将棋界への招待状
将棋連盟のホームページが改装されたのは2016年9月のことであった。
比較的新しい話と言えよう。
新しいホームページは読み物にも力を注いでおり、棋士・女流棋士を含めたライターが定期的に更新している。
将棋の関係者は棋書や観戦記など文筆に携わる機会が多い。
文筆家も昔から将棋や棋士を題材に筆をとる人は断続的に出現している。
なにかを書くということは棋士の得意技のひとつなのかもしれない。
《読む》のほうは言わずもがなであろう。

日本の名随筆 (別巻8) 将棋
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将棋連盟は将棋の普及、発展、伝統文化の向上、伝承を事業として意識している。
というと堅いが、要は「将棋をはじめたい人、将棋を知りたい人。連盟はあなたを歓迎しています!」ということである。
関係著作は日々増えており、NHK講座やネットでの将棋チャンネル、どうぶつしょうぎの存在やブログ・ツイッターなど将棋に関係した情報発信は年々増えているだろう。
のだが……
「で、何から見ればいいの?」
という状態になってしまうかもしれない。
そんな人が現れた時、または自身がそんな疑問を抱いた時、ひとつの指標となってくれるのが「タイトル戦」の存在である。
タイトル戦とは

タイトル戦の風景
第75期名人戦七番勝負第3局、5月1・2日(月・火)に「オリーブベイホテル」で対局|将棋ニュース|日本将棋連盟
将棋はスポーツと類似点が多い。ルールを覚え、練習し、仲間を増やし、腕に自信がついたら大会に出て成績を残る。将棋に限らずたくさんのプレイヤーがこの道を歩き続けている。
そして高校球児がプロ野球選手になってもその歩みは止まらないのと同じように、将棋少年少女が夢をかなえプロになってからも戦いは待ち受けているのである。
そのなかで特に大きな大会を《タイトル戦》と呼び、現在は7つある。
タイトル戦で優勝すると《タイトルホルダー》となり、通常1年間、その称号をつけて呼ばれることになる。
《羽生名人》という言葉を見聞きしたことがある人は多いだろう。
これは《名人戦》というタイトル戦に優勝し、結果として《名人》というタイトルを獲得したという関係なのである。
実はタイトルは大会ごとに更新されており、現在だと佐藤名人、久保王将、渡辺竜王に羽生三冠という状態になっている。
タイトル戦は7つある。それぞれの現状については連盟のコラムである、
将棋のプロ棋士ってどうやって稼いでいるの?その秘密は「七大タイトル」にあった!|将棋コラム|日本将棋連盟
がわかりやすく解説してくれている。
しかしこのタイトル戦、最初から七大タイトルであったわけではない。
「加藤一二三十段」という言葉をご存知の方もおられるかもしれない。
《十段》というのはかつてのタイトルだったのである。
今回は、この七大タイトル戦がいかにして生まれ、現在のかたちに至ったのか。
その誕生の物語を簡単にではあるがご紹介しようと思う。
名人戦
最も古いタイトルである。
最初の名人は初代大橋宗桂。1555年生まれで、生きていれば462歳ということになる。
もちろんというのもなんだが、初代大橋宗桂は1634年、79歳で亡くなっている。古い話であるからじゃっかん数字はずれるかもしれないが。
将棋における《名人》は彼以降26人誕生している。
それぞれを紹介するだけでとんでもない字数になってしまうので、今回は転機が訪れた1935年以降に話を絞ろう。
この年、《名人》は300年にわたる世襲制に幕をおろし、新しい戦いが始まった。
それまで名人位は家元制度、世襲制のようなかたちで進んでいた。
これは年功序列という意味では正しいのだが、若くして才能あった人物が名人位につけなかったり、在野に異常に強い人間がいて名人の地位継承に疑問がつけられたりと問題があった。
そんななか、13代目の名人関根金次郎が70歳で名人を退くことを発表。それからは
「名人戦を開催し、最優秀の成績をおさめた者が名人位につく」
ということになった。
1935年のことであった。
この《名人戦によって名人を選ぶ制度》を《実力制名人位制度》と呼んでいる。
羽生善治も森内俊之も加藤一二三も谷川浩二も実力で名人を奪取し、そして奪取された人物である。
名人に挑戦できる人数は限られている。
1年間かけて約10人の棋士が総当たりのリーグ戦を行い、最も成績が優秀であったものが現在の名人と七番勝負を行う。
先に4勝したほうが名人であり、挑戦者が勝てば新名人、現名人が勝てば連覇して2年目3年目、ということになる。
この、名人挑戦権をかけて戦う10人のことをA級棋士と呼ぶ。
A級棋士になるのには時間がかかる。
まずプロの棋士は四段から始まる。
すると基本的にC級2組からはじまり、C級1組、B級2組、B級1組、そしてA級と上がっていく。
もちろん年功序列なんてものではない。C級2組ならば50人、B級1組であれば13人でリーグ戦を行い、上位2、3位の成績をおさめて初めて昇級できる。
逆に下位成績2名は降級となる。
このクラス戦のことを順位戦と呼ぶ。
実際に名人をかけた七番勝負のことを名人戦、それ以外の戦いを順位戦を呼ぶ人が多い印象がある。
C2から始まり昇級が年1回。
ということはデビューしてからA級になるまで最短で4年が必要になる。
それを成し遂げた棋士は今までに加藤一二三と中原誠の2名しかいない。
彼らが伝説と呼ばれる所以のひとつであろう。

