外木場義郎【広島カープ】

外木場義郎(そとこばよしろう)は、広島カープ(現広島東洋カープ)の苦境時代から黄金時代までのチームを支えた大エースです。1975年には獅子奮迅の働きを見せ、20勝・193奪三振・最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得。更には沢村賞にも選ばれる活躍で、広島球団創立以来初のリーグ優勝に貢献しました。
今のような週1登板ではなく、中3日や4日で黙々と投げ続ける外木場義郎は、チームのために身を捧げた男気溢れる侍の姿でした。あのダイナミックなフォームから投げられる、威力のあるストレートと大きく割れるカーブは未だに目に残っている人も多いのでは。
V9時代の読売ジャイアンツ相手にノーヒットノーラン
外木場義郎(そとこばよしろう)は、2リーグ制になって以降、完全試合を含む3度のノーヒットノーランを達成した唯一の投手なんです。1964年の入団で、翌年にはプロ初勝利をノーヒットノーランで飾り、1968年には完全試合、1972年に3度目のノーヒットノーランを達成しています。そして注目すべきは3度目のノーヒットノーランです。あのONが君臨する、プロ史上最強の読売ジャイアンツ相手の快挙でした。
津田恒実【広島東洋カープ】

津田恒実(つだつねみ)は、炎のストッパーとして広島東洋カープの絶対的な守護神として、チームの勝利に大きく貢献した男気溢れる投手です。旧名は読み方同じで恒美でした。1981年のドラフト会議で1位指名でカープに入団、1年目から先発で活躍し11勝6敗の成績で、球団初の新人王に輝きます。その後の大活躍の中で脳腫瘍という大病に侵され、1993年7月20日14時45分に32歳というあまりに短い人生を閉じることになったのです。
2年目の後半戦以降は中指の血行障害で戦線離脱となりましたが、不屈の精神で復帰しリリーフに転向して新たな活躍の場を得ることになります。ストレート主体のピッチングスタイルで、1986年には90%以上をストレートで勝負し、変化球はほとんど投げていません。当時の監督山本浩二は、ホップする直球と絶賛でした。
プロになる前から津田の剛球は有名でしたが、メンタル面の弱さは自他ともに認めるところでした。弱気は最大の敵・一球入魂と帽子にも書き込んで座右の銘にしていたとか。真っ向勝負のスタイルは、気弱な性格を克服するため。試合前にはその座右の銘を見て、気合を入れていたそうです。優しい男性から気合を込めて男気溢れた侍に進化するのが津田恒実なんですね。
真っ向勝負の剛速球
ピンチになるほど球速が上がる津田のストレート。1986年の対阪神タイガース戦、同点で迎えた9回裏1死満塁のピンチで、2番弘田澄男をストレートで3球三振に、そして絶頂期だったランディ・バースに対しても、全て150km/hを超えるストレート建つで3球三振に仕留めています。試合の実況の中で「津田、スピード違反」との絶叫があり、試合後のインタビューでバースは「ツダはクレイジーだ」言っていました。
1986年9月24日に行われた巨人戦、ここでの勝負は伝説になっています。津田と対戦した巨人の4番原辰徳は、津田のストレートをファウルした瞬間に左手の有鈎骨を骨折、残りシーズンをふいにすることになってしまいます。その後、津田の最後の登板となった1991年4月14日の試合では、その腹がタイムリーヒットを打って生涯最後の対戦打者となりました。津田が最後に投じたボールは、144km/hのストレートでした。
山田久志【阪急ブレーブス】

