正道会館 電撃移籍!
1991年、第5回極真空手世界大会において、前大会2位(外国人初)、27歳となりキャリア的にも体力にも最高潮に思えたアンディ・フグは優勝候補だった。
そして「アンディ包囲網」と呼ばれた超大型選手に囲まれたトーナメント表を80㎏台の小さな体で勝ち上がっていった。
しかし4回戦に事件は起こった。
4回戦で、20歳のフランシスコ・フィリョが、故意ではないものの、試合が止められた後に繰り出した蹴りによってアンディ・フグが倒されてしまったのである。
フランシスコ・フィリョの反則負けかとも思われたが、審判委員長であり、アンディ・フグが世界で一番尊敬していた大山倍達は、
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
としたことにより、アンディ・フグの負けとなった。
試合後、人生で初めて失神KO負けしたアンディ・フグは控室にこもり、妻のイロナ・フグは
「アンビリーバブル」
と泣き叫んだ。
1991年の第5回極真空手世界大会終了後、28歳のアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロのファイターの道を模索した。
アンディ・フグがプロのファイターになりたがっているのを知った石井和義(正道会館館長)は、1992年7月、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦させた。
そしてアンディ・フグは踵落としで圧倒。
プロデビュー戦を勝利で飾った。
このアンディ・フグの正道会館への参戦に大山倍達は激怒した。
正道会館に対して絶縁状を通達。
このことを記事にして正道会館のエースである佐竹雅昭と松井章圭を並べて表紙にした雑誌「格闘技通信」に対しても取材を拒否した。
格闘技通信の取材拒否は1年間で解かれたが、極真会館と正道会館の絶縁関係は大山倍達が死去するまで続いた。
松井章圭が2代目の極真会館館長となった後、極真会館と正道会館との関係が修復され、K-1のリングに極真の選手が上がった。
このことに限らず、勇気とチャレンジスピリッツが旺盛なアンディ・フグは、常にさきがけとなった。
K-1のリングに上がった極真空手家の1人、フランシスコ・フィリョは、アンディ・フグについて
「常に私の前を歩いている人だった」
と語っている。
何の分野においても、自分で自分の道を開く人は偉大である。
K-1グランプリ
1993年4月30日、代々木第一体育館で新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など、代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんとする「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント。8オンスグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
トーナメントには、8年間無敗のキックの帝王、モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童、ピーター・アーツもいたし、この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド・ハリウッド・ヘイズをローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳が、タイの英雄、最強のムエタイ戦士、チャンプア・ゲッソンリットをロープまでフッ飛ばした。
決勝戦ではブランコ・シカティックの石の拳がアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれない格闘技イベントとなっていく。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」
アンディ・フグは、この記念すべき第1回のK-1において、決勝戦の前のスペシャルワンマッチで角田信朗と空手ルールで対戦し圧勝した。
そして30歳になるアンディ・フグはリング上で宣言した。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」
佐竹雅昭に敗れ、リング上で涙
