1984年1月20~22日、第3回世界大会が、92ヵ国、207名の選手が集い開催された。
大会前、松井章圭は、大山倍達に
「大韓民国代表として出場させてください」
と懇願した。
(プロ野球の張本勲のように自分の民族を明らかにした上でチャンピオンになれたら、在日の人や日本人にとって本当の意味で有益な人間になれる)
しかし大山倍達は
「いずれわかるときがくる」
といって許さなかった。
松井章圭は世界大会の出場申込書に
本名「文章圭」
本籍「大韓民国」
と記し提出した。
しかし大会パンフレットとには
「松井章圭」
「東京」
と印刷された。
(自分が日本代表として責務を果たさなければ申し訳ない。)
20歳の松井章圭は、複雑な思いを誰にも打ち明けず世界大会に出場した。
大会初日、1回戦を左中段突きで1本勝ち。
大会2日目、2回戦を判定勝ち。
3回戦、反則勝ち。
4回戦、左下段回し蹴りで1本勝ち。
大会3日目(最終日)、ベスト16に残った日本人は、中村誠、三瓶啓二、田原敬三、大西靖人、増田章、そして松井章圭の6名だった。
松井章圭は、5回戦でアンディ・フグと対戦し下段回し蹴りを連発し圧勝した。
19歳のアンディ・フグは、2年連続スイスチャンピオンの肩書をひっさげ初来日。
回し蹴り、後ろ回し蹴り、後ろ蹴り、前蹴りが、左右どちらの脚からも、しかも上段中段下段に繰り出せる蹴り技で勝ち進み、松井章圭の下段回し蹴りで足を刈られ倒れそうになったところを松井章圭の道着をつかんでしまい「掴み」の反則をとられ判定負けした。
この夜、メトロポリタンホテルのアンディ・フグの部屋のトイレのドアがブチ抜かれた。
4年後、別人のように生まれ変わって世界大会に戻ってきた。
準々決勝の松井章圭の相手は、大西靖人。
松井章圭が肋骨を折って棄権した前回の全日本大会の優勝者だった。
183㎝、89㎏。
ベンチプレス186㎏、スクワット290㎏。
その豪放磊落な性格そのままの組手は「魔王」」といわれた。
5回戦で肋骨を5本折られた魔王は笑いながら試合場に上がった。
松井章圭の大腿骨を潰すような下段回し蹴りから膝蹴りを連打。
さらに間合いが詰まるとボディへのフックを打ち込んだ。
蹴りを返され倒された松井章圭は立ち上がり、大西靖人をにらんだ。
大西靖人の右下段回し蹴りからの左ボディフックで松井章圭の体はくの字に曲がり宙に浮いた。
本戦は、大西靖人の猛攻を松井章圭が必死に耐えて引き分け。
延長戦に入ると大西靖人は失速。
松井章圭もダメージが大きく攻められない。
再延長戦になると大西靖人の動きはさらに衰え、松井章圭の技も力がなかった。
「オッシャー」
3度目の延長戦に入り、大西靖人は気合を入れ攻撃を開始。
しかしそれも10秒だけだった。
それ以降は松井章圭の攻撃を受け続け、判定で負けた。
松井章圭の準決勝の相手は、これまで2戦2敗の三瓶啓二。
松井章圭は試合巧者のヘビー級と真正面から打ち合った。
本戦、延長戦は引き分け。
「オラァ」
再延長戦で松井章圭は気合を入れたが、判定で負けた。
結局、松井章圭は三瓶啓二に3戦3敗。
試合で勝つことはできなかった。
その後、3位決定戦でアデミール・ダ・コスタに判定勝ちし3位になった。
1984年11月3~4日、松井章圭がケガで欠場した出場できなかった第16回全日本大会で、黒澤浩樹が初出場初優勝を果たした。
無表情のまま一撃必殺の下段回し蹴りで次々と相手を倒していく黒澤浩樹は「格闘マシン」と呼ばれた。
また三瓶啓二は4回戦まで勝ち上がったが負傷により棄権。
(これが最後の大会出場となった)
松井章圭は、黒澤浩樹を最強の敵と認め、来年の全日本大会で勝つべく、その対策を始めた。
体
松井章圭と黒澤浩樹は、同年齢で、同体格(174cm)。
しかし黒澤浩樹は、ベンチプレス189㎏、スクワット280㎏を挙げるのに対し、松井章圭は、ベンチプレス130㎏、スクワット175㎏。
ウエイトトレーニングに力を入れパワーアップに励んだ。
技
技術的には、黒澤浩樹の攻撃のリズムが単調であることに注目。
「あの下段回し蹴りは脅威だがまともにもらわなければいい」
と黒澤浩樹が蹴りを出すタイミングや角度を研究。
それに技を合わせていく合わせ技を練習した。
心
大西靖人、増田章、黒澤浩樹は、みんな山田雅稔の指導を受ける城西支部の所属だった。
彼らは映像や防具、ライトスパーリング、科学的なウエイトトレーニングなど合理的に練習やトレーニングを行うことで強くなった。
「楽しむ」「プラス思考」なメンタるトレーニングを実践し、道場の雰囲気は明るかった。
松井章圭はそこに精神的な穴を見出していた。
「彼らの弱点は自己肯定的な性格、自己評価の高さにある。
彼らは自信家であるが故に、相手を尊重せず、自分本位の試合展開のみに終始してしまう」
そういう松井章圭は相手と相手の技を最大限に尊重して技をかけることを心掛けたてい。
単純明快な西洋的なやり方や考え方だけではなく、深遠な東洋の神秘的思考の持ち主だった。
こうして松井章圭は、テーマを決めてトレーニングと稽古を消化していった。
1985年11月3日、第17回全日本大会が開催された。
前年度チャンピオンの黒澤浩樹は、さらにパワーアップしていた。
1回戦、1分17秒で1本勝ち。
2回戦、1分19秒で1本勝ち。
3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦、2分25秒で1本勝ち。
準々決勝、1分16秒で1本勝ち。
準決勝、1分11秒で1本勝ち。
決勝まで、6戦中1本勝ちが5つ、すべての試合を延長戦なしの本戦で決めた。
対する松井章圭は、1回戦を本戦で判定勝ち、2回戦、本戦で判定勝ち、3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦で自分より小柄な堺貞夫と対戦。
楽勝かと思われたが大苦戦。
