”小兵(こひょう)”とは??
小兵とは大辞林 第三版の解説によると
①.体の小さいこと。また、その人。小柄
②.弓を引く力の弱いこと。また、その人。 「精兵の射る矢は裏をかく。-の射る矢は筈を返し
て立たざりけり」
となっている。
単純に、小柄な人を表現する言葉であるが、特に、相撲界では周りの力士が殆ど大型であるため小兵力士は目立つ存在である。
小兵力士は新弟子検査でも問題児が多かった!?

頭にシリコンを入れたと直ぐに分かる朝日山利秋親方
力士になるためには相撲部屋に入門する前に、新弟子検査に合格しなければなりませんが、小柄な人にとっては身長が問題となる傾向が多かったようです。体重は暫く、食っちゃ寝、食っちゃ寝を繰り返せば大抵はクリアーできました。
日本相撲協会の資格基準には15歳以上23歳未満の義務教育を終了した男子で、身長173cm以上、体重75kg以上(現在は身長167cm,体重67kg以上の者を対象)とすると定められています。
規定身長に満たない人は無条件で力士になることができませんでした。そのため、低い人は髪の毛を固く固めて、身長をごまかす人もいました。(舞の海もトライしたが、あえなく失敗!!)
もし、髪の毛を固めても、規定身長に足りない。でも、どうしても力士になりたい。その場合は、頭にシリコンを入れて身長を伸ばすしか方法がありませんでした。
まずは相撲取りになるための、一番最初の関門です。

新弟子検査の様子
技のデパート舞の海!頭にシリコンを埋め角界へ!猫だましに騙された! - Middle Edge(ミドルエッジ)
筋骨隆々・寺尾!18歳の貴花田に敗れ、さがりを花道に叩きつけた!1勝14敗でも貴乃花に勝ちたい!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
史上最強の力士と言われる横綱「千代の富士」の強さを画像と動画で振り返る - Middle Edge(ミドルエッジ)
大相撲【曙vs若貴】この対戦がとにかくアツかった!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
小兵力士として、誰を思い浮かべますか?
私は、活躍した年代や相撲の型など全然考慮せず、頭に思い浮かんだままに、列挙しますが、明武谷、舞の海 旭道山、寺尾、鷲羽山、初代若乃花、初代貴ノ花、千代の富士、石浦、宇良あたりでしょうか!?
舞の海、寺尾、千代の富士などはミドルエッジで紹介済ですのでこの記事には割愛させて頂きます。また、石浦、宇良は現在活躍されていて、ミドルエッジの趣旨に反するので書かない旨、ご理解下さい。
私が小兵力士として一番に思い出すのは、明武谷力伸関です。

明武谷力伸関
1937年4月29日、北海道阿寒郡阿寒町(現:北海道釧路市)で開拓農家を営む家に三男として生まれる。既に小学6年生で身長が176cmに達しており、さらに力が強かったことで両親から家業を手伝わされたが、清少年は家業を手伝うのが大嫌いだったそうで、1953年に羽黒山政司・吉葉山潤之輔一行が地元へ巡業に来た際に、吉葉山と親しかった郷里の元三段目力士と共に宿舎を訪問し、ちゃんこを御馳走になったことで喜んで実家へ戻り、両親に報告して入門を打ち明けた。しかし両親からは大反対されたことで対立したが、通っていた雄別中学校の校長からの口添えで両親を説得し、高島部屋へ入門、1954年3月場所で初土俵を踏んだ。
高島部屋へ入門してからしばらく経ったある日、吉葉山が現役中に設立した「吉葉山道場」(後の宮城野部屋)へ移籍した。1958年11月場所で新十両昇進を果たし、1959年7月場所で新入幕を果たした。この場所は7勝8敗と負け越し、1場所で陥落したものの、3度目の入幕後は幕内に定着した。気の弱さから取組・稽古などへの積極性に欠けていたが、周囲からの忠告を受け、さらに部屋頭としての責任も感じるようになってからは自分にも若い者にも厳しくなった。
長身を生かして左四つからの吊り・上手投げで人気を博し、さらに上位力士に強く、1961年9月場所では場所後に横綱へ昇進する大関・大鵬幸喜と、大関・柏戸剛との優勝決定巴戦を行い、幕内最高優勝こそ果たせなかったものの敢闘賞を受賞する活躍を見せた。三役・三賞受賞の常連として大関昇進を期待されたが、ちょうどその頃は一門に三役以上に番付を得る力士が自身以外に清國くらいしかいなかったため系統別総当たり制の下で不利に立たされ、柏戸に対して優勝決定戦を含む19戦全敗と全く歯が立たなかったり、昇進を目前とした1965年3月場所の初日と2日目を連続して勇み足で落として失速するなど、結局昇進の夢は叶わなかった。それでも筋肉質な長身と彫りの深い顔は外国人女性に人気があった。
1967年頃までは右上手を取ると力が出たが、それ以降はがっぷり四つになっても強くなくなり、外掛けを喰らって敗れることが増えた。1969年11月場所を最後に現役を引退して年寄・中村を襲名、宮城野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たったほか、勝負審判も務めた。
私の記憶が正しければ、あだ名を人間起重機と言われ特に右上手だけでも、よく太ったアンコ型力士をつり寄りで攻め立てていました。あと、彫りの深いマスクで女性に人気がありました。
あの大鵬にも連続で勝っていたこともありました!!。
明武谷力伸関は正確に言うと、”小兵力士”ではなく、”ソップ型(やせの筋肉質型)かもしれませんね!?
次は衆議院議員でもご活躍された旭道山和泰関