1993年8月、アンディ・フグはイロナと結婚。
10月、「カラテワールドカップ」に出場。
圧倒的な強さで勝ち上がった。
その中には空手ルールが理解できず反則を繰り返してしまうムエタイチャンピオンのチャンプア・ゲッソンリットとの対戦もあった。
そして決勝で、アンディ・フグは佐竹雅昭と対戦。
空手ルールで決着がつかず、グローブマッチに突入。
アンディ・フグはグローブをつけての試合は初めてだった。
圧倒的に佐竹有利とみられたが、アンディ・フグはまったく気後れせずに攻め続け、グローブマッチも引き分けとなった。
そして勝負は試割りに持ち込まれた。
試割りは極真空手の試合では杉板が使用されるが、正道空手の試合では瓦が使用される。
アンディ・フグはグローブに引き続き、初めてとなる瓦割りに挑戦したが、1枚差で佐竹雅昭に負けた。
試合後、アンディ・フグは、リングの上でロープにもたれかかり、大粒の涙を流し、それをぬぐった。
グローブ3戦目でK-1王者:ブランコ・シカティックと対戦
1993年11月、アンディ・フグは、村上竜司とグローブマッチを行いKO勝ち。
1993年12月、ライトヘビー級最強を決める「K-2グランプリ」のスペシャルマッチで、アンディ・フグはエリック・アルバートを2RにKOした。
「キックボクサーより空手家のほうが心が強いと思います」
1994年3月、アンディ・フグは、1993年4月30日の宣言通り、前年のK-1グランプリチャンピオン:ブランコ・シカティックと対戦した。
ブランコ・シカティックは50戦以上のキャリアがあり、しかも内戦状態の母国クロアチアで、何度も死線をくぐりぬけてきた戦士である。
対するアンディ・フグはグローブ3戦目。
誰もがブランコ・シカティック勝利を予想したが、アンディ・フグだけは
「キックボクサーより空手家のほうが心が強いと思います」
と自分の勝利を信じていた。
試合開始早々、アンディ・フグは踵落とし。
それをかわしたブランコ・シカティックは、首相撲から膝蹴り、そしてパンチでスタンディングダウンを奪う。
(やっぱりダメか)
誰もが思った。
しかしその後のアンディ・フグが凄かった。
スイッチが入ったアンディ・フグは、遠い間合いからは踵落としや後ろ回し蹴り、中段回し蹴りと蹴りで攻め、接近戦では空手の突きを連打。
2R、ブランコ・シカティックは流血。
それは試合後合計17針縫うほどの傷だった。
そしてアンディ・フグの鬼の攻めにブランコ・シカティックはスタンディングダウンを奪われる。
神がかった強さを発揮し、ダウンを取り返したアンディ・フグは、その後も攻め続け、5Rを戦い抜き判定勝ちした。
無名のケンカ屋に1RKO負け K-1グランプリ1回戦敗退
1994年4月26日、大山倍達が死去した。
その4日後の4月30日、一躍、K-1グランプリの優勝候補となったアンディ・フグは、その1回戦でパトリック・スミスと対戦した。
パトリック・スミスは、カラテワールドカップ '93では、1回戦で佐竹雅昭に拳を砕かれ一本負け。
UFC1では、1回戦でケン・シャムロックにヒールホールドで一本負け。
UFC2では、決勝まで進出し、ホイス・グレイシーにギブアップ負け。
格闘技の技術はあるが、ケンカ屋。
そんな感じのファイターだった。
技術的にも、精神的にも、アンディ・フグとは格闘技の厚みが違いすぎる。
誰もがアンディ・フグの楽勝を予想した。
ゴングが鳴ると、パトリック・スミスは先手必勝、しかも掟破りの逆踵落としを敢行。
そしてパンチでアンディ・フグをダウンさせた。
アンディ・フグはすぐに立ち上がったが、パトリック・スミスはそこに右アッパーで2度目のダウンを奪いKO勝ち。
試合時間は19秒だった。
グローブ3戦目でK-1チャンピオンに劇的勝利した後、無名の選手に秒殺。
無惨だった。
試合後、アンディ・フグは控室に閉じこもり泣いた。
そしてその後、スイスに嫁を残し、日本での単身赴任を開始。
30歳にしてゼロから修行を始めたのだ。
大阪の正道会館総本部の内弟子寮で寝泊まりし、練習漬けの毎日。
角田信朗とウエイトトレーニングに励み、トレーナーにキックボクシングの技術を学んだ。
そして体重を気にしながらも、うどんにご飯を混ぜたり、ご飯にヨーグルトとバナナをかけるなどして、よく食べた。
Revenge リベンジ
1994年9月18日、「K-1 Revenge」が開催された。
以後、これは毎年行われ「リメンジ」シリーズ化した。
