芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男

芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男

その強さは、猛者ぞろいだった初期の極真空手の中でも飛び出た存在。 真正面から打ち合うのではなく、一歩後ろ、一歩サイド、相手の技が届かないところから、いかに自分の技を届かせるかという空手。 そして決して負けることを許さない強烈な闘争本能。 道場の外でもヤクザ相手のストリートファイトや道場破りで名を売り恐れられた。 陰湿なこと、卑怯なことを嫌い、そのために多くの戦いを挑んだが、その中には師:大山倍達さえいた。


「ケンカ買っていただけますか?」

芦原英幸は、広島県佐伯郡(現:江田島市)能美町出身。
ここで小学から中学まで剣道を習い、その足運びや攻撃のタイミング、間合いのとり方などは後の空手に大きく役立ったという。
中学卒業後、教師の斡旋で東京のガソリンスタンドに就職した。
しかし孤独のせいか、世の中が憎く思え、よくケンカをした。
ケンカができそうな人間を探し、わざとすれ違いざま肩をぶつけたり、店の中でガンを飛ばして先に外に出て、その人が出てくるまで準備運動をして待ったり、大まじめに、
「ケンカ買っていただけますか?」
と聞いたり、とにかくケンカになるきっかけを探した。
しかし弱い者や、逃げているものを叩くのは、ケンカのルールに反する。
相手は自分が強いとうぬぼれているチンピラだった。
相手が凄みのある声で因縁をつけても広島弁で一言。
「やっちゃるけん、コイ!」

大山道場

写真中央の縦長の建物が大山道場の入っていた建物

1962年、東京にきて数年経ち
「空手 道場求む」
という電柱の張り紙にみつけ、見学に行った。
それが大山倍達の大山道場だった。
池袋(豊島区西池袋3丁目13-11)の立教大学裏にあった老朽化した木造のバレエスタジオ。
崩れ落ちそうな天井。
穴だらけの壁
その中で30人ほどの男が、まるでケンカのようなすごい組手稽古がやっていた
まだ大会などなく(街で試合をする人もいたが)、日々、道場で行われる組手が試合だった。
大山道場の組手は、顔面突きアリ、金的アリ、投げアリ、抑え込み技アリ、締め技アリ、関節技アリ、つかみあり、ヒジあり、ほぼ何でもアリ。
相手が蹴ってきたらその蹴り足にヒジを落としたり、キャッチして投げたり、自ら回転してのパンチやヒジを入れたり(バックハンドブロー、バックスピンエルボー)、柔道経験者がつかんで投げて絞め落としたり、相手の髪の毛をつかんだり、わざと鼻に軽く攻撃を当てて、相手の目から涙を出させたり、5本の指を相手の目の前に差し出してから目潰しを狙ったりなどもした。
乱暴な練習だったが、その実戦的な空手には不思議な魅力、いや魔力があった。
芦原英幸もさっそく入門し、休まず稽古に通った。
先輩に突かれ蹴られ、やられればやられるほどファイトが沸いた。
道場の隣にアパートが並んでいて、上からアパートの住人に見られてないか気にしながら、稽古のあと道着を脱いで路地で水をかぶった。
夜遅くまで稽古して近所から
「うるさい」
と苦情が出たり、大家に電気と水道を止められたこともあった。
それでも月明かりで練習した。
大山道場の出身者で、中村忠、大山茂・泰彦兄弟、芦原英幸、添野義三、盧山初雄などは、それぞれ空手を代表する流派をつくった。
黒崎健時は、大沢昇、藤原敏男、加藤重夫は魔裟斗という強いキックボクサーを育てた。
ジョン・ブルミンも大山道場で学び、オオヤマ道場オランダ支部を設立。
弟子のウィリアム・ルスカは、オリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリスト。
またピーター・アーツやアーネスト・ホーストの師もジョン・ブルミンの弟子である。

ムエタイに挑戦する黒崎健時

入門し2ヵ月くらいたったとき、先輩と組手をしていて攻撃が受け切れず
「まいりました」
と頭を下げた。
しかしその先輩は芦原英幸の顔面を蹴った。
芦原英幸は崩れ落ち口を切り血を出した。
(クソッ!
汚い。
あいつを叩きのめすまで絶対に辞めない!)
また「鬼」と恐れられた黒崎健時師範代にも痛めつけられた。
黒崎健時は、大山道場がムエタイとの対抗戦が行われることになったとき、大山倍達に命じられ監督としてタイへ渡った。
しかし現地で試合出場を打診され急遽参戦し、ルンピニースタジアムでムエタイランカーとムエタイルールで対戦。
肘打ちを顔面に浴び敗れたが、その戦いぶりは恐ろしいほどの執念深さが現れていた。
大山道場での黒崎健時の組手は、左半身になって左拳を繰り出し前進。
相手を追い込むと右のまわし打ち(右フック)を決めるというもの。
芦原英幸も顔をボコボコに殴られた。
しかしやがて体をさばき、黒崎健時の背中側に移動して有利なポジショニングをとるようになった。
こういう動きこそ、芦原英幸独自の動きであり、後の「サバキ(捌き)」といわれるテクニックとなっていく。
従来、空手は正面を向き合い技をかけ合う。
しかし芦原英幸は、一歩サイド、一歩後ろに動いたところから技をかける。
相手の技が届かないところに位置し、いかに自分の技を届かせるか。
そういう攻防一体の天才の空手だった。