旭道山和泰関
1964年10月14日に東京の三軒茶屋の小児科病院で長男として生まれる。未熟児として生まれ、黄疸・小児喘息が出ていて、交換輸血を3回した。三歳の時に母方の実家である鹿児島県へ転居した。父親は離島の閉鎖的な生活に馴染めず別居をしたことで、長男として3歳年下の弟などの世話をして母親の手助けをしていた。母親からは「泣いては駄目。けど・でも・たら・ればの言い訳はするな。」などと教育された。
小学校4年生の頃より、剣道、バレーボールなどのスポーツで名をはせていて、陸上競技でも島大会で200mの記録も保持していた。中学3年の時には、学校内の持久走大会で1位になっている。
高等学校へ進学する予定だったが、母親の知人が相撲部屋の後援会の会員で、高砂部屋に入門の話をしたが、「体が小さく、もっと大きくなってからいらっしゃいね」と断られた。次に、まだできたばかりの大島部屋に補充要員として面接もせずに入門した。その時、母親から「あんたは男でしょ、人生かけてらっしゃい、3年我慢して、もしだめだったら ちゃんこ屋でもやればいいじゃないの」と言われ、本人は男としての役目だと思い入門を決意した。しかし、本人は相撲を取ったこともなく、興味もなかったそうである。
入門時は身長178cm、体重58kgという小柄な体格で、新弟子検査日の1時間前の体重は65kgしかなく、豆腐・うどん・餅・おじや、最後に水で体重を増やし、検査規定の70kgぎりぎりで通過した。1980年5月場所にて初土俵を踏み、翌7月場所では序ノ口優勝をした。優勝の賞金は、母親へ中古だったが指輪をプレゼントする資金の一部にした。1988年7月場所に新十両昇進。身長180cm、体重88kgで、十両3場所連続で勝ち越した。1989年翌1月場所に新入幕を果たした。その時は、9勝を挙げて初の三賞となる敢闘賞を受賞した。そのときの体重は98kgだった。軽量力士は舞の海といわれているが 最高体重は115kgであり、入幕当初は体重が98kg、最高体重が106kgの小兵軽量力士は旭道山だった。
運動神経が良く、立ち合いに頭で当たってから相手に食い付く正攻法の取り口で、右を差してから廻しを取ると粘り強かった。さらに投げや張り手もあることから「南海のハブ」という愛称が付けられた。入幕後は細い身体ながら、どんな対戦相手でも逃げずに真っ向勝負を挑んだことで負傷が多かった。
現役力士時代の1996年10月に、第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例区で立候補するために、突如廃業届を日本相撲協会に提出した。同時に、大島親方も進退伺いを書面で理事長に提出した。ただ、この時は「相撲協会としては応援出来ないが、私個人としては応援するから、この廃業届は後で考える。しかしもう力士としては相撲は取れないな、でも頑張れよ」と出羽海理事長に言われ、保留扱いとなった。
比例近畿ブロック10位で、新進党の当選者156人のうち、153人目としてぎりぎり当選を果たした。この後正式に廃業届が受理され、同年11月場所の番付に四股名を残したまま、国会議員としての活動を開始した(断髪式までは丁髷姿のまま登院した)。しかし前例がなかっため、名前・丁髷・服装に関して議院運営委員会で議題に上がった。審議の結果としてこれらは認められ、第一礼装の羽織袴の着用が決まった。
旭道山関と言えば、何と言っても得意の張り手で取組相手を失神・KOさせた取組は、後に語り草になるほど有名である。
小兵ながら突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く土俵を沸かせた鷲羽山佳和関

