異例のスピード昇段

1878年(明治11年)12月18日、青森県中津軽郡船沢村(現:弘前市)で裕福な庄屋の子に生まれる。
旧名は栄世(ひでよ)、光世は後の名である。
小学生の頃から、米俵2俵を担ぐ怪力で、またその生活態度や向学心は、子どもの模範となった。
1893年(明治26年)、青森県尋常中学校(現:弘前高校)に入学。
柔術部に入り、旧津軽藩柔術師範:齊藤茂兵衛に「本覚克己流柔術」 の指導を受ける。
1896年(明治29年)、勉学を志し、尋常中学校を2年で中退し単身上京。
早稲田中学(現:早稲田高校)に入学。

1897年(明治30年)、19歳で講道館に入門し、柔道に打ち込む。
講道館四天王の一人:横山作次郎などに鍛えられ、メキメキと頭角を現し、入門4ヵ月後、初段昇段審査を受けた。
このとき嘉納治五郎(講道館初代館長)の命により前田のみ15人抜きを命ぜられ、これを達成。
初段となる。
1898年(明治32年)10月、二段昇進。
柔道をはじめて1年内に二段となったのはそれまでなかった。
1901年(明治35年)1月、23歳で三段昇進。
早稲田大学、陸軍幼年学校、学習院の柔道師範となる。
1904年(明治37年)、四段昇進。
佐村嘉一郎、轟祥太と共に「講道館の三羽烏」と呼ばれた。
当時の最高段位は六。
まさに異例のスピード昇段だった。
この頃、名を栄世(ひでよ)から光世(みつよ)に改名した。
試合は私にさせてくれ

セオドア・ルーズベルト大統領
1906年(明治39年)、アメリカ大統領:セオドア・ルーズベルトは、日露戦争で大国ロシアを破った日本の軍人を評価していた。
また2年前に講道館の四天王の1人:山下義昭とジョージ・グランドという大男のレスラーの試合があり、山下は自分の2倍はありそうな大男を体落とし、横捨て身で投げ押さえ込んだ。
自身が大学時代にはレスリング選手だったルーズベルトは、その技に感動し、海軍兵学校に柔道を取り入れたいと考えていた。
そして強い柔道家を招き試合をさせたいと、アメリカ外務省を通じて嘉納治五郎に依頼。
嘉納治五郎は1番弟子:富田常治郎を派遣。
供として前田光世もついていくこととなった。

富田常次郎
富田常次郎 - Wikipedia
渡米すると、ホワイトハウス内に試合場が設営されていた。
試合前、前田は進言した。
「試合は私にさせてくれ」
富田常次郎は、講道館四天王の1人で、当時の最高段位の六段だったが、他の四天王、西郷四郎・横山作次郎・山下義昭に比べ明らかに実力が劣っていた。
講道館立ち上げ以前から嘉納治五郎と共に行動し、六段も功労者的な意味合いが大きかった。
「自分が責任者だから君たちを出すことはできない。
文句をいわずに君たちはみていればいいんだ。」
富田はいった。
試合は、大統領、大統領夫人、その令嬢、政府・軍関係者、各スポーツのトップ選手、日本大使、駐在武官、大使館員、マスコミ関係者なども観戦していた。
富田常次郎は、身長は160cm足らず、体重60kg足らず。
アメリカ側の代表は、陸軍士官学校の学生でフットボール選手。
身長192cm、体重110kg。
試合の始まると、フットボール選手は富田の両肩をつかんで力ずくで押さえた。
富田は、もがいたが鷹に捕まった小鳥のように逃げられず、そのままフォールされてあっけなく負けてしまった。
試合はアッという間に決まった。
会場は拍子抜けし、ルーズベルトは、柔道がなにもできず負けたことに衝撃を受けた。
日本大使館員は「日本男児の面目丸つぶれ」といい、前田光世は唇を噛み締めた。
マスコミは試合結果をアメリカ全土に伝えた。
アメリカで異種格闘技戦

