【ソウル五輪】レスリング金メダリスト小林孝至
1988年ソウル五輪の金メダリストで、帰国後のメダル紛失騒動でも有名になったレスリングの小林孝至。

小林 孝至(こばやし たかし)
ロス五輪選考会で味わった挫折と屈辱
高校3冠を2年連続で達成し、大学1年で出場した82年アジア大会も優勝。
だが、国内では高校時代の先輩である入江隆の壁を越えられなかった。
そして、小林が日本大学在学中の1984年。
ロサンゼルスオリンピック選考会である全日本選手権決勝において、再び入江と対戦する。
試合終了時、わずかに小林がポイントで勝り接戦を制して代表の座をつかんだ。
と思われた直後、入江陣営の抗議によってポイントを計算し直され勝敗が覆ってしまう。
結果、14-15の僅差でロス五輪の出場機会を逃すこととなった。
小林は涙を流して抗議し、ショックで水戸の実家にも3カ月も戻らなかったという。
この時のことを小林は「絶対に勝ったと思ったし、レフェリーも私の手を上げていた。それが、ビデオで判定が変わった。今でも納得はしていませんね。私が狙っていたのはロス五輪だけ。目標を失って、すぐ次(ソウル五輪)に切り替えるなんてできなかった。」と語っている。
なお、小林を破ってロス五輪に出場した入江は銀メダルを獲得した。
小林は上の毛も、下の毛も剃って臨んでいた…。
実は、入江に負けた決勝時、小林は髪の毛も陰毛も剃っていたという。
これは4次予選の計量に遅刻したペナルティだった。
遅刻の理由は交通渋滞だったが本来は失格。
小林のそれまでの実績から日本レスリング協会は「温情」で最終予選出場を認めた。
その代わり当時日本レスリング界の「伝統」であった剃毛を1年間上下ともにやらされたのだった。
小林は「屈辱でしたね。その後の大会でも、私だけ別室で下半身のチェック。その度に悔しくて、情けなくて…。それでロスに出られていればいいけれど、出られなかったですから。」と語っている。
小林孝至は、宇宙人に近いといわれた異端児だった。
小林は、日本大学を卒業後、ユナイテッドスティール(後にユニマット⇒ジャパンビバレッジと商号変更)に入社した。
当時、小林のコーチをしていた富山英明(日大の先輩でロス五輪金メダリスト)は、「小林は宇宙人に近い地球人。考えてることも分からなかった。」と語っている。
小林は突然合宿所から姿を消して、数日後にフラッと戻ってくることが多かったという。
この失踪について小林は、「さぼっていたわけじゃない。厳しい練習を続けていたら体がもたない。自分の体は自分しか分かりませんから。私は自分のペースで練習していただけです。」と語っている。
また富山は「小林のレスリングの強さは僕なんかの比じゃない。力も強いし、体は柔軟、技も切れた。48キロの体で、100キロある日大同級生の本田多聞(後のプロレスラー)を背負って正座から立ち上がる。そんなことできるヤツはほかにはいないよ。」とも語っている。
怪力に関するエピソードは多く、テレビ出演時に現役時代の腹筋回数を聞かれて「回数はわからないが大体4時間」と答えている。
入江を破り、ソウル五輪の切符を獲得。
小さな体に似合わない怪力と破壊力抜群のタックルで期待されたが、その後もなかなか入江の壁を越えられなかった。
そして、1987年の全日本選手権でついに入江を破る。
さらに翌年のソウル五輪代表の争い、「負けたらレスリングをやめる」という覚悟で臨んだ小林は大接戦の末に2勝1敗と入江に勝ち越し、悲願の五輪出場を達成した。

ソウル五輪代表を争って闘う入江隆(赤)と小林孝至(青)
1988年、ソウル五輪レスリングフリースタイル48kg級で金メダルを獲得!
小林は、「『金メダルを確実に取れる選手』と、人に紹介されたりすると、頭にきました。誰がそんなこと分かる。お前がやってみろってね」と当時のプレッシャーについて述べている。
プレッシャーに打ち勝つべく、練習を重ねた小林はソウルオリンピックで順調に勝利を重ねる。
1回戦:相手の負傷棄権
2回戦:フォール
3回戦:フォール
4回戦:テクニカル・フォール
順位決定戦:判定勝ち
そして、決勝ではブルガリアのイワン・ツォノフと対戦。
身長で10cmも高いツォノフ(ブルガリア)をポイントで圧倒し、さらに残り10秒で組み伏せる。
会場から「9、8、7…」とカウントダウン。
小林は、終了のブザーと同時に、「ワー」と叫んで右手を突き上げ、ガッツポーズ。
大差の判定で最軽量の48kg級で日本初の金メダルを獲得した。
小林は「自分の技を大舞台で演じられることが気持ちよかった。」と語っている。

