力道山

1943年2月20日、アントニオ猪木、本名:猪木寛至は、神奈川県横浜市鶴見区で生まれた。
家は石炭問屋を営んでいた。
寛至が5歳のときに父親が死去。
時代の流れは、石炭から石油へ移行し、猪木家は石炭問屋を廃業。
寛至が13歳のとき、祖父、母親、兄弟でブラジルへ移住した。
その渡航中、船上で祖父は死去した。
ブラジルのサンパウロ市近郊の農場に着いた翌朝の5時にラッパの音で起こされ、夕方5時まで12時間、コーヒー豆の収穫の仕事に従事した。
1年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないという契約だった。
転機はサンパウロで興業を行っていた日本プロレスの力道山が猪木に目をつけたときだった。
猪木の噂を聞いた力道山は、猪木を呼んでいった。
「おい、裸になれ。」
そして猪木の肉体に納得した力道山は
「よし、日本へ行くぞ。」
そして
「3年でモノにしてみます。」
といって自身の付き人として日本につれて帰った。
そして日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングが始まった。
日本プロレスの練習は半端ではなかった。
猪木、馬場達、若手の連中が一同に並び行うスクワットによって、流した汗は湯気と水溜りとなった。
倒れれば容赦ないゲキと竹刀が飛んだ。
猪木は5ヶ月のスパルタ教育に経てデビューを果たした。
猪木とジャイアント馬場は、同じ日に入門し、同じ日にデビューした。
しかし力道山の2人への接し方は違った。
ジャイアント馬場は、プロ野球出身で、知名度もあり肉体的にも恵まれていた。
力道山の付き人を経験せず、すぐにアメリカ遠征に出され給料も出た。
猪木は、朝から夜の遊びまで付き人をさせられ、力道山は目の仇のように厳しく育てた。
例えば、猪木が力道山にリングシューズを履かせるとき、ちょっと紐の掛け違っただけで殴り蹴飛ばしたり、灰皿を投げつけたり、人前で靴を履かせて履かせ方が悪いと靴べらで顔を殴ったり、飼い犬を番犬として教育する際の実験台にしたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり、意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、「声を出すなよ」といってアイスピックで刺したり、素人に猪木をサンドバックとして殴らせたりした。
東京プロレス旗揚げ-倒産、日本プロレス復帰-追放

1963年12月15日、力道山が死去。
1964年、猪木はアメリカへ武者修行。
1966年、
「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」
と猪木は東京プロレスを旗揚げしたが、3か月で破産し日本プロレスに戻った。
日本プロレス復帰後、馬場とタッグを組みBI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。
シングルでもUNヘビー級王座を獲得。
そして猪木は、力道山の生前、16戦全敗だった馬場との直接対決を要求した
しかしそれは叶わなかった.。
また猪木は、日本プロレスの不透明な経理に対して不信感を抱いた。
こうして確執が深めた猪木は、1971年に日本プロレスから追放処分を受けた。
猪木の除名を発表した記者会見後、日本プロレス事務所では、選手会によるビール乾杯が行われた。
倍賞美津子と結婚

1971年11月、猪木は倍賞美津子と結婚した。
1億円の結婚式は話題になった。
猪木は、これより前、アメリカ武者修業時代に、アメリカ人女性と結婚し、離婚。
2度目の倍賞美津子との結婚は17年位続いたが、2人共に浮気があり離婚。
そして1989年に、22歳年下の女性と3度目の結婚をしたが、再び猪木の浮気により離婚した。
新日本プロレス
1972年1月26日、猪木は新日本プロレスを旗揚げ。
社長は猪木で、専務取締役兼営業本部長は新間寿だった。
新間寿は、中央大学に入学後、柔道部に所属しつつ日本プロレスの道場にボディビル練習生として通った。
大学卒業後、マックスファクター(化粧品メーカー)でサラリーマンをしていたが、猪木と共に東京プロレスの立ち上げた。
東京プロレスは3ヶ月で倒産したため、新間は小来川鉱山鉱夫、ダイナパワーセールスマン、寿屋パン店の経営を経て、そして新日本プロレスに入った。
旗揚げ戦で猪木はカール・ゴッチと対戦。
15分10秒、猪木の卍固めをはずしたゴッチがリバーススープレックスから押さえ込んだ。
当初、新日本プロレスの経営は苦しかった。
全日本プロレスの圧力で有名外国人プロレスラーは呼べなかったため、無名の外国人選手を発掘し招聘した。
タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどは後にスター選手となった。