山田久志(やまだひさし )は、1968年のドラフト1位で阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)に入団したサブマリン投手です。12年連続開幕投手を務めた大投手で、積み上げた勝利はなんと284勝。これはアンダースロー投手として、日本プロ野球最多となっています。最高勝率はNPB最多タイ記録の4回獲得し、最優秀選手も投手最多記録の3回受賞、ベストナインの5回もパ・リーグ投手最多タイ記録と、まさに史上最強のアンダースローですね。
まだ阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)が弱小球団だった頃、ホームの西宮球場に足を運ぶ人の多くはありませんでした。そんな時、球場の前を歩いてた若者に声をかけた男がいました。「にいちゃん、暇なら見においでや」といって、阪急戦のチケットを渡します。その夜、試合を見た若者が驚いたのは、チケットをくれた男が、マウンドの上に立っていたからです。若者が熱烈な阪急ファンになったのは言うまでもありません。
真っ向勝負のストレートから魔球シンカーに
デビュー当時の山田久志は、アンダースローの投手のには珍らしく、いつでも真っ向勝負。威力のあるストレートは、ど真ん中でも打たれないと自負していました。そんな山田が打ち砕かれたのは、〇年の日本シリーズ。1対0で阪急ブレーブスがリードの9回裏に、巨人の王から逆転サヨナラ3ランを浴びて、マウンドにしゃがみ込んでしまいます。
その後、シンカーを本格的にマスターし26勝を挙げて復活し、2度目の最多勝・最高勝率を得ます。1977年は16勝・防御率2.28で2度目の最優秀防御率、翌年の1978年も18勝4敗で3度目の最高勝率で、阪急の優勝に大きく貢献することに。史上初の3年連続MVPにも輝いたのでした。因みに、その後で3年連続MVPを獲得したのはイチローのみなんですよ。
1979年には21勝(5敗)で、3度目の最多勝を獲得し、日本プロ野球記録の4度目の最高勝率、そして2リーグ制以降では記録となる5度目のベストナインも手中にしました。
村田兆治【東京オリオンズ】

村田 兆治(むらた ちょうじ)は、1967年のドラフト1位で東京オリオンズ(現ロッテオリオンズ)に入団します。現役時代は、ダイナミックな投球フォームで真っ向勝負をする投手で、ファンを魅了。その投法は「マサカリ投法」と呼ばれ、まさに村田兆治のトレードマークになっていました。この独特な投球フォームは入団して4年目で完成。その後。引退するまで投球フォームが変わることはありませんでした。
「マサカリ投法」から投げ出されるストレートは、かなりの威力を発揮していましたが、フォークボールも村田兆治の最大の武器になっていました。打者に「次、フォーク」と予告して投げて、空振りさせたという武勇伝もあり、当時南海ホークスに所属していた野村克也は、村田のフォークボールは、分かっていても打てなかったと語っています。同じく南海ホークスのエースだった杉下茂も、日本人の投げるフォークボールは大半がSFFだけど、村田君は間違いなく本物のフォークボールを投げていたと話したそうです。
プロ野球ファンを魅了したまさかり投法
村田 兆治(むらた ちょうじ)が頭角を現したのが、球団名がロッテとなった2年目。6勝を挙げたのですが、そのうち完封で5勝と完全に相手チームを抑え込みました。1970年にはリーグ優勝を支え、後に監督となる金田正一から指導を受け、1971年の投球フォームを大幅に改造し「マサカリ投法」の原型が出来上がったのです。
1976年にマスターした切れ味鋭いフォークボールは、打者から次々と空振りを奪っていきました。このシーズンは、257回を投げ切り21勝を挙げます。防御率も1.82で最優秀防御率のタイトルを得て、奪三振も202でリーグ最多でした。村田兆治(むらた ちょうじ)は、常にノーサインで投げていたので、4年連続で2桁暴投を記録し、通算暴投の日本記録保持者(148回)でもあります。
1979年のシーズンは、32試合に先発して21完投・230奪三振の成績を残します。そして、1981年では開幕11連勝を達成し19勝で最多勝のタイトルも獲得します。ここに、鈴木啓示・山田久志・東尾修らに並ぶ、1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する大投手となったのです。
野茂英雄【近鉄バファローズ】

