こちらも戦後70年以上も月日が経ったが、日本と中国・台湾の間にもさまざまな問題(尖閣問題、歴史認識問題、反日・嫌中などなど)が横たわっています。しかし、歌謡や映画といった文化交流は、これらを超越して交流できる可能性があると期待しているのは私だけでしょうか??。そこで今回はミドルエッジをご閲覧頂いておられる方々にも中国系歌手たちの歴史を紐解くことで、今まで見えなかった日中関係の側面を発見していきたいと思っている次第である。
中国系歌手を理解するのに必要な基礎的な知識!!
第二次大戦前
日本の中国系音楽を考えるうえで重要なのが、日本人でありながら、中国大陸で歌手として活躍をした李香蘭(山口淑子)の存在であろう。李香蘭は中国人として売り出していていたものの実は日本人で、それを明らかにしたのは戦後になってからであった。
国籍やその呼称、本人が称するに至った経緯は非常にデリケートな問題もはらんでいる。李香蘭自身は別に自分の意志で中国人を称したわけではないため、今現在の概念で"外国人"と簡単に呼べることができるのか少々疑問なところもあるが、当時のリスナーに対してはどうかと言うと、良い意味での外国人感、つまり融和や親善のシンボル的な役割を果たしていたのではないだろうか?!

李香蘭(山口淑子)
「中国人・李香蘭」としてスター街道を駆け上がる!!
1920年(大正9年)2月12日に、中華民国奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、奉天北煙台で、南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄の子として生まれ「淑子」と名付けらた。親中国的な教育を受けた彼女は13歳の時、当時の中国の風習により、両親と親交の深かった李際春という中国人から義理の娘としての名前を与えられていた。この名前こそが後に東洋一のスターとして時代を席巻することになる“李香蘭”である。

1940年(昭和16年)、歌舞伎座にて
日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。
当時の人気を物語るものに、1941年(昭和16年)2月11日の紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を7周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動であったと伝えられている。

李香蘭 私の半生 (新潮文庫) 文庫 – 1990/12
戦後、本名の山口淑子として芸能活動を再開して、日本のみならずハリウッドや香港などでも活躍。第一線を退いたのちには政治家にも転身して女性の地位向上や国際親善のために尽くした。
中国系歌手の本格的活躍は日中国交正常化前後から!!
日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。
ダイナミックなボーカルには定評がある「欧陽菲菲」!!
欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー、繁体字: 歐陽菲菲 (ピン音: Ōuyáng Fēifēi、注音: ㄡ丨ㄤˊㄈㄟㄈㄟ) 本名: 式場欧陽菲菲、旧名: 歐陽菲菲、1949年9月10日 - )は、台湾出身の歌手。1972年に「雨のエアポート」で日本有線大賞受賞。1982年に「ラヴ・イズ・オーヴァー」で第25回日本レコード大賞ロング・セラー賞受賞。
雨の御堂筋 欧陽菲菲 - YouTube
ラヴ・イズ・オーヴァー 欧陽菲菲 - YouTube
高く澄んだ歌声と愛くるしいルックスで魅了した「アグネス・チャン」!!
アグネス・チャン(本名:陳美齡、英語:Agnes Meiling Kaneko Chan、広東語:チャン・メイリン、北京語:チェン・メイリン、日本名:金子 陳 美齢(かねこ チャンメイリン)、1955年8月20日 - )は、香港の歌手、エッセイスト。カトリック教徒で、「アグネス」は洗礼名である。中学・高校は、香港島の高級住宅街Blue Pool Roadに立つカトリック系ミッションスクール、メリーマウント中學(中国語:瑪利曼中學)を卒業、トロント大学卒業。1992年6月スタンフォード大学大学院教育学博士課程を修了。1994年には博士号が授与された。初代日本ユニセフ協会大使(UNICEF国内大使)を経て、2016年より国際連合 (UN) の機関である国際連合児童基金 (UNICEF) の東アジア太平洋地域親善大使(UNICEF地域大使)。血液型AB型。初代「ほほえみ大使」も務める。
1972年、代表曲の一つである「ひなげしの花」で、日本での歌手デビューを果たす。高く澄んだ歌声と愛くるしいルックス、たどたどしいが一生懸命日本語で歌う演技が受けて、一躍人気アイドルとなった。日本ではその後も「草原の輝き」、「小さな恋の物語」、香港における「The Circle Game」などヒット曲は多く、台湾やアメリカ合衆国などでも音楽活動を行っている。
日本ではその後も「草原の輝き」、「小さな恋の物語」、「星に願いを」、「ポケットいっぱいの秘密」、「愛の迷い子」、「恋人たちの午後」「白いくつ下は似合わない」、香港における「The Circle Game」「香港香港」、「雨中のカーネション」などヒット曲は多く、台湾やアメリカ合衆国などでも音楽活動を行っている。歌手としての活躍のほか、1998年には初代日本ユニセフ協会大使に就任。2016年には、ユニセフ・アジア親善大使にするなど、ボランティアやチャリティーなどを通じた社会奉仕や貧困や平和についての発言でも知られている。近年ではピンクリボン運動への参加や、香港浸会大学の客員教授やニュージーランドの高校の学園長などとしての教育活動も行っている。
1998年4月より日本ユニセフ協会大使として、2016年3月からユニセフ・アジア親善大使として活動しているアグネス・チャン。無償のボランティアとして、様々な国を訪れ、現地の子どもたちの状況を広く伝えたり、 ユニセフ協力活動に参加したり、情熱あふれる活動を続けている。
切ない女心を歌わせたら右に出る者がなかった「テレサ・テン」!!
テレサ・テン(1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾外省人出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。
両親は、1949年に中国本土での内戦に敗れた蒋介石とともに中華民国(台湾)に移った外省人の中の一組だった。6歳で台北に引っ越し、10歳の時にラジオ局主催ののど自慢番組で優勝。 1967年9月、14歳のときに宇宙レコードより「鄧麗君之歌第一集」にてレコードデビュー。1974年3月、「今夜かしら明日かしら」で日本でデビューしたが、あまりパッとしなかった。
その後、演歌路線に修正し、「空港」が大あたりし、日本レコード大賞新人賞などを獲得した。
途中、ビザの問題などでスッタモンダがあって、日本に入国できない時期が暫く続いたが、 1983年にはトーラスレコードに移籍し、1984年「つぐない」、1985年「愛人」、1986年「時の流れに身をまかせ」、 1987年「別れの予感」等、今でもカラオケなどで人気のある歌を次々とヒットさせていった。 しかし1995年5月、タイのチェンマイでさびしく病死した。当初は自殺説、他殺説などよからぬ噂や憶測が暗躍したが、最終的には気管支喘息による病死と断定された。42歳という若さでの死だった。
マルチな芸術的才能を日本で開花させた「ジュディ・オング」!!

Amazon | GOLDEN☆BEST ジュディ・オング Sony Music Years 1973-1983 | ジュディ・オング, 杉良太郎 | 歌謡曲 | 音楽
台湾で生まれ、父の仕事の関係で3歳で来日する。11歳の時、日米合作映画『大津波』で女優デビューを果す。16歳の時に『恋ってどんなもの』で歌手デビューを果たし、1979年には『魅せられて』で日本レコード大賞を受賞。ライブやディナーショーなどの音楽活動の他、ドラマ・バラエティ・情報番組にも出演し幅広く活躍。木版画家としても国内外での木版画展を開催。数々の賞を受賞。また、ボランティアにも意欲的に取り組んでおり、チャリティーコンサートの開催や、ワールドビジョンジャパンの親善大使を務める。