入門8ヵ月後、初めての昇級審査を受け、55人中1人だけ緑帯になった。
おかげで道場で風当たりが強くなったが
「やってやる!」
と稽古とトレーニングに没頭した。
道場での組手と練習に加え、ビルの屋上や空き地、公園の隅、ありとあらゆる場所が自分の稽古場に変わり、朝から晩まで暇さえあれば練習した。
やがて茶帯になる頃には、体もできて誰とやっても負ける気がしなくなり、先輩だろうが誰だろうがかまわず叩きのめし蹴りまくった。

極真会館

極真空手の創始者・大山倍達

1954年、大山倍達は目白にあった自宅の庭で空手を教えていた。
(目白の野天道場)
1956年に娘が通っていた縁で池袋の立教大学裏にあったバレエスタジオに道場を移転。
(大山道場)
そして1964年には東京都豊島区西池袋に「国際空手道連盟 極真会館」を設立した。

会長は佐藤栄作(当時、国務大臣)。
副会長は毛利松平(当時衆議院議員)。
館長は大山倍達。
そして19歳の芦原英幸は、憧れだった黒帯となった。
21歳で6年勤めたガソリンスタンドを辞め、極真会館の指導員となり、本部道場の他にアメリカ軍や大学でも指導を行った。
その給料は1万円。
アパートの家賃とほぼ同額だった。
インスタントラーメンを主食に、足りない分は仲間で助け合った。

幻のブラジル行き

極真空手の本部指導員となって3年後、芦原英幸は空手の指導のためにブラジルに行くことが決まった。
まさに己の拳でつかみとったサクセスストーリー、夢のような話だった。
しかし事件はブラジルに行く数日前に起こった。
その日、芦原英幸はつまらないことが原因でむしゃくしゃしていた。
見かねた先輩が酒を飲みにつれていった。
根が単純な芦原英幸は酒を飲むとすぐに機嫌は直した。
安心した先輩は先に帰ったが、芦原英幸はガソリンスタンドに勤めていたときからの行きつけのスナックにいき閉店までウイスキーを飲んだ。
タクシーを拾うためふらつく芦原英幸をママが支えながら店を出た。
すると
「ええかっこするな」
と車の中の男たちがからんできた。
「なにいってるんだ、この野郎」
と返され、5人の男は車をおりて襲った。
芦原英幸は全員を叩きのめし、男たちは地面でウンウンと唸っていた。
その後、ママと別れ、去ればいいのに現場の隣の食堂に入り焼そばを頼んで食べていた。
すると警官が食堂に入ってきた。
「誰かあの5人を知りませんか?
誰がやったのか、みた人はいませんか?」
「ああ、俺がやった」
芦原英幸は焼そばを食べながら手をあげた。
先に殴ってきたのは向こうだし、5対1だったので自分のほうが正しいと思っていた。
しかし警官は署へ連行した。
「名前は?」
「佐藤栄作(当時の総理大臣)です」
取り調べでは何を聞かれてもちゃんと答えなかった。
「素直にしゃべれ!」
怒った警官は、後ろ手に手錠をかけて椅子に座った芦原英幸の腹を殴った。
キレた芦原英幸は警官に頭突きを食らわせ失神させた。
しかし結局、自分の名前や極真会館のこともバレてしまった。
一晩、留置所に入り、出た後、道場に行くと館長室に呼ばれた。
「ご苦労さん、君は今日からもう来なくていいんだよ」
師範代にいわれた。
無期限の禁足(道場に入ってはいけない、破門ではない)処分だった。
「押忍」
芦原英幸は頭を下げた。

師範代の薦めもあり、芦原英幸は何とか償いをと廃品回収業の仕事を始めた。
朝6時から大八車を引いていると、人によって接し方はさまざまだった。
「おい、ゴミドロボウ」
「おい、ゴミ屋」
という人もいれば
「ご苦労様」
「頑張ってください」
と声をかけてくれる人もいた。
改めて極真空手の指導員、空手のエリートと思い上がっていた自分を痛感し、また何が人間にとって1番大切なのかわかったような気がした。
トレーニングも欠かさず続けた。
夜1人で公園でランニング、柔軟運動、筋力トレーニング、シャドー・・・
黙々とトレーニングをこなした後、ブランコに腰かけいろいろなことに思いを巡らせる22歳の芦原英幸だった。

塩メシ

禁足処分になって2ヵ月後、極真会館から呼び出された。
「押忍」
と館長室に入ると大山倍達はいきなりいった。
「お前、四国へ行け」
「・・・・・・」
「芦原、私が死ねといったら死ねるか!」
「押忍」
「四国へ行って空手を広めてこい」
ブラジルと四国では、同じ空手の指導員でも格が違う。
しかし芦原英幸は、また空手ができるだけでもうれしかった。
2日後、1967年3月27日の21時15分には夜行に乗って東京を発った。
着の身着のまま。
持っているのは極真会館から支給された交通費10000円で買った片道切符と道着の入ったバッグを1つだけだった。
列車は東海道を西に向かって走り、翌朝、岡山県に到着。
ここからフェリーで四国へ。
そして再び電車に揺られ、目的地の愛媛県東宇和郡野村町(現:西予市野村町)に到着。
野村町は小さな町で、ここに指導を依頼された道場があった。
生徒は5人。
芦原英幸は3畳半のアパートに入り、空手の指導だけでは収入が足りないので、出前のアルバイトをした。
少しして生徒たちと毛利松平のところへあいさつに行き、その帰りに食堂に入った。
しかしお金があまりなく、ご飯だけを頼み6人でテーブルに並んだご飯に醤油をかけたり塩をかけて食べた。

