正道会館 電撃移籍!

1991年、第5回極真空手世界大会において、前大会2位(外国人初)、27歳となりキャリア的にも体力にも最高潮に思えたアンディ・フグは優勝候補だった。
そして「アンディ包囲網」と呼ばれた超大型選手に囲まれたトーナメント表を80㎏台の小さな体で勝ち上がっていった。
しかし4回戦に事件は起こった。
4回戦で、20歳のフランシスコ・フィリョが、故意ではないものの、試合が止められた後に繰り出した蹴りによってアンディ・フグが倒されてしまったのである。
フランシスコ・フィリョの反則負けかとも思われたが、審判委員長であり、アンディ・フグが世界で一番尊敬していた大山倍達は、
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
としたことにより、アンディ・フグの負けとなった。
試合後、人生で初めて失神KO負けしたアンディ・フグは控室にこもり、妻のイロナ・フグは
「アンビリーバブル」
と泣き叫んだ。

1991年の第5回極真空手世界大会終了後、28歳のアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロのファイターの道を模索した。
アンディ・フグがプロのファイターになりたがっているのを知った石井和義(正道会館館長)は、1992年7月、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦させた。
そしてアンディ・フグは踵落としで圧倒。
プロデビュー戦を勝利で飾った。

このアンディ・フグの正道会館への参戦に大山倍達は激怒した。
正道会館に対して絶縁状を通達。
このことを記事にして正道会館のエースである佐竹雅昭と松井章圭を並べて表紙にした雑誌「格闘技通信」に対しても取材を拒否した。
格闘技通信の取材拒否は1年間で解かれたが、極真会館と正道会館の絶縁関係は大山倍達が死去するまで続いた。
松井章圭が2代目の極真会館館長となった後、極真会館と正道会館との関係が修復され、K-1のリングに極真の選手が上がった。
このことに限らず、勇気とチャレンジスピリッツが旺盛なアンディ・フグは、常にさきがけとなった。
K-1のリングに上がった極真空手家の1人、フランシスコ・フィリョは、アンディ・フグについて
「常に私の前を歩いている人だった」
と語っている。
何の分野においても、自分で自分の道を開く人は偉大である。
K-1グランプリ
1993年4月30日、代々木第一体育館で新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など、代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんとする「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント。8オンスグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
トーナメントには、8年間無敗のキックの帝王、モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童、ピーター・アーツもいたし、この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド・ハリウッド・ヘイズをローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳が、タイの英雄、最強のムエタイ戦士、チャンプア・ゲッソンリットをロープまでフッ飛ばした。
決勝戦ではブランコ・シカティックの石の拳がアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれない格闘技イベントとなっていく。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」

