27日、最終日、しかし貴乃花は休場しなかった。
午前中、右膝にたまった血を抜いてもらいテーピングをして、14時すぎに国技館入り。
「貴乃花、痛かったらやめろ!」
元千代の富士、九重親方の声も貴乃花の耳には届かない。
そして第67代横綱、12勝2敗の武蔵丸と対戦。
時間いっぱい、「待ったなし」となったが、貴乃花がなかなか土俵に手をつかず、なかなか呼吸が合わない。
3回目でやっと立ち合い成立。
瞬間、武蔵丸はわずかに変化。
突っ込んだ貴乃花は土俵に前のめりで落ち、右膝をかばって左膝、左肘を強打し出血。
わずか0.9秒、「突き落とし」で武蔵丸の勝ち。
両横綱は13勝2敗で並んだ。
「やっぱり強いなあ」
貴乃花は思った。
そして優勝決定戦が始まるまで支度部屋で無言で鉄砲柱に向かって左右の突っ張りを繰り返した。
トレーナーが近づくと
「脚は大丈夫です」
本来は座って髪を結い直すのだが
「大丈夫ですから」
といって決して座ろうとしない。
言葉は穏やかだが、ただならぬオーラを発していて、肘と膝の血をぬぐおうとティッシュペーパーを持った付き人もまま近寄れない。
「出場をやめろ」
二子山親方から伝言が届けられたが、貴乃花は師匠の命令も無視。
割れんばかりの大歓声の中花道を進み、土俵へ上がった。
蹲踞から立ち上がったとき、右膝が外れ、思わず目が見開いた。
塩かごに向かうとき右足をひきずっていた。
「まずいなと。
一瞬、土俵を降りなきゃいけないのかなとも考えましたが、いや、どうにきゃしなきゃと。
いまさらあわてても仕方ない。
土俵で散れるなら本望。
あれこれ考えるのをやめました。
すると塩かごの前で右膝を回しているうちに奇跡的にカクンとうまくはまってくれました」
制限時間が訪れ、腰を落とし、呼吸が合った瞬間、鋭く踏み込み、左上手を奪った。
武蔵丸に切られたが、再び奪って渾身の上手投げ。
219kgの巨体を土俵に叩きつけられた。
仁王立ちする貴乃花の顔は鬼神のようだった。
フーッと吐き出した息に混じって赤色の唾が飛んだ。
あまりに強く歯を食いしばりすぎたための出血だった。
「なんという結末!」
アナウンサーが絶叫。
拍手の鳴り止まない表彰式で賜杯、優勝旗の授与。
そしてこの日、大相撲を初観戦した小泉純一郎首相が土俵上に登場。
「痛みに耐えてよく頑張った!
感動した!」
といって40.8kgもある総理大臣杯を手助けを借りながらも自らの手で渡した。
22回目の優勝。
だが結果的にこれが最後の優勝となった。
28歳の貴乃花は、この後、戦線を長期離脱し、リハビリ生活に入った。
右膝は半月板の一部が砕けて関節内に飛び散り、靭帯が損傷していた。
武蔵丸戦から約2ヵ月後の7月23日、単身、渡仏し、パリのサルペトリエール病院に入院。
3日後、ジャンピエール・パクレ医師の執刀によって、内視鏡による右膝半月板の破片の除去手術を受けた。
8月1日、貴乃花が渡仏中、二子山親方と藤田憲子が離婚。
1年前に不倫発覚後、家庭内別居、別居を経て、31年の夫婦生活にピリオドを打った。
また同日、偶然、若乃花の日本の社会人アメフトチーム、オンワードスカイラーク入りが発表された。
その3日後の8月4日、貴乃花が帰国。
まだ右膝に体重をかけられず、自宅で、まず立ち上がる練習。
やがて廊下を歩く練習を始めた。
歩ける距離が伸びると、四股を踏む練習。
これまでずっと1年の半分を巡業で留守にしていたため、初めて妻、長男、長女とゆっくり過ごす事ができた。
