1999年12月5日、K-1グランプリ99の2回戦でアーネスト・ホーストと対戦。
1R、脚の付け根にダメージを受け、その痛みで動きを奪われ、判定負けした。
2000年、アンディ・フグは、ハリウッドスターを目指し東京四谷のアクターズクリニックに通いはじめた。
そして週1回3時間、塩谷俊のプライベートレッスンを受けた。
最初、
「自分を動物に例えると何か、表現してみて」
といわれ、アンディ・フグは、ゴリラの真似をした。
「私がこれまでやってきた格闘技は感情を表に出してはいけなかった。
痛みを感じたり苦しくなっても、それを顔に出してしまうと相手に気づかれそこを徹底的に攻撃されてしまう。
しかし役者というのはその反対で、いかに自分の感情を表現できるかというのが勝負。
そこが楽しくて仕方ない」
2000年1月30日、東京ドームで行われたPRIDE-GP 1回戦で佐竹雅昭がマーク・コールマンと対戦。
佐竹雅昭は腰を引き気味にしてタックルを警戒した。
しかしマーク・コールマンはいとも容易にテイクダウンを決めた。
クローズドガードをとる佐竹雅昭だがマーク・コールマンはかまわず上からパンチを浴びせる。
そして上体が上がった佐竹雅昭の首をすかさず抱え込みネックロックの体勢に。
佐竹雅昭はたまらずタップ、秒殺された。
この試合をみたアンディ・フグは、平直行にいった。
「タイラ、あの技かけてみろ。
どれくらい痛いか知りたい」
平直行がかけると
「俺は大丈夫だ」
といった。
やっぱりアンディ・フグの格闘技バカだった。
病魔
2000年3月、武蔵に5R判定勝ち。
この試合、アンディ・フグは、全身に蕁麻疹が出てかゆみ止めの点滴を打って出ていた。
2000年4月23日、グラウベ・フェイトーザに5R判定勝ち。
試合中
「カモン!カモン!カモン!」
と気合を入れるシーンは印象的だった。
この試合もアンディ・フグの体は蕁麻疹と熱が出ていた。
2000年6月3日、第5回「K-1ファイトナイト」でミルコ・クロコップと対戦し判定勝ち。
(この試合も蕁麻疹と熱が出ていた)
昨年の宣言通り、スイスのファンに別れを告げた。
2000年7月7日、「K-1ジャパン仙台大会」でノブ・ハヤシと対戦。
このときも蕁麻疹と熱が出ていたがパンチだけでKOした。
2000年は、ここまで4戦4勝。
次は10月のグランプリに出場することが予定されていた。
最期の戦い
2000年8月、アンディ・フグはスイスでCM撮影を行った。
そのときずっと高熱が続いていたので病院で検査を受けた。
約2週間後、8月15日に日本に入ると、正道会館の道場で黙々とサンドバッグを打った。
汗をかいて熱を下げようとしたのだ。
スイスで受けた検査の結果はまだ出ておらず、それを待っている状態だった。
しかしその後、さらに熱が上がったため、アンディ・フグは自分でK-1のリングドクターの病院にいった。
すると即座に日本医科大学付属病院に移された。
検査の結果、急性前骨髄球性白血病(APL:Acute Promyelocytic Leukemia)と診断された。
原因はまだ解明されていない、発症頻度、10万人に2~3人という病気だった。
2000年8月22日、石井和義が見舞いに訪れた。
病室は無菌状態に保たれ、入り口には「武道聖矢」という表札がかけられていた。
またベッドの枕元には表紙に「Zen」と書かれた本があった。
アンディ・フグは、記者会見を開き、自分が白血病になったことをファンに告知し同じ病気を患っている人たちに勇気を与えたいといった。
しかし医師は病室を出ることは無理だといった。
そこでこの日はアンディ・フグの意志がメモされ、明日、ビデオカメラでアンディ・フグのメッセージを撮影し、明後日、記者会見を開いて映像を流すことになった。
(この後、容態が急変したためビデオ撮影は行われず、これがラストメッセージとなった)
「ファンのみなさん、突然このような状態に私が陥ってしまったことで、大変ショックを与えたかと思います。
私自身、ドクターから症状を聞いたときは非常にショックを受けました。
しかし私は自分が今陥っている状況をファンのみなさんに告げることで、ファンのみなさんと共にこの病気と闘っていきたいと思います。
