ナインティナイン 岡村隆史   後先考えない突破者だった時代

ナインティナイン 岡村隆史 後先考えない突破者だった時代

小学校ではオリンピックメダリストと同じ器械体操クラブに所属。中学ではブレイクダンス関西最強チームの切り込み隊長。高校サッカー、強豪校フォワード。そしてNSCの9期生へ。


岡村隆史は、1970年7月3日、大阪市の北端、淀川沿いに広がる東淀川区出身。
相方の矢部浩之は、1歳下で、1971年10月23日、東淀川区から西へ数kmの吹田市生まれ。
岡村は、幼稚園から大阪市淀川区の体操教室「スペック体操クラブ」に通い、小学校ではバク転ができるなどクラスでは人気者だった、心には闇も抱えていた。
原因は同じ体操クラブに通う、学校は違うが同級生の「西川くん」
岡村は西川くんをみて当初から
「自分と動きがまったく違う」
と思っていた。
スペック体操クラブは、初級のスズメクラスから最上級のフェニックスクラスまで、レベルごとに鳥の名前をつけてクラス分けされていた。
岡村は最後(小5)まで上から2番目のタカクラスにいたが、西川くんは小2でフェニックスクラスに上がったのである。
大人3、4人が西川くん1人につきっきりで指導したり、テレビ取材がきてライトを浴びてキラキラしている西川くんを暗い部屋の隅からみつめながら、子供ながらに
「世の中には頑張ってもどうにもできないことがある」
と悟った。
案の定、「西川くん」こと、西川大輔は、高校生のときにオリンピックで銅メダリストになった。

小6のとき、大阪梅田のナビオ前の歩行者天国でブレイクダンスをする人をみて衝撃を受け、以後、毎週日曜、ナビオ前に通うようになった。
ブレイクダンスは、ラップ音楽に合わせて路上で踊るストリートダンス。
ブレイクダンスは「ブレイキング」ともいわれ、ブレイクダンスを踊る人間は「ブレイカー」と呼ばれるが、いずれも「突破する者」という意味。
その起源は1970年代後半、移民が多く住むニューヨークのブロンクス地区でヒップホップ音楽(ラップ音楽)が生まれると、そのリズムに合わせ、通常、立って行うダンスに地面に手をつく動きを追加。
特徴的なのは、その動きだけでなくダンスバトルがあること。
不良グループ同士の抗争が多発し多くの血が流れていたブロンクス地区で、ミュージャンのアフリカ・バンバータがブレイクダンスのバトルでケリをつけることを提案したのが始まりとされ、これによってやり場のない感情を暴力で発散していた若者たちが、そのパワーをブレイクダンスで表現するようになった。
バトルは、1対1や2対2、チーム対チームで交互に踊り合って、難易度の高いパフォーマンスやアクロバティックを競い、暗黙のルールとして踊っている人間に触れてはいけない。
イベントとして行われる場合、音楽担当のDJ、司会進行のMC、審査員もついて、さらに盛り上がっていく。
こうしてヒップホップとブレイクダンスはニューヨークからアメリカ、そして世界へと拡散していった。
2018年には、14~18歳を対象にしたユースオリンピックで採用。
2024年のパリオリンピックでも新競技として追加される決定。
現在、競技スポーツとしても国際的に認知されているブレイクダンスだが、岡村が出会った1980年代初めは、日本のブレイカー人口は少なく、超マイナーな存在。
つまり第1世代だった。

岡村は、中学生になるとにバスケットボール部に入ったが、すぐに退部。
関西最強のブレイクダンスチーム「エンジェル・ダスト・ブレイカーズ」に入り梅田阪急ナビオ前にてストリートで

パワームーブ
エントリー
フットワーク
フリーズ

という4つの要素で構成されるブレイクダンスの練習に明け暮れた。
難易度の高いヘッドスピン(3点倒立から頭を軸に回転)、ウインドミル(肩、・背中を地面につけて足を開いて回転)、そして最も難易度が高く日本でできる人間が少なかった「Aトラックス」もマスター。
チーム最年少ながら
「KID(キッド)」
という名で切り込み隊長的存在となった。
その実力について、エンジェル・ダスト・ブレイカーズのリーダー、岡村より6歳上のマシーン原田(原田充啓)は、
「岡村は大阪の天才ブレイカーやった」
関東でダンスをしていたEXILEのHIROも
「岡村さんはダンサーとして本当に有名だった」
「東のHIRO、西のKIDっていわれていた」
といっている。