「なぜ攻めている松井の勝ちじゃないんだ?」
と大山倍達が審判を入れ替えるハプニングもあり、2度目の延長戦で判定勝ち。
もし体重判定にもつれていれば負けていた。
準決勝で増田章と対戦。
増田章は突きの連打と左右の蹴りで直線的に攻め込んだ。
本戦、延長戦、2度目の延長戦と引き分けたが3度目の延長戦後の判定で松井章圭が勝った。
「負けなかった」
そうつぶやきながら松井章圭は、大きくうなずいた。
増田章は相手をねじ伏せて勝つ空手。
松井章圭は、それに対して受けて返す、負けない空手で、一瞬でも隙があれば上段への鋭い蹴りを放った。
決勝戦は、松井章圭 vs 黒澤浩樹となった。
松井章圭は
(下段では絶対に倒れない)
そう自分にいい聞かせ小走りで試合開始線に向かった。
黒澤浩樹の左右の下段回し蹴りは、強いだけでなく正確に松井章圭の脚の急所を蹴った。
松井章圭は必死に返すが黒澤浩樹の突進力とプレッシャーに崩され、試合中、2度も黒澤浩樹の顔面に左の突きを入れてしまう。
黒澤浩樹は口から血を流しながら連続攻撃。
松井章圭は必死にそれをよけ、受け、返すが、たびたびもらって膝を内側に曲げられてしまう。
その下段回し蹴りの威力に松井章圭は何度も腰を落としたが、すぐに体勢を立て直し反撃。
合わせ技で黒澤浩樹のバランスを崩してから上段、中段へ蹴りを放った。
本戦は引き分けとなり、延長戦に入った。
延長戦も、黒澤浩樹は前進して下段回し蹴り、松井章圭は合わせ技から大きな蹴りいう展開だったが、やがて両者共に失速。
「ラスト20秒!」
セコンドの声で、まるでなにかにとりつかれたように松井章圭は体をよじらせながら左右の突きから左右の下段回し蹴りを連続で放った。
そして延長戦が終わり、1人の主審と4人の副審による判定が行われた。
そのとき
「赤ぁー」
という声が上がった。
声の主は婚約者の韓幸吟だった。
しかしこの試合は、松井章圭は、2回、反則を犯した上、受けたダメージも明らかに上だった。
黒澤浩樹はほぼノーダメージのまま負けた。
「黒澤は、ケンカに勝って試合に負けた」
といわれその強さは疑う者はいなかった。
しかし一方、その格闘マシンに強い精神力で立ち向かい勝った松井章圭も
「Mr.極真」
と称賛された。
全日本チャンピオンになった松井章圭の次の目標は、
・全日本大会2連覇
・世界大会優勝
だった。
また大学卒業後は、総本部の指導員として正式に極真会館に就職することを決めた。
1986年2月、松井章圭は大山倍達に呼ばれ、いきなりいわれた。
「君、ところでいつやるんだね」
「なにをでしょうか」
「君、なにいってるのかね。
100人組手だよ」
「押忍、わかりました」
即座に答えたが1つだけ要求を出した。
「3ヵ月だけ時間をください」
松井章圭が相手として参加した中村誠、三瓶啓二、三好和男の100人組手は真夏に行われた。
松井章圭は、猛暑も失敗の理由と考え、夏を避けた。
1986年5月18日、松井章圭の100人組手は、極真のドキュメンタリー映画の一部として使われるため、東映大泉撮影所のスタジオ内に総本部道場そっくりのセットが組まれ行われた。
巨大なスタジオの中にできた道場を、数百個のライト、5台のカメラ、200名近いスタッフが囲んだ。
外部の音を遮断するためにスタジオは閉じられ空調も
「音がする」
と切られた。
スタジオ内はサウナ状態となり松井章圭の目論見は崩れた。
松井章圭の100名の相手と共に、最前列右端に正座。
極真会館の昇段審査は、初段が1人2分ずつ10名と戦い、その半数以上に1本勝ちを収めなければならない。
2段なら20人、3段なら30人。
100人組手は、それを100人行う。
過去に100人組手を完遂したのは2人(ハワード・コリンズ、三浦美幸)だけ。
「ドン!」
開始の太鼓が打たれ
「はじめ!」
審判の声が響き渡った。
1人目は、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
2人目は、上段回し蹴り、1本勝ち。
3人目、突きと下段回し蹴りで技あり2つをとって合わせて1本勝ち。
4人目、後ろ回し蹴り、1本勝ち。
5人目、足払いと中段回し蹴りで技あり2つ、1本勝ち。
次々かかってくる相手を松井章圭は華麗に退けていった。
15人目、下段回し蹴りを合わされ膝をついた松井章圭は
「よし来い、コラ」
と気合を入れ、左右の突きの連打から上段回し蹴りで倒した。
16人目、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
17人目、上段回し蹴り、1本勝ち。
スタジオ内は40度を超え、松井章圭は肩が上下させて息をし、バケツの水をかぶったように汗をかいた。
21人目、初めて判例負け。
(まだ1/5なのに・・・)
30人目が判定勝ちで終わると、いったん中断され冷房が入れられ、松井章圭は道衣を着換えた。
34人目、2度目の判定負け。
(まだ1/3なのに・・・)
46人目、金的に蹴りをもらい中断された後、右下段回し蹴りで技ありを奪った。
50人を超えると、相手の技が皮膚に触れるだけで全身が痛み、体はフラフラ、思考も途切れ途切れになった。
(もうダメかもしれない)
松井章圭は視線を落とした。
その瞬間、盧山初雄の怒声が響いた。
「松井、途中で止められると思うなよ」
59人目、判定勝ちし開始線に戻った松井章圭は嗚咽を上げた。
75人目、左上段回し蹴りを出した松井章圭は腰から崩れ落ちた。
80人目、夢遊病者のようにフラつきはじめる。
85人目、上段後ろ回し蹴りを出すも崩れ落ちる。
90人目、腕は上げられず足も動かず、意識は朦朧としていた。
92人目、中段回し蹴りをもらった松井章圭がキレた。
「よしこい」
突きの連打で突進し頭突きをかました。
もはや組手ではなかった。