新間寿
そして新間寿は企画で勝負した。
大物日本人対決、遺恨試合、実力世界一決定戦など、これまでタブーとされていた試合や奇抜で魅力ある試合をマッチメイクしファンの心をつかんだ。
新間は「過激な仕掛け人」と呼ばれ、ブーム時、新間はレスラー並の人気があり、「Cash on delivery(現金払い」という新間寿本部長のテーマ曲まであった。
異種格闘技戦
アントニオ猪木は、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」と「ストロングスタイル」を標榜し、その証明のため、プロレスvs柔道、空手、ボクシングなど異種格闘技戦を行った。
ミュンヘン五輪、柔道金メダリスト、ウィリアム・ルスカをバックドロップ3連発で沈めた。
現ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメド・アリと夢の対戦。
不自然なルールによって、猪木はスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー、「世紀の凡戦」ともいわれた。
アリは左脚を負傷して入院。
猪木はこの一戦で何億という借金を背負い込んだ。
パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンの適地に乗り込み、3R15秒、腕をへし折って、自らがペールワン(No.1)であることを証明した。
「熊殺し」の異名を持つ極真空手家、ウイリー・ウイリアムスとの一戦は、猪木がウイリーに腕ひしぎをかけたままリング下に転落。
そこに両陣営のセコンドも入り乱れ、収拾がつかず、引き分けとなった。
映画「ロッキー」のモデルといわれるヘビー級ボクサー、チャック・ウエップナーのパンチで何度かダウンしたが、延髄斬りから逆エビ固めで決めた。
新日本プロレスの勝利
こうして猪木の新日本プロレスは急成長していった。
そしてやがて馬場の全日本プロレスのテレビ中継はゴールデンタイムから消え、故:力道山の国際プロレスは倒産した。
糖尿病596事件

1982年、案と似猪木は、繰り返されるハードなトレーニングとハードな食事のため、正常値が約100~140である血糖値が596の糖尿病にかかった。
インシュリン注射の力で治すのは自分の哲学に反するため、自然治癒で血糖値180まで下げて、44日後にはカムバック戦を行った。
その方法は、どんぶり千切りキャベツを主食にし、
「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」
と大量の氷を入れた水風呂に入った。
(ある医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。)
舌出し失神事件、および人間不信事件
1983年6月2日、第1回IWGP優勝決定戦:アントニオ猪木vsハルク・ホーガンが行われた。
IWGP(International Wrestling Grand Prix)は、「プロレス界における世界最強の男を決める」と猪木が提唱したもの。
当初の計画では、開幕戦は日本で行い、韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし、決勝戦はニューヨークで行う予定だった。
しかしプランが大きすぎることや、「プロレス最強の男を決める」ということに対し、(当然、負けたほうが損だから)各地区のチャンピオンやプロモーターは難色を示し協力を渋るなど、紆余曲折あり、ここまで新日本プロレスは2年という時間と巨費を投じて準備してきたものだった。
アントニオ猪木とハルク・ホーガンの戦いは一進一退だったが、途中、劣勢の猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け、リング下に転げ落ち上がってこなくなってしまった。
レフリーのMr.高橘はカウントした。
「高橋、バカ野郎、待てよ。」
坂口征二がそう叫びながらリングサイドから飛び出し、猪木を抱えてリングに入れようとした。
しかし猪木はエプロンでうつ伏せになり舌を出したままピクリとも動かなかった。
坂口は舌が巻きついて呼吸困難ならないよう、自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ。

そして猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ面会謝絶になった。
坂口と新間は病室の外でひたすら待った。
翌朝、徹夜明けの2人が病室に入ると、なんとベッドには猪木ではなく猪木の弟が寝ていた。
猪木は周囲の目を盗んで夜中にこっそりと抜け出していたのだ。
坂口は激怒した。
「こんな話あるか。
ふざけるんじゃないよ。
俺は当分、会社出ないよ。」
そして
「人間不信」
と書いた紙を会社の自分の机の上に置いてハワイに行った。