1986年4月、中学時代のすべてをブレイクダンスに捧げた結果、高校進学が危ぶるほど学業は崩壊。
なんとか大阪府立茨木西高校でに進学し、強豪のサッカー部で入ると1つ上に、「矢部、兄」こと矢部美幸がいた。
そして教育係で1番よく走らされ1番苦手だった「マンモー先輩」
足が速く技術もあるが、気の弱さでレギュラーになれなかった「テラーリ先輩」
彼は遠足委員になって下見に行ったとき、たまたま山で死体を見つけ、警察や先生にいわなければいけないとわかっていながら、いう勇気がなく、黙ったまま遠足の日を迎え、そこですべてを打ち明け、全員を現場に連れていって悲鳴を上げさせた。
ちなみに監督は、サッカー未経験、電車のシートのような色のジャージを着ていたので「JR」と呼ばれていた。
高2になると弟、矢部浩之もサッカー部に入ってきた。
それまでに矢部美幸に家に招かれたとき、中3の浩之をみたことはあったが、サッカー部の練習中に
「岡村さん、「夕やけニャンニャン」ってみてはります?
僕あれみてるとドキドキするんですよ」
と話しかけられて意気投合。
多くの時間を一緒に過ごすようになった。
矢部の父親は、知人の保証人に「なりまくった」せいで借金を背負い、岡村いわく矢部は、
「弁当のおかずが毎日同じで卵焼きと赤いソーセージだった」
「水に砂糖と生姜を溶かした特製ジンジャーエールを喜んで飲んでいた」
という。


世はディエゴ・マラドーナ全盛期。
岡村と一緒にサッカー部に入った同級生は50人もいたが、高3になると

フォワード(前線)
・ムードメーカーのオカチン(岡村隆史)
・とにかくよく走るトタニッチョ
・切り返しドリブルのワシオ

ミッドフィルダー(中盤)
・キャプテンでゲームメーカーのリッサ(非常に威厳のあるキャプテンだったが卒業後、ハゲてイジられキャラ)
・ディフェンダーのヒデと女性関係でトラブった副キャプテンのカズ
・マレーシア生まれ大阪府育ち、ケンカ番長のケンスケ (現舞台俳優の鈴木健介)
・守備意識低め、もみ上げにニキビの穴があったモミアナ

ディフェンダー(後衛)
・副キャプテンのカズと性関係でトラブったヒデ
・同期で1番最初に試合に出たクリノ
・自殺点のサブゲ
・優しくて強いムークン

の11人に減少。
岡村の代にはキーパーがおらず、2年生のカワモリが入ったが、彼に初めてオナニーを教えたのは岡村。
高3、最後の試合は、ワシオは実力的な問題で、キャプテンのリッサはケガのためにベンチスタート。
リッサの代わりにチームの司令塔となったのは、「矢部Jr(ヤベジュニ)」こと矢部浩之だった。
岡村の代、「西高サッカー部11期生」の交流は現在も続き、東京に住む岡村が大阪に帰りたい理由の1つとなっている。

周りは明石家さんまやダウンタウン、ウッチャンナンチャンのファンが多かったが、岡村は中学生のときに「ザ・ベストテン」で大暴れする姿をみて以来、とんねるずファンだった。
とんねるずのラジオ番組「二酸化マンガンくらぶ」に
「1度も読まれなかった」
がハガキを送り続けた。
「とんねるずのオールナイトニッポン」、「とんねるずのみなさんのおかげです」、「夕焼けニャンニャン」などを夢中で観て、聴いた。
初めて生でお笑いをみたのは茨木市民会館で行われたトミーズの公演。
そして2度目は、矢部美幸だった。
高校卒業後、吉本総合芸能学院、通称:NSCの7期生となり、「ちゃんねるず」というコンビを結成していた矢部美幸を劇場に観にいった。
このとき同じくNSC7期生の雨上がり決死隊やベイブルースも出演していた。
「知ってる先輩が漫才してるのをみて、客席は暗いけどステージはパーンっと光が当たっててすごいなあって」
しかし自分がお笑いをやろうなどとは、まったく思っていなかった。
将来の夢は
「国家公務員」
そのためにも、そして高校を出てすぐに働かなくてもいい立場になるためにも、当面の目標と課題は
「大学に入ること」
だった。