アンディ・フグは、この記念すべき第1回のK-1において、決勝戦の前のスペシャルワンマッチで角田信朗と空手ルールで対戦し圧勝した。
そして30歳になるアンディ・フグはリング上で宣言した。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」
佐竹雅昭に敗れ、リング上で涙
1993年8月、アンディ・フグはイロナと結婚。
10月、「カラテワールドカップ」に出場。
圧倒的な強さで勝ち上がった。
その中には空手ルールが理解できず反則を繰り返してしまうムエタイチャンピオンのチャンプア・ゲッソンリットとの対戦もあった。
そして決勝で、アンディ・フグは佐竹雅昭と対戦。
空手ルールで決着がつかず、グローブマッチに突入。
アンディ・フグはグローブをつけての試合は初めてだった。
圧倒的に佐竹有利とみられたが、アンディ・フグはまったく気後れせずに攻め続け、グローブマッチも引き分けとなった。
そして勝負は試割りに持ち込まれた。
試割りは極真空手の試合では杉板が使用されるが、正道空手の試合では瓦が使用される。
アンディ・フグはグローブに引き続き、初めてとなる瓦割りに挑戦したが、1枚差で佐竹雅昭に負けた。
試合後、アンディ・フグは、リングの上でロープにもたれかかり、大粒の涙を流し、それをぬぐった。
グローブ3戦目でK-1王者:ブランコ・シカティックと対戦
1993年11月、アンディ・フグは、村上竜司とグローブマッチを行いKO勝ち。
1993年12月、ライトヘビー級最強を決める「K-2グランプリ」のスペシャルマッチで、アンディ・フグはエリック・アルバートを2RにKOした。
「キックボクサーより空手家のほうが心が強いと思います」
1994年3月、アンディ・フグは、1993年4月30日の宣言通り、前年のK-1グランプリチャンピオン:ブランコ・シカティックと対戦した。
ブランコ・シカティックは50戦以上のキャリアがあり、しかも内戦状態の母国クロアチアで、何度も死線をくぐりぬけてきた戦士である。
対するアンディ・フグはグローブ3戦目。
誰もがブランコ・シカティック勝利を予想したが、アンディ・フグだけは
「キックボクサーより空手家のほうが心が強いと思います」
と自分の勝利を信じていた。
試合開始早々、アンディ・フグは踵落とし。
それをかわしたブランコ・シカティックは、首相撲から膝蹴り、そしてパンチでスタンディングダウンを奪う。
(やっぱりダメか)
誰もが思った。
しかしその後のアンディ・フグが凄かった。
スイッチが入ったアンディ・フグは、遠い間合いからは踵落としや後ろ回し蹴り、中段回し蹴りと蹴りで攻め、接近戦では空手の突きを連打。
2R、ブランコ・シカティックは流血。
それは試合後合計17針縫うほどの傷だった。
そしてアンディ・フグの鬼の攻めにブランコ・シカティックはスタンディングダウンを奪われる。
神がかった強さを発揮し、ダウンを取り返したアンディ・フグは、その後も攻め続け、5Rを戦い抜き判定勝ちした。
無名のケンカ屋に1RKO負け K-1グランプリ1回戦敗退
1994年4月26日、大山倍達が死去した。
その4日後の4月30日、一躍、K-1グランプリの優勝候補となったアンディ・フグは、その1回戦でパトリック・スミスと対戦した。
パトリック・スミスは、カラテワールドカップ '93では、1回戦で佐竹雅昭に拳を砕かれ一本負け。
UFC1では、1回戦でケン・シャムロックにヒールホールドで一本負け。
UFC2では、決勝まで進出し、ホイス・グレイシーにギブアップ負け。
格闘技の技術はあるが、ケンカ屋。
そんな感じのファイターだった。
技術的にも、精神的にも、アンディ・フグとは格闘技の厚みが違いすぎる。
誰もがアンディ・フグの楽勝を予想した。
ゴングが鳴ると、パトリック・スミスは先手必勝、しかも掟破りの逆踵落としを敢行。
そしてパンチでアンディ・フグをダウンさせた。
アンディ・フグはすぐに立ち上がったが、パトリック・スミスはそこに右アッパーで2度目のダウンを奪いKO勝ち。
試合時間は19秒だった。
グローブ3戦目でK-1チャンピオンに劇的勝利した後、無名の選手に秒殺。
無惨だった。
試合後、アンディ・フグは控室に閉じこもり泣いた。
そしてその後、スイスに嫁を残し、日本での単身赴任を開始。
30歳にしてゼロから修行を始めたのだ。
大阪の正道会館総本部の内弟子寮で寝泊まりし、練習漬けの毎日。
角田信朗とウエイトトレーニングに励み、トレーナーにキックボクシングの技術を学んだ。
そして体重を気にしながらも、うどんにご飯を混ぜたり、ご飯にヨーグルトとバナナをかけるなどして、よく食べた。
Revenge リベンジ

