伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。


Edward Toensend Say

「これだけよ。
ほんとうにこれだけの差よ。」

「ボク、手を離さない。
ガンバッテ。
ガンバッテが通じるの。
それはLoveよ。
Sexual Loveでないよ。
Heart Loveよ。
手をこうやって、握手していうの。
通るの、届くの。」

「問題は考え。
いい考えだけ考えるの。
悪い考えみんな捨てるの。
「よしやります」
チェンピオンになれます。」

「ガッツよ、ガッツ。
どんなに疲れていてもガッツポーズ。
問題は格好。
こうなったら(疲れた格好)ダメ。
どんなに疲れていてもガッツポーズ。
大事なのはガッツ。
でも間違ったガッツはいらない。
自信と度胸は違うでしょう。
ちょっと違うの。」

ボクシングにとりつかれたBad Boy

1914年10月4日、エドワード・タウンゼント・ジュニアは、ハワイのオワフ島ホノルル市に生まれた。
父は、弁護士。
母は山口県から移住してきた日系女性だったが、3歳のときに亡くなったため、エディは実母の顔をほとんど知らない。
実母は後妻でエディには2人の異母兄弟いた。
父は実母の妹を3人目の妻にした。
エディは、この継母に馴染めなかった。
そして幼稚園では、「混血」といじめられた。
エディは、自ら
「喧嘩坊主だった。」
というように手のつけられないストリートファイターに育っていった。
明けても暮れても、喧嘩、喧嘩。
母には反抗し、父のいうことも聞かなかった。

エディは14歳でボクシングを習い始め、とりつかれた。
家のマンゴーの木にサンドバッグを吊るし夢中で叩いた。
高校になると「ジャパニーズアメリカンクラブ」というボクシングジムにスカウトされた。
このジムのマネジャーは、サム一ノ瀬。
世界フライ級チャンピオン:ダド・マリノを連れて来日し、白井義男にチャンスを与えた日系2世だった。
(そして白井義男は日本人初の世界チャンピオンとなった。)
エディをコーチをしたのは、フィリピン人トレーナー:ヤング・ギルド。
ギルドは、ピストン堀口と2度対戦し2度引き分けた。
この試合をエディはみていた。
「ピストンはすっごく下手糞よ。
下手っぴいだった。
ギルドはうまかったの。
それでもギルドは勝てない。
ピストン、とてもタフだったから。
後半にウワーンウワーンいって、ギルドは疲れてノーチャンスよ。」
高校を卒業したエディは、大学には行かず、アマチュア選手として活躍した。
それは恐ろしく攻撃的なボクシングだった。
胸にうごめく感情を叩きつけるようなボクシングだった。
そして17歳で全ハワイフェザー級チャンピオンとなった。

エディがハワイ代表として出場した1934年のAAU(全米アマチュア選手権大会)の試合会場には、リングが3つあった。
混同しないように、それぞれブザー、ホイッスル、ゴングが使われていた。
エディと同じリングに、ライトヘビー級にエントリーしていたジョー・ルイスがいた。
ジョー・ルイスとエディと同じ年齢だった。
ジョー・ルイスは楽々と優勝したが、エディはどうしてもAAUで優勝できなかった。
そしてジョー・ルイスは、後に世界ヘビー級チャンピオンとなり、25度も防衛し、「褐色の爆撃機」と呼ばれる伝説的なボクサーとなる。
1936年、ジョー・ルイスが、プロに転向して、ジム・ブラドッグに勝って世界チャンピオンになった年、エディはAAUに出場した。
この大会で決勝まで残ればベルリンオリンピックのアメリカ代表になれる。
しかし勝てなかった。
エディは、この大会を最後に、プロへ転向した。
アマ戦績は、147戦134勝13敗だった。
プロボクサーになったエディは、デビュー後、13戦全勝。
無敗の火の玉ボーイだった。

