正義なき力は圧倒なり、力なき正義は無能なり

大山倍達は、現在の大韓民国(韓国)、全羅北道(チヨルラブクド)金堤郡(キムジエグン)龍池面伏龍里(ヨンジミヨンワリヨンニ)で生まれた。
当時、朝鮮半島は、日韓併合によって、まるで沖縄や北海道のように日本の一部となり、その統治下にあった。
大山倍達の生家は大きな農家だった。
その農場で働いていた人の中にボクシング経験者がいて、小学校に入ったばかりの大山倍達はその肉体に憧れ、その指導を受け、毎日、サンドバッグを叩き、シャドーボクシングをした。
普段は、たくさんの子分を従えるガキ大将だった
しかし弱い者いじめや卑怯なこと、自分の正義に背くことはしない心優しい少年だった。
小学5年生になると、普段受けていた日本の軍事教育や『ナポレオン』や『ビスマルク』の伝記を読んで、軍人になることを夢みた。
中学校は地元を離れ、1人暮らしをしてソウルの中学校に入った。
そして学校の近くにあったYMCAで本格的にボクシングを習い始めた。
数ヵ月後に行われた市民大会のウェルター級で15歳の大山倍達は優勝した。
また吉川英治の『宮本武蔵』を読んで、欲望を断ち切りひたすら武の道を追求する生き様や、ブレーズ・パスカルの哲学書『パンセ』の「正義なき力は圧倒なり、力なき正義は無能なり」という一文に心打たれた。

ある日、ソウル市内を流れる漢江(ハンガン)沿いをランニングしていていると、ボール遊びをしている女学生のグループに、数人の男がいやがらせをはじめた。
大山倍達はすぐに男たちを追い払った。
数日後、ボクシングの試合で勝利した後、女性に花束を渡された。
ボール遊びをしていた女学生の1人だった。
2人は、その後何度がデートをした。
しかしこの女性には婚約者がいた
その婚約者は日本人だった。
大山倍達と女性が逢っていることを知った彼は怒り、仲間を引き連れ大山倍達の下宿先に乗り込んだ。
そして乱闘となった。
これが警察沙汰になり、大山倍達は学校は退学処分となり、両親からも勘当された。

密航
大山倍達は、兄が留学していた日本行きを決意する。
まず釜山に行き、数ヶ月間、兄の婚約者の兄が経営する製紙工場で働き、準備した。
大山倍達が日本へ行く方法は密航しかなかった。
密航の準備期間中に、大山倍達は、後に空手の師となる曺寧柱と出会った。
曺寧柱は、中学生の頃から朝鮮独立運動に参加し、朝鮮独立のためには共産主義しかないと当時、共産主義運動が盛んだった京都大学に留学した。
共産主義の京都大学の教授の不当解雇にデモが起こり、これに参加し、京都大学を退学。
立命館に入った
やがて共産主義に失望し、アジアが一致団結し、いつか来るアメリカとの最終決戦に備えるべき-という東亜連盟に共感し、その運動に身を投じるようになった。
また、すでにボクシングとウエイトトレーニングを経験していたが、来日後、空手を学び、すぐに関西随一の実力者となった。
釜山で行われた講演会で、曺寧柱は民族協和を訴えたが、大山倍達は話よりもその鍛えられた肉体に魅かれた。
講演後、自分から近づき話をした。
そして曺寧柱の突きは、ボクシングのパンチとは違った。
その蹴りは、背丈以上の高さに達した。
大山倍達は、もうすぐ日本へ行くことを告げ、再会の約束をした
そしてやがて、釜山港から下関へいく船に乗った。
下関に上陸後、兄のいる東京に行きたかったが、警察の目を考え曺寧柱のいる京都へ向かった。
そして東亜連盟の寮に住み、毎日、曺寧柱から空手を習った。
数か月後、大山倍達は、軍人になるという夢を曺寧柱に相談した。
京都大学を中退し立命館に学んだ曺寧柱はその想いを理解した。
しかしその年度の陸軍士官学校の受験はすでに終わっていたし、大山倍達は中学を中途退学していたので、まず山梨県の飛行機の整備技術を教える学校を卒業し、改めて士官学校に入ることを薦めた。