1994年9月18日、「K-1 Revenge」が開催された。
以後、これは毎年行われ「リメンジ」シリーズ化した。
「リベンジ=復讐」
1999年に西武ライオンズの松坂大輔が使って流行語大賞にもなったが、その元となったのは、K-1でありアンディ・フグだった。
石井和義は、勝利至上主義の格闘技に、負けたからこそという「負」のドラマを取り入れた。
そして本来、メインにはなり得ないアンディ・フグ vs パトリック・スミスで、横浜アリーナを超満員にした。
ケンカ屋のパトリック・スミスは、再び掟破りの逆踵落としの奇襲攻撃を敢行したが、それをアンディ・フグは下段後ろ回し蹴りで迎え撃った。
アンディ・フグ自身が、極真空手の世界大会の決勝戦で松井章圭にされた技だったがK-1では「フグトルネード」と名付けられた。
フグトルネードで出足を止められたパトリック・スミスは、その後は何もすることができず左膝蹴りでKO負けした。

1994年11月、アンディ・フグの息子:セイヤが誕生した。
2年連続 K-1グランプリ1回戦KO負け
パトリック・スミス戦後、2戦をすべてKO勝ちしたアンディ・フグは、翌年のK-1グランプリ95では再び優勝候補に挙げられた。
そして1回戦でマイク・ベルナルドと対戦。
最初はキックからパンチのコンビネーションでダウンを奪ったが、その後、マイク・ベルナルドの蹴りで肋骨を折られ、パンチでサンドバッグのように滅多打ちにされた末、角田信朗レフリーによって試合を止められた。
2年連続1回戦KO負けだった。
このときの角田信朗はストップが遅いと批判された。
ずっとアンディ・フグの練習とトレーニングをみてきた角田信朗の中には、素直に自分のレフリングを反省する自分と、いまだ試合を止めたことを悔やむ自分がいた。
マイク・ベルナルドに2連続KO負け
1995年9月、「K-1 Revenge95」で、アンディ・フグは、マイク・ベルナルドとリマッチ。
前回のパトリック・スミス同様、見事なリベンジが期待されたが、3R、壮絶にKOされた。
Never Give Up「あきらめない」「我慢する」「やり通す」

アンディ・フグはK-1では勝てない。
30歳を過ぎてキックボクシングをやるのは遅すぎる。
栄光を傷つけないうちにやめてほしい。
多くのファンが否定的な考えをもった。
しかしアンディ・フグだけは
「ネバーギブアップ」
といった。
「私にとって空手は人生そのものなんです。
空手を通して私は、「あきらめない」「我慢する」そして「やり通す」ことを学んだ。
大切なのは最悪なことが続いても、いつかは最高の自分になれるんだと信じることなんです。
私はK-1でも必ずやり通します。」
平仲明信
元WBA世界Jウエルター級チャンピオンである平仲明信は、引退後、沖縄でボクシングジムを開いた。
その少し前、石井和義と出会い、正道会館でボクシング指導を行うことになった。
そして彼に教わった佐竹雅昭は、飛躍的にパンチの技術を伸ばし、キック界のマイク・タイソンといわれるスタン・ザ・マンと堂々と打ち合い、勝利した。
あるとき平仲明信は、正道会館の道場で佐竹雅昭が来るのを待っていた。
メディアへの露出が多い佐竹雅昭は、ときどき練習に遅れてきた。
いつも佐竹雅昭が平仲明信のミットを打つ姿を道場の隅でみていたアンディ・フグは話しかけた。
「もし時間があるんだったらボクシングを教えてくれないか?」
こうしてマンツーマンのボクシング練習を始まった。
アンディ・フグは、K-1グランプリ開幕前は、数週間、沖縄合宿を行った。
「どんなに忙しくてもトレーニングだけは遅れず、キチンとメニューをこなすこと。
それが守れなきゃ俺はやめるよ」
アンディ・フグは、そういう平仲明信がつくったメニューを何倍もこなした。
空手と違って脳を殴り合うボクシングでは、アルコールが命とりになることもある。
平仲明信にいわれ、アンディ・フグは禁酒も始めた。
平仲明信は、すぐムキになって、軽いスパーリングができず、パートナーを潰してしまうアンディ・フグをしかった。
また試合前、ナーバスになるアンディ・フグに
「恐がっても相手に勝つしかないんだから。
リングでやることはそれしかない」、
「恐怖を友達にすれば、それがいつか快感になるよ。
楽しむくらいじゃないとダメだよ」
と諭した。
アンディ・フグは恐怖心を克服するために人の数倍練習した。
「ウサギとカメで例えるなら、アンディは典型的なカメのタイプですよ。
カメの中では才能がある方かなあ。
才能というより努力であそこまでいった人間ですよ」
スイスの英雄
1995年、アンディ・フグであるスイスで第1回「K-1ファイトナイト」が行われ、アンディ・フグは、デニス・レーンと対戦した。
「K-1ファイトナイトの視聴率は50%を超えた。

