
さんまは、高校卒業後、毎日、奈良の実家から兵庫県西宮市鳴尾町の笑福亭松之助の家まで90分かけて通った。
そして通い弟子生活に少し慣れていた頃、島田洋之介、今喜多代に弟子入りしていた長谷川公彦にと出会った。
長谷川公彦、後の島田紳助は、花月の楽屋通路で弟子っ子仲間が立ち話をしているのを発見。
その中にひときわ目立ち、ひたすらしゃべりまくる男がいて、
「ラテン系か?
日本にこんだけ陽気なやつおんねや」
と驚いた。
一方、さんまもこちらをジーっとみている男に気づいた。
角刈り頭で分厚い黒色のジャンパー、裾が広がったジーパン、先のとがった革靴を履いた男に
「松之助師匠の弟子になった杉本です。
よろしくお願いします」
と挨拶。
「ああ、どうも長谷川です。
俺も今年入ったばかりで。
よろしく」
「ああ、ほいだら俺ら同期やな。
いつ入ったん?」
「何歳?」
「師匠、誰?
「落語?」
「漫才するために整形したん?」
さんまは一気にまくしたて、自分のしゃべりについてきて的確に返してくる紳助に驚愕。
「コイツ、むちゃくちゃ面白い」
と感じた。

さんまの同期には、紳助の他に、桂小枝、オール巨人がいた。
最初、たくさんいた同期は、時間の経過と共に減っていった。
「世間は、素人やから許してくれるところがある。
本気で「芸人です」いうた瞬間、ハードルが上がる。
学校の人気者でおもろいといわれて、その気になって吉本入って自信失うヤツぎょうさんおる。
俺はずーーーっと天才やと勘違いして今ここにいます」
(明石家さんま)

紳助に会った1ヵ月後、大阪、心斎橋のブラザービルで上方落語協会主催の寄席が行われた。
舞台が終わった後、笑福亭松之助は師匠連中と飲みに行ったため、さんまは1人で帰ることになった。
4月だというのに冷たい風が吹き、寒さをこらえながら近鉄難波駅に向かって心斎橋を歩いていると、背後から肩を叩かれた。
振り返るとアフロヘアーの笑福亭鶴瓶がいて
「今から帰んの?」
とダミ声で聞いてきた。
鶴瓶は、松之助が兄貴と慕う6代目笑福亭松鶴の弟子。
入門2年目ながらに、その実力ですでに関西では知られた存在。
この日もトップバッターとしてひと際目立ち、舞台を降りてからも
「今日、客席にキレイな女の子がおったやろ」
といって下半身だけ裸で舞台袖から客席からのぞき、仲間を笑わせていた。

「自分、杉本いうの?」
「はい」
「いつ入ったん」
「今年の2月です」
「ああ、そう。
どこ出身?」
「奈良です」
「そうなんや。
今日、なんか寒いなあ」
「寒いですね」
鶴瓶は30円の大判焼きを2つ買って、1つをさんまに渡した。
それを頬張りながら自身の付き人時代の失敗談を話してさんまを笑わせた。
鶴瓶の優しさにさんまは感動したが、その後、数十年間、ことあることに
「あのときオゴったよなあ」
といわれ続け、
「30円で一生いわれるんだ」
と後悔。
大判焼きを10個ほど買って鶴瓶の顔にブツけたいと思った。

笑福亭松之助が自宅に芸人仲間を呼んで飲んでいるときのこと。
「杉本、お前の芸名やけどなァ」
「アッはい」
「お前んとこの家業、魚屋やったなあ」
「エッ、アッはい、水産加工業を」
「加工業か。
どないな魚扱こうとんの」
「さんまの開きを主に・・・・」
「ほなら、さんまや」
「ハッ?」
その場にいた芸人は全員爆笑、さんまはしばし呆然。
さんまに
「紳助って、そんな古臭い名前アカンやろう」
といわれていた島田紳助は
「おお、さんま君。
会いたかったよ。
ええ名前つけてもろうて。
なっさんま君」
といいにいった。
さんまは他の芸人からも散々イジられた。