四国へ渡って3ヵ月後、至急戻るよう極真会館から連絡が入った。
手持ちが500円しかなく腕時計を質に入れて久しぶりに東京へ戻った。
しかしまったく大山倍達から呼ばれず、毎日稽古をしていた。
2週間たってもお呼びがかからず、その間に四国から手紙が何通も来ていた。
芦原英幸は自分から館長室を訪ねた。
「四国へ帰ってもよろしいでしょうか?」
すると大山倍達はいった。
「君はもう行かなくていい。
ブラジルへ行け」
禁足処分中の廃品回収業務と四国で3ヵ月苦労したことで、再度、ブラジル行きが認められたのである。
当然、芦原英幸はブラジルに行きたかったが、野村町の5人のことがひっかかった。
「四国の道場はどうなるんでしょうか?」
5人を捨てて自分だけいい道に行くことはできない。
「このままではあいつらがかわいそうですよ。
あそこは潰れてしまいます」
「芦原、私のいうことが聞けないんだったら今度こそ破門だ!」
「・・・・・・」
どうしたらいいかわからず立ちつくしていたが、やがて決めた。
「長々とお世話になりました」
そういって頭を下げて館長室を出た。
トボトボ歩いて地下のロッカールームで着替えていると後輩が走ってきた。
「先輩、館長が呼んでおられます。
四国へ行っていいそうです」

聖地 八幡浜

こうして四国へ戻り指導を続けた。
やがて空手を広めるには野村町はどうしても小さすぎると感じ始め、新しい道場をオープンする場所を探し始めた。
まず宇和島へいってみた。
宇和島は規模は大きいが位置が南すぎた。
次に八幡浜にいってみた。
前は海、後ろは山に囲まれた町で、人口が多い宇和島市と松山市の中間に位置し、九州行きのフェリーが出ていた。
この町が気に入った芦原英幸は、練習場所を探した。
そして警察の道場を借りることができた。
稽古に励みながら、ポスターをつくり、町を道着姿でランニングしたり、港でデモンストレーションを行った。
3ヵ月後には道場生は55人になった。
東京で初めて行われた全国支部長会議で
「私は八幡浜という小さな町で、現在55名の会員で頑張っております」
と発表すると、どの支部よりも人数が多かった。

道場生が空手の基本を覚え、空手の動きができてくると組手を始めた。
かかってくる生徒に軽くパンチと蹴りを入れた。
するとみんな倒れてしまう。
寝ている生徒をまぐろのように道場の隅に並べた。
毎日そんなことを繰り返していると55人いた道場生はアッという間に5人になってしまった。
東京で指導しているときは、来なくなった者が悪いと思っていた。
改めて空手で食っていく難しさと厳しさを思い知った。
以後、入会者が安心、安全に学べ、極力ケガをせず強くなれるプロセスを考え始めた。

道場生が5人になった途端、警察の道場は借りられなくなった。
とにかく練習を続けるため、車庫、魚市場、集会場、野天・・・
日替わりで練習場所を転々とした。
稽古が終わると夜遅くまでポスター貼り。
ケガをしてもお金がないので病院にも行けず杖をついて稽古した。
なにも食えず水を飲んでしのいでいると道場生の頭がカツ丼にみえた。
「早く死にたい」
「楽になりたい」
とも思ったが弱音は吐かなかった。
道場生の前では努めて明るく振舞った。
またこの頃、生後間もない犬を拾った。
捨てられ栄養失調でフラフラしていた。
芦原英幸に常にその犬を連れ、犬はいつもその周りをチョロチョロしていた。
芦原英幸にとって自分を頼ってくれる子犬は励みになった。
一生懸命に稽古に取り組む道場生もがんばる理由となった。
激しい練習後の雑談や屈託のない笑顔がたまらなかった。

やがて再び道場生の数は増え、野村町、八幡浜に加え、宇和、宇和島にも練習場ができた。
この頃、芦原英幸の指導は、親切丁寧で優しく、組手もパンチや蹴りは出さず掌底だけで対応した。
笑顔で指導する芦原英幸を古い道場生は逆に恐れた。
あるとき110㎏を超える大きな道場生が入門してきた。
その体力と体重を活かした組手で楽しそうに道場で練習していた。
稽古後、芦原英幸と道場生が銭湯に行ったときのこと。
その道場生が湯船でいった。
「芦原先生の手は速くて怖いけど蹴りは怖くない」
借りものではなく常設道場建設のため、いま辞められては困ると特に優しく指導していた芦原英幸は答えた。
「よっしゃ!
じゃあ次の稽古では蹴りに注意してくれ」
そして次の稽古の日、組手の時間になるとその道場生は芦原英幸の前に立った。
そして右の蹴りから右のパンチを放った。
芦原英幸はそれを流して、左の掌底で相手の右肩を押しつけ、相手の左顎に右のハイキックを入れた。
その道場生は倒れ、痛さのためのたうちまわった。
芦原英幸はそれを道場の隅に引きずっていった。

芦原英幸が四国に来て3年、1970年6月15日、八幡浜道場ができた。
八幡神宮前、JR八幡浜駅から徒歩3分。
板張りの42坪の道場は「芦原空手」の聖地である。
建設中、大工と賭けをして、壁にパンチで穴を開けたら3倍に補強してくれと頼んだ。
そして思い切り壁にパンチを入れて穴をつくり約束通り壁を3倍に補強してもらった。