アンディ・フグは、イロナの故郷であるルツェルンの湖畔に家を建てた。
プール、ジャグジー、サウナ、ゲームマシンが置かれた娯楽室がついた豪邸だった。
ルツェルンはイロナの故郷で、セイヤの寝室の壁にはイロナがエアーブラシで絵を描いた。
しかしアンディ・フグが、この家で暮らすのは、正月と「K-1ファイトナイト」が行われる6月の数週間だけだった。
スイスには正道会館の支部を8つ持っていたが、指導はマイケル・トンプソンに経理はイロナの母親に任せていた。
vs ヒクソン・グレイシー?

バーリ・トゥード・ジャパンオープンで、ヒクソン・グレイシーが優勝するのを観戦したアンディ・フグは、道場に帰ってから
「俺はヒクソンを倒す」
といい出した。
あくまで「最強」を目指し追求する思想は、極真空手に顕著だが、それは本来の武道や格闘技の姿勢でもある。
数日後には
「今はK-1があるから、ヒクソンとはしばらくは戦えない」
といったが、ヒクソン・グレイシー vs アンディ・フグのサムライ対決が実現すればと思うとゾクゾクしてしまう。
空手がK-1を制す
1996年9月1日、アンディ・フグは、スタン・ザ・マンを2RKO。

1996年10月18日、1年半ぶりに復帰した佐竹雅昭に判定勝ち。

そして迎えたK-1グランプリ96の決勝トーナメント。
アンディ・フグは、バンダー・マーブを1RKO。
さらに準決勝では、アーネスト・ホーストを延長2回で判定勝ちし決勝へ進んだ。
決勝の相手は、過去に2度、KO負けしているマイク・ベルナルドだった。
マイク・ベルナルドは、2回戦で20世紀最強のキックボクサー、ピーター・アーツを殴り倒していた。
1R、アンディ・フグは、マイク・ベルナルドに追い詰められたが、2R、ピーター・アーツ戦でダメージを蓄積させたマイク・ベルナルドの脚を蹴ってダウンを奪い雄たけびを上げた。

立ち上がったマイク・ベルナルドにフグトルネード(下段後ろ回し蹴り)で2度目のダウンを奪い、腕を突き上げ10カウントを数えた。
2年連続で1回戦負けしたK-1グランプリで、2連続KO負けしているベルナルドにリベンジし、空手家として初のK-1王者。
いろいろな意味で奇跡的な光景だった。
We Will Rock You 夢はあきらめるな
1996年、K-1グランプリで奇跡的な優勝を遂げたアンディ・フグは、拠点を大阪から東京に移し、スパーリングパートナーを雇ったり、台湾で太極拳を学んだりした。
そして戦い続けた。
「180㎝、97.7㎏、K-1グランプリ96王者、スイス、アンディー・フグ!」
リングアナがコールすると、伝説のロックバンド:Queenの「We will Rock You」が流れ、決意を固めたサムライがリングに向かった。
♪
We will we will rock you
お前達をあっと驚かせてやるぜ
We will we will rock you
お前達を揺さぶるぜ
♪
アンディ・フグのスピリッツは、多くの日本人に感動や夢を与えた。
K-1は、どうやったら多くの人に格闘技をみてもらえるか、いかに汗臭い、野蛮などというネガティブイメージを取り払い、多くの人に観てもらい、楽しんでもらえるか、戦略を練った。
そこに古い堅苦しいしきたりはなかった。
しかしそれだけでは単なる興行である。
K-1は、そこに武道性を強く盛り込もうとした。
武道こそ世界に通用する日本の精神文化だと考えてたからである。
そういう考えを1番実践したのは、皮肉にも青い目をした空手家だった。
アンディ・フグはいった。
「夢はあきらめるな」
フランシスコ・フィリョに2度目のKO負け