さんまは奈良の実家から西宮のアパートの引っ越し。
4畳半1間で家賃は5500円。
部屋に家具はなく、あるのは布団だけ。
トイレットペーパーを節約するために大家の部屋を訪ねてトイレに行き、数回分をせしめた。
そして弟子になって2ヵ月後、異例の早さでデビューを果たした。
新喜劇と並ぶ吉本の定番演劇、コントと歌とダンスで構成される「ポケットミュージカル」で、さんまは、白塗り、女物の着物姿でオカマ役を演じた。
公演は10日間あったが、5日目、慣れてきたさんまは短い出番を終えると、着物の裾をまくり上げて、そそくさと舞台袖に引っ込んだ。
それをみた笑福亭松之助は
「アホか、お前は!
着物の裾まくり上げて歩くオカマがどこにおるねん」
と怒った。
初めて叱られたさんまだったが、その後、漫談でも舞台デビュー。
それは開演前の前座で、ギャラは250円。
まともにをみている客はおらず、最後まで笑いは起きなかった。

それでも舞台に上がり続けるさんまを、まだデビューしていない島田紳助はジッと観ていた。
紳助は「戦略ノート」をつけていて
「さんまは根っから、心底面白い。
人間疲れたときは面白いこといわれへん。
俺は疲れたり調子悪いと機嫌が悪くなるけど、さんまは熱が出ていてもアホちゃうか思うほど面白い。
俺は後輩がしょうもないこというてもノラへんけどアイツは相手が誰でもノっていく」
「さんまは動。
小枝は静。
静やけど面白い。
売れるとしたらさんまとはまったく違う形になる」
「巨人・阪神は技術がある。
これに技術で対抗したら負ける」
などと同期芸人を分析。
その他、売れている芸人、売れていない芸人、その実力、芸風、将来性など独自にデータ分析。
その上で自分の将来について、いろいろ作戦を立てていた。

初舞台から3ヵ月後、弟子入り後半年足らずで、さんまは「笑福亭さんま」として落語でもデビュー。
師匠方や吉本の人間もみている中、滑り出しは上々でリズミカルに噺を運んだ。
しかし途中でトンでしまい、少しの間黙った後、着物の襟を直して悪びれることなく
「最初からやらしてもらいます」
といって頭から話し始め、大きな笑いをとった。
温かい拍手を受け仕切り直すと、今度は最後まで話し舞台を終えた。
そして1200円のギャラをもらった。

さんまは弟子っ子としての仕事や稽古が終わった後、よく奈良に帰って友人に会っていた。
ある日、1番の親友、大西康雄の家に向かっている途中、幼馴染で高校まで一緒だった女性と遭遇。
喫茶店に入り、1時間ほど昔話に花を咲かせた。
女性は、長い黒髪で顔はアン・ルイス似でスタイル抜群。
交際していた男性に何度も暴力を受け、少し前に別れていた。
実家では両親と合わず、外に出ればその男性が現れるのではないかと怯え、心が休まるときがないという。
さんまのトークで笑顔になった女性は
「ああ、何もかも捨てて2人でどこか遠くに行きたいなあ」
といった。
2人は、翌週の同時刻同場所で会うことを約束し、結局、つき合い始めた。
弟子としての仕事や稽古、自分の舞台、芸人仲間との交流、そして女性との交際、睡眠時間がないさんまは、ある日、師匠の子供を子守をしながら寝てしまった。
帰宅した松之助は、誰も出てこないので玄関でわざと大きく咳払い。
「今帰ったで」
師匠の大声にさんまはあわてて起きて出し
「お帰りなさい」
松之助は、日々、やつれていくさんまをみて
(女デキたな)
と思っていた。