第74期名人 佐藤天彦
名人戦棋譜速報さんのツイート: "第75期名人戦七番勝負第1局は4月6日(木)。東京都文京区・ホテル椿山荘より中継いたします。ご期待ください。https://t.co/CenrIZECW8 #shogi #meijinsen https://t.co/6exZga1uTU"
九段戦(現、竜王戦)
大会を開き、優勝者がタイトルホルダーとなる。おもしろい制度じゃないか……というやり取りがあったとは限らないが、1950年、全日本選手権戦が《九段》というタイトルを設けた。
まず名人以外の人で戦い、名人に次ぐ実力者を決める。その人物が《九段》となる。
それを踏まえて名人と九段で五番勝負を行い(名人九段戦)、勝利した人物が全日本選手権者となる。
まだタイトル戦というシステムが確立しきっていない当時の面影がうかがえる。
1956年、名人九段戦が消え、タイトルとしての九段が登場する。
1962年、十段戦に名称が変更。
1987年、現在と同じ竜王戦に名称が変わっている。
実はこの九段戦、十段戦、竜王戦、それぞれに曰くというか、逸話がある。
本来、将棋に九段という段位は存在しなかった。
頂上に名人がいて、名人候補だと八段。
相当な実力者は七段、というような構図だった。
その証拠というわけではないが、実力十三段とも棋聖ともいわれた天野宗歩は実際だと七段で止まっており、宗歩の弟子で関西名人と謳われた小林東伯斎が通称八段半、実際八段であったという。
このあたりの事情が変わったのが1924年のことである。
将棋連盟の発足に協力したという数人が八段に昇段した。当時2名しかいなかったという八段が一気に3倍に増えたのである。
まだ名人戦が開催されていない頃の話なので、名人の競争率が3倍に増えたという見方もできた。
時代は異なっているうえ、「九段はあくまで名人より格下なので九段戦に名人は参加できない」なんという規定も存在していた。
だが、九段という名には「名人と比較しても遜色無い」という意味が変わらずにあっただろう。

九段
1962年。名称が十段戦に変更された。
実はこの名称変更、囲碁が関わっているという噂がある。
囲碁と将棋は江戸時代から比較対象になっていた。
歯に衣着せぬ表現をすれば囲碁の方が格が上だったらしい。
徳川家康が将棋よりも囲碁の方が好きであり、幕府の職としてはそうなってしまった。
こうなってくると仲が良かろうはずがない。
そんななか、囲碁のある棋戦が十段戦を名乗り始めた。1961年のことである。
誰が言い出したのだろう、
「将棋に十段は無いから、囲碁棋士の十段が現れたら将棋指しは例外無く上座を譲らないといけないのでは?」
という旨の話が広がったらしい。
結果、将棋のほうも十段戦と名を変えることと相成った。
一応、噂である。
ちなみにではあるが、将棋、囲碁ともに十段という段位が制定されているわけではなく、あくまでタイトルのひとつとして扱われている。

第55期 囲碁十段戦
第55期 囲碁十段戦(新着情報)
1987年。将棋の十段戦は竜王戦と名前を変えた。
記念すべき初代竜王を獲得したのは島朗。
彼が開催していた研究会(通称:島研)は羽生世代の培養土的な場であり、参加していた人物はことごとく竜王や名人を経験するというとんでもない会合である。
この話には「ただし島自身は名人を獲得していない」というオチもつく。
竜王戦はその後も《将棋界の革命児》と呼ばれる藤井猛、羽生善治と初代永世竜王の座をかけて争い3連敗からの4連勝で勝利を番勝負を制した渡辺明といった異才をおくりだし続けている。