2、3日後、新間は病院に挨拶に行き、猪木が途中で帰ってしまったり、マスコミが病院に押しかけたりしてしまったことを謝罪した。
「ご迷惑をおかけしました。」
すると看護師がこんなことをいった。
「私たちもあの試合をみさせていいただきました。
新間さんや猪木さんはプロレスではプロかもしれません。
でも私たちは看護のプロです。
猪木さんがやったように舌を出したま失神するというのは医学的にありえません。
あれは猪木さんの芝居です。」
新間はショックだった。
勝つべき試合で猪木は失神KOされ、現在、雲隠れしている。
坂口はいなくなってしまう。
いったい何がどうなっているのか。
さっぱりわからなかった。
そしてこの事件をきっかけに、新日本プロレスは悪い方向に向かって行くことになる。
クーデター事件

ホーガン戦の約2カ月後、新日本プロレスの内紛が表面化してきた。
いわゆる「クーデター」である。
クーデター側の主張は、会社(新日本プロレス)は年間20億円も売り上げがあるのに、利益が2000万円しか上がらないのは、社長(猪木)が個人事業に回しているせい-というもの。
その猪木の個人事業の1つにアントンハイセルがあった。
アントンハイセルは、1980年に設立され、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすの有効活用法として考案された事業だった。
当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けであった。
しかし実際、プロジェクトを進めていくと、サトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りカス(バガス)が公害問題となったり、ブラジル国内のインフレにより、経営は悪化してしまい、アントンハイセルは数年で破綻し、その負債は数十億円ともいわれ、猪木は新日本プロレスの収入を、その補てんに回してしまった。
(2005年以降、地球環境問題や原油価格高騰などから、サトウキビからエタノールを抽出するバイオ燃料事業は内容が見直され積極的に行われていった。
先見の明がありすぎたのかもしれない。)

クーデターの発端は、1983年5月16日に長州力が新日本プロレスの三重県津大会を無断欠場したことだった。
その夜、長州は猪木へメッセージを送った。
「新日(新日本プロレス)から脱退したい。」
新間はこの件を猪木に相談した。
「社長、これは職場放棄ですよ。
謹慎処分か退職処分にすべきではないですか。」
「そう派手にやってくれるなよ、新間。
そもそもは俺が昨年の長州造反を押さえつけなかったことが原因なのだろうが、長州が今回やったことにしてももう1つ心から怒れない部分があるんだよ。
この前もいったように俺も長州と同じことをして自分を主張してきたし・・・」
「いや、ペナルティを科して、それが受け入れられなければ辞めさせるべきです。」
「俺は長州を信じている。」
猪木は選手の気持ちがわかるというが、それで新間などの背広組は納得できる話ではなかった。
「結局、猪木は長州、浜口を野放しにした。
同じ釜のメシを食い、同じトイレを使い、肌をあわせ汗を流し、朝起きて夜寝るまで行動を同じくする選手達の絆の強さ。
やはり選手は違うんだな。
選手のほうが可愛いのかなと思った。
しかし処分しなかったことで彼らは勢いづいた。」
長州力ら13人のレスラーはが新日本プロレスを離脱した。
(そして、1984年秋に全日本プロレスと業務提携した。)
続いて、1983年8月11日、突如、タイガーマスク(佐山聡)が、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に引退した。
そして「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、マスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。

1983年8月20日、海外にいた猪木が会社(新日本プロレス)の異変を知って帰国。
1983年8月21日、猪木は新日本プロレス事務所に出向き、そこで望月和治常務取締役と山本小鉄取締役から退任を迫られる。
1983年8月24日、猪木と同じく日本を離れていた新間寿営業本部長が帰国し猪木と対面した。
「忘れもしない1983年8月24日。
まさに寝耳に水だった。
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声。
『新間、もうダメだ。
俺が両手をついて頼むから新日本プロレスを辞めてくれ。』
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
何とも弱々しい猪木の声。
これが世界最強の男の吐く言葉か。
『な、何で、社長・・・・・・』
すぐには信じられなかった。
何が起こっているのかすらも理解できなかった。
が、猪木の声を聞いてるうちにプロレスの情熱がスーッと抜けていった。」
1983年8月25日、東京の南青山の新日本プロレス事務所で緊急役員会が開かれ、結局、クーデター事件の責任をとる形で、猪木は代表取締役社長を、新間は専務取締役営業本部長を解任された。
1983年8月26日、坂口征二も副社長から退いた。

