ブルース・スプリングスティーン
「ボス」というあだ名を持つミュージシャンは誰でしょう?と聞かれて、矢沢の永ちゃんと即答したそこのあなた、正解です。しかし、それは日本での話ですね。世界的となるとそれはブルース・スプリングスティーンです。
彼の影響力は絶大で、ボスというあだ名にふさわしいものがあります。その素晴らしさは公開中の映画「カセットテープ・ダイアリーズ」でもたっぷりと堪能することが出来ます。

カセットテープ・ダイアリーズ
因みに、ボスと呼ばれて何もブルース・スプリングスティーンは威張っているわけではないようですよ。あるインタビューで、「ボスはやく金払ってくれよぉ」みたいに、からかわれたニュアンスでボスと呼ばれているんだと答えていました。
さて、そんな彼が本当にボスになるまで、「70年代のブルース・スプリングスティーン」を振り返ります。
アズベリー・パークからの挨拶
ブルース・スプリングスティーンがデビューしたのは1973年。1月5日にアルバム「アズベリー・パークからの挨拶」を、2月23日にはデビューシングル「光で目もくらみ」をリリースしています。
![1. 光で目もくらみ
2. Growin' Up
3. アーカンソーの女王
4. 82番通りにこのバスは停まるかい?
5. Lost in the Flood [Explicit]
6. 天使
7. おまえのために
8. 夜の精
9. 都会で聖者になるのはたいへんだ](/assets/loading-white-036a89e74d12e2370818d8c3c529c859a6fee8fc9cdb71ed2771bae412866e0b.png)
アズベリー・パークからの挨拶
ブルース・スプリングスティーンは、デビュー当時「第二のディラン」というキャッチ・フレーズでプロモーションされています。シンガーソングライター的な扱いだったわけです。その方が売り込みやすかったということでしょうが、普通にロックですけどね。ポップ感はあまりありませんが。
アルバム収録曲の「都会で聖者になるのはたいへんだ」は、デビッドボウイもカバーしています。ジミと言われると確かにジミではありますが、良い曲ですよ。
アルバムタイトルにあるアズベリー・パークというのは、ニューヨークの南約70キロにある町の名前です。ニュージャジー州に位置し、1874年に公園として開発されました。その後、ボードウォークやパビリオンが設置されビジネスマンや観光客が集まるようになります。20世紀初頭にはひと夏で20万人もの観光客が押し寄せたそうですよ。
1920年代には開発がさらに加速し、カジノやシアター、パビリオンなどが次々と造られました。アズベリー・パークの人口は倍加し、60年代にはニューヨーカーや観光客の人気のスポットとなります。
しかし、70年代に入ると新たに出来た大型リゾート地、アトランティックシティにそのポジションはとってかわられます。
アズベリー・パークからは観光地としての賑わいは消え失せ、地域経済は落ち込み、地元の若者たちは将来の夢や希望を失ってしまいました。そんな時期です。ブルース・スプリングスティーンは、この町で無名時代を過ごしていたんですよ。
アルバムに使われている写真は、実際アズベリー・パークで売られていたポストカードだそうです。このポストカードを使うように要望したのはブルース・スプリングスティーンです。
青春の叫び
1973年9月にリリースされた2枚目のアルバム「青春の叫び」。今改めて聴くと、「第2のディラン」という印象は全く受けませんよ。もちろんシンガーソングライターという印象など微塵もありません。
バックを務めるのは前作同様Eストリート・バンドです。が、ブレイク後とはメンバーが若干違います。

青春の叫び
この時点でのEストリート・バンドは、クラレンス・クレモンズ(サックス)、デイヴィッド・サンシャス(キーボード)、ダニー・フェデリシ (キーボード)、ガリー・タレント( ベース)、ヴィニ・ロペス(ドラムス)です。更にコンガとバリトン・サックスの2人がサポートで入ってます。
本作もファーストアルバム同様に当時はヒットしませんでした。ヒットはしませんでしたが、このアルバムは良い曲がてんこ盛りです。
ライブでの定番「ロザリータ」が収録されているわけですが、この曲、最初に聴いたときには誰もが「ズルいっ!」と思ったに違いありません。だって、もう、ロックンロールの美味しいとこどりですからね。ロックンロールの楽しさがこれでもかと詰まってるんですよ。
楽曲は良い。ライブとなると更に良い!ブルース・スプリングスティーンの評判は徐々に高まっていきました。高まっていっていたにも関わらず、レコード会社は2枚続けて商業的に失敗したブルース・スプリングスティーンを見限ろうとしていたんですよ。信じられませんね。
レコード会社としては金にならん新人をいつまでもプロモーション出来んという訳です。ブルース・スプリングスティーンを切って、もうひとりの新人を集中的に売り出そうという話が進んでいたと言われています。まったくもって信じられませんね。
もうひとりの新人とは、これまたなかなか目が出なかったビリー・ジョエルです。2人とも大々的に売り出せ!と声を大にして言いたいところですが、それはその後の歴史を知っているから。アメリカのミュージック・ビジネスがいかに厳しいものかということがよく分かるエピソードではあります。
明日なき暴走
「もし3枚目のアルバムがヒットしなかったらレコーディング・アーティストとしてのキャリアは終わる」とブルース・スプリングスティーンは覚悟していたとインタビューで答えています。
それほどまでに追い込まれていたんです。絶対に成功させるという思い。失敗は許されないという思いで、3枚目のアルバムのレコーディングは混乱を極めます。何度も何度も録音し直し、ようやく出来上がったテープを聴いたブルース・スプリングスティーンは破棄して一からやり直そうとしたのだそうです。
プロデューサーを務めたジョン・ランドーに説得され、なんとかアルバムはリリースされます。しかし、この3枚目のアルバムは完璧でした。捨て曲なし。どこをとっても文句なしの名盤。運命のサード・アルバム「明日なき暴走」は1975年8月にリリースされました。