しかし中学時代、ブレイクダンスに熱中しすぎて進学が危ぶまれたのと同様、高校でもサッカーに打ち込んだ結果、成績は崩壊。
とにかく大学に行こうと。いろいろな学校、いろいろな学部や学科を受験した。
「中学からブレイクダンスやってるし」
と大阪芸術大学の芸術学部舞台芸術学科舞踏コースを受けたとき、実技試験はバレエだった。
周囲はレオタード&トゥシューズ、1人だけ体操服&上履きという
「完全アウェー」
の中、見よう見まねで周りに合わせて踊って。
「すごくツラかった」
さらに面接試験で、ダンス経験を聞かれ
「ブレイクダンスで頭や背中でグルグル回れます」
と答え
「それはダンスではありません。
ダンス経験を聞いているんです」
と高圧的にいわれ
(地獄だ)
と思った。
中には名前さえかければ受かるといわれていた大学もあったが、結局、全部落ちた。
「根こそぎ落ちたわ。
全部落ちた。
何コ受けたかわからない。
親父が「どこでもええから受けろ」「ナンボでも受けてもええから」「1コ受かったらええから」っていって、受験料2万円パーッと払って、片っぱしから受けた。
遠くの大学は、親父やタクシーの運転手やってた同級生のお父さんに送ってもらって・・・・
見事、全部落ちたから。
本当に。
親父いうたもん、「みな落ちるか~い」って」

それなりの予備校に通うには、費用だけでなく予備校に入るための試験に受からなければならない。
岡村は自宅で浪人することを決め、1年間、
「1日最低8時間。
調子がいいときは14時間」
眠くなったら歯磨き粉を目の周りに塗りながら
「入る時間もったいないし、眠くなるから」
と何日も風呂に入らず、足からコケを生やしながら勉強。
疎遠になった彼女には、二股をされた挙句、フラれた。
数々の肉体的、精神的犠牲を払った挙句、関西外国語大学、大阪芸術大学、立命館大学に合格。
自身は大阪芸術大学に行きたかったが、父親の勧めで立命館大学第2経営学部に入った。
第2部=夜間部ということだが、関西では「関関同立」といわれ、立命館は、その一角をなす人気大学。
同時期、矢部浩之が茨木西高を卒業した。
小4でサッカーを始め、夢はヤンマーディーゼルサッカー部(現:セレッソ大阪)、あるいは動物園のオオカミの飼育員になること。
高2のときに茨木西高で背番号10番をつけたが、大阪府選抜の選考で落選し、サッカーのプロは諦めた。
高3でサッカー部最後の試合を終えたとき、観に来ていた岡村が敗戦を悔しがって号泣するのを目撃。
その後、大学進学を目指したが、甲子園大学、花園大学、佛教大学、大阪経済法科大学、いずれも不合格となり、兄同様、芸人を目指すべくNSCへ行くことを決意した。

岡村は一浪して入った立命館大学にマジメに通うつもりだったが、入学してすぐに
「岡村さん、NSC入りませんか?」
と矢部に誘われ、
「必ずトップに立ってダウンタウンのようになってみせる」
と書いた願書を預けた。
しかし矢部は、それをスッカリ出し忘れてしまう。
「お笑い芸人になるからには聖地を見学しにいこう」
と2人でグランド花月にいくと、ちょうどNSC9期生の2次面接試験が行われていて、初めて矢部のミスが発覚。
「なんとかお願いします」
「どうしてもNSCの9期生に入りたいんです」
受付で事情を説明し、なんとか面接を受けさせてもらおうとしたが
「もう間に合わないから10期生で頑張って」
といわれてしまう。
それでもあきらめ切れず
「面接が終わるまで待っとこう」
と出口で粘っていると、それに気づいた大崎洋(現:吉本興業会長)に
「まだおったんか」
と声をかけられた。
すでに試験は終了していたが、大崎洋は、特別に面接を行い
「君ら、面白いんか?」
と聞いた。
岡村は
「はい、面白いッス」
と答え、なんとかNSCに入ることができた。