1941年12月6日、フェザー級ボクサー:エドワード・タウンセントは、プロ14戦目で初めて負けた。
悔し紛れに、遅くまでポーカーをして、朝方、ホテルに帰った。
翌12月7日、よく晴れた日曜日、サイレンが鳴った。
パールハーバーで、戦艦アリゾナが炎上し、日の丸をつけた爆撃機が飛んでいた。
太平洋戦争が勃発した。
そしてエディのボクシングキャリアが終わった。
27歳だった。
戦争が始まるとボクサーも次々と徴兵された。
ボクシングが死ぬほど好きなエディは、軍需景気で儲けていたコカコーラボトラーズに出資してもらって、倉庫を借りて、無料の練習場「コカコーラボクシングジム」を開き、トレーナーとなった。
コカコーラボクシングジムには、毎日幼稚園を終えてからやってくる子供がいた。
ボクサー:タケオ・フジイの息子だった。
この子供は、後に世界スーパーライト級チャンピオン:「ハンマーパンチ」藤猛となる。

百合子タウンゼント

1953年8月、日本では岡晴夫の歌う「憧れのハワイ航路」がヒットした。
ハワイは日本人にとってあこがれの楽園だった。
そのハワイのクラブのショーに、森百合子はダンサーとして出演していた。
森百合子の両親は、東京中野区の鍋屋横丁に住む夫婦漫才師、2人の姉は、姉妹漫才師、もう1人の姉は、落語家に嫁ぎ、妹のサカエは、ジャズシンガーというエンターテイナー一家だった。
ハワイでの森百合子たちのショーは大人気で、彼女たちはちょっとしたスターだった。
エディは、百合子が踊っていたクラブによく遊びにいった。
そしてよく百合子に酒をおごった。
森百合子にとってエディは、19歳年上の優しいオジサンだった。
エディは1度結婚し、2人の息子ができたが、百合子と知り合ったころは離婚して1人暮らしだった。
ビール会社で働きながら、ボクシングのトレーナーもしていた。
やがて2人は結婚した。
エディは44歳、百合子は25歳だった。

百合子タウンゼント

力道山

百合子が踊っていたクラブには、相撲を廃業してプロレスラーになった力道山も通っていた。
力道山は、本名を金信格(キム・シンキョ)といい、朝鮮の咸鏡南道で出生し、来日後、大相撲の二所ノ関部屋に入門。
1945年、敗戦の年に十両に昇進。
1950年、5月場所で、関脇で勝ち越し「大関か?」ともいわれたが、番付編成会議の結果、見送られた。
その数か月後、力道山は、親方にも誰にも相談せず、深夜1人で髷を切り落とした。
出世を含めてさまざまな理不尽、差別、親方との軋轢など、その理由が推測されたが、力道山がそれを明かすことはなかった。

敗戦後、日本は驚異の復興をみせていた。
しかしまだまだ外国に対して強いコンプレックスがあった。
だから力道山が外国人レスラーに空手チョップで叩き込む姿に日本人は興奮した。
こうして力道山はスターとなった。
百合子と結婚して5年経った頃、エディはその力道山から呼び出された。
「何ですか?」
「ワシはボクシングの世界に入りたいと思っている。
今の日本にヘビー、ミドルのいい選手がいない。
そいつをワシは育てたいのだ。
ワシはトウキョウのシブヤというところにスポーツパレスをつくった。
そこにボクシングジムをつくるから来てくれるね?」
エディは考えさせてくれと頼んだが、力道山は強引だった。
「リキ、OKだ。
来月行くよ。
ただし1年契約ね。」
「来月?
No、ダメよ。
今選手がトレーニングしてるの。
教える人がいない。
来週すぐ来るの。
OK?」
こうしてエディは1人で飛行機に乗り、日本に着くと力道山と秘書の吉村義雄に迎えられた。
そして中野区本町4-31-1の鍋屋横丁の百合子のの実家に落ち着いた。
(現在、この地は、百合子夫人が経営するスナック「ドンピン」となっている。)