明日なき暴走
原題は「Born to Run」。しかし、ここは邦題がピッタリですよ。本作の共同プロデューサーでもあるジョン・ランドーが雑誌に書いた余りにも有名なコラムのタイトル「私はロックン・ロールの未来を観た。その名はブルース・スプリングスティーン」。その通り!
「明日なき暴走」は全米3位となり、その後も売れ続け600万枚を超える大ヒットとなりました。
アルバム収録曲は粒ぞろいですが、タイトルチューンは文句なく素晴らしいです。それともう1曲。1曲目の「涙のサンダー・ロード」があまりにも感動的。
ここからブルース・スプリングスティーンの快進撃が始まるのですが、80年代以降のアメリカの苦悩をひとりでしょって立つという感じの詩はまだありません。70年代に多く見られるブルース・スプリングスティーンの曲のテーマは、車と女の子とロックンロール。けっこう軽いんです。仕事よりも女、女みたいな。若気の至りという感じもしますが、それはそれで若者の特権。だからこそ疾走感のあるロックンロールに仕上がっているんでしょう。
闇に吠える街
振り返るとブルース・スプリングスティーンが売れなかったのは最初の2枚だけ。それでは、その後は順風満帆だったかといえば、そうではないんですよ。
「明日なき暴走」が大ヒットして乗りに乗っていたにも関わらず、次のアルバムが出せなくなってしまうんです。
マネージャーを務めていたマイク・アペルが1976年に訴訟を起こします。彼の言い分もあるとはいえ、まぁ、保身でしょうね。関係を解消し、和解もしたものの、レコーディング活動は絶頂期だというのに2年間も休止することになってしまいました。
ファンは待ちに待ちましたよ。「明日なき暴走」から3年が経った1978年6月にようやく4枚目のアルバム「闇に吠える街」がリリースされたんです。

闇に吠える街
無精髭を剃ってさっぱりしたジャケットのブルース・スプリングスティーン。3年ぶりだというのに若返った印象ですよね。
ブルース・スプリングスティーン自身、大好きなアルバムと言うだけのことはあって、アルバムには、その後ライブで歌われ続けることになる曲が多く含まれています。
シングルカットされたのは「暗闇へ突走れ」と「バッドランド」。
それと、このアルバムからEストリート・バンドにスティーヴ・ヴァン・ザント(ギター)が参加しています。
アルバム発売に合わせて行われた全米ツアーは後々語り継がれるほどの大成功を収めました。みんな待ち焦がれてたんですよ。
ブルース・スプリングスティーンは「ロックンロールは楽しく、ハッピーなものだ」という考えを持っています。だからでしょう。時に軽薄とも受け取れる楽曲は少なくありません。
それが、ロックには他の面もあると考えるようになった作品を70年代の最後にリリースします。「ザ・リバー」。発売されたのは1980年10月17日でした。

ザ・リバー
名盤中の名盤ですね。レコードで2枚組という大作です。当初は通常の1枚組として制作されていたものの、「アルバムが軽い」と感じたブルース・スプリングスティーンは、タイトル曲「ザ・リバー」をはじめ重厚な曲を追加したことで2枚組となったそうです。
インタビューでブルース・スプリングスティーンは「人生には厳しさ、無情さ、孤独といったものがあることを理解した」と言っています。
アルバム最後に収められている「雨のハイウェイ」などは、そうしたブルース・スプリングスティーンの心情を象徴している曲ではないでしょうか。
人生の影の部分に重きを置くようになり、6作目のスタジオ・アルバム「ネブラスカ」は1982年9月にリリースされます。シリアスな内容を持ったアコースティック・ギターの弾き語りというこのアルバム。スタイルこそ正しく初期のボブ・ディラン。しかし、もう「第2のディラン」などと言う者は誰もいません。この時既にデモテープには「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」があり、この曲をタイトルにした7枚目のアルバムでブルース・スプリングスティーンは一躍世界的スターダム、そう世界のボスに駆け上がったのでした。