【空手家】八巻建志(後編) ~俺の前に立ったら30秒と立たせておかない~

【空手家】八巻建志(後編) ~俺の前に立ったら30秒と立たせておかない~

極真空手の全日本大会で初優勝した八巻建志 は、自分は日本一、世界一強いと思った。 しかしその後、バイク事故で彼女に大ケガを負わせてしまう。 以後、5年間、地獄をさまよった後、復活し、2度目の全日本大会優勝、100人組手達成、世界大会優勝。 最強の空手家となった。


俺の前に立ったら30秒と立たせておかない。

1989年12月23~24日、東京両国国技館で行われた極真空手第21回全日本大会で、八巻建志は優勝した。
それまで長い間、求め、悩み、苦しみ続けた末の日本一だった。
その後、生活が一変した。
連日のマスコミ取材、スタジオ撮影、インタビュー、対談・・・・・
夜は祝勝会で酒びたり。
後輩の取り巻きができ、バレンタインディにはチョコ50個をもらいファンレターも続々と舞い込み女性と交友が増えた。
いい気になって修行のために自ら封印していたバイクを解禁し、50ccから250ccに乗りかえた。
有頂天だった。
自分は日本一どころか世界一強いと信じた。
「プロレスラーだろうとマイク・タイソンだろうと俺の前に立ったら30秒と立たせておかない。
なんなら牛でも熊でも戦ってもいい」
浮かれ初めて半年後、知り合った女性と真剣に交際し始めた。
練習後、毎日待ち合わせて、映画、食事とデートを重ねた。
彼女をバイクの後ろに乗せ夜のドライブに出かけた。
辛く血尿を流した猛稽古の日々が嘘のようだった。
女性の親は交際に反対していたが2人は互いの気持ちを信じて交際を続けた。

君ぃ、土佐闘犬を倒してみたまえ

三好一男高知支部長の結婚式に出席するために高知県に出かけたとき、闘犬を見物に行った。
そこには大山倍達も同席していた。
土佐闘犬の凄まじい戦いをみていると突然、大山倍達がいった。
「八巻、戦ってきなさい」
本気の眼だった。
「君ぃ、土佐闘犬を倒してみたまえ」
「押忍」
(やばいなあ。
腹を2発3発思い切り蹴ればなんとかなるかな?
左手を咬ませて右正拳をぶち込むか?)
結局この異種格闘技戦は実現しなかったが、目の前に強いものがいたなら、たとえ闘犬であれ猛獣であれ手合わせしたいと考えてしまう大山倍達の戦う本能の凄まじさを思い知らされた

火木スパー

第22回全日本大会に向けて毎日の稽古は消化されていった。
しかし八巻建志に目標に向かって燃えるギラギラした気持ちはなく、稽古量はともかく蹴り1本突き1本にかける情熱は消えうせていた。
そして第22回全日本大会は4回戦まですべて本戦のみの判定勝ちで上がったが、準決勝ではじめて延長戦に持ち込まれ、延長2回目に焦って掴みの反則を犯して注意1をとられて判定負け。
最終的な順位は8位。
(優勝は増田章、準優勝は緑健児)
ディフェンディングチャンピオンとしては惨めな成績だった。
以後、マスコミの取材はバッサリ途絶え、次いで取り巻き連中は去っていった。
道場のなかの視線も冷ややかなものになった。
八巻建志は翌年開催される世界大会制覇を目標に定めた。

1991年1月、八巻建志は錆ついた心と技の勘を取り戻そうと独自の特訓を開始。
毎週火曜日と木曜日、すべての通常の稽古終了後、19時からそれは始まる。
勢いのある若手5、6人とスパーリングオンリーの稽古。
それも防具をつけずに真っ向から潰し合うガチンコの組手。
それを1時間半続ける。
通称:火木スパー。
2分交代で次々に替わる相手に思い切り蹴りと突きをぶち込んだ。
フっ飛ばされるもの、倒れる者が続出した。
骨を肉を打つ音が響き、倒れ込んではまた立ち向かっていく。
あるとき、胴回し回転蹴りが相手の顎を直撃し白目を剥いて失神した。
以後、胴回し回転蹴りは禁じ手となった。
またあるとき、前蹴りが相手の歯を折るなど怪我人を続出させたので、これも禁じ手となった。
この火木スパーにまだ茶帯の数見肇がいた。
当初、まったく問題にならずフッ飛ばされていたが、日がたつにつれ徐々に踏ん張れるようになり、春を過ぎ、梅雨の季節になると攻撃をガッチリ受け止めて反撃する場面も出てきた。
恐怖と負傷に耐えて確実に強くなっていた。

悲しい世界大会

1991年8月、第5回世界大会の日本代表メンバーとして湯河原の強化合宿に参加。
大山倍達の指揮で行われる特訓が1週間続いた。
大会までの3ヶ月だった。
東京へ戻った翌日、道場で夜の部の指導を終え帰ろうとすると声をかけられた。
彼女がこぼれるような笑みで立っていた。
バイクに2人でまたがった。
数分後・・・
突然目の前に道路工事現場があった。
警告灯がなかったのでわからなかった。
急にヘッドライトに黄色いゲートと標識がうかんだ。
「ギャーン」
バイクがアスファルトを削る音がしてオレンジの火花が飛び散った。
バイクは工事現場に突っ込み激突音が鳴った。
彼女は路上に投げ出され横たわっていた。
全身が痙攣し血が流れ出した。
黒い染みがアスファルトに広がっていく。
「誰か救急車を、早く救急車を呼んでください」
「ひどいよ、これ」
「救急車だ。
死んじまう」
救急車が到着し彼女は病院に運ばれ、パトカーで警察に連れて行かれ調書をとられ病院に駆けつけた。
医者は命に別状はないといった。
しかし全身を骨折する大怪我だった。
彼女の両親はすでに来ていてた。
「うちの娘をいったいどうしてくれるの」
「私の不注意のせいです。
本当に申し訳ありません」
翌日、お見舞いに行くとすでにそこに彼女はいなかった。
転院させられていた。
なんとか転院先を捜し出したが病室へは入れてもらえなかった。
彼女が退院するまで、毎日、暗くなるまで外で立ち、病室をみつめた。
退院後、自宅に電話を入れるとガチャンと切られた。
事情を説明し父親と一緒に彼女宅へ行ったが
「2度と顔を見せないでください」
と門前に払いされた。

空手の情熱は失せた。
世界チャンピオンなんてどうでもよかった。
しかし世界大会出場はすでに決まっている。
私情でキャンセルはできない。
そんな義務感で身の入らない稽古を続けた。
食事制限もやめた。
鶏のササミ、豆腐、卵40個、魚の白身を調味料なしに食べていた食事を無視し、ラーメンでもトンカツでもなんでも食べまくった。
牛乳、水、スポーツ飲料に限っていた飲み物制限も無視し、稽古後は飲み屋に直行し浴びるように酒を飲んだ。
一升、二升の日本酒を空けて泥酔し吐いた。
始めは後輩と一緒だったが、押し黙ったまま飲みまくる先輩の誘いを日に日に後輩は断りだした。
「空手なんてやっていていいのか」
罪悪感でまともな稽古ができない。
「やる気があるのか」
廣重師範は怒鳴った。
夜一人、道場でストレッチしながらポロポロ涙を流した。
自宅では膝を抱え涙にくれ、寝ても凄惨な事故現場の夢をみた。
彼女のことを思う度に泣いた。
少年の頃、酷いイジメにあったときでも1度も泣かなかったのに・・・
心身ともにまったく調子は上向かないまま、極真空手第5回世界大会に参戦した。


この大会最大の注目選手は前大会で準優勝したアンディ・フグ。
前回優勝した松井章圭が引退していた。
アンディ・フグは前回よりも身体が大きくなりパワーアップしていた。
しかし彼のトーナメントはかなり厳しい登山だった。
当たる選手すべてが超ヘビー級の大男ばかりだった。
それでもアンディ・フグは勝ち上がった。
そして4回戦の相手は、ブラジルのフランシスコ・フィリョだった
アンディ・フグの踵落としをフランシスコ・フィリョは蹴りで止めるなど、両者共に蹴り技が得意で、華麗で危険な蹴り合いとなった。
そして両者が接近しすぎて審判が「待て」をかけたとき、アンディ・フグは両腕のガードを下げた。
しかしフランシスコ・フィリョは故意ではないがすでに放っていた上段回し蹴りを振りぬいた。
そしてガラ空きのアンディの顔面を打ち抜き、アンディは糸が切れた操り人形のように倒れた。
フィリョの1本勝ちだった。
アンディ・フグのセコンドは審判の待ての後の攻撃であり反則だと主張した。
これを大山倍達は油断したアンディの敗北と一喝した。

八巻建志は5回戦でフランシスコ・フィリョと対戦した。
上段蹴りを警戒しガッチリ顔面をガードした。
しかしそれはイメージより鋭く速かった。
しかもリズムがランダムでどこから飛んでくるかわからない。
通常の下から蹴り上げる上段蹴りが上から振り下ろされてくる。
調子づくと手がつけられなくなりそうだった。
そこでフィリョの攻撃を連続させず、線から点に断ち切る作戦に出た。
ポイント、ポイントで前蹴り、下段回し蹴りでフィリョの連続攻撃を切った。
お互い決定打がないまま延長、再延長、3度目の延長にもつれ込んだが、ここで連打で押し切り4-0の判定勝ちした。

