アルゼンチン元エース、ディエゴ・マラドーナは悪童だったのか?神の子だったのか

アルゼンチン元エース、ディエゴ・マラドーナは悪童だったのか?神の子だったのか

ディエゴ・マラドーナは、アルゼンチン・リーグ史上最年少(13歳)でプロデビューし、ボカ・ジュニアーズなどを経て欧州に渡った。FCバルセロナではさまざまな問題に陥り活躍しきれなかったが、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回の動力源となり、「ナポリの王様」としてファンから愛された。アルゼンチン代表エース10番として1986年の本大会で優勝、代表でも大活躍したが、1997年に現役引退から年月が経った現在でも彼の信奉者多い。特にアルゼンチンではマラドーナを「神の子」と崇拝され、ナポリでは「フットボールの王様」として讃えられている。 1977年に歴代最年少(16歳)でアルゼンチンA代表にデビューし、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれた。


その後の経緯まとめ

FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場。そして1986 FIFAワールドカップではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは彼のスタイルを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。
選手時代からたびたび違法薬物の使用が問題視され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010 FIFAワールドカップ南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。

サッカーの天才少年

マラドーナ誕生と少年時代

1960年10月30日、ブエノスアイレス南部の街の貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として称賛を浴び、9歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームに入団し、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して会場を沸かせるほどの技術を持っていた。
13歳の時に学校を退学してサッカーに専念、14歳にしてにアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格(1974年)を果たした。
1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11カ月でタジェレス・デ・コルドバ戦に初出場。同年11月14日のCAサン・ロレンソ戦でプロ初ゴールを決めた。プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグで1979年、1980年に得点王を獲得。1979~1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年~1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した。

個別のクラブ時代

ボカ・ジュニアーズ時代のマラドーナ

ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチントップチーム)でのマラドーナ(1981年)

1981年2月13日、幼児時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。4月10日のリバープレート戦(スーペル・クラシコ)ではボカの全3得点を挙げる活躍でを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化したうえ、またマラドーナ自身が弱冠20歳にしてリーグ戦200試合以上の出場も原因で疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した。

FCバロセロナ(スペイントップチーム)では、常に問題を抱えていた

FCバロセロナ時代

1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印。カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。1982-83シーズン序盤のバルセロナ・ダービーでは試合唯一となる得点を決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ決勝・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切った。ただ、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でFCバロセロナのヌニェス会長との関係が悪化し始めた。リーグ4位にするのが精一杯だったが、スペイン国王杯決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。
翌1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任し、9月のハビエル・クレメンテ率いるアスレティック・ビルバオ戦でアンドニ・ゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷し、3ヵ月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝をさらわれてしまう。また、スペイン国王杯決勝のビルバオ戦でも度重なる激しいマークに遭い、0対1で得点のチャンスを逃した。 試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りして気絶させた。この乱闘騒ぎが決定打となり、その後スペインサッカー連盟から3ヵ月間出場停止を言い渡される。そして改悛しないマラドーナをFCバロセロナは放出の決定を下した。

イタリアセリエAのSSCナポリに移籍

ナポリでは王様

1984年6月29日、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われ、イタリア・セリエAのSSCナポリへの移籍が実現した。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見には、7万人のサポーターが駆け付けたこの日の入場料収益は7000万リラに上った。マラドーナ自身はこの時、ナポリが前年まで残留争いを繰り広げるような弱小チームだとはまったく知らなかったという。サポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。マラドーナとジョルダーノ、カレカの攻撃トリオは頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca=魔法)トリオと呼ばれ、クラブの黄金時代を築き上げた。マラドーナは、今でもナポリのサポーターからは“神“のように崇められている。

1984-85シーズンはリーグ8位、14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンはチームをリーグ3位に押し上げた。1986-87シーズンはクラブ史上初のセリエA優勝を飾り、コパ・イタリアとの2冠を達成。これまで北部トリノ、ユベントスの2チームしか達成していない国内2冠を南部のナポリが達成できたことを非常評価が高く、自身の自伝でも誇りにしていると語っている。代表でのワールドカップMVPの活躍と合わせて世界最優秀選手賞に選ばれた。1987-88シーズンには15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンにはUEFAカップを制覇した。また、1990 FIFAワールドカップを控えた1989-90シーズンは2度目のセリエA優勝を飾った。