東京都渋谷区大和町76
現:ヒューマックス渋谷ビル

リキスポーツパレス

間も無く百合子が帰国。
エディを百合子に連れられてリキスポーツパレスを訪れた。
リキスポーツパレスは、東京都渋谷区大和町76(現:道玄坂)にあった。
このビルは、約15 億円(現在の貨幣価値に換算すると約55億)をかけて建てられた。
1階が、ボウリング場とスナックバー。
2階は、スチームバス、レストラン、喫茶店、ボクシングとレスリングのトレーニングジム。
3階は、リングが常設された円形会場、プロレスのオフィス。
4階には、社長室とボディービルジム。
6階と7階は、女性向けのチャーム・スクール(花嫁学校)。
8階は、女性向けのボディービル・ジム。
屋上には、王冠のモニュメントが輝いていた。
しかし力道山の進出に対してボクシング界は否定的だった。
真剣勝負であり、クリーンなファイティングスポーツであるボクシングのイメージダウン。
そして興行的な懸念があった。
全日本ボクシング協会会長:本田明は、ボクシングに理解がある住吉連合の阿部重作会長を仲介人にして、力道山と手打ちを行った。
本田会長は本田天皇と呼ばれるほどのボクシング界の実力者で、阿部重作は東日本を取り仕切る大親分だった。
力道山は、あまり表に出ず、オーナーとして裏方に徹し、リキジムの代表には、伊集院浩が就いた。
伊集院は、毎日新聞運動部のベテラン記者で、明治大学ではラグビーと相撲のトップ選手だった。
剛直な性格と侍のような精神の持ち主で、力道山の招聘を受け、新聞社を繰り上げ定年した。
加えて、日刊スポーツの鈴木庄一、スポーツニッポンの後藤秀夫が在社のまま非公式なブレーンとなった。

リキスポーツパレスの2階のトレーニング場は、昼間はプロレスラーが使い、17時からはボクサーが使った。
リキスポーツパレスは、ボーリング場、ビリヤード、スナックバー、レストラン、喫茶店、サウナなど、まだ日本では珍しいものが多かったが、リキジムのスタッフもインターナショナルだった。
マッチメーカーはロスから邦字紙「加州毎日」の記者のジョージ吉永。
ときどきハワイからサム一ノ瀬やテッド河村がやってきて臨時トレーナー。
世界ヘビー級チャンピオン:ジョージ・フォアマンを育てたディック・サドラーが来たこともあった。
初めてリキジムに入ったエディは、ゴツい竹刀が何本もあるのに気づいた。
「この竹刀片付けてよ。
リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるの?
ボク、ハートで教えるの。
ラヴよ。
わかる?」
リキスポーツパレスでは、隔週土曜日ごとに、「ビッグファイト」と銘打ってボクシングの試合が行われた。
外人選手と日本選手が戦うスリリングなカードが人気だった。
しかし日本には強い重量級の選手がいなかった。
ジョージ吉永がいった。
「横浜に海兵隊上がりの強い奴がいると聞いたが、名前も住所もわからないんだ。」
元海兵隊の日系三世でハワイ出身、喧嘩っ早くて、背は大きくないが腕力は抜群だという。
力道山は命令した。
「その男をすぐ見つけて連れて来い。」

1963年2月20日、リキジム代表の伊集院浩が日本刀で割腹自殺した。
古式にのっとた見事な切腹だった。
リキジム代表は力道山の秘書だった吉村義雄が引き継いだ。
吉村はスタッフに命じた。
「勝率を上げてください。」
リキジム所属選手の勝率が上昇カーブを描き出した。
「エディさんはディフェンスをあまり教えない。
まず攻撃から教える。
ちょっと腰を落として1発1発に腰を入れて打つ。
パンパンパンといいながらね。
とにかく攻撃主体のボクシングだった。」
「エディが教えるのは反則ばかり。
サミング(親指で相手の目を突く)、キドニーパンチ(背後から打つ)、ローブロー(ベルトラインより下を打つ)、肩で相手のアゴを跳ね上げるとかね。」
エディのボクシングスタイルについての証言である。
骨の髄までプロフェッショナルボクシングファイターだったエディにとって、ボクシングは勝たねばならぬ点で徹底していた。
その口癖は
「ボクシングは戦争よ。
リングに上がったら相手を殺すの。」
だった。
しかし次の言葉も忘れてはいなかった。
「試合が終わったら友達になりなさい。」