手裏剣

道場の前の石垣にマムシの巣になっていたので、マムシをみたら手裏剣で仕留めた。
芦原英幸は手裏剣投げの名人だった。
手裏剣は鉄を加工して自らの手でつくった。
それを急所を狙って投げるのだが、その命中率、殺傷能力は共に高かった。

Aバトン

またトンファを改良し、Aバトンという特殊警棒も開発している。
トンファは、伝統的な武器で、またアメリカの警察官が警棒として使用していた。
芦原英幸は、これを3段階に伸縮し携帯しやすく、また握りの部分を回転させやすいように改良した。
Aバトンは、「芦原バトン(Ashihara Baton)」の略である。

サバキ

全盛期の芦原英幸のパンチは、壁に映してパンチを打つトレーニングでパンチの影がみえなくなり、思い切りパンチを打つと瞬間的に血液が拳に流れ込んで拳が破裂するような感覚があった。
蹴りも、まるで手技のように自由に蹴れ、あらかじめ蹴る場所を予告しても相手は受け切れず倒された。
そしてなにより芦原英幸はオリジナル技をつくり始めた。
一瞬で相手の攻めを受け流し自分の有利なポジショニングをとりながら相手を攻撃したり投げた。
後の「サバキ」である。
例えば、他流派の経験者と組手をしたとき、相手の肩と襟首をつかみながら足を引き回すと、相手は顎から床に落ちた。
あるとき道場破りに組手を挑まれたときは、相手の首を腕で挟み一気に引き落とし崩し、さらに髪をつかみながら引きつけ左の膝蹴りを相手の顔面に入れて倒した。
芦原英幸の手には髪の毛がいっぱい残っていたが、それを相手の上に払落し、道場の隅に引きずっていった。
サバキのポイントは3つ。
・4つのラインのステップ
・間合い
・ポジショニング
また新しいテクニックを編み出せば編み出すほど基本稽古の大切さがわかり、より掘り下げて指導を行った。

それ空手ですか?

芦原英幸は、八幡浜道場が完成後、26歳で結婚した。
専用の道場ができたことにより、道場生は毎日充実した稽古に打ち込めてメキメキ強くなっていった。
やがて指導を任せられる人材も育ち、愛媛県の県庁所在地である松山市へ進出した。
松山市は、八幡浜から電車で90分。
芦原英幸は倉庫を借りて練習を開始。
加えてポスターを貼ったり、空手のデモンストレーションを行った。
また道場破りも行った。
自分の道場に人を集めるために、他の道場と腕くらべをするためである。
「強い」と町で評判の道場を探しては、渡り歩いた。
あるとき、「四国一強い」と評判の道場に出かけた。
本格的に殴り合いをやっている、かなり実戦的な道場だった。
稽古をみながら芦原英幸は切り出した。
「ハアー、それ空手ですか?
凄いなあ。
ぼくもやってみたいなあ」
その道場の師範は怒鳴った。
「誰か稽古をつけてやれ!」
芦原英幸はウキウキしながら道場に入った。
「これがサンドバッグ
これが空手着。
あの、帯はどうやって締めるんですか?」
相手の黒帯はイライラしていた。
「お願いします」
といった5秒後には相手はダウンした。
芦原英幸は、組手が始まった直後、顔面に蹴りを入れ、直後、ボディに膝蹴りを入れていた。
次の相手が出てこないので 師範代にお願いした。
「今日は調子が悪いから、またこの次に・・・」
このようにして芦原英幸は手当たりしだい道場を訪ね、自分の力を試していった。
面目を潰され、つぶされ消えてしまった道場も何軒かあった。
おかげで「芦原道場は強い」というイメージは定着していき、門下生が増えていった。

ある日、芦原英幸の噂を聞いて愛媛県警の警官が見学に訪れた。
話をしてみると警察には強い人間がいるという。
「じゃあ組手をしよう」
と警察学校へ出かけ、柔道、剣道、空手、少林寺拳法など、武道経験者らを圧倒。
「これはすごい」
と警察学校での指導が決まった。
重視したのは、いかに相手(犯人)を傷つけて倒すかではなく、いかに制圧するかだった。
松山市の道場でも道場生が増え、気がつけば、野村町、宇和島、宇和、警察学校(松山市)、愛媛大学(松山市)、愛媛大学医学部(松山市)、松山大学と大きく広がっていた。
宣伝はポスターとデモンストレーションと口コミのみ。
集まった人間は、芦原英幸の強さに純粋に憧れた者たちだった。

空手バカ一代

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1971~77年まで週刊少年マガジンで劇画「空手バカ一代」が連載され大ヒット。
空前の空手ブームが起こった。
池袋の総本部道場は大変なことになった。
入門者が増えすぎて道場に人が入りきらず、廊下から階段、さらには表玄関から総本部前の道にまで道場生があふれ、窓を開けて指導員の号令が聞こえるようにして稽古を行った。
ちょっと考えられないようなことだが、間引きも行われた。
指導員がわざと稽古を厳しくしたり、ガチンコの組手をしたりして辞めさせてしまうのである。
それでも入門者は日々続々とやってきたのだ。
そしてその厳しい環境の中で耐え生き残ってきた道場生は根性があり強かった。
「空手バカ一代」の中の芦原英幸は、主人公の大山倍達を上回るほどの人気を得た。
そのため四国の道場でも県内外からの入門者が急増。
道場の近くに用意された寮はいつも満員だった。

