ブレーブスの重量打線を担った沖縄の大砲!石嶺和彦

石嶺和彦(いしみね かずひこ)
石嶺和彦の獲得タイトル・主な表彰と記録
打点王:1回 (1990年)
ベストナイン:3回 (1986年、1987年、1990年)
月間MVP:2回 (1987年6月、1991年7月)
オールスターゲーム出場:4回 (1986年、1987年、1990年、1991年)
6試合連続本塁打(1987年9月2日 - 9月10日)
シーズン代打本塁打6本(1985年)
56試合連続出塁(1986年4月29日 - 7月25日)
894試合連続出場(1988年8月15日 - 1995年7月12日 ) ※当時史上5位
石嶺和彦のプレースタイルは・・・
野球理論にこだわりを持ち、体型や筋力に応じての理想のバッティングホームがあると考え、一番振りやすいフォームが最高の形としている。
内角打ちに定評があり、長打力や、チャンスに強く、特に体の回転が非常に上手い選手である。プロでやっていくには、得手不得手に関わらず、投げてきたボールに対応する能力が重要だと考え、常に、相手投手の持ち味や、配球を考えて打席に立っていた。
指名打者として、試合に出場するようになってからの成績を見てもわかるように、打撃への集中力は半端ではない選手である。

内角打ちの名選手。小さな大砲
石嶺和彦の生い立ちからプロに入るまでの軌跡
石嶺和彦 - Wikipedia

高校時代の石嶺和彦
身体の小さかった石嶺和彦が猛特訓したプロ時代
決して、大きくはない体格で、阪急ブレーブスに入団した石嶺和彦。当時は、蓑田や福本がおり、自分の打球が貧弱すぎると苦悩があったそうです。そんな本人の悩みはよそに、二軍リーグで3割を超す打撃センスを光らせ、周囲の期待を募らせたが、捕手で入団した石嶺和彦になかなか、一軍への切符は回ってこなかった。
しかし、膝の故障に悩まされ、二軍で活躍する石嶺だったが、3年目にはパンチ力の打撃が買われ、当時はなかなかいない5番捕手として、開幕一軍入りを果たし、36試合出場。15試合はマスクをかぶり捕手としてブレーブスの女房役になっていました。
それから、徐々に一軍でマスクをかぶる頻度が増えていき、打撃の成績も残していくのだが、出場の機会が増えるとともに、爆弾である左ひざの負担も増えることとなり、シーズンの夏には歩けなくなるほどまでになってしまい、一軍捕手の座を明け渡してしまいます。

阪急ブレーブス時代の石嶺和彦
リハビリからの復帰後の1984年のシーズンに外野手に転向した石嶺和彦は、翌1985年から代打、指名打者として起用され、打撃に集中したことから、一軍で初めて3割を超える成績を残し、指名打者として名を馳せることとなります。1986年には、3割、30本、90打点越えを果たし、名実とともに打撃職人へとなりました。
守りも余儀なくされたオリックス時代の石嶺和彦

オリックス・ブルーウェーブ時代の石嶺和彦
オリックス・ブルーウェーブとなり、新たな野球人生がはじまろうとした矢先、41歳の大ベテラン、門田博光がブルーウェーブに加わることとなった。お互い、パ・リーグを代表する指名打者だったゆえ、お互いが相手を気遣い、守備をすることを決めて、シーズンに臨みました。
重量級のブルーサンダー打線の中で、守備を意識したことで体重を10kg落とし、一年を過ごした結果、本塁打、打点共に、チームで4位の成績でシーズンを終わりました。
オリックス時代は、安定して、本塁打、打点を増やしていき、史上3人目のFA権を行使し、阪神タイガースに移籍しました。
引退後、持ち味の打撃理論を生かし、後輩の指導者へ
移籍当初には、打率は低いものの、打点はチーム1位、本塁打も10年連続二けた本塁打を記録し、順風万凡に見えたが、年齢にはかなわず、2年後の1996年に現役選手を引退することとなりました。

引退後、野球解説者として活躍していたが、内角打ちの打撃理論が評価され、2004年から中日の打撃コーチになったが、打率、得点ともにリーグ最下位と言う成績に・・・。その後、横浜の打撃コーチになるが、これもまた、最下位に・・・。その後、オリックス、韓国のプロ野球と打撃コーチを務めたが、ことごとく、最下位になることから、とうとう二軍打撃コーチになってしまった。
独自の打撃理論を持ち、素晴らしい理論ではあるが、その理論をマスターできる選手がいないのか、石嶺の指導が悪いのか。
今も、ファンの記憶に残る石嶺和彦。
なにはともあれ、野球に生きる人生は素晴らしいという言葉につきません。
ひたすら、野球のことを考えて生きてきた結果でしょう。
内角打ちの技術は、あの落合博満が絶賛したほど高いものです。今も、オリックスの選手を語ると、石嶺和彦の名前があがるでしょう。