1984年4月11日、第1次UWF旗揚げ。
しかし興行はまったく成り立たず、
「すぐに潰れる」
と思われていたが、藤原喜明、高田延彦が新日本プロレスを辞めて、またすでに新日本プロレスを辞めてタイガージムを設立していた初代タイガーマスク、佐山聡もUWFに参戦。
超メジャー団体を捨て、純粋に「強さ」を求める男たちが集まった超マイナーなUWFは、多くの支持を受けて生き残った。
プロレスラーが真剣勝負する姿は斬新で、ファン数は増え、2度、TV局から中継話もあったが、
1984年10月19日、佐山聡のUWF加入をめぐるタイガージムとのトラブルで浦田昇社長が逮捕
1985年6月18日、スポンサー会社である豊田商事の永野一男社長の刺殺事件
と、その度に事件が起こり、TBSとテレ東は撤退。
刺殺事件後、試合数を減らして質を高めようとする佐山聡と、主な収入源である興行数(試合数)を減らすことに反対な他の選手、フロント陣の関係が悪化。
1985年9月2日、佐山聡 vs 前田日明のケンカマッチが勃発。
結局、佐山聡はUWFを離脱し、稼ぎ頭を失った第1次UWFは、1年半で活動終了を余儀なくされた。
1985年12月6日、新日本プロレスのリングに、藤原喜明、前田日明、高田延彦、木戸修、山崎一夫らUWF勢がスーツ姿で登場。
26歳の前田日明は、
「この1年半UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」
と挨拶。
猪木が
「よし!
一緒に頑張ろう」
といい、全員が握手したが、UWF勢にとって背に腹は代えられない苦渋の決断だった。
2ヵ月後の1986年2月6日、アントニオ猪木が藤原喜明を絞め落として勝つと、前田日明はリングに乱入し、不意打ちのハイキックを見舞ってダウンさせた。
1986年4月29日、アンドレ・ザ・ジャイアントが前田日明にセメントマッチを仕掛けたが、返り討ちにされ、リング上で大の字に寝転んでいった。
「It`s Not My Business」
1986年6月12日、前田日明がコーナーに詰まった藤波辰巳にニールキックを放ち、踵がこめかみを直撃し、藤波は流血。
最後は、前田のフライングニールキックと藤波のレッグラリアットが交錯し、ダブルノックダウンでドローとなったが、藤波は病院で7針を縫い、以後、欠場を余儀なくされた。
1986年10月9日、前田日明は、ドン・ナカヤ・ニールセンと対戦し、キックボクサーの攻撃を浴び続けた末、5R、2分26秒、逆方エビ固めで感動的な逆転勝利。
一方、同日のメインイベントで、アントニオ猪木は、 ボクシング元ヘビー級チャンピオン、「モハメド・アリを破った男」レオン・スピンクスと対戦。
しかし最後はフォール勝ちという凡戦に終わった。
この2大異種格闘技戦によって、前田日明は
「アントニオ猪木の後継者」
「新格闘王」
と目されるようになった。
1987年11月19日、6人タッグマッチで木戸にサソリ固めをかけようとして両手がふさがっている長州力に対し、前田日明は、リングに入って近づいていき、その顔面を蹴った。
試合後、長州力は、病院で前頭骨(頭蓋骨の前頭部)亀裂骨折、全治1ヵ月の診断を受けた。
こn「長州蹴撃事件」を受け、新日本プロレスは、前田日明を無期限出場停止処分にした。
1988年2月、新日本プロレスが前田日明を解雇。
3月、新日本プロレスとの契約期間を終えた高田延彦、山崎一夫、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄は、更新せずに離脱。
一方、藤原喜明、木戸修は、新日本プロレスに残った。
そして1988年4月8日、UWFは、赤坂東急ホテルで会見を開き
・再び興行を開始すること
・旗揚げ戦は5月12日、東京・後楽園ホール
・大会名は「STARTING OVER」
・基本的に月1回、東京、札幌、大阪、福岡などの大都市を中心にプロフェッショナル・レスリングの興行を行っていく
・年2~3回、収容人員1~2万人の大会場で格闘技イベントの開催も予定している
と発表した。
