その後の経緯まとめ
FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場。そして1986 FIFAワールドカップではチームを牽引して優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは彼のスタイルを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会から追放処分を受けた。
選手時代からたびたび違法薬物の使用が問題視され、現役引退後は入退院を繰り返した。2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010 FIFAワールドカップ南米予選を辛くも突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、2010年7月に解任された。
サッカーの天才少年
マラドーナ誕生と少年時代
1960年10月30日、ブエノスアイレス南部の街の貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として称賛を浴び、9歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームに入団し、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して会場を沸かせるほどの技術を持っていた。
13歳の時に学校を退学してサッカーに専念、14歳にしてにアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格(1974年)を果たした。
1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11カ月でタジェレス・デ・コルドバ戦に初出場。同年11月14日のCAサン・ロレンソ戦でプロ初ゴールを決めた。プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグで1979年、1980年に得点王を獲得。1979~1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年~1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した。
個別のクラブ時代
ボカ・ジュニアーズ時代のマラドーナ
ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチントップチーム)でのマラドーナ(1981年)
1981年2月13日、幼児時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。4月10日のリバープレート戦(スーペル・クラシコ)ではボカの全3得点を挙げる活躍でを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった。この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化したうえ、またマラドーナ自身が弱冠20歳にしてリーグ戦200試合以上の出場も原因で疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した。
FCバロセロナ(スペイントップチーム)では、常に問題を抱えていた
FCバロセロナ時代
1982年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印。カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた。1982-83シーズン序盤のバルセロナ・ダービーでは試合唯一となる得点を決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ決勝・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切った。ただ、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でFCバロセロナのヌニェス会長との関係が悪化し始めた。リーグ4位にするのが精一杯だったが、スペイン国王杯決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。
翌1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任し、9月のハビエル・クレメンテ率いるアスレティック・ビルバオ戦でアンドニ・ゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷し、3ヵ月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝をさらわれてしまう。また、スペイン国王杯決勝のビルバオ戦でも度重なる激しいマークに遭い、0対1で得点のチャンスを逃した。 試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りして気絶させた。この乱闘騒ぎが決定打となり、その後スペインサッカー連盟から3ヵ月間出場停止を言い渡される。そして改悛しないマラドーナをFCバロセロナは放出の決定を下した。
イタリアセリエAのSSCナポリに移籍
ナポリでは王様
1984年6月29日、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われ、イタリア・セリエAのSSCナポリへの移籍が実現した。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見には、7万人のサポーターが駆け付けたこの日の入場料収益は7000万リラに上った。マラドーナ自身はこの時、ナポリが前年まで残留争いを繰り広げるような弱小チームだとはまったく知らなかったという。サポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。マラドーナとジョルダーノ、カレカの攻撃トリオは頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca=魔法)トリオと呼ばれ、クラブの黄金時代を築き上げた。マラドーナは、今でもナポリのサポーターからは“神“のように崇められている。
「将軍から王様の手に」、英雄の新旧交代
マラドーナ、アルゼンチン;ボカに帰る
ボカジュニアーズに復帰
1995年10月、14年ぶりにボカ・ジュニアーズへ復帰。髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。
輝かしい代表経歴
アルゼンチン初代表
弱冠16歳の代表
プロデビューから間もなくアルゼンチン代表に招集され、1977年2月16日、ハンガリーとの親善試合に途中出場し、16歳にしてA代表の最年少出場記録を樹立した。翌年に地元アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップには最終候補の25人に残るも、残念ながら「経験不足」という理由により大会登録メンバーから外れた。マラドーナはこの落選を「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」と語る。一方この地元開催のワールドカップでは、同じアルゼンチン人のFWマリオ・ケンぺスが得点王になり、大会最優秀選手(MVP)となった。
1979 FIFAワールドユース選手権
U20チームのキャプテンとして、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献した。チームメイトのラモン・ディアスが8ゴールを挙げてゴールデンシューズ賞(得点王)となり、マラドーナはゴールデンボール賞(MVP)に選出された。圧倒的な攻撃力をみせたアルゼンチンユース代表について、マラドーナは「文句なしに、自分のキャリアの中で一番素晴らしいチームだった」と語る。
1982 FIFAワールドカップ スペイン大会
アルゼンチン代表は1978年大会優勝メンバーにマラドーナ、ディアスらユース世代を加え、1982 FIFAワールドカップに出場した。21歳のマラドーナは10番を付けて出場し、第1ラウンド2戦目のハンガリー戦でワールドカップ初ゴールを含む2得点を挙げた。
第2ラウンド緒戦イタリア戦では「殺し屋」ことジェンティーレに徹底的にマークされた。続くブラジル戦では味方選手がファウルを受けた際、バチスタの下腹部を蹴り、報復行為でレッドカードを受けた。実はこの時マラドーナはブラジルのジーコ率いる「黄金のカルテット」のパス回しに翻弄されており、「逆ギレ」してチームは1-3で大敗し、大会を去った。
マラドーナのための大会
1986年メキシコワールドカップ優勝
1985年5月に約3年ぶりに代表に復帰。ビラルド監督はマラドーナをキャプテンに指名し、その個人能力を活かすチーム作りを行った。マラドーナは右膝に負傷を抱え、チームの成績も芳しいものではなく、当時のチームはメディアから「史上最弱」と酷評されていたが、1986 FIFAワールドカップが始まると一転して華々しい活躍を見せた。グループリーグ初戦韓国戦ではチームの3ゴールすべてをアシスト。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した。
準々決勝 アルゼンチン対イングランド 5人抜きゴールと神の手ゴールと
5人抜きの序曲」
試合前には3年前のフォークランド紛争の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録を樹立したした試合として知られた。相手は名もない弱小チームではなく、ゲーリー・リネカー率いるサッカーの母国イングランド。後半4分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとした相手GKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判は彼の得点を認めた。その4分後にはセンターライン付近でパスを受けると単独で60m近くドリブルし、5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった。
神の手ゴール
W杯優勝トロフィーにキスをするマラドーナ(1986年)
その後のワールドカップ大会
1990 FIFAワールドカップ イタリア大会
本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、ソビエト連邦戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せた。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足でカニーヒアへ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをお膳立てした。
準決勝は所属クラブの本拠地ナポリで、開催国イタリアと対戦し、勝利した。決勝の西ドイツ戦では、ブッフバルトのマークに沈黙。敗戦後は人目をはばからず号泣するマラドーナの姿が人々に記憶されている。
西ドイツ優勝に涙
1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会
薬物使用によるブランクを経て、1993年2月に代表復帰。1994 FIFAワールドカップでは再びキャプテンに就任し、カニーヒアやバティストゥータと強力な攻撃陣を組んだ。1次リーグ緒戦のギリシャ戦では豪快なミドルシュートでワールドカップ通算8ゴール目を決め、ナイジェリア戦でも好調なプレーを見せた。しかし、試合後のドーピング検査で尿から使用禁止薬物が検出され、大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受けた。このニュースは世界中に衝撃を与え、選手としての華々しい代表経歴を閉じることになった。
狂気のアピール
マラドーナ危篤
2006年に入院するマラドーナ
まさかあんな巨体に......
現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、不健康体となった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときの彼の体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量した。