少林寺拳法との抗争

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中国から帰ってきた中野理男は、宗道臣と改名し、香川県に「少林寺拳法」という中国伝来の拳法の道場をつくった。
そして著作「秘伝 少林寺拳法」の中でこう書いた。
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先年、たしか、「文芸春秋」で読んだと記憶しているが、牛と試合をして怪我をしたことで有名なある唐手八段が、拳と手刀を鍛えるために何年も山にこもって修行したと書いていた。
その人は、アメリカへも行って煉瓦を割ったそうだが、U・S・Aの煉瓦は日本製よりだいぶ堅くて困ったとも書いてあった。
牛を殺す方法は、もっとらくで有効な技術がほかにあるし、煉瓦や瓦は建築に用いてこそその価値があるものであり、それを割ってみせるために何年も修行しなければならないとすれば、おそらく現代人の大部分は、これを習う気がしなくなるであろう。

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大山倍達は激怒。
宗道臣に対して直接抗議することはなかったが、極真空手の機関誌「近代カラテ」の中でこう反論した。
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牛との対戦の実積も色々とイチャモンをつけるものはあっても高く評価されていた。
私はいいたい。
牛の角を折ったり、倒すことに色々いうのなら、同じ事をした上で初めていう資格があり、それから物事ははじまるのだと。
負け犬の遠吠えよのうに、影でものをいう者に真の力があったためしはない。
事実、いう者の中で山羊の角一本でも折ろうとしてみたものがあっただろうか。

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このとき宗道臣は52歳、大山倍達は42歳。
また少林寺拳法は10万人以上の会員を持ち、極真会館は1000人程度だった。

1972年11月5日の日曜日、1人の青年が池袋の極真会館の総本部を訪れ、大山倍達へ面会を希望した。
そして館長室に通された青年は、金剛禅少林寺拳法の修業者を名乗り他流試合を申し込んだ。
「2日後、あなたの道場で勝負を決めようではないか」
2日後の16時に3名で来館するという。
大山倍達はこれを了承。
当日、大山倍達は不在だったが、先の全日本大会で優勝した三浦美幸、2位のハワード・コリンズ、第3回全日本大会で優勝した佐藤勝昭、3位の大石代吾、本部指導員:岸信行、第1回全日本大会2位、第2回全日本大会3位の添野義二の6名が他流試合の準備をした。
やがて極真会館の前でタクシーが停車。
少林寺拳法の事務局長:鈴木義孝と他数名が出てきた。
「出迎えなくては、礼儀に外れるな」
添野義二ら数名は玄関に向かった。
すると少林寺側は受付に
「もう話はついたから・・・」
といっていた。
実は彼らは前々日、前日と「近代カラテ」編集部を訪れ、少林寺拳法に対する批判的な記事に対して抗議。
また以後、そのような記事は載せないという確約をとっていた。
それをもって和解が成立したと思っていた。
しかし極真側はそれを知らなかった。
「何が話がついたんだ。
こっちは試合の用意ができている。
すぐに道場に上がれ」
三浦美幸が迫ったが、少林寺拳法側は待たせておいたタクシーに乗り込んで去った。

11月27日、スポーツ新聞で連載されていた「大山倍達 ケンカ空手」に以下の文面が掲載された。
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ついこのあいだ、今月5日のことである。
ある拳法を志しているという若者が池袋の極真会館の大山館長を訪ねてきた。
極真会館の機関誌”空手マガジン”に△△△拳法はニセモノ”と題する特別寄稿が掲載されていたことから「2日後、あなたの道場で勝負を決めようではないか」という。
つまり他流試合の挑戦の申し入れであった。
7日、△△△拳法四、五段という青年3人が約束通り極真会館へ乗り込んできた。
応対に出たのは三浦二段、佐藤二段、英国人コリンズ初段ら6人。
大山館長は「若い者にまかせておけば大丈夫……」とそこには顔を出さなかった。
ところが当の3人は2日前の勢いはどこへやら、低姿勢で受付をのぞいていて「もう話はついたから」というばかり。
「何が話がついたんだ。
こっちは試合の用意ができている。
すぐに道場に上がれ」
三浦二段の言葉に3人はあわててエンジンをかけたまま表通りに待たせておいたタクシーに乗り込んで、排気ガスを最後っ屁(ぺ)に雲をカスミと逃げていったのである。
「△△△拳法の四、五段ならウチの茶帯(一級)で十分相手ができるとふんでいたのだが、やっぱり………」
てんで相撲にならなかったこの対決に大山館長はニガ笑いした。

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少林寺拳法側は激怒。
複数の拳士が池袋の極真会館総本部付近に待機した。
そして何名かの極真門下生が闇討ちにあい、数日後に100人組手を控えたハワード・コリンズも4人の暴漢に襲われた。
ハワード・コリンズは道場以外で暴力をふるうことを嫌い、黙って相手の殴る蹴るに任せた。
「 私はちっとも痛くありませんでしたが、彼等の方でスタミナ切れしたものか、やがて引き揚げて行きました」
( ハワード・コリンズは、数日後の12月1日に史上6人目の100人組手の達成者となった。)
また極真会館は囲んだ少林寺拳法の拳士たちは、「卍」と落書きしたり、ガラスを割ったり、玄関を破壊した。
四国にいた少林寺拳法の事務局長:鈴木義孝は事態を解決すべく上京。
まずはスポーツ新聞社を訪ね、
「記事は事実ではない」
と抗議。
そして極真会館を訪れた。
その後ろに80人の拳士がついていた。
添野義二は1人で出ていき要件を聞いた。
そして大山倍達と鈴木義孝が話し合い、和解に至った。
この騒動の最中、四国にいた芦原英幸は、香川県の少林寺総本山に単身乗り込んだという。
(詳細は不明)