所属選手は前田日明、高田延彦、山崎一夫、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄の6人で全員が20代
前田は
「なぜ新生UWFをやることになったかといいますと、去年の事件(長州力顔面蹴撃事件)などもきっかけになったことはなったのですが、やはり前々からの、それこそ最初に新日本(プロレス)に入ったときの道場の雰囲気というのが自分の中にありまして・・・
ホントにプロレスの市民権を得るための努力や、ほかの格闘技者がみても納得できるようなものをリングでやりたい。
そうこうするうちに旧UWFで、そういうことが現実のものとして可能性があると認識するに至りまして、機会があればと、ずっと思っておりました。
今回、いろんな方の力によりまして、やっとここまでこぎつけました。
長年、仲間の間で温めてきましたことを実際の場で展開することによって、プロレス界のイメージや、興行会社のあり方とか、選手育成の問題とかを一番、理想的な形で、経営の上に則った方法で追求していきたいと思います。
微力ながら、これからもがんばります」
と挨拶。
世田谷の道場の看板も「UWF ユニバーサルレスリングプロレス道場」から「格闘技道場 UWF」に変わり、よりリアルファイト、総合格闘技の領域に突入。
ファンは、
「第2次UWF」
「新生UWF」
といって喜んだ。
1ヵ月後、1988年5月3日に発売された「週刊プロレス」は表紙にUWFの再旗揚げ戦のチケットを1枚、大きく斜めに配置。
編集長のターザン山本は
「5・12 UWFのチケット わずか15分で完売 いったいどうなっているのだ?」
と見出しをつけた。
そして5月12日、後楽園ホールは200枚の当日券を求めて並んだ徹夜組を含め、2000人を超えるの超満員。
19時、前田日明、高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二がリングに登場。
代表して前田が挨拶。
「ありがとう。
いろいろありました。
本当に長い時間が過ぎたと思います。
でもその間にも自分たちは確実に大きくなってきました。
それは自負しています」
と新日本プロレスでの2年半を肯定的に表現。
「『選ばれし者の光惚と不安、2つ我にあり』ということばがありますが、プロレス界の中で選ばれた者という自負と本当にできるのだろうかという不安があります。
でもその不安があるからこそ毎日必死で努力してリングの上で命がけで戦います」
と破滅的な人生を送ったフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの言葉、太宰治が短篇「葉」で引用した言葉を使って心情を表現。
この後、エキシビジョンを含むシングルマッチ3試合が行われた。
第2次UWFは、
・すべてシングルマッチ1本勝負
・勝敗はKOか ギブアップのみ
・5度のダウンでTKO負け
・レガースとシューズ着用
かつて第1次UWF時代に佐山聡が考案したルールで、6人共同じようなスタイルで戦った。
そこには第1次UWF時代のスーパータイガー(佐山聡) vs 藤原喜明のような個性の衝突はなく、一見、面白いものではなかった。
しかしファンはそれも真剣勝負の醍醐味と固唾をのんで見守り、試合が決まると歓声を上げた。
1988年6月11日、開幕戦に続き、2戦目の北海道・札幌中島体育センターも5000人の超満員。
勢いに乗るUWFは、
・3戦目は、2ヵ月後の8月13日に東京、有明コロシアムで行う
・そのビッグイベントの名前は「真夏の格闘技戦 THE PROFESSIONAL BOUT」
と発表。
有明コロシアムは、1万2000人収容可能の大会場だが屋根がなく、UWFは設営や雨天延期に備え、3日間借り上げたが、アルバイトスタッフの人件費などを含めると、もし悪天候が続けば会社存亡に関わる事態だった。
果たして試合前日、関東は台風が近づいて大雨。
翌日の天気予報は、
「降水確率80%、、夕方から雷雨」
だった。
しかし試合当日、8月13日の朝は快晴。
「天が味方した」
と歓喜した多くのファンが午前中から会場に押し寄せたため、入場時間が15時に早められた。