伊集院浩が日本刀で割腹自殺してから約10ヵ月後の1963年12月8日、力道山はラジオ番組の収録後、赤坂のナイトクラブに向かった。
力道山は酒癖が悪く、気分がよければドアボーイに1万円札を与えたりしたが、些細なことからテーブルをひっくり返したり、ケンカをした。
この日も、アメリカからやってきた黒人のバンドに向かって
「Negro Go Home.」
「SonOf A Bitch.」
と大声で怒鳴った。
そしてトイレの前で女性と話していると、住吉連合系暴力団の大日本興業構成員:村田勝志が、その横を通った。
力道山は後ろから村田の襟首をつかんだ。
「足を踏んだぞ。」
「踏んだ覚えはない。」
2人は口論となった。
力道山は村田の顎を拳で突き飛ばした。
村田は吹き飛んで壁に激突した。
力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打した。
村田はナイフを抜いて下から力道山の左下腹部を刺した。
錆びた登山ナイフの刃が根元まで刺さった。
力道山は脇腹を押さえながら席に戻り、周囲の心配をよそに平然と酒を飲んだ。
しかし次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。
山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山と親しい医者のいたため、ここに運ばれた。
診察の結果、緊急手術が必要と判断されたが、執刀できる医者がいなかった。
一方、村田勝志は深夜に、力道山が顧問を務めていた町井久之率いる東声会からの報復を受け重傷を負い入院した。
刺された翌日(12月9日)深夜、聖路加病院の外科医長が山王病院に呼ばれ、力道山の手術が行われた。
手術は無事成功し命に別条は無いものと思われた。
12月15日、回診で腹膜炎により腸閉塞を起こしているのが発見され、再び聖路加病院の外科医長により再手術が行われた。
これも成功したと報告されるが、約6時間後の21時頃から力道山は危篤状態に陥り、22時35分に死亡した。
力道山は、呻くように指を3本出しこと切れてしまったという。
最後の言葉は
「俺は死にたくない」
だった。
この3本の指で何を伝えたかったのかは、今も謎のままである。
エディの心の中には力道山の言葉が残った。
「エディさん、日本チャンピオンをつくったら車をプレゼントするよ。
世界チャンピオンをつくったら家を一軒勝ってやる。
これエディとオレとの約束よ。」
「エディさん、心配ないよ。
契約は1年じゃない。
ずうっとワシはいつまでもあんたを離さないよ。」

1993年、力道山の刺殺事件から30年後、岐阜大学医学部教授:土肥修司の著書『麻酔と蘇生』(中央公論社)が出版された。
この中に力道山の死因について書かれてあった。
『力道山の死は出血でもショックでも何でもなく、単に運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった。
・・・・・・
問題は、筋弛緩薬を使用したため、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。』
筋弛緩薬とは、人工呼吸のためのチューブを体内に入れる(気管内挿管)時、その作業をやりやすくするために体の筋肉を柔らかくする麻酔薬の一種。
全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩薬を投与し、筋肉が緩んだ直後にチューブを体内に入れ人工呼吸を行うのが一般的なやり方だという。
土肥教授によれば、力道山は筋弛緩薬によって筋肉が緩んだが、太い首が災いし、気道が広がらずチューブの挿入に失敗したという。
土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について知る当時の医学生から事情を聞き、後に専門医として調査した結果を発表した。
力道山の死に、加害者側である住吉連合に対し、被害者側のバック、東声会から大規模な報復があるのではと危惧されたが、村田の所属する住吉連合系のトップと力道山に近い東声会の兄貴分、山口組の田岡一雄との間の話し合いが行われ事なきを得た。
力道山を刺した村田勝志は、力道山の死を、報復を受けて入院した病院のベッドで聞いた。
そして裁判では1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の刑が下され、キッチリ7年間、刑に服した。
そして出所後、村田組の組長として都内に事務所を構えた。
力道山の命日の翌日になると、人目を避けて、力道山の眠る大田区の寺に参っていたという。
2002年、力道山の孫娘:パク・ヘジョンは、北朝鮮の女子重量挙げの監督として釜山アジア大会に参加した。
へジョンは力道山の長女:金英淑と北朝鮮選手団を引率しているパク・ミョンチョル北朝鮮体育指導委員長の4女で、高校では体操選手、その後重量挙げ指導者になった。
一方、村田勝志の愛娘:篠原光は、格闘家として活躍した。

