高校卒業と同時に社長宅を出て1人暮らしを始めることになったが、慣れるまで母親が山梨から上京し、しばらく一緒に住むことになった。
母親は、掃除、洗濯、食事づくりなど家事を行い、楽屋に弁当を届け、マドレーヌやチーズケーキを焼いて仕事場に配ることもあった。
1989年5月17日、母親と暮らし始めて1ヵ月後、酒井法子は仕事場で
「お父さんが事故に遭った」
と聞かされた。
父親は山梨県大月市の中央自動車道で車を運転していて中央分離帯のコンクリート壁に激突。
その車内には酒井法子のカセットテープが19本もあった。
酒井法子と母親は事故から5時間後、病院に到着。
父親は瀕死の状態で、日付が変わって数時間後、2人が見守る前で息を引き取った。
酒井法子は、14歳で上京し、高校を卒業するまで「のりピー」キャラクターと「のりピー語」を前面に押し出して成功したが、18歳になると女子中学生のようなキャラクターを演じることに違和感を感じ、
「もっとキレイになりたい」
「しっとりとしたバラードも歌ってみたい」
「シリアルなドラマに出てみたい」
「髪の毛を伸ばして大人っぽいドレスを着るような仕事もしてみたい」
と思うようになった。
周囲はそんなリクエストに応えて仕事を用意したが、のりピーに比べ、のインパクトがなく、まったく目立たなかった。
「変わりたいのに思うように変われない。
本当の自分らしさについて悩んだ」
本当の自分は何なのか悩む酒井法子は、19歳のときにアルバム「ホワイトガール」をリリース。
その中でシンガーソングライターの遠藤京子から提供された曲「微笑みを見つけた」の歌詞、
「♪そのままでいいんだ」
に感動し、
「無理に背伸びしなくても、そのままの自分ができることを思いきり楽しみながらやったらいい。
のりピーというキャラクターを演じることも遊ぶつもりで思いっきり楽しめばいい」
と開眼。
ブリブリのアイドル衣装を着て
「やっピー」
と叫んでもまったくツラくなくなった。
20歳のとき、ビクターがユニコーンの阿部義晴、カステラの大木和之、ジッタリンジンの破矢ジンタ、バービーボーイズの近藤敦というミュージシャンたちに
「のりピーを素材に思うがまま料理してください」
と依頼し、
「マジカル・モンタージュ・カムパニー」というアルバムを作成。
「モンタージュというタイトル通り、1曲ごとに音楽の要素や印象が変わるとても刺激的な仕事をやらせてもらった」
酒井法子はアジアでも人気となり、21歳のとき、台湾で初めて海外でコンサートを行い、台北の屋外競技場で満員の観客に日本語で歌った。
「台湾でのコンサートは同じ年の秋にも行われ、そのときにみたことのないような海賊版のCDが売られてて、わたしの歌が1枚のアルバムにたくさん詰め込まれていて、ずいぶんお得だなって」
翌年、日本の電機メーカーのCMに起用され、台湾のドラマ「我愛美人魚」にも主演。
このドラマは香港、中国、タイなどアジアの広範囲で放送された。
1993年、日本で「ひとつ屋根の下」に出演し、アイドルから本格的な女優に。
しかしまだ演技に自信がなかった酒井法子は思い切って出演を決めたものの、プレッシャーから、
「記者会見の3日前くらいから寝込んじゃって。
熱が出ちゃいました」
「ひとつ屋根の下」は、両親と死別後、生き別れになっていた兄弟たちが、長男の柏木達也(江口洋介)の呼びかけで共同生活を始め、絆を取り戻していくというホームドラマ。
「あんちゃん」こと長男・達也(江口洋介)は、実業団のマラソン選手として活躍していたがケガで引退し、クリーニング店を営む、情にモロいお調子者。
「チイ兄ちゃん」こと次男、雅也(福山雅治)は、クールな医学生。
三男・和也(いしだ壱成)は、荒れた10代を過ごし、傷害事件で少年鑑別所に収容された。
四男・文也(山本耕史)は、両親と死別後に事故に遭って車椅子生活。
次女・小梅(大路恵美)は、里親の元でイジメられ塞ぎ込んでいたが、兄弟と再会後、徐々に本来の明るさを取り戻していくが、誕生日にレイプ被害に遭ってしまう。
そして酒井法子は、長女・小雪役。