「とにかく同期の中で1番面白いやつにならなアカンやろ」
「最初に1発かまさなアカン」
と意気込んで臨んだNSC最初の授業。
「自己紹介したい人は手を挙げて」
冒頭、講師がいうと、周囲は次々と手を挙げ、モノマネなどをして自己アピールしていった。
そんな中で岡村は
「1番面白い自己紹介をしたる」
と虎視眈々、そのときを待った。
そして講師が矢部を当てた途端、立ち上がって
「えー、岡村隆史です」
打ち合わせなどしていなかったが、矢部もすぐに立ち上がり
「お前ちゃうやろ!」
誰も2人が知り合いであることを知らないこともあって大ウケ。
講師に
「コンビか?」
と聞かれ、岡村は
「はい」
と答えつつ、心の中では
(かましたった)

味をしめた2人は、2度目の授業の前にネタを仕込むことにした。
矢部に
「ボケたい」
といわれ、岡村は先輩としてカッコをつけて
「オレはツッコミでエエよ」
ちなみにコンビ名「ナインティナイン」は、ブレイクダンスの難易度の高い技「1990」から。
岡村がつくったネタを、矢部美幸にみてもらいながら3人で練習。
それはサッカー部ネタだったが、2度目の授業で披露すると講師に
「ネタそのものは二束三文でおもろないけど漫才の形にはなってる」
といわれ、
「努力が報われた」
と感動。
さらに講師に
「どうみてもボケとツッコミが逆やろ」
といわれると、すぐにボケとツッコミを入れ替えた。

最初の授業でナインティナインに
「コンビか?」
と聞き、2度目の授業で
「どうみてもボケとツッコミが逆やろ」
とアドバイスした講師は、本多正識。
岡村が現在でも
「本多先生」
と慕う恩人である。
高校時代、病気療養中、たまたま聴いたラジオ番組に素人から漫才台本を募集するコーナーがあり、ハガキを書いた。
すると11本連続で採用され
「これだ!」
と思い、高校を中退し、お笑いの世界へ。
漫才、コント、吉本新喜劇、テレビ、ラジオの台本作家として活躍。
演出者として芸人をリスペクトする本多は、NSCの講師にも抜擢されると、
「やるのはお前ら」
「自分たちが面白いと思うことを好きなようにやれ」
などと生徒の自主性を重んじ、強制を嫌った。
岡村と同期のほっしゃん(星田英利)は、ネタ見せでヤンキー座りをするときにわざわざ後ろを向いてパンツを下ろし、丸出しにした
教室には
「オオッ」
「キャーッ」
とどよめきと悲鳴が上がった。
本多は
「舞台やテレビではNGやぞ」
と注意しつつ
(おもろいの出てきたな)
と喜んだ。

「どうみてもボケとツッコミが逆やろ」
と本多がいったのは、エネルギッシュで動きにキレがある岡村に対し、矢部の声が小さかったからだった。
「笑いに正解はない。
笑いには、絶対にこうではこうでなくてはいけないというルールはない。
しかし漫才は基本的にボケとツッコミで笑いが起きる。
ボケは、文字通り、ボケたこと、ピントがズレたことをいう。
ツッコミは、ボケを否定、修正、たしなめ、客の代弁者となる。
強いボケと強いツッコミで大きな笑いが起こる」
本多は、そう思っていた。
次の授業から岡村と矢部はボケとツッコミを入れ替えた。
それをみて本多は、
「矢部が力強くツッコむことができれば、もっと面白いコンビになる」
と期待していたが、矢部は
「何いうてはるんですか、岡村さん」
など「さんづけ」「です、ます調」「敬語」という新しいツッコミスタイルを確立していった。
そして
「笑いに正解はない」
という本多の考えの1番大事な部分を裏づけた。

大阪の専門学校、京都の夜間大学、そしてアルバイトと岡村は多忙だった。
コンビニのアルバイトは、ちょうどアルコール類の販売が始まった時期で、酒を含む飲み物、唐揚げ、肉まん、おでんなどを求めて客足が絶えなかった。
「地獄だった。
店長に絶対に(人気商品)を切らしたらアカン!」っていわれて、ウワーー!!って」
そんなときレジで客に
「ありがとうございます」
といい
「ありがとう」
と返してもらうと心が癒され、頑張ることができるということを経験。
自然と自身が客になっても店員さんに感謝の気持ちを伝えるようになった。
風俗店でも入店するとまず水やお茶を2本購入。
お嬢と対面すると手渡し、会話も敬語で、かつ恋愛をするように楽しみ、サービスが終わると必ずお礼をいって帰った。
一方、矢部は、そういういったサービスを受けるとき、ほとんどしゃべることはない。
殺人者の目を持つ生粋のSだった。