ハンマーパンチ 藤猛

リキジムのスタッフは横浜の謎の噂の男を見つけ出せずにいた。
その男、ポール・フジイは横浜の外人バーで飲んでいた。
テレビの画面では、高橋美徳が世界ジュニアウェルター級チャンピオン:エディ・パーキンスに挑み、13RKOで敗れた。
ポールはいつかのテレビで、エディがセコンドをしているのをみた。
ポールはエディにマネージャーになってもらおうと思った。
しかし所在がわからないので、とりあえず日本ボクシングコミッションの事務所に行った。
そしてたどたどしい日本語で訴えた。
「ワタシ、ハワイのポールです。
メニーというハワイのトレーナー捜しています。」
対応したスタッフはリキジムに電話した。
エディはポールと話しをして、この男こそ長い間、捜していた男であること知った。
「ちょっとそこを動くんじゃない。
今迎えに行くから待ってて。」
そしてタクシーで急行した。
エディがみたその男は、オーバーにハンチング、髭面、ふてぶてしい風貌と鋭い眼光で、そしてはちきれんばかりの肥満体だった。
エディは内心ガッカリした
「Mr.タウンゼント。
覚えているかい?
タケオ・フジイの息子よ。
ポールよ。
ボク、ボクシングやりたいの。
それでエディさん、探したの。」
「年いくつ?
30か?」
「おおノーノー。
23歳よ。」
「アマチュアのキャリアはあるの?」
「もちろん。
ボク、ハワイのウェルターのチャンピオンよ。」
「今のウエイトは?」
「多分185ポンドくらいかな。」
「ブタだね。
ウエイト落とすの辛いよ
できる?」
「大丈夫よ。
やれるよ。」
エディはポールをリキスポーツパレスに連れて帰った。
ジムでは幻の男の到着を待っていたが、現れた男をみてみんなビックリした。
何たるデブか。
しかしポールがサンドバッグを打つともう1度ビックリした。
モノ凄いパワーだった。
ポールは軽く動いただけで滝のような汗をかいた。
「ポール、ウェルターまで落とすんだ。
35ポンド。
わかるね?
毎日少しずつね。
朝と晩に走るの。
ウエイトが落ちたら来なさい。」
「OK」
ポールは機嫌よく帰っていった。

ポールは中学校入学と同時にボクシング部に入り、すぐに頭角を現した.。
15歳でハワイジュニアクラス・フェザー級チャンピオン、17歳でハワイウェルター級チャンピオンとなった。
父母が本土のネバダ州ラスベガスに移住し、ポールは祖母とハワイで暮らした。
高校3年のときにゴールデングローブ大会のライト級で優勝。
卒業後、アメリカ海兵隊に志願。
全アメリカ兵隊選手権と全海兵隊のチャンピオンとなった。
神奈川県厚木市の米軍基地に入った2年後、MP軍曹として現地除隊した。
そして横浜市のアパートに移り、外人相手の不動産の斡旋・仲介をした。
それは酒と女とケンカの日々だった。
しかしボクシングが、この泥沼から救い上げてくれるかもしれない。
横浜のアパートに帰ったポールは、いわれたように朝晩のロードワークを始めた。
数日してリキジムに行った。
「5kg落としたよ」
「よく落としたね。
もっと落としなさい。
そしたらまた来なさい。」
しばらくしてまたきた。
さらに痩せている。
しっかり走っている証拠だった。
エディは初めてスパーリングをさせた。
ポールはパートナーを打ちまくった。
デブの髭おじさんと思っていた練習生は仰天した。
ポールはアマチュア時代、むしろテクニシャンだった。
技術的な基礎はしっかりできていた。
「海兵隊のとき有名な選手とやったことある?」
「No、大したことないね。」
「プロは強いよ。
もっと手を出さなきゃ。
小さい鉄砲撃つのはダメ。
マシンガン使うの。
ウワーンウワーン、パンパンパン、もっと手を出すの。
ジムに来れないときは走るの。
OK?」
ポールは素直にうなずいた 。