パンフレットやグッズは飛ぶように売れ、コロシアムは12000人の超満員となり、その中にはプライベートで観戦に訪れた松田優作もいた。
(翌年、40歳という若さでまさかの逝去)
18時半、イベントが始まる時間になると昼間は安定していた空は、雷が光り、いつ雨が降ってきてもおかしくない不安定な状態となった。
しかしコロシアムの中は強いエネルギーが充満し、レーザー光線、紙吹雪、スモーク、照明、音楽、など派手な演出で彩られながら試合は進んでいった。
第1試合、第2試合は、シュートボクシングの試合。
シュートボクシングは、1985年に創設された、寝技ナシ、パンチ・キック・投げ・立関節技で戦う、立ち技の総合格闘技。
試合時間は10分だったが、大村勝巳が李石を7分2秒で 大江慎が三宅秀和を6分11秒でKO。
第3試合、第4試合、第5試合は、UWFルール。
宮戸優光が中野龍雄に逆片エビ固めで、ノーマン・スマイリー(アメリカの黒人レスラー、「黒い藤原」と呼ばれた)が安生洋二に腕ひしぎ逆十字固めで、山崎一夫が高田延彦に、蹴りのラッシュ-ジャーマンスープレックス-起き上がった高田にハイキック-フォールで勝利。
第6試合は、シュートボクシングの創始者、シーザー武志 vs パーヤップ・プレムチャイ。
不良としてケンカで名を轟かさ、16歳でキックボクシングを始め、日本ウェルター級チャンピオンになったシーザー武が、元ムエタイ王者のパーヤップ・プレムチャイを2分36秒、左ミドルで倒した。
第7試合、メインイベントは、前田日明vsジェラルド・ゴルドー。
ジェラルド・ゴルドーは、オランダの伝説の武道家、ジョン・ブルミンから極真空手を学んだ。
196cmの長身で懐を深くして構え、強烈な突きとしなるような蹴りで第4回世界大会でBEST16。
同じジョン・ブルミンの道場で学んだヨハン・ボスは、ボス・ジム(K-1グランプリで4度優勝した「Mr.パーフェクト」アーネスト・ホースを輩出)を、トム・ハーリックは、ドージョーチャクリキ(K-1グランプリで3度優勝した「20世紀最後の暴君」ピーター・アーツを輩出)を設立したが、ゴルドーもドージョー・カマクラという道場を開き、自身、キックボクシングの試合にも出場し続けた。。
前田日明戦は、ヨハン・ボスを通してUWFからオファーを受け、快諾した。
腕に「極真」と刺青を入れたゴルドーは、トランクスにグローブというキックボクサースタイル。
前田はパンツ、レガース、シューズ、素手のUWFスタイル。
特別ルール、3分×5R。
前田もキックを出すが、テニックとスピードが違いすぎて全く当たらない。
ゴルドーは軽快な動きから、速いパンチ、キックをコンビネーションで繰り出し、そのほとんどをヒットさせた。
打撃戦では圧倒的に不利な前田は、組みついて投げて、グラウンドに持ち込み関節技を極めようとするが、長身のゴルドーはすぐにロープにエスケイプ。
そして立ち上がるとパンチとキックを浴びせた。
4R、ゴルドーの右のハイキックをもらった前田がフラついた。
ゴルドーはトドメの右ハイキック。
これはよろめきながらよけた前田によって空振り。
執拗に放たれる3発目の右ハイキックを前田はキャッチし、倒し脚を極めたがロープに逃げられてしまう。
立ち上がった後、攻めて来る前田に、ゴルドーは4度目の右ハイキックをカウンターで入れた。
腰を落としてたたらを踏んで後退する前田にゴルドーは5度目、トドメの右ハイキック。
前田は、これをキャッチしてリングに引き倒した。
そしてロープを目指してほふく前進しようとするゴルドーをリング中央に引き戻し、脚に関節技を極めてタップさせた。
4R、1分10秒、劇的な逆転勝利に、凄まじい歓声と拍手が起こり、前田コールが鳴り止まなかった。
こうして第2次UWFは、第3戦目も大成功させた。
この有明の大会はTBS「プライムタイム」、フジテレビ「FNNスーパータイム」というテレビのニュース番組でも取り上げられた。
プロレスをショーとしてみなしスポーツとしては扱わない一般マスコミとして異例のことだった。
しかし有明コロシアムは、第1次UWFに比べて、全体的に膠着が多く、迫力に欠けていた。