1983年8月29日、新日本プロレスは、テレビ朝日からの出向役員:望月和治、大塚博美、新日本プロレスの鬼軍曹:山本小鉄の3名による代表取締役体制を発足。
こうして新日本プロレスの内乱はクーデター側の勝利に終わったにみえた。
しかしテレビ朝日の重役の一言でクーデター派の新体制はたちまち力を失った。
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらうち(テレビ朝日)は放送を打ち切るよ。」
1983年11月1日、新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木は代表取締役社長に、坂口も取締役副社長に復帰した。
UWF すっぽかし事件

1984年、クーデターにより新日本プロレスを追い出された新間は、選手を大量に引き抜いて、新団体「UWF(Universal Wrestling Federation:ユニバーサル・レスリング連盟)」を立ち上げるという大胆な計画を立てた。
『私はプロレス界に万里の長城を築く』
UWFの旗揚げ興行ののポスターにはこう書かれてあった。
また
「私はすでに数十人のレスラーを確保した。」
とも書かれてあり、猪木、タイガーマスク、長州力、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、前田日明などの顔が並んでいた。
前田日明は
「猪木さんが、「俺も後から行くから、先に行ってくれ」といわれたので移籍した。」
という。

1984年4月、猪木は長者番付でプロスポーツ部門1位(納税額8,268万円)になった.
そして4月11日、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた.。
しかしリングには、ポスターに掲載されていた猪木、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどはおらず、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬ら、新日本プロレスのリングではセミファイナル以下のレスラーたちがいた。
ときに罵声が飛び、ときに猪木コール、長州コール、藤波コールが起こった。
こうしてUWFは波瀾の船出となった。
旗揚げ後、しばらくUWFは路線も定まらない状態だったが、藤原喜明が高田延彦を引き連れて参加したあたりから方向性が定まり出した。
それは道場で行われるスパーリングのような、関節技をかけ合う攻防を中心としたサブミッションレスリングだった。
またやがて引退していたタイガーマスク(佐山聡)がザ・タイガーとして参戦。
それによりUWFに蹴りなどの打撃技が加わった。
UWFは、前田、タイガー(佐山)、藤原、高田、木戸修、山崎ら日本人対決を軸に壮絶な試合をした。
ロープワークをせず、相手の技も簡単に受けない。
従来のプロレスのショー的要素を廃し、
「キックが急所にまともに入ったら立っていられない。」
「関節技がガッチリ極まれば絶対に逃げられない。」
という格闘技色の濃いプロレスリングを展開した。
UWFは、従来のプロレスに飽き足らなくなっていた熱狂的なファンを生み出し、社会現象とまでいわれた。
こうして一見、UWFは順調にいくかと思われたが、やがて前田と佐山が対立し、ケンカマッチまで行われ、佐山はUWFを去った。
稼ぎ頭の佐山を失ったUWFは、1985年9月11日に崩壊した。
新旧格闘王
前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦、山崎一夫らは業務提携という形で新日本に復帰し
前田日明は新日本のリングで復帰の挨拶で
あくまで妥協せず新日本プロレスと対決する姿勢を示した
「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」

1986年2月6日、アントニオ猪木が藤原嘉明をスリーパーホールドで失神させた直後、激昂した前田日明がリングに乱入し猪木にハイキックを入れダウンさせた。
1986年4月29日、津市体育館で、前田日明vsアンドレ・ザ・ジャイアント 戦が行われた。
この試合でアンドレは、前田に対して真剣勝負を仕掛けた 。
しかしキレた前田が逆にローキックの連打と関節技でアンドレを戦意喪失にまで追い込んだ。
この試合は収録されたにもかかわらず放映されなかった。
(前田を潰すために新日本が画策したものといわれている。)

1986年10月9日、両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた。
猪木はメインで元プロボクシング世界ヘビー級王者のレオン・スピンクスと戦い勝利した。
前田日明は、マーシャル・アーツのドン・中矢・ニールセンと戦い、その劇的な勝ちっぷりは、猪木を上回り、「新格闘王」と呼ばれた。

