
伝説のダービー
1990年の日本ダービー。1番人気は弥生賞の勝ち馬で、前走皐月賞も鋭い末脚を見せたメジロライアン。2番人気はクラシック第1弾皐月賞の勝ち馬ハクタイセイ。そして前年の朝日杯の勝ち馬で皐月賞もきわどい2着だったアイネスフウジンが3番人気でした。


1コーナーを回った時には既に先頭に立っていたアイネスフウジン。2番手集団にハクタイセイ、メジロライアンは中団から。
1ハロン12秒ほどの淀みのないペースでアイネスフウジンが飛ばす。だんだん2番手との差を拡げながら大逃げ気味に飛ばす、向正面のアイネスフウジンの姿を見て、20万の観客がどよめきます。
「あんなペースで行って最後までもつのか?」誰しもがそう思ったことでしょう。
3~4コーナーの中間で少しアイネスフウジンのスピードが落ち、2番手ハクタイセイとの差が詰まってきます。最早これまでか、と思った矢先、4コーナーを回ったところでさらにスピードを上げまて、ハクタイセイを突き放します。
そして迎えた府中の長い直線、アイネスフウジンは最後の力を振り絞ります。坂を上ったところで2番手グループは一杯になる。そして代わって大外からメジロライアンが追い込んできます。

逃げ粘るフウジン、追うライアン。1完歩づつメジロラインが詰め寄ってくるも、その差が1馬身余りに迫ったところがゴールでした。

勝ちタイムはそれまでのレコードタイムを1秒も上回る2分25秒3。カブラヤオー以来の日本ダービーでの逃げ切りの勝利でした。
賞賛と感動のナカノコール
ゴール後、アイネスフウジンと中野騎手の凱旋を待ち受ける観客たち。しかしなかなかウィニングランに戻ってきません。そこで誰とはなしに始まった「ナ・カ・ノ」という呼びかけ。これが自然と次第に拡がっていき、やがて20万人の「ナ・カ・ノ」コールの大合唱へと発展していきます。

競馬場がライブ会場に変わった瞬間です。
現在ではGⅠレースの度に行われる勝ち馬や勝利騎手に対するコールも、このナカノコールが始まりです。

それは決して盛り上がろうというハイテンションのお祭り気分のものではなく、勝者のアイネスフウジンと中野騎手への心からの賞賛と感動からくるものでした。
そして間違いなく、日本の競馬と競馬ファンの在り方が変わった瞬間でもあります。
アイネスフウジンの軌跡
アイネスフウジンは1989年の9月に中山競馬場でデビューしました。3戦目の未勝利戦を勝ちあがると次走4戦目に選んだレースはGⅠ朝日杯。
京成杯の勝ち馬サクラサエズリが1F10秒台のハイペースで逃げる。それにピッタリ付いていくアイネスフウジン。そのまま2頭が後続を引き離したまま1000mを56秒9の超ハイペースで通過し最後の直線へ。最後の坂でなんとかサクラサエズリを振り切ってアイネスフウジンがゴールしたタイムが驚愕の1分34秒4。怪物マルゼンスキーが叩き出したレコードタイムと同タイムでした。
誰もが破られることはないと思っていた記録に手が届いた瞬間、アイネスフウジンの快速伝説は始まったのかもしれません。
その後年明けの共同通信杯を勝つも、クラシック初戦の皐月賞で不利もあって惜敗。
それだけに2歳チャンピオンとして、またここ数年、年間10勝できるかどうかの、周囲からもう終わったと思われていたベテラン中野騎手としても、ダービーにかける思いはひとしおだったでしょう。

「もしも馬券が買えるなら、借金してでも1番人気にしてやりたい」と周囲に話していたほどの情熱を傾け、ダービーに勝つための戦略を練った結果、あの平均的にずっと早いペースで逃げて、他馬のスタミナを消耗させるという戦法を選んだのでした。
まさに賞賛に値する騎乗と言えるでしょう。

そしてなかなかウィニングランで戻ってこなかったのには理由があります。
アイネスフウジンが力を出し切って、疲れきってしまい、息を整えるのに時間が必要だったのだそうです。全精力を尽くしてつかみ取った栄冠だったのですね。
アイネスフウジンの血統配合

アイネスフウジンの父シーホークはアイルランド産で、フランスの2400mのGⅠサンクルー賞の勝ち馬。父系を遡ると大種牡馬サンインロウやハンプトンに至る、スタミナ豊富なステイヤー種牡馬です。代表産駒には天皇賞や宝塚記念を勝ったモンテプリンスや、同じく天皇賞馬のモンテファスト、ダービー馬のウィナーズサークルなどがいます。

母の父はトウショウボーイやサクラユタカオーなどの父としても知られる、スピードと成長力豊かなテスコボーイ。
5代血統表でみると、テスコボーイの部分だけスピードが入ってますが、他全体がスタミナ血脈で固められた、スタミナ豊富な馬だったことが判ります。
正直この血統でマイルの朝日杯を、あのマルゼンスキーと同タイムの1分34秒4で走りきるのは驚きですが、これもテスコボーイのスピードをうまく活かした配合の賜物でしょうし、ダービーを当時のレコードタイムでに逃げ切ったのは、そのスピードを持続させるスタミナ勝負に持っていった戦略の巧みさと、アイネスフウジン自身の総合力の高さの証明と言えるでしょう。
種牡馬としてのアイネスフウジン
ダービー後に屈腱炎を発症し、引退したアイネスフウジンは種牡馬になりますが、そのスタミナ偏重型の血統が災いしたのか、あまり良い成績をあげられませんでした。

そんな中でも芝の短距離路線で活躍したイサミサクラや、ダートの交流重賞を勝ちまくったファストフレンドなどの優秀な牝馬を輩出。特にファストフレンドは帝王賞と東京大章典の2つのGⅠタイトルを取り、砂の女王として君臨した事は記憶にある方もおられるでしょう。


また地方競馬ですが、アミーが南関東のクラシック・浦和桜花賞を未勝利ながら勝つなど、なぜか牝馬に活躍馬が偏っているのが印象的ですね。
アイネスフウジンは2004年に17歳で病気のため死亡しました。
残念ながら牡馬でこれと言った活躍馬はおらず、父系を繋ぐ事はできませんでしたが、イサミサクラやファストフレンドなどの牝馬たちを通して、現在でも孫やひ孫、玄孫たちが中央地方の競馬場で走り続けています。

アイネスフウジンは亡くなった今でも、そしてこれからも、あの伝説には続きがあるのです。そしてその話の続きを、いつか私たちが目にすることができる日が来るかもしれませんね。