また
・山崎一夫のフォール勝ち
・筋金入りのボディと精神力を持つはずの元ムエタイ王者が日本人のミドルキック1発でKO負け
・ゴルドーの5回連続右ハイキック
など真剣勝負としては、疑わしい部分もあった。
松浪健四郎(日体大レスリング部出身、全日本選手権グレコローマン70kg級3位、大学教授、衆議院議員)は
「UWFは真剣勝負にみせたプロレス」
すでに総合格闘技「シューティング(現:修斗)」の道を歩み出していた佐山聡も
「関節技は一瞬で極まる。
極まれば、数秒間ガマンしたり、ロープに逃れるのは不可能」
「UWFは真剣勝負とか格闘技とか、そういう言葉使っちゃダメだよね。
格闘技のニオイが少しするプロレスですよとかいわなきゃ。
普通のファンにはわからないようにやっても僕らがみればすぐにわかりますから」
とコメント。
ジェラルド・ゴルドーも後に
・最初はリアルファイトだと聞いていたが日本に向かう飛行機の中でヨハン・ボスに「負けなければいけない」といわれた
・「冗談じゃない、オレはマエダを殺す」と拒否したが、執拗に説得され、最終的にビジネスとしてフィックストマッチ(結末が決まった試合)を受け入れた
・試合の前々日に前田日明とリハーサルを行い、右ハイキックから関節技というフィニッシュを決めた
・決まっていたのはフィニッシュだけで、過程や試合時間は決まっていなかったので、緊張感があった
といっている。
第1次UWF時代から、実はケツ(フィニッシュと勝敗)は決められ、内容はアドリブというプロレスだった。
ターザン山下などは、第1次UWF時代からUWFが真剣勝負でないことを把握していて、その上で意義を感じて「週刊プロレス」で記事を書き、猛烈に援護射撃し、応援し続けてきた。
しかし緊張感も危険な雰囲気もない有明の試合をみて
「UWFは終わった」
と思った。
この後も週刊プロレスの売り上げのために記事を書き続けたが、心は完全に離れ、世間やマスコミ、文化人、有名人がUWFをもてはやすのをみると嫌気感を感じた。
しかし第2次UWFは、キック、サブミッション、スープレックスを主体とした格闘技色の強いファイトスタイルで熱狂的な支持を受け、社会現象と呼ばれるほどのブームを巻き起こしていった。
中でも前田日明は大ブレイク。
タモリの「笑っていいとも!」やワイドショーなど多数のTV番組に出演。
西武百貨店のポスターは、子供を上半身裸で背負った前田日明。
そして糸井重里の
「うそみたいな、ほんとがほしい。
ほんとって、こわくて、おもたくて、よさそう」
というキャッチコピー。
アニメ映画「AKIRA」のイベントに出席し、薬師丸ひろ子主演の映画「ダウンタウンヒーローズ」のイメージキャラクターとなり、UWFの大ファンという憂歌団のライヴに出演しジョイント。
ビッグコミックで前田日明の自伝的マンガ「格闘王への挑戦」、月刊フレッシュ・ジャンプで「新格闘王伝説・前田日明物語・獅子の時代」が連載開始。
1988年秋、TBSのドキュメンタリー番組「地球発19時」は、「激戦!新生プロレス軍団UWF」 と題し、神新二社長を主人公に、1988年8月の有明コロシアム大会をハイライトにして報じ、
テレビ放映がないと放映料がもらえないが、
「興行数を月1回程度にすることでプレミアム感を増す神新二社長のビジネス展開は非常に革新的」
と賞賛した。
アントニオ猪木のファンだった神新二は、1983年2月、タイガーマスク人気で絶頂にあった新日本プロレスに入社。
配属先は企画宣伝部で、与えられた仕事は営業本部長だった新間寿の運転手兼カバン持ち。
新日本プロレスを追われた新間がUWFを立ち上げると自然とそちらに移り、夜中、警官の目を避けながら大量のポスターを貼ったり、宣伝カーの乗ったり、販売店にチケットを配ったり、ときにはリングアナウンサーもやった。
1985年11月25日、スタッフから退陣を迫られた浦田昇社長は、借金だけを引き取って辞めるとUWFはたちまち経営難に陥り、スタッフは離散。
残ったのは神新二と神に誘われてUWFに入った大学の同級生、鈴木浩充の2人だけだった。