日本航空高等学校
こうして18歳の大山倍達は、山梨の航空学校に入学し寮に入った。
親からは絶縁され、3人の兄は戦争を危惧してすでに帰国していたため、お金を得るため、授業の後に輪タク(自転車タクシー)のアルバイトに出た。
そしてたまに夜の街に出て、不良やヤクザにケンカを売ってお金を巻き上げた。
そうやって3年間、陸軍士官学校に入学するために勉強と京都で学んだ空手の稽古を続けた。
しかし陸軍士官学校の試験は不合格となり、軍人になるという夢は破れた。
大山倍達は京都に戻ろうと思ったが、頼りの曺寧柱は、治安維持法違反の容疑で拘置所に収監されていた。
そこで東亜連盟の先生を頼って東京に向かった。
東京都議会議員に立候補するという先生の自宅に書生として居候しながら、ポスター貼りや接待、ボディガードなどの仕事をした。
そして松濤館に通い、空手の稽古を行った。
8か月後には初段となった。
異例のスピード昇段だった。

第2次世界大戦中、やがて日本軍の敗色が濃くなってくると、徴兵、徴用は拡大し、大山倍達も千葉県館山に徴用工として配属された。
そして1945年8月15日の終戦も千葉県で迎えた。
終戦は36年間日本に支配された朝鮮半島が解放された日でもあった。
(やがて朝鮮半島はその南北をソ連とアメリカが分割統治したことで北朝鮮と韓国という2つの国に分断される。)
アメリカの圧倒的な軍事力に叩きのめされた日本に進駐してきたGHQは、自らを含む戦勝国民を第1国人、敗戦国民(日本人)を第2国人、(朝鮮人を含む)戦勝国民でも敗戦国民でもない人を第3国人とした。
第1国人は、第2国人に対しても、第3国人に対しても強かった。
第2国人は、第1国人に対しても、また第3国人に対しても弱かった。
第3国人は、第1国人には弱かったが、第3国人には強かった。
一部の在日朝鮮人は、それまで日本から受けてきた屈辱感や不満を一気に爆発させた。
その特殊な治外法権下で、堂々と暴力、不法占拠、略奪などを行う者もいた。
そして闇市の縄張り争いなどで日本人ヤクザと争い、QHQの取り締まりにも抗った。
大山倍達も仲間と共にあちこちの軍事施設から食料や物資を奪い闇市に流して現金を得た。
民族紛争

また在日朝鮮人は、同胞同士民でも抗争を行った。
共産主義国家樹立を求める「朝連(在日朝鮮人連盟)」と、民主主義による朝鮮の建国を目指す「建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)」に分かれたのである。
大山倍達は、建青の千葉県館山支部のリーダー格だった。
大山倍達はメンバーを空手で鍛えた。
それは寸止めや型の空手ではなく、武器や対多人数など、さまざまな実戦を想定したものだった。
実際、大山倍達の最初の戦いは、150人の朝連と50名ほどの建青の戦いだった。
その強さは異様で、次々に相手を殴り倒し、数十名に重傷を負わせた。
その後も、5人で20人と戦ったり、1人で7、8人を相手にしたりした。
あるとき5人を叩いてのばした後、右手の親指が痛いのでみてみると相手の歯が刺さっていた。
また大山倍達の左腕には、何本も傷跡があった。
彼の必勝パターンは、左腕で相手の攻撃を受け、右拳を叩き込むというものだったためである。
そのため左前腕にベルトを巻いて戦うこともあった。
右顎と唇の間にも傷跡があった。
顎を短刀で刺され、刃先は歯ぐきを突き抜け口の中にあったが、大山倍達はそのまま戦い続けたという。
大山倍達のそういった活動は関東全域、また関西にも及び、「空手の大山」と恐れられた。

建青は、東京の青山にあった旧日本陸軍大学を許可を得ず不法に占拠し本部とした。
そしてGHQや旧日本軍から手に入れた物資を闇市で売ったり、歌やスポーツイベントを催し資金を稼いだ。
ある歌謡ショーを催したとき、客として来ていた米兵が、日本人女性の肩に手を回して話しかけ始めた。
女性は恐怖で動けなかった。
警備をしていた大山倍達は部下をやってやめさせようとしたが、米兵はまったく相手にしなかった。
怒った大山倍達は、走っていってその米兵の顔面に突きを入れた。
すると仲間の米兵がかかってきたので、これにも突きや蹴りを叩きこんだ。
すると警備に当たっていた米兵が集まってきたため、建青と米兵の大乱闘になった。
ショーは中断され、客は逃げ出した。
結局、大山倍達らは捕まり留置場に入れられた。