石井和義に関西での空手普及を命じる

石井和義

劇画マンガ「空手バカ一代」は多くの若者の心に火をつけ、極真空手には入門者が殺到した。
しかし所詮、ブームはブーム。
マンガの影響で入門した者の多くは長続きせず辞めることが多かった。
しかし中には仕事や学校を辞めて県外からわざわざ四国にいき、数年間、空手の修行を積む者もいた。
そういう人たちがやがて郷里や都市に帰り、それぞれの土地で自主的に稽古をするようになった。
始めは何人かの仲間で稽古していたものが次第に人数が増えてくる。
すると彼らは芦原英幸に指導の依頼をした。
そういう声に応え芦原英幸は関西や九州の各地を回った。
そして1975年、芦原英幸は弟子の石井和義に関西での極真空手の普及を命じた。
石井和義は、愛媛県で生まれ、テレビドラマ「キイハンター」の千葉真一の影響で高校で器械体操を始めた。
やがて偶然みかけた宇和島道場に入門し、わずか2年で黒帯になった。
大学受験に失敗し、大阪に住む兄の家に住み浪人。
アートスクールに通いながら東京芸術大学を目指した。
(ちなみに石井和義の父は画家。
横山大観の弟子で横山と一緒に中国本土へ渡り淡彩画を学んでいたが、終戦後、その夢が閉ざされ、自転車屋を営んだ)
しかしアートスクールの学生はみんな画の上手く、進学を諦め大阪の貿易会社に就職していた。
22歳の石井和義は大阪球場内の文化教室で極真会館芦原道場大阪支部を設立し、当初は昼はサラリーマン、夜は空手の先生という生活を送った。
その指導法は、ホメ殺し。
「わぁすごい!」
「強い突きだね!」
ホメまくり楽しいと感じさせるような指導を行った。
当時では考えられない指導法で、神戸、京都、奈良、堺市、岡山と拡大させた。
自身も会社は辞め空手に専念した。
月々の収益、数百万円を芦原英幸に送ったが、石井和義の月給は11万円だった。
27歳のとき、貯金を食いつぶしてしまったため昇給を懇願し、12万円に昇給してもらった。

雲井大悟に悔し泣き。

棟田利幸

芦原英幸は警察学校で空手を教えたが、同時に柔道師範の棟田利幸から逮捕術を習った。
この経験がサバキのテクニックにも影響を与えた。
棟田利幸は、「空手バカ一代」の中で雲井大悟として描かれ芦原英幸に倒されてしまう。
しかし実際にはそんなことはなく、マンガを読んで驚いた芦原英幸は謝りに行った。
棟田利幸は笑って対応したという。
「ワシはな、人生で初めて土下座したんよ。
知っとるか?
棟田(利幸)先生に。
柔道の世界じゃ知らん者はおらん。
四国で一番、西日本でも一番、実力ならば日本でも一番。
本物の柔道家です。
たしかにワシは八幡浜の時から警察道場で棟田先生にも空手を指導してきた。
けどな、逆に柔道やったら、ワシなんてものの三秒も立ってはいられんわ。
打撃で人を3秒で殺せますか?
無理。
打撃を極めたワシがいうんやから無理です。
しかし投げやったら3秒で人を殺せるんです。
棟田先生は柔道の猛者なだけやない。
警察逮捕術の達人でもあった。
空手じゃワシが先生でも、柔道や逮捕術ではワシは相手にもならん」
「ワシは梶原先生に凄い柔道家がいるとはいった。
けど勝負はしとらんよ。
世話になっとるといっただけや。
なのに、梶原先生のマンガをみてワシは腰を抜かした。
やたら体のデカいウドの大木で、ワシに簡単にやられる内容や。
名前は雲井大悟。
ワシは悔し泣きしたんよ。
そのとき初めて棟田先生の家を訪ね、土下座して謝ったんよ。
実際は棟田先生がワシの手を引き上げて、土下座させてくれんかったのが本当じゃけん。
けどワシは気持ちで土下座した。
棟田先生は本物の豪傑じゃけん。
そんなことは気にせんでいいと笑ってくれました」

ちなみに棟田利幸の息子は、柔道100㎏超級で世界選手権を2度制した棟田康幸である。

極真 破門

1979年、芦原英幸は、JR松山駅前に道場を完成させ、自身も長年住んだ八幡浜から松山市に引っ越した。
34歳のことだった。
「立派すぎる」
松山市の新道場は極真会館の本部からいい評価は得られず
「そんな道場が建てられるなら月々の送金額を増すように」
ともいわれた。
また芦原英幸は愛媛県支部長だったが、愛媛県が北部と南部に分けられ愛媛県北部支部長になった。
そして愛媛県以外の活動を慎むようにといわれた。
「空手バカ一代」による空手ブームにより、全国に極真空手の支部が増え、新しい支部長も増えた。
当然、縄張り争いが起き始めた。
芦原英幸は、大山道場が懐かしかった。
池袋の小さな道場は、ただただ強さを求め熱気に溢れていた。
やっと自分の居場所を見つけたうれしさ。
強かった先輩たち。
狂ったように続けた稽古。
極真会館へ変わって大山道場では考えられなかったようなしょうもない戦いが起こり始めていた。