6回戦、八巻建志は格闘マシン:黒澤浩樹に体重判定により負けた。
悔しい気持ちはなく、やっと終わったという気持ちだった。
優勝したのは道場の先輩、緑健児だった。

男の責任

世界大会の1週間後、なんとか彼女と電話がつながり会うことができた。
しかし互いに会話がつながらなかった。
事故は2人に大きな溝をつくった。
「すまない」
ただ頭を下げ続けるしかなかった。
年が明け1992年1月、空手への気持ちは完全に冷えた。
これ以上続けても仕方ないと判断し、それを廣重師範に伝えるために道場へ行った。
すると廣重師範はまるでそれを予知したかのようにいった。
「八巻、そろそろ道場を持ってみないか?」
「はあ・・」
「どうも最近気持ちが乗っていないようだし、自分の道場を持てばまた空手の面白さもわかるんじゃないかと思ってな」
「押忍」
機先を制された形でそのまま道場の新設する準備に入った。
もちろん常設道場は無理だから幼稚園の空き時間を道場として借りることになった。
自分でポスターをつくり電柱に張っていった。
入門者が徐々に集まって、一から手作りの道場が始まった。

その後も彼女とは月1回程度会っていたが以前のような楽しい時間は戻らなかった。
数か月後のある夜、人気のない喫茶店で彼女がいった。
「もうこれ以上苦しみたくないの」
「俺が一生守り通す。
信じてくれ」
「八巻さん、あなたとはもう会えないの」
この一言ですべてが終わった。
喫茶店を出て2人押し黙ったまま駅まで歩いた。
彼女は何のためらいもなく電車に乗り込んだ。
サヨナラの一言もなかった。
彼女と別れて初めて廣重師範に事故から経緯を話した。
廣重師範はことの一部始終を聞き、そしてこういった
「彼女が今度、結婚などして新しい道が見つけるまでお前は見守ってやらなくてはいけない。
もし彼女の気持ちが変わって帰ってきたときはいつでも受け入れれるようにしておくべきだ。
八巻、辛いだろうが、それが今お前にできる唯一のことなんだぞ。
男が責任を取るとはそういうことなんだ」

どうして7位のお前が2位の数見より遅く来るんだ。

大ケガを負わせた彼女とは心が通じぬまま別れ、その上追い討ちをかけるように父親が役員を務めていた会社が倒産の危機に直面した。
父の報酬、家の貯金は会社につぎ込まれ、その上借金を重ねた。
家庭内にも暗雲が立ち込めた。
まさに心身ズタズタ、救いようのない四面楚歌の状態で第24回全日本を迎えることになった。
自分の道場を持ち自分の生徒が見に来た初めての大会は7位。

優勝は田村悦宏。
準優勝は後輩の数見肇だった。
「八巻は終わった」
「あんなに強かったのに・・」
そんな声が聞こえた。
ある先輩はこういった。
「(優勝した)21回大会はクスリでも使ってたんじゃないか?
誰にもいわないから本当のことをいえよ。
あの強さは尋常じゃなかったもの。
クスリの助けを借りたとしか思えないよ」
完全に過去の人になていた。
気持ちはますます腐り稽古にも身が入らなかった。
ある日、朝練に遅刻した。
廣重師範が怒鳴った。
「どうして7位のお前が2位の数見より遅く来るんだ。
この何分かの遅れで数見との差はますます開くんだぞ!」
(俺はいったい何をやっているんだろう)
苦悩する毎日が続いた。

八巻さんもあきらめないで 世界一になってください

1993年2月、1本の電話がかかってきた。
「八巻・・さん?」
彼女だった。
「私ね。
結婚することになりました」
「幸せになってください」
「八巻さんもあきらめないで。
世界一になってください」
もう迷っていられない。
世界一になるまで歩き続けるしかない。
朝6時に起きて走り始めた。
毎日10km。
心身のこびりつきを落としていった。

クラウチングスタイル

再生を誓い肉体改造に着手している最中、ある人物に出会った。
「是非コーチを買って出たい。
八巻君の才能をこのまま埋没させるには忍びない。
一緒に世界一になろう」
ボクシング経験者のその人はいった。
とにかく熱い人だった。
気分は明日のジョーと丹下段平だった。
練習初日、彼の第一声は、
「ボクサーは毎日練習するんだ。
1日も休まない。
空手家も同じようにやれるはずだ」
メニューは、
ロードワーク
ダッシュ
縄跳び
シャドー
・・
ボクサーのトレーニングそのままだった。
ウエイトトレーニングは
「スピードが鈍る」
と理由で一切禁止された。
このトレーニングと道場稽古を平行して行った。
13年間廣重師範の指導だけでやってきた。
それから1歩離れ自分なりの方法でニュー八巻を生み出そうと考えた。
とりあえず目標は6月の第10回ウエイト制大会だった。

特訓は体重コントロールに及び
「ボクサーの身体はこんなもんじゃない。
もっともっと減量しなくちゃダメだ」
と1日に許された水の量はコップ1杯。
汗を絞りに絞り黙々とトレーニングを積んだ。
105㎏あった体重は95㎏に落ちた。
減量が進むと次は空手のスタイルの改造に着手した。
「構えを小さくすれば攻撃をもらわない」
と、腰を落とし、身体を屈め、両手をぐっと狭めて構える前傾姿勢。
ボクシングのクラウチングスタイルだ。
廣重師範は心配した。
「絞りすぎなんじゃないか」
「その前傾姿勢では腹部が圧迫されて十分な腹式呼吸ができない。
第一、空手とボクシングはまったく違うんだ。
そんなスタイルは奇をてらうだけで意味がない」

1993年6月18日、極真空手第10回ウエイト制大会の初日。
1回戦はシード、2、3回戦は不戦勝で初日、2日目は試合がなかった。
大阪市内の宿泊先に戻るとロビーで女性が声をかけてきた。
「2日間を戦わずに終えるのってどんな気持ちですか?」
女性は屈託ない笑顔で尋ねた。
失礼な質問に八巻建志は睨んで返答したが、女性は臆することなく質問を続けた。
「なぜウエイト制に出たんですか?」
「調子はどうなんですか?」
「優勝できそうですか?」
「自信はあります」
「明日から頑張ってくださいね」
「はあ」
この女性は城西支部長:山田雅捻の会社で働く女性で、その関係で応援に来ていた。
6月20日、極真空手第10回ウエイト制大会重量級トーナメント。
「オオー」
八巻建志の細くなった身体とクラウチングスタイルの空手にどよもきがあがった。
そして準々決勝、判定勝ち。
準決勝、判定勝ち。
決勝戦、技あり2つで1本勝ち。
「ニュー八巻、発進」
「八巻、完全復活」
マスコミがこぞって煽る中、廣重師範は批判的なコメントを出した。
「稽古のときの八巻には、動きの良い八巻と悪い八巻がいる。
動きの良いときには誰も彼の前に立っていられないほどの力を発揮する。
その八巻を出すことが課題なのですが、残念ながら今回は出ませんでした。
運良く勝ったという感じで今ひとつ納得できませんね」

八巻建志の次の目標は第25回の全日本だった。
ウエイト制で大会で優勝した翌日から10kmの走り込みをした。
1日も休みを設けなかった。
次第に強迫観念が生まれ休むのが怖くなった。
「ボクサーに休みはない。
毎日練習だ」
「ここで手を抜いたら元に戻ってしまう」
そうやって大会前日さえ9時から16時までしっかり練習した。
頬は削げ目ばかりギラギラ光っていた。
身長が187cmで体重は89kg。
骨と皮だけのガリガリの身体だった。
その皮はカサカサになっていた。
かつて「強さ=大きさ」と考え120㎏まで上げて世界大会に挑んだときと正反対の状態である。
「これで身体のキレ、スピードは最高になった」
こうしてついに1日も休まず第25回全日本大会を迎えた。
大会前に父親の会社が倒産し、役員だった父親は家の貯金、自動車などを差し押さえられた。
しかし父はいった。
「大丈夫だ。
必ず再起するからお前は空手に集中しろ」
1993年10月30~31日、極真空手第25回全日本大会。
八巻建志のコンディションは悪く鉛のように体が重く動きにキレがない。
これまで分厚い筋肉で跳ね返した相手の攻撃が薄くなった肉を通して骨まで響いた。
ガツンガツンと骨ばった拳で身体を突かれ奥歯を嚊んで耐えた。
内蔵を揺さぶる決定的なダメージこそなかったが痛みで身体がのけぞり上体が起きてクラウチングスタイルは形を成さなくなった。
1回戦から4回戦までなんとか勝ったが覇者の勢いはなかった。


1993年10月30~31日、極真空手第25回全日本大会。
八巻建志のコンディションは悪く鉛のように体が重く動きにキレがない。
これまで分厚い筋肉で跳ね返した相手の攻撃が薄くなった肉を通して骨まで響いた。
ガツンガツンと骨ばった拳で身体を突かれ奥歯を嚊んで耐えた。
内蔵を揺さぶる決定的なダメージこそなかったが痛みで身体がのけぞり上体が起きてクラウチングスタイルは形を成さなくなった。
1回戦から4回戦までなんとか勝ったが覇者の勢いはない。
準々決勝は七戸博。
185cm110kg。
決して速くないが、攻撃が重く絶対に下がらないパワフルなファイトスタイルの選手。
「ウォー」
七戸は阿修羅の形相で蹴り突きを放つ。
「ドスン」
「バチン」
互いの身体を打ち合う音が響く。
2回目の延長で魔が差した。
(体重判定なら勝てる。
それにこの後、岡本徹、数見との戦いがある。
スタミナを温存するか)
両者の体重差は21kg。
このまま引き分けで終われば体重判定で勝てる。
悪魔のささやきは攻めから守りへ変えた。
そして七戸はガンガン出た。
結局判定負けになった。
結局この大会は7位。
優勝は後輩の数見肇だった。
「あいつは確実に強くなっている
オレは低迷していくばかりだな・・・」
廣重師範は失意の弟子に声をかけた。
「あんな練習で勝てないことがわかったろう。
いい勉強になったな。
これからまた一緒にやろうや」
この後、練習メニューを見直し、再びウエイトトレーニングに取り組んだ。
極真空手ではある程度の脂肪と筋肉がなければダメージが大きすぎる。
勝ち上がるためには適正なウエイトトレーニングが必要と判断したのだ。

