同性愛者として生まれ、オカマタレントへ
ピーコ(本名:杉浦克昭)は、1945年(昭和20年)1月18日、弟のおすぎ(杉浦孝昭)とともに生まれた一卵性双生児で、横浜市出身である。高校卒業後、横浜トヨペットに入社したが、その後転職して、1964年(昭和39年)にサンヨーレインコートに入社。商品管理や営業の仕事を担当した。
24歳の時、サンヨーレインコートを退職し、文化服装学院デザイン科に入学。研究専門部を卒業後、衣装デザイナーになった。弟のおすぎは阿佐ヶ谷美術専門学校を卒業後、映画評論家となった。

「おすぎとピーコ」1979年
おすぎとピーコの軌跡
1975年、兄弟が30歳の時、「おすぎとピーコ」として双子のコンビを結成し、タレント活動を開始。ラジオ番組への出演をきっかけに芸能界デビューを果たした。
兄弟ともに同性愛者であることを公言しており、当時、ピーコは「一卵性双生児の双子で兄弟ともにゲイである」と語っていた。性的嗜好には遺伝的な要因がある程度影響するとされ、いくつかの双子に関する研究から、遺伝率は30~50%と推定されている。なお、二卵性双生児では、兄が異性愛者(ストレート)、弟が同性愛者(ゲイ)というケースもあるが、一卵性双生児では両者が同じ性的嗜好を持つ例が多いとされている。

オネエタレントの先駆者としての活躍
ピーコはオネエタレントの先駆けとして、「おかまである」と自称し、辛口トークで大人気を博した。二人と親交が深かった映画評論家の淀川長治は、テレビで同性愛者であることを公言できる時代が到来したことを歓迎していた。一方、同性愛への差別と戦ってきた歌手の美輪明宏は、当時「オカマ」という差別的な表現をキャッチフレーズにしていることに苦々しい思いを抱いていた。現在では「オネエ」という表現が一般的になっている。
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淀川長治
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LGBTQの中で、「オカマ」は、男色や女性らしい仕草を持つ男性を指すイメージが強い。一方、「ゲイ」は主に男性同性愛者を指す言葉である。「おすぎとピーコ」はゲイであり、恋愛対象は異性愛者(ストレート)の男性だった。
「オシャレは我慢」辛口ピーコのファッションチェック
ピーコは、テレビのバラエティ番組やワイドショーのコメンテーターとして活躍していた。特に1990年代、『3時にあいましょう』内のコーナー「辛口ピーコのファッションチェック」で街を歩く人々の服装を辛口に評価し、そのコメントが注目を集めた。この活動を通じて人気者となり、「オシャレは我慢」という名言も残している。

究極の「オシャレは我慢」コルセット
ファッションの歴史を振り返ると、9~13世紀頃には細さを強調するための「コルセット」が登場した。メイドが力ずくでウエストを締め上げ着用するという過激なもので、肋骨が変形してしまうことさえあったという。このように、かつてのファッションには命がけの「我慢」が必要だった。
例えば、ハイヒールは足に負担をかけ、歩きにくいが、オシャレするためには我慢する。また、ズボンのシワを防ぐために電車で座らない男性もいるが、これも「オシャレは我慢」の一例だろう。

10cmのハイヒール
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一方、現代では「我慢しないオシャレ」が主流となりつつある。その流れの中で、日本発祥のブランド「ユニクロ」が世界的に大ブレイクした。快適さとスタイルを両立させたユニクロの成功は、現代のファッションの新たな潮流を象徴している。
ピーコの試練と心に残る名言
1989年、ピーコは44歳の時に悪性黒色腫と診断され、左目を摘出する手術を受けた。その後、義眼を入れ、以降はメガネを使用している。

コメンテーターとしても活躍していたピーコは、多くの心に残る名言を残している。
2000年7月2日に亡くなった歌手・青江三奈について語った言葉もその一つだ。青江は死去の約2か月前、病床でかつてのパートナーである作曲家の花礼二を呼び、婚姻届に署名して結婚した。しかし、青江の兄弟と花の間で相続をめぐる訴訟が発生し、この出来事がワイドショーで取り上げられた。

青江三奈
その際、コメンテーターとして出演していたピーコは、「青江さんが心穏やかに旅立てたのだったら、私はそれでいいと思います」ときっぱりと言い切った。この発言は視聴者に深い印象を残した。
ピーコ 最愛の男性
大好きだった俳優の野村宏伸。ピーコは野村と番組で共演する機会に恵まれ、その後、食事を共にする仲となった。左目の手術を受けた際には、病室に大好きな野村からもらった写真を貼っていたという。しかし、手術後は疎遠となり、それ以来会うことはなかった。
29年後の2018年、TBS系「爆報!THE フライデー」で72歳になったピーコと、52歳になった野村宏伸が再会を果たした。ピーコは「どこで何をしているのかわからなくて、なかなか会いに行けなかった。野村君と再会できて、本当にうれしい」と涙を流し、喜びを語った。

野村宏伸の若い頃 20歳
ピーコの晩年
2021年、コロナ禍の夏頃、「おすぎとピーコ」は同居を始めた。弟のおすぎが認知症を発症したためである。しかし、介護生活は長くは続かず、同居から3か月後、おすぎはグループホームに入所することとなった。

おすぎとピーコ
ピーコ自身も、弟を施設に預けたことへの罪悪感からか、認知症が進行していった。2024年3月には奇行が目立つようになり、行政担当者と代理人弁護士の判断で、高齢者施設に入居することとなった。同年夏には体調を崩し、神奈川県内の病院に入院。9月3日、敗血症による多臓器不全のため死去した。享年79歳。