新日本プロレスに参戦したUWF勢のファイトマネーはUWFの口座に振り込まれ、神と鈴木はそれをそのままレスラーに渡し、自分たちの給料と世田谷に借りている事務所(高田延彦ファンクラブ会長、鈴木健が経営する文具屋の事務所を半分、間借り)の経費は、UWFのグッズを売って稼いだ。
神は、税金対策のために1987年2月にUWFを正式に株式会社として登記。
神が社長、鈴木は専務となった。
新日本プロレスと合併後、活躍の場がないUWFの若手、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄に
「UWFを再旗揚げしてください」
と何度も頼まれ、ずっと断っていたが、
「もう1度やろうか」
と思い始めた。
長州蹴撃事件後、新日本プロレスを解雇された前田日明を擁護する意見も多数あり、その声にも押され、最後は
「やるしかない」
と覚悟を決め、親や親せきに借金した上、UWF長野後援会長である高橋蔦衛、自社の倉庫をUWF道場として提供してくれている寺島幸男にも資本金を出してもらった。
(2人は役員になった)
第2次UWFは社会現象的ブームとなり、TV中継がないUWFを会社を休んで遠方まで観にいくことを
「密航」
と呼んで流行り言葉になった、
1988年11月末、翌年(1989年1月10日)の武道館大会の前売りチケットが発売開始なる前夜からプレイガイドの前にファンが並び始めた。
渋谷のプロレスショップ「レッスル」の社長から
「こんなに寒いのにもう並んでるよ。
寝袋とか持ってるよ!」
と連絡を受けた鈴木浩充専務は
「差し入れを持って各プレイガイドを回ろう」
と即決。
「社員だけで回っても仕方がない。
前高山(前田日明、高田延彦、山崎一夫)も連れていこう」
ということになった。
前田と山崎は自宅にいたが、高田は行方不明。
スタッフは
「飲んでいるに違いない」
と心当たりの店に電話していき、何軒目かでベロベロの高田をつかまえた。
川﨑 有楽町のニッポン放送チケットセンター、後楽園ホール、レッスル渋谷店、レッスル池袋店・・・、都内のプレイガイドを「前田&山崎班」と「高田班」の2組にわかれて回ることになり、前田&山崎班は、前田のポルシェで出て、コンビニで熱い缶コーヒーを大量に買って、並んでいる人の渡していった。
深夜25時、26時に現れた前田と山崎をみてファンは
「うわー」
「すげー」
と大興奮。
高田班は、高田延彦とスタッフだったが、高田は酔っていたため、ハイテンションで、いく先々でファンと抱き合ったりして大騒ぎした。
圧倒的多数の若者が強烈に第2次UWF、前田日明を強く支持。
そして一般的なファンだけでなく、UWFに入ることを希望する若者もいた。
第1次UWF時代、道場を仕切ったのは藤原喜明だったが、第2次UWFとなると前田日明が、それに代わった。
しかし人気者になった後はハードスケジュールのために不在にすることも多く、完全ではなかった。
それでもUWF第1回新人入門テストで唯一の合格者となった田村潔司、第2回新人入門テストに合格した海老名保、堀口和郎らは、ボロボロになりながら練習をしていた。
彼らは
「いつかメインで戦おう」
と励まし合ってツラい練習を耐えていた。
UWFはリアルファイト(真剣勝負)ではなかったかもしれないが、彼らは本気で最強を目指し、その
「強くなりたい」
という気持ちはホンモノだった。
UWFが強さを追い求める集団であったことも事実で、これが後に来る日本の総合格闘技ブームの下地にもなった。
一方、神新二社長以下、UWFスタッフたちも超多忙だった。
東京の事務所では通常から朝10時から24時25分の終電まで働き、女子社員も22時半は当たり前で、夕食は出前で食べた。
さらに試合が近くなると27時、28時は当たり前になり、電話に対応するために誰かが泊まった。
現地にも試合が行われるかなり前から入って、会場で、演出、音響、照明などの打ち合わせを行った。
「UWF、 Fighting Network
・・・・大会は、来たる・・月・・日、午後・・時・・分
衝撃のゴング
メインイベントは・・・・・対・・・・・
うなるキック、軋む関節、高角度のスープレックス
本物はUWF!
