貴乃花  決して曲げず 貫き通したチカラビト SUMODO

貴乃花 決して曲げず 貫き通したチカラビト SUMODO

千代の富士、小錦、武蔵丸、朝青龍、兄、若乃花、数々の名勝負。宮沢りえとの破談、兄との確執、洗脳騒動、母親の不倫など数々のスキャンダル。小泉純一郎に「「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」」といわせた武蔵丸戦とその後のケガとの戦い。中卒でプロの相撲の世界に入った貴乃花は、嵐のような人生を職人的なプロフェッショナリティーで、ガンコに、一途に、真っ直ぐに進んでいった。


後の貴乃花、花田光司は、田中角栄が首相となり、ミュンヘンオリンピックが開催された1972年の8月11日に生まれた。
父親は、初代貴ノ花(花田満)
母親は、元女優の藤田憲子(現:紀子)
兄は、前年1月に生まれた勝(現:虎上)
このとき父親の初代貴ノ花は22歳。
貴乃花が生まれた1ヵ月後、9月場所の千秋楽でライバルで親友の輪島に熱戦の末に敗れたものの、場所後、大関に昇進。
3年後には横綱の北の湖に勝って初優勝を果たした。
体重110kg前後と力士としては細身の体で巨漢力士とわたり合う姿は「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を誇った。

初代貴ノ花の師匠は、実兄の初代若乃花(花田勝治)
横綱として一時代を築き、「仏壇返し」は豪快に決め、「土俵の鬼」といわれた。
現役引退後は二子山部屋の師匠となった。
初代若乃花は7人兄弟の長兄、初代貴ノ花は末弟で年齢は22歳も離れていた。
末弟が入門を志願したとき、長兄は猛反対。
最後は兄弟の縁を切ることを条件に認め、入門後は徹底的に厳しく接した。
初代貴ノ花は、親方だけでなく兄弟子たちからも凄まじいかわいがりやしごきを受けた。
その体には刺し傷の跡さえあったという。

大相撲は、本場所と地方巡業があって

1月、初場所、両国国技館(東京)
3月、春場所、大阪府立体育会館
5月、夏場所、両国国技館
7月、名古屋場所、愛知県体育館
9月、秋場所、両国国技館
11月、九州場所、福岡国際センター

と奇数月に本場所が行われ、1回の場所の期間は15日間。
東京で行われる場所は部屋から通うことができるが、大阪、名古屋、九州場所では開幕半月前には現地入り。
また偶数月には全国各地で1日限りの地方巡業が行われる。
だから力士は1年の半分を東京以外で過ごす。
初代貴ノ花も家にいる時間は少なかった。
現役時代の父親を、兄の勝は寝そべったり、駈けずりまわったりしながらみていたが、弟の光司はテレビの前で正座してみていたという。

初代貴ノ花は、息子たちに「力士になれ」とは1度もいわなかった。
それどころか兄弟を、1学年1クラスの進学校、私立東京文化(現:新渡戸文化)小学校に入れた。
そのとき光司が1番仲がよかった友達は東大教授の息子だったという。
1981年1月、初代貴ノ花が引退。
ケガを重ねながら小さな体で土俵に上がり続け、大関在位50場所はダントツの最長記録。
しかし最強の称号は手に入らなかった。
ひたすら相撲に打ち込む父親をみて、いつか横綱になると信じていた8歳の光司は、悔し涙を流した。
「俺が力士になってお父さんの代わりに大関の上にいってやる」

引退して1年後、初代貴ノ花は兄の二子山部屋から独立し、中野区に藤島部屋を興し、藤島親方となった。
それに伴い、兄弟も引越し。
新しい家は、4階建てのビルで、1階が稽古場、2階が弟子が暮らす大部屋、3、4階が花田家の自宅。
このときテレビ取材が入り、後のバナナマン日村のモノマネの元ネタとなった。


兄弟は桃園第三小学校に転校。
小5の勝、小3の光司は「わんぱく相撲」に出た。
わんぱく相撲は、23区の小学校の3~6年生が、低学年の部、高学年の部にわかれて行う個人トーナメント戦。
まず各区で予選大会が行われた後、23区代表選抜選手権が行われる。
10歳にして100kgを超え「肉丸くん」と呼ばれていた勝は杉並区大会を優勝。
8歳の光司は負けてしまったが、次の年、杉並区大会、本大会と勝ち上がって「わんぱく横綱」になった。

また光司はドラマ「あばれはっちゃく」への出演依頼を受けたこともあった。
元女優の母親はかなりノリ気だったが、父親は断固反対、本人も断固拒否した。

←まわし

わんぱく相撲での活躍をみた明大付中野中学の相撲部監督、武井美男が、兄弟をスカウト。
2人は時期を前後させて同校に進学。
全国大会で何度も優勝している相撲部に入り、四股、鉄砲、すり足、まわしの切り方など初めて本格的に相撲を学び、明大付高校や明治大学ともよく稽古した。
明大付中野高校の夜学には、ジャニーズ事務所所属のタレントなど多くの芸能人が通っていて、練習が終わった後、彼らが楽しそうにやっているの横目にみながらクタクタの体で帰っていった。