1997年7月20日、アンディ・フグは、フランシスコ・フィリョと対戦。
極真空手の道着にブラジルカラーのキックパンツのフランシスコ・フィリョ。
正道会館の道着にスイスのキックパンツのアンディ・フグ。
しかも極真空手世界大会での因縁。
いつも以上に緊張感を漂わせたアンディ・フグは、少し硬い動きで顔面パンチを見舞おうと間合いを詰めていった。
そしてフランシスコ・フィリョの放ったフックで沈んだ。
極真空手時代と同じ負け方だった。
その後、フランシスコ・フィリョは、KO勝利を続け「一撃」ブームを巻き起こした。
K-1グランプリ 3年連続ファイナリスト

1997年11月9日、K-1グランプリ97の1回戦で、アンディ・フグは、佐竹雅昭を左ハイキックで1RKO。
決勝でアーネスト・ホーストに判定で敗れた。
(2年連続ファイナリスト)

1998年6月6日、第4回「K-1ファイトナイト」で、アンディ・フグは、ピーター・アーツと対戦し判定勝ちした。
1998年12月13日、K-1グランプリ98、2回戦で、レイ・セフォーを2RTKO。
3回戦、サム・グレコとの空手家対決で判定勝ち。
決勝では、ピーター・アーツの左ハイキックで1RKO負けした。
(3年連続ファイナリスト)
Andy Hug vs Brave Boy

1999年3月、「探偵ナイトスクープ」において、
「徳田流格闘術を披露したい。
プロの格闘家と戦いたい。
本気を出せば勝てると思っている。」
という自己流で格闘技を身につけたという依頼者とアンディ・フグがスパーリング。
依頼者は本格的な格闘技の経験がないため、手も足も出ず、最後はボディに後ろ回し蹴りを受けうずくまってしまった。
スパーリング後、アンディは依頼者にいった。
「自己流で格闘技を行ない「自分は強い」という君を世間の人は笑うかもしれない。
しかし私は決して君のことを笑わない。
なぜなら私も少年の頃「空手の世界チャンピオンになる」といってみんなに笑われた。
しかし私はK-1のチャンピオンになった。
誰でもチャンピオンになれる可能性がある。
だから私は手を抜かず真剣に君のスパーリングパートナーを務めた。
私は君を笑わない。」
全盛のまま引退宣言
1999年6月5日、第4回「K-1ファイトナイト」で、アンディ・フグはステファン・レコと対戦し、勝利した後、リング上で突然いった。
「来年で現役は引退します。
サヨナラ・アンディをやる」
これは石井和義を含めて誰にも相談もなく行われた。

1999年8月22日、モーリス・スミスに判定勝ち。
1999年10月3日 、天田ヒロミを1RでKOした。
1999年12月5日、K-1グランプリ99の2回戦でアーネスト・ホーストと対戦。
1R、脚の付け根にダメージを受け、その痛みで動きを奪われ、判定負けした。
2000年、アンディ・フグは、ハリウッドスターを目指し東京四谷のアクターズクリニックに通いはじめた。
そして週1回3時間、塩谷俊のプライベートレッスンを受けた。
最初、
「自分を動物に例えると何か、表現してみて」
といわれ、アンディ・フグは、ゴリラの真似をした。
「私がこれまでやってきた格闘技は感情を表に出してはいけなかった。
痛みを感じたり苦しくなっても、それを顔に出してしまうと相手に気づかれそこを徹底的に攻撃されてしまう。
しかし役者というのはその反対で、いかに自分の感情を表現できるかというのが勝負。
そこが楽しくて仕方ない」