「9期生の中で1番面白くなりたい」
と意気込む岡村だったがが、すぐに自分の中の「お笑い芸人養成所=漫才とコントを学ぶ場所」というイメージと現実のギャップに悩み始めた。
ギャップの1つが、授業のプログラム。
初めはすべての授業に参加していたが、漫才やコントだけでなく、歌やダンス、テレビ論などの授業があることに疑問を感じ、シャネルズの「ランナウェイ」を
「♪とても好きさ
連れていってあげるよ♪」
と歌いながら
(なんやコレ。
連れていかれてたまるか)
と思っていた。
もう1つのギャップは、周囲の反応。
「どんな授業でも目立たなアカン」
と思っていた岡村は、ことあるごとにボケたが、マジメの授業を受けるだけでノッてこない周囲、お笑いの学校なのにイヤな嫌な顔をする講師に違和感を感じた。

ある授業で講師が
「橋の上で漫才するくらいの度胸がないとお笑い芸人として食っていけないぞ」
というと終了直後、みんな道頓堀のひっかけ橋(正式名称:戎橋)に集まっていったが、岡村は冷たい目でそれを見送った。
「何も考えずに先生のいった通りのことをやって、放課後気分で養成所で友達をつくってもお笑い芸人になれるわけがない」

岡村と矢部は、
「不要な授業」
「意味がない」
「講師が自分の自慢話をしているだけ」
と思った授業は欠席するようになった。
最終的に週1回、本多正識の授業、つまりネタ見せを行う漫才の授業しか出席しなくなった。
「漫才の授業だけは実践的にお笑いを学べるだけでなく、誰が1番面白いかということがその場でわかる」
さらにNSCは月々15000円の月謝制だったが、
「週1回しか出ていないのに払うのもったいない」
と思い始め、受付で
「今日は200円しか持ってないので、とりあえずこれで授業出させてください」
といって1回分の授業料を小銭で支払うことにした。


入学3ヵ月後、NSCで「2丁目アマチュア大会」が行われた。
賞金は出ないが
「優勝すれば2丁目劇場(心斎橋筋2丁目劇場)の舞台に立てる」
という特典がついていた。
授業料の延滞、好きな授業以外、サボるということを繰り返してきた不良不登校生、ナインティナインは、この大会で優勝し、その2丁目劇場の舞台に立つ権利を獲得。
が、直後、2人がNSCにいくと入り口に
「岡村、矢部出入り禁止」
という張り紙がされていた。
あわてて受付にいくと
「お前ら月謝払わへんからや!」
と怒られた。

月謝未払いによって、わずか3ヵ月で除籍処分になってしまった2人は、すぐに本多正識のところにいった。
しかし岡村は
「絶対、大丈夫。
絶対、売れるから何が何でもお笑いを続けろ」
といわれ、矢部は
「お前は下らんことをせんと岡村についていけ。
それと声が小さいから腹から声を出せ」
と腹を叩かれただけで
(根回しとか、なんとかしてくれへんのかい!)
(エエ加減なこというなや!)
と思いながらも頭を下げて去った。
その後、
「もうエエわ。
辞めよか」
岡村がいうと矢部は
「このままやったら負け犬になりますよ」
といった。
「岡村さん、NSC入りませんか?」
と誘われたのに続いて、この言葉も岡村の人生を変えた。