島ノート
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王将戦
時は1947年に戻る。
動きの奔放さと明るさがウリであった辰巳柳太郎が、ひとりの将棋指しのを演じた。
タイトルは「王将」
大阪出身の劇作家・北條秀司が、同じく大阪出身の坂田三吉を描いた作品であった。
翌1948年には阪東妻三郎を主演として映画「王将」も公開される。
1950年。将棋界のほうでも《王将戦》が登場した。
翌51年、タイトル戦の扱いになる。
これがまたとんでもない事になった。
駒落ち将棋というものがある。
文字通り上手が下手に対して駒を落とすもので、飛車だったり香車だったりが抜ける。
プロがアマなどに行う指導対局で行われるのが普通だが、それとは別に《指し込み》というものが存在している。平手で数回勝負し、どちらかが連勝した場合、勝った方が駒を落とすという制度である。
王将戦はこれを採用した。
で、第1回大会で升田幸三が登場。
当時の木村名人に対してまたたく間に3連勝をあげ、《名人に対してハンデ戦を行う》という前代未聞の時代を発生させたのである。
木村は八段に昇段した時、先輩の八段格全員に対して同じことを行ったという。これは偉業なのだが、痛烈すぎるしっぺ返しをくらったかたちになった。
「木村が升田に指し込まれる」だけならまだしっぺ返しで済んだ話かもしれない。
だが「名人が指し込まれる」となると、江戸時代であれば何人か詰め腹を切らねばならない事態にもなりえた。玉音放送を聞いた時以上の衝撃だった、と語る棋士もいた。
そして升田は、対局を拒否した。
またもや大騒ぎとなったが、当事者の名人木村義雄が事態を収拾し、3年後、升田はある名人にハンデ戦を行う事態を発生させる。
このあたりの顛末は《陣屋事件》と呼ばれている。
何かと語り草の多い升田幸三でも指折りの逸話であろう。

坂田三吉
阪田三吉 - Wikipedia
王位戦
最初にある大会が開催され、数回開催しながら整備されタイトル戦に発展する、という流れが存在している。
1960年。
北海道新聞社、中日新聞社、西日本新聞社が主催する《三社杯B級選抜トーナメント》が《王位戦》に名を変えた。
予選はトーナメントで行い、それぞれでトップになった人物が《紅組》と《白組》にわりふられる。
それぞれの組のトップが挑戦権をかけて戦い、勝利すると王位戦七番勝負に登場するという仕組みである。
この戦い、ドリームの気配が濃厚である。
本来タイトル経験者や前大会の成績優秀者にはシード権が付与される。
将棋の場合は別の大会とリンクしていることがあり、例えば名人位であれば他の大会でもある程度のシードの位置が用意されていたりする。
王位戦はそんなことしない。容赦なく予選をやる。
例えば第57期(2016年)の王位戦では郷田王将、渡辺明棋王、糸谷竜王が軒並み予選を通過できずにいる。
番勝負挑戦者がタイトルホルダーということが珍しくない世界においてこの過酷さは独特である。
この結果だけを見ると「タイトルホルダーって案外大したこと無いんじゃないの?」と言えてしまうかもしれない。
2017年5月現在、第58期王位戦の予選は終わっている。
挑戦者決定リーグ戦、白組のなかに渡辺竜王と佐藤名人の名前が存在している。
大会開始時の名前で登録されるため称号こそ異なっているものの当然、同一人物である。
タイトルホルダーはすなわち優勝経験者である。勝負強く、経験が豊富で、大勝負が多い。
郷田王将は惜しくも予選最終戦で阿久津主税八段に敗れてしまった。阿久津八段はタイトルの経験こそ無いが、A級在位経験がある強豪棋士のひとりである。
なお、お察しの方も多いだろうが第57期の名人、王座、王位、棋聖は羽生である。
58期の王座、王位、棋聖も羽生である。

第57期王位戦七番勝負第7局
王位戦中継サイト
棋聖戦
名人であったわけではないが、名人並あるいはそれ以上の力を持っていたのではないかという人物がいる。
えてしてそういう人物はどこか不遇であり、また、当人も破天荒な性質を持っていることが多い。
天保、弘化、嘉永、安政といった時代に活躍し、将棋に生きた男、天野宗歩。
ついたあだ名が《実力十三段》。
後世では《棋聖》とも呼ばれる。
1962年。棋聖戦が登場する。
当時のタイトル戦番勝負が数日かけて1局を行うものであったのに対し、棋聖戦は初の1日制対局を採用した。
これにも噂がある。
1日制なのは、抜群の棋力を持っておきながら体力に足をひっぱられる升田幸三にタイトルを取らせるためだ、というものである。
どうだろうか。
升田は朝日新聞社の嘱託であり、棋聖戦の開催は産経新聞社である。
1日制であり、しかも「年2回開催」という特徴を持った棋聖戦であったが、創設から第7期までは升田の弟弟子、大山康晴名人が独占した。
開催側に何かしらの思惑があったかどうかは謎である。
だがもしあったら、どんな勝負でも引き受ける男と床に落ちた勝負は拾わない男ということでまた何かしらの逸話の種になっていたかもしれない。
棋聖戦は1995年から年1回開催になった。