留置場から胸を張って出てくる大山倍達をみて、危険なものを感じた曺寧柱は、大山倍達を抗争から遠ざけるために岐阜の東亜連盟の先生宅に入れた。
しかし師の心を知らない大山倍達は栃木から各地に飛んで建青の活動に参加した。
内心、敵の襲撃を期待しながら・・・
そしてある集会で朝連から殴り込みを受け、乱闘の先頭に立って相手を潰していった。
しかし大山倍達は、栃木で先生の手伝いやその他の活動がどんな忙しくても、毎日数時間の空手の稽古だけは欠かさなかった。
妻に改名させる

栃木から東京に戻った大山倍達は早稲田大学に入学した。
(2年後に退学)
ある講演会の会場でお手伝いをしていた智弥子夫人に出会った。
大山智弥子の元の名は「照子」だった。
そこから「置八子」、「智弥子」と2度、名を変えた。
大山倍達が、ほかの男から呼ばれていた名を嫌ったのである。
大山智弥子は、ミス東京に選ばれ、芸能界や宝塚からも誘いがあった。
父は県会議員で、お嬢さん育ちの大山智弥子は、大山倍達と結婚後、トイレもないボロ屋で暮らし始めた。
大山倍達はほとんど家に帰ってこず、どこに行っているのかもわからず、近所から「愛人ではないか」と疑われたこともあった。
電気代が払えず電気が止まると、切ったりはがしても大丈夫な家の板や柱を燃料にしてしのいだ。
京都で武道大会が開催され、大山倍達はこれに優勝した。
優勝カップを持って家に帰ると、妻:智弥子は長女を出産していた。
あいつは狂っている。

大山倍達は、巻き藁を突き、バーベルを挙げ、板やレンガを割り、組手をして稽古に没頭した。
そしてケンカが起こると真っ先に飛んで行った。
それは決して民主主義思想のためではなかった。
1人で何人倒せるか。
自分の技の威力はどれだけか。
戦うこと、強い自分が好きだった。
空手も、型より組手、技より力主義だった。
あるとき、建青の訓練所の剣道の先生が大山倍達を一目みて曺寧柱に忠告した。
「あいつは狂っている。
精神を鍛錬しなければいつか殺されるかダメになってしまう。」
こうして大山倍達は、曺寧柱の指示で数か月間、身延山の久遠寺に入り、修業を行った。
山を下りてきたときには地元の猟師や農家と仲良くなってお土産をもらって行く前よりたくさんの食料を持ち帰ったという。
目白の野天道場

やがて大山倍達は、7年に及ぶ在日朝鮮人同士の抗争から身を引いた。
建青を抜けて、千葉から東京へ引っ越した。
そして山口剛玄の道場に入り稽古を積んだ。
(2年後には剛柔流6段となる)
空手一筋になったのはよかったが、収入がなくなったため、ヤクザの用心棒をしてしのいでいた。
そんなときにアメリカ遠征の話が舞い込んできた。
アメリカに渡ってプロレスのリングで戦ってみないかという。
このとき受け取った契約金で、東京都豊島区目白に大きな家を建てた。
この家の庭で空手の稽古と指導を行った。
「目白の野天道場」と呼ばれた。
ゴッドハンド伝説

アメリカの招聘に応じ、大山倍達は海を渡った。
戦後、すでに柔道はアメリカにも普及していたが、空手は初めてのことだった。
そして初戦は、シカゴの1万人を超えるプロレスファンが集ったホールだった。
初戦といってもプロレスをするのではなく、あくまでもプロレスのリングで空手のデモンストレーションを行うのが目的だった。
その控室でのこと。
控室といっても、壁で仕切られているわけではなく、大きな部屋にたくさんの外人レスラーが入っていた。
大山倍達はその巨体と筋肉に圧倒された。
「空手のデモンストレーションのために、何か準備するものはありますか?」
主催者の質問に対し、大山倍達は、1インチの板を5、6枚とレンガを数個を注文した。
やがて時間が来て、大山倍達はリングに上がった。
そして一礼してから、まず型を行った。
わけのわからないダンスに対しブーイングが起こった。
次は試し割り。
板を持つパートナーが大山倍達に聞いた。
「こんな板、割れるのか?」
そこには板が2枚あり、1枚は注文通り1インチほどの板だったが、もう1枚は5インチ(約12㎝)もある板だった。
1インチの板は難なく割れた。
続いて分厚い板。
深く息を吸い込み、それを吐き出し、半歩下がって構え、拳を放つと板は真っ二つになった。
そしてすでに拳は、そこにはなかった。
一瞬の出来事だった。
歓声が起こった。
続いて、手刀でのレンガ割り。
しかしリングの柔らかいマットのせいで2度失敗。
3度目は、台座をリング中央からコーナー寄りに移して、衝撃吸収を少しでも下げ、かつ肘に替えてなんとか成功させた。
客の溜息と拍手を聞きながら、大山倍達は礼をしてからリングを下りた。
初めてのアメリカでの空手のデモンストレーションは成功した。
翌日、新聞のスポーツ欄には、「KARATE」の文字が躍った。

