まき割りのトレーニングを見守る勝栄氏
また勝栄はユニークな練習も行った
例えば
繁華街を
人の流れとは逆方向に走りながら
すれ違う人をすばやく左右にかわしていく
脇が甘くならないように
1万円札を右のわきの下にはさんで練習する
歩幅を広くとり過ぎないように
両足をひもで結んだままスパーリング
また銭湯の仕事もトレーニング化した
「練習生は毎日、銭湯のタイルの床を
こうしてスポンジでこするんだ
利き手じゃない方の手でね
それがジャブの練習さ」
そういって24時に銭湯の営業が終わってから
深夜まで掃除をした
そして早朝に走って
それから登校した
興南高校ボクシング部
仲井真は
授業では寝てばかりだったが
ボクシング部では主将をやり
国体にも出場した
ボクシング部は
放課後、机、椅子を片付けた教室で
ロープは先生と先輩だった
うっかり後ろに下がると蹴られた
やがて仲井真は
石垣島時代の幼馴染、具志堅用高と再会した
そして具志堅は
仲井真同様、
1日2度の練習と過酷な銭湯暮らしに耐えて
インターハイで優勝した
沖縄名物「ボクシング通り」
具志堅は
高校までシャドーボクシングをしながら通ったという
現在、その道は
当時の話を聞いた地元の子供達によって「ボクシング通り」と名づけられている
仲井真重次
仲井真は高校卒業後、日大に進学したが
もの足りずに中退
協栄ジムに入りプロ転向
国内で連勝
武者修行のためアメリカロサンゼルスに渡り
練習を続けたが
プロモーターの不手際で全然試合が組まれず
最後は重い階級の選手との試合が組まれて
倒し倒されの激闘を演じ
勝つには勝ったが
この試合で視神経を痛めて
トレーナーに転身せざる得なかった
そして和菓子屋でアルバイトしながらアメリカでトレーナー修行を始め
帰国後、協栄ジムで指導した
「どうせ自分はできないんだろ」
若いトレーナーをなめてくる選手には
仲井真はグローブをはめて拳で指導した
やがて具志堅用高が協栄ジムに入ってくると
仲井真はその担当となり
アメリカ米国仕込みのボクシングをたたき込んだ
「ボクシングはハートだよ
半分以上は精神力の持ちようだ
練習でも、リングでもね」
基礎練習が徹底的に繰り返されたが
具志堅は素直に頑張る心の持ち主だった
そしてデビューからわずか2年後、具志堅は世界王者となった
その後、仲井真は
金平会長とケンカ別れし
千葉や大阪のジムでトレーナーをして
30歳を前に沖縄に戻り
土方仕事をしながら自分のジムを開いた
具志堅は
世界J・フライ級の防衛戦を勝ち続けていった
「具志堅の仇をとってやる」
あの具志堅が散った!!!
具志堅の14度目の防衛戦は沖縄で行われた
ここまで年間4回というハイペースで世界戦をこなし
すでに13回という連続防衛記録をつくり
J・フライ級の世界王座を4年以上守り続けていた
今回の相手は
前戦で大苦戦を強いられたペドロ・フローレスだった
試合は
中盤まで快調なペースでポイントを重ねたが
8R、ダウンを奪われ
その後、失速
12R、集中打を浴びたところでタオル投入された
具志堅は
序盤でパンチが目に入りよくみえなくなり
そのあとの記憶がなく
ダウンしたことも翌日の報道で知ったという
「具志堅の仇をとってやる」
平仲は
家のテレビで
具志堅が滅多打ちにされた姿をみて思った