「柔道をここまで貶めたまま日本に帰れない」
前田光四世は、失墜した柔道の権威を取り戻すため、富田と袂を分かってアメリカに残った。
そして自ら柔道の強さを示すため、単身陸軍士官学校や大学で柔道の試合やデモンストレーションを行った。
前田は抜群の強さで誰にも負けなかった。
こうした活動に注目したアメリカ人の後押しによってニューヨークに道場を持った。
入門者は多かった。
前田は容赦なく指導した。
誰でも遠慮なくビシビシ畳へ投げつけた。
厳しい稽古の末、誰も道場に来なくなった。

跳びつき腕ひしぎ十字固め、通称「跳び十字」
佐藤ルミナ(総合格闘家)の跳びつき腕ひしぎ十字固め
前田光世は、道場のオーナーと相談し、新聞で1000ドルの懸賞金つきの真剣勝負を呼びかけ、公開の場で決戦することにした。
最初に挑戦してきたのは、世界一の怪力男、ヘビー級レスラーのブッチャー・ボーイ。
新聞は「史上初の異種格闘技戦」と書き、会場は超満員となった。
前田光代は、165cm、66kg。
ブッチャー・ボーイは、185cm、115kg。
試合は3本勝負。
両者、柔道着を着用。
関節技・絞め技・投げ技で戦い、「まいった」するか、失神、戦闘不能、レフリーストップで1本、あるいは両肩をマットにつけたら1本で、2本先取したほうが勝ちとなる。
試合開始後、前田は体落としや巴投げでブッチャーボーイをマットに叩きつけた。
8分過ぎ、首投げにきたブッチャーボーイを抱きついて投げ、両肩をマットにつけて前田が1本目先取。
その3分後、前田の跳びつき腕ひしぎ十字固めでブッチャーボーイは「まいった」し2本目を取り勝利した。
「実力を示し続けさえすれば柔道の真価は必ず理解される。
富田が貶めた柔道への評価などは取り返せる。
それには自分が勝ち続けることだ。」
この後も前田光世は、アメリカ各地を転戦し他流試合を断行した。

膝十字固め
ベアナックル(素手)のメキシコ人ボクサーと戦い、下からの十字固めで倒した。
中国拳法家は、蹴り足を掴んでの膝十字固めで勝利した。

柔道着を着ていないと使えない柔道の技もある。
相手の両肩をマットにつけたら勝ちだが、いくら投げても勝ちにならない。
確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに、前田光世は独自の戦法を編み出していった。
さらに開発は突き蹴りという打撃技にまで進んでいった。
「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」
それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別のものだった。
破門

「柔道は、究めるものであり、金をとり観客にみせるものではない」
アメリカで転戦する前田光世を講道館は破門した。
もともと前田は、講道館四天王の1人の富田が負けたため、柔道の真価をみせようと、敢えて異国に留まった。
しかし海外でのあまりに高い名声、次々に編み出される前田独自の柔道技術が講道館を嫉妬させ、恐れさせたのかもしれない。
前田は気にせず、アメリカを周り終えイギリスに渡った。
そしてヨーロッパを周った。
前田困る

1905年(明治38年)、26歳の前田光世はイギリス各地で柔道の指導や試合を行った。
1908年(明治41年)、ベルギーで異種格闘技戦、100戦100勝を達成した。
やがて「前田光世」の名が有名になりすぎ相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばなかった。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」はどうか。
伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
これがリングネームとなった。
「困る伯爵」ならぬ「コマ伯爵」というワケである。
このように前田光世は、陽気、調子にノリやすく、細かいことに気にしない、まるで子供のような性格だった。
ブラジルに魅せられる

1909年(明治42年)、29歳でメキシコへ。
1912年(明治45年)、32才で中南米(グァテマラ、ニカラグア、パナマ、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリー、アルゼンチン、ウルグアイ)を巡った。
1913年(大正2年)、ブラジルへ入った。
1915年(大正4年)、アマゾン川河口の都市:ベレンに到着。
1916年(大正5年)、アマゾナス州マナウスへ到着。
前田光世はブラジルのアマゾンの大自然に魅せられた。
そして決心した。
「アマゾン川流域開発に残る人生を賭けよう」
ここまでアメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
そのうち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
前田が敗れた試合は2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだものだった。
そのうちの1回が、ジミー・エチソン戦。
195cm、132kg。
世界レスリングチャンピオン大会の決勝戦でのものだった。
1917年(大正6年)、前田光世は、マナウスからべレン市に戻り、ここに永住することを決意し 、道場を開設した。