幻の佐竹雅昭戦

再び廣重師範の指導のもと稽古に精進しているなか、正道会館の佐竹雅昭選手との対戦のオファーが関係者を通じて入ってきた。
廣重師範は稽古の後に道場生に注意した。
「八巻と戦わせようとする動きがあるようだが、そういう話がみんなのところにきたら断ってください。
私がそういっていたと伝えればいいから・・・」
日ごろ、無口な八巻建志は一気にまくし立てた。
「師範、自分はもし挑戦されたら絶対にやります」
「八巻、お前の気持ちはわかるが、向こうはグローブをつけたら強いぞ」
「自分は極真が1番強いと信じてやってきました。
極真が背中を見せるなんて耐えられません。
どうしても避けれらない話ならやらせてください。
いつでも出て行きます。
自分がこの手でぶちのめしてやります」
後で廣重師範はこういった。
「八巻、お前がそこまでいうなら俺もやってやる。
オランダでもタイでも一緒に行ってグローブの技術をマスターしようじゃないか。
お前の特訓は俺が責任を持って付き合うからな」

転機

1993年12月、八巻建志が知人を訪ねに恵比寿に出かけ昼飯を食べようと歩いていた。
「八巻さん」
振り返ると極真空手第10回ウエイト制大会で
「2日間を戦わずに終えるのってどんな気持ちですか?」
と失礼な質問をしてきた女性だった。
2人は偶然の再会を祝して喫茶店に入った。
女性は名を裕美といった。
裕美は占いを中心としたライターとして独立し構えた仕事場が近くにあるという。
このときは雑談で終わったが、数日後、また会った。
裕美は気さくにどんな些細な話も真剣に耳を傾ける女性だった。
聞き上手の彼女に自然と事故で別れた彼女の話をした。
裕美は一部始終聞き終え一言ポツリといった。
「大変だったね」
その後も2人はデートを重ね、12月24日のクリスマスに結婚の約束をした。
1994年1月4日には入籍し都内のマンションで2人で暮らし始めた。
披露宴は全日本で優勝してからと決めた。

八巻建志がこれまでやってきたウエイトトレーニングは、基本的にボディビルトレーニングで筋肉を大きくすることが目的だった。
その筋肉を有効に活用する、空手家用のパワートレーニングを何とか習得できないか?
そう考えていたとき、幸運な出会いがあった。
ジムのトレーニング仲間のお兄さんで、1つ年上のスポーツトレーナー、足立光だった。
足立光は自らも打撃系格闘技の経験者で、独学で欧米のトレーニング理論を修めた極めて有能なスポーツトレーナーだった。
足立光は身長は170cm程だが胸囲は110cmもあった。
初めて八巻のトレーニングをみてこういった。
「八巻さん、そんなに練習して辛くないですか?」
「辛いですよ。
本当に辛いです」
本心だった。
「あの足立さんの言葉にはドキッとした。
なかなか復活の糸口が見つからず、試行錯誤を繰り返し、内なる不安を打ち消すように猛練習に明け暮れていた。
休むことが怖くて仕方なかった。
世界大会に向けまったく休日を設けず連日バーベルを挙げ道場での指導と稽古に当たる毎日だった」
足立は蓄積した疲労が精神にも及んでいることを見抜き、それを説明した。
「休息も重要なトレーニングの1つですよ」
まず足立は日曜日を完全休養日に当てることから指導し始めた。
布団に入っているもよし、映画をみるのもよし、なにか好きなことに没頭するのもよし、とにかく肉体を動かすトレーニング以外のことをするよう指示した。
「本当に休んでいいんですか?
弱くなることはありませんか?」
「バーベルを挙げる行為は筋肉を破壊しているだけなんです。
休息しているときに破壊された部分が修復されて、より太く強くなると思ってください。
つまりトレーニングの効果を最大限に引き出すか否かは休息次第なんです」
そして肉体の疲労は条件次第で簡単に回復するが精神の疲労を取り除くことは非常に難しいことも説明した。
過去のトレーニングと試合の結果を分析すると、適度な休息を挟まずにやっていたためピークパフォーマンスが試合の大分前に来ていることもわかった。
しかし非効率なトレーニングも悪い面ばかりではなかった。
「下半身がどっしりしていて、膝関節が太く、それでいて速く動ける。
理想的な筋肉のつきかたをしています。
この下半身なら間違いなく世界一になれる。
体調をベストに持っていけば負ける要素はありません」
そして逆に強化点も示した。
「下半身に比べて背筋のバランスが悪い。
突進力は背筋に比例するのでパワーのある外国人に対抗するには背筋強化は不可欠です」

足立のサポートは栄養面にも及び、食事の仕方を妻の裕美にレクチャーした。
火・木・土は空手の稽古が中心。
月水金はウエイトトレーニングとランニング。
以前のウエイトトレーニングは重い負荷に挑戦し筋肉を太くすることにみに専念したが、足立は空手家に求められる筋肉、極真空手の試合を分析し、その上で相手を一撃で確実に倒す爆発力、3分間の試合時間で俊敏に動けるスタミナ、相手の攻撃をガードする肉体を作り上げることをプランした。

「運動競技に要求されるパワーは、ローパワー、ミドルパワー、ハイパワーの3つに大別でき、ローパワーはマラソンなどの主に持久力を要求するもの、ミドルパワーはレスリング、柔道、ボートなどの持久力と同時に瞬発力も要求するもの、ハイパワーは重量挙げやスプリントなど無酸素運動域値、息を止めて運動する瞬発力を要求するもの。
極真空手はミドルパワー寄りのハイパワー。
全力で技を繰り出し相手を倒す時間はせいぜい10秒。
この部分はハイパワー。
試合時間は3分間、延長戦もあり得るのでかなり持久力も要求される。
これはミドルパワー。
つまり持久力の中に瞬発力を生み出す筋肉が必要になるわけです。
重い負荷のみを重視するウエイトトレーニングは重量挙げと同じでハイパワーのみで終わってしまう。
これでは空手に適した筋肉とはいえない。
筋力トレーニングで身体を大きくしてノッシノッシと相手を追い詰め叩き潰す空手は、パワーとパワーが真っ向からぶつかり合う組み手。
しかし新たに目指す空手はヒョウのように敏捷に動き、チャンスとみたら一瞬で獲物を仕留めるような爆発的な攻撃力、これらを併せ持つ緩急自在の組み手です」

当初のメニューは、

月 
広背筋、背筋(ラットプル、デッドリフト)
上腕三頭筋(ライイングフレンチプレス)

大胸筋(ベンチプレス、インクラインベンチプレス、ダンベルフライ)
三角筋(サイドレイズ、バックプレス)
上腕二頭筋(アームカール、ダンベルカール、リバースカール)
前腕筋(リストカール)

大腿四頭筋(レッグエクステンション)
大腿二頭筋(レッグカール)
大腿筋(スクワット)
下腿三頭筋(カーフレイズ)

ウエイトトレーニングのメニューは1~2週間サイクルで見直された。
種目、負荷、レップ数、セット数、インターバルなどは毎回変化した。
足立はトレーニングしている傍らに立ちチェックしながら叱咤激励した。
足立がこれないときは後輩がトレーナーを務めた。
そういうときは足立がFAXでメニューを送った。
後輩は足立と連絡を取り合いトレーニング状況、疲労具合などを報告しアドバイスを受けた。
八巻、足立、後輩、裕美の「チーム八巻」は世界大会優勝をターゲットにして動きはじめた。
空手の稽古は火・木・土。
これはマウンテンバイクを使うようにした。
道場まで約7km、20分程度のサイクリングは気分転換にもなった。
また、スカッシュ、バスケットボール、エアロビクス、水泳など、一見空手とまったく関係なさそうなものもトレーニングメニューに取り込まれた。
これは空手で使う筋肉以外の様々な部位の筋肉を使って刺激を与えることが目的だった。
このとき八巻建志は楽しく笑顔で練習する素晴らしさを知った。

足立はバラエティーに富んだトレーニングメニューをプログラムし、事前にミーティングの時間を設けコミュニケーションを図りながらトレーニングの説明を行った。
ハイパワーの養成は極めてハードなトレーニングを強いた。
無酸素運動が持続するのは最大で40秒程度。
この時間の運動能力を最大限にアップさせるためにサイクルトレーニングを取り入れた。
エアロバイクで40秒間ペダルをこぐ。
30秒にインターバルをはさむ。
これが1セット。
40秒間で全力を出し切るようにこぐ。
最後は身体のパワー全てを出し切るように努力する。
このトレーニングを終えると意識が朦朧として息絶え絶えになった。
「後のセットを考えてスタミナを温存させることのないよう、とにかく40秒間で全力を出し切ってください。
それで目標とするセットがこなせないなら、むしろそちらのほうがベターですから」
月曜から土曜日まで稽古とトレーニングに打ち込み、日曜日は完全休養日とした。
この日はのんびりと過ごした。

巨星堕つ

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1994年4月、映画「飢狼伝」への主演演出依頼があった。
「飢狼伝」は夢枕獏のベストセラー小説で空手家:丹波文七が最強の男を目指し他流試合を繰り広げるストーリーだった。
夢枕獏が八巻を強烈にプッシュしたという。
撮影開始は8月で約1ヶ月で終わるという話だった。
しかし半年後には目標の世界大会につながる全日本大会があるため即答は出来なかった。

1994年4月26日、大山倍達が死去。
4月27日、極真会館本部で密葬が執り行われた。
出棺の前に発表があった。
「大山総裁の遺志により次期後継者は松井章圭が指名されました」
一瞬どよめきが起こった。
このときから極真空手は分裂騒動へ発展していく。

