力道山
1943年2月20日、アントニオ猪木、本名:猪木寛至は、神奈川県横浜市鶴見区で生まれた。
家は石炭問屋を営んでいた。
寛至が5歳のときに父親が死去。
時代の流れは、石炭から石油へ移行し、猪木家は石炭問屋を廃業。
寛至が13歳のとき、祖父、母親、兄弟でブラジルへ移住した。
その渡航中、船上で祖父は死去した。
ブラジルのサンパウロ市近郊の農場に着いた翌朝の5時にラッパの音で起こされ、夕方5時まで12時間、コーヒー豆の収穫の仕事に従事した。
1年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないという契約だった。
転機はサンパウロで興業を行っていた日本プロレスの力道山が猪木に目をつけたときだった。
猪木の噂を聞いた力道山は、猪木を呼んでいった。
「おい、裸になれ。」
そして猪木の肉体に納得した力道山は
「よし、日本へ行くぞ。」
そして
「3年でモノにしてみます。」
といって自身の付き人として日本につれて帰った。
そして日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングが始まった。
日本プロレスの練習は半端ではなかった。
猪木、馬場達、若手の連中が一同に並び行うスクワットによって、流した汗は湯気と水溜りとなった。
倒れれば容赦ないゲキと竹刀が飛んだ。
猪木は5ヶ月のスパルタ教育に経てデビューを果たした。
猪木とジャイアント馬場は、同じ日に入門し、同じ日にデビューした。
しかし力道山の2人への接し方は違った。
ジャイアント馬場は、プロ野球出身で、知名度もあり肉体的にも恵まれていた。
力道山の付き人を経験せず、すぐにアメリカ遠征に出され給料も出た。
猪木は、朝から夜の遊びまで付き人をさせられ、力道山は目の仇のように厳しく育てた。
例えば、猪木が力道山にリングシューズを履かせるとき、ちょっと紐の掛け違っただけで殴り蹴飛ばしたり、灰皿を投げつけたり、人前で靴を履かせて履かせ方が悪いと靴べらで顔を殴ったり、飼い犬を番犬として教育する際の実験台にしたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり、意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、「声を出すなよ」といってアイスピックで刺したり、素人に猪木をサンドバックとして殴らせたりした。
東京プロレス旗揚げ-倒産、日本プロレス復帰-追放
1963年12月15日、力道山が死去。
1964年、猪木はアメリカへ武者修行。
1966年、
「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」
と猪木は東京プロレスを旗揚げしたが、3か月で破産し日本プロレスに戻った。
日本プロレス復帰後、馬場とタッグを組みBI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。
シングルでもUNヘビー級王座を獲得。
そして猪木は、力道山の生前、16戦全敗だった馬場との直接対決を要求した
しかしそれは叶わなかった.。
また猪木は、日本プロレスの不透明な経理に対して不信感を抱いた。
こうして確執が深めた猪木は、1971年に日本プロレスから追放処分を受けた。
猪木の除名を発表した記者会見後、日本プロレス事務所では、選手会によるビール乾杯が行われた。
倍賞美津子と結婚
1971年11月、猪木は倍賞美津子と結婚した。
1億円の結婚式は話題になった。
猪木は、これより前、アメリカ武者修業時代に、アメリカ人女性と結婚し、離婚。
2度目の倍賞美津子との結婚は17年位続いたが、2人共に浮気があり離婚。
そして1989年に、22歳年下の女性と3度目の結婚をしたが、再び猪木の浮気により離婚した。
新日本プロレス
1972年1月26日、猪木は新日本プロレスを旗揚げ。
社長は猪木で、専務取締役兼営業本部長は新間寿だった。
新間寿は、中央大学に入学後、柔道部に所属しつつ日本プロレスの道場にボディビル練習生として通った。
大学卒業後、マックスファクター(化粧品メーカー)でサラリーマンをしていたが、猪木と共に東京プロレスの立ち上げた。
東京プロレスは3ヶ月で倒産したため、新間は小来川鉱山鉱夫、ダイナパワーセールスマン、寿屋パン店の経営を経て、そして新日本プロレスに入った。
旗揚げ戦で猪木はカール・ゴッチと対戦。
15分10秒、猪木の卍固めをはずしたゴッチがリバーススープレックスから押さえ込んだ。
当初、新日本プロレスの経営は苦しかった。
全日本プロレスの圧力で有名外国人プロレスラーは呼べなかったため、無名の外国人選手を発掘し招聘した。
タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどは後にスター選手となった。
新間寿
そして新間寿は企画で勝負した。
大物日本人対決、遺恨試合、実力世界一決定戦など、これまでタブーとされていた試合や奇抜で魅力ある試合をマッチメイクしファンの心をつかんだ。
新間は「過激な仕掛け人」と呼ばれ、ブーム時、新間はレスラー並の人気があり、「Cash on delivery(現金払い」という新間寿本部長のテーマ曲まであった。