光司は中3のとき、団体戦では全国大会で優勝しながら、個人戦は予選負け。
負けるはずのない相手に緊張して負けてしまった。
自分の精神的な弱さを痛感した光司は、中3の12月、
「中学を卒業したら藤島部屋に入門させてください」
と父親に志願。
明大付中野高校に進んでいた17歳の若乃花も、高校を中退して入門することを志願。
藤島親方は
「1週間考えさせてくれ」
と即答を避け、藤田憲子は
「早過ぎる」
と泣いて反対。
やがて藤島親方は、光司に
「入門は認める。
だがお前は外に出す」
と告げた。
兄は自分がみて、弟はどこか他の部屋に預けるということだったが、話を聞いた二子山親方(初代若乃花、花田勝治)に
「我が子を外に出すなんてダメだ」
と反対され、結局、兄弟2人で藤島部屋入門が決まった。

兄弟は、早速、稽古場に下りて参加するようになったが、この時点で17歳の勝はすごい足腰をしていて、15歳の光司もすでに握力が95kgもあって、序の口力士で兄弟に勝てる者はおらず、当時、三段目だった悟道力も羽目板に叩きつけられた。
「この頃から貴乃花(光司)は大きい相撲だったけど、若乃花(勝)はゴツゴツして痛かった(笑)
でも2人ともとにかく強かった」
(悟道力)
力士は、その力量と成績で「番付」され、給与や待遇が違ってくる。
番付には階層があって、上から

幕内
(入れるのは42人。
上から「横綱」「大関」「関脇」「小結」「前頭」)

十両
(「関取」と呼ばれ1人前と認められる。
髪は大銀杏、紋付の羽織と袴、白い足袋に雪駄)

幕下
(髪はちょんまげ、着物・羽織、黒い足袋と雪駄)

三段目
(髪はちょんまげ、着物・羽織、素足に雪駄)

序二段
(髪はちょんまげ、着物・羽織、素足に下駄)

序ノ口
(髪はちょんまげ、着物しか着れず、素足に下駄)

となり、さらにこの下には番付に入れない力士たちがいる。
このように大相撲は横綱を頂点とするピラミッド社会。
体重無差別の大相撲は、体重階級制の格闘技のようにたくさんのチャンピオンがいない。
横綱が頂点で最強となる。

幕下以下の力士は、大部屋に住み、電話番や掃除、洗濯、ちゃんこ番などの仕事を行う。
まず番付、そして先輩後輩、年下年上、複雑な上下関係があり、理不尽な行いやイジメも発生しやすい。
相撲部屋では「チンコロ(チクリ、告口)」はタブー。
仮に新人がなにかあって親方に訴えても、それは兄弟子に伝わり、
「シメとけ」
となってしまうケースも多い。
藤島部屋はそういう陰湿な空気は薄かったが
「新弟子なんていうこときかなかったら下駄を食らわすんだ」
というような荒っぽい雰囲気はあった。
しかしそれも兄弟が入ることで変化。
藤島親方の命令で電話番も掃除も洗濯もちゃんこ番も
「雑用は全員でやる」
「自分の仕事は自分でする」
というようになった。
これについて当時、幕下だった貴闘力は、
「雑用係がいなくなってフテくされる先輩衆もいたが、結果的によかった。
先輩だろうが自分のことは全部自分でやるのが正解。
最初は文句いうやつもいたけど、それが当たり前になってくるとみんな強くなったもん。
若貴にしても朝から晩までコキ使われていたら1年半で十両なんか絶対上がんないから。
2人は雑用する暇がないほど稽古していたし、稽古をできる環境をつくったっていうのはよかったんじゃないの」
といっている。
さらに兄弟が入ると大部屋は、クーラーや洗濯機など電化製品が増えて快適さが増した。
「若貴に特別扱いされたいのか?って聞くと、貴乃花は『されたくないです』、若乃花は『されたいです』って(笑)
本当に貴乃花は真面目で一徹。
若乃花は現在っ子だった。
なんかあるとすぐに親方や女将さんにいうから筒抜けになる(笑)」
(悟道力)

1988年2月、正式に入門となった日、兄弟は実家を出た。
といっても3階の自宅の玄関からジャージ姿で着替えが入ったバッグを持って2階の大部屋に移るだけ。
それでも藤田憲子は涙を流して見送った。
これ以降、「お母さん」ではなく「女将さん」、父親も「お父さん」ではなく「親方」「師匠」と呼ばれるようになった。
大部屋に入ると、2人は挨拶と自己紹介。
翌日から稽古を始めた。
4時半起床。
基本の反復をしてから実戦形式の練習。
兄弟は何十番も連続で兄弟子にぶつかっていった。
倒されたらすぐに立ち上がって、呼吸を整える暇もなくすぐにぶつかる。
すぐに起き上がらないとすかさず親方の罵声が飛んできて、それは100番におよぶこともあった。
朝の稽古が終わると兄弟子の風呂や食事の支度。
残ったチャンコをかきこむとすぐに掃除や洗濯が待っていた。
雑用が終わると大部屋に布団が敷き詰めて雑魚寝。
ハードワークによって入門時、120kgあった貴乃花の体は、みるみる90kg台まで落ちた。