飢狼伝

1994年5月、映画出演について迷い廣重師範に相談したところ
「映画の主演なんてそうそうある話ではない。
せっかくのチャンスだ。
受けてみてはどうだ」
といわれ八巻建志は映画出演を決めた。
映画なんか出たから負けたと言われないようにとプラスののプレッシャーに変えて、それまで以上にトレーニングに専念した。
6月、ジムワークを終えシャワーを浴び着替えているとき
「グキッ」
と腰が鳴った。
(なんだ!?)
腰から背中にかけて痛みが走り脂汗が出てきた。
腰を押さえながら歩こうとすると脳天まで突き上げるような激痛が走った。
すぐに病院に担ぎ込まれた。
診断は椎間板ヘルニア。
軟骨が飛び出し腰の神経を圧迫していた。
トレーニングの疲労が腰に蓄積し爆発したのだ。
それからほぼ寝たきりの生活が続いた。
痛みで眠れず寝返りも打てない。
寝ていても痛むときは壁に寄りかかって寝ていた。
なんとか動けるようになったは1ヵ月後だった。
8月、ろくな練習ができないまま映画撮影に入った。
分刻みで撮影スケジュールに追われ、7時から26時まで拘束される日もあった。
出番待ちの合間にプッシュアップしたりシャドーをした。
撮影の終盤、2mの高さから飛び降りるシーンで両足首を捻挫した。
映画撮影は終了したとき、全日本大会まで2ヶ月。
ケガの完治を待たず最終調整に入った。
蹴りはほとんど使えないので突きを重点的に稽古した。
しかし今度は突きを練習しすぎて両手首を痛めてしまった。
蹴りに続き突きまで使えなくなった。

2度目の日本一、100人組手、そして世界一 まとめて実現してやる

12月に予定している披露宴の案内状に「全日本チャンピオン」と刷り込み自らを追い込んだ。
決勝で勝ち胴上げされる姿だけをイメージして練習した。
裕美は笑顔で接した。
「大丈夫、なんとかなるって」
足立も太鼓判を押した
「大会に体調のピークを持って来れば少々の故障は関係ない。
八巻さんの潜在能力はあなたが思うよりずっと高いところにあります。
誰が来ようと負けるはずがない」
ケガをしていても気持ちはますますポジティブな方向に向いていった。
大会1週間前、足立はウエイトトレーニングの終了を告げた。
「故障続きで空手の練習量が足りません。
その分、ウエイトトレーニングだけでももう少しやってみませんか」
「八巻さんの悪いところは練習に入れ込むあまりオーバーワークになるところです。
休息もトレーニングの一環だということを忘れないでください。
これから大会までの1週間ゆっくり映画でも観て過ごしてください」
その日を境にキッパリとウエイトトレーニングを止めた。

ある日、マンションの駐車場に停めてあったパジェロが消えた。
「嘘だろ」
400万円ローンを組んで買ったばかりの新車だった。
しかもパジェロには道場生と作ったオリジナルTシャツ、トレーナーが200枚積んであった。
これは50万円した。
(後にこのパジェロは京都の自動車解体屋で見つかり、傷だらけで手元に戻った。
Tシャツとトレーナーはなかった)
パジェロが盗まれた当日の午後、松井章圭館長から電話が入った。
「今晩、食事でもしませんか?」
夜、レストランで松井館長はいった
「大会終了後、100人組手をやりませんか?」
「それだけは勘弁してください」
「何故できないんですか?」
「世界大会で勝ちたいのです。
100人組手で身体を壊したら元も子もありません」
「そうかな。
勝つためにやるんじゃないの?
君は1度限界を見ておくべきですよ」
「でも100人組手だけは・・・」
「限界のわかった人間は強いよ。
これは私が保証します」
極真空手が始まって100人組手を達成できたものは数人。
達成した者は皆大きなダメージを負い、中には数ヶ月入院した者もいる。
松井館長はその100人組手をやり抜いた後に世界大会に優勝した人物。
「しばらく考えさせてください」
自宅に帰り裕美夫人に相談した。
「100人組手に挑戦する資格のある人間と認めてもらえたんだから、これはチャンスだと思います。
私はあなたなら達成できると信じています」
(そうか。
100人組手に挑戦する資格のある人間か・・・
確かに挑戦できた人間は十数人だろう)
廣重師範も肯定的だった。
「あまり難しく考えず、とりあえず100人と戦って立っていられたらいいんじゃないか」
「腹は決まった。
2度目の日本一、100人組手、そして世界一。
まとめて実現してやる」

5年ぶり2度目の日本一

1994年10月29日に行われた極真空手第25回全日本大会は、大山倍達の没後、初めて開催されるため「大山倍達追悼大会」と銘打たれた。
八巻建志の体重は103kg。
手首足首の怪我以外は疲労も回復し体調は万全だった。
控え室に入り、初戦の1時間前に肺の中の空気を吐き出す激しいミット打ち。
これで横隔膜を広げ深呼吸しやすくする。
そして酸素を全身に行き渡らせ運動機能を目覚めさせる。
その後軽いストレッチで身体をほぐす。
他の選手は激しいアップをしている。
「みんなアップをやってますよ。
自分もやらないと・・・」
「疲れるだけですよ。
ほら彼なんか無駄なグリコーゲンを一生懸命消費していますよ
もったいない」
足立光は涼しい顔でいった。
試合直前に単糖類を含むタブレットを口に入れ、血糖値を上げて筋肉を速く滑らかに動くようにする。
これで戦う態勢は万全。
ゼッケン33を背負って勢いよく試合場に駆け上がった。
1回戦、3-0の判定勝ち。
2回戦、技ありを奪って判定勝ち。
ここで大会初日を終えた

夜、ホテルに兄から電話があった。
「今晩、巨人が5年ぶりに優勝した。
胴上げで宙に舞った長島の背番号は33だ。
お前と同じじゃないか」

10月30日、3回戦、右膝蹴りを顎に決め技ありを奪って判定勝ち。
4回戦、富平辰文に重い突きと下段蹴りを連続で叩き込み、最後は胴回し回転蹴りを肩口に入れ、5-0の判定勝ち。

準々決勝の相手は、城南支部の後輩である塚本徳臣。
183cm、92kg
サウスポーに構え、ヘビー級には少ないステップを刻み、柔軟な身体体ら伸びのある蹴りを飛ばす。
捻りを加えた膝蹴りは特徴的である。
八巻建志が突きのラッシュをボディに入れると塚本徳臣は膝蹴りを急角度で突き上げ顔面を狙った。
勢い込んで前進する塚本徳臣のボディに八巻建志はカウンターで右フックを決める。
塚本徳臣はガクッとなって動きが止まった。
そこへ右下段を連続で蹴りこんだ。
塚本徳臣は必死に食い下がったが3-0で八巻建志の判定勝ち。

準決勝。
市村直樹はサウスポーから重い突きと蹴りを速射砲のように繰り出した。
八巻建志は延長で左右の下段蹴りを効かせ動きが止めて突きの連打から膝蹴り、胴回し回転蹴りを放つ。
5-0の判定勝ち。

決勝戦。
相手は城南支部の後輩で前年チャンピオンの数見肇。
180cm95kg。
腰を低く保ったまま流水のように滑らかに動く運足。
円を意識した捌き技。
重い蹴り。
そして何よりも強靭な精神力。
数見は、まるで水面のアメンボのようにスイスイと動き。
チャンスとみると下段蹴りを飛ばした。
八巻はその下段に合わせて突きを入れた。
すると数見はスッとステップバックで身体の軸をズラしてダメージを殺す。
そして後ろ回し蹴り、突きの連打で懐に飛び込んで下段を蹴ってきた。
八巻はそこに前蹴りをボディに刺し突き放し、中断、下段へ回し蹴り、そして接近して膝蹴り。
数見は火の出るような突きの連打で応戦した。
本戦はまったくの互角だった。
延長に入って数見の組手が変わった。
これまでの冷静な試合運びから先輩への気負いが出たのか、脚を止めて真っ向からの打ち合い出した。
突きのラッシュから左上段回し蹴り。
八巻はその蹴りを1歩踏み込み右肘でブロックし、そのまま左の突きをぶち込む。
数見は唸るように下段回し蹴りで逆襲。
この下段がヒットする直前に突きを入れ、バランスを崩したところへ右フックを脇腹に決め、左右の下段回し蹴りの連打。
5-0の延長判定勝ち。
5年ぶりの返り咲きだった。
胴上げしている生徒や仲間が泣いていた。
しかし自分は泣かなかった。
喜びに浸る暇はなかった。
100人組手と世界大会が待っているのだ。

100人組手

1994年12月、松井館長が100人組手挑戦を発表。
決行は1995年3月18日。
挑戦者は八巻健志とフランシスコ・フィリョだった。
1995年の八巻健志の目標は、3月の100人組手、11月の世界大会となった。
3月18日、100人組手当日。
西池袋の極真会館総本部の2階道場には全日本ベスト8を含む対戦相手が勢ぞろいした。
過去の100人組手達成者は
ハワード・コリンズ、
三浦美幸、
松井章圭、
アデミール・ダ・コスタ、
三瓶啓二、
増田章。
100人組手のルールは、1回の組手時間は1分30秒。
基本的に手による顔面攻撃を禁止する極真ルールだが、通常の試合ではとられることがない足払いから下段突きが決まると技ありとなる
この日は土曜日で病院は閉まっているため、廣重師範は知り合いの病院に頼んで待機してもらった。
これは増田章のアドバイスによるもので、増田は日曜日に挑戦し病院が休みだったために翌日に入院し、このために腎不全が悪化し入院は2ヶ月にも及ぶことになった。
松井館長によれば100人組手は
「70人目になると相手を殺したくなる。
80人目になるとそんなことも忘れ、90人目以降は立っているのだやっと」
だという
実際に松井館長は67人目で頭突きと道着をつかんでの膝蹴りを入れ、増田は76人目で相手に噛みついた。
八巻建志のセコンドには先輩の緑健児や足立光がついた。
廣重師範、裕美夫人、城南支部の仲間、自分の道場の生徒たちも見守っている。
次の世界大会の優勝候補であるブラジル支部の磯辺師範、アデミール・ダ・コスタも鋭い視線でみていた。
八巻建志の挑戦の後、彼らの弟子であるフランシスコ・フィリョが挑戦することになっていた。