アントニオ猪木と前田日明の対談(週刊プレイボーイ)
猪木
「前田がユニバーサル(UWF)に行って戻って来た時、俺を痛烈に批判していただろ?」
前田
「ええ、『猪木は裸の王様』だとか『猪木だったらなにをやっても許されるのか』だとかね。」
猪木
「当時は前田のその言葉を聞いて俺は『裸の王様』なのかもって反省してたんだよ。」
前田
「まさか、そんな。」
猪木
「当時はな、俺の周囲もゴチャゴチャしていて自分の意見すら通すことが難しい時期だった。
会社の規模も大きくなり、テレビ局の意向もある。
そんな状況の中で偉そうなことを言ってもうまく実現できなかったことがいっぱいあった。」
前田
「ええ、俺もそんな猪木さんの苦しい状況はなんとなくわかってました。」
猪木
「レスラーが現役を引退しても安心して生活できるようにと設立したアントンハイセルも失敗して、その責任を取る形で新日本の社長の座からも降りた。」
前田
「はい。」
猪木
「その時、前田が言うように俺は結局、裸の王様だったんだなと思ったな。」
前田
「俺がユニバーサルに身を投じた時、周りのスタッフは『猪木さんも後から参加しますから』と言っていたけども、俺は正直に言って猪木さんは来ないだろうと思ってましたよ。」
猪木
「そう思ってたか。」
前田
「はい。
だってわかりますよ。
外部から見てても当時の猪木さんにはたくさんの重石がついてましたからね。
そんなことよりユニバーサルのマットで見つけ築き上げようとした新しい闘い方のスタイルを広める事の方が頭がいっぱいでしたよ。」
猪木
「もう何年前の話になるのかな。
ある時、地方の体育館で試合があってね。」
前田
「ええ。」
猪木
「雨がな、雨がザーザー降っていたんだよ。
俺は寝転びながら、窓に降り注ぐその雨を見ていたんだ。
そうしたら、その雨粒のひとつひとつが俺の思い出のように見えてきてね。」
前田
「ええ。」
猪木
「こんなこともあった、あんなこともあったってね。
思い出が降り注ぐような感じで恐怖だった。
その時、1番俺の胸を締め付けたのは前田がユニバーサルに行って、また新日本に戻った頃なんだよ。
前田が新しい団体に参加する。
今度は新日本に戻ってきた。
そういう状況なのに、俺は自分の周りの環境を整備できなくて、前田の考えもやろうとしている方向性もちゃんとフォローしてやることができなかった。」
前田
「・・・・・・・・・・」
猪木
「前田には迷惑をかけたと思っているよ。
いや、前田だけじゃない。
いろんな人間に迷惑をかけたなと思っているんだ。」
前田
「猪木さんにそんな風に言われたら、俺はなんと言えばいいのか・・・」
猪木
「ただ反省はしてるけど後悔はしていない。
後悔すると人間は前に進めない生き物だからね。」
前田
「はい。」
猪木
「俺もな、 力道山の付け人をしていた頃は力道山から痛めつけられたことがあって力道山だけは許せねぇと思っていたさ。
何かあると『ブラジルに帰すぞ』と言われてね。
でも彼が死んで10年、いや20年経ったら逆に感謝の気持ちが芽生えたんだな。
力道山がいたから今の俺がいるんだなって。」
前田
「その気持ち、わかりますよ。」
猪木
「だから前田も、あと何年かしたら俺のことを理解してくれる、わかってくれるんじゃねえかと思っているのだけどね。」
前田
「自分もそれなりに歳を重ねてきましたから猪木さんのことを少しずつわかってきたような気がしますよ。
自分が新日本を解雇された時も、たぶん猪木さんは何もわかってないんだろうなと思ってましたよ。」
猪木
「そうなんだよ。
経緯すらよくわかってなかったんだよな。」
前田
「アッハハハ。」
猪木
「あれだろ。
前田が長州の顔面を蹴ったから新日本をクビになったんだっけ?」
前田
「アッハハハハハ。
あのですね、1つ聞いてもいいですか?」
猪木
「なんだ?」
前田
「自分たちがユニバーサルから再び戻った時、猪木さんは俺と1回もシングルで闘わなかったですよね。
どうしてだったんですか。」
猪木
「逃げてたから。」
前田
「アッハハハ。」
猪木
「嫌だったからさ、前田と闘うのが。
だから、ウフフ・・・逃げた。
ウフフ。」
飛龍革命事件
1988年の4月22日、
