第二次UWF時代
リングデビュー
垣原 賢人(かきはら まさひと)(本名同じ)は1989年、冨宅祐輔・長井弘和らとともに、第二次UWFのオーディションに合格。翌1990年に同期の冨宅祐輔戦で格闘家デビューを果たした。
この冨宅祐輔とのデビュー戦は若い2人のUWFに賭ける熱い気持ちと気持ちがぶつかり合う激しい戦いとなり、後に名勝負としてマニアの間で語り継がれるまでになる。
第6戦目 プロレス 新生UWF 1990.12.1 長野松本運動公園総合体育館 VS垣原賢人 | 田村潔司.com
身長180cmとレスラーとしては、けして大柄な部類ではなく、当時はまだ体の線も細かった垣原。
相手に何度打たれても、けっして怯まず前に出るその勇猛果敢なファイトスタイルは、勝っても負けても盛り上がり、垣原の試合はファンの脳裏に強烈なインパクトを残した。
特に1年先輩の田村潔司とはUWFインターナショナル時代を含め数々の熱い戦いを繰り広げた。
第二次UWF崩壊
数々のビッグマッチを成功させ、格闘技界の中心としてその地位を確立しつつあったUWFだが、フロントと幹部選手たちとの不協和音を発端に大事件へと発展し、1991年初頭に多くのファンに惜しまれつつも団体は崩壊する。
垣原のUWFデビューから僅か1年半後の出来事であった。
UWFインターナショナル時代
UWF系3団体の旗揚げ
第二次UWFの崩壊後、所属選手たちは各々複雑な胸中の中、3つに分裂する。
高田延彦をエースに大半の選手たちが所属した「UWFインターナショナル」。
藤原嘉明を慕う船木誠勝、鈴木みのるらを中心とした「プロフェッショナルレスリング藤原組」。
そしてたった1人取り残された前田日明が旗揚げした「リングス」。
いずれの団体も、所属選手たちの「UWFへの愛」が籠った魅力的な団体だ。
垣原は高田延彦率いるUWFインターナショナルに所属する事を選択する。
ちなみに「プロフェッショナルレスリング藤原組」は91年の3月4日に旗揚げ戦を開催。当時勢いのあった「メガネスーパー」がメインスポンサーとなった。
前田日明の「リングス」はクリス・ドールマンの人脈による外国人選手を中心に地固めし、「WOWOW」をスポンサーにつけての船出となった。
大手スポンサーがつき順風満帆の船出となった2団体に対し、UWFインターナショナルは厳しい状況ながらも、奇抜なアイディアと攻撃的な団体のスタイルで、後に一時代を築くまでに成長する。
同期のライバルストーリー » SPORTS COMMUNICATIONS
余談だが・・・このUWFインターナショナル旗揚げの際、実はコラム著者はUWFインターの営業マン募集の面接を受けている。
小田急線の和泉多摩川駅にあった事務所に面接に行ったのだが、結果は募集1名の狭き門に屈し不合格でした。
新日本プロレスとの対抗戦
垣原を語るうえで忘れられないのが新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦であろう。
この対抗戦は東京ドームを6万7千人超満員札止めとするなど、両団体のファンのみならず全国の格闘技ファン・プロレスファンが熱狂した。
この興行で、垣原は当時新日本プロレスで人気絶頂だった佐々木健介から見事に勝利をおさめ、一躍全国区のトップ選手の仲間入りを果たす。