相手を門下生たちが座っている中に突き倒し、倒れた相手にさらに攻撃を加えようとする松井章圭の襟首を主審がつかんで試合場の中央に投げ飛ばした。
松井章圭のうつろな目に狂気が宿っていた。
95人目、右上段回し蹴りで1本勝ち。
これが最後の1本勝ちとなった。
96人目から100人目まで、松井章圭は格下の門下生に、ただ殴られ蹴られ、顔を歪めた。
(やっと終わった)
総時間、4時間、組手時間、2時間24分、75勝12敗13分、3人目の100人組手完遂だった。
松井章圭は救急車で病院に運ばれる途中、担架で嘔吐し、そのまま入院した。
拳、肘、つま先、足甲、脛、膝は、ドス黒くパンパンに腫れていた。
(やっぱり空手は肘から下、膝から下を徹底的に鍛えることが基本だな)
そう悟った空手バカだった。
1986年11月2~3日、第18回全日本が行われた。
「打倒!松井」を目標に1年稽古を積んだ黒澤浩樹は、パワーアップしていたが、2回戦で軽量級選手に油断し、跳び膝蹴りで倒れ、1日目で姿を消した。
松井章圭は、1回戦を1本勝ち、2回戦を膝蹴りで技ありをとって勝ち、初日を終え、2日目、4回戦を判定勝ち。
準決勝は、後に全日本大会で2度優勝、100人組手達成、世界大会優勝とグランドスラムを達成する八巻建志だったが、松井章圭が判定勝ち。
決勝戦は、松井章圭 vs 増田章、3度目の対決となった
松井章圭は前蹴りで距離をとろうとしたがの増田章の突進は止まらない。
延長戦に入り、一瞬のスキをついて上段回し蹴りが増田章の首に入った。
増田章は、一瞬、意識を飛ばしたが、突進をやめなかった。
松井章圭はさらに左上段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴りを連発。
蹴り足ごと押されて倒されたものの、これで流れが変わった。
増田章の攻撃と突進の力が弱まり、松井章圭は攻め続けた。
そして判定で勝ち、全日本大会2連覇を果たした。
1987年8月、恒例の夏の合宿が、かつて大山倍達が牛と格闘した千葉県館山市で行われた。
今回は第4回世界大会に向けて強化合宿でもあった。
第1回世界大会は佐藤勝昭、第2回、第3回は中村誠が優勝。
空手母国の威信を守られた。
しかし今回は
「日本にエース不在」
「極真王座流出、最大の危機」
といわれていた。
第1回世界大会前
「日本が負けたら私は腹を切る」
第2回、第3回では
「君たち、負けたら腹を切れ」
といい、今回の強化合宿でも指導を行った大山倍達は
「君たち、死ぬ気で戦え」
「こんなことじゃ外国人には勝てないよ。
君たちの頭が海外勢にスイカのようにグシャッと潰されるのが浮かんでくるよ」
「とにかくだ。
勝負の世界で負けるということは死を意味することだから、負けたら死ぬ、必ず死ぬんだ。
殺らなければ殺られるという覚悟で精進しなさい」
といった。
合宿最後の夜、日本選手代表は「固めの飲み会」を行った。
一気飲み勝負を行い、負けた選手は別の選手を指名し、勝つまでこれを続けた。
それが一周すると、次はバケツに日本酒、ウィスキー、ビールなどをチャンポンして回し飲み。
主将の松井章圭も酔っ払い、
「自分たち今回の日本代表選手は、一生の付き合いをしよう」
と叫んだ。
全員肩を組んで
「日本の王座死守」
をがなりたてた。
しかし8年後、この15名も分裂した。
松井章圭は、御徒町の「サンプレイトレーニングセンター」で、宮畑豊からトレーニングしながら故障個所を治す「操体法」の指導を受けた。
操体法は、痛めた個所の周辺の筋肉を効果的に鍛え、故障個所そのものを筋肉のギブスで強化するというもので、松井章圭は、数ヵ月で腰痛を回復させた。
腰痛が癒えた後も、宮畑豊の指導でウエイトトレーニングに取り組んだ。
これまで松井章圭は、永田一彦から「低重量×高回数」のウエイトトレーニング、城西支部で「高重量×低回数」のウエイトトレーニングを経験したが、宮畑豊のトレーニングは「高重量×高回数」だった。
3ヵ月後、ベンチプレスが140㎏→170㎏、スクワットが180㎏→230㎏とパワーアップした。
世界大会まで2ヵ月を切ったある日、宮畑豊の紹介で、松井章圭は大相撲の高砂部屋、九重部屋へ出稽古を行った。
大会2週間前、最後のウエイトトレーニングが終わり、宮畑豊と一緒に食事にいった松井章圭は、1㎏のステーキ、シャブシャブ8人前、超大盛焼きそばと焼うどんを一気に平らげた。
1987年11月6~8日、3日間にわたり、第4回世界大会が日本武道館で行われた。
大会前、イギリス支部長のスティーブ・アニールは
「極真会館2代目就任への賛同と新体制設立の趣意書」
を海外の支部長らに送付していた。
そこにはスティーブ・アニール自身が極真会館の2代目になることも盛り込まれていたが、ヨーロッパを中心に多くの支部長から賛同を得ていた。
そして世界大会終了翌日に開かれる全世界支部長会議で
「大山倍達の総裁解任とスティーブ・アニールの2代目就任」
を議決する計画だった。
反大山倍達派は、日本の関係者と行き交うとき挨拶さえ交わさず、
日本人 vs 外国人の試合で日本人選手が判定で勝つと、
外国人からヤジ、ブーイング、指笛など抗議のデモンストレーションを起こした。
大山倍達は、このクーデター計画を承知していたが
「試合の判定が日本人びいきであるといわれるような大会であっては断じていけない。
ハッキリと決着をつけるようにしなさい」
と指示し、レフリーは『疑わしきは引き分け』にしていった。
日本代表の控室は殺気と緊張で静まり返っていた。
15名の日本代表は試合に勝っても負けても笑顔はなかった。
『空手母国の王座死守』の重圧によるものだった。
「こんなときは誰か1人負けてくれると気が楽になるんだけどなあ」
盧山初雄の一言でやっと笑いが起こった。
そして全員が1回戦を突破した