日増しに高まる「KARATE」人気を面白く思わない人もいた。
ある日、控室にいた大山倍達がビジネスパートナーと打ち合わせをしていると1人のプロレスラーが近づいてきて、大山倍達の足に唾を吐いた。
そして仁王立ちになって挑発した。
ビジネスパートナーは囁いた。
「このまま引き下がったらダメ。
なにかこの男脅す方法ない?」
大山倍達は躊躇いながらも、両手の親指と人差し指だけで逆立ちをした。
「ヘイ・ユー・ルック」
丸太のような腕を組んでみていたプロレスラーは、冷蔵庫から瓶のコーラを取り出した。
そして歯で栓を抜き、中身を飲み干し、肘に白い布を肘にかぶせ、そこに瓶を挟んで、呻き声を上げながら肘を曲げて瓶をバリバリと砕いた。
退いたら負け。
次は大山倍達の番だった。
中身を半分ほど残したコーラ瓶をテーブルの上に立てた。
その前に立って、深く息を吸い込み、カーッと吐き出した。
そして脚と腰を決めて、手刀をつくって首の後ろに振りかぶり、気合もろとも瓶口めがけ打った。
すると小さな塊が壁に飛んで、床に転がった。
テーブルには首がなくなったコーラ瓶が立っていた。
瓶切りが成功した。
首が吹き飛んだ瓶をみて誰かがいった。
「オー・マイ・ゴッド・・・」
こうして大山倍達の手は「ゴッドハンド」となった。
アメリカで爆発的人気

その後、大山倍達は、シカゴ、イリノイ、アイオワ、ミシガン、ミネソタ、カナダ、インディアナ、ジョージア、サウスカロライナ、フロリダ、キューバと全米を周った。
そして5セント銀貨を指先で握って潰したり、手の甲の拳ダコをハンマーで叩かせたり、自然石を手刀で割ったり、アトラクションとしてプロレスと試合を行った。
飛び入りの挑戦者を相手に賞金を賭けて対戦したこともあった。
アイオワ州では、警官の挑戦を受けたときは、相手の乱暴な攻めに怒った大山倍達が組みつこうとする相手の右手を左手で払いのけ飛び込み、右手で相手の両目を突き上げ、右膝で金的を蹴り上げた。
そして相手の胸板に拳を叩き込み、肋骨を7本折った。
なんでもアリのルールだったが、観衆は怒り出し、リングになだれこもうとしたため、大山倍達は警備員の力を借りてリングを去った。
しかし群衆はホテルまで押しかけ、ここでも警官に護衛されてシカゴまで護送された。
プロレスのレフリーをつとめていたジャック・デンプシー(元プロボクシングヘビー級チャンピオン)が、大山倍達がデモンストレーションをみて、控室を訪ね、その拳をさすったこともあった。
2度目の渡米時には、シカゴで牛を相手に角折のデモンストレーションを行った。
「KARATE」と「Hand of Got」は、全アメリカで爆発的な人気を得た。
コイン曲げ

大山倍達は指で硬貨を曲げることができた。
人差し指と中指に親指の3本で曲げてしまうという。
牛の角折り

大山倍達は、牛と戦うことを空手家の宿題と考えた。
1953年、アメリカのシカゴで、牛と格闘し、手刀で角を折った。
1954年、千葉県館山の八幡海岸で「猛牛と戦う空手」という記録映画が撮られた。
1000名以上の見物客と4台のカメラが見守る中、大山倍達は、トランクスに上半身裸で登場。
そして450㎏を超える牛の根元の太さは10㎝超、長さ約40㎝という大きな角をつかみ、ねじり倒そうとした。
牛の角で腹部から出血しながらもなんとか倒し、起き上がろうともがく牛の頭を押さえ込んだ。
そして牛の角を左手でつかみ、右手を振り上げ、もう一方の角に振り下ろし、角を叩き折り、表皮だけでつながった角をもぎとり高々とかかげた。
1956年にも田園コロシアムで「牛との格闘」が公開された。
そして「牛殺しの大山」といわれた。
ウエイトトレーニング