入門して1ヵ月後、兄弟は新弟子検査に合格。
1988年の3月場所で兄、勝は「若花田」弟、光司は「貴花田」という四股名でデビューした。
このとき初土俵を踏んだ同期は95人。
この中で関取(十両以上、1人前の力士)になったのは11人。
さらにその中から3人が横綱(曙、貴乃花、若乃花)、1人が大関(魁皇)となった。
貴花田は、花道で足がガクガクなりながらも突き出しで初土俵を勝利。
その後はとにかく稽古。
朝は誰よりも早く稽古場に下りて、自主トレ、自主稽古。
稽古中は、194cm、195kgの五剣山、190cm、225kgの豊ノ海など体の大きな先輩に積極的にぶつかっていき、稽古が終わって後、誰もいなくなっても1人で四股を踏んだ
稽古以外に近くのトレーニングセンターでの筋トレ、縄跳び、ランニングなどを日課にした。
雨の日もカッパが買えないのでゴミ袋をかぶって走った。
生来、右利きだったが、左右両方から攻められるようにと、意識的に左腕を鍛えたり、食事のとき左手で箸を持って食べるなど左利きの練習。
気晴らしといえば、ウォークマンで音楽を聴くくらいで、昼も夜も暇があったら自主トレ、自主稽古。
トイレの中でもダンベルでトレーニングした。
「夜中、(貴乃花が布団の中でもグリッパー(握力を鍛える器具)でトレーニングするため)キュッキュッキュッて音がするんです」
(悟道力)
「夜中の1時半くらいにゴンゴン音がするから、なにしてんのかなってみたら貴乃花が鉄砲(突っ張りの練習)やってた」
(貴闘力)

兄、若花田も人一倍、稽古をしたが貴乃花は敵わなかった。
しかし素質やセンスでは若花田の方が上といわれた。
また足腰の強さ、膝下の強さも天性のものがあった。
1989年、元号が「昭和」から「平成」に変わった年の9月場所の13日目、貴花田は栃日岳に勝って幕下で優勝を決め、十両へ昇進を決めた。
このとき17歳2ヵ月。
昭和の大横綱、北の湖の持っていた十両昇進最年少記録、17歳11ヵ月を更新。
関取になった貴花田は大部屋を出て個室に住み、付き人がついた。
2ヵ月後の11月場所で十両デビュー。
これまで一場所、7番だったが、15番となり、8勝7敗。
かろうじて勝ち越したが、関取の強さをまざまざをみせつけらた。
世間は、特に東京は、バブル景気で、若者はみんな派手に遊び回っていたが、貴花田はますます相撲に打ち込み、心身を追い込んでいった。
そして3場所連続で勝ち越しを決め、17歳8ヵ月という最年少で幕内入り。
再び北の湖の持っていた記録を更新した。


1990年、幕内デビューとなる5月場所の直前、稽古で右足親指を亀裂骨折。
強行出場したが、4勝11敗と大きく負け越し、十両落ち。
すると入れ替わるように同期入門の兄、若花田と曙が幕内デビューを果たした。
叔父は「土俵の鬼」といわれた名横綱、父は「角界のプリンス」、花形大関という角界のサラブレッド、貴花田に貧困的なハングリーさはない。
しかし強さに対しては、まさに飢えた狼。
一心不乱に猛稽古を続ける息子に
「少しやりすぎではと内心、心配になった。
あまりに一途で気持ちに遊びがないことが気になった。
張り詰めすぎるとどこかで糸が切れる」
と藤嶋親方は、専門の医師に部屋に来てもらい、弟子のメンタルの状態を診てもらった。
樹木の絵を描くなど心理テストのようなものが行われ、40人中で、精神状態が危険と診断されたのは2人。
その中でも最もよくないとされたのが貴花田だった。
しかし貴花田は手を緩めることはなく稽古で自分を追い込んだ。
「兄弟子に『車のハンドルだって遊びがあるから左右に曲がれるんだ』といわれましたけど、曲がってばかりいたら真っ直ぐ進めないと思ってました」
故障明けの場所で、8勝7敗と意地の勝ち越し。
翌場所も10勝5敗。
1990年の11月場所で再入幕を決めた。

1991年の3月場所は初日から11連勝。
12日目、初対戦となる超巨漢大関、小錦に連勝を止められた。
このときTV視聴率は驚異の52.2%を記録した。
「大きさ、重さが異次元でした。
まるで山のようで仕切りで向かい合うと客席がまったくみえないし渾身の力で押してもビクともしないんです」
この場所は結局、12勝3敗。
最強の横綱、千代の富士は故障のため休場していて対戦することはなかった。