10時21分、太鼓が鳴らされ100人組手が始まった。
1人目は後輩の塚本徳臣。
塚本はやりにくいのか攻撃に出ない。
「チンタラやっていたらダメだよ!」
松井館長の檄が飛ぶ。
3人目の時、再度、松井館長が注意した。
「力を抜いてやったら中止にしますよ。
意味のない100人組手にしないでください」
この言葉で場内の空気が変わった。
それまで遠慮気味だった対戦相手の攻撃が一気にヒートアップした。
4人目。
ギャリー・オニールに左上段蹴りを決めて1本勝ち。
10人目を超えると汗で重くなった両腕のサポーターを外した。
20人目まで1本勝ち5、優勢勝ち14、引き分け1。
時々、足の裏を濡れた雑巾で湿らして滑り止めをする。
21~30人、1本勝ち5、優勢勝ち5。
上段、中段の蹴りがよく出て、膝蹴り、踵落とし、後ろ回し蹴りなどの大技も出ている。
31~40人、1本勝ち3、優勢勝ち7。
相手の軸足を刈って下段突きを決めるケースが増えてきた。
動きが遅くなり相手の攻撃を受け止めることが多い。
40人目が終わったところで右膝のテーピングとサポーターを手早く外しコールドスプレーで冷やした。
41~50人、1本勝ち2、優勢勝ち8。
折り返し地点に来て、負けなしで引き分け1つ。
相手の攻撃をブロックしてもブロックした箇所にダメージがたまっているので激痛が走る。
脚が重く相手の蹴りも突きも身体で受け止めることが多くなってきた。
51~60人、1本勝ち4、優勢勝ち5、引き分け1。
60人目を終えたところで15分のインターバルがとられた。
汗を含んで重くなった道着を着替え、大の字に転がりマッサージを受ける。
「大丈夫いける。
絶対いける」
緑健児が励ました。
61~70人、優勢勝ち9、引き分け1。
身体が鉄板のように重く、ガードが甘くなりなんでもない攻撃をもらう。
両脚、両腕は腫れ上がり相手の攻撃をブロックするたびに激痛が走る。
相手の攻撃に後退するシーンが目立つ。
71~80人、1本勝ち2、優勢勝ち7、引き分け1。
廣重師範が檄を飛ばした。
「八巻、100人組手はここからだ!」
(そうだ!これからだ)
「やめ」
「はじめ」
主審の声が遠くに聞こえる。
意識が薄い。
81~90人、1本勝ち1、優勢勝ち5、引き分け5、負け1。
初めて負けを喫する。
苦痛に顔が歪み、相手の攻撃を身をよじって避けようとする。
「あと10人」
「アーアー」
攻撃をもらうと泣き声とも呻き声ともつかない声が口から漏れる
100人目は数見肇。
数見は容赦ない突きと蹴りを叩き込んだ。
しかしその1発1発で先輩がんばれと励ましているでもあった。
2人は脚を止めて打ち合った。
終了の太鼓が鳴った。
91~100人、優勢勝ち1、引き分け5、負け4。
天を仰ぐと天井がグラリとゆれ身体がよろけた。
所要時間3時間27分。
1本勝ち22
優勢勝ち61(技あり23)
引き分け12
負け5。

八巻建志はすぐに車で病院に直行し治療が始まった。
「どうしてこんなひどいことになったの?
交通事故?」
医者が驚くほどの惨状だった。
極度の全身打撲で筋肉の組織が破壊され急性腎不全を併発していた。
尿道に管を差し小便を出すと色がドス黒くポツポツと肉の塊のようなものが浮いていた。
破壊された細胞の破片だった。
点滴がうたれ酸素マスクを口に当てられた。
八巻建志の後に行われたフランシスコ・フィリョの100人組手は
1本勝ち26
優勢勝ち50(技あり38)
引き分け24
負け0
という史上初の無敗で達成された。
フィリョは軽やかなフットワークと華麗な足技を駆使し戦い、大したダメージもなく翌日には全関東選手権大会を観戦しブラジルに帰った。
その頃、八巻建志は病院でウンウン唸っていた。
医者は
「人工透析しなきゃダメだな」
といったが自然治癒を希望したため
「10日して尿の潜血などの数値が下がらないようだと透析に踏み切らざる得ない」
ということになった。
食事は最初は液状の栄養食。
その後、流動食にかわっていった。
塩分、油、タンパク質は一切禁じられた。
身体全体がむくんで顔は黒くパンパンに腫れた。
幸い数値は日ごと下がった。
それは超人的な回復力だった。
しかし100人組手に挑戦したとき107kgあった体は90kg台まで落ちた。

組織が分裂しようと関係ない。選手はひたすら最強を目指す。


4月11日、八巻建志が入院3週間後、病院の外では、大山倍達の死後、一枚岩だった極真空手の分裂が激化していた。
見舞いに訪れた関係者がいった。
「分裂は悪化する一方だ。
君にはいろいろ吹き込みにくる人間も多くなるはずだ。
一刻も早く退院したほうがいい」
医者はもう1ヶ月の入院を進言したが八巻建志は強引に退院した。
極真空手の分裂は、大山倍達が遺言で示した松井館長を長とする派とその遺言が疑わしいとする遺族派に分かれ、この後、さらに分裂を繰り返すことになる。
廣重師範が率いる城南支部は遺族派に属した。
4月12日、退院翌日、早朝に自宅の電話が鳴った。
「記者会見を開くから2時間以内に来て下さい」
緊迫した声だった。
歩くことさえ困難だったが這うようにタクシーに乗って都内のホテルへ向かった。
マスコミの前で延々と説明がなされる中で意見を求められた。
「自分は選手なので、今まで以上にしっかり練習して頑張ってまとまっていきたいと思います」
このコメントに後から嫌味をいわれた。
「なんだ、お前のあの話は。
いうべきときにいわないのは武道家ではない。
もっといろんなことを言えばよかったんだよ」
(一体何を言えというのか?
松井館長への誹謗中傷か?
松井館長にも大変お世話になっているし、一方の言い分を聞いただけで判断するような軽率な真似はしたくない。
それに選手は世界の強豪と覇を競うため血のにじむような苦しくて辛い稽古に耐えているのに、極真が大山倍達総裁の遺志を受け継いで一致団結していくこと以外、何を望むというのだ。
それに私の師は廣重師範1人だ。
弟子として師範の選択に従うのは当然だろう)
廣重師範は八巻に尋ねた。
「お前はどうしたいんだ」
「強い人間のいるところで戦いたい。
それだけです」
「そうだな。
そうしたほうがいいな」
廣重師範は静かに頷いた。
世界大会には世界中の強豪らが極真世界一をかけて集ってくる。
中でも、フランシスコ・フィリョ、グラウベ・フェイトーザを中心にしたブラジル選手の強さは恐ろしいほど強いといわれている。
極真の門下生は皆、最強という共通の志で入門したはずだった。
それが分裂し、世界大会が2つになり選手も2つに分かれてしまった。
中でも廣重師範が率いた城南支部は支部内で2つに分裂するという最悪のケースだった。
廣重師範は松井館長の下へ戻り、緑健児をはじめとする残りの者は出て行くことになった。

ブラジリアンキック

ともあれ世界大会へ向けて八巻建志の稽古は再開された。
しかし100人組手のダメージは予想以上に大きかった。
小便が出にくく、歩くだけで汗が全身から噴出しすぐに息が切れた。
まずはゆっくり散歩することからはじめた。
そして2ヵ月後に軽いランニングができるようになった。
3ヵ月後にジムワークと道場稽古を再開した。
100人組手の代償は入院生活とあわせて4ヶ月の稽古中断となった。
世界大会の最大の敵となるのはおそらくブラジル勢だった。
フランシスコ・フィリョ、グラウベ・フェイトーザの蹴りはブラジリアンキックといわれ、独特のリズム、軌道、スピード、タイミング、大きさがある。
足刀を突き出し、そのまま回し蹴りに変化させたり、踵落しも軸足をスライドさせながら振り下ろす。
凄まじいスピードの後ろ回し蹴りを連続でビュンビュン振り回す。
日本人の得意な下段回し蹴りと突きという攻撃パターンとはまったく違うバリエーションを持っていた。

その蹴りへの対抗策としてテコンドーの道場へ出稽古することにした。
テコンドーの黒帯5、6人が攻撃を30秒ずつ仕掛けていく。
こちらからの攻撃は一切なし。
受けに専念し相手の攻撃をいかに捌くかに集中する。
テコンドーの選手は身体は細いものの凄まじく切れる足技を持っていた。
半身に構え脚全体を鞭のようにしならせ蹴りを飛ばす。
爪先は空気を切り裂くカミソリのようだった。
極真空手とは蹴り方が根本的に異なっている。
実際に組み手をはじめると攻撃をもらうケースが多い。
どうしてもガードが追いつかない。
しかし半月もたつと目が慣れ、ステップワークやスウェーでかわしたり、体の芯をずらして相手の攻撃を殺したりする防御ができた。
1ヶ月もすると外国人選手のトリッキーな蹴りへの対策は万全といえるほどになった。