6人の兄弟が身を寄せ合って生活する家で母親と姉の2役を担い、エプロン姿で家事を切り盛りする健気な小雪は、自分1人だけが本当の兄弟ではないという負い目と、長男・達也への恋心を抱えながら、次男・雅也から求愛される。
人気脚本家の野島伸司が手掛けた「ひとつ屋根の下」は、、月9ドラマといえば恋愛ものという常識を覆し、平均視聴率28.2%、最高37.8%と大ヒット。
「本当にたくさんの人が観ていた。
のりピーを知っていた人も知らなかった人も、好きな人も嫌いな人もみていた。
そこで私が演じたのは、ずっと求められてきたのりピーではなく、酒井法子とほぼ同年代の柏木小雪だった。
それは大きな出来事だった。
のりピーが年月と共に大人になって実年齢と変わらないタレントになっている
ドラマが多くの人に愛されたおかげで大人になった酒井法子が初めて受け入れてもらえた。そんな気がしていた」
22歳の酒井法子は、これ以降、実年齢なりの仕事がくるようになった。
「ひとつ屋根の下」の脚本家、野島伸司は、大学1年生のときに渡米。
帰国後、大学を中退し、飲食店、肉体労働、テレビ局フロアディレクターなどいろいろなアルバイトをした。
「大学もやめてましたし何でもよかったんだとは思いますが、目立とうとしたわけでもないんです。
テレビもほとんどみていないし物書きになりたかったわけでもないし、割と行き当たりばったりのバイトをしていたりしたので・・・
自分のよって立つもの、アイデンティティーが欲しかったというのは、やっぱり強かったんですけど・・・」
アルバイトをしながらシナリオスクール「東京山手YMCA」の9期研修科に入り、脚本家の伴一彦に師事。
翌年、バイトの帰りに偶然、公募雑誌でシナリオを募集しているのを見つけ、初めてワープロで書いた「時には母のない子のように」が「フジテレビヤングシナリオ大賞」を受賞。
「時には母のない子のように」でデビューし、同年、連続ドラマ「君が嘘をついた」が平均視聴率17.3%いう高視聴率を記録。
その後も、1989年「愛しあってるかい!」、1990年「すてきな片想い」、1991年「101回目のプロポーズ」、1992年「愛という名のもとに」、1993年「高校教師」、そして「ひとつ屋根の下」とコミカルなものから社会の闇やタブーを描いたものまで作品まで幅広い作品を世に送り、社会現象を巻き起こした。
野島伸司は、酒井法子よりも8歳上。
30歳にして橋田寿賀子ら大御所と肩を並べた、飛ぶ鳥を落とす勢いの野島伸司を、酒井法子は
「すごい人だ」
と憧れ、仕事の合間に弁当を作って差し入れ。
「ひとつ屋根の下」の撮影が終わる頃には、かなりのプレイボーイで知られていた野島伸司と付き合うようにになった。
芸能界に入って以来、
「アイドルだから・・」
という暗黙のルールはたくさんあったが、特に男子と遊ぶことはご法度。
1度だけ気になっていた相手から食事に誘われてマネージャーに
「いってきていいですか?」
と相談し
「ダメ」
といわれた酒井法子は、恋愛経験がゼロだった。
「彼は8つ上だった。
はじめは大きな尊敬の念と強い憧れの気持ちから始まった。
わたしの話をじっくり聞いてくれて、彼の真剣な話に私も心を奪われた。
苦労を共にするうちにいつの間にかかけがえのない存在になっていった」
1993年秋、写真週刊誌が野島伸司のマンションに出入りする酒井法子をスクープ。
22歳にして初の恋愛スキャンダルだったが、酒井法子は、すぐに記者会見を行い、
「今いちばん大切な人。
胸を張ってお付き合いしているといえる方です」
と交際を認め、
『結婚は?』
と聞かれると
「具体的には考えていません」
と答えた。
酒井法子は野島伸司のマンションで暮らし、キャップにTシャツ、短パンにサンダルというラフなスタイルでマンションを出て、野島伸司のためにタバコやジュースを買いに行くなど、まるで妻のように尽くす日々を過ごしていた。
酒井法子は自らの尽くす性格について
「愛されたいという気持ちは小さい頃からずっと持っている。
愛されたくて相手が何を喜ぶのか、いつも一生懸命考えてた。
アイドルやタレントして突っ走ってこれたのも自分が愛されたいと思っていたからだと思う」
と分析している。