そんなハードな日々を送る中、新人芸人を対象にしたコンテストラジオ番組「ABCフレッシュ寄席ラジオ新人コンクール」への出場が決まった。
勝ち進めば大きく名を売ることができる。
さんまはこの大チャンスを報告しようと女性を夏祭りに誘った。
紺色の浴衣姿できた女性は色っぽくてたまらなかった。
2人は夜店で綿菓子を買い、人ごみを脱け、丘の上の大きな石垣の上に腰かけた。
さんまがABCフレッシュ寄席ラジオ新人コンクールの話を切り出そうとしたとき、女性がつぶやいた。
「やっぱり一緒におるときが1番落ち着くわ。
2人でどっか遠いとこで暮らしたいなあ」
「どっか2人だけで遠くに行こうか?」
「ホンマ?
一緒やったらどこへでもついて行くけわたしは今のままでええよ。
こうしてたまに会えるだけで幸せやから」
この瞬間、さんまは思った。
(コイツを守ってやれるのは俺しかいない)
そしてそのまま石垣でエッチ。
石のせいで膝が痛かった。

以後、さんまは
「芸をとるか、愛をとるか」
「同棲しながら弟子修業はできない」
と悩み続けた。
その結果、冷静に考えれば弟子を続けながら関西のどこかに住めばよいものを、若さのせいか、東京への憧れのせいか、東京行きを決断。
東京に就職していた高校時代の親友、戒井に電話し事情を説明。
女性に
「俺が先行って向こうで生活の基盤をつくるから、それから一緒に東京で住もう」
と伝え、同意を得た。
そして西宮のアパートを引き払った夜、笑福亭松之助に電話。
「あ、師匠、さんまです」
「おお、どないした」
「師匠、電話ですんません。
やめさせていただきます」
「女か?」
「・・・は、はい。
ホンマすんません。
すんません」
電話を切った後も謝り続け、そのまま奈良の実家へ。
着替えとタオル、ノートと筆記用具、松之助に目を通すよういわれていた舞台の台本、初舞台のときに着た着物をバッグに入れて家を出た。
そして大西の家で2泊した後、女性に戒井の連絡先を伝え、関西を後にした。
その頃、笑福亭松之助は、
「さんまがやめよったわ。
でも半年もすれば帰ってくるからそのときはよろしく」
と芸人や吉本の人間にあいさつをして回っていた。

東京に着いたさんまは戒井の住む社員寮へ行き、翌日から部屋探し。
出した条件は
・家賃1万円以内
・場所は、映画「男はつらいよ」の主人公、車虎次郎の生まれ故郷、葛飾区柴又
そして探し当てたのが「幸楽荘」
木造2階建て、4畳半1間、風呂なし、炊事場、トイレ共用、家賃8000円だった。

2拍させてもらい、戒井の部屋を出ると、翌日から職探し。
しかし簡単には見つからず、数日後、「ABCフレッシュ寄席ラジオ新人コンクール」の収録日を迎えた。
13万円あった所持金は残りわずかになっていて、翌朝、小岩駅南口のパチンコ屋「東京会館」へ向かった。
パチンコは高校からやっていたが、生活がかかっているさんまは、慎重に釘を読み
「この台や!」
と決めたらトコトン勝負。
角刈り頭、上下黒のジャージ、女物のピンクのサンダルという姿で
小岩駅南口ロータリーの喫茶店「ホープ」で朝食
↓
10時、東京会館
↓
ホープで昼食
↓
閉店まで東京会館
↓
ホープで夕食
↓
銭湯「大黒湯」
というパチプロ生活が始まった。

まだ手打ちだったパチンコ台を1日2~3回打ち止めにすることもあったさんまだったが、ある日、
「パチプロお断り」
と東京会館に言い渡され、出入り禁止になった。
他のパチンコ屋に通ったが、勝率が下がり、瞬く間に所持金が減っていった。
ホープへ通うことも出来なくなり、パチンコ屋で交換したカップ麺でしのいだ。
「もう夢もクソもなかった」
というさんまは2日間何も食べず、ずっと部屋で寝ていたことが6回ほどあり、戒井に食事に連れていってもらった。
さんまのことを心配し度々、幸楽荘を訪れていた戒井は、5000円を置いて帰った。
やがて秋になると戒井は布団を差し入れ。
「こんなとこおったらクサってまうぞ。
帰ってやり直したらどうや?」
とアドバイスした。