棋聖 天野宗歩手合集
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棋王戦
1954年。共同通信社は《九、八、七段戦》を開催していた。
これが後に《日本一争奪戦》そして《最強者決定戦》と名を変え、1975年から《棋王戦》というタイトル戦になった。
《九、八、七段戦》とは別に《六、五、四段戦》もあり、こちらは《古豪新鋭戦》、《名棋戦》と名前を変えてから1981年に棋王戦に合流している。
じゃっかんややこしい経歴を持っている。
そもそもタイトル戦というのは大会の一形式である。
大会であるからには主催がいて、対局料を支払うスポンサーが必要となってくる。
将棋の大会の開催は大半が新聞社である。
では、新聞社は棋士から何をもらうのか。
棋譜をもらうのである。社名がついた服を着てもらうわけではない。
タイトル戦の仕組みがおおいに発展したのは戦後が中心である。
当時は新聞というのが生活必需品であり、たいへんな情報源であった。
そして新聞社側からすると、他の新聞を読まずにうちの新聞を読んでもらうためにどうすれば良いか、ということを考えていくことになる。
いくつかの試みがあった。そのうちひとつが将棋であったのである。
将棋指しと新聞の繋がりは古く、例えば坂田三吉は1908年に大阪朝日新聞の嘱託になっている。
すると大阪朝日新聞は坂田三吉の将棋を掲載することができるようになる。
坂田三吉の棋譜が読みたければ大阪朝日新聞を読めば良い、という仕組みだ。
当時の将棋指しはプロ野球選手やグラビアアイドル的存在だったのかもしれない。
こういう背景があるから、朝日の嘱託の升田幸三と毎日の嘱託の大山康晴は兄弟弟子でありながら仲がこじれたという話もある。
棋王戦創設期にある試行錯誤めいた名称変更にはこのような事情も関わっていたかもしれない。

若かりし加藤一二三九段
加藤一二三に関するトピックス:朝日新聞デジタル
さて、最近棋王戦でとある記録が出現した。
タイトル戦には永世位、名誉位というものがある。
通算、あるいは連続でタイトルを獲得すると引退後などに名乗ることができる。
米長邦雄永世棋聖という呼び方を聞いたことがある人もおられるだろう。
名人であれば通算で5期獲得すると永世名人という称号がもらえる。
では永世棋王になるための条件は何か。
《連続5期獲得》
である。
「永世棋王」で検索をかけると「永世棋王 難しい」と予測検索がでてくる。
2017年3月27日。
第42期棋王戦五番勝負は第5局、渡辺明棋王の勝利で幕を閉じた。
これによって渡辺棋王は連続5期獲得、羽生善治につづく2人目の永世棋王の誕生であった。

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王座戦
1983年《第31期王座戦》が開催された。
31期ではあるが王座戦としては初の開催であった。それまでは《世代別対抗将棋戦》という名前だったのである。1953年から開催されていた比較的古い大会であった。
王座戦についてはひとつのことをご紹介しておけば十分だろうと思う。
31期にして初代王座は中原誠である。
現在64期が終了しており、年1回開催なので通算34人の王座が登場していることになる。
そのうち24人は羽生善治である。当然のように今年も防衛した。
また中原名人は永世位の名誉王座を所持している。通算6期。
今まで将棋界に誕生した34人の王座のうち、30人がこの2人である。

中原誠永世名人
中原 誠永世十段・名誉王座が永世名人(十六世名人)を襲位|将棋ニュース|日本将棋連盟
これからのタイトル戦
2017年2月。
14年間にわたって羽生善治と名人位を独占していた森内俊之九段が順位戦から身を引くことを表明した(フリークラス宣言)。
4月。
将棋連盟会長の佐藤康光九段が紫綬褒章を授与された。
羽生にとって佐藤と森内は《島研》の同窓にあたる。
年齢もほぼ同じで45歳を超えたところ。
羽生善治はこれからも変わらず勝負を続けていくのだろうか。
あるいは弟子多き森内のように後進の育成に力を傾けるのか、佐藤のように運営のことを視野に入れていくのか。
来月6月1日からは棋聖戦五番勝負が開催される。
羽生棋聖は9連覇中。
相手の斎藤慎太郎七段は2012年にデビューしてからすでに3回昇級しており、詰め将棋選手権で連覇している注目の存在。
世代交代という逆風がふいているとしたら、羽生はその影響を受けるのだろうか?
あるいは今後のタイトル戦を占う番勝負が展開されるのかもしれない。