2日目、松井章圭は、2回戦、左上段回し蹴りで1本勝ち、3回戦、3-0の判定勝ちで2日目を終えたが、小笠原和彦がアンディ・フグに技ありを2つ奪われ1本負けするなど、日本代表は14名になった。
3日目、生き残った32人が潰し合いを始めた。
Aブロックを制したのは、ジェラルド・ゴルドーと七戸康博を判定で下した増田章。
Bブロックは、八巻建志、ブラジルで100人組手を達成したアデミール・ダ・コスタ、「ヨーロッパ最強の男」ミッシェル・ウェーデルが集う激戦区だったが、アンディ・フグが制した。
Cブロックでは、黒澤浩樹が3回戦でピーター・シュミットとのケンカファイトを判定勝ちしたもののケガで棄権。
黒澤浩樹の棄権によって準々決勝を不戦勝で勝ったマイケル・トンプソンが制した。
Dブロックは、松井章圭が制し、ベスト4が決まった。
全大会ベスト16のアンディ・フグは、4年間で「踵落とし」というオリジナル技まで編み出していた。
「踵落とし」は、まったく未知の技でまともな受け技もなく、対戦相手は崩され、倒されていった。
準決勝戦第1試合で増田章も踵落としに崩され、3度の延長戦の末、判定で敗れた。
準決勝第2試合、マイケル・トンプソン vs 松井章圭。
マイケル・トンプソンが軽快なステップから大きな蹴りを繰り出す姿は「黒豹」と呼ばれた。
特に長身で柔軟な体から高速で繰り出される高速の後ろ回し蹴りは脅威だった。
(脚を殺せばフットワークも死ぬ)
松井章圭は下段回し蹴りで攻めた。
一進一退の攻防は5度目の延長戦まで続いた。
消耗と下段回し蹴りの連続攻撃を受け、ガードが下がっていたマイケル・トンプソンに、松井章圭が下段回し蹴りのフェイントから右上段回し蹴りをマイケル・トンプソンに放ち1本勝ちした。
決勝戦は、アンディ・フグ vs 松井章圭。
松井章圭は踵落としを、
(あの技は、1で軸足を踏ん張って蹴り足を頂点まで振り上げ、2で相手に踵を振り落とす。
つまり1のタイミングでアンディ・フグの軸足を払ってしまえばいい)
と分析し、試合開始早々、下段回し蹴り。
するとアンディ・フグは左の踵落とし。
それは松井章圭の鼻先数㎝から帯の結び目をかすめてマットに落ちた。
意を決して間合いを詰める松井章圭にアンディ・フグは、2度目の踵落とし。
松井章圭はかまわず踏み込んでアンディ・フグの軸足を蹴った。
本戦は引き分けとなり、延長戦へ。
アンディ・フグは、フットワークで大きく回りながら、3度目の踵落とし。
その踵は松井章圭は右耳をかすめ肩に落ちた。
松井章圭は、そのまま前進し、軸足立ちになったアンディ・フグを押し倒した。
アンディ・フグは跳ね起き、右後ろ回し蹴り。
松井章圭は後ろに体を反らせてよけて、左下段回し蹴り。
2度目の延長戦に入り、アンディ・フグが4度目の踵落とし。
それに対し、松井章圭は、アンディ・フグの軸足に後ろ回し蹴りを合わせた。
4度も踵落としを潰され、パンチによって活路を見出そうとしたアンディ・フグの左の突きが松井章圭の顔面に入った。
主審に反則に
「減点1」
をいい渡されたとき、アンディ・フグは両手で顔を覆い天を仰いだ。
そして試合は判定で松井章圭が勝った。
松井章圭が優勝したことで、スティーブ・アニール派は勢いを削がれ、世界支部長会議で「大山倍達の総裁解任とスティーブ・アニールの2代目就任」が議題となることはなかった。
「もう試合はしません」
100人組手を達成、全日本大会を2連覇し、そして第4回全世界大会で優勝した後、極真会館総本部指導員の松井章圭は館長の大山倍達に選手引退を申し出た。
大山倍達は
「わかった」
と了承しつつ
「しかし来年の(第20回)全日本大会までは公表しないように」
とクギを刺した。
松井章圭が選手引退を決めたのにはいくつか理由があった。
第4回世界大会優勝後、連日、後援者や先輩後輩、知人と夜の街に繰り出したが、遊んでいるときは楽しいのに帰り道には虚しさしかなかった。
憧れつづけた地上最強の極真空手。
その極真空手で世界王者となって、改めて実社会ではちっぽけな存在であることに思い知った。
「一人前の男として社会に通用するためには空手だけではいけないのかもしれない」
と思うようになった。
また結婚の問題もあった。
「幸吟はお前にあげるから早く連れていきなさい」
母親の任福順にそういわれても受けることはできなかった。
やがて娘の将来を思う任福順は縁談を受けるようになった。
親のいうことに絶対逆らわない幸吟が見合いするのを松井章圭はヤキモキしながら見守るしかなかった。
やがて幸吟から
「縁談が決まりました」
といわれ、お金を渡して命じた。
「これで婚約を破棄してこい」
お金は見合い相手の男性のための慰謝料だった。
24歳の松井章圭は、空手家として生涯を全うするつもりだったし、総本部指導員の給料にも不満はなかったが、立派な人間になるために新たな一歩を踏み出したかった。
秋になり第20回全日本大会が行われ、黒澤浩樹が3回戦、増田章が4回戦で負け、中量級の桑島保浩が優勝した。
桑島靖寛は、京都産業大学在学中に極真会館京都支部入門。
全日本ウェイト制大会中量級で優勝し、日本代表として第4回世界大会に出場で5回戦でアンディ・フグに敗北。
その後、大山倍達の命を受けて京都の風呂無しの木造アパート「ひのき荘」を出て、出身地である四国、香川県に自分の支部を立ち上げた。
そして昭和最後の全日本チャンピオンとなった。
「大山総裁の指紋がついているから・・・」
大山倍達から手渡された優勝トロフィーを誰にも触れさせず持ち帰り道場のガラス棚に飾り施錠した。
道場では先頭に立ち滝のような汗を流し、感情をむき出しで指導。
稽古の後は道場生を引き連れ、汗で流した分、酒を飲み、大量に食べ、熱く語り、唄った。
自分の道場生の試合ではよく涙を流し、寂しくなると時間も相手の都合も考えずすぐ電話をしてしまうな支部長だった。
全日本大会の後、大山倍達は松井章圭にいった。
「なぜ君は全日本大会に出なかったんだ?