本物はUWF!
チケットは市内プレイガイドにて絶賛発売中!」
と自分たちでテープに吹き込み、それを流しながら、8~20時まで宣伝カーで走る。
それが終わると深夜までポスター貼り。
その他、バイトの手配、プレイガイドにチケットを配ったり、売り上げをチェック。
試合当日も、券売り場や入り口係などいろいろな仕事を与えられ、試合翌日は1日かけてポスターはがし。
それが終わるとやっと帰京となった。
1988年11月、神新二社長と前田日明は、数ヵ月前からヨーロッパに武者修行に出ている新日本プロレスのレスラー、船木誠勝をスカウトするため、ドイツのブレーメンに飛んだ。
このときスタッフが運転する車で成田空港に向かったが、高速道路上でオーバーヒート。
「飛行機の時刻に合わなかったら船木に会えない!」
と前田と神は一緒に車を押した。
結局、押しがけしても車は動かなかったが、たまたま通りがかったタクシーを拾い、間一髪、間に合った。
19歳の船木誠勝は、第1次UWF崩壊後、新日本プロレスに戻った前田日明がアンドレ・ザ・ジャイアンにセメントマッチを仕掛けられ、返り討ちにしたのをみて以来、UWFに興味を持っていた。
「アンドレとあそこまでやったのは世界中で前田さんだけで、しかも倒しちゃった。
自分は大きさ・強さ世界一のアンドレを倒した前田さんは「プロレス」を食っちゃった」と思いました。
その後のドン・中矢・ニールセン戦と合わせて完全に「UWFは正しい!」となりましたね」
1988年12月、UWF道場で事故が発生。
目の焦点が合わなかったり、眩暈を起こしながらも練習を続けていた海老名保が、後頭部を強打し、痙攣を起こした。
ムエタイトレーナー、シンサック・ソーシリパンが応急処置をした後、救急車で病院に搬送されたが、脳挫傷と診断され、開頭手術が行われることになった。
幼い頃、特撮ヒーローにハマって、タイガーマスクに憧れ、高校卒業後、上京してUWFに入った海老名は、
「改造人間になってきます」
といって手術室に入っていった。
海老名の両親は秋田県から上京し、川崎市にいた娘の家に泊まりながら、毎日、病院に通い、社長の神新二を含め、UWFスタッフは、その送り迎えをした。
手術は成功したものの海老名は入門3ヵ月でデビューを果たせないまま道を断念することを余儀なくされた。
(海老名は、その後、一時、郷里に戻ったが
「やりたいことをやらずに1度きりの人生を終えたくない。
リングの上でなくても、ヒーローになる方法はあるはずだ」
とジムインストラクターをしながらアクション俳優、スタントマンを志した。
1997年、記憶が飛ぶなどの後遺症も現れると、再び故郷に帰ってフィットネスジムを経営。
2003年、ヒーロー好きが高じ、マスクを見よう見まねでつくっていた海老名は、秋田発・地産地消型ヒーロー「超神ネイガー」を企画・制作し、大ブレイク。
超神ネイガーはローカルヒーローの先駆けとなった)
1988年12月21日夜、事故の対応に追われた神新二が、試合がある大阪に向かおうとしたとき、会社の前に車を停めていたらタイヤがパンクしていることに気づいた。
以前からこうしたことアンチファンによるものと思われるイタズラは起きていて、急いで業者を呼び、タイヤを交換し、高速を飛ばし、翌朝8時に無事に大阪に到着。
「OSAKA SUPER BOUT-HEART BEAT UWF」は、大阪府立体育館は7000人の超満員にして、前田日明はノーマン・スマイリーに8分42秒、片羽締めで勝ったものの、体型をみれば練習不足は明らかだった。
前田は、道場にあまり顔を出さなくなり、たとえ練習してもキツいことは避けるようになっていた。
年が明け、1989年1月19日、日本武道館で前田日明 vs 高田延彦が対戦。
毎日新聞は
「遊技ゼロ、場外乱闘なし、新興プロレス「UWF」真剣勝負で人気沸騰」
と報道。
「スポーツグラフィック ナンバー」や「アサヒグラフ」もUWFを大きく取り上げた。