今度の敵は私がこれまで闘った中でも1番の強敵です。
しかし私は勝ちます。
ファンのみなさんの声援をパワーにして、リングのときと同じように、最大の強敵に勝とうと思います。
10月の大会は残念ながら出られませんが、日本でこの病気と闘い、いつの日か必ずみなさんの前に現れたいと思います。
頑張ります。
押忍」
8月23日、容態が急変し、アンディ・フグは集中治療室に入れられた。
意識はなく、口には呼吸器、両腕に8本の点滴がつけられた。
アンディ・フグはこの日の午後に頭痛を、17時には胸の痛みを訴え、18時半には昏睡状態に入った。
意識を失ってから撮ったレントゲンによると、頭部の左半分が血まみれだった。
肺には白い点が散らばり、肺にカビが生えている状態で呼吸困難の原因にもなっていた。
また白血球の数は通常の50倍に増えていた。
手術はできず、点滴で薬を入れて出血を止めるしかなかった。
石井和義は、予定していたビデオ撮影はできていないが、翌朝1番で「K-1ファイターの重大な内容を発表したい」とマスコミ各社にプレスリリースし、午後から正道会館で記者会見を開くことを決めた。
2000年8月24日、深夜3:00、昏睡状態のアンディ・フグの心拍数は、ずっと150前後を行ったり来たりしていた。
150前後というと短距離をダッシュしたときの数値である。
11時にはイロナが病院に到着。
「スイスに連れて帰りたい」
といったが
「今の状態ですとあと数時間がヤマだと思います」
という医師の説明を受けて再び泣き崩れた。
14時、正道会館東京本部で、100社近いマスコミを集め、記者会見が開かれた。
すぐにテレビで
「アンディ・フグ危篤」
のテロップが流れ始めた。
病院には、角田信朗、平仲明信、平直行らも駆けつけはじめた。
18時、アンディ・フグの心拍数が下がり始めた。
「アンディ、まだダメだよ」
「アンディ、ダメだダメだ、あきらめちゃ」
「Keep Go On、Keep Go On。
続行、続行」
「Hnads Up、Hands Up。
手を上げろ」
石井和義は必死に胸をさすり、アンディ・フグの試合でレフリーをつとめた角田信朗、セコンドだった平仲明信、平直行は声をかけた。
するとアンディ・フグは自力で心拍数を上げた。
しかしすぐに下がっていく。
「あー、ダメだ、アンディ。
お前、いっつもカラテスピリッツやいうてたやないか
なにやってるねん、情けない」
「どうしたの?
アンディ」
声援が飛ぶとアンディの心臓は動き出した。
その心拍数は0になってから再び動き始めるという奇跡を3度も繰り返した。
4度目に0となったとき医師がいった。
「これでもう休ませてあげましょう」
アンディ・フグの最後の戦いは、自分の意志ではなくドクターによってストップされた。
2000年8月24日18時21分。
35歳。
アンディ・フグはファイターとしての人生を全うした。
アンディ・フグが亡くなって数分後、ピーター・アーツが病室に入ってきた。
そしてその死に顔をみて声をあげて泣いた。
その後も次々に関係者が訪れた。
「なぜ…」
「どうして…」
そういって、みんな泣いた。
アンディ・フグの訃報に多くの人が泣いた
記者会見からわずか4時間後の突然の訃報に日本は震撼した。
テレビではテロップが流され、急遽、追悼番組も放送された。
翌日、
「アンディ・フグ、急死」
は各紙各局がトップ扱いで報じた。
2000年8月26、27日、アンディ・フグの通夜と告別式には、13000人の一般弔問客が訪れた。
同日、西武ドームで行われた「PRIDE10」では、黙祷が行われた。
試合でも、ドクターストップ負けしたエンセン井上は
「アンディに勝利をあげたかったけどできなかった」
村上一成に勝った佐竹雅昭は
「天国のアンディ・フグ、みてるか!
押忍」
と叫んだ。
死去から3ヶ月後、AC(公共広告機構)の骨髄バンクのCMにアンディ・フグが起用された。
「最後まであきらめなかった。
最後まで戦い続けた。
アンディと同じように、今も生きるために、病と闘い、待っている人がいます。
生きるために闘い続ける人へ」