失意の2人に
「クビになってもこっちに出たら」
と声をかけたのが、2丁目劇場の支配人、木山幹雄だった。
NSCをクビになったことで2丁目劇場の出演権利も失ったと思っていた2人は
「お笑いを続けられる」
と大喜び。
客はいつも15人ほどしかいなかったが2丁目劇場のステージに立ってギャラももらった。
岡村が舞台、アルバイト、大学と充実した生活を送り、
「これでやっていこうかな」
とホッとしたのも束の間、
「なんで月謝払わんと辞めたヤツが出てるんや」
とNSCから2丁目劇場にとクレームが入った。
「またお笑いができなくなる」
岡村が再び不安に陥る中、木山幹雄は、
「うちらは面白い芸人をつくるのが仕事です。
面白いヤツは出します。
面白かったらよろしいやん」
とツッぱねた。
NSCも、9期生のヘビイチゴを2丁目劇場に出演させることを条件にナイナイの出演を認めた。

しかし今度は、それを聞いた岡村が
「なんで優勝していないヘビイチゴが出てくんねん!」
と激怒。
それは
「9期生の中ではオレらが1番面白い」
というプライドからくる怒りだった。
「自分たちの力で人前に出ていくしかない」
後ろ盾がない岡村は「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」に積極的な気持ちで挑戦することを決めた。
通称「今宮えびす」は、毎年、夏、今宮えびす祭りの中で今宮えびす神社の境内で行われるイベント。
過去にダウンタウンも優勝(福笑い大賞、賞金20万円)したことがあるという、決して子供向けではないプロを目指す芸人による本気の賞レース。
現在ならいろいろな道や方法があるが、この頃の大阪の若手お笑い芸人がスターになるまでのストーリーは限られていた。

・賞レースで優勝
・テレビの仕事をもらう
・レギュラー番組をもらう
・「笑っていいとも!」や「スタードッキリ㊙報告」など全国区の人気番組に出る
・冠番組を持つ
・ゴールデンタイム進出

というのが既定路線。
これに乗ることができれば

・ギャラが上がる
・個人にマネージャーがつく
・新幹線がグリーン車になる
・弁当をオーダーできる
・仕事を選べる
・スタッフが共演者のOK、NGを確認してくれる
・スタッフが共演者を忖度してくれる
・出演者を代えられる

など特典がついてくる。
岡村は
「それがスターだ」
と思っていた。
が、今宮えびすで予選落ち。
「なんで落ちんねん!
なんかの間違いやろ」
近くにあったゴミ箱を蹴飛ばすほど怒ったが、「9期生の中ではオレらが1番面白い」という天狗モードから、一気に「なんとかしなければ」モードに切り替わった。

1991年3月、9期生の卒業公演を観にいったナインティナインは、吉本の若手芸人を仕切る中井秀範に
「ああ、お前らか。
NSCの授業料払わんと出世払いとか生意気なこというとんのは。
消したるわ」
といわれてしまう。
中井は、事前にNSCの講師から
「月謝払わんと退学させられたナインティナインいうコンビは絶対売れます」
と聞いていて
「楽しみやなあ。
けど(将来のために)1回、鼻折っといた方がエエな」
と思っていた。
そんな愛のムチだとわかるはずがない岡村は、
「そんなことできるんかい」
と憤った。
そして「爆笑GONGSHOW」、「爆笑BOOING」など若手芸人が出演する大阪の深夜番組を必ず観て、出演芸人をチェック。
「ヘビイチゴが出てるから、次は呼ばれるんちゃうかな?」
とソワソワしていたが、本当に仕事をもらえない時期が続いた。
そしてタクシー乗り場に並び、前に並んでいる見ず知らずの女性に話しかけ、目的地が同じ方向かどうかを確認。
「お金、半分払うから一緒に乗せてや」
と交渉し、乗せてもらったことがある。

1991年8月、同期のヘビイチゴがシュールなネタで深夜番組でレギュラーとなるのを目撃した岡村は、
「これ以上、差が開くのはマズい。
とりあえず(去年予選落ちした)今宮えびすで優勝せな」
と一念発起。
まずは先輩芸人に聞き込みをして今宮えびすで優勝するための情報を収集。
「そもそもコンクールの予選なんて何百人も集まったコンビの漫才をズーっとみせられるんやから、審査員が真剣にみてんのは最初の20組くらいや。
朝イチ会場いって発表順も10番以内に入らんとネタなんてみてもらわれへんよ」
というアドバイスに従って、当日、気合を入れてかなり早めに会場入り。
それでも8番目で
「上には上がいる」
と思った。
無事予選を通過し、その後も勝ち進んで決勝に残ったが、最終的に3位だった。
司会&審査員のオール巨人が
「3位はナインティナイン」
と発表した瞬間、喜びよりも
(エエッ!
俺らが1番ウケてたのに優勝違うんかい)
という気持ちの方が強く、それが顔や態度に出てしまい
「なんや、うれしないんか!
うれしそうな顔せえ」
と巨人に怒られ、あわてて笑顔で
「アッ、うれしいです。
ありがとうございます」
それでも納得できず授賞式の後、点数を確認。
すると審査員の点数だけでは4位で、子供審査員のポイントでなんとか3位になっていたことがわかり、
「そら、巨人師匠も怒らはるわ」
「エラい天狗やったなあ」
と素直に反省できた。
ちなみにこのときの優勝者(福笑い大賞)は、しましまんずだった。