藤猛 (Paul Fujii)

通常、ボクシングのプロテストはC級ライセンスから受けるが、ポールはアマで100戦以上の実績があるため、いきなりB級を受けパスし、デビューも4回戦を飛ばし6回戦からスタートした。
リングネームは「藤猛」となった。
デビュー戦の相手は、日本ミドル級5位の後藤実。
いきなり日本ランカーだった。
ゴングが鳴った。
飛び出した藤は唸るようなもの凄いフックを放った。
キャリアで勝る後藤は、藤の勢いをうまく凌いだ。
藤の大きなミスブローに、場内に笑いさえ起きた。
1分間のインタバールでエディは藤猛の耳に囁いた。
「ポール、今は殺し屋になるんだ。
ダニを踏み潰すあの気持ちだよ。」
2R、藤は標的を捕え、強烈な左右のフックを叩き込んだ。
後藤の動きが止まり、ゆっくり倒れていった。
2分9秒ノックアウトだった。
「ポールもっと減量しよう。
キミの体ならJウェルターまで落としたほうがいい。
140ポンドがリミットだよ。
やれるか?」
「やれるさ。
ウエイト落としてどんどん稼ぐよ。」
2戦目は、吉田邦夫に判定勝ち。
その後は松永彰夫、三上富士男、吉村則保を連続ノックアウトした。
吉村則保はガードの上からパンチを叩きつけて倒した。
5連勝した後、国内で対戦者がいなくなり、エディとともにホノルルに外旋し、外国人相手に5連勝した。
いつしか「ハンマーパンチ」と呼ばれ、日本Jウェルター級4位にランクされた。
「エディさんは人の心をつかむのがうまい。
ボクサーの特長をつかみ、それを引き出す。
彼はあの通り日本語がうまくないが、それがかえって迫力になっているんですね。
注射するように選手に魂を突っ込む。
お前は強いんだぞってね。
選手は暗示にかかってどんどん勝ち進んでいく。」
(吉村義雄(リキジム会長))

1965年6月17日、日本Jウェルター級王者:岡野耕司が、ライト級で世界を狙うためにタイトルを返上、その空位を、笹崎那雄と藤猛が争うことになった。
藤にとって初めてのテレビ放映だったが、ゴングが鳴ると、アッという間に右フックを叩き込んだ。
パンチの自信がある笹崎も迎え撃ったが、藤が打ち勝った。
笹崎はリングに崩れ落ち、必死に立ち上がろうとしたが、左腕をロープにかけたまま膝が麻痺して立てなかった。
わずか45秒でKO劇。
しかも勝った藤猛はいきなり泣き出した。
すべてが電撃的な試合だった。

東洋ジュニアウェルター級タイトルマッチでロッキー・アラーデ(フィリピン)をKOし、新チャンピオンになった藤猛

藤猛(3) 世界王座に就いた試合直後のテレ…:「ボクサーを語ろう」 写真特集:時事ドットコム

1966年9月29日、藤猛は東洋太平洋タイトルへ挑戦した。
王者はロッキー・アラーデ。
藤はデンプシーロールという独特のインファイトスタイルを完成していた。
デンプシーロールは、最強の世界ヘビー級チャンピオン:ジャック・デンプシーのスタイルで、接近戦で頭を8の字を横に倒した軌道に振りながらローリングし、シャベルで土を掬うような左フック、その反動で右フックと間髪入れずパンチを叩きつけ続けるもの。
3R、藤はローリングしてからいきなりフックを叩きつけ、ロッキーは失神した。
藤は喜びを爆発させリングで大きくジャンプした。
世界タイトルへの挑戦もみえてきた。
練習嫌いの藤が目の色を変えて練習に打ち込んだ。
毎朝、青山墓地のアップダウンの激しいコースをを15週走った。
黙々と走り込むことでパンチが鋭くなっていった。

