1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで行われたスーパータイガー(佐山聡) vs 前田日明はケンカマッチとなり、結局、1985年9月11日に第1次UWFが崩壊。
UWFの浦田昇社長は、新日本プロレス、全日本プロレスとの業務提携を模索。
全日本プロレスは、前田日明と高田延彦を要求したが、本人たちが全員ではないことを理由に断った。
1985年11月25日、UWFスタッフは、血判状を作成し、浦田昇社長に退陣を迫った。
浦田昇社長にとって、これが2枚目の血判状。
1枚目はUWFを旗揚げした張本人、元新日本プロレス営業本部長の新間寿が、たった5回興行をしただけで
「新日本プロレスと提携しよう」
といったため、スタッフが
「どうしてですか?」
「なんでやめるんですか?」
と反対し、UWFの継続を訴えるために血判状をつくって浦田昇社長に提出。
そして1年半後、同じスタッフたちによって2枚目が叩きつけられたのである。
「私が事件を起こしたからスポンサーがつかない。
だから辞めてくれと。
いやいや、願ってもないことで(笑)」
浦田昇はUWFの借金2億円を引き取って、潔く辞めた。
1985年12月6日、両国国技館で行われたアントニオ猪木&坂口征二 vs 藤波辰巳&木村健悟のリングに、藤原喜明、前田日明、高田延彦、木戸修、山崎一夫らUWF勢がスーツ姿で登場。
26歳の前田日明は、新日本プロレスの4人のトップ選手に睨まれながら
「この1年半UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」
と挨拶。
そして猪木が
「よし!
一緒に頑張ろう」
というと全員が握手を交わした。
年が明けるとアントニオ猪木への挑戦権を賭け、UWFの5選手による「UWF代表者決定リーグ戦」が開始。
猪木は控室のモニターで観ながら、いきなり組まずにキックボクシングに構えるUWFのスタイルを
「あの構えが嫌なんだよ」
といった。
1986年2月5日、リーグ戦を勝ち抜いた藤原喜明と前田日明が対決。
最後は前田が藤原にスリーパーを、藤原は前田にレッグロックを極め、藤原が口から泡を吐いて失神寸前になったとき、前田もタップ。
レフリーは藤原の勝利を宣告。
翌日、両国国技館でアントニオ猪木と藤原喜明が対戦。
猪木は急所への蹴りや顔面へのパンチなどでラフに攻め、最後は藤原は絞め落とした。
直後、前田がリングに乱入。
勝ち名乗りを上げる猪木に不意打ちのハイキックを見舞ってダウンさせ、
「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか」
と吠えた。
これがきっかけとなって新日本とUWFは全面抗争に突入。
UWF勢はUWFのスタイルを、新日本プロレスも自らのスタイルで貫き、異なるスタイルが交錯するスリリングな展開に、タイガーマスク(佐山聡)や長州力らの離脱で落ちていた新日本プロレス人気に再び火がつき、古舘伊知郎は
「闘いのカムバックサーモン現象」
と表現した。
猪木vs 藤原戦から1ヵ月半後の3月26日、
アントニオ猪木、藤波辰巳、木村健悟、星野勘太郎、上田馬之助 vs 藤原喜明、前田日明、高田延彦、木戸修、山崎一夫の5対5マッチが行われ、UWF復帰後、初めて猪木と前田がと対峙。
両陣営の選手が交互に各々のテーマ曲で入場したが、前田がキャプチュードで入場している最中、妨害するように猪木コールが起こった。
プロレスファンはプロレスが八百長であることを知っている。
そして真剣勝負をしている格闘技にコンプレックスを持っている。
しかし心のオアシスであるプロレスを愛し、プロレスラーの強さを信じていた。