若木竹丸
大山倍達は、若木竹丸を訪ね、ウエイトトレーニングを習った。
若木竹丸は中学時代に相撲で関東学生選手権2位。
ウエイトトレーニングは相撲の鍛錬の1つとして始めた。
大学ではボクシングや柔道を学びウエイトトレーニングの研究を続け、日本腕相撲選手権で優勝。
著書「怪力法(怪力法並びに肉体改造体力増進法)」を出版した。
そのトレーニングは合理的で、バーベルの重量が限界に近づいてきたら、トタン板のプレートを使いグラム単位で増やしていった。
こういった方法に加え、大山倍達はバーベルが挙げられなくなると、お尻に畳針を刺してもらい、飛び上がるような痛みで、瞬発力をつけて、バーベルを挙げた。

大山道場

大山倍達は目白の家から板橋区のアパートに転居し、大山道場を立ち上げた。
この道場は後に豊島区西池袋のバレエスタジオに移った。
道場といってもオンボロ木造アパートの1階にあった板張りのスペースだったが、野天道場に比べ、屋根があり、床があり、鏡もあった。
水道も電気もあったので、門下生300名は夜も練習できた。
彼ら自らを「極真会」「極真空手」と名乗った。
その由来は「千日をもって初心とし、万日をもって極とする」という格言に因む。
大山道場の稽古は地獄そのものだった。
近年、アルティメットやバーリトゥードなどなんでもありの格闘技がクローズアップされてきたが、大山道場は、突き蹴りだけではなく投げも絞めも許された。
また大山道場の組手は真剣勝負だった
強さを目指す者にとって、大山道場は憧れと同時に恐怖の対象だった。
大山倍達自身、まだ自分自身が強くなることに一生懸命で、去る者は去れ、ついて来れる者だけついて来いという感じで、ほとんどの者がその厳しさに耐えられずたった数日でやめていった。
それまでの空手は寸止めの空手や、実際に当てる組手を行っても防具をつけたりしていた。
大山道場の空手は、組手=倒すことであり、また当て合うことで当てられても倒れないからだをつくった。


力道山

力道山は朝鮮半島の北方で生まれ、大山倍達と同じ年に渡日。
翌年、二所ノ関部屋に入門。
10年間で大相撲で関脇まで昇進しながら、自らマゲを切って力士を廃業した力道山光浩は、プロレスラーになるためにアメリカに渡った。
そして帰国後、日本プロレスリング協会を立ち上げ、自らの道場で若手を育成し、日本でプロレスの生みの親となった。
日本プロレスの初興行は、シャープ兄弟を招聘し、テレビで全国中継された。
力道山は外国の大男を次々に倒していった。
日本はプロレスブームに沸き、力道山は英雄視された。
文藝春秋新社が発行する「オール読物」1952年7月特別号に、大山倍達と力道山の対談が掲載された。
対談は互いに相手を尊重し、和やかな雰囲気で進んだ。
そして最後に記者が2人に腕相撲をリクエストした。
力道山は120㎏。
大山倍達は82㎏だったが自信はあった。
しかしお互いの顔を立て引き分けにしようと申し合わせた。
記者が写真を撮るためシャターを切った瞬間、力道山は突然力を入れて勝ってしまった。
この行為を大山倍達は終生許さなかった。
木村政彦