1967年4月19日、藤猛の対戦相手、世界チャンピオン:サンドロ・ロポポロ が羽田に到着した。
マスコミは藤の敗北を予想した。
藤はこれまで世界レベルの選手との対戦がない上に、ロポポはローマオリンピックの銀メダリストで、そのテクニックは数段上に思われた。
ロポポのボクシングは速くて巧く、パンチも強かった。
それに比べ藤は、動きが遅く、パンチは大振りでスピードもなかった。
試合前日、藤猛はスタッフに聞いた。
「ボク、勝ったらどういえばいい?」
「思いきりバンザイだね。」
「うん、それもうやったよ。
他に何かない?」
「あるよ。
勝っても油断しないために、勝って兜の緒を締めよという言葉がある。」
藤は一生懸命口の中で繰り返した。
「それから日本人はお年寄りを大切にするから、岡山のおばあちゃんに呼びかけたらいいな。」
「OK、やってみるよ。」
藤の祖母は、ハワイから来日したが、体調を崩して、岡山の実家にいた。
試合当日、ジャズが流れる控室で、長いモミアゲに無精髭、和服姿の藤猛はガムを嚊んでいた。
そして1万人の観衆の見守るリングに上がると、赤コーナーでロポポは笑顔を浮かべ挑戦者をみていた。
1R、ゴングが鳴ると藤猛は左右のフックを振り回した。
ロポポは爪先立ちの鮮やかなフットワークで回って、左ジャブで挑戦者の髭面を突き刺した。
藤の渾身の左フックはブロックし、右のボディも空転させた。
「1発も当たらない。」
観客からため息が漏れた。
藤の大きな右のロングフックをロポポはスェーで流し、体がねじれた藤に左ジャブ。
藤は歯を剥き出しにして怒った。
ここでゴングが鳴った。
ロポポはニヤリと笑みを浮かべ、藤は首を振り、肩を怒らせコーナーへ戻った。
テクニックの差は歴然だった。
2R、藤は強引に前に出た。
ロポポはロープに詰まってクリンチ。
藤の左ロングフックはミス。
ロポポは左フックを放つが、藤の返しの右フックがロポポの顔面を右クロスカウンターで打ち抜いた。
ロポポは半回転してダウンした。
藤はニュートラルコーナーに押しやられ歯を剥いている。
カウント5でロポポは立った。
襲いかかる藤のボディがロポポにめり込み、再びダウン。
ニュートラルコーナーで藤は足踏み。
ロポポがまた立った。
藤は狂ったように左右のフックを叩き込んだ。
ロポポはロープを背負い滅多打ちにされた。
ロポポのセコンドがタオルを掴んだままリングに上がり、パンチを浴び続けるロポポの背中にしがみつき右手を振った。
試合放棄のゼスチャーだった。
しかし藤はパンチをやめない。
レフリーが藤を背後からロックして引き剥がし試合をストップした。
2R2分33秒、藤猛のKO勝ち。
エディは藤に駆け寄り、藤はエディに抱きついた。
エディはよろけてキャンバスに崩れ落ちた。
「これがヤマトダマシイよ。
カッテモカブッテモオオシメヨ。
・・・・・
カッテモカブッテモヨ。
岡山のおばあちゃん、みてる?
ボク勝ったよ。
ボク世界チャンピオンになったよ。」

田辺清 21戦無敗、世界1位、世界戦直前に引退

関連する投稿


獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガー 山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。


力道山の妻・田中敬子の一代記『力道山未亡人』が刊行!第30回小学館ノンフィクション大賞受賞の話題作!!

力道山の妻・田中敬子の一代記『力道山未亡人』が刊行!第30回小学館ノンフィクション大賞受賞の話題作!!

小学館より、第30回小学館ノンフィクション大賞受賞作『力道山未亡人』(細田昌志・著)が現在好評発売中となっています。価格は1980円(税込)。


おしんにも出演!最大で2~3億円の借金を負っていたガッツ石松

おしんにも出演!最大で2~3億円の借金を負っていたガッツ石松

バラエティー番組などでとぼけたキャラが魅力だったガッツ石松さんですが、元プロボクサーで現役時代はライト級のチャンピオンにまで昇りつめたほどです。そんなガッツ石松さんは映画を自主制作したり、衆院選の出馬などで億単位の借金を背負うなど波乱万丈の人生を送ったそうです。今回はそんなガッツ石松さんについてご紹介します。


“浪速のロッキー”赤井英和のドキュメンタリー映画『AKAI』が公開!赤井の意外な日常を捉えた書籍『赤井図鑑』も発売中!!