これから全日本3連覇や世界大会2連覇もできたはずじゃないか」
暗に引退撤回を迫られた松井章圭は、空虚な総本部指導員暮らしを続けた。
やがてブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど南米各国の支部を回り指導を行うように命じられた。
松井章圭は、現地で日本語で号令をかけて稽古を行い、模範演技を示し、次々と挑んでくる相手と組手をした。
このときのブラジル支部で、後に第7回世界大会で史上初の外国人チャンピオンとなる17歳のフランシスコ・フィリョと組手をした。
南米から帰国後、総本部指導員に戻ったが、ある日、大山倍達に呼ばれた。
「君は将来、私の右腕として極真空手の普及のためにアメリカと韓国、日本を行き来しながら活躍してほしい」
母国の文化や風習を勉強したかった松井章圭は喜んだ。
「それならぜひ韓国へ行かせてください」
「よし、韓国へ行かせよう」
「いつ頃行かせていただけますか」
「そうだね。
来年の春ごろ行きなさい」
こうして韓国支部創設の話が決まり、松井章圭の精神は久しぶりに満たされた。
その後、大山倍達は、松井章圭の渡韓に向けて準備を始めたが、韓国の後援者は難色を示した。
まだ韓国に極真空手の道場はなく、大山倍達の期待のかかる松井章圭を受け入れられる環境ではないというのだ。
約束の春を過ぎても、大山倍達から韓国行きの話は出ず、6月になり意を決した松井章圭は大山倍達の館長室を訪ねた。
「韓国へはいつ行かせてもらえるのでしょうか」
「君を他の道場へやるわけにはいかないんだよ。
君は総本部で指導していなさい。
いま君を韓国へ行かせるわけにはいかないんだ」
「わかりました」
松井章圭は部屋を飛び出し、そのまま総本部指導員を退職した。
極真会館を飛び出した直後、松井章圭は、許永中の側近から相談を受けた。
「極真にうちで働けるまじめで若い、いい子はいないかな?」
「そのお話、私ではダメでしょうか?」
側近からその話を聞いた許永中は
「それが1番の理想」
と喜んだ。
42歳の許永中は、神戸と釜山を往復する大阪国際フェリー、テレビ局、新聞社、銀行、産廃処理、ホテル、老人ホーム、芸能プロ、ゴルフ場、建設業、不動産業、旅行代理店、貴金属卸、警備保障会社、飲食業など74社を束ねるコスモタイガーコーポレーション(CTC)の会長で、多くの在日同胞の子弟を雇っていた。
また持ちビルを道場や関西本部事務所として無償で貸して、自分の子供を極真空手に入門させた。
初めて松井章圭に出会ったとき、許永中は、そのナイスガイぶりに
「在日コリアン社会の若きエース格」
と期待した。
松井章圭は帝国ホテルにあったCTCの事務所にいき、許永中と面談した。
許永中は、スキンヘッドに眼鏡、180cm、100kgという巨漢で、眼鏡は、若い頃、敵対していた暴力団組織との抗争で失明寸前の大ケガを負わされ視力が低下してしまったためのものだった。
「わしは9時5時のサラリーマンを雇うつもりはない」
「はい」
こうして松井章圭はCTCに就職した。
そしてワインの輸入販売会社で、営業、運搬、在庫管理、原価計算など貿易の仕事をした。
1988年12月、北海道支部長である高木薫(北海道支部長)が、東京本部総裁秘書室室長となった。
高木薫は、大学で極真空手を始め、芦原英幸、山崎照朝、添野義二らの指導を受け、大学2年生で黒帯となり、3年生で第1回全日本大会に出場し2回戦敗退。
大山倍達にロサンゼルスにいくようにいわれ
「英語も話せないし、アメリカは荷が重すぎる」
と断ると
「わかった。
じゃ君、明日すぐに北海道へ行け」
となり大学卒業後、北海道へ。
物腰が低く温和で面倒見がいい高木薫は、道内に17の道場を設立。
全日本大会や世界大会で主審や副審を務めるほかにも頻繁に上京し、極真の活動に尽力した。
東京本部総裁秘書室室長となってからは、ますます北海道と東京を往復する回数が増えた。
そしてこの後、様々な改革に着手する。
1989年6月、許永中は、KBS京都(京都放送)の2000株(合計10億円)に対し第3者割当増資
(会社の資金調達方法の1つ。
株主であるか否かを問わず特定の第3者に新株を引き受ける権利を与えて行う増資のこと。
株式を引き受ける申し込みをした者に対して、新株もしくは会社が処分する自己株式が割り当てられる。)
を行い、資本金を10億円から20億円に倍増させた。
そして株主総会で19人と定められていた役員を26人の増やし、自らの息のかかった人物を経営陣へ送り込んだ。
京都新聞グループ(京都新聞、KBS京都など)の創業3代目社長だった白石英司が急死後、不動産投資の失敗による多額の債務が発覚。
また新社長となった内田和隆に創業者未亡人の白石浩子が反発したことで内紛が勃発。
この内紛に介入し、経営再建に乗り出したのが許永中だった。
許永中は内田和隆を副社長に降格させ、新社長に画商の福本邦雄を就任させた。
そして松井章圭に
「福本邦雄という人物のところで勉強してみないか」
と勧めた。
松井章圭に
「実社会における100人組手をぶっつけ本番で挑戦させよう」
という意図だった。
福本邦雄の個性は半端なものではなく常人なら1ヵ月も辛抱できるものではなかった。
福本邦雄の父親、福本和夫は、 共産党の理論的指導者だった。
1928年に、3・15事件で入獄。
14年間獄中で生活し、出獄後は執筆活動に専念した。
福本邦雄も、東京大学時代に共産党に入党するが、党内対立で除名となり、卒業後、産業経済新聞に入社。
岸信介総理大臣と椎名悦三郎官房長官が、水野成夫(産業経済新聞社)社長に、福本邦雄を出向させて欲しいと要請。