試合のルールは、フォール、ギブアップ、そしてUFW側が場外戦を拒否したためにリングの外に落ちた選手が負けとなって抜けていき、最終的にリングで生き残ったほうが勝ち。
山崎一夫はキックで木村健悟を追い込みながらも一瞬で背後をとられ、逆さ押さえ込みで負けた。
藤原は猪木をワキ固めで攻め、代わって入ってきた星野勘太郎にもパイルドライバー、さらにアキレス腱固めを極めてギブアップ勝ち。
前田は木村健悟をフライング・ニールキックで場外に落とした。
藤原は藤波辰巳の背中に密着しスリーパーをしかけ、両者場外に転落。
残るのはUWFが、前田、高田、木戸の3人、新日本プロレスは、猪木、上田の2人。
そして上田が前田と対戦。
前田はミドルキックからハイキック。
上田これをモロにもらいながら倒れずに足をつかんでグランドに引きずり込み、そのまま場外に心中。
1人だけになった猪木は、延髄斬りからスリーパーで高田からギブアップを奪った。
すかさず飛び込んできた木戸は、パンチ、キックからバックドロップ、ネックブリーカーと攻めたが、猪木はジャンプしての延髄斬りからフォールし、3カウントを奪った。
33分38秒の熱戦に観客は大興奮した。
抗争が激化する中、UWFと新日本プロレスは、日頃、それぞれの道場で練習。
そして試合場で一緒になると一気に空気が張り詰めさせた。
中野龍雄、安生洋二、宮戸優光らUWFの若手は、息が詰まるような緊張感の中、礼儀として目があったりすれ違うときは、必ず新日本プロレスの選手に挨拶をした。
人によってリアクションは様々だったが、蝶野正洋には向こうから先に
「お疲れ様です」
と挨拶され、アントニオ猪木にも
「お前たち、今は大変だろうけど、そのうちにいいことがあるからな」
と声をかけてもらった。
藤原喜明、髙田延彦、木戸修、山崎一夫は、UWFスタイルを崩さずにうまく通常のプロレスに合わせることができた。
しかしできないのかやらないのか、前田日明は絶対に戦い方を変えなかった。
「死んでしまうんじゃないか客に思わせるような技をかけつつ、絶対に相手をケガさせない」
というプロレスのルールを守らず、容赦なく蹴りを顔面に叩き込んで、嫌がられ
「前田はいつか潰される」
という噂が流れるようになった。
上田馬之助は何度も前田のところにいって
「プロレスはな、こうなんだよ」
と諭したがいうことをきかなかった。
前田日明が新日本プロレスから
「2日後にアンドレと戦え」
といわれたとき、全員が
「これは絶対に制裁マッチだ」
と思った。
1986年4月29日、三重県、津市体育館で前田日明 vsアンドレ・ザ・ジャイアントという夢の対決が実現した。
試合前、前田の控室で新日本プロレスのレフリー、ミスター高橋がいった。
「気をつけろよ。
アンドレが今日、お前を潰すっていってるぞ。
レフリーもヤツのマネージャーがやるそうだ。
だからオレは今日、お前の試合に立ち会えないんだ。
悪いけど、そういうことになったから」
「どうすればいいんですか?!」
「アンドレが何もいわないんだから、知らないよ」
ミスター高橋はそういって去った。
前田は半信半疑だった。
アンドレに恨みを買うような覚えはなかった。
ゴングが鳴ると前田はタックルにいったが上から潰された。
尻餅をついた前田に対し、アンドレはそのまま223cm、236kgの巨体で上からのしかかり、前田の体は不自然に曲がった。
その後もエルボーを側頭部に入れたり、指で眼球を触ったり、アキレス腱固めをかけられると顔を蹴ったり、ラフな攻撃をしてくるアンドレに前田は距離をとりながら戦い、セコンドの星野勘太郎に
「行っていいんですか」
と確認したが
「俺に聞くな」
といわれた。
控室で試合をみていた猪木も試合場へ。
新日本プロレスのレスラーも続いたが、反対側の控室からUWF勢も出てきており、リングから離れた試合場の壁で両陣営は対峙。
藤原喜明はリング下に走り、
「何してんだ。
早くいけ!