2000年1月30日、東京ドームで行われたPRIDE-GP 1回戦で佐竹雅昭がマーク・コールマンと対戦。
佐竹雅昭は腰を引き気味にしてタックルを警戒した。
しかしマーク・コールマンはいとも容易にテイクダウンを決めた。
クローズドガードをとる佐竹雅昭だがマーク・コールマンはかまわず上からパンチを浴びせる。
そして上体が上がった佐竹雅昭の首をすかさず抱え込みネックロックの体勢に。
佐竹雅昭はたまらずタップ、秒殺された。
この試合をみたアンディ・フグは、平直行にいった。
「タイラ、あの技かけてみろ。
どれくらい痛いか知りたい」
平直行がかけると
「俺は大丈夫だ」
といった。
やっぱりアンディ・フグの格闘技バカだった。
病魔
2000年3月、武蔵に5R判定勝ち。
この試合、アンディ・フグは、全身に蕁麻疹が出てかゆみ止めの点滴を打って出ていた。
2000年4月23日、グラウベ・フェイトーザに5R判定勝ち。
試合中
「カモン!カモン!カモン!」
と気合を入れるシーンは印象的だった。
この試合もアンディ・フグの体は蕁麻疹と熱が出ていた。

2000年6月3日、第5回「K-1ファイトナイト」でミルコ・クロコップと対戦し判定勝ち。
(この試合も蕁麻疹と熱が出ていた)
昨年の宣言通り、スイスのファンに別れを告げた。
2000年7月7日、「K-1ジャパン仙台大会」でノブ・ハヤシと対戦。
このときも蕁麻疹と熱が出ていたがパンチだけでKOした。
2000年は、ここまで4戦4勝。
次は10月のグランプリに出場することが予定されていた。
最期の戦い

2000年8月、アンディ・フグはスイスでCM撮影を行った。
そのときずっと高熱が続いていたので病院で検査を受けた。
約2週間後、8月15日に日本に入ると、正道会館の道場で黙々とサンドバッグを打った。
汗をかいて熱を下げようとしたのだ。
スイスで受けた検査の結果はまだ出ておらず、それを待っている状態だった。
しかしその後、さらに熱が上がったため、アンディ・フグは自分でK-1のリングドクターの病院にいった。
すると即座に日本医科大学付属病院に移された。
検査の結果、急性前骨髄球性白血病(APL:Acute Promyelocytic Leukemia)と診断された。
原因はまだ解明されていない、発症頻度、10万人に2~3人という病気だった。

2000年8月22日、石井和義が見舞いに訪れた。
病室は無菌状態に保たれ、入り口には「武道聖矢」という表札がかけられていた。
またベッドの枕元には表紙に「Zen」と書かれた本があった。
アンディ・フグは、記者会見を開き、自分が白血病になったことをファンに告知し同じ病気を患っている人たちに勇気を与えたいといった。
しかし医師は病室を出ることは無理だといった。
そこでこの日はアンディ・フグの意志がメモされ、明日、ビデオカメラでアンディ・フグのメッセージを撮影し、明後日、記者会見を開いて映像を流すことになった。
(この後、容態が急変したためビデオ撮影は行われず、これがラストメッセージとなった)
「ファンのみなさん、突然このような状態に私が陥ってしまったことで、大変ショックを与えたかと思います。
私自身、ドクターから症状を聞いたときは非常にショックを受けました。
しかし私は自分が今陥っている状況をファンのみなさんに告げることで、ファンのみなさんと共にこの病気と闘っていきたいと思います。
今度の敵は私がこれまで闘った中でも1番の強敵です。
しかし私は勝ちます。
ファンのみなさんの声援をパワーにして、リングのときと同じように、最大の強敵に勝とうと思います。
10月の大会は残念ながら出られませんが、日本でこの病気と闘い、いつの日か必ずみなさんの前に現れたいと思います。
頑張ります。
押忍」