2ヵ月後の5月場所の初日、千代の富士と貴花田が初対戦。
ケガから復帰した千代の富士は、優勝すれば大鵬の持つ最多優勝記録、32回に並ぶという大事な場所だった。
2人の対決に多くの人が注目し、両国国技館の前には、雨の中、当日券を求め、徹夜組を含め約600人が並び、TV視聴率は44.4%。
「全力でぶつかるだけ」
入門して3年3ヵ月、18歳の貴花田は、35歳の千代の富士に対し、立会いからガムシャラに攻め、相手にまわしを与えずに頭をつけ前進。
最後は前のめりに倒れながら千代の富士に寄り切った。
土俵下に落ちた千代の富士は苦笑い。
世代交代を象徴するシーンだった。
千代の富士は、3日目に藤嶋部屋所属の貴闘力に敗れた後、引退を発表した。
貴乃花は、最終的に9勝6敗で、この場所を終えた。
2ヵ月後、7月場所で11勝。
9月場所、11場所は共に7勝8敗。
1992年の1月場所では3日目の曙に負けたものの、5日目に過去5戦5敗の小錦に初勝利し、14勝1敗、19歳5ヵ月で幕内初優勝を果たした。
貴乃花に賜杯(しはい)を手渡したのは、この場所を最後に相撲協会の理事長を勇退する初代若乃花こと花田勝治だった。
孫ほど離れた甥っ子の優勝に、土俵の鬼の目にも涙が光った。
藤島親方にとっても部屋を興して10年目にして初の優勝だった。

1992年8月、20歳となった貴花田は、テレビの企画で、ヌード写真集を出して話題となっていた19歳の宮沢りえと対談。
十両だったときにスポニチの対談企画で会って以来、3年ぶりの再会だったが、この後、2人は密かに交際開始。
9月場所で貴花田は2度目の優勝を果たしたが、その9日目にはマス席の最前列に宮沢りえがいた。
10月25日、貴花田、宮沢りえの双方の家族が顔合わせ。
10月26日、11月場所の番付が発表された日の夜、テレビ朝日の「ニュースステーション」で貴花田と宮沢りえの婚約をスクープ報道。
翌日、スポーツ紙の一面は、西部ライオンズの日本シリーズ3連覇ではなく、ビッグカップルの誕生を報じた。
TVも2人を取り上げ、水面下では翌年に行われるであろう挙式の中継権の争奪戦が始まった。
その放映権料は3億円といわれた。

四六時中、マスコミに監視されながら始まった11月場所、前場所優勝の貴花田は初日から4連敗。
その後、持ち直し、最終的に10勝5敗。
場所後、藤島親方は、少しでもマスコミを減らし貴花田が稽古に集中できるようにと、婚約発表会見を開くと発表。
しかし取材はますます白熱。
2人が車で移動するとちょっとしたカーチェイスが始まり、ついに宮沢りえの乗る車を追った報道車両が事故を起こし、ケガ人が出た。
1992年11月27日、ホテルニューオータニで貴花田と宮沢りえの婚約記者会見が行われた。
集まった報道陣は600人。
神田正輝と松田聖子のそれを420人も上回り、民放4局が生中継すると、平日午後にもかかわらず視聴率は40%超え。
翌日、スポーツ紙はもちろん一般紙まで1面で報道した。
しかし1ヵ月後には破局報道が出始めた。

1993年1月24日、1月場所最終日、貴乃花は2m3cm、233kgの曙に一方的に押し出されて負けた。
しかし11勝4敗で、3場所連続で2桁勝利を挙げた。
場所後、曙の横綱昇進が決定。
外国人力士として初の快挙。
同時に貴花田の大関昇進も決まった。
20歳5ヵ月は、北の湖が持っていた最年少記録を更新。
訪れた日本相撲協会の使者に大関昇進を伝達されると
「今後も不撓不屈の精神で大関の名に恥じないよう相撲道に精進いたします」
と力強く述べ、四股名を父親と同じ「貴ノ花」に改めた。
同日、婚約記者会見から2ヵ月経った2人が話し合い、婚約解消を決めた。
18時、宮沢りえが単独記者会見を開き、
「強い横綱になってください」
といって婚約指輪を返したことを明かした。
5時間後、藤島部屋で報道陣に囲まれた貴ノ花は
「自分の愛情がなくなりました」
と発言。
破局の原因は
「自分の力のなさ」
とした。

1993年2月1日、二子山部屋が、初代若乃花、花田勝治の停年に伴い、藤島部屋と合併。
藤島親方は、師匠である兄から継承する形で、部屋の名を「二子山部屋」とし、自らも「二子山親方」に改名。
新生「二子山部屋」は、若貴兄弟、安芸ノ島、貴闘力、貴ノ浪、降三杉ら関取10人を含む、50人の力士が在籍する大相撲最大の部屋となった。
直後の3月場所で、弟、新大関の貴ノ花は11勝4敗、そして兄の若花田が幕内初優勝。
若花田は、四股名を「若ノ花」に改名。
5月場所、貴ノ花が14勝1敗で3回目の優勝。
7月場所は、13勝1敗の曙を12勝2敗の若貴兄弟が追う形になり、最終日、若ノ花が小錦を下し13勝2敗。
その後、貴ノ花が曙を押し出し、13勝2敗。
曙、若ノ花、貴乃花が13勝2敗で並び、三つ巴の優勝決定戦にもつれ込んだ。
巴戦は、誰かが2勝したら決まるが、3人とも1勝1敗になるとやり直しとなる。
抽選で、曙が若貴兄弟と連続で対戦することになった。
1戦目、曙 vs 若ノ花は、曙が速攻の突っ張りと押しで圧倒。
2戦目、曙 vs 貴ノ花は、曙が貴ノ花のまわしをつかみ、巨体ごと土俵下まで押し倒した。
トータル8秒で兄弟を破った曙が横綱昇進後、初の優勝。
場所後、若ノ花の大関昇進が決定した。