鷲羽山佳和関
岡山県立琴浦高等学校(岡山県立倉敷鷲羽高等学校)を中退して、兄(後の十両・常の山)が所属していた出羽海部屋から1967年(昭和42年)3月場所で初土俵を踏んだ。初土俵の際に同姓の力士が既に在籍しており四股名選びに困っていたところ、入門前に常ノ山が切り盛りしていた料理店で本人と面識を持った縁で常ノ山の若名乗りである鷲羽山を与えられ、以後引退まで鷲羽山で通す。因みに四股名の由来である鷲羽山は彼の実家のすぐそばにあり、本人曰く「あまりに平凡で嫌だった。知り合いから電話があっても近所の山の方と混同されそうで恥ずかしかった」といい、私生活で恥じることなくこの四股名を名乗ることができるようになるまで襲名以降1年から2年を要したという。身長173cmという入門規定ぎりぎりで合格し、小さい体で活躍した。1972年(昭和47年)7月場所で十両に昇進、その場所は全休するも公傷制度に助けられて番付は落ちなかった。それがその後の昇進に大きく影響したので、公傷によって救われたケースといえよう。
新入幕を果たした1973年(昭和48年)5月場所では、初日から8連勝するとともに大関・清國を破る殊勲の星を挙げるなど11勝4敗と大勝ちし、この好成績で敢闘賞を受賞した。1977年(昭和52年)7月場所では、殊勲・敢闘賞が該当なく、技能賞の彼だけが三賞受賞者となるという珍しい状態になったこともあった。小柄ながら突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く土俵を沸かせた。小兵力士ながら36歳まで現役を務めており、大型力士が輩出した時代の中では特筆される。
土俵の鬼と呼ばれた戦後最軽量横綱の初代 若乃花 幹士