グレイシー柔術

1921年(大正10年)、前田光世は、ブラジル政府より70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移民で、ガストンはブラジル3代目で5人の息子がいた。
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは、前田に頼んだ。
「息子たちに柔術で鍛えてくれ」
こうして前田はガストンの息子たちに柔道を教えることになった。
前田は彼らに柔道の技術と精神を教えた。
1925年(大正14年)、前田に4年間みっちり柔道を習ったグレイシーの兄弟は、共同で「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田は、自分が講道館から破門されていたので「柔道」という言葉を使わせなかった。
末弟のエリオ・グレイシーは、身体が小さく、前田の柔術をさらに改良し、力を使わず誰にでも使いこなせる技術体系を完成させた。
この「柔術アカデミー」が、やがてグレイシー柔術となり、ブラジリアン柔術となるわけだが、グレイシー柔術の宗家は、ごついストロングスタイルのカルロス派と、合理的な技巧派のエリオ派に分かれている。
「おい、わしの柔道衣を持ってきてくれ 」

1927年(昭和2年)、49歳の前田光世は外務省事務を委託せられた。
1928年(昭和3年)、南米拓殖株式会社を設立。
1929年(昭和4年)、第1回アマゾン移民189名が到着しトメアスヘ入植。
1930年(昭和5年)、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化。
アマゾニア産業研究所設立。
1935年(昭和10年)、日本人会顧問として在留邦人のために尽力。
1940年(昭和15年)、日本政府よりブラジル移民の功績が認められ、皇紀二千六百年祭に招待されたが辞退。
1941年(昭和16年)11月28日午前4時5分、ベレン市の自宅で死去。
62歳だった。
最後の言葉は
「おい、持ってきてくれ
わしの柔道衣を・・・」
であったという。
真珠湾攻撃の10日前のことだった。
前田光世の死後、講道館は七段を贈呈。
現在でも史上最強の柔道家の1人として評価されている。

木村政彦 vs エリオ・グレーシー

木村政彦
木村政彦は、全日本選手権10連覇、15年間不敗、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれる不世出の柔道家だった。
戦後、師匠である牛島辰熊が起こしたプロ柔道に参加したが、半年ほどでその興行は下火となった。
木村政彦は、難病を患った妻のため、プロレスラーになることを決意し海外へ渡った。
1951年、木村政彦は、サンパウロの新聞社の招待でブラジルへ渡り、プロレスと柔道の指導を行った。
同年9月23日、木村に同行していた加藤幸夫とエリオ・グレイシーが試合を行い、エリオは加藤を絞め落とした。
エリオは、加藤だけではなく何人もの日本の柔道家を破っていた。
同年10月23日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、木村政彦とエリオ・グレーシーが対戦した。
ルールは、立技での一本勝ちは無し。
ポイント無し。
抑え込み30秒の一本も無し。
決着は、「参った(タップ)」か、絞め落とすこと。
木村は大外刈から腕緘を極めエリオの腕を折った。
しかしエリオは強靭な精神力でギブアップせず、木村も折れたエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。
試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングにかけ上がり木村の体をタップ。
木村政彦の一本勝ちとなった。
後に木村は
「何という闘魂の持ち主であろう。
腕が折れ骨が砕けても闘う。
試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」
とエリオを絶賛した。

前田光世の柔道が、最強の格闘技となり、日本に帰ってきた

UFCで優勝したホイス・グレイシー
1993年(平成5年)、アメリカのデンバーで第1回UFC(ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)が開催された。
これは真の格闘技世界一を決めようとする格闘技大会で、ルールは、目潰し、嚊みつき、急所へ攻撃以外は何でもあり。
このトーナメント大会で優勝したのは、ホイス・グレイシー。
エリオ・グレイシーの6人息子の1人だった。
ホイスは柔術着を着て戦い、圧倒的な強さでアッサリと勝った。

プライド1にヒクソン・グレーシー出場
nobuhiko takada vs rickson gracie pride 1 | mixed martial arts | Pinterest
1997年(平成9年)、日本の格闘技イベント「プライド」において、ホイス・グレイシーが「私の5倍は強い」という兄:ヒクソン・グレイシーがプロレスラー:高田延彦と対戦。
1Rで高田からギブアップを奪った。