1993年の9月場所、21歳の貴乃花は最終日に曙を上手投げで土俵に転がし全勝優勝こそ阻止したものの、自身は12勝3敗。
11月場所は直前にウイルス性肝炎を患い、7勝8敗と負け越し。
1994年の1月場所で14勝1敗で4回目の優勝。
3月場所、11勝4敗で優勝ならず。
5月場所、14勝1敗で5回目の優勝。
7月場所、11勝4敗で優勝できず。
なかなか「2場所連続優勝」という横綱昇進の条件がクリアできない。
そして9月場所、初の15戦全勝で6回目の優勝。
日本相撲協会は、
「過去には6度も優勝できていない横綱もいる。
2場所連続ではないが大関で6度の優勝は実績として申し分ない」
として横綱審議委員会に貴ノ花の昇進を諮問。
横綱審議委員会は、2時間に及ぶ議論の末、異例の無記名投票を行い、賛成6、反対5で規定の2/3以上に至らず否決。
「先場所は準優勝でもないのに、どこを見ても内規に則していない」
(一力一夫)
「連続優勝できないということは何か欠けるものがあるからだ」
(加藤巳一郎)
他の反対票を投じた委員も
「横綱になれる力を充分持っているのだから焦る必要がない」
と主張。
「だったら次の場所も全勝してやる」
普段、クールな貴ノ花が激情をさらけ出し「貴乃花」と改名。
若ノ花も「若乃花」に改名した。

11月場所、6度目の綱取りに挑む貴乃花は、初日から白星を重ね、14日目に武蔵丸を寄り切りで破って、この時点で2場所連続優勝、横綱昇進を決めた。
そして最終日に横綱、曙と対戦。
これまでの戦績は貴乃花の10勝15敗だったが、48秒間の激しい攻防の末、土俵際、右下手投げで逆転勝ち。
7度目の優勝、2場所連続全勝優勝を決めた。
場所後、横綱審議委員会は、審議に1分もかけずに満場一致で貴乃花を横綱に推挙。
5日後の1994年11月26日、第65代横綱となった貴乃花は、部屋の力士が総出で打った10kgの注連縄(しめなわ)をまとい、東京、明治神宮で恒例の奉納土俵入り。
このとき観衆の中に元フジテレビアナウンサーの河野景子がいた。
2人は約2年前に知り合って数ヶ月前から交際が始めていた。
年が明け1995年の1月場所、新横綱は8度目の優勝を決め、約1ヶ月後の2月25日、2人の婚約と河野景子の芸能界引退が発表された。
貴乃花が5月場所で9度目の優勝を果たした後、明治神宮で結婚式が行われ、4ヵ月後には長男が誕生した。

1995年の11月場所で若貴の兄弟対決が実現。
兄弟は同時にデビューし、序ノ口、三段目を全勝優勝した若乃花が貴乃花より2場所早く幕下に昇進。
しかし十両昇進は、貴乃花が10場所目、若乃花が12場所目と貴乃花の方が早かった。
その後も若乃花は弟の後を追うように番付を上げた。
弟に比べ、体格が小さく、力士としては軽量級。
しかし足腰の強さと俊敏性、相撲のセンスでは弟に優っていた。
そしてこの場所で大関の兄と横綱の弟は12勝2敗で並び、最終日を迎えた。
結び前の一番で若乃花が武双山に寄り切られ敗北。
夢の兄弟対決はなくなったかと思われたが、結びで貴乃花が武蔵丸に引き落とされ敗れ、史上初の兄弟による優勝決定戦が実現。
立会いから兄は低い姿勢で頭をつけて弟を土俵際まで押し込み、最後は下手投げで2度目の優勝を決めた。

1980年代、幕内力士の平均体重は140kg台。
それが1990年代になると150kg台と大型化。
直径4m55cmの土俵の中で行われる相撲では、立会いで勝負の8割が決まるといわれる。
力士同士がぶつかり合うとき、その衝撃は1t以上になることもあるという。
「交通事故並みの衝撃です
大切なのは息を吐くことなんです。
当たる瞬間、歯を食いしばりますが息を止めてはいけません」
そういう貴乃花は、1995年1月の時点で147kg。
幕内力士の平均体重は156kg。
中でも大関の武蔵丸と横綱の曙は200kgを超えていた。
共にハワイ出身、アメフトやバスケットボールの経験者は、ただデカいだけでなくスピード、パワー、そして何よりも根性があった。
横綱としてどんな相手でも堂々と受けて立つ貴乃花は、理想体重を160kgに設定。
2年後の1997年1月場所で、幕内力士の平均体重は159kgの達したが、貴乃花は160kgになっていた。