“浪速のロッキー”赤井英和のドキュメンタリー映画『AKAI』が公開!赤井の意外な日常を捉えた書籍『赤井図鑑』も発売中!!

元プロボクサーで俳優の赤井英和(63)の現役ボクサー時代を描いたドキュメンタリー映画『AKAI』が、新宿ピカデリーほかで全国公開中となっています。


ドラマ「高校教師」をフルで無料視聴できる動画配信サービスを比較!

ドラマ「高校教師」をフルで無料視聴できる動画配信サービスを比較!

1993年放送の日本のドラマ「高校教師」。脚本は野島伸司。プロデューサーは伊藤一尋。真田広之、桜井幸子、持田真樹、赤井英和、京本政樹らが出演したこの作品を無料視聴できる動画配信サービスをご紹介します。


最新の投稿


『キン肉マンFESTIVAL』が京王百貨店新宿店で開催!限定グッズやフォトスポットも

『キン肉マンFESTIVAL』が京王百貨店新宿店で開催!限定グッズやフォトスポットも

累計発行部数8,500万部を誇る大人気漫画『キン肉マン』の物販イベント「キン肉マンFESTIVAL」が、2026年3月19日から3月31日まで京王百貨店新宿店で開催されます。300点以上のグッズ販売や限定ノベルティ、等身大フォトスポットなどファン必見の企画が目白押しです。


ビートルズ来日60周年記念!伝統工芸や再生素材と融合したPOP UP STOREが阪神梅田本店に登場

ビートルズ来日60周年記念!伝統工芸や再生素材と融合したPOP UP STOREが阪神梅田本店に登場

ビートルズ来日60周年を記念し、日本の伝統工芸や再生素材を活用して彼らの名曲やビジュアルを再現するイベント「ビートルズ来日60周年、昭和のあの日、日本を変えた=温故知新=」が、2026年4月1日から6日まで阪神梅田本店で開催されます。世代を超えて新たなビートルズ体験を提供する注目の催しです。


『頭文字D』の世界が千葉に!名車モチーフの雑貨が揃うポップアップストアが期間限定オープン

『頭文字D』の世界が千葉に!名車モチーフの雑貨が揃うポップアップストアが期間限定オープン

人気漫画『頭文字D』のポップアップストアが、グランサックス イオンモール千葉ニュータウン店に登場。伝説のハチロク(AE86)を再現したウェットティッシュケースや、RX-7型の無線マウス、366日分のバースデーキーチェーンなど、ファン垂涎の公式ライセンスグッズが勢ぞろい。日常を彩る名車アイテムの魅力を紹介します。


昭和の大横綱「千代の富士」の肉体がスーツから甦る。NY発OVERCOATが挑む究極のパターンメイキング

昭和の大横綱「千代の富士」の肉体がスーツから甦る。NY発OVERCOATが挑む究極のパターンメイキング

ニューヨーク発のブランド「OVERCOAT」が、昭和の名横綱・千代の富士との異色のコラボレーションを発表。生前愛用したテーラードスーツから身体寸法を逆算し、伝説の肉体をパターン(型紙)として再現。特別展示や限定アイテムの販売を行うポップアップイベントを、2026年3月より東京・ニューヨークで順次開催します。


伝説の「プロレスリング・マスター」武藤敬司、その足跡を網羅。『Gスピリッツ選集』第3巻が待望の発売!

伝説の「プロレスリング・マスター」武藤敬司、その足跡を網羅。『Gスピリッツ選集』第3巻が待望の発売!

辰巳出版は2026年3月6日、プロレス専門誌『Gスピリッツ』の証言集第3弾『Gスピリッツ選集 第三巻 武藤敬司篇』を発売しました。平成の新日本プロレス黄金期を支え、日米を股にかけて活躍した武藤敬司のキャリアを、本人や関係者の貴重なインタビューで振り返る一冊。新録インタビューも追加された、全プロレスファン必携の保存版アンソロジーです。