1980年3月、東京で行われた支部長会議が行われた。
ここで議事予定になかったが、ある支部長から「芦原英幸除名」が発議された
芦原英幸は、居並ぶ極真会館の支部長たちと大山倍達にケンカを売った。
「何を最初から茶番やっとるんよ。
面倒くさいことタラタラ続けよって。
最初から目的は決まっとったんやろ。
館長(大山倍達)、そうでしょう。
この芦原を破門にするため、何もかもあんたが企んどったことは分かっちょったわ。
館長、こんだけの人間集めて芦原を脅かそうとかビビらせようなんて考えちょったら甘いですけん」
「ワシが邪魔やというんなら、館長、これだけの支部長がおりますけん、ここで芦原を殺してくださいよ。
このデカいガラス窓を蹴破って一人一人窓の外に放り投げてやってもいいんですよ。
ほらお前ら、黙っちょらんで向かってこいや。
何が極真の支部長や。
誰一人戦えるもんなどおらんやないけえ。」
「館長、ワシがこの窓蹴破るといっちょるんです。
こんな腰抜け支部長は置いといて、館長が芦原を外に放り出してくださいよ。
アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ。
何頭もの牛を殺したんでしょ。
熊も退治したって聞いてますけん、ワシみたいなヒヨっ子潰すのなんて簡単やないんですか。
破門だ除名だ手回しのいいことせんでも、今ここで決着つけてくださいよ」
どの支部長も何もいえない中、芦原英幸は、一歩一歩大山倍達に近づいていった。
大山倍達の横に座っていた極真会館相談役の柳川魏志はいった。
「芦原、もうやめんか。
いかなる場でも、いかなるときでも自分の師匠や親分に食ってかかるのは仁義に外れた行為や。
師弟関係は親子も同然やないか。
お前が今やっていることは仁義に生きる世界なら万死に値する最低の行為なんや。
場をわきまえんか」
柳川魏志は、その武勇で日本の裏社会を震撼させたヤクザ。
昔から芦原英幸に目をかけていた。
しかし芦原英幸は自分を止めることはできなかった。
「先生との縁もこれまでちゅうことですね。
先生は館長の味方やもんね。
ワシは今から先生のカタキになるちゅうことですわ。
好きにしたらええ」
そういい放ちと会場を後にした。


1980年9月、極真会館の本部から一通の手紙が届いた。
「永久除名処分」の通達状だった。
..............................................................................................................

愛媛県松山市三番丁八丁目三六〇番地一号

芦原英幸殿

通知書

貴殿は、極真会館の規律をみだし、且つ支部認可条件に

違背する不都合な行為に対する再三の注意を無視し、

情状酌量の余地なしと認められるので、極真会館道則の

定めるところに従い、極真会館愛媛支部長の任を

取り消すとともに、以後、いかなる場所にても

極真カラテを標榜することを禁じ、

極真会館から永久除名する。

この旨通知する。


昭和55年9月8日

財団法人極真奨学会 極真会館

国際空手道連盟

会長        毛利松平

理事長       塩次秀雄

館長        大山倍達

評議委員長    河合大介

..............................................................................................................

一週間後には新聞にも、芦原英幸を永久除名処分にしたという極真会館からの広告が掲載された。
芦原英幸は、この広告をみて大山倍達が
「師を乗り越えて雄飛せよ」
といっているように思えた。
大山道場に入門したのが1961年9月。
2度とその門をくぐれなくなったのが1980年9月だった。
極真会館を退会後、
「これで大山倍達とは師でも弟子でもなくなったな。」
といわれたとき
「私の師匠は今も昔も大山倍達です。」
といった。
また昇級審査会を受けた弟子が「大山」という名前だったとき、芦原英幸は
「なに?大山?
いかんなあ、大山という苗字は!」
とふざけた。
その後も
「コラ!大山ぁ!!
はあ~、気持ちええなあ!」
などといって大げさに喜んでみせ審査会の会場を爆笑させた。
しかし審査が終わると一転、
「大山という苗字に恥ずかしくない立派な空手家にならんといけんよ」
と声を掛けた。

芦原空手

通達状が届いたその日、芦原英幸は1人で喫茶店にいってこれからのことを考えた。
極真を離れたら、かなり道場生が減るだろうと思った。
それでもいい。
信じてついてきてくれる人と一生懸命やればいいと思った。
実際は、四国、九州、中国、関西のほとんどの道場生が残った。
「先生、きっと今は誤解している人もきっといつかわかってくれますよ」
「これからもご指導よろしくお願いします」
始めは自分さえ強くななればよかった空手が、今や空手に生きて空手に死ぬしかないという覚悟がに変わった。
自分を信頼してくれる道場生が安心して学べ安全に事故なく上達できなければいけない。
「ようし、見とけよ。
いろいろあったけど芦原についていってよかった、信じてついていってよかったといつか思えるようにしちゃる」

