
藤原喜明
藤原喜明は
高校卒業後、
サラリーマンや板前を経て23歳で新日本プロレスに入門した
入門前は
横浜のスカイジムってところで2年くらい働きながら練習していた

めざし
当時の食事はメシと玉子とメザシ

デビューは入門10日後
異例のスピード
しかし23歳、遅咲きデビュー
藤原喜明vsキラー・カーン

テレビ中継もない新日本プロレスの地方大会
アメリカで「アンドレの脚を折った男」として凱旋帰国したキラー・カーンは自慢話をしていた
「MSGで1試合・・・・もらった」
藤原はそれが面白くなかった
だからキラー・カンが試合でリングに上がるとき
ハシゴをわざと逆さに出した
試合後キラー・カンは怒った
「藤原、あんなことするな!!」

その夜、
選手そろっての夕飯のとき
藤原はカーンに毒づいた
「強くもないくせに」
「この野郎!」
年下の藤原からいわれたカーンは立ち上がり
2人はもみ合いになった
「だったらリングの上でやってみろ!」
この猪木の鶴の一声で
翌日急きょ試合が組まれることになった

当日
試合前の合同練習に藤原の姿はなかった
藤原は1人、体育館の大きなカーテンを結んでサンドバック代わりにしてボクシングの練習をしていた

試合が始まると
藤原はいきなりキラー・カンに殴りかかり
ロープに詰めてラッシュした
キラー・カンは倒れなかったが
藤原は一方的に寝技に引き込み
関節技を仕掛けるとキラー・カーンは防戦一方になってしまった

見かねた長州力とマサ斎藤が乱入
強引に試合を終わらせた
まだ前座にすぎない藤原がスター選手のキラー・カーンを手玉に取る様子をみて
ファンはどう思ったわからないが
選手たちからすれば
道場での藤原の強さを知っているから当然の結果だった
藤原の手にはヒビが入っていた
道場破りから前田日明vsルスカまで……新倉史祐「俺が見た昭和・新日本プロレス伝説」:Dropkick:『Dropkick』チャンネル(Dropkick編集部) - ニコニコチャンネル:スポーツ
師
師匠は
アントニオ猪木とカール・ゴッチである



アントニオ猪木の
トレーニングパートナーをつとめ
ボディーガードとして海外に同行した

カール・ゴッチには
関節技とレスリングを学んだ
ゴッチ教室

「Stop! ここはこうするんだ」
当時のプロレスのスパーリングは「押さえ込み」だった
それを「極める」にしていったのはカール・ゴッチだった
こうして新日本プロレスでの練習は
ロープワークや技の攻防といった練習はやらなくなっていった
試合当日、
客が会場に入っても構わずずっとスパーをしていた
カール・ゴッチは
レスリングでオリンピックに出たことがあるほどのレスラーだった
また足や脚を狙う関節技を「ジャンク・ホールド」と呼び
腕とか首を極める技を得意としていた
藤原は
アマレスをやっていないので立ち技が下手で
相撲のコテ投げや腕を取ってから投げなど数種類しか知らない
また得意技は
足、脚への関節技だった
ゴッチ・ノート

藤原は
カール・ゴッチに習った技術を
毎晩ノートに書きとめた
2/3 藤原喜明 ロングインタビュー(3) [プロレス] All About
新日本プロレスの道場

当時、
新日本プロレスは、
藤波辰巳、
木戸修、
キラー・カーン
木村健悟
など
後の新日のリングを支えていく若手レスラーがしのぎを削っていた
その中でも藤原は道場の主的な存在だった

新日本プロレスに道場破りがくると
逃げる者も多くいたが
藤原は逃げずに対戦した
アントニオ猪木 vs アクラム・ペールワン戦

アントニオ猪木 vs アクラム・ペールワン戦で
藤原は猪木のセコンドについた
「ペールワン」は「最強の男」という意味で
ヒクソン・グレーシーが400戦無敗で
ルー・テーズが800連勝なら
アクラム・ペールワンは20年間無敗、
イスラム16億人に英雄と讃えられる男である