前蹴り

道場でのスパーリングでは、これまでになかった感触が出てきた。
蹴りが力みなくスッスッと出せるのだ。
中でも前に突き刺す前蹴りはダブル、トリプル(2連続、3連続)と叩き込めるようになった。
しかも1つの構えから中断、上段へ自由自在に、それまでの押し込むような蹴りからビュンと突き刺すような蹴りに進化した。
相手の前進を止めるストッピングではなく相手を破壊する必殺の蹴りに変わっていた。
相手はこの前蹴りにまったく対処できず吹っ飛んだ。
膝が上がった時点で上段か中段か見当がつかず、膝が伸びはじめてわかったときには遅すぎて前蹴りの餌食になった。
これは100人組手のおかげだった。
体力・精神力が限界を超えて戦ううちに、余計な力が抜けて流れるような蹴りを会得していた。
一見非合理な100人組手は科学を超えた不思議な力を与えてくれた。
廣重師範も前蹴りに指導の重点を置いた。
「お前の前蹴りは手前でグンと伸びる。
おそらく相手が予想する間合いより30cmは伸びるはずだ」
空蹴りとサンドバッグへの蹴りを1日何百本と繰り返し、タイミング、スピードに磨きをかけた。
廣重師範は八巻に自信を持っていけとアドバイスした。
「打ち合いでお前に勝てる人間は世界のどこにもいない。
少々の攻撃はよけなくても大丈夫だから、その分思い切って攻撃を仕掛けろ」
廣重師範は、<強い八巻>が出れば世界のどんな人間にも簡単に勝てると思っていた。
八巻が100%の強さを発揮する場面は年に1、2回あった。
それも道場稽古で、身体がいつもより軽く自由に動き、中国拳法でいう練足が自由に使えていて、通常の送り足、前足がまず動いてそれに後足が追う動きに比べ、練足は左右の足が交互にスッスッと動いて通常の倍の速さで距離を詰める。
相手はアッという間に間合いを詰められ何もできずに追い詰められ攻撃を食らう。
逆に攻撃すればスッとかわされてしまう。
そして前蹴りはパンチの間合いでポンポン出る。
この出入りのある組手をやってしまう日が年に数回あった。
「強い八巻が試合で現れれば誰もお前の前に立っていられない。
間違いなく世界最強、無敵だ」
廣重師範の目には試合場での八巻は30%の力しか出していなかった。

世界大会前の暗闘

「フランシスコ・フィリョは化け物だ」
「日本人は勝てない」
「世界大会はフィリョの大会」
「フィリョを日本人選手が追いかける構図」
大会前、マスコミは盛んにフランシスコ・フィリョを持ち上げた。
フィリョの師である極真空手のブラジル支部長:磯辺清次師範は八巻建志についてこう発言した。
「大したことない。
4年前の世界大会でフィリョが負けたのは、フィリョがフグをKOして満足してしまったからだ。
しかも今のフィリョは当時とは別人」
八巻建志は自分をとことん追い込むものが必要だと思い一か八か賭けに出た。
大会終了後、妻と自分の両親をハワイ旅行に招待すると宣言した。
もちろん蓄えがあるはずはなく旅費は優勝者に与えられる武道奨学金を当てる算用だ。
「もう優勝しかない」
マンションの壁にハワイのポスターを貼り、朝晩、青い海を見てと自分を奮い立たせた。
世界大会1ヶ月前、稽古の最中、腰痛が爆発した。
最終的な追い込み時期であったが仕方なくベッドで伏せていた。
首と背中がカチカチに張っていた。
自身も現役時代に散々腰痛に苦しんだ松井館長がアドバイスした。
「以前、私が通って効果のあった鍼灸の治療院が3軒あります。
この3軒を回ればなんとかなるんじゃないかな」
格闘技雑誌の取材で自宅近くの公園でグラビア撮影があった。
「上半身裸になってください」
撮影中、編集者がいった。
「最近ウエイトをやっていないので胸の筋肉が落ちています。
とても雑誌のグラビアになるような体ではありません」
このとき腰をカバーするためにさらしを何重にも巻いていた。
腰痛を知っているのは廣重師範、松井館長、城南支部の数人だけだった。
治療のかいあって2週間ほどで稽古が再開できた。

ある夜、自宅の電話に女性のヒステリックな声が飛び込んできた。
「優勝したら殺す」
「不正はやめろ」
嫌がらせの電話は毎日かかってきた。
手紙も届いた。
封を切るとどこかのナイトクラブをバックにした女性の写真が入っていた。
便箋にはこう書いてあった。
『八巻さんと過ごした白里海岸の夜のことは一生忘れません。
奥さんと離婚してくれるといったけど、私はあの日愛し合ったことだけで十分です。
お腹の子供は私が育てていきます。
これは私のお気に入りの写真なので送ります。
時々は思い出してくださいね』
嫌がらせの電話と手紙は続いたが気にしなかった。
世界大会1週間前、この日のウエイトトレーニングを終えて、これですべての稽古を終了した。
道場仲間とホルモン屋で食事会を行った。
ウエイトトレーニング、サーキットトレーニング、テコンドー、道場の稽古、調整の遅れはあったができることはすべてやった。

極真空手 第6回全世界空手道選手権大会

1995年10月30日、世界大会前日、西池袋メトロポリタンホテルで行われたレセプションパーティーに参加。
会場には優勝候補のブラジル支部のフランシスコ・フィリョ、グラウベ・フェイトーザ、リングスにも出ているグルジアのビターゼ・タリエルなどの大型選手がゴロゴロいた。
その夜もホテルの部屋に自宅から転送される嫌がらせの電話が幾度となく入った。
11月1日、 第6回全世界空手道選手権大会初日。
朝、ホテルの部屋のカーテンを開けると黄金色の太陽の光が射し込んできた。
目が痛いほど空は青かった。
「いよいよ来たな。
これから3日間全力を出し切るのみだ」
10時、東京体育館へ入った。
体重を測定を受け、軽いウォーミングアップ。
11時、開会式が始まり168名の選手が勢ぞろいした。
世界大会は3日間かけて行われるビックトーナメントで優勝するには8回勝たないといけない。
初日に客の入りは5分程度だった。
トーナメントで八巻建志はAブロック。
フランシスコ・フィリョはDブロック。
グラウベ・フェイトーザはCブロック。
彼らに当たるなら準決勝以降になる。
足立は檄を飛ばした。
「コンディションは最高に仕上がっている。
今の八巻さんに勝てる人間はいない。
あなたは最強なんだ」
別のトレーナーもマッサージしながらいった。
「どんな怪我を負っても私が治してみせる。
だから後顧の憂いなく精一杯戦ってください」
廣重師範は、自身が第2回の世界大会で足刀の試割で失敗し3回戦で判定負けした経験から弟子のおごりと油断を戒めた。
「八巻、格好はつけるなよ。
世界大会だと必要以上に気負って自意識過剰になりやすい。
それで実力を出し切れず負けてしまう選手が多いんだ。
俺もそうだったよ」
1回戦はシード。
2回戦は韓国のヤン選手。
ヤンは小柄な体ながらアグレッシブに仕掛けた。
八巻建志は焦らずじっくり追い込んで下段回し蹴りで確実に相手の脚を蝕んでいった。
判定4-0でまずは無難に緒戦を乗り切り初日が終わった。
ホテルに帰ると嫌がらせ電話が入ってくる。
「死ね」
「八百長野郎」
「不正はするな」

11月2日、第6回全世界空手道選手権大会2日目。
この日の第1試合にフィリョが出るということで午前中の早い時間から客は7割入った。
12時過ぎ、そのフィリョの試合が始まった。
183cm108kg。
上腕は丸太のように太い。
相手はスティーブン・クラーン(イギリス)。
クラーンはしゃにむに攻めた。
フィリョは冷静に相手を捌き、時折放つ中段回し蹴りだけで圧倒し3-0で判定勝ちした。
4年前の世界大会より身体が厚みを増し、組み手もドッシリと腰が落ちて安定感を増した。
八巻建志の3回戦の相手はウラー(パキスタン)。
ウラーは回り込みながらゴツゴツした正拳を突いた。
八巻の攻撃を反則であるが道衣を掴み遮った。
「掴むな!」
八巻は叫んだがウラーはラフな攻撃をやめない。
何回かこれも反則である顔面に突きを入れ八巻の前歯が少し欠けた。
試合は結局延長までもつれ、八巻が下段回し蹴りでウラー動きを止め右のボディフックを決めた。
そして4-0の判定勝ち。
この日、、空手母国の威信にかけて王者を死守せんとする日本人選手たちの中で2人が破れた。
ホテルの部屋に戻ると嫌がらせ電話の主は怒っていた。
2日目を生き残り最終日に進んだことに怒り心頭のようだ。
「優勝したら殺す」
「試合中、大変な目にあわせてやる」
この電話は翌朝7時半まで鳴った。
どこの誰かは知らないがこのイタズラ電話のおかげで八巻建志の闘志が高まり、精神面で過去にないほどベストコンディションだった。

11月3日、 第6回全世界空手道選手権大会3日目。
東京体育館は10時の開場と共に満員の観衆で埋まった。
その数12000人。
選手は、試合前にドーピング検査を受けた。
「大丈夫。
絶対勝てますよ。
ここまでケガもないし、最高の状態に仕上がった八巻さんが負けるなんて想像できないもの」
足立光がいった。
八巻建志の最後の挑戦が始まった。
嫌がらせ電話のこともあり、城南支部のメンバーは選手をガードし飲み物や食べ物への薬物混入を防ぐために管理した。
13時10分、4回戦の相手はカナダのチャンピオンであるジェイソン・シャンテカーク。
ジェイソンは右の下段回し蹴りを飛ばしながら強烈な正拳を打ち込んだ。
八巻は前蹴りで牽制し、中段、下段回し蹴りで相手の突進を止め、集中的に相手の右大腿に左下段回し蹴りを叩き込んだ。
左、左、左・・
ジェイソンは苦悶の表情で右足を上げてガードする。
そこへ左上段回し蹴りを放った。
「バシッ」
いい音がしてジェイソンの右側頭部にヒット。
動きが止まった相手に左右の下段から正拳の連打。
そして体重を乗せた右の下段回し蹴り。
ジェイソンは身体をくの字に曲げ技ありを取られた。
4回戦といえば世界ベスト32。
日本人選手の敗退も出始めた。
瀬戸口雅昭はポーランドのユーゲウス・ダデズダフに判定負け。
高尾正紀はブラジルのルシアーノ・バジレに判定負け。
成嶋竜はオーストラリアのギャリー・オニールに判定負け。
中量級王者の青木英憲はフィリョに前蹴り1発で場外のカメラマン席まで吹っ飛ばされた。
ブラジル支部のグラウベ・フェイトーザもシュナーベルトを膝蹴りで一蹴した。