「将軍から王様の手に」、英雄の新旧交代

マラドーナ、アルゼンチン;ボカに帰る

ボカジュニアーズに復帰

1995年10月、14年ぶりにボカ・ジュニアーズへ復帰。髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。

輝かしい代表経歴

アルゼンチン初代表

弱冠16歳の代表

プロデビューから間もなくアルゼンチン代表に招集され、1977年2月16日、ハンガリーとの親善試合に途中出場し、16歳にしてA代表の最年少出場記録を樹立した。翌年に地元アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップには最終候補の25人に残るも、残念ながら「経験不足」という理由により大会登録メンバーから外れた。マラドーナはこの落選を「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」と語る。一方この地元開催のワールドカップでは、同じアルゼンチン人のFWマリオ・ケンぺスが得点王になり、大会最優秀選手(MVP)となった。

1979 FIFAワールドユース選手権

U20チームのキャプテンとして、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献した。チームメイトのラモン・ディアスが8ゴールを挙げてゴールデンシューズ賞(得点王)となり、マラドーナはゴールデンボール賞(MVP)に選出された。圧倒的な攻撃力をみせたアルゼンチンユース代表について、マラドーナは「文句なしに、自分のキャリアの中で一番素晴らしいチームだった」と語る。

1982 FIFAワールドカップ スペイン大会

アルゼンチン代表は1978年大会優勝メンバーにマラドーナ、ディアスらユース世代を加え、1982 FIFAワールドカップに出場した。21歳のマラドーナは10番を付けて出場し、第1ラウンド2戦目のハンガリー戦でワールドカップ初ゴールを含む2得点を挙げた。
第2ラウンド緒戦イタリア戦では「殺し屋」ことジェンティーレに徹底的にマークされた。続くブラジル戦では味方選手がファウルを受けた際、バチスタの下腹部を蹴り、報復行為でレッドカードを受けた。実はこの時マラドーナはブラジルのジーコ率いる「黄金のカルテット」のパス回しに翻弄されており、「逆ギレ」してチームは1-3で大敗し、大会を去った。

マラドーナのための大会

1986年メキシコワールドカップ優勝

1985年5月に約3年ぶりに代表に復帰。ビラルド監督はマラドーナをキャプテンに指名し、その個人能力を活かすチーム作りを行った。マラドーナは右膝に負傷を抱え、チームの成績も芳しいものではなく、当時のチームはメディアから「史上最弱」と酷評されていたが、1986 FIFAワールドカップが始まると一転して華々しい活躍を見せた。グループリーグ初戦韓国戦ではチームの3ゴールすべてをアシスト。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した。

準々決勝 アルゼンチン対イングランド 5人抜きゴールと神の手ゴールと

5人抜きの序曲」

試合前には3年前のフォークランド紛争の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録を樹立したした試合として知られた。相手は名もない弱小チームではなく、ゲーリー・リネカー率いるサッカーの母国イングランド。後半4分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとした相手GKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判は彼の得点を認めた。その4分後にはセンターライン付近でパスを受けると単独で60m近くドリブルし、5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった。

神の手ゴール

準決勝のベルギー戦でも2得点を挙げ、決勝の西ドイツ戦ではマテウスのマークにあいながらも、ブルチャガに絶妙なラストパスを供給し、決勝点をアシストした。大会中チームの総シュート数のうち約半分を放ち、全14得点のうち5得点5アシストを記録。アルゼンチンを2度目のワールドカップ優勝に導いた事から大会最優秀選手に選ばれ、同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれた。

W杯優勝トロフィーにキスをするマラドーナ(1986年)

その後のワールドカップ大会

1990 FIFAワールドカップ イタリア大会

本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、ソビエト連邦戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せた。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足でカニーヒアへ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをお膳立てした。
準決勝は所属クラブの本拠地ナポリで、開催国イタリアと対戦し、勝利した。決勝の西ドイツ戦では、ブッフバルトのマークに沈黙。敗戦後は人目をはばからず号泣するマラドーナの姿が人々に記憶されている。

西ドイツ優勝に涙

1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会

薬物使用によるブランクを経て、1993年2月に代表復帰。1994 FIFAワールドカップでは再びキャプテンに就任し、カニーヒアやバティストゥータと強力な攻撃陣を組んだ。1次リーグ緒戦のギリシャ戦では豪快なミドルシュートでワールドカップ通算8ゴール目を決め、ナイジェリア戦でも好調なプレーを見せた。しかし、試合後のドーピング検査で尿から使用禁止薬物が検出され、大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受けた。このニュースは世界中に衝撃を与え、選手としての華々しい代表経歴を閉じることになった。

狂気のアピール

マラドーナ危篤

2006年に入院するマラドーナ

現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、不健康体となった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときの彼の体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量した。

まさかあんな巨体に......