大山倍達は「宮本武蔵」を尊敬していたが、「昭和の武蔵」は柔道の木村政彦だった。
全日本選手権10連覇、15年間不敗の柔道家:木村政彦は強さの象徴であり、憧れだった。
木村政彦の師匠:牛島辰熊が東亜連盟の支持者であったため、その関係で大山倍達は木村政彦と会うことができた。
そして2人は武の道の先輩後輩となった。
木村政彦、天覧試合で優勝したとき、賞品として短刀をもらった。
その後、もし試合に負けたら、これで切腹して死のうと決めた。
そしてイザというとき用に、実際に少し腹を割いて練習をした。
死ぬのはかんたんだが勝つことは難しいと悟り、「3倍努力」を掲げ、努力し続けた。
また空手部の稽古をみたとき、しっかり小指から親指まで5本の指で握っているのをみたのをきっかけに、木村政彦は、柔道の握りを強くするために、巻き藁を突き始めた。
肘打ちも柔道に非常によかったという。
木村政彦は、師である牛島辰熊の誘いに応じ、『プロ柔道』に参加し、総勢21名の選手で日本国内を回って試合を行った。
しかし半年足らずで興業は下火となり、試合をしても給料が出なくなった。
妻が病を患い、その治療費にに窮した木村政彦は、仕方なくプロ柔道を脱退し、ハワイに渡り、プロレスラーになった。
そしてハワイやブラジル、アメリカを転戦した。
このとき伝説の柔道家:前田光世の弟子でありブラジリアン柔術の始祖、そしてヒクソン・グレーシーの父親もであるエリオ・グレーシーと対戦し、大外刈で叩きつけ、その腕をへし折った。
このとき腕を折った技:腕絡み(うでがらみ)は、現地では今でも「キムラロック」といわれている。
日本へ帰った後、力道山とタッグを組んで話題を呼んだ。
その後、故郷である熊本県で「国際プロレス団」を旗揚げした。
力道山との遺恨
1954年12月22日、「昭和巌流島の血闘」「プロレス日本一決定戦」といわれた力道山vs木村政彦の試合が行われた。
この試合、実は事前に引き分けで終わることが決められていたが、力道山が掟を破り、一方的に木村政彦をメッタ打ちにしてドクターストップで勝ってしまった。
この八百長崩れの試合をリングサイドでみていた大山倍達は、激高し、叫びながらリングによじ上がろうとしたが、周囲に制止されてしまった。
自分に対して腕相撲でやった手を再度使った力道山が許せなかったのだ。
その後、何度も力道山に挑戦状を出し試合を迫った。
しかしそれはかなわないとわかると夜の酒場を力道山を探し求め歩いた。
力道山にも、木村政彦にも、また大山倍達にも、背後に危ない団体がいたため、お互いの利権と大きな抗争へ発展することを恐れ、結局、話し合いの後に和解した。
しかし3人共に、個人的なしこりは終生、消えなかった。
What is Karate

1958年、世界初、英語版の空手技術書「What is Karate」が出版された。
大山倍達の初の著書は世界に向けたものだった。
氏の著作は自己啓発書としてかなりのインパクトがあり、元気がなくなると大山倍達の本を読んだり、訓話の動画をみるという人は多い。
聖地:極真会館

1964年、国際空手道連盟極真会館ができた。
目白の野天道場で2年、オンボロバレエスタジオで8年、合計10年間の時を経て、大山道場は、極真会館となり、実戦空手、武道空手の聖地となった。
大山倍達はいった。
「寸止めではなく、実際に当ててみなければ、真の強さを極めることはできない」と。
そして「実戦空手」を提唱した。
そして世間からは「空手は悪い人間がやるもの」といわれ、空手界からは「ブチ壊しの空手」「ケンカ空手」と異端視され続けた。

同じ時期、力道山はナイトクラブでの口論が発端で、ヤクザに刺殺された。
空手バカ一代

1970年代、「空手バカ一代」が大ヒット。
「これは事実談であり、この男は実在する。」という冒頭のフレーズに多くの若者が惹きこまれた。
そして空前の空手ブームが起こった。
極真会館には連日、入門希望者の列ができて、道場に入りきれず廊下やロビー、路上でも稽古が行われた。
また全国各地に支部がつくられていった。
ネバーギブアップ

「極真」とは、「千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」という格言に因んでいる。
これは初めて武道を志し、修行によってようやく初心に達するまでに千日(3年)が必要であり、その極意、境地に至るためには、万日(30年)はかかる-という意味である。
武道を志す者は、毎日稽古に没頭し、例えば拳の握り方ひとつについて常に悩み、工夫、研鑚を重ね、ただただ奥義を究めるべく不断の努力をしている1人の求道者に過ぎないということである。
要は、中途半端な強さではなく、真の勇者たれ-ということであり、また困難に決して「あきらめない」という精神的姿勢は、極真空手家に強くみられる特徴である。
大山倍達は、極真空手は、スポーツでも、格闘技でもなく、「武道」であるという。
そして
「武の道の探求は、断崖をよじ登るがごとし。
休むことなく精進すべし。」
という。
それは空手の修行は急ぐことはない。
階段を1段づつ上がるように、ゆっくりと歩めばよい。
しかしそれは稽古をやりたくなければ休めばいい-ということではなく、焦るな-ということ。
稽古は休まず地道に続ける。
毎日続ける。
しかし精神的に決して急がない。
自分にあったペースで、自分の稽古を積み上げていくこと。
それが武道の修行であるという。
そして彼が願っているのは、極真空手を志したすべての人が本当に強くなって胸をはって生きていけるようになってほしい-ということである。