異種格闘技戦
アントニオ猪木は、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」と「ストロングスタイル」を標榜し、その証明のため、プロレスvs柔道、空手、ボクシングなど異種格闘技戦を行った。
ミュンヘン五輪、柔道金メダリスト、ウィリアム・ルスカをバックドロップ3連発で沈めた。
現ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメド・アリと夢の対戦。
不自然なルールによって、猪木はスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー、「世紀の凡戦」ともいわれた。
アリは左脚を負傷して入院。
猪木はこの一戦で何億という借金を背負い込んだ。
パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンの適地に乗り込み、3R15秒、腕をへし折って、自らがペールワン(No.1)であることを証明した。
「熊殺し」の異名を持つ極真空手家、ウイリー・ウイリアムスとの一戦は、猪木がウイリーに腕ひしぎをかけたままリング下に転落。
そこに両陣営のセコンドも入り乱れ、収拾がつかず、引き分けとなった。
映画「ロッキー」のモデルといわれるヘビー級ボクサー、チャック・ウエップナーのパンチで何度かダウンしたが、延髄斬りから逆エビ固めで決めた。
新日本プロレスの勝利
こうして猪木の新日本プロレスは急成長していった。
そしてやがて馬場の全日本プロレスのテレビ中継はゴールデンタイムから消え、故:力道山の国際プロレスは倒産した。
糖尿病596事件
1982年、案と似猪木は、繰り返されるハードなトレーニングとハードな食事のため、正常値が約100~140である血糖値が596の糖尿病にかかった。
インシュリン注射の力で治すのは自分の哲学に反するため、自然治癒で血糖値180まで下げて、44日後にはカムバック戦を行った。
その方法は、どんぶり千切りキャベツを主食にし、
「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」
と大量の氷を入れた水風呂に入った。
(ある医師は「とんでもないことだ」と驚愕し、「普通の人間は真似してはいけない」と語っている。)
舌出し失神事件、および人間不信事件
1983年6月2日、第1回IWGP優勝決定戦:アントニオ猪木vsハルク・ホーガンが行われた。
IWGP(International Wrestling Grand Prix)は、「プロレス界における世界最強の男を決める」と猪木が提唱したもの。
当初の計画では、開幕戦は日本で行い、韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし、決勝戦はニューヨークで行う予定だった。
しかしプランが大きすぎることや、「プロレス最強の男を決める」ということに対し、(当然、負けたほうが損だから)各地区のチャンピオンやプロモーターは難色を示し協力を渋るなど、紆余曲折あり、ここまで新日本プロレスは2年という時間と巨費を投じて準備してきたものだった。
アントニオ猪木とハルク・ホーガンの戦いは一進一退だったが、途中、劣勢の猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け、リング下に転げ落ち上がってこなくなってしまった。
レフリーのMr.高橘はカウントした。
「高橋、バカ野郎、待てよ。」
坂口征二がそう叫びながらリングサイドから飛び出し、猪木を抱えてリングに入れようとした。
しかし猪木はエプロンでうつ伏せになり舌を出したままピクリとも動かなかった。
坂口は舌が巻きついて呼吸困難ならないよう、自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ。
そして猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ面会謝絶になった。
坂口と新間は病室の外でひたすら待った。
翌朝、徹夜明けの2人が病室に入ると、なんとベッドには猪木ではなく猪木の弟が寝ていた。
猪木は周囲の目を盗んで夜中にこっそりと抜け出していたのだ。
坂口は激怒した。
「こんな話あるか。
ふざけるんじゃないよ。
俺は当分、会社出ないよ。」
そして
「人間不信」
と書いた紙を会社の自分の机の上に置いてハワイに行った。
2、3日後、新間は病院に挨拶に行き、猪木が途中で帰ってしまったり、マスコミが病院に押しかけたりしてしまったことを謝罪した。
「ご迷惑をおかけしました。」
すると看護師がこんなことをいった。
「私たちもあの試合をみさせていいただきました。
新間さんや猪木さんはプロレスではプロかもしれません。
でも私たちは看護のプロです。
猪木さんがやったように舌を出したま失神するというのは医学的にありえません。
あれは猪木さんの芝居です。」
新間はショックだった。
勝つべき試合で猪木は失神KOされ、現在、雲隠れしている。
坂口はいなくなってしまう。
いったい何がどうなっているのか。
さっぱりわからなかった。
そしてこの事件をきっかけに、新日本プロレスは悪い方向に向かって行くことになる。