福本邦雄は、官房長官秘書官(1959年6月~1960年7月)、自民党政調会長秘書役(1960年7月~同年12月)、通産大臣秘書官(1960年12月~1961年7月)を務め政界に人脈を築いた。
政党の資金関係を担当していたため新聞社に戻れず、PRエージェント会社「フジ・コンサルタント」、画廊「フジ・インターナショナル・アート」、「フジ出版社」を創業した。
企業が画商から絵を数点購入し、画商は領収証を発行して企業に納入するが、うち数点は秘かに政治家に渡す。
政治家は必要に応じて絵を売って政治資金を捻出する。
バブルの頃、福本邦雄は「名画」を政治家や官僚にバラまいた。
後に発覚するイトマン事件で、許永中は自身が保有していた絵画など676億円をイトマンに購入させたが、その多くは福本邦雄の画廊から出たものだった。
福本邦雄は、KBSを正常化し、京都新聞に合併させる構想を抱いて動き出したが、許永中がダイエーファイナンスから自身のゴルフ開発会社に146億円の融資を受けた際、KBS社屋や土地、さらには放送機材まで放送局まるごと担保に設定したことが発覚。
1989年、KBSはダイエーファイナンスから競売申請を受けた。
松井章圭は福本邦雄の事務所に約1年半勤めることになるが、初めて出社したとき、事務員の女性に
「あなたね。
ここじゃ空手のチャンピオンだろうが関係ないのよ。
私のほうが先輩なんだからね」
と釘を刺された。
かかってきた電話への対応でも
「大声はダメ」
「もっと丁寧に」
「まず『お世話になってます』っていってから」
細かく指導を受けた。
極真会館では電話は元気よく対応すればよかった。
事務所には大臣クラスの代議士や事務次官クラスの官僚、大企業の経営者らが頻繁に出入りしていて、挨拶の仕方を教わった。
また絵の運搬や、福本茂雄の身の回りの雑用も行い、KBSのある京都にも同行した。
福本茂雄は執筆活動もしており、松井章圭は資料集めのために国会図書館や書店を回った。
ライアントを見送りに事務所を出たとき、松井章圭は車に乗り込むクライアントに会釈した。
頭を上げてふと横をみると福本邦雄は、まだ深々と頭を下げたままだったので、あわててそれに倣った。
クライアントとステーキハウスを訪れたとき、それぞれ好みの量を注文した。
松井章圭はステーキなら2㎏は平気だったが、遠慮して400gにし、瞬く間に平らげた。
帰りの車中で福本邦雄に怒られた。
「お前は常識のない奴だな
お前のための食事会じゃないんだぞ」
大山倍達ならたくさんの量を食べれば食べるほど喜んでもらえた。
これまでとあまりに違う環境に、3ヵ月たっても失敗を重ね、自己嫌悪に陥り、やる気も低下していた。
ある日、福本邦雄に呼ばれ、
「はあーい」
と気のない返事をすると冷ややかにいわれた。
「お前さん、もう辞めるのかい」
松井章圭は凍りついた。
(このままでは落伍者の烙印を押されてしまう。
極真世界王者の実績はなかったものとして、謙虚に、そして貧欲に社会人としての生き方を、白帯から始めなければならない)
一瞬で我に返った松井章圭は
「すみませんでした。
姿勢を改めて頑張りますのでここに置いてください」
その後は一切泣き言も苦情をいわなかった。
松井章圭は、福本邦雄事務所で働くことで、日本の政官財のトップたちを直接観察することができた。
そこには日本の権力の縮図があった。
1990年3月、1984年の全日本大会を4回戦で棄権したのを最後に現役を退いていた三瓶啓二が、1979年に49人で失敗した100組手に11年ぶりに挑戦し、完遂。
「史上初全日本大会3連覇」の不屈の男に「100人組手達成」という新たな伝説を加わった。
多くの者は、そのチャレンジ精神に感動した。
しかし途中、1時間近い休憩が入ったことや、相手に色帯の女子門下生がいたなど、その内容には賛否があった。
1990年12月、第22回全日本大会で増田章が緑健児から上段回し蹴りで技ありを奪って優勝。
会場で観戦していた松井章圭は真っ先にかけよって増田章を祝福した。
このとき
「(来年の11月に開催される)第5回世界大会で演武と大会中継のテレビ解説をするように」
という大山倍達からの命が伝えられた。
それまで
「本業を定めた以上、大会という華やかな場に立つことは控えるのが筋」
と固辞し続けていたが、思い悩んだ末、引き受けることにした松井章圭は3年前に飛び出した館長室を訪ねた。
「元気そうだな」
大山倍達は笑顔で迎えた。
実質的に、これで極真復帰が決まった。
直後、1991年元日、朝日新聞が
「絵画取引12点の実態判明、差額はどこへ流れた?」
「西武百貨店-関西新聞-イトマン 転売で25億円高騰」
との大見出しで絵画取引の不正疑惑をスクープ。
1991年5月19日、増田章が100人組手に挑戦。
松井章圭はセコンドについた。
開始前、大山倍達は対戦者に発破をかけた。
「対戦者は真剣に戦え。
全日本チャンピオンに1本勝ちしたら、次の昇段のときの得点にします」
50人目終了後、20分休憩が入り、増田章は道着を交換。
「倒れるまでやらせてくれよ」
そういう増田章を松井章圭は
「大丈夫。
そこまで認識していれば問題ない。
オレなんか50人の時点でもう青息吐息だった。
それに比べれば今日の君は十分余力がある。
自信を持っていけ」
と笑顔で激励した。
「もっとリラックスして」
「自然に行け」
「気を抜くな」
「自分から動いていかないと」
「がんばれ、ほら、弱気になるな」
「増田!何やってるんだ」
「どうせ後になったら動けなくなるんだから、今のうちに動いておけ」
松井章圭は100組手中、立ちっ放しで目を離さず声をかけ続けた。
100人完遂後、2人は道場の隅で談笑した。
「まったく『何、弱気になってんだ』とか、『ここまでは誰だってできるんだ』とかカチンカチン頭にくることばっかりいうんだから。