8月23日、容態が急変し、アンディ・フグは集中治療室に入れられた。
意識はなく、口には呼吸器、両腕に8本の点滴がつけられた。
アンディ・フグはこの日の午後に頭痛を、17時には胸の痛みを訴え、18時半には昏睡状態に入った。
意識を失ってから撮ったレントゲンによると、頭部の左半分が血まみれだった。
肺には白い点が散らばり、肺にカビが生えている状態で呼吸困難の原因にもなっていた。
また白血球の数は通常の50倍に増えていた。
手術はできず、点滴で薬を入れて出血を止めるしかなかった。
石井和義は、予定していたビデオ撮影はできていないが、翌朝1番で「K-1ファイターの重大な内容を発表したい」とマスコミ各社にプレスリリースし、午後から正道会館で記者会見を開くことを決めた。

2000年8月24日、深夜3:00、昏睡状態のアンディ・フグの心拍数は、ずっと150前後を行ったり来たりしていた。
150前後というと短距離をダッシュしたときの数値である。
11時にはイロナが病院に到着。
「スイスに連れて帰りたい」
といったが
「今の状態ですとあと数時間がヤマだと思います」
という医師の説明を受けて再び泣き崩れた。
14時、正道会館東京本部で、100社近いマスコミを集め、記者会見が開かれた。
すぐにテレビで
「アンディ・フグ危篤」
のテロップが流れ始めた。
病院には、角田信朗、平仲明信、平直行らも駆けつけはじめた。
18時、アンディ・フグの心拍数が下がり始めた。
「アンディ、まだダメだよ」
「アンディ、ダメだダメだ、あきらめちゃ」
「Keep Go On、Keep Go On。
続行、続行」
「Hnads Up、Hands Up。
手を上げろ」
石井和義は必死に胸をさすり、アンディ・フグの試合でレフリーをつとめた角田信朗、セコンドだった平仲明信、平直行は声をかけた。
するとアンディ・フグは自力で心拍数を上げた。
しかしすぐに下がっていく。
「あー、ダメだ、アンディ。
お前、いっつもカラテスピリッツやいうてたやないか
なにやってるねん、情けない」
「どうしたの?
アンディ」
声援が飛ぶとアンディの心臓は動き出した。
その心拍数は0になってから再び動き始めるという奇跡を3度も繰り返した。
4度目に0となったとき医師がいった。
「これでもう休ませてあげましょう」
アンディ・フグの最後の戦いは、自分の意志ではなくドクターによってストップされた。
2000年8月24日18時21分。
35歳。
アンディ・フグはファイターとしての人生を全うした。
アンディ・フグが亡くなって数分後、ピーター・アーツが病室に入ってきた。
そしてその死に顔をみて声をあげて泣いた。
その後も次々に関係者が訪れた。
「なぜ…」
「どうして…」
そういって、みんな泣いた。
アンディ・フグの訃報に多くの人が泣いた
記者会見からわずか4時間後の突然の訃報に日本は震撼した。
テレビではテロップが流され、急遽、追悼番組も放送された。
翌日、
「アンディ・フグ、急死」
は各紙各局がトップ扱いで報じた。
2000年8月26、27日、アンディ・フグの通夜と告別式には、13000人の一般弔問客が訪れた。
同日、西武ドームで行われた「PRIDE10」では、黙祷が行われた。
試合でも、ドクターストップ負けしたエンセン井上は
「アンディに勝利をあげたかったけどできなかった」
村上一成に勝った佐竹雅昭は
「天国のアンディ・フグ、みてるか!
押忍」
と叫んだ。
死去から3ヶ月後、AC(公共広告機構)の骨髄バンクのCMにアンディ・フグが起用された。
「最後まであきらめなかった。
最後まで戦い続けた。
アンディと同じように、今も生きるために、病と闘い、待っている人がいます。
生きるために闘い続ける人へ」