デレク・アンド・ザ・ドミノス

Derek and the Dominos
デレク・アンド・ザ・ドミノスといえば、ロック好きであれば知らない人はいないと言ってもいいのかもしれません。または、デレク・アンド・ザ・ドミノスを知らなくても「いとしのレイラ」はご存知ではないでしょうか。
「いとしのレイラ」、デレク・アンド・ザ・ドミノスの代表曲にして名曲中の名曲ですね。
デレク・アンド・ザ・ドミノスにしても、「いとしのレイラ」にしても今更説明の必要はないかとは思いますが、良いものは良いということで、改めて振り返ってみましょう。
デレク・アンド・ザ・ドミノス、変わったバンド名ですよね。デレクとはエリック・クラプトンのあだ名だったそうで、当時あまりの人気に嫌気がさしたエリック・クラプトンが名前を伏せて活動したかったがためにこのような名を付けたのだとか。
その為に、デレク・アンド・ザ・ドミノスのアルバムは当初、誰がやっているのか分からなかったがために人気絶頂のエリック・クラプトンのバンドであったにも関わらずセールス的にはあまり思わしくありませんでした。
デレク・アンド・ザ・ドミノスのメンバーは、エリック・クラプトン、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンの4人で1970年に結成しています。

エリック・クラプトン

Bobby Whitlock

Carl Radle

Jim Gordon
デレク・アンド・ザ・ドミノスは、当時エリック・クラプトンが参加していたブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーのオープニング・アクトにデラニー&ボニーを起用したことから始まります。1969年のことです。
デラニー&ボニーは、デラニー・ブラムレットとボニー・ブラムレット夫婦によるアメリカのデュオ歌手です。意気投合したエリック・クラプトンは、デラニー&ボニーのサポート・ギタリストとなり「カミン・ホーム」などを共作しヒットさせています。
1969年末にデラニー&ボニーはイギリス・ツアーを行っていますが、その時のバック・メンバーがエリック・クラプトン、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン、デイヴ・メイソン、ボビー・キーズ、リタ・クーリッジ等が参加しています。
このメンバーからエリック・クラプトンがボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンを引き抜いて結成したのがデレク・アンド・ザ・ドミノスです。
Layla and Other Assorted Love Songs
1970年、プロデューサーにトム・ダウドを迎え発売されたアルバム「いとしのレイラ」がデレク・アンド・ザ・ドミノスが残した唯一のスタジオ・アルバムです。
そうなんです。名盤と評価され、名曲、名演ひしめく本作ですが、デレク・アンド・ザ・ドミノスは本作1枚しか残していないのです。

いとしのレイラ
本作の特筆すべき点は、オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンがゲストとして14曲中11曲でリード及びスライドギターを演奏していることでしょう。
デュアン・オールマンのスライドギターは、エリック・クラプトンと対等の存在感を示しています。
このアルバムにおいて、もう一人の主役は間違いなくデュアン・オールマンだといえます。
デレク・アンド・ザ・ドミノスが正式には本作しか発表していないことを考えるとデュアン・オールマンはバンドメンバーといってもよいかもしれません。少なくともそれだけの働きをしています。

デュアン・オールマン
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アルバムのハイライトでもある名曲「いとしのレイラ」は、良く知られるようにエリック・クラプトンの親友であるジョージ・ハリスンの妻、パティ・ボイドへの思いを歌ったものです。
アルバム・ジャケットにはエミール・セオドア・フランセン・ド・ショーンバーグの「La Fille au Bouquet(花束を持つ少女)」という絵が使われています。
1970年8月にデレク・アンド・ザ・ドミノスが南フランスのジョルジオ・ゴメルスキーの家に宿泊した際にエリック・クラプトンがこの絵を見て、描かれているブロンドの女性とパティ・ボイドを重ね合わせジャケットに使ったとのことです。
確かに雰囲気が似ていますね。名盤にふさわしい素晴らしいアートワークです。

パティ・ボイド
「いとしのレイラ」以外に、本作からは1971年に「キープ・オン・グロウイング」とのカップリングで「ベル・ボトム・ブルース」がシングル・カットされています。
In Concert
デュアン・オールマンのプレイに大きな感銘を受けたエリック・クラプトンは、その後、デュアン・オールマンにバンドへの加入を正式に要請したものの断られてしまったとのことです。
1971年になると、デレク・アンド・ザ・ドミノスは2枚目のアルバム制作を開始しますが、そのレコーディング中にエリック・クラプトンとジム・ゴードンが仲たがいしてしまい、製作は中止され、バンドはあっけなく解散してしまいました。
スタジオ・テイクしかないと思われていたデレク・アンド・ザ・ドミノスですが、「いとしのレイラ」発表直前の1970年10月フィルモア・イーストでの貴重なライヴ録音が残っており、1973年に発売されています。

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最後にデレク・アンド・ザ・ドミノス解散後のメンバーに関して触れておきましょう。
その後、ソロになってからも大活躍のエリック・クラプトンですが、解散直後はドラッグに溺れ暫く音楽活動から遠ざかってしまいかなり大変な思いをしています。バンド仲間の死や不倫だので疲れ切ったのでしょう。
もっとも疲れ切ったのはエリック・クラプトンだけではなく、ベースのカール・レイドルは1980年にアルコールとドラッグ中毒により37歳の若さで亡くなっていますし、ドラムスのジム・ゴードンに至ってはドラッグ中毒の上に統合失調症となり、1983年には母親を殺害するという事件を起こしてしまい殺人罪で現在も収監されています。
ボーカルとキーボードを担当したボビー・ウィットロックは、大きなヒットこそありませんがソロとしてのキャリアを重ねており、2000年にはエリック・クラプトンと共演しデレク&ザ・ドミノスのBell Bottom Blues などを演っています。