5回戦の相手は杉村多一郎だったが、杉村が前戦で左目の上を13針縫う大ケガを負って棄権し八巻建志は不戦勝となった。
田村悦宏がブラジルのルシアーノ・バジレに破れ、岩崎達也はギャリー・オニールに破れ、池田政人はフィリョの重い突きを胸をボディに叩き込まれ右下段回し蹴りで1本負けし、高久昌義はニコラス・ペタスに技ありを取られて負け、市村直樹はグラウベ・フェイトーザに顎に高角度の蹴りを何発も食らい判定負けした。
5回戦を終えベスト8が決まった。
その中で日本人選手は3人。
ブラジル選手も3人。
しかしブラジルは代表枠4人中3人が生き残っていた。

準々決勝の第1試合は、八巻建志 vs 黒澤浩樹。
前回の世界大会では、体重判定で黒澤浩樹が勝った。
またここまで4試合、黒澤浩樹は延長戦は1つもなく本戦で決め、技ありを2つとっての1本勝ちが2つある。
「はじめ」
「ドンッ!」
審判の声と太鼓がほぼ同時に鳴った。
黒澤浩樹は両腕で顔面をガードしながら小刻みなリズムを刻みながら接近。
八巻建志は懐に入られるのを嫌って左上段前蹴りをフェイントに出して左下段回し蹴り。
近づきたい黒澤浩樹は強引に突っ込んだ。
八巻建志はそれに左上段前蹴りを合わせた。
黒澤浩樹は構わず前に出て右下段回し蹴り。
八巻建志はバックステップでかわした。
上段への警戒を強めて両腕を高く構える黒澤浩樹のボディに八巻建志が前蹴りを入れるとバランスを崩しスリップダウン。
顔を強張らせた黒澤浩樹が渾身の力を込めた右下段回し蹴りを狙うが、八巻建志は打ち合わずスッと引いてかわす。
黒澤浩樹は構わず左下段回し蹴りを狙って踏みこむと、八巻建志は上段前蹴りをカウンターで入れた。
黒澤は再びスリップダウンした。
黒澤浩樹の必殺技は下段回し蹴り。
下段回し蹴りは接近して威力を発揮する技だが、八巻建志の前蹴りは射程距離が長くも短くもなる。
しかも回し蹴りよりも技が速い。
黒澤浩樹は、接近して正拳から左右の下段を決めたい。
八巻建志は前蹴りを放って距離を保ち続けたい。
「バシッ」
黒澤浩樹の下段がいい音で決まる。
その下段は異常に強く、1発で相手を体ごと持っていく。
下手すれば一撃で戦闘不能にしてしまうほど凄まじい破壊力も持っている。
八巻建志は連打を食らってサンドバッグにならないように常に動き黒澤浩樹の攻撃の打点の軸を外しすかし、前蹴りで黒澤の下段の連打を許さなかった。
しかし黒澤浩樹は決してあきらめずに前進し続け、下段蹴りと正拳で攻め続けた。
八巻建志は猪のように突進してくる相手のボディに右膝蹴りを突き上げてから右後ろ回し蹴りを放った。
「ドスン」
と右の踵がボディにめり込んだが、黒澤浩樹は何事もなかったがごとく左下段回し蹴りを蹴った。
両者距離が潰れてもみ合いになった。
一瞬、黒澤浩樹のガードが下がった。
八巻建志は右膝を捻りこむように突き上げた。
「ガシッ」
黒澤浩樹は顎を直撃された。
が、しかし微動だにしなかった。
さすがに強い。
黒澤浩樹は果敢に攻撃を仕掛ける。
黒澤浩樹のほんとうの恐ろしさは執念じみた精神力と化け物のようなタフネスさだろう。
あまりに強い黒澤浩樹の押しと下段回し蹴りに八巻建志はバランスを崩したたらを踏んでバランスを後方に崩した。
黒澤浩樹はそこへ攻撃を叩き込み一気に間合いを詰めようとする。
八巻建志は左脚を跳ね上げた。
「パシィッ」
左上段回し蹴りが黒澤浩樹の右頬を弾いた。
蹴った左足をマットへ接地すると同時に踏み込んで、右前蹴りをのけぞった黒澤のボディへ。
一瞬下がった黒澤浩樹が、すぐに距離を潰して下段回し蹴りを放つ。
八巻建志はそれを前蹴りでストップさせ逆に下段回し蹴りを返した。
「ドンッ」
そこで太鼓が鳴り試合が終わった。
判定は3-0で八巻建志が勝った。

準々決勝第2試合は、ギャリー・オニール vs ルシアーノ・バジレ。
試合は体重判定までもつれて、85kgのバジレが72kgのギャリーに敗れた。
準々決勝第3試合は、フランシスコ・フィリョ vs ニコラス・ペタス。
フランシスコ・フィリョの左上段回し蹴りがニコラス・ペタスの顔を切り裂き、5-0の判定で勝った。


最後の準々決勝は、グラウベ・フェイトーザ vs 数見肇。
試合開始と共にグラウベ・フェイトーザは長い腕と脚を振り回して数見肇を追い詰める。
遠い間合いで勝ち目のない数見肇は間合いに入り突きと下段回し蹴りを狙っていく。
するとグラウベ・フェイトーザは数見の顎を狙って高角度の膝蹴りを突き上げる。
数見肇は膝蹴りをかわしたが、グラウベは振り子のように大きくバックスウィングした正拳をラッシュし、飛び込むように渾身の中段回し蹴りを放った。
「ドカンッ」
凄まじい音が響いた。
数見はズルズル後退した。
前半はグラウベ・フェイトーザが台風のような猛攻で数見肇を圧倒した。
しかし後半に入って数見がコツコツ当てていた下段回し蹴りがグラウベ・フェイトーザの脚を蝕み始めた。
195cmの巨体がみるみる失速。
上体は左右に揺れた。
数見肇は確実に相手の攻撃を捌き自分の攻撃をヒットさせていった。
グラウベ・フェイトーザはベタ足になりながらも懸命に攻撃を仕掛けていくが、数見肇は冷静沈着な外科医がメスを振るうように相手の嫌がるところに嫌がる攻撃をした。
本戦では決着がつかず延長に入り、明らかにダメージがあるグラウベ・フェイトーザの脚を数見は情け容赦なく蹴った。
グラウベ・フェイトーザは必死に踏ん張り1発逆転を狙った左膝を突き上げる。
数見肇はそれを見切り、軸足を蹴った。
そして左下段回蹴りを連打。
グラウベ・フェイトーザはマットに両手をついた。
「技あり!」
立ち上がり脚を引きずるグラウベ・フェイトーザに数見肇はとどめのラッシュ。
戦意を失ったグラウベ・フェイトーザは敵に背中を向けた。
「一本」
数見肇の見事な一本勝ちとなった。

準決勝第1試合は八巻建志 vs ギャリー・オニール。
ギャリー・オニールは、変幻自在なステップワークで相手を幻惑し、スピーディーかつ大胆な攻撃を仕掛けてくる。
その卓越した格闘センスは他を寄せ付けぬものがあった。
ギャリー・オニールは、軽快なステップで八巻の周囲をクルクル回り、八巻建志が下段回し蹴りを放つと、ステップバックでかわし踵落とし、飛び後ろ回し蹴りを繰り出す。
ギャリー・オニールの怖さは蹴りだけでなく突きも強烈で、1発1発が内蔵を突き上げるような威力をもっていた。
ギャリー・オニールは離れては大きな蹴り技、近づけば突きを叩き込んで離れるというヒット&アウェー。
相手がその動きに翻弄され追い回すとギャリー・オニールの攻撃のみがヒットしやすくなる。
八巻建志はギャリー・オニールの攻撃を確実にカットし、すかさず自分の攻撃をヒットさせた。
本戦終盤、八巻建志が左右の下段でギャリー・オニールを追い込んだ。
ギャリー・オニールはそこで踵落としをカウンターで放った。
八巻健志はとっさに顔をねじって芯を外し顔面直撃は免れた。
本戦で決着はつかず延長へ入った。
極真空手のルールでは、再延長で決着がつかない場合、体重判定となり体重差が10kg以上あった場合、軽い者が勝ちとなる。
10㎏以上、差がない場合は試割の枚数で勝敗が決まる。
100kgを超える重量級の選手には体重判定は鬼門となる場合も多かった。
八巻健志は103kg、ギャリー/オニールは73kg。
接戦は八巻健志の負けを意味している。
しかもトップクラスの選手が防御に徹すればたとえ体重差があっても引き分けに持ち込むことは難しくないことだろう。
ギャリー・オニールの踵落としに八巻健志は前蹴りをカウンターを合わせた。
そして下段回し蹴りからボディに突き、さらに左右の下段回し蹴りを入れた。
電光石火のコンビネーションにギャリー・オニールが一瞬、顔をしかめ体が開いた。
八巻建志はそれを見逃さず前蹴り。
だがギャリー・オニールも上段回し蹴り、後ろ回し蹴り、踵落としと失った主導権を取り戻そうと反撃。
八巻建志はそれを冷静に捌き、逆に突きの連打でギャリーを場外まで押し出した。
2分間の延長戦の判定は5-0で八巻に凱歌が上がった。
ギャリー・オニールは苦笑いを浮かべ握手を求めた。
2人はがっちりと握手した。
通路を引き上げているとき、準決勝戦を戦うために後輩の数見が歩いてきた。
「数見、決勝で待っているぞ」
「押忍」