次に目指したのは「ABCお笑い新人グランプリ」
通称、「ABCお笑いグランプリ」あるいは「ABC」は、過去の優勝者(最優秀新人賞)に宮川大助・花子、トミーズ、ダウンタウンらがおり、優勝=売れることが約束されたビッグタイトル。
岡村は様々な策を練った。
1つ目の策は、審査員の好きな若手芸人になること。
新野新、香川登志緒、藤本義一らの好きそうな若手芸人を

・勢いがある
・声が大きい
・テンポがいい
・舞台を大きく使って汗をかく

と分析。
2つ目は、それに合致するネタづくり。
持ちネタのコントにしゃべりを足して漫才スタイルに。
さらにテンポをよくして、岡村が動けるようにアレンジ。
矢部は、ツッコむときの間や動きなど細かい部分まで意識。
持ち時間は5分だったが、
「4分55秒きっかり」
に漫才が終わるように何度も練習した。
3つ目は、衣装。
雨上がり決死隊、FUJIWARA、バファロー吾郎、トゥナイト、よゐこなどが一緒に出場することがわかっていたが、
「この中でスーツを着るコンビは、トゥナイトさんだけ。
それ以外はTシャツ、ジーンズなどラフな衣装でコントをするはず。
他のコンビニ比べ、知名度が低い自分たちが目立つためにはきれいなスーツを着てコントではなく漫才をする必要がある」
と先輩から舞台衣装を借りた。

さらに「ABCお笑い新人グランプリ」では、ネタの前にコンビの推薦人として有名芸人のコメントがVTRで流れる。
岡村はオール巨人に、その推薦コメントをお願いした。
快諾した巨人は
「あの子らは、いごきがすごい。
いごきに注目」
とコメント。
岡村は、巨人が「動き」のことを「いごき」というのが面白くて笑ってしまった。
推薦VTRが終わり、ついに生放送の本番が始まった。。
「思う存分やるだけ」
舞台袖から勢いよく出ていくといきなりアクシデント発生。
あるはずのセンターマイクがない。
岡村は焦ったが、
(何かいわんと始まらない)
と思い、咄嗟に
「マイクがないんですけどもね。
どうしたんでしょうね」
このひと言が客と審査員の心をつかんだ。
マイクはスタッフの単なる置き忘れだったが、まるで仕込みのような効果を発した。
その後のネタも練習通りに漫才ができた。
結果、

最優秀新人賞:ナインティナイン
優秀新人賞:雨上がり決死隊
審査員特別賞:よゐこ、トゥナイト
新人賞:FUJIWARA、バファロー吾郎

と見事、ビッグタイトルを獲得。
岡村は司会の桂三枝にマイクを向けられると感極まって号泣した。

岡村はお笑いをやっていることを父親に秘密にしていた。
高校を卒業後、ずっと同じ会社で働き、ずっと
「手堅い職業についてくれ」
といい続ける安定志向の強い父親に、お笑いをやっているとはいえなかった。
しかしABCお笑い新人グランプリは、日曜日の昼から夕方まで生放送されていて、岡村家のテレビにも長男が映った。
「なんや?
隆史が漫才しとる!」
父親は驚き、優勝が決まるとさらにたまげた。
岡村が帰宅すると机の上に手紙が置いてあった。
「おめでとう。
今日、テレビで漫才をしているのを観ました。
ビックリしました。
優勝したということは努力もしたと思います。
でもあくまで趣味にとどめていくように。
あなたの本業は学業ですので、まず大学で勉強することを最優先にしてください」
岡村は
「本気で反対してる!」
と思った。