野茂英雄(のもひでお)は、1900年代最後の男気に溢れる侍投手。1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団から1位指名を受け、近鉄バファローズに入団します。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームは、まさに野茂英雄のトレードマーク。このダイナミックなフォームから投げられるストレートやフォークで、次々と三振を量産していきました。
日本時代の野茂は、パリーグ初の沢村栄治賞を受賞を受賞し、平成初の投手三冠王を達成します。更に、パ・リーグの最多タイ記録である最多勝利も4回獲得しました。その後メジャーリーグに移り、日本の侍投手のすごさをアメリカに知らしめた先駆者でもありますね。MLB時代にはノーヒットノーランを2回達成し、最多奪三振を2回獲得、そして新人王も獲得。これらな全てアジア人史上初の偉業になっています。日米通算最多奪三振(3122)記録保持者でもありますね。
野茂は、1995年2月13日にドジャースとマイナー契約を結びます。5月2日のジャイアンツ戦の先発でメジャーリーグデビュー、32シーズンぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなりました。ここから、どんどんと野茂英雄伝説が積み上げられていきます。6月2日のメッツ戦でメジャー初勝利、14日のパイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録、24日のジャイアンツ戦では日本人初の完封勝利を記録。そして、29日のロッキーズ戦まで球団新記録となる4試合で50奪三振を達成。
この月は、ピッチャー・オブ・ザ・マンスも獲得して、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残し周囲を驚かせました。オールスターゲームにも選ばれて先発し、2イニングを1安打無失点に抑えます。その年は、新人王を受賞し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入りました。
大リーグで2度のノーヒットノーラン達成
1996年7月5日のロッキーズ戦でNPB/MLB通算100勝を達成し、9月1日のフィリーズ戦でメジャー史上で3人目という1年目から2年連続200奪三振を達成します。そして17日のロッキーズ戦、雨で2時間遅れの試合になりましたが、気持ちを切らさなった野茂は、初のノーヒットノーランを達成します。ロッキーズのホームグランドのクアーズ・フィールドは、高地で空気が薄いのでスタミナの消耗も激しく、球場も広くなくボールも飛びやすい打者天国として有名でした。この球場でのノーヒットノーランは、唯一野茂のみで完全試合に匹敵すると報道されていました。
レッドソックスに移籍した野茂は、2001年4月4日のオリオールズ戦で2度目のノーヒットノーランを達成します。レッドソックスの投手としては、1965年9月16日以来のノーヒッター、実に約35年半ぶり13人目のことでした。またカムデン・ヤーズ球場でのノーヒットノーランは、2020年シーズン終了時点で、唯一野茂だけ。1996年に続いて、ノーヒッター達成が難しい球場での快挙だったのです。この結果、両リーグでのノーヒッター達成したのは、サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次ぐ史上4人目のことでした。まさに日本の侍が起こした快挙ですね。
本物の侍で溢れていた男気プロ野球

1900年代後半のプロ野球、いかにも侍といった男気溢れる選手がたくさんいましたね。今回は、俺に任せろと真っ向勝負してくる投手を5人ご紹介しましたが、まだまだたくさんの紹介したい投手がいます。もちろん野手部門でも、個性的な選手がいっぱい。中でも印象に残るのが、落合博満でしょう。セパ両リーグに渡って、4球団で活躍をしました。プロ野球史上、唯一3度も三冠王を獲得した侍です。そして、20世紀で最後であり、昭和でも最後の三冠王達成者でもあるんです。

もう一人、忘れてはいけない男気溢れる侍が、野村克也でしょう。我が道を行く落合博満とはまた違い、捕手というポジションでもあって頭脳派の野球選手です。パ・リーグで初めて三冠王になった選手で、数えあげたらキリがないほどの記録や賞を獲得しています。引退前は監督兼選手で4番という重責もこなし、監督専任になった後も頭脳的な采配で、南海ホークスを優勝に導きました。
今は、スター性の高い選手が多いプロ野球ですが、1900年代は見ているだけで楽しい個性派の侍選手が多かったですね。これからも、多くのプロ野球選手が、私たちファンを楽しませてくれるでしょう。