ダボハゼ

1985年12月12日、清原和博は西武ライオンズへの入団を発表した。
オープン戦の第1打席、プロ初打席は三振だった。
(23年後の最後の打席も三振。
清原は、1986年~2008年、2338試合に出場し1955回、三振し三振王となった)
ルーキー時代の清原は「ダボハゼ」と呼ばれた。
ダボハゼは、口が大きく食欲旺盛な魚で、餌をみるとなんでもすぐに飛びつくため、誰にでも簡単に釣れるといわれる。
様々な分野へと参入し多角化させる企業も「ダボハゼ経営」と呼ばれるが、野球においては、早打ちで凡退した打者に対して使われる。
清原は打ちやすい球を待つのではなく、どんな球でも打つ気でいった。
マサカリ投法の村田兆治のフォーク。
サブマリン投法の山田久志のシンカー。
当時のパリーグには個性派でとんでもない球を投げるピッチャーがたくさんいたが、清原は大投手に対しても、とにかくバットを出してタイミングを合わせていき、そして最終的に打ち崩すことを目指した。
その結果、三振も多かった。

オープン戦で三振しまくった清原は、1986年4月5日、シーズン開幕2日目の南海ホークス戦の6回表の守備から途中出場。
1打席目に四球。
2打席目にプロ初安打、初本塁打を放った。
4月8日、8番で初スタメン出場。
徐々に打順は上がり、5月27日には5番となる。
7月、初の2打席連続ホームラン。
ファン投票で1位に選ばれオールスター戦に出場し、第1戦でヒット。
そして第2戦ではホームランを放ちMVPを獲得。
9月27日、28号、29号ホームランを放ち、高卒新人本塁打記録を更新し、長嶋茂雄のルーキーシーズンの記録に並んだ。
10月7日、打順は4番となり、その日に31号を放ち、新人本塁打記録最多タイ。
またこの日、同点で迎えた7回裏2死2塁の場面で初敬遠を受けた。
10月9日、最終戦で清原は3安打を放ち、ライオンズはリーグ優勝。
広島との日本シリーズでは、初戦で自打球を左足に当てて親指を骨折するというアクシデントに見舞われたものの、8試合31打数11安打、シリーズ首位打者および最多安打。
ライオンズは、第4戦目から4連勝という奇跡の大逆転で日本一となり、2度目のビールかけを楽しんだ。
プロ入り1年目の成績は、打率:3割4厘、ホームラン:31本。
またライオンズでは、門限を破ると罰金50万円が課され、それは同じ罪を重ねる度に倍増される。
清原は4回の門限破りがバレて罰金は400万円になった。
ほんとうにとんでもない18歳ルーキだった。
日本シリーズ 9回表2アウト あと1人・・・ 清原、泣く
1987年の日本シリーズは、西武ライオンズ vs 巨人ジャイアンツだった。
ライオンズの3勝2敗で迎えた第6戦。
清原の2ランホームランにより3対1で西武がリード。
9回表2アウト。
ファーストを守る清原は、正面に三塁ベンチがあり、その中に王貞治(監督)がいた。
その瞬間、押し込められていた感情があふれ、清原は涙を流した。
もう1アウトで日本一が決まるという場面でファーストが泣いているという異常事態。
ピッチャーの工藤公康は、どんなガッツポーズをしようか考えていたが、それどころではなくなった。
(一塁方向だけは打たせちゃいけない)
と必死に投げ、篠塚利夫にセンターフライにして、試合後には
「あの涙は本当に美しかった」
とコメントした。
こうしてライオンズは2年連続日本一となった。
バット投げつけ事件
1988年シーズンは、前年同様全試合出場を果たし、ホームランは31本。
7月5日にプロ入り初のサヨナラホームラン。
中日との日本シリーズでは第1戦で特大先制ソロ、第4戦で2ラン、第5戦でソロと3本のホームランで西武の3年連続日本一に貢献し優秀選手賞を受賞。
1989年6月4日、史上最年少、21歳9ヶ月で100号本塁打を達成。
1989年9月23日、清原は優勝争い中のロッテの平沼定晴から受けたデッドボールに怒り、マウンドへ向かってバットを投げつけた。
怒ってマウンドから走ってきた平沼に対してヒップアタックをかました。
これをきっかけに両チーム入り乱れての大乱闘騒ぎが起こった。
清原は(初めての)退場処分を受け、さらに制裁金30万円、2日間出場停止が科され、連続試合出場は490でストップ。
翌日、清原はロッカールームの平沼投手を訪ね謝罪した。
vs 野茂英雄