パキスタンのカラチ・ナショナル・スタジアムに集まった観衆は場内外合わせおよそ10万人
リングの周りは銃を持った兵隊が取り巻いていた


1R



1R
ペールワンは
スタンド(立ち技)ではしっかりと組んだが
グラウンドでは猪木に押され気味だった

2R

徹底したフェイスロック狙い
2R
猪木はグラウンドで
ペールワンの首とフェイスロックを狙い
執拗に左右からペールワンの顔面をこすり上げた
これが執拗に何度も何度も繰り返され
2Rは終わった

「猪木はサミングした!」
2R終了直後
ペールワンのセコンドがリングに入り
猛抗議した
「猪木はサミング(指を眼に入れる行為)した!」

「向こうが先に噛み付いた!」
猪木は、
血の滲んだ前腕をアピール
「向こうが先に噛み付いた!」

3R

折る
3R
猪木のアームロックを完全に極まるがペールワンはギブアップしない
猪木はペールワンの肩を折った

「ダーッ!!」
地元の英雄の敗北に観衆は呆然、
藤原は猪木の弾よけになるためにリングに上がった
が、猪木はそれを制して両手を上げて叫んだ
「ダーッ!!」
会場は
暴動が起きかねない状況だったが
猪木のその仕草がアラーへの祈りのポーズにみえ、
「ダー」声が「アラー」に聞こえ
観客はおさまった

藤原教室
最初は
藤原と佐山聡のスパーリングだった
そこへ前田日明と高田延彦が入り
そして
佐々木健介
笹崎伸司
山田恵一
船木誠勝
鈴木実
と続々と増えていき
藤原教室と呼ばれるようになった
藤原教室は
現在でも続いていて
アメリカなどでセミナーが開催されている
UWF

UWF参戦
藤原は愛弟子の移籍に伴い
UWFに参戦
そのテクニックと強さを見せつけた
スーパータイガー(佐山聡)との試合では
スーパータイガー(佐山聡)は肩を脱臼させたこともある
プロフェッショナルレスリング藤原組

プロフェッショナルレスリング藤原組
新日本復帰、第2次UWF参加を経て、
1991年3月
プロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが
2度に及ぶレスラーの大量離脱(パンクラス、格闘探偵団バトラーツ)を経て
団体としての機能を失った
以後,
フリーランスとして選手活動を続け
メジャー、インディー問わず数多くの団体に参戦している
vs クマ
テリー伊藤企画のテレビ番組で
(爪をカットした)熊と戦ったこともある
若手の指導

指導を請うレスラーも多く若手選手の指導員としても貢献している
ただ指導はしても
弟子は取らず
弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている
ガン

プロレスラーが痛がっちゃあみっともない
2007年、
胃がんが見つかり
本当は全摘出したほうがよかったが
痩せてしまうため胃の2分の1を切除
手術は3時間で終了したが
地獄の痛みに苦しんだ
術後1年余で「絶望的だった」リングに復帰したプロレスラー藤原喜明さん ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている | がんサポート
絶えることのない激しい痛みに、夜もほとんど眠れなかったが歯をくいしばって時間が過ぎるのを待った
術後1年余で「絶望的だった」リングに復帰したプロレスラー藤原喜明さん ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている | がんサポート
手術後、1番ショックを受けたのは術後8日目に初めて入浴したときだった
術後1年余で「絶望的だった」リングに復帰したプロレスラー藤原喜明さん ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている | がんサポート
そして見事プロレスに復帰した
vs ウイリアム・ルスカ

オリンピックの柔道金メダリスト、ウイリアム・ルスカが
藤原とスパーリングしたとき
ルスカは藤原をかんたんに投げたが
藤原は下からルスカを極めた
ボクサー

ボクサースカウト
猪木・アリ戦の直前練習で
ボクシングはほぼ初体験だったにもかかわらず
本職相手にジャブでグラつかせる場面もあり
アリからボクサー転向のスカウトを受けた
おふざけが多い
インタビューに対しおふざけが多い
PRIDEやUFCについて


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ヒクソン・グレイシーについて

ヒクソン・グレイシーについて
タレントとしても活躍
レスラー以外に俳優、タレントとしても活躍