UWFはプロレスではなくスポーツとして捉えられ、かつ旧体制に反発し勝利した物語として伝えられた。
ファンは、リアルファイト、真剣勝負と信じ、幻想を増幅させた。
1989年3月10日、船木誠勝が、イギリスのリヴァプールで
「この1年間、いつもずっとUWFのことを考えていたので、この気持ちは本物だと思う。
特にこの1週間は、深刻に思い悩んだため下痢が止まらなかった。
人生でこんなに思い悩んだのは、母の反対を押し切ってプロレスに入る前だけだった。
UWFの魅力は、遠慮なくガンガンいけるところ。
結局、人生は1回しかないので自分の思ったようにしてみたい。
3日後の3月13日で20歳になるし、15歳から20歳まで新日本プロレスにいて、今は第2の人生を選択する時だと思う。
新日本プロレスを去ると、いろいろな人に迷惑をかけると思うが、自分の人生の後悔だけはしたくない。
自分は覚悟している。
新日本プロレスが嫌いでイヤになったのではなく、自分の方向性と違っている会社にいるよりも自分の理想の方を選びたい。
わがままかもしれないけど、自分はそうします」
とUWF 移籍を表明。
この後、新日本プロレスと話し合い、円満移籍となった。
船木誠勝が移籍を発表した翌週、鈴木みのるもUWF 行きを決意。
1ヵ月前に前田日明に会って
「UWF が君に望むことは観 客を集めることでもチケットを売ることでもない。
ただ強くなることだ」
といわれたとことが決め手だったという。
178cm、102kgと小柄だが、横花高校時代にレスリングで国体2位の実績を持ち、自分の強さには自信があった。
またヘアスタイルは、リーゼントか坊主、中村あゆみの大ファンで入場テーマ曲はずっと「風になれ」など非常に一途な性格をしていた。
さらに鈴木みのるが移籍を表明した数日後、藤原喜明がUWF復帰を表明。
6名で始まった第2次UWFは、3名の加入で最強になろうとしていた。
1989年4月14日、東京・後楽園ホールで「UWF CORE~THE 1st ANNIVERSARY~」が行われ、2400人の 超満員の観客の前で鈴木みのるが安生洋二に裸締めで勝利し、UWFデビュー。
1989年5月4日、UWFは、大阪球場でビッグイベントを「U.W.F. MAY HISTORY 1st」を開催。
大阪球場は2万3000人と超満員の満員になった。
このとき全日本プロレスを退団した大仁田厚が、前田日明に対戦表明すべく現れ、ノーチケットで入り口を通過しようとしてスタッフに止められた。
「じゃあ、前田君を激励するってことならいいだろう」
「いやいや、ダメです」
「わかったよ、じゃあいいよ。
帰るよ」
引き返す大仁田に、報告を聞いてやってきた神新二は
「大仁田さん、チケット持ってますか?」
といった。
一方、正道会館の石井和義と佐竹雅昭は、事前に連絡を入れていたため、リングサイド席の後方、階段形をしたひな壇(1番観やすい席)に案内された。
そして藤原喜明 vs 船木誠勝の師弟対決が行われ、15分36秒、膝十字固めで師が勝利。
前田日明 はメインで クリス・ドールマンと対戦し、4R 30秒、膝十字固めで勝利した。
1989年4月14日、東京・後楽園ホールで「UWF CORE~THE 1st ANNIVERSARY~」が行われ、2400人の 超満員の観客の前で鈴木みのるが安生洋二に裸締めで勝利し、UWFデビュー。
1989年5月4日、UWFは、大阪球場でビッグイベントを「U.W.F. MAY HISTORY 1st」を開催。
大阪球場は2万3000人と超満員の満員になった。
このとき全日本プロレスを退団した大仁田厚が、前田日明に対戦表明すべく現れ、ノーチケットで入り口を通過しようとしてスタッフに止められた。
「じゃあ、前田君を激励するってことならいいだろう」
「いやいや、ダメです」
「わかったよ、じゃあいいよ。
帰るよ」
引き返す大仁田に、報告を聞いてやってきた神新二は