1998年、貴乃花は肝機能障害で1月場所、3月場所を途中休場。
一方、若乃花は、3月場所、5月場所と2場所連続優勝を果たし、横綱昇進を決めた。
131kgは、平均体重より22kgも下回る、幕内5番目の軽さ。
その小さい体で横綱としてどんな相撲をとるのか、期待された
若乃花の横綱昇進から2ヵ月後、スポーツ紙が
「貴、若と絶縁」
という衝撃的な見出しと
「基本をしっかりやらない若乃花がどうやって横綱の地位を守るのか」
「もう若乃花と話すことはありません」
などと貴乃花が若乃花を批判するコメントを掲載。
8日後の9月9日、二子山親方はマスコミに対し
「貴乃花は洗脳されている。
元に戻ってほしい」
とコメント。
貴乃花の発言は都内で整骨院を営む整体師の洗脳の影響だとし、自身も貴乃花と断絶状態であることを明かした。
二子山親方によると4年前からすでに兆候はあったという。
その整体院は後援者から紹介され、まず親方自ら腕前を確かめた後、兄弟が通院するようになった。
兄は途中でやめたが、弟は通い続けた。
整体師は治療中「脳内思考」という独自の考えに展開し、それは精神論から宇宙論にまで及んだという。
こうして「貴乃花洗脳騒動」が勃発。
取材を受けた整体師の個性的なキャラクター。
何も語ろうとしない貴乃花。
人々の想像は膨み、新聞、雑誌、ワイドショーを巻き込んで一大騒動となっていった。
騒動の最中、行われた9月場所は、14日目までに優勝は若貴兄弟のどちらかに絞られ、最終日、若乃花は武蔵丸に破れ、貴乃花は曙に勝ち、26歳の弟が20回目の優勝を決めた。

若乃花は、小さな体で横綱としてガチンコ相撲をとり続けた。
しかしケガが多かった。
1999年の9月場所中に左足が肉離れを起こしたが出場し続け、7勝8敗と負け越し。
「12勝して勝ち越し」といわれる横綱にとって即引退レベルの不名誉な記録だったが、時津風理事長との話し合いで、現役続行を許され、場所後、横綱審議委員会から異例の「休場勧告」を受け
2場所を全休。
2000年の3月場所で復帰したが、5日目に栃東に負けて2勝3敗になった後、引退した。
横綱在位中、11場所中、皆勤は5場所のみ。
生涯で5度の幕内優勝を果たしたが、横綱になってから1度も優勝できなかった。
そして二子山部屋の指導員(藤島親方)となり、TVにも出演するなど相撲以外にも積極的に活動を行った。

2000年7月、藤田憲子と18歳年下の医師の不倫が発覚。
以後、二子山親方とは家庭内別居。
9月、若乃花の断髪指揮が行われた。
「次の夢に向かって頑張ります」
と発言。
12月、若乃花が突然、日本相撲協会に引退届を提出。
引退、9ヵ月後、寝耳に水の出来事だった。
貴乃花も含め、誰もが二子山部屋は若乃花が継ぐと思っていた。
しかし若乃花は、チャンコ料理屋などをやった後、「長年の夢だった」というアメリカンフットボールに挑戦。
アメリカNFL入りを目指し、複数のチームの入団テストを受けたが、すべて不合格となった。
こうして二子山部屋は、女将さんと指導員を立て続けに失った。
「勝がいなくなっちゃうから部屋はお前が継いでくれ」
嫁と長男に裏切られた二子山親方はさみしそうにいった。
貴乃花は、部屋を支えていこうと思った。

2001年5月26日、5月場所14日目、ここまで全勝の貴乃花は、大関の武双山と対戦。
勝てば優勝が決まる一戦だったが、武双山に巻き落とされ土俵に転がった。
その際、右膝が亜脱臼を起こし半月板と靭帯を損傷。
花道は何とか自力で歩いたが、観客の目がなくなると付け人の肩を借りた。
「横綱になってまともに相撲をとれたのは2年くらい。
後は60%くらい」
と貴乃花はいう。
横綱になって3年間(1995~97年)18場所で11回優勝。
しかしそれ以降は、1999年3月、右肩甲骨骨折、7月、左薬指靭帯損傷、2000年7月、左上腕二頭筋断裂と大きなケガが続き、休場5回、優勝は0回。
今回の右膝も以前から座るときなどに外れるような感覚があったという。
そしてこの試合で完全に壊れてしまった。
重要なのは初めての下半身のケガだったこと。
無理をすれば相撲生命を縮める、あるいは奪うことになりかねない危険な状態だった。

27日、最終日、しかし貴乃花は休場しなかった。
午前中、右膝にたまった血を抜いてもらいテーピングをして、14時すぎに国技館入り。
「貴乃花、痛かったらやめろ!」
元千代の富士、九重親方の声も貴乃花の耳には届かない。
そして第67代横綱、12勝2敗の武蔵丸と対戦。
時間いっぱい、「待ったなし」となったが、貴乃花がなかなか土俵に手をつかず、なかなか呼吸が合わない。
3回目でやっと立ち合い成立。
瞬間、武蔵丸はわずかに変化。
突っ込んだ貴乃花は土俵に前のめりで落ち、右膝をかばって左膝、左肘を強打し出血。
わずか0.9秒、「突き落とし」で武蔵丸の勝ち。
両横綱は13勝2敗で並んだ。
「やっぱり強いなあ」
貴乃花は思った。
そして優勝決定戦が始まるまで支度部屋で無言で鉄砲柱に向かって左右の突っ張りを繰り返した。
トレーナーが近づくと
「脚は大丈夫です」
本来は座って髪を結い直すのだが
「大丈夫ですから」
といって決して座ろうとしない。
言葉は穏やかだが、ただならぬオーラを発していて、肘と膝の血をぬぐおうとティッシュペーパーを持った付き人もまま近寄れない。
「出場をやめろ」
二子山親方から伝言が届けられたが、貴乃花は師匠の命令も無視。