1974年10月14日、38歳の長嶋茂雄が引退。
17年間で、通算444本塁打、首位打者6回、最多安打10回。
守備でも華やかなフィンプレーでファンを魅了し「ミスタープロ野球」と呼ばれた男は、
「私は今日ここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」
といった。
さんまはその勇姿をパチンコでとった5インチのポータブルテレビでみた。
「アカン、俺、スタート地点でつまづいてる」
いてもたってもいられなくなり、浅草の演芸場を訪ね回った。
「大阪で芸人やってた者です。
幕前で結構ですから漫談やらせていただけませんか」
しかしどの劇場でも
「まず誰かの弟子について修行しないとダメ」
と断られた。
船橋のストリップ劇場も回ったがことごとく門前払いにされ、途方にくれた。

小岩駅南口を歩いているとホープの2軒隣のパン屋、ヤマザキに求人広告が貼ってるのを発見。
「とにかく働かないと」
とすぐに応募。
採用されると白い帽子と白衣をまとって店の外で肉まんとあんまんを販売。
関西弁のおもしろい店員として売り上げに貢献した。
ヤマザキのアルバイトに慣れた頃、久しぶりにホープを訪れた。
さんまから事情を聞いたホープのマスター、山辺教平は
「ウチに来たら?
夕方から閉店まで手が足りないんだよ。
夕食つきで自給もウチのほうが高いし・・」
と誘った。
その日、さんまはホープの店員たちと初めてマージャンし、朝までしゃべり明かした。
山辺教平は、ヤマザキの店主と話し、さんまはホープに移籍することが決まった。

ホープは、1階22席、2階38席。
さんまは白のシャツに黒のスラックス、黒のボウタイを締め、16時半から24時までホールスタッフとして勤務。
そしていつもニコニコ笑顔で、もみ手までして愛想よく接客。
1週間もすると常連客を大笑いさせるようになった。
ある日の閉店間際、蛍の光のBGMが流れ始めると
「ええ、皆様、本日はご来店、誠にありがとうございます。
ホープは12時をもちまして本日の営業は終了となります。
本日もホープ、ならびに杉本高文のために絶大なるご支援を頂きまして誠にありがとうございます。
本日の営業はこれで終わりますが我がホープは永久に不滅です!
またのご来店、お待ちしております」
と長嶋茂雄の引退スピーチをパロって大ウケ。
これが通常業務の1つとなり、この閉店間際に行われるスピーチや漫談に合わせて来店する客も現れた。
ホープの先輩店員は
「この人は何者なんだ」
と驚いた。

そんなとき奈良にいた女性が上京してきた。
2人は一夜を過ごしたが、さんまは
「一緒に暮らそう」
といい出せず、女性もそのことにふれないまま翌日、帰っていった。
さんまはどうしようもない苛立ちを抱えながら新幹線を見送った。
ホープの先輩店員、宮島、坂本、松本はいずれも学生でさんまと同世代。
4人は仕事が終わると銭湯に行き、その後、ホープに戻ってマージャン。
ホープが休みの日は4人でパチンコ屋に行ったり、女子学生とコンパやナンパもした。
さんまは10時からパチンコ、夕方からアルバイト、深夜から朝までは仲間と遊ぶという生活をほとんど寝ないで送っていた。
ホープの仲間と楽しく過ごす時間はすべてを忘れさせてくれた。