「リベンジ=復讐」
1999年に西武ライオンズの松坂大輔が使って流行語大賞にもなったが、その元となったのは、K-1でありアンディ・フグだった。
石井和義は、勝利至上主義の格闘技に、負けたからこそという「負」のドラマを取り入れた。
そして本来、メインにはなり得ないアンディ・フグ vs パトリック・スミスで、横浜アリーナを超満員にした。
ケンカ屋のパトリック・スミスは、再び掟破りの逆踵落としの奇襲攻撃を敢行したが、それをアンディ・フグは下段後ろ回し蹴りで迎え撃った。
アンディ・フグ自身が、極真空手の世界大会の決勝戦で松井章圭にされた技だったがK-1では「フグトルネード」と名付けられた。
フグトルネードで出足を止められたパトリック・スミスは、その後は何もすることができず左膝蹴りでKO負けした。
1994年11月、アンディ・フグの息子:セイヤが誕生した。
2年連続 K-1グランプリ1回戦KO負け
パトリック・スミス戦後、2戦をすべてKO勝ちしたアンディ・フグは、翌年のK-1グランプリ95では再び優勝候補に挙げられた。
そして1回戦でマイク・ベルナルドと対戦。
最初はキックからパンチのコンビネーションでダウンを奪ったが、その後、マイク・ベルナルドの蹴りで肋骨を折られ、パンチでサンドバッグのように滅多打ちにされた末、角田信朗レフリーによって試合を止められた。
2年連続1回戦KO負けだった。
このときの角田信朗はストップが遅いと批判された。
ずっとアンディ・フグの練習とトレーニングをみてきた角田信朗の中には、素直に自分のレフリングを反省する自分と、いまだ試合を止めたことを悔やむ自分がいた。
マイク・ベルナルドに2連続KO負け
1995年9月、「K-1 Revenge95」で、アンディ・フグは、マイク・ベルナルドとリマッチ。
前回のパトリック・スミス同様、見事なリベンジが期待されたが、3R、壮絶にKOされた。
Never Give Up「あきらめない」「我慢する」「やり通す」
アンディ・フグはK-1では勝てない。
30歳を過ぎてキックボクシングをやるのは遅すぎる。
栄光を傷つけないうちにやめてほしい。
多くのファンが否定的な考えをもった。
しかしアンディ・フグだけは
「ネバーギブアップ」
といった。
「私にとって空手は人生そのものなんです。
空手を通して私は、「あきらめない」「我慢する」そして「やり通す」ことを学んだ。
大切なのは最悪なことが続いても、いつかは最高の自分になれるんだと信じることなんです。
私はK-1でも必ずやり通します。」
平仲明信
元WBA世界Jウエルター級チャンピオンである平仲明信は、引退後、沖縄でボクシングジムを開いた。
その少し前、石井和義と出会い、正道会館でボクシング指導を行うことになった。
そして彼に教わった佐竹雅昭は、飛躍的にパンチの技術を伸ばし、キック界のマイク・タイソンといわれるスタン・ザ・マンと堂々と打ち合い、勝利した。
あるとき平仲明信は、正道会館の道場で佐竹雅昭が来るのを待っていた。
メディアへの露出が多い佐竹雅昭は、ときどき練習に遅れてきた。
いつも佐竹雅昭が平仲明信のミットを打つ姿を道場の隅でみていたアンディ・フグは話しかけた。
「もし時間があるんだったらボクシングを教えてくれないか?」
こうしてマンツーマンのボクシング練習を始まった。
アンディ・フグは、K-1グランプリ開幕前は、数週間、沖縄合宿を行った。
「どんなに忙しくてもトレーニングだけは遅れず、キチンとメニューをこなすこと。
それが守れなきゃ俺はやめるよ」
アンディ・フグは、そういう平仲明信がつくったメニューを何倍もこなした。
空手と違って脳を殴り合うボクシングでは、アルコールが命とりになることもある。
平仲明信にいわれ、アンディ・フグは禁酒も始めた。
平仲明信は、すぐムキになって、軽いスパーリングができず、パートナーを潰してしまうアンディ・フグをしかった。
また試合前、ナーバスになるアンディ・フグに
「恐がっても相手に勝つしかないんだから。
リングでやることはそれしかない」、
「恐怖を友達にすれば、それがいつか快感になるよ。
楽しむくらいじゃないとダメだよ」
と諭した。
アンディ・フグは恐怖心を克服するために人の数倍練習した。
「ウサギとカメで例えるなら、アンディは典型的なカメのタイプですよ。
カメの中では才能がある方かなあ。
才能というより努力であそこまでいった人間ですよ」