希望」)」
と呼ばれた。
週刊プロレスは
「タイガーマスクが消える?」
という見出しで、マスクを脱いだ佐山聡の後ろ姿とインタビュー記事を掲載。
肝心なことには
「答えられない」
というばかりの内容だったがバカ売れした。

8月18日、テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にタイガーマスクが出演し、マスクを脱いでテレビで素顔をさらした。
衝撃的なデビューから始まったタイガーマスク・ブームは2年4カ月で幕を閉じた。
結婚問題や経理問題、クーデター事件に嫌気がさしたこと、格闘技への情熱が理由と思われるが、一般的には謎だらけの衝撃的な引退で、それは「猪木舌出し失神KO負け事件」の比ではなかった。
8月21日、アントニオ猪木が帰国。
成田空港には1人の社員が出迎えにいき、大塚直樹ら数人の辞職願を渡した。
猪木は山本小鉄に連絡。
「佐山聡と会いたい」
と伝えた。
この時点で猪木は山本小鉄が新団体設立に動いていることを知らなかった。
1983年8月22日、猪木は自身が経営する六本木のレストラン「アントンリブ」で佐山聡と食事。
新日本プロレスに戻るように説得したが、佐山の決意は固かった。

8月24日、新間寿が帰国。
19時、アントニオ猪木は赤坂プリンスホテルでパーティーに出席。
同時刻、同ホテルの一室に山本小鉄、藤波辰巳、長州力らレスラーと社員、18名が集っていた。
これは偶然のバッティングだったが、彼らはアントニオ猪木、坂口征二、新間寿の退陣を迫り、それがなされない場合、一緒に離脱し、新しいスポンサーを見つけて新団体をつくることを誓い、「団結誓約書」に署名した。
佐山聡、前田日明も連絡をもらっていたが会合に参加しなかった。
8月25日15時、東京、南青山の新日本プロレス事務所で緊急役員会が開かれ、アントニオ猪木は代表取締役社長を解任された。
8月26日、坂口征二も副社長を退いた。
「忘れもしない1983年8月24日、まさに寝耳に水だった。
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声。
『新間、もうダメだ。
俺が両手をついて頼むから新日本プロレスを辞めてくれ』
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
何とも弱々しい猪木の声。
これが世界最強の男の吐く言葉か。
『な、何で、社長・・・・・・』
すぐには信じられなかった。
何が起こっているのかすらも理解できなかった。
が、猪木の声を聞いてるうちにプロレスの情熱がスーッと抜けていった」
(新間寿)


1983年8月29日、新日本プロレスは、望月和治、大塚博美、山本小鉄の3名を代表取締役とする新体制を発足。
こうしてクーデター側の勝利に終わったにみえたが、それは
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらウチ(テレビ朝日)は放送を打ち切るよ」
というテレビ朝日の重役の一言で終わった。
11月1日、新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木が代表取締役社長に、坂口が取締役副社長に復帰。
望月和治はテレビ朝日に戻され、大塚博美と山本小鉄は取締役に降格。
新間寿と大塚直樹は新日本プロレスを辞めた。
大塚直樹は、株式会社新日本プロレス興行を設立。
これが長州力らの大量離脱へとつながっていく。

一連の動きをみながら佐山聡は
「小さな道場をもって自分だけで理想を追求していこう」
と思っていた。
しかし
「一連のクーデーターを主導したのは佐山」
という報道が起こると、アントニオ猪木だけには誤解されるが嫌だったので直接会って説明するために猪木のマンションを訪問した。
そして
「なぜプロレスをおろそかにしたんですか」
と控えめながらも、そもそもの原因は猪木にあるといった。
横にいた倍賞美津子が泣き出し、猪木は
「わかった」
そして
「帰ってこい」
といった。
「猪木さん、昔、僕を新日本プロレスの格闘技第1号の選手にするっておっしゃいましたよね。
メキシコでもイギリスでも、タイガーマスクとして帰ってきてからも、その言葉を忘れたことはなかった。
今、僕はそれをやりたいんです」
猪木は腕組みをしたまま何もいわなかったが、誤解が解くことができた佐山はスッキリした気持ちで帰ることができた。

佐山聡は礼儀として自分を新日本プロレスに入れてくれた新間寿とも会った。
しかし
「新日本の腐敗の元凶は新間」
「自分を退社に追い込んだのは佐山」
と憎しみ合う2人は、京王プラザホテルで会うなり最初からケンカ腰。
険悪なムードに中、23時から7時間、話しているうちに、
「何っ?」
「えっ」
と驚き合い、たくさんの誤解があることに気づいた。
アントニオ猪木が辛夷本プロレスの社長に返り咲いて、3ヵ月後、1984年2月11日、東京、世田谷のスポーツジクラブの中で「タイガージム」がオープン。
佐山聡は、長年の夢、理想の格闘技実現のための第1歩を踏み出した。
一方、新間寿は、自分の団体をつくることを決意。
新日本プロレスからアントニオ猪木や長州力を引き抜き、自分を追い出した人間を見返してやろうと目論み、その復讐にための団体を
「UWF(ユニバーサル・レスリング連盟)」
と名付けた。

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桜庭和志  初代タイガーマスク、新日本プロレス、UWFに魅せられ、「プロレスこそ最強」のUWFインターナショナルに入団

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かつてサムライの国がブラジルの柔術にガチの勝負で負けて「日本最弱」といわれた時代、舞い降りた救世主は、180cm、85kg、面白い上に恐ろしく強いプロレスラーだった。


ジャンボ鶴田から始まる三冠戦ロード!全日本プロレス・三冠ヘビー級選手権の歴史・フルマッチ映像がスカパー!で独占配信!!

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CS放送・日テレジータスにて、1988年を紀元とする全日本プロレス・三冠ヘビー級選手権の歴史の創成期における貴重なフルマッチ映像を楽しむことができる「三冠戦の歴史【フルマッチ配信】」の放送が決定しました。


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世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

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葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

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人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

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開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

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ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

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2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。