殺されるぞ!」
と叫んだ。
すると前田はようやく攻め出し、アンドレの膝を壊すようなキックを連発。
アンドレは一気にテンションを下げてまったく攻めなくなり、試合は異様な状態が続き、観客からブーイングも起こり始めた。
猪木がリングに乱入しかけてレフリーをしていたアンドレのマネージャー、フレンチ・バーナードに止められたり、藤原喜明がアンドレのセコンドに詰め寄ったり、場外でもアクシデントが連発。
最後はアンドレがリングに大の字に寝転んで戦意喪失をアピール。
薄笑いしながら
「It`s Not My Business」
といった。
前田はトドメを刺そうと思えば刺せたが
「セメントになるならなるで仕方ない。
でも潰したら、自分やUWFの品が下がって、もうTVで使ってもらえなくなる。
だからちゃんと試合を成立させないと」
と思い、ガマンした。
「前田、勝負だ、勝負だ」
といって猪木がリングに乱入。
すするとUWF勢もリングに入り、猪木に突っかかり、新日本プロレス勢と揉み合いになった。
試合結果は、26分35秒、ノーコンテスト。
客は異様な雰囲気に騒然としていたが、レスラーたちにも変な空気が流れていた。
テンションがイッテしまった前田は退場するとき、何の罪もない安生洋二の頭をひっぱたき、高田延彦も非常に機嫌が悪く、以降、前田と口を利かなくなった。
UWFの控室に気まずい空気が流れる中、シャワーを浴びていた前田は、猪木に、
「あれでいいんだ。
レスラーは舐められちゃいけない」
と声をかけられたが、翌日、新日本から無期限出場停止処分となった。
この前田vsアンドレ戦は、テレビ朝日が古舘伊知郎の実況で収録していたが、放送されずお蔵入り。
しかしスポーツ新聞や「週刊プロレス」、「週刊ゴング」は試合の一部始終を報道。
東京スポーツは、1面トップ、写真入りで
「大巨人、ナゾの試合拒否」
という見出しをつけた。
なぜアンドレはセメントを仕掛けたのか?
まず考えるのは新日本プロレスによる潰し説。
(このときの試合のマッチメーカーは、坂口征二、藤波辰巳、レフリーのミスター高橋の3人)、
もう1つは、アンドレが個人的にやったという説。
これは3週間、日本で楽しく働こうとしているところ、外国人レスラー仲間が、前田日明に蹴られケガをさせられ、怒ったアンドレが制裁を加えようとしたというもの。
しかし真相は不明。
アンドレ戦から約1ヵ月後の6月12日、前田日明と藤波辰巳と対戦。
藤波は前田のキックを真っ向から受けた。
前田はコーナーの藤波に縦回転のニールキックを放って、踵が藤波こめかみを直撃し大流血。
最後はフライングニールキックと藤波のレッグラリアットが空中で交錯し、両者後頭部から落ちて両者KOでドロー。
前田は
「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」
と称えたが、藤波は病院で7針を縫い、以後、欠場。
看板選手をケガさせられた新日本プロレスの前田を見る目はさらに厳しくなり、孤独な無人島暮らしは続いた。
アンドレ戦から4ヵ月後、10月9日、両国国技館、前田日明はドン・ナカヤ・ニールセンという日系3世のアメリカ人キックボクサーと対戦。
前田は通常より10kg軽い106kgだったが、それでもニールセンより20kg以上重く、パワーでは圧倒的に有利。
キックボクサーの攻撃を浴び続けた末、5R、2分26秒、逆方エビ固めでギブアップを奪い、感動的な逆転勝利を収めた。
この後、メインイベントで、アントニオ猪木 vs ボクシング元ヘビー級チャンピオン、「モハメド・アリを破った男」レオン・スピンクス戦が行われた。
レフリーはガッツ石松。
3分12R。
モハメド・アリ戦と違い、キックOK、投げOK、寝技も10秒ならOK、関節技禁止、フォールは5カウントというルール。
猪木は3Rまでグローブをつけて戦い、アリキック、延髄斬りを命中させたが、スピンクスのパンチで4度のダウンした。