動けない分、たくさん本も読んだ。
ネフローゼ症候群という難病と闘いながら29歳でなくなるまでプロ棋士として活躍した村上聖。
レース中の事故で全身に大火傷を負い、壮絶なリハビリを乗り越え、レーサーとして再起を果たした太田哲也。
彼らの不屈の精神に勇気づけられたという。
「たとえ体の稽古ができなくても心の稽古はできます。
気持ちが切れることはなかったです」
地道にリハビリを続け、フランスにも何度か通って検査。
膝が冷えないように膝掛けを手放さす、部屋であぐらをかいてチャンコを食べられないので弟子たちに椅子とテーブルをプレゼントしてくれた。
2002年7月、横綱審議委員会は貴乃花に対し、9月場所へ「出場勧告」
1年2ヵ月、7場所に及ぶ連続休場する横綱に
「次の場所も休むなら自ら進退を決断すべし」
と通告した。
その頃、30歳の貴乃花は緩やかに稽古を再開していた。
9月2日、両国国技館で稽古総見が行われたが、貴乃花は土俵に上がらなかった。
横綱審議委員の渡辺恒雄は
「率直にいって非常に失望した。
まだ万全ではないということなのか」
と露骨に不快感を示した。
6日後、9月場所が始まった。
貴乃花の469日ぶりに土俵に上がって、初顔合わせの高見盛に寄り切りで勝利。
2日目、旭天鵬に金星を献上。
5日目を終わって3勝2敗。
6日目以降は連勝。
10日目、8勝して勝ち越しを決めた。
11日目、21歳、新大関の朝青龍と対戦。
闘志むき出しの朝青龍は、立会いの後、のど輪、突っ張り、張り手と激しく攻めた。
貴乃花は受けて立ち、1度バランスを崩したが、ひるまず両上手で組み、外掛けをかけてくる朝青龍を右上手投げで土俵にたたきつけた。
その後、右膝を痛める原因となった武双山、千代大海、魁皇と大関4人に連勝。
12勝2敗で最終日を迎えた。
相手は同じく12勝2敗の武蔵丸だった。
多くのファンが貴乃花の劇的な復活優勝を期待したが、武蔵丸は丸太のような腕を差し込み、圧巻のパワーで寄り切った。
12勝3敗で9月場所を終えた後、右膝のケガが再発。
診断は「右膝外側半月板損傷、全治3ヵ月」
11月場所は休んだが
「もう一場所休んでも膝が劇的によくなることはない。
かといって横綱として不出場のまま引退することはあり得ない」
と年が明けた2003年の1月場所には強行出場。
初日、若の里に押し込まれながら土俵際で小手投げ。
2人はほぼ同時に倒れ、難しい判定だったが、軍配は貴乃花。
2日目、過去10戦10勝の雅山を攻め込みながら、二丁投げという柔道の払い腰のような技で豪快に投げられた。
貴乃花は、完全に体を宙に浮かされ、投げられた後、初めて国技館の天井をみた。
このときあまりに屈辱的な負け方に、
「いよいよ花を散らすときがきた」
と引き際を感じた。
柔道なら完全に1本負けだったが、2人の体は同時に落ちたと見なされ、取り直しとなり、再戦で貴乃花は雅山に左上手投げで勝った。
後で相撲協会に「あれは雅山の勝ちだろう」と抗議の電話が来るほどの辛勝だったが、最初の1番で左肩を痛めた貴乃花は、3日目、4日目を休場した。
「散るなら休場したままでなく土俵の上で」
と5日目、再び土俵に戻った。
横綱の再出場は49年ぶりという珍事だったが、苦しみながらも勝利。
6日目も勝って、4勝2休(敗)
7日目、出島に負け、8日目、安美錦に背中をとられ送り出しで敗れ、その夜、引退を決めた。