芦原英幸は自分の空手を「芦原空手」、道場を「芦原会館」と名づけ再出発した。
まず墨をすって筆で半紙に「芦原會館」と書いた。
次にシンボルマークの作成。
空手のステップのラインを枠組みに、サバキで最も重要なポジショニングと制空圏の重要性をシンボライズさせた。
「サバキでスランプに陥ったら、このマークを拡大してその中心に自分が立っているのをイメージする。
力だけで相手をコントロールしようとしてはいけない。
常に柔らかく、無駄な力を省き、より滑らかに捌くことを意識して取り組めば、このマークの意味することが必ずいつかわかってくるから」
道場で稽古する目標、到達するための方法、稽古の手順などを具体的に書き表したトレーニングプログラムも作成され各道場に配布された。
「より正しく(フォーム、バランス)
より速く(スピードアップ)
より力強く(パワーアップ)
より高く(ハイテクニック)」
現状に満足せず、常に「より」一層の努力を積み重ね少しずつ前進する。
相手を倒すばかりでなく、自分の肉体と精神を高めていく。
自分自身の可能性にチャレンジする空手。
それが芦原空手である。
基本方針に加え、「サバキ」のソフト化する作業が行われた。
サバキは有利なポジションをとって相手を制すること。
このテクニックの習得を目指して稽古に取り組めるように体系化させた。
「若く体力気力が充実しているときに単に力で倒せるだけの空手ではなくて、合理的な動きと小さな力で倒せる技を身につけてほしい」

正道会館

1981年、石井和義は、指導員、門下生らと「正道会館」を立ち上げた。
芦原空手から大量の指導員と門下生が引き抜かれ「クーデター」といわれた。
正道会館は1981年の末に発足し1982年10月には第1回全日本選手権を大阪府立体育会館で行い中山猛夫が圧倒的な力で優勝した。
その観客の入りはよく、毎年大阪で行われる極真空手のウェイト制大会より多かった。
正道会館は「挑戦」をテーマに、他流派の空手トーナメントにも参戦した。
他流派の試合に出ると、どうしても判定では勝ち抜くい。
「じゃあ、倒せばいいんだ」
と「倒す空手」を追求。
やがて「常勝軍団」と呼ばれるようになった。

1990年、佐竹雅昭がキックボクシングの試合に強行出場。
ドン・中矢・ニールセンとの戦いはケンカマッチとなり頭突きからパンチを叩き込みKO勝ち。
正道会館は、その後もグローブをつけ続け、顔面パンチを空手に導入した。

顔面パンチなしのフルコンタクト空手においても角田信朗が、極真空手のウエイト制大会で4位に入賞。
準決勝進出を決めたハイキックでの1本勝ちは鮮烈だった。
その後、極真空手世界大会2位のアンディ・フグが正道会館に移籍。
これに大山倍達は怒り、極真会館は正道会館と絶縁した。
(大山倍達没後、解消)
1991年、総合格闘技「リングス」に佐竹雅昭、角田信朗、柳沢聡行らが参戦。

1993年、K-1 グランプリ開始。
空前のK-1ブームが起こった。
K-1以外にも、石井和義はプロモーターとして数々の格闘技イベントを成功させた。
マスコミに派手に宣伝されたり誇張されるのを嫌い、またあくまで仕事を持ちながらの趣味としての空手、そしてど突き合いの試合ではなく、サバキなど独特の実戦空手の道を行く芦原空手。
大会場での試合、プロ化、エンターテイメントまで取り入れながら最強を目指す正道空手。
その方向性の違いは明確だった。

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芦原英幸は
「実戦!芦原カラテ―ケンカ十段のスーパーテクニック」(1983年)
「実戦!芦原カラテ (2) 発展編」(1984年)
「実戦!芦原カラテ(3)基礎編 誰にでもできる空手 」(1988年)
というサバキの本を出版した。
この反響は大きく、全国で同好会をつくりたいという問い合わせが殺到した。
例えば東京の同好会は、最初は公共施設を借りて稽古していたが、たちまち人数が増え、新宿に専用の道場ができ350名の会員が通った。
こうして芦原空手は全国に広がっていった。

サバキは、ビデオ化もされた。
芦原カラテを基本編と応用編に分け3本のビデオが製作された。
それは国内のみならず英語版となって海外でも販売された。
そして海外からも修行者が訪れ、芦原空手は、アメリカ、オーストラリア、アジア・・・と世界に道場ができていった。

ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)

1992年、芦原英幸は自分の左のパンチに力が入らないことに気づいた。
2週間後には、ある人の名前をどうしても話させなかった。
舌が動かないことに気づいた。
精密検査を受けて、「ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)」と診断された。
手や足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。
しかし筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱くなり、筋肉がやせていく。
一方で通常、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれる。
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人という難病である。
「俺、やっぱり死ぬわ。
最後には呼吸ができなくなるんだって」
芦原英幸は医師に入院を薦められても聞かなかった。
「ジタバタしても仕方がないわな。
2、3年か、人によっては10年以上生きることができる病気みたいだけど、寿命だ。
寿命が決まっているんだから、寿命が来るまでにやり残した仕事をやれるだけやってみるよ」
そういって黙々と仕事をした。
1993年には言葉を発せられなくなり、文字盤を1文字1文字指して会話した。

1995年1月15日、芦原英幸は息子であり2代目館長候補である芦原英典の技を2日に渡りチェックした。
それは目線から顔の位置まで数㎜のズレを指摘するほど厳しいものだった。
そして同年4月24日、2年半の闘病の末、亡くなった。
50歳だった。
石井和義は、芦原英幸の葬儀に参列したとき、遺族に焼香を断られた。
生前、芦原英幸は
「石井を許すことはできない」
といっていたという。
その後の石井和義は、2002年12月27日、法人税法違反の容疑で在宅起訴。
2003年2月3日、証拠隠滅教唆容疑で逮捕(5月22日に保釈金4,000万円を支払い保釈)。
2004年1月14日、脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は懲役1年10か月の実刑判決を下す。
2007年6月11日、 静岡刑務所に収監
2008年8月7日、模範囚であったため刑期が短縮され出所した。

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