割れんばかりの大歓声の中花道を進み、土俵へ上がった。
蹲踞から立ち上がったとき、右膝が外れ、思わず目が見開いた。
塩かごに向かうとき右足をひきずっていた。
「まずいなと。
一瞬、土俵を降りなきゃいけないのかなとも考えましたが、いや、どうにきゃしなきゃと。
いまさらあわてても仕方ない。
土俵で散れるなら本望。
あれこれ考えるのをやめました。
すると塩かごの前で右膝を回しているうちに奇跡的にカクンとうまくはまってくれました」
制限時間が訪れ、腰を落とし、呼吸が合った瞬間、鋭く踏み込み、左上手を奪った。
武蔵丸に切られたが、再び奪って渾身の上手投げ。
219kgの巨体を土俵に叩きつけられた。
仁王立ちする貴乃花の顔は鬼神のようだった。
フーッと吐き出した息に混じって赤色の唾が飛んだ。
あまりに強く歯を食いしばりすぎたための出血だった。
「なんという結末!」
アナウンサーが絶叫。
拍手の鳴り止まない表彰式で賜杯、優勝旗の授与。
そしてこの日、大相撲を初観戦した小泉純一郎首相が土俵上に登場。
「痛みに耐えてよく頑張った!
感動した!」
といって40.8kgもある総理大臣杯を手助けを借りながらも自らの手で渡した。

22回目の優勝。
だが結果的にこれが最後の優勝となった。
28歳の貴乃花は、この後、戦線を長期離脱し、リハビリ生活に入った。
右膝は半月板の一部が砕けて関節内に飛び散り、靭帯が損傷していた。
武蔵丸戦から約2ヵ月後の7月23日、単身、渡仏し、パリのサルペトリエール病院に入院。
3日後、ジャンピエール・パクレ医師の執刀によって、内視鏡による右膝半月板の破片の除去手術を受けた。
8月1日、貴乃花が渡仏中、二子山親方と藤田憲子が離婚。
1年前に不倫発覚後、家庭内別居、別居を経て、31年の夫婦生活にピリオドを打った。
また同日、偶然、若乃花の日本の社会人アメフトチーム、オンワードスカイラーク入りが発表された。
その3日後の8月4日、貴乃花が帰国。
まだ右膝に体重をかけられず、自宅で、まず立ち上がる練習。
やがて廊下を歩く練習を始めた。
歩ける距離が伸びると、四股を踏む練習。
これまでずっと1年の半分を巡業で留守にしていたため、初めて妻、長男、長女とゆっくり過ごす事ができた。
動けない分、たくさん本も読んだ。
ネフローゼ症候群という難病と闘いながら29歳でなくなるまでプロ棋士として活躍した村上聖。
レース中の事故で全身に大火傷を負い、壮絶なリハビリを乗り越え、レーサーとして再起を果たした太田哲也。
彼らの不屈の精神に勇気づけられたという。
「たとえ体の稽古ができなくても心の稽古はできます。
気持ちが切れることはなかったです」
地道にリハビリを続け、フランスにも何度か通って検査。
膝が冷えないように膝掛けを手放さす、部屋であぐらをかいてチャンコを食べられないので弟子たちに椅子とテーブルをプレゼントしてくれた。

2002年7月、横綱審議委員会は貴乃花に対し、9月場所へ「出場勧告」
1年2ヵ月、7場所に及ぶ連続休場する横綱に
「次の場所も休むなら自ら進退を決断すべし」
と通告した。
その頃、30歳の貴乃花は緩やかに稽古を再開していた。
9月2日、両国国技館で稽古総見が行われたが、貴乃花は土俵に上がらなかった。
横綱審議委員の渡辺恒雄は
「率直にいって非常に失望した。
まだ万全ではないということなのか」
と露骨に不快感を示した。
6日後、9月場所が始まった。
貴乃花の469日ぶりに土俵に上がって、初顔合わせの高見盛に寄り切りで勝利。
2日目、旭天鵬に金星を献上。
5日目を終わって3勝2敗。
6日目以降は連勝。
10日目、8勝して勝ち越しを決めた。
11日目、21歳、新大関の朝青龍と対戦。
闘志むき出しの朝青龍は、立会いの後、のど輪、突っ張り、張り手と激しく攻めた。
貴乃花は受けて立ち、1度バランスを崩したが、ひるまず両上手で組み、外掛けをかけてくる朝青龍を右上手投げで土俵にたたきつけた。
その後、右膝を痛める原因となった武双山、千代大海、魁皇と大関4人に連勝。
12勝2敗で最終日を迎えた。
相手は同じく12勝2敗の武蔵丸だった。
多くのファンが貴乃花の劇的な復活優勝を期待したが、武蔵丸は丸太のような腕を差し込み、圧巻のパワーで寄り切った。