結局、岡村が立命館大学に通えたのは1回生のみ。
2回生になると、東京の仕事も増え、1年間で取れた単位は4つ。
父親にとがめられ大喧嘩になった。
「東京で仕事が始まってるから試験受けられへんねん」
「イヤイヤ。
お前出てへんやん。
テレビ忙しいいうて全然みいひんやないか!」
「イヤイヤ。
東京ローカルやからこっちではやってないから!」
「このまま大学いかないなら金をドブに捨ててるようなもんや。
どないすんねん」
押し問答が続いたが、最後は父親に
「お笑いなんてうまくいくはずないやから、大学だけは卒業してくれ」
といわれ、休学することになった。
休学といっても無料になるわけではなく、父親は学費は払い続けた。
結局、岡村は立命館大学に8年間在籍。
「辞めるんやな?」
と父親に確認された後、中退。
卒業はできなかった。
その頃はすで岡村は全国区で売れていたが、大阪の実家は
「ここが岡村の家や」
とファンが集まったり、ピンポンダッシュされたり、車や家にイタズラをされたりした。

ABCお笑い新人グランプリで優勝後、すぐにナインティナインは吉本に
「NGKに出たい」
と直訴。
それは認められ、日本最大級の演芸場、NGK、つまりなんばグランド花月の舞台に1週間立つことになった。
しかし初日の月曜日、いきなり事件が発生。
「ナインティナイン - ハイヒール - 中田カウス・ボタン」
という若手からベテランへ、ベーシックな順番だったのに、当日にハイヒールの都合で
「ハイヒール - ナインティナイン - 中田カウス・ボタン」
に変更。
大先輩に挟まれる形になった岡村は
「そんなアホな」
その上、持ち時間は「10分」と聞いていたのに、スタッフに
「15分あるから」
といわれてしまい、10分のネタしか用意していなかったナインティナインは焦った。
しかしどうすることもできないまま本番が始まってしまった。
ハイヒールが出ていたとき盛り上がっていた客席が、ナインティナインが出ていった途端、シーンと静まり返った。
ネタが始まっても年齢層高めの客は何をしても笑わない。
焦った2人は早口で次のネタ、次のネタとしゃべり通し、
「どうも、ありがとうございました」
といって舞台を降りると、スタッフが飛んできて
「何してるねん、お前ら。
まだ7分や。
7分しかやってへんやんか!」
と激怒された。
中田カウス・ボタンもまだスタンバイできていないので、仕方なく緞帳が下り
「しばらくの間、休憩させていただきます」
とアナウンス。
その後も6日間も、すべての出番でスベり続けた。
悪夢のような1週間が過ぎた直後、岡村はNGKで毎日公演している吉本新喜劇からオファーを受けた。
そしてステージ上で池乃めだかと小っさいオッサン同士、向かい合い、めだかが
「オウッ!
吉本にもやっとエエのが入ってきたな」
というとドカーンと笑いが起こった。

大阪の若手芸人が売れるためには漫才コンテストに出て勝つ必要があったが、中でも

・ABCお笑い新人グランプリ
・NHK新人演芸大賞
・上方お笑い大賞

は3大メジャータイトル。
ABCを獲ったナインティナインは、次に「上方お笑い大賞」に出場することを決めた。
読売テレビで放送される上方お笑い大賞は、過去の大賞受賞者に、桂三枝、横山やすし・西川きよし、今いくよ・くるよ、上岡龍太郎、月亭八方らがいた。
岡村は
「策を練って確実に1位を獲る」
とデータを収集し

・審査員は、お笑いのプロだけでなく、作家や評論家など文化人もいる。
・客層は、年配者が多い。

と分析。
「こういう審査員や客から笑いをとるにはコントではなく漫才」
と決定。
ネタは、誰もが知っている「昔話」を題材にして、中高年世代にもわかるボケをちりばめた。
しかし結果は

大賞:桂ざこば
金賞:横山たかし・ひろし
銀賞:雨上がり決死隊

と入賞ならず。
岡村は
「コントはダメ。
若い人向けの笑いはダメといった考えに囚われてしまった。
完全に自分の策に溺れてしまった」
と反省。
何より悔しかったのは
「雨上がり決死隊が受賞したこと」
だった。

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