『フランク・ライカールト』
本名:フランクリン・エドムンド・ライカールト
1962年9月30日生まれ
国籍:オランダ
身長190cm 体重80kg
サッカーとの出会い
ギアナのプロサッカー選手だった父とオランダ人の母の間に生まれたフランク・ライカールトは、7歳になる頃、父のすすめでサッカーをはじめました。
その後、引っ越しをするのですが引っ越した先の近所に住み、ストリートサッカーを興じていた仲間の1人が、後の『オランダトリオ』の1人、ルート・フリットだったそうです。
その後、フリットともにプロサッカーチームの下部組織ユースに加入したライカールトは、アムステルダム選抜に選ばれ主軸として活躍。
アヤックスのユースチームから誘いを受け移籍しました。
同じようにアヤックスから誘いを受けたフリットは、アヤックスを断りHFCハールレムへ入団しました。
アヤックス時代

その後のシーズンでもチームの主軸として活躍したライカールトは1985年にはスポーツ紙の選ぶ最優秀選手にも選ばれた。
トップチームデビュー
名門アヤックスのメンバーとして1980年8月にトップチームでデビューし、2年目にはレギュラーポジションを獲得しました。
チームは1982-83シーズンにリーグ戦とカップ戦の2冠を達成、ライカールトはチームの中心選手として活躍しました。
その後もチームの主軸として大活躍したライカールトは1985年、スポーツ紙の選ぶ最優秀選手に選出されました。
1985-86シーズンにヨハン・クライフがアヤックスの監督に就任。
マルコ・ファンバステン(のちのオランダトリオの1人)とライカールトを中心にしたチームを作り、クラブはさらに躍進しました。
監督クライフとの確執~混迷期
翌1986-1987シーズン前にファンバステンがイタリアのACミランへ移籍すると、ライカールトがキャプテンに任命されましたが、うまく機能せず徐々にクライフとライカールトの間に亀裂が生じます。
2人の関係性はその後も修復されることはなく、和解無きままライカールトはアヤックスを退団しました。
アヤックスを退団したライカールトはポルトガルのスポルティングCPへ移籍しますが、前所属チームとの軋轢を引きずりポルトガルリーグへの出場資格を得ないまま、リーガ・エスパニョーラのレアル・サラゴサへ期限付きの移籍に出されました。
レアル・サラゴサでも確実に結果を残したライカールトは、同リーグのバルセロナとセリエAのACミランとの争奪戦の末、ACミランへ移籍が決定しました。
ACミランへ移籍~オランダ・トリオ結成

ACミランへ移籍したライカールトは同じオランダのマルコ・ファンバステン、ルート・フリットとともに「オランダ・トリオ」と呼ばれ、イタリアサッカー界を席巻しました。

3人が揃い踏みした1988年から1993年にかけてACミランは黄金期を迎え、1988年UEFAチャンピオンズカップ優勝を皮切りに、翌年はチャンピオンズカップを連覇し、日本で行われていた南米チャンピオンとのクラブチーム世界一決定戦(トヨタカップ)でも圧倒的な強さで連覇しました。
国内リーグ(セリエA)では、1991-92シーズンを無敗(22勝12分)で優勝するなど、国内外のクラブタイトルを総なめ状態でした。
この強力なオランダトリオ」は自国オランダ代表としても大活躍をし、1988年に開催された欧州選手権(ユーロ西ドイツ大会1988)では並みいる強豪国を打ち破り、見事に優勝しています。

全盛を誇ったACミランの黄金期を支えたオランダトリオだったが、1993年頃になると各々怪我などで揃って出場する機会も激減し、フリットはチームとのトラブルによりACミランを退団、ファンバステンも怪我の為、長期離脱(そのまま引退)、ライカールトもミランを離れ、古巣のアヤックスへ戻ることになりました。
アヤックスへ移籍
31歳となり選手として円熟期を迎えたライカールトは、若手の台頭著しいアヤックスでは生けるお手本として、若い選手たちにその全てを伝えチームを牽引しました。
アヤックスは国内リーグにおいて、ライカールトが復帰した1993-94シーズンから3連覇を達成。
1994-95シーズンにはUEFAチャンピオンズカップをも制覇し、アヤックスでも黄金時代を築き上げましたが、そのシーズンの終了後、ライカールトはそのサッカー選手人生に終止符を打ち引退を表明しました。
手が届かなかったバロンドール
選手として数々の栄光を手にしたライカールトでしたが、運も悪くバロンドール(欧州最優秀選手)には手が届きませんでした。
現役引退~指導者の道へ
代表監督就任
1995年、現役生活にピリオドを打ったライカールトは一時期サッカー界を離れ事業を展開するが、1997年にサッカー界に復帰し、1998年に行われたW杯フランス大会でアシスタントコーチとして代表を支えました。
W杯フランス大会後、ライカールトはオランダ代表の監督に就任し、2000年に行われた自国開催のUEFA欧州選手権で、その監督としての手腕を発揮しチームを準決勝まで導いたものの、イタリアに壮絶なPK戦の末に敗戦。
その責を負い代表監督を辞任しました。

その後、オランダ国内リーグのスパルタ・ロッテルダムの監督を経て、2003年、スペインのビッグクラブ「FCバルセロナ」の監督に就任しました。
代表監督としてユーロで指揮をとったことはあるものの、世界有数のビッグクラブを率いるほどの監督としての経験値の無いライカールトをバルサの監督に抜擢したのは、なんとかつてその確執により袂を分かったヨハン・クライフ(当時バルセロナ会長)だったのです。
名将への道

ライカールト率いるバルセロナは、リーガエスパニョーラ就任一年目の2003-04シーズンに2位となり、翌シーズンでは見事にリーグ制覇、さらにその翌年には連覇を達成しました。
バルセロナ監督就任の5年間で、リーグ優勝2回、スーパーカップ優勝2回、UEFAチャンピオンズ・リーグ優勝1回という華々しい成績を残し、2007-08シーズンに退任しました。
自身としてもUEFAクラブ最優秀監督賞、国際サッカー連盟世界最優秀監督賞など、数々の名誉ある賞を受賞、名選手としてだけでなく監督としても大成功しました。
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