何いってんだ、オレは痛えんだぞと思いながらやっていましたよ」
「自分はそれを99人目でもいいました(爆笑)」
「なんか憎しみ込めていってるように聞こえたよ」
「いや、愛情もこのくらい(指で1㎝くらい示し)ありました」
1991年7月23日、大阪地方検察庁特別捜査部は、総合商社イトマンを利用して絵画やゴルフ場開発などの不正経理を行った許永中を特別背任の疑いで逮捕。
約3000億円が闇に消えた戦後最大の経済不正経理事件、「イトマン事件」だった。
松井章圭は、極真復帰の事情をしたためた手紙を許永中のいる拘置所へ送った。
許永中は、松井章圭の休職を許可し励ましの手紙を返した。
福本邦雄からも
「君には厳しく当たったけど、まあよく辛抱した。
これからも頑張んなさいよ」
という言葉と餞別があった。
高木薫(北海道支部長、東京本部総裁秘書室室長)が、第5回世界大会を東京ドームで開くことを提案。
大山倍達は許可したが、会場を抑えるのが遅すぎて実現しなかった。
同時期、大山倍達は「空手百科」を出版を進めていて、高木薫に出版社:学習研究社との仲介を任せれていた。
第5回世界大会の協賛を買って出た学習研究社に対し、高木薫は自分の北海道支部の口座に協賛金を振り込むように指示。
学習研究社が大山倍達に確認したところ、高木薫が許可なく行っていたことが発覚。
このトラブルによって出版が決まっていた「空手百科」は販売されずに終わった。
1991年11月に行われた第5回世界大会では、大山倍達は型の演武を、松井章圭は試割りを行った。
優勝は、緑健児。
2位、増田章。
3位、黒澤浩樹。
そしてこの大会では衝撃的な事件が起こった。
アンディ・フグは、第3回大会では緒戦で、第4回大会では決勝戦で松井章圭に敗れた。
第5回大会で27歳のアンディ・フグの肉体はさらにビルドアップされ、「アルプス最強の男」から「ヨーロッパ最強の男」とニックネームは格上げされ、優勝候補の1人だった。
しかし3度目の世界挑戦は非常に険しい山(トーナメント)登りだった。
1回戦:ビガーゼ・タリエル、194㎝112㎏。
2回戦:ヨハン・ブプセライネン、201㎝115㎏。
3回戦:ウラジミール・クレメンテフ、196㎝105㎏。
「アンディ包囲網」と呼ばれた超大型選手が囲む作為的にも思えるトーナメントを勝ち進んでいった。
事件は4回戦で起こった。
前回の世界大会準決勝でアンディ・フグは、ブラジル支部のアデミール・ダ・コスタを踵落としからローキックというコンビネーションで破った。
そして今回ではアデミール・ダ・コスタの弟弟子であるフランシスコ・フィリョと対戦することになった。
20歳のフランシスコ・フィリョは世界大会初出場だったが、圧倒的な強さをみせて勝ち上がっていた。
それに比べ今大会のアンディ・フグは少しオーラがなかった。
3回戦終了後に行われた試割り審査で隣で失敗したフランシスコ・フィリョをみてガッツポーズをとったのもアンディ・フグらしくなかった。
試合は、アンディ・フグの踵落としをフランシスコ・フィリョが左の回し蹴りでブロックするなど、華麗な蹴りが飛び交うスリリングな展開となった。
しかし明らかにアンディ・フグのディフェンスには問題があった。
しっかり肘を曲げ脇をしめて顔面をガードすべき腕を伸ばし手でフランシスコ・フィリョの蹴りを抑えにいってしまい体をのけぞらせてしまっていた。
「ヤメッ」
主審が試合を止めた。
瞬間、ガードを下したアンディ・フグの顔面をフランシスコ・フィリョの左ハイキックが蹴り抜いた。
アンディ・フグは糸が切れた操り人形のようにマットに崩れ落ちた。
故意ではないが、「ヤメッ」の後の攻撃であったため、フランシスコ・フィリョの反則かとも思われたが、審判委員長である大山倍達は
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
と裁定。
アンディ・フグは悲劇の主人公となった。
29歳で自分の道場を持った松井章圭は、8年間の交際の末、幸吟にプロポーズした。
幸吟に婚約を破棄させ、1人前の男になろうと極真を飛び出し、許永中や福本邦雄のもとで悪戦苦闘して社会勉強した松井章圭だったが、この間、幸吟にはたまにしか会えていなかった。
松井章圭は母親の任福順の前で両手をついた。
「幸吟を私のお嫁さんにください」
そして幸吟に求婚した。
「ずいぶん時間がたってしまったけど僕と結婚してください」
「あなたとは結婚しない」
驚いた松井章圭は、経緯を説明したが、幸吟は
「結婚するといっていながらしなかった」
といった。
松井章圭は歯の浮くような言葉を連発。
幸吟をうなずかせるまで3時間かかった。
「一生かけて幸せにするよ」
といいながら
(恋愛と試合は似ている。
あきらめず連続攻撃だ。
そして相手の意思を最大限に尊重して技をかけないといけない)
と悟る空手バカだった。
1992年、高木薫(北海道支部長、東京本部総裁秘書室室長)が
「都内の4支部(城東、城西、城南、城北支部)を総本部直轄道場にすべき」
と提案。
総本部の収入を増やすことがその目的だったが、当然、4支部長は反対。
外部の後援者を中心に構成される総本部委員会に同じ支部長である高木薫のスタンドプレーを訴えた。
大山倍達は高木薫から東京本部総裁秘書室室長の肩書をはく奪した
1992年7月、突如、アンディ・フグが正道会館の試合に出場。
第5回極真空手世界大会(1991年)終了後、28歳のアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロのファイターの道を模索した。
アンディ・フグがプロのファイターになりたがっているのを知った石井和義(正道会館館長)は、何度も極真をやめたのか確認。