表彰式で手を振る小林孝至
帰国後になんと金メダルを紛失してしまう…。
ソウルオリンピックで、日本が獲得できた金メダルは、同じくレスリングの佐藤満、水泳・背泳の鈴木大地、柔道の斉藤仁だけで、合計してもわずか4つ。
そのため、帰国後の歓迎ぶりは、尋常ではなかった。
金メダル獲得から、ちょうど1ヶ月後の1988年10月29日。
多忙な日々が続いていたときに事件は起きた。
スケジュールの合間をぬって、実家へ帰る時間を作った小林ははやる気持ちを抑え、上野駅に到着。
ここで、合宿所から着替えを届けくれる後輩と待ち合わせをしていた。
実家への最終電車の時刻が迫ってくる中、なかなか到着しない後輩にしびれを切らした小林は合宿所に何度も確認の電話をかけ、ホームと公衆電話を行き来した。
そして何度か往復した時、ふと公衆電話を見て小林は愕然とした…。
なんと!金メダルの入ったバッグが消えてしまっていた。
小林は警察に紛失届を出し、後ろ髪を引かれる思いで、電車に乗り込んだ。
情けなさと申し訳なさで、実家に到着しても家族に金メダルを紛失したことを告げられずいた。
翌日、小林は意を決して、金メダル紛失をマスコミに公表し、助けを求めた。
このニュースは瞬く間に日本中を駆け巡り大騒動となった。
金メダル紛失から2日後。
茨城の母校で講演会を行っていた小林のもとに、「メダルが見つかった!」という知らせが入る。
小林は講演会の途中ですぐさま東京へ向かった。
金メダルの入ったバッグは、東京都江戸川区内の路上で見つかり、中身は何も盗まれていなかった。
かくして、小林の金メダル紛失事件は2日で解決した。

金メダルが見つかり喜びを語る小林孝至
今でもこの事件のことを聞かれることが多いが、「(金メダルは)取らなくちゃ、失くせないですから」と胸を張っている。
この金メダル紛失・発見報道で超のつく有名人に。
金メダルの紛失と発見が、新聞・テレビ・雑誌などで大々的に報道され話題となった小林。
このエピソードをネタにして『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に出演。
高田純次が収録中に突然、小林の金メダルに噛み付いたため、今もその歯形が金メダルに刻まれている。
同番組への出演がきっかけで人気者となり、番組を観ていた女性と結婚している。
その女性との結婚式で、元気が出るテレビで度々共演していた高田純次が登場、小林に結婚の祝福と感謝の言葉を述べた。
なお高田の登場は突然で関係者は一切知らず、しかも完全なプライベートで忙しい仕事の合間をぬってやって来たのだという。
この事がきっかけで、小林は高田の事が大好きになったとのこと。
1991年、現役を引退。
ソウル五輪後も現役を続けた小林だが、1990年の世界選手権は銅メダルに終わる。
そして、翌1991年に現役を引退した。
引退後の小林は後進の育成や講演活動を精力的に行いながら、総合格闘技「PRIDE」や「DREAM」にてジャッジを務めたりした。
俳優としても活動
2005年に完成したものの、製作会社のトラブルから公開が延期されていた幻のオムニバス映画「オボエテイル」が2011年にようやく公開。
小林孝至が同作で俳優デビューを飾っていたことが明らかになった。
「オボエテイル」は、盛岡にこだわり、ミステリー作家として活躍する高橋克彦の直木賞作品「緋い記憶」を始め、「遠い記憶」「前世の記憶」の3作品を、3人の監督が、盛岡オ-ルロケで演出した情感溢れる大人のためのオムニバス・ミステリー映画。
小林は、2006年の短編映画 「ドロン」 平林勇監督(釜山国際映画祭グランプリ作品)にも出演している。
2007年、脱サラして埼玉県三郷市に柔道接骨院「元気堂整骨院」を開業。
整骨院を開業した理由について「ケガと共存した競技生活26年間と、指導者としてレスリングに携わってきた経験を役立てたいと思った」とコメント。
「歩き方や座ったときの姿勢を見ると、その人の不具合がわかるんです。レスリングで相手の弱点を見抜く観察力を養ってきたおかげですね」と意外な特技も明かしている。
現在もオーナーであるが、院長は別の人に任せている。
【柔道接骨院 元気堂整骨院】
埼玉県三郷市早稲田2-18-6 森ビル1階
三郷駅 徒歩5分 早稲田中央通り沿い
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現在の小林孝至