初代 若乃花幹士関
青森県のりんご農家に生まれ、昭和29(1934)年の室戸台風で農園が全滅し、北海道へ移ります。昭和21(1946)年に二所ノ関一門の巡業の際に、飛び入り参加で力士に勝ったのがきっかけで二所ノ関部屋に入門しました。
昭和21(1946)年11月に初土俵、昭和24(1949)年5月に新十両、昭和25(1950)年1月には新入幕を果たしています。
後にプロレス入りする兄弟子・力道山との猛稽古の際にあまりの厳しさに力道山の脛にかみつき部屋から脱走し隅田川に飛び込んだという逸話があります。(力道山のプロレスでの黒タイツは、この古傷を隠すためともいわれています)
入門後、順調に番付を上がっていき、3年足らずで十両昇進を果たしますが、弟弟子たちとの昇進祝いの祝杯でお金が足りなくなり、当時の横綱・東富士に借金をしたことが問題となります。
除名になりかけますが、羽黒山の取り成しで免れます。
足腰が強く、俵に足がかかると梃子でも動かず「踵に目がある」といわれ、110キロに満たない軽量ながら大型力士相手でも正攻法で相手をねじふせる相撲を取り、軽量の小型力士が取る相撲とは常識の外れた取り口から「異能力士」といわれました。
その足腰の強さを利した技に豪快な「呼び戻し」がありました。若乃花の強さは強い足腰でも特に膝のバネの強さにあったといわれます。土俵に取り組む姿勢から「土俵の鬼」と変わります。
昭和28(1953)年、二所ノ関部屋から師匠の大ノ海が引退した際に、ともに独立し花籠部屋(独立直後は芝田山部屋)に移ります。小部屋ゆえの苦労もありましたが、猛稽古で補い、さらに昇進していきます。
昭和31(1956)年1月に大関に、昭和33(1958)年3月に横綱に昇進します。同年9月の場所前に長男がちゃんこ鍋をかぶって火傷で亡くなる不幸に見舞われますが、数珠をかけて場所入りし、12日目まで連勝を重ねます。
前々場所が決定戦で敗れ優勝同点、前場所が決定戦を制し初優勝をしていた若乃花には横綱昇進もかかっていました。
無言で場所入りする姿は、鬼気迫るものがありましたが、12連勝した翌日から高熱で休場、千秋楽には再び出場を決意し、栃錦との割も組まれますが、再び病状悪化で出場断念となりこの場所は12勝2敗1休み(2敗は不戦勝)に終わります。
栃錦清隆とともに「栃若」時代を築きます。栃錦との対戦は白熱の対決が多く、水入りになることもしばしばで、大いなる人気を博しました。
対戦成績は栃錦の19勝15敗(優勝決定戦を含めると19勝16敗)でした。
(対戦成績には若乃花休場による若乃花の不戦敗が1回あり)
昭和34(1959)年5月に1敗で全勝の栃錦を追走していた若乃花は千秋楽の本割で下し、優勝決定戦も勝っての逆転優勝をします。
昭和35(1960)年3月には栃錦との千秋楽全勝決戦を制し優勝をします。
引退後は年寄・二子山として横綱・若乃花(2代)、隆の里や大関・貴ノ花を始め多くの幕内力士を育てる一方で春日野理事長の下では春日野を補佐し、春日野勇退後はその後を継ぎ理事長に就任し、立ち合いの正常化などの改革に尽力しました。
私はあいにく、「栃若時代」の本当の興奮を知る人間ではありませんが、物心が付いて来た頃に白黒テレビで何回か見た覚えが朧気ながらあります。子供心にも腕っ節が強いんだなと感じました。
角界のプリンスと呼ばれ人気を誇った貴ノ花利彰関

貴ノ花利彰関
力士としては細身の体型ながら、正攻法の相撲と甘いマスクで「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を誇った貴ノ花。1968年11月場所で史上最年少(当時)の18歳8カ月で新入幕を果たすと、4年後の11月場所には大関昇進を果たした。
その後、ライバル輪島をはじめ、高見山や北の湖らと数々の名勝負を繰り広げ、相撲人気を支えた。特に1975年3月場所で初優勝を飾った際には、会場中に座布団が舞い上がって、多くのファンが熱狂。テレビ中継は、50.6%の高視聴率を記録した。
しかし、同年9月場所で2度目の優勝を果たしたのをピークに、以来優勝することなく、期待された綱取りも実現することはなかった。そして、当時では最多の大関在位50場所目(現在は千代大海と魁皇の65場所が歴代1位)となった1981年1月場所、6日目の蔵玉錦に敗れて土俵から去ることを決意。翌朝、引退を表明した。貴ノ花は会見で「人気は負担だった」と語ったが、のちにふたりの息子たち(長男・若乃花勝と次男・貴乃花光司)も相撲界で躍動し、空前の「若貴ブーム」の張本人となった。
「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱・北の富士戦(1972年(昭和47年)1月場所8日目)は、立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵についた[1]。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした(貴ノ花は既に「死に体」だと判断された)。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた立行司25代木村庄之助は千秋楽まで謹慎となり、翌3月場所前には廃業に追い込まれる事態となった。当時の映像(正面から)を見ると、どちらが有利か際どい内容である。一方、死に体の判断では足の形が重要な基準となるが、写真を見ると(東方からのものが多い)貴ノ花の両足はつま先立ちながらも、足の指でしっかりと土俵を噛んでおり、北の富士をうっちゃろうとする力にあふれているようにも見える。
「かばい手」、「つき手」論争については、現在ではビデオ判定などが、導入されていて、誤審が起こりずらくなっていますが、私の私的な意見としては「取り直し」が一番、双方にとってよかったのではないかと思っています。