現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、不健康体となった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときの彼の体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量した。

監督就任

コーチライセンスなしでクラブ監督

1994 FIFAワールドカップ後の出場停止期間中にリーガエスパニョールの下位2チームの監督に就任。最初のデポルティーボでは1勝5敗6分けで、2ヵ月で解任。古豪ラシンでは2勝3敗6分けで、ここは辞任。

栄えある代表監督に

感情むき出しの指導者

2004年の入院手術騒動後に落ち着き、2008年10月16日にアルゼンチン代表に、マラドーナは後任の座に自薦し、10月28日に代表監督就任となった。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となったスコットランドとの親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した。

W杯南ア大会予選

メッシを励ますマラドーナ

就任後初となる2010 FIFAワールドカップ・南米予選のベネズエラ戦には4-0で快勝したが、4日後のボリビア戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの叩かれた。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった。2009年9月の南米予選ではブラジルに敗れ、アルゼンチンの34銭連続無敗記録が途切れたため、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。パラグアイに敗れてついに予選の自力突破圏内(4位以内)から落ちたが、10月のペルー戦ではパレルモのロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節のウルグアイ戦では得点1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた。

2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会

マラドーナ監督は、ピッチ内外での一挙手一投足がメディアの注目を集めた。グループリーグ初戦のナイジェリア戦は90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた。2戦目の韓国戦では1986 FIFAワールドカップでマンマークを受けた許丁茂監督と対戦することになり、試合前には相手を「テコンサッカー」と挑発した。韓国戦に続きギリシャ戦でも快勝し、グループリーグを3戦全勝の首位で通過。決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦はテベスの疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した。準々決勝のドイツ戦は試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのように、カウンターから立て続けに失点した。ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず、0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した。2010年7月27日に解任された。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった。

奇天烈エピソードの数々

ナポリSSCでのマラドーナの評価

1990年から1991年にかけて、麻薬使用や愛人問題、マフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、イタリアサッカー連盟から15ヵ月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったが、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を永久欠番とした。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている。

Jリーグへの移籍話

1991年にはJリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ、年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で入団がほぼ内定していた。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。

夢に終わったJリーガーのマラドーナ

リーガ・エスパニューラ

その後、FIFAが移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定。チケット売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒れた生活や怠慢な練習態度などからビラルド監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった。1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。

アルヘンチーノ・プリメーラ・ディビシオン

1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した。アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15ヵ月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。

空気銃を記者団に撃ち込む

逮捕されるマラドーナ

1994年2月、自身の別荘に押しかけた報道陣200名に対して空気銃を乱射し、数名に軽症を負わせた。記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のフリオ・グロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やカルロス・メネム大統領はより同情的で、法的な処置は未決定となった。

プレースタイルと戦術

選手時代のプレースタイル

身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、フィジカルが強靭で[92]ボディバランスと洞察力に優れ[93]、卓越したテクニックとパスセンスを持っている。ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない。類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。
フロンターレ監督の風間八宏は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った。

マラドーナのドリブルには着いていけない

指導者としての戦術

アルゼンチン代表監督時代にはDFラインにセンターバック4人を並べ、ボランチのマスチェラーノと共に守備を任せた。攻撃はメッシ、テベス、イグアインらの個人技による局面打開を目指した。攻守分担型で典型的な4-2-4のスタイルは「1930年代のサッカー」とも評された。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・ドイツ戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い。ワールドカップ直前にUEFAチャンピオンズリーグを制したインテルの中心選手だったミリート、サムエルをほとんど起用せず、同じくカンビアッソやサネッティは招集さえもしなかったため、その起用法には疑問の声もあった。

個人成績

1982 FIFAワールドカップから1994 FIFAワールドカップまでの4大会に連続出場し、歴代3位タイの通算21試合に出場した。そのうち16試合でキャプテンを務めており、これはFIFAワールドカップにおける最多記録である。21試合で8得点8アシストを記録している。

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