4R、猪木はグローブを外したが、5R、不用意に放ったハイキックの直後にスピンクスのストレートを顔面にもらって5度目のダウン。
7R、猪木は反則の関節技、腕ひしぎ十字固めを仕掛け、形勢逆転。
8R、バックを取った猪木がバックドロップを狙ったがスピンクスは投げられまいとロープにしがみついて阻止。
そのままグラウンドに移行し猪木がスピンクスを押さえ込み、5カウントが入ってフォール勝ち。
その間、スピンクスは逃げる気ゼロで、まったく動かなかった。
実況解説をしていた山本小鉄が
「レスラーに押さえ込まれたらボクサーは返せないですよ」
といったがゲストの石橋貴明が
「これは納得できませんねえ」
と発言。
やはり異種格闘技戦でフォール勝ちは不自然で、KOかギブアップで終わらなくてはならない。
多くのファンが石橋と同じ気持ちだった。
猪木vsスピンクス戦が凡戦になったことで、前田vsニールセン戦は光った。
週刊プロレスは表紙に
「10.9を救ったのは格闘王前田だ!」
という見出しをつけた。
この2大異種格闘技戦によってで、前田日明は
「アントニオ猪木の後継者」
「新格闘王」
といわれるようになった。
まだに世代交代だった。
ファンは以前から「アントニオ猪木 vs 前田日明」を熱望していたが、その欲求はさらに増した。
猪木は40代だが、もちろん負けるわけにはいかない。
20代後半の前田は、たとえいくら大金を積んで台本を渡しても、キレるとなにをするかわからないところもあり、ファイトスタイルを含め非常に危うく、結局、対戦は実現しなかった。
UWF勢の加入によって一時高騰した新日本プロレスの人気は再び低迷。
毎週金曜20時だった「ワールドプロレスリング」は、月曜20時にお引っ越し。
焦る新日本プロレスは、全日本プロレスのリングに上がっていた長州力、マサ斎藤、小林邦昭、スーパーストロングマシン、ヒロ斎藤、馳浩、佐々木健介らの引き抜きを画策。
長州力にとってプロレスはあくまでビジネスで、多額の移籍金を示すと説得は容易だったが、問題は全日本プロレスで交渉は難航した。
1987年1月19日、一同は巡業のために九州入り。
22日、新日本プロレスは「松の家旅館」、外国人選手は「ビジネスホテル恋路」、UWFは水俣駅前の「水俣旅館」に分宿。
新日本プロレスが貸し切った松の家旅館は、九州本土と天草諸島に囲まれた八代海を目の前にのぞむ戦前創業の老舗で、主人とその両親、嫁、数人の女性従業員で切り盛りしていた。
7階建てで海に面した崖に沿って建ち、最上階の7階がフロント、6階が40畳の大広間、5階から2階が客室、1階が温泉浴場。
エレベーターはなく移動は狭くて急な階段だったため、アントニオ猪木、坂口征二は5階、地位が低いものはほどより下の階に宿泊した。
九州巡業は閑古鳥で赤字続き。
坂口征二は、UWF勢との関係を改善するために親睦会を開くことを決定し、身内のレスラーたちに
「明日、Uと飲むからよ」
と告げた。
23日、
「焼肉がしたい」
「食材や飲み物は自分たちで用意をするから、肉や野菜を焼く台を用意してくれ」
と新日本プロレスからリクエストを受け、松の家旅館は、近くの観光農園「福田農場」から畳の上でも使える焼肉台を数台借りて6階の大広間に設置。
プロレスラーになる前、焼肉店で働いた経験があり、この日、試合がなかった藤原喜明がチャンコ番となって、主人と共に車で肉、野菜、酒類を買いに出た。
そして旅館に戻ると、さっそく準備に取りかかり、そのときに得意のワカメスープも用意した。
「新日時代からワカメスープは、よく猪木さんからリクエストがあったね。
ちゃんこってメインが肉ばっかりなんだよ。
牛だとバター焼き、豚だと豚ちり、あと鶏のちゃんことかね。
その後にどうしてもさっぱりしたもんが食べたくなるんだろうね。
よくつくってたなあ」
水俣市体育館の興行は18時30分にスタートし、試合を終わると新日本プロレス勢は宴会場に集結し、アントニオ猪木と坂口征二が中央市に座った。
遅れてUWF勢、スタッフ、新聞、雑誌、テレビの記者やカメラマンも入り、合計数十人で焼き肉が始まった。