12勝3敗で9月場所を終えた後、右膝のケガが再発。
診断は「右膝外側半月板損傷、全治3ヵ月」
11月場所は休んだが
「もう一場所休んでも膝が劇的によくなることはない。
かといって横綱として不出場のまま引退することはあり得ない」
と年が明けた2003年の1月場所には強行出場。
初日、若の里に押し込まれながら土俵際で小手投げ。
2人はほぼ同時に倒れ、難しい判定だったが、軍配は貴乃花。
2日目、過去10戦10勝の雅山を攻め込みながら、二丁投げという柔道の払い腰のような技で豪快に投げられた。
貴乃花は、完全に体を宙に浮かされ、投げられた後、初めて国技館の天井をみた。
このときあまりに屈辱的な負け方に、
「いよいよ花を散らすときがきた」
と引き際を感じた。
柔道なら完全に1本負けだったが、2人の体は同時に落ちたと見なされ、取り直しとなり、再戦で貴乃花は雅山に左上手投げで勝った。
後で相撲協会に「あれは雅山の勝ちだろう」と抗議の電話が来るほどの辛勝だったが、最初の1番で左肩を痛めた貴乃花は、3日目、4日目を休場した。
「散るなら休場したままでなく土俵の上で」
と5日目、再び土俵に戻った。
横綱の再出場は49年ぶりという珍事だったが、苦しみながらも勝利。
6日目も勝って、4勝2休(敗)
7日目、出島に負け、8日目、安美錦に背中をとられ送り出しで敗れ、その夜、引退を決めた。

関連する投稿


女子を主役にした『ぼくらの七日間戦争』!?息子の宗田律が書き上げた新作!!

女子を主役にした『ぼくらの七日間戦争』!?息子の宗田律が書き上げた新作!!

KADOKAWAより、「ぼくら」シリーズ最新作『ぼくらの秘密基地』(原案:宗田理、文:宗田律、絵:YUME、キャラクターデザイン:はしもとしん)が現在好評発売中となっています。


東京・渋谷で「NEO平成レトロ展」が開催!平成のエスパーアイドル「Chi☆Q」の大地守と久間一平が公式アンバサダーに!!

東京・渋谷で「NEO平成レトロ展」が開催!平成のエスパーアイドル「Chi☆Q」の大地守と久間一平が公式アンバサダーに!!

東京・西武渋谷店A館2Fイベントスペースにて、“平成レトロ”の魅力を集めた展覧会「NEO平成レトロ展」が開催されます。


小原裕貴×後藤理沙「ガラスの脳」が登場!CS衛星劇場で「令和によみがえる。懐かしのちょいレア劇場」が放送決定!!

小原裕貴×後藤理沙「ガラスの脳」が登場!CS衛星劇場で「令和によみがえる。懐かしのちょいレア劇場」が放送決定!!

CS放送「衛星劇場」にて、「令和によみがえる。懐かしのちょいレア劇場」と題し、見る機会の少ない映画が特集中となっています。6月は、手塚治虫の名作を小原裕貴&後藤理沙の出演で映画化したラブストーリー「ガラスの脳」の放送が決定しました。


【1955年生まれ】2025年で70歳だった・・・若くして亡くなった著名人を偲ぶ

【1955年生まれ】2025年で70歳だった・・・若くして亡くなった著名人を偲ぶ

2025年は、1955年生まれの人がちょうど70歳を迎える年です。1955年生まれの著名人の中には、お茶の間では誰もが知るおなじみの顔ながら、40代から60代で惜しまれつつ亡くなった人が多く見られます。今回は、10年以上前に亡くなった俳優から、最近亡くなった漫画家、元力士まで、若くして亡くなった著名人8名を偲びます。


是枝裕和監督のメガホンで蘇る!向田邦子原作ドラマ「阿修羅のごとく」の写真集が刊行!!

是枝裕和監督のメガホンで蘇る!向田邦子原作ドラマ「阿修羅のごとく」の写真集が刊行!!

青幻舎より、2025年1月9日にNetflixで世界独占配信された「阿修羅のごとく」の撮影を担当した写真家・瀧本幹也が撮影と並行してとらえた数々のカットを一冊に収めた写真集『写真 阿修羅のごとく』が刊行されます。


最新の投稿


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。


吉田沙保里  強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

吉田沙保里 強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

公式戦333勝15敗。その中には206連勝を含み、勝率95%。 世界選手権13回優勝、オリンピック金メダル3コ(3連覇)+銀メダル1コ、ギネス世界記録認定、国民栄誉賞、強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子。


消えた回転寿司チェーンの記憶──昭和・平成を彩ったあの店はいまどこに?

消えた回転寿司チェーンの記憶──昭和・平成を彩ったあの店はいまどこに?

昭和から平成にかけて、全国各地で親しまれていた回転寿司チェーンの数々。家族の外食、旅先の楽しみ、地元の定番──いつしか姿を消したあの寿司屋は、なぜ消え、どこへ行ったのか。本記事では、現在は閉店・消滅した地域密着型の回転寿司チェーンを、当時の特徴やSNSの証言とともに記録として振り返る。


【歌謡曲】ありえないシチュエーション!歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲5選!

【歌謡曲】ありえないシチュエーション!歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲5選!

昭和の歌謡曲には、現代ではお蔵入りしてもおかしくないほど、ありえないシチュエーションを描いた詞が数多くあります。その中には、残酷な人物像や露骨な情景描写もあり、思わず笑ってしまうような歌詞もありました。今回は、筆者の独断と偏見で、歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲を5曲ご紹介します。