一方、奈良の高校時代の仲間が次々と幸楽荘にやってきた。
さんまの才能を信じて疑わない彼らは旅費を出し合って代表者を東京に送り
「帰って来い」
「師匠に謝って修行し直たらええやないか」
と説得。
しかしさんまは女性と暮らすことはできないまま、東京で1人、年を越した。
2ヵ月後、ホープのマスター、山辺教平が千葉の松戸駅西口にライブハウス「DIME(ダイム)」をオープンさせ、さんまは毎週土曜の夜、そのステージに立った。
ギャラは破格の1万円。
さんまは山辺教平に感謝しながら精一杯、ホープとDIMEで仕事をした。
数回、DIMEのステージの立った頃、奈良の女性が上京してきた。
2人は幸楽荘で夜を過ごし、翌朝、さんまが目を覚ますと女性の姿はなく、ちゃぶ台の上に手紙があった。
そこに書かれた別れの言葉を読み返しながら、さんまはこの半年間を振り返った。
「俺は東京に何しに来たんやろう」

数日後、高校時代の1番の親友、大西康雄が上京。
「もう帰って来いや」
といわれると、さんまはもう抑えることはできなかった。
無我夢中で新幹線に乗った。
そして兵庫県西宮の松之助の自宅へ向かい、到着すると預かっていた台本をバッグから取り出し、インターホンを押した。
ドアが開き、康子夫人と対面。
「ご無沙汰してます。
師匠にお借りしていた台本をお返しに来ました」
「寒かったやろう。
上がって」
「いや、僕はもう敷居またげませんから、表で待たせてもらいます」
「なにいうてるの!
早よ、上がりなさい」
「あっ、さんま兄ちゃんや」
松之助の2人の息子に手を引かれ、さんまは家の中に入っていった。
(師匠に合わせる顔がない)
いますぐ逃げ出したいような気持ちでいると松之助が帰ってきた。
「お客さんか?」
玄関で男物の靴をみた松之助がいうとさんまの心臓がバクバクしてきた。
そして松之助が部屋に入ってくると
「師匠!」
とすがるように叫んだ。

「おお、元気やったか」
松之助は満面の笑み。
「どないしてたんや。
みんな心配してたぞ。
まあ突っ立ってんと座りいな。
着替えてくるさかい待っててんか」
このとき松之助は
(活きのええさんまが冷凍さんまに変わり果てて戻ってきた)
と思った。
一方、さんまは全身の力が抜けてしまい、師匠が戻ってくると涙をあふれさせながら、無礼をわび、これまであったことをすべてを打ち明けた。
さんまは2時間ほど話し続けたが最後まで
「もう1度弟子にしてください」
ということはできなかった。
帰り際、松之助に
「また来いよ」
といわれたのが無茶苦茶うれしくて、新大阪からへの東京の幸楽荘に帰り道、腹をキメた。
「もう1度弟子入りを志願してダメなら普通の仕事探そ」
久しぶりに朝までグッスリと眠り、数日後、幸楽荘を出た。
そしてホープへ行き、それぞれ仲間の名前を書いてメッセージを吹き込んだテープ数本を山辺教平に渡した。
「連絡くれよ」
「はい、ありがとうございます。
ほいじゃ」

新大阪駅に着くとさんまはすぐになんば花月へ向かった。
松之助の出番があることを確認した後、楽屋口へ。
「入ったらエエがな」
芸人の世話をしているお茶子の狭間トクにいわれたが
「オカン、アカンねん。
外で待ってるから俺が来たこと師匠に伝えてきて。
頼むわ」
「そうかぁ。
ほな呼んできたるわ。
松っちゃーん、お客やでえ~」
トクは大声で入っていった。
しばらくすると松之助がやってきた。
「師匠!」
さんまは駆け寄り、
「もう1度弟子にしてください」
といおうとしたが
「何もいうな。
メシ行こう。
ついて来い」
といわれた。
松之助は高校生のさんまが弟子入り志願してきたときと同じラーメン屋に入った。
テーブル席に向かい合って座り、ラーメンが運ばれてくると
「腹すいたやろ。
食べえな」
「いただきます」