UWF勢と新日本プロレスが一緒に飲むのはこれが初めてで、酔った前田日明が猪木に近づき、
「もっとこうしなくちゃいけない」
と熱く語り、猪木はそれをウンウンとうなずきながら聞いていた。
開始から1時間が過ぎてくだけた雰囲気になった頃、前田日明が斜め前に座っていた武藤敬司 にいった。
「お前、海外から帰ってきたからっていい気になってるんじゃねぞ」
ドン荒川は
「武藤、オマエ、日明にいうことないのか」
とけしかけ、武藤は
「アンタらのやってるのはプロレスじゃねえんだよ。
全然、客が入ってねえじゃん!」
すると前田は飛びかかり、アッという間に馬乗りになってフルスイングで武藤を殴り始めた。
すぐに周囲のレスラーが止めに入った。
その中に船木誠勝もいて、通りかかった星野勘太郎に
「大変です。
なんとかしてください」
と頼んだが、星野はそのまま通り過ぎた。
次に藤原喜明に
「助けてください」
と頼むと、藤原はいきなり前田の顔をサンドバッグのように殴り始めた。
前田は相手が師匠の藤原だったので、目をつぶってそれを受けた。
それでなんとか収まったが、坂口征二が
「前田、オマエ、来い。
俺が相手してやる」
といって仰向けに寝転んだ。
前田は本気のストンピングを数発、蹴ったが当たらず、ツバをはきかけた。
これに触発されたのか、あちこちで争いごとが始まった。、
宴会場は修羅場と化し、加えて嘔吐する者が続出。
トイレの手洗いや小便器の排水にワカメがつまって流れなくなった。
トイレは階段の横にあったため6階から5階に向かう階段に水が伝っていった。
蝶野正洋や獣神サンダー・ライガーは、騒ぎが起こるとすぐに退避。
前田に殴られた武藤と高田延彦は、2人で宴会場を出て話しはじめ、急接近。
高田は
「俺、すごくわかるよ」
といい、宴会場に戻って前田をつかまえて
「じゃんけんして勝ったら1発、殴る」
というゲームをはじめ、高田は前田をはがい絞めにして武藤が殴った。
多数のレスラーが冬だというのに上半身裸かTシャツになって、旅館の前の道路で飲み出したり、町に出て2次会に突入。
そのとき猪木はめちゃくちゃになった宴会場の掃除を手伝っていた。
松の家旅館は、従業員総出で掃除をして排水管のつまりを修理。
後日、壊れた焼肉台や交換した畳の代金、数十万円を新日本プロレスに請求し
「こんなに少ないはずはない。
もっとかかっただろうから請求書を出し直してくれ」
と良心的な対応を受けて、少しだけ上乗せした。
九州での事件から2ヵ月後、1987年3月、新日本プロレスは、長州力ら維新軍の復帰を発表。
しかし全日本プロレスとの契約問題があり、すぐにリングに上がることはできなかった。
1987年4月7日、半年前に金曜20時から月曜20時に引っ越しさせられた「ワールドプロレスリング」は、さらに火曜20時に移った上に番組名も「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」に改名。
生中継をなくなり、山田邦子らお笑いタレントを起用しバラエティの要素を加えた。
その結果、10%あった視聴率は5%台に低下した。
6月、移籍発表から2ヵ月後、全日本プロレスの妨害で長州力はまだ上がれなかったが、それ以外の維新軍が新日本プロレスのリングに復帰。
6月12日、アントニオ猪木がIWGPを 4連覇すると長州は
「前田、おまえは噛みつかないのか。
今しかないぞ俺たちがやるのは」
と世代交代の闘争をアピール。
前田は
「誰が1番強いか決まるまでやればいいんだよ。
決まるまで」
と呼応した。
この後、全日本プロレスに契約違約金、レスラーにも多額の移籍金をを払って呼び戻した新日本プロレスは、UWF vs 維新軍 の抗争戦を展開させた。
10月、移籍発表から半年、ついに長州力が新日本プロレスのリングに復帰。
ファンは「前田日明 vs 長州力」がいつ行われるのか、心躍らせた。