1990年4月、清原は野茂英雄と初対決した。
野茂は清原より年齢は1つ下だが、同じ大阪出身で、よく似た体格。
トルネード投法から繰り出されるストレートとフォークはすごかった。
このときプロ入り初登板の野茂は、1回裏、ノーアウト満塁で4番の清原を迎えた。
野茂は、この場面でフォークを使わずストレートで真っ向勝負し清原を三振させた。
その後も清原と野茂は、打つか打たれるか、倒すか倒されるかの勝負を行った。
ノーヒットノーランがかかった試合でも野茂は清原にストレート勝負し打ち返された。
「なんでそんな場面で?」
ではなく、そんな場面だからこそ勝負をかけなければならない。
野茂はそういう男だった。
清原は、このシーズン、打率.307、37本塁打、94打点、37本塁打(自己最多)
史上最年少(当時)となる23歳で1億円プレーヤーとなった。
1991年は、開幕から7試合で6本塁打と最高のスタートを切るも、そこから35試合、151打席本塁打なしという極端なスランプに陥り、成績を落とした。
1992年6月26日、清原は史上最年少、24歳10か月で200号本塁打達成。
また最高出塁率のタイトルも獲得した。
しかし日本シリーズでは野村監督率いるヤクルトに研究され絶不調に陥り、第4戦から第7戦まで17打席無安打。
第7戦途中でベンチに下げられ、胴上げの瞬間はベンチで迎えた。
vs 伊良部
1993年5月3日、伊良部秀輝が清原に投げたストレートが当時の日本球界最速の158km/hをマークした。
野茂と同様、伊良部と清原の対決もヒートアップした。
伊良部の150㎞/h超の速球、140㎞/hを超えるフォークに対し、清原は渾身の力をバットに込めた。
このときの対戦は、清原が157km/hのストレートをセンター前に打ち返した。
vs 桑田真澄 KK対決
清原と桑田はオールスターや日本シリーズで数度対戦した。
キャッチャーのサインに桑田は何度も何度も首を振った。
キャッチャーが諦めて直球のサインを出すまで首を振り続けた。
そして真っ向勝負を挑んだ。
そして清原は桑田に対して、オールスターで8打数1安打1本塁打、日本シリーズで12打数7安打3本塁打という成績を残した。
2人は試合の合間に言葉を交わすこともあったが、お互いにドラフトのことだけは触れなかった。
FA宣言
清原は西武時代に、生島マリカという女性と付き合っていた。
1971年に神戸市で生まれ、異母異父姉兄が9人いて、父親の再婚を機に13歳で家を追い出され単独ストリート・チルドレンとなり、学校は小学校までしか通えず、モデル、秘書、大阪の北新地と東京の銀座でホステスとなった。
北新地のお店で22歳の生島マリカに27歳の清原は一目ぼれ。
翌日には
「清原です。
昨日は楽しかったです。
明日か明後日、関西に帰るんでよかったらメシでも食わへん?
自分おもろいわ」
と電話を入れ、1年半くらいの交際が始まった。
清原は関西にいくと生島のマンションに寄り、料理が用意されているとすでに食事をしていてお腹がいっぱいでも
「せっかくつくってくれたんだから」
「おいしい」
「ありがとう」
と無理にでも全部食べた。
またペットの犬が清原に向かっていったとき、生島は
「コラコラ、清原さんもすごく疲れてるから向こう行きなさい」
と叱ったが
「やめたれや。
かわいそうやんか」
と逆に怒りずっと犬の頭をなでていた。

1995年シーズンは、2度にわたる右肩の脱臼の影響で打率:.245、ホームラン:25本と安打100本未満に終わった。
またオリックスがパリーグを制覇。
西武は清原加入以来、初めて優勝を逃した。
プロ10年目の清原はFA(フリーエージェント、自由契約選手となり、国内外どの球団とでも契約交渉ができる)の権利を得ていたが、その行使を控えた。
しかし密かにかつては自分を指名しなかった巨人への移籍を夢みていた。
1996年、清原は全130試合に出場(8年ぶり)。
ホームランも31本と4年ぶりに30本を超えた。
そして11月にFA宣言。
西武ライオンズは破格の条件で引き留めようとしたが
「夢を追いかけさせてください」
と頭を下げた。
18~29歳まで11年間、清原は西武ライオンズに在籍。
8回のリーグ優勝、6回の日本一を経験した。