準決勝第2試合、フランシスコ・フィリョ vs 数見肇。
「バシンッ」
フランシスコ・フィリョの左太腿の内側を数見肇の左足が蹴る。
フランシスコ・フィリョはムッとした表情で猛烈に正拳でラッシュをかけ膝蹴りで数見を場外まで押し出した。
強引な攻撃にも数見は冷静さを失わなかった。
フランシスコ・フィリョは、まるでハリケーンのように、並外れたパワーで中段、上段と容赦なく攻め立てる。
数見はその猛攻を冷静に捌き、ときに受け止める。
フランシスコ・フィリョが上段回し蹴りを放つと数見肇はドンピシャのタイミングで下段回し蹴りを合わせてフィリョをぐらつかせる。
その差は紙一重である。
フランシスコ・フィリョが上段回し蹴り、後ろ回しと蹴りを繰り出すと数見肇は下段回し蹴りで迎え撃った
フランシスコ・フィリョは、本来のスピーディーで爆発的な技のキレがなく、パワーのみで数見肇を押し潰そうとしている。
しかし直線的なパワーは捌きが抜群にうまい数見に受け流されてしまいダメージを与えられない。
逆に数見肇はフランシスコ・フィリョの下半身に的を絞って着実にダメージを蓄積させていった。
本戦が終了し判定は0-0。
延長戦に入っても数見肇は執拗にフィリョの脚を攻めた。
フランシスコ・フィリョの左脚の動きが鈍ってきた。
それでもフランシスコ・フィリョは猛り狂う獣のように正拳を数見肇に叩きつける。
しかしダメージは与えられない。
延長戦も0-0の引き分けになり再延長に入った。
互いに退がらない、倒れない。
フランシスコ・フィリョは左脚をひきずりながら必死に攻撃を繰り出す。
数見肇は下段回し蹴りと正拳突きを情け容赦なく叩き込む。
そして瞬く間に時は過ぎ、両者を分けるときがきた。
熱狂の渦となった会場も、その判定に固唾を呑む。
再延長の判定は数見肇に旗2本が上がったが規定に達せず引き分け。
続く体重判定は、フランシスコ・フィリョが103.5kg、数見肇が97.5kg。
これも有効となる10Kg以上の差はなく引き分け。
決着は試し割り判定に持ち込まれた。
「フランシスコ・フィリオ選手、22枚。
数見 肇選手、24枚」
場内アナウンスが告げられると会場は大歓声に包まれた。
わずか2枚が両者の明暗をわけた。
死闘の末、決勝進出を果たしたのは数見肇であった。

試合場では松井館長による試し割と演武が行われていた頃、城南支部の控え室では、決勝戦まで体を休めるために八巻建志と数見肇が並んで寝ていた。
いつもならコメントを競って求めていくマスコミも、この異様な光景を遠巻きにみているだけだった。
「ビリビリしたカミソリが飛び交うような緊張感が漂っていて、とてもコメントなんか取れません。
同門の2人がこれから世界大会の決勝戦を戦うのに同じ控え室でしかも並んで横になっている。
あんな異様な雰囲気は初めてでした」
(その時現場にいた専門誌の記者)
八巻建志は両足首をアイシングしテーピングし直したかったが、数見肇がいるために素知らぬ顔で寝た。
そんな控え室に廣重師範が入ってきた。
師範の柔らかな笑顔は控え室の空気を和ませた。
「これは168名のファイナルマッチなんだ。
彼らの代表と思って戦って欲しい。
先輩後輩の意識は捨てて・・・・
そうだね。
悔いのない戦い、観る者を感動させる戦いを期待しています。
試合が終わったらいつもの2人に戻るんだから・・・
頑張ってください」
試合場では3位決定戦でギャリー・オニールとフランシスコ・フィリョが戦い、フランシスコ・フィリョが下段回蹴りで技ありを奪って判定勝ちした。
「時間です」
係りの者の出番を告げた。
試合場に一歩一歩足を進める。
割れるような歓声が体を包んだ。
世界大会の決勝の舞台が目の前にあった。
15歳で極真に入門して以来、ひたすらその頂点だけを目指してきた。
幾多の試練を乗り越え、数々のタイトルも手にした。
しかしひとつだけ手にしていないものが世界大会の優勝だった。
4年に1度、体重無差別制、3日間にわたる過酷なトーナメント。
極真空手世界チャンピオンの称号。
それは極真空手に人生の全てを懸けてきた男の未果てぬ夢であった。
少年が心奪われた、その山の頂きはあまりに遠いものだった。
幾度となくたたき落されては這い上がり、闇の中 孤独と絶望を背負い歩き続けてきた。
何度も心が折れそうになった。
だが決してその足を止めることはなかった。
それはずっと信じていたから・・・
今このとき 今日という日が必ずやってくることを・・・
(死んでもいい。
ここで完全燃焼する。
すでに覚悟は出来ている。
空手家として男として八巻建志のすべてをみせる)

場内アナウンスが鳴った。
「ゼッケン21番、八巻建志、ニッポン」
「オッシャ!」
気合を入れて試合場に上った。
拳をグッと握り締めた。
(この試合ですべてが決まる。
ケガを恐れる必要なない。
拳を、蹴りを、力の限り叩きこんでやる)
両者が十字を切って中央へ進み出た。
数見肇は静かな表情でスクッと立った。
八巻健志は数見肇の目を見据え軽く頷いた。
「わかった」
そういうように数見肇も頷いた。
「ドン!!」
決戦の始まりを告げる太鼓が鳴った。
八巻建志、187cm103kg。
数見肇、180cm97kg。
数見肇は体格で劣るが、その肉体は鋼のような筋肉の鎧をまとっている。
そして世界一と称される下段蹴りがある。
八巻健志はこの男の強さは誰よりも知っている。
小手先のテクニックや力任せの攻撃など一切通用しない。
だからこそ真っ向勝負。
全身全霊を懸けて戦うのみ。
数見肇がジリジリとにじり寄る。
隙あらば一気に懐に入り下段蹴りを合わせる。
まともに食らったらその脚を破壊されてしまうだろう。
数見肇が間合いを詰める。
八巻健志は前蹴り、左後ろ回し蹴り。
数見肇はバックステップでかわし左下段回し蹴り。
至近距離となり八巻健志が正拳突きを見舞うと、数見肇はこれもバックステップで急所を外し逆に左右の下段回し蹴りを返す。
八巻建志は今大会に備え、磨いてきた左前蹴りを数見肇のボディに突き刺し場外まで吹っ飛ばした。
数見肇は何ごともなかったかのように、ポーカーフェイスで中央に戻り試合再開。
臨機応変に変化する流水の動きと左右の中段回し蹴り、正拳突きと八巻健志を追いたててゆく。
八巻健志は“あるチャンス”を待っていた。
大会前に何百回となく、その瞬間を頭に描き繰り返し練習してきた攻撃。
その一撃を放つチャンスが一度は必ず訪れるはずだ。
下段蹴り、正拳突きとつなげながら、そのチャンスを待っていた。
次の瞬間、数見肇が左中段前蹴りを放とうと左膝が上げた。
(この瞬間だ!!)
八巻健志はすかさずサイドステップで踏み込み、同時に左腕で蹴り足を払い数見肇の体が開いたところへ渾身の力を込めた右フックをボディ深く打ち込んだ。
その手ごたえは拳から肩に突き抜けた。
「ウッ」
息の詰まる声が聞こえ数見肇の動きがガクッと落ちた。
深いダメージを負った数見肇だが、それでも正拳連打、前蹴りと反撃。
だが明らかにそのスピード・威力は落ちている。
八巻健志は構わず前に出た。
前蹴り、下段回し蹴りとつないでボディに下突きを打ち込む。
数見肇は前蹴りで応戦する。
八巻健志はそれを左腕で払い、再び 数見の左脇腹に全体重を乗せた強烈な右フックを打ち込んだ。
数見肇の動きが止まった。
(効いている!!)
前蹴り、右下段回し蹴り、正拳連打、そして再度、右下段回し蹴りと一気に攻め立てた。
容赦ない連続攻撃を受けた数見肇は苦悶の表情を浮かべ、たまらず後退。
八巻健志は勝利を確信した。
そしてそのとき本戦終了を告げる太鼓が鳴った。
正面を向き、息を整えながら、判定を待った。
まず副審の白い旗が2本上がった。
主審は? 
上がった。
白い旗が3本上がって八巻建志の勝利を示した。
八巻建志がついに辿り着いた世界の頂点だった。
これまでの人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
どれほど苦しい道程だったことか。
熱い涙が頬を伝った。
それは空手家として八巻建志がみせた最初で最後の涙だった。
男、八巻建志。 
完全燃焼。

八巻空手

2000年、八巻建志は、TVCM 「X Fire」、映画「陰陽師」に出演。
2002年、極真会館を退会し、「八巻空手」を立ち上げた。
「私は空手には無限の可能性があると思っています。
度々、貧血で倒れるぐらいひ弱でいじめられっ子だった私は自信が持てず人の目をみて話すことも出来ませんでした。
それが空手に出会って懸命に稽古を重ねていくうち、10年後に全日本チャンピオンに、15年後には世界チャンピオンになりました。 
その間、100人組手という荒行をも完遂しました。
そして自己の無限の可能性を確信しました。
人の才能は継続することによって磨かれ開きます。
継続的な空手の稽古から得られる自信は人の能力を無限に伸ばします。
そしてそんな人は何事にも自信をもって臨めるようになるのです。
稽古は無駄に長く時間を費やしたり、厳しければいいというものでは決してないのです。
継続するには楽しくなければいけません。
私は楽しい空手を指導していきたいと思っています」

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