「大仁田さん、チケット持ってますか?」
といった。
一方、正道会館の石井和義と佐竹雅昭は、事前に連絡を入れていたため、リングサイド席の後方、階段形をしたひな壇(1番観やすい席)に案内された。
そして藤原喜明 vs 船木誠勝の師弟対決が行われ、15分36秒、膝十字固めで師が勝利。
前田日明 はメインで クリス・ドールマンと対戦し、4R 30秒、膝十字固めで勝利した。
オランダの「赤鬼」クリス・ドールマンは、
・グレコローマンレスリング ベネルクス(ベルギー、オランダダ、ルクセンブルクの3ヵ国)選手権4度優勝
・柔道 ヨーロッパ柔道選手権 準優勝
・サンボ 世界選手権 優勝
の実績を持ち、極真空手やウエイトリフティングの大会でも上位入賞。
職業は、アムステルダムの用心棒派遣業でストリートファイト経験も豊富だった。
前田だけでなく自分のことも熱心に応援してくれた日本の観客に
「ファンタスティックで感動した」
という。
そして後年、以下のように告白している。
・UWF - 全日本キックボクシング連盟会長の金田敏男 - オランダのメジロジム会長、ヤン・プラスと経由してドールマンに試合のオファーが入った
・契約は2試合
・リアルファイトということだったが、契約後、間もなくヤン・プラスに「お前が負けることを受け入れない限り試合は行われない」といわれた
・44歳のドールマンは不服だったが、ギャラもよかったので「ファイトではなくゲーム」と割り切りフィックストマッチ(結末が決まっている試合)を受け入れた
・試合数日前、「オオサカのどこか」で前田とリハーサルを行い、試合内容も時間もすべて即興で、フィニッシュだけは膝十字固めと決まった
また大阪球場は23000人で超満員だったが、その内、数千人は無料招待券によるものだったという。
UWF四国後援会会長、徳島の格闘技界と音楽業界で知らない人はいないといわれるフクタレコードの福田典彦の後輩が松下電器にいて、大阪のパナソニックの販売店から数千枚の無料招待券を配布された。
UWFスタッフは
「人気に陰りというより、実際の人気以上にみせるための苦労。
大阪球場とか大きいハコで興行を打つのは、赤字になったとしても決して無駄ではない。
ゴールデンウィークに大阪球場を満杯にしたことで新たなスポンサーさんや企業さんがついてくれたし、1万円近いビデオが数千本も売れましたから、長い目で見れば黒字興行」
というが、興行収益は見た目ほどではなかったのは確かだった。
社会現象とまでいわれた第2次UWFだったが、その人気は旗揚げから1年を過ぎるとすでに陰りをみせていた。
緊張感がない、つまらない試合が多く最初はガマンして観ていたファンも、やがて足が遠のいていった。
またバリバリの革新派だった前田日明が、いつの間にか保守の権化と化していたことも人気低迷の大きな原因だった。
UWF道場でも、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるが移籍後、自己主張ができる彼らによって、変化が起こった。
それまで完全な縦社会だったが、
「盲目的に従うだけではいけない」
と自覚した安生洋二、宮戸優光、中野龍雄ら若手と前田日明、高田延彦、山崎一夫らベテランの間に亀裂が生じ、ベテラン3人が練習に顔を出さなくなったこともあった。
高田は、前田と同調しているようで
「前田さんに勝ったとしても自分がその上にいけるわけではない」
という思いや様々な葛藤を抱えていて、事務所などで前田にニアミスしそうになるとすぐに方向転換して帰ることもあった。
神新二社長、鈴木浩充専務は、経営に危機感を抱き、前田に
「観客数が減って興行収益が減っているにもかかわらずレスラーの数が増えて人件費が増加している」
と伝えた。
しかし超満員の観客からファンタスティックな声援を浴びて試合をした前田にしてみれば、お金がないといわれても信じられず、彼らが私腹を肥やしているのではないかと疑った。