沖縄の奥武山体育館で猪木・藤波組vsベイダー・マサ斎藤組のタッグマッチが行われ、9分24秒、ベイダー・マサ斎藤組の反則勝ちとなった。
この試合は同じカードでもう1試合が決まっていた。
(2連戦が決まっていた。)
試合後の控室で藤波辰巳がこの日程に異議を唱えた。
「…今日は俺の方がすまん。」
(猪木)
「ベイダーと#$@&$%*&%…」
(藤波)
「…え?」
(猪木)
「ベイダーとシングルでやらして下さい。
今日は僕、何もやってないです。
…もういい加減許して下さい。
もう時間もないです。
#&%@*+$。&%*+@#$
お願いします。」
(藤波)
「・・・・・・」
(猪木)
「はっきりいって下さい、猪木さん。
東京と大阪と2連戦無理ですよ、はっきりいって。
俺、自分が今日こんな形でね、いえる立場じゃないけど。」
(藤波)
「・・・・・」
(猪木)
「俺らは何なんですか!? 俺らは!!」
(藤波)
「命賭けれるかい? 命を。
勝負だぜ、お前。」
(猪木)
「もう何年続くんだ。
何年これが・・・」
(藤波)
「だったら破れよ。
なんで俺にやらすんだ、お前。」
(猪木)
「だったらやりますよ、俺が。」
(藤波)
「俺は前にいった、遠慮することはないって。
リング上は闘いなんだからよ。
先輩も後輩もない。
遠慮されたら困る。
なんで遠慮するんだ。」
(猪木)
「遠慮してんじゃないです!!
これが流れじゃないですか、新日本プロレスの、ね
そうじゃないすか!?」
(藤波)
「じゃ力でやれや、力で、あ?」
(猪木)
「やります!」
(藤波)
「やれんのか!? お前本当に!!」
(猪木)
直後、猪木が藤波に張り手。
藤波も張り手を返す。
「あぁ?」
(猪木)
「えぇ!」
(藤波)
「行けんかい?」
(猪木)
「やりますよ…やりますよ…」
(藤波)
そして藤波はハサミを出して自分の前髪を切る。
「待て…待て…」
(猪木)
「こんなんなったら私やめますよ、この野郎。
お客さんちっとも喜ばないですよ。
俺、負けても平気ですよ!!
負けても本望ですよ、これでやるんだったら!!」
(藤波)
「やれや、そんなら!!」
(猪木)
「やります。」
(藤波)
「ああOK
俺は何もいわんぞ、もう
やれ、その代わり。」
(猪木)
「大阪で俺の進退賭けます。
賭けていいすか?」
(藤波)
「何だっていいや。
何だっていって来いや!!
遠慮する事ぁねえよ。」
(猪木)
「もういいです…」
(藤波)
「・・・・」
(猪木)
こうして藤波の革命を決起された。
その目標は「世代交代」、すなわち「猪木越え」だった。
数週間後、藤波は、ビッグバン・ベイダーに勝って、IWGPヘビー級王座を獲得。
その数か月、猪木は挑戦者として藤波に挑み、60分フルタイムの名勝負の末引き分けた。
藤波は新日本プロレスのエースとなり、1999年には新日本プロレスの社長に就任した。
政治へ
1969年から20年近くゴールデンタイムを死守してきた「ワールドプロレスリング」が、1988年3月でゴールデンタイムから撤退し、4月から土曜の午後4時の放送に移行した。
放送権料の減少からレスラーのファイトマネーダウンは明白だった。
しかもエースの猪木の衰えは顕著だった。
1989年2月22日、アントニオ猪木は、長州力のリキラリアートの連発に、完璧なピンフォール負けを喫した。
猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。

猪木は「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に、「スポーツ平和党」を結党した。
党首は猪木、幹事長は新間寿だった。
そして第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
1989年7月24日、猪木は参院選に当選し、史上初の国会議員レスラーとなった。
(なんと最後の1議席に滑り込み当選)
1989年8月1日、国会議事堂に初登院し議員バッチの交付を受けた。
「今話題になっているリクルート問題に対して、私はこの一言で片付けたい『逆十字固め』。」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる。」