しかしUWFファンにとって理想を求めて新日本プロレスを出て、経営破綻のために戻ったUWF勢と、カネのために離れカネのために戻った維新軍はまったく異質。
藤原喜明が長州力に関節技を極めて技を解く度に
「はい、1本!」
「長州、逃がしてもらったな!」
といい、長州のラリアットに藤原が沈むと歯ぎしりしながら
「長州、勝たせてもらったな」
とヤジった。
しかしアマチュアでオリンピックに出たことがある長州力は、まったく気にしなかった。
他のレスラー同様、UWFが真剣勝負にみせたプロレスであることを見抜いていたし、相手にケガばかりさせている前田日明は
「下手くそなプロレスラー」
で
「自分が強いと勘違いしている」
と思っていた。
11月19日、長州力&マサ斎藤&広斎藤 vs 前田日明&高田延彦&木戸修の6人タッグマッチが行われた。
8分過ぎ、木戸にサソリ固めをかけようとしている長州に、前田はリングに入り顔面に蹴った。
試合後、病院で前頭骨(頭蓋骨の前頭部)亀裂骨折、全治1ヵ月の診断を受けた。
新日本プロレスは、前田日明を無期限出場停止にした。
その理由として坂口征二は、
「プロレスのルール、レスラー仲間のルールを犯してケガを負わせた」
アントニオ猪木は
「打ち場所が問題。
パンチならナックルではなく拳の横の部分、肘なら鋭角なところからズラして打つのが暗黙のルール」
とコメントした。
一方、前田日明が公に謝罪することはなかった。
長州蹴撃事件から1ヵ月後、1987年12月18日、新日本プロレスは経費削減のためにUWFとの業務提携を打ち切り、UWF勢には翌年3月までの短期個人契約を迫った。
藤原喜明と木戸修は即、契約書にサイン。
前田日明、高田延彦、山崎一夫はいったん保留したが、1週間後にサインした。
一方、中野龍雄、安生洋二、宮戸優光らUWFの若手が新日本プロレスからもらうギャラはわずかだった。
彼らはチャンスと活躍の場と求め、何度もUWF社長の神新二にUWFの再興を訴えた。
アントニオ猪木のファンだった神新二は、1983年2月、タイガーマスク人気で絶頂にあった新日本プロレスに入社。
配属先は企画宣伝部で、与えられた仕事は営業本部長、新間寿の運転手兼カバン持ち。
新日本プロレスを追われた新間がUWFを立ち上げると自然とそちらに移り、夜中、警官の目を避けながら大量のポスターを貼ったり、宣伝カーの乗ったり、販売店にチケットを配ったり、ときにはリングアナウンサーもやった。
1985年11月25日、スタッフから退陣を迫られた浦田昇社長は、借金だけを引き取って辞めたが、彼と佐山聡を失ったUWFはたちまち経営難に陥り、スタッフは離散。
残ったのは神新二と神に誘われてUWFに入った大学の同級生、鈴木浩充の2人だけだった。
新日本プロレスに参戦したUWF勢のファイトマネーはUWFの口座に振り込まれ、神と鈴木はそれをそのままレスラーに渡し、自分たちの給料と世田谷に借りている事務所(高田延彦ファンクラブ会長、鈴木健が経営する文具屋の事務所を半分、間借り)の経費は、UWFのグッズを売って稼いだ。
神は、税金対策のために1987年2月にUWFを正式に株式会社として登記。
神が社長、鈴木は専務となった。
資本金1000万円は、UWF長野後援会長の高橋蔦衛、道場を提供してくれた寺島幸男に出してもらい、2人には役員になってもらった。
「何とかUWFを再旗揚げしてください」
「自分たちも活躍したい」
何度も中野龍雄、安生洋二、宮戸優光らにいわれ、ずっと断り続けていた神だったが、やがて
「もう1度やろうか」
と思い始めた。
長州蹴撃事件から3ヵ月後、1988年2月15日、前田日明は新日本プロレスを解雇された。
するとファンは猛反発。
2ヵ月前、「アントニオ猪木 vs 長州力」が「ビッグバン・ベイダー vs 長州力」に変わったときも暴動が起きたが、今回も
「猪木は逃げた」
と批判。
また一般的なプロレスファンからすれば、サソリ固めをかけている長州の顔面を蹴るのは
「卑怯」
「最低の行為」
となるかもしれないがUWFファンにしてみれば
「顔を蹴った?
