デカくてハミ出てしまう男 篠原信一(2)  加齢なる転身

デカくてハミ出てしまう男 篠原信一(2) 加齢なる転身

悲劇の銀メダリスト、篠原信一は、母校で指導者となり、数年後、日本代表監督に抜擢されると大いに盛り上げたが、最終目標、ロンドンオリンピックでは日本男子柔道史上初の金メダルゼロの悪夢。その後、華麗ではない加齢なる転身を図る。


篠原信一は、シドニーオリンピックを悲劇的な銀メダルで終えた。
「大学に戻って来い」
天理大学柔道部監督、正木嘉美にいわれたが
「いや、無理っす」
と断った。
大学で教員になれば、教壇に立って授業をしながら柔道部を指導することになる。
勉強をまったくしてこなかった篠原信一は、自分に先生ができるはずがないと思った。
しかし正木嘉美は続けた。
「お前はどこで強くなったんや?」
「天理です」
「じゃあ、後輩を強くして恩返ししろ」
結局、天理大学