そして「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦させた。
アンディ・フグは踵落としで圧倒。
プロデビュー戦を勝利で飾った。
顔面パンチなしのフルコンタクト空手ルールで、お金を払った観客を魅了するのは難しいが、アンディ・フグだけは特別で、強い上に華があった。
アンディ・フグが正道会館に参戦したことに大山倍達は激怒。
正道会館に対して絶縁状を通達。
このことを記事にして、正道会館のエースである佐竹雅昭と松井章圭を並べて表紙にした雑誌「格闘技通信」に対しても取材拒否。
格闘技通信の取材拒否は1年間で解かれたが、極真会館と正道会館の絶縁関係は続いた。
1992年12月、松井章圭と幸吟は結婚披露宴が行ったが、めでたい式で大山倍達の祝辞には怒気が含まれていた。
「君は私のいうことを絶対に聞こうとしない。
君は引退してはいけなかったんだ。
私のいうように4連覇を目指すべきだったんだ。
そして不滅の王者として我が極真に君臨すべきだったのだ。
道場なんか開くべきではなかった。
総本部にいて指導を続けることが将来の君のためであったのだ。
君は私のいうことを聞かない。
君の欠点は頭が良すぎることだ。
ときにはガムシャラになってやらなくてはいけないときもある
何かを犠牲にしてでも突き進まなければならないときもあるんだ」
松井章圭は直立不動で聞いた。
(もう2度と総裁に逆らうようなことはしない)
傍らには生まれたばかりの長女を抱いた幸吟がいた。
松井章圭は、昼は五反田の金融会社に勤め、夜は道場で指導を行った。
会社勤めで得た給料で家族を養い、道場収入はその維持と設備投資に回した。
1993年3月、松井章圭は5段への昇段試験で、50人組手を達成。
この年に行われた支部長会議で大山倍達は54人の支部長に向かっていった。
大山倍達に向かって最前列の右端に郷田雄三、左端に三瓶啓二(福島県支部長、全日本大会3連覇)。
2列目に中村誠(兵庫県支部長、世界大会2連覇)、山田雅捻(城西支部長、大西靖人、黒澤浩樹、増田章などの師)、浜井識安(石川県支部長、増田章の最初の師)。
松井章圭は最後列に座っていた。
「昔は極真不毛の地に城を築いてやろうという覇気があった。
他流歯を潰してでもやってやるという人間ばかりだった。
でももうみんな金持ちになって闘争しようとしない。
金持ちはケンカしないものだよ。
腹の減ったやつが闘争するんだよ。
みんなちょっと太りすぎた気がする。
私の亡き後は大山倍達の栄光に君たちは生きることはできないんだよ。
私が亡きものになるとみんなはきっとバラバラになる気がしています」
さらに大山倍達は後継者についてこう述べた。
「後継者については軽々しくいえないけれど、海外、国内を通じて誰もがこの人が後継ぎならいいよと認める形で指名したい。
だがこれは10年後、20年後のことだからまだ心配はいらない。
それより今日の格闘技ブームで君たちがやることは、極真は地上最強であることを誇示してもらいたい。
これは私が亡き後でも永遠にやり続けなければならない君たちの宿命だよ。
私は100歳まで生きるよ。
今の極真は大改革が必要だからね。
だから後継者の心配はまだする必要などない。
ただね、極真の2代目はまず強くなければダメだ。
全日本大会連覇と世界大会制覇、そして100人組手の完遂者で、しかも若い人。
できれば30代前半の人に継がせたい。
甥は人を醜く保守的にさせるものだからね」
世界大会2連覇の中村誠は100人組手完遂が、全日本大会3連覇の三瓶啓二は世界大会制覇と100人組手完遂ができていなかった。
大山倍達には後継者について3つのプランがあった。
1 郷田勇三か盧山初雄、大山道場時代からの高弟に2代目を継がせてから、3代目を中村誠か松井章圭にする。
2 中村誠を2代目にする。
3 松井章圭を2代目にする。
そして実際に郷田勇三、盧山初雄、中村誠を呼び寄せて見定めようとした。
郷田勇三と盧山初雄は
「歳を取りすぎている。
もっと若くないと波乱の格闘技界を新しい発想で乗り切れない」
中村誠には
「世界2連覇という大偉業を達成した君の極真への貢献度は抜群である。
しかし2代目は松井に決める。
君か松井かで最後まで悩んだが酒の上での失敗が君にはある。
それに松井の若さが今の極真には必要なんだ」
と告げた。
中村誠は応えた。
「押忍。
わかりました」
酒の上での失敗とは、居酒屋でケンカを売ってきた数名のヤクザを血祭りにあげ全国ニュースで報道されたことである。
1993年4月、松井章圭は大山倍達に呼ばれた。
「実は君に重要な仕事をやってもらいたい。
やれるか」
「押忍」
「新会館建設のための第2次建設委員会を組織したい。
ついては君が委員長をやってくれ。
君が中心になって、増田、黒澤、緑といった若い人たちの協力を得ながら強力に推進してほしいんだ
古い支部長たちにはもう任せておけない」
手狭になった極真会館総本部に隣接する土地を買い上げ新会館を建設するという計画だった。
以前に第1次委員会が発足されたが、多くの支部長は再三の建設資金の拠出要請にも難色を示し、事実上休眠状態になっていた。
「この仕事は全国の支部長たちを敵に回す仕事なんだ。
君が泥をかぶることになる。
どうだ、できるかね」
「総裁がいわれるのならなんでもやります」
松井章圭は、即座に答えハラを決めた。
(極真あっての、大山総裁あっての自分だ。
支部長たちにどう思われようとかまわない)
1993年8月、大山倍達は臨時の全国支部長会議を招集し、第2次新会館建設委員会の委員長に末端の支部長に過ぎない松井章圭を指名した。
「極真分裂.02 松井派、支部長協議会派、遺族派」に続きます。