当然だろう」
「よけない長州が悪い」
となるわけで彼らの多くは前田日明の行動を容認していた。
「週刊プレイボーイ」は、「前田日明に捧げる応援歌」と題し、プロレス好きの著名人のコメントを集めた。
ゲージツ家の篠原勝之、通称「クマさん」は、
「前田日明はプロレスを新しい方向につくってゆける唯一の男だ。
かつて力道山、馬場、猪木がそうだったように」
小説家の夢枕獏は
「今回、前田が長州にも新日にも最後まで謝らなかったこと、これは勲章です。
猪木が前田ととうとう闘わなかったこと、これも勲章です。
ファンは知ってますよ。
前田が誰よりも強いってことを」
そしてロックバンド、ハウンドドッグの大友康平は
「猪木さんの後継者として次のプロレス界のリーダーになる選手を新日本が追放するなんて信じられない。
こういうやり方って猪木を目指すストロングスタイルじゃないですね。
だってプロレスはあらゆる格闘技で最強だといっておきながら猪木を脅かすレスラーはいらないっていうんだから」
とコメント。
またハウンドドッグの所属事務所、マザーエンタープライズの福田信社長も
「前田が追放されるかもしれないって?
それなら独立して異種格闘技戦でもやればいい。
前田ならファンを呼べるよ」
と寄稿した。
そして福田信はUWFと面会を求め、再旗揚げについて必死に考えていた神新二と鈴木浩充は、
・試合数を月1回程度にする
・行けば必ず赤字になる地方は避け、都市部でイベントを行う
というプランを打ち明けた。
大きなロックイベントを成功させてきた福田は、従来のプロレスの演出の古さを指摘し、音楽、照明など演出面での協力を約束。
「やるしかない」
覚悟を決めた神新二と鈴木浩充は、親や親せきに借金し、再興の意志を前田日明に伝えた。
そして3月まで新日本プロレスと契約を結んでいたUWF勢にもコンタクト。
高田延彦、山崎和夫、そしてまだ無名の若手3名、中野龍雄、安生洋二、宮戸優光は応じたが、藤原喜明と木戸修は新日本プロレスに残った。
1988年4月8日、UWFは、赤坂東急ホテルで会見を開き
・興行を再開すること
・旗揚げ戦は5月12日、東京・後楽園ホールで、大会名は「STARTING OVER」
・基本的に月1回、東京、札幌、大阪、福岡などの大都市を中心に興行を行っていく
・年2~3回、収容人員1~2万人の大会場で格闘技イベントの開催も予定している
と発表。
所属選手は、前田日明、高田延彦、山崎一夫、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄の6人。
全員が20代だった。
前田は
「なぜ新生UWFをやることになったかといいますと、去年の事件(長州力顔面蹴撃事件)などもきっかけになったことはなったのですが、やはり前々からの、それこそ最初に新日本(プロレス)に入ったときの道場の雰囲気というのが自分の中にありまして・・・
ホントにプロレスの市民権を得るための努力や、ほかの格闘技者がみても納得できるようなものをリングでやりたい。
そうこうするうちに旧UWFで、そういうことが現実のものとして可能性があると認識するに至りまして、機会があればと、ずっと思っておりました。
今回、いろんな方の力によりまして、やっとここまでこぎつけました。
長年、仲間の間で温めてきましたことを実際の場で展開することによって、プロレス界のイメージや興行会社のあり方とか、選手育成の問題とかを1番、理想的な形で、経営の上に則った方法で追求していきたいと思います。
微力ながら、これからもがんばります」
と語った。
世田谷の道場の看板は「UWF ユニバーサルレスリングプロレス道場」から「格闘技道場 UWF」にかわり、ファンは、
「第2次UWF」
「新生UWF」
といって喜んだ。
一方、新日本プロレスは、UWF勢が去った後、「ワールドプロレスリング」の視聴率が7%を切って、火曜20時から土曜16時へ引っ越し。
全日本プロレスの中継も日曜22時30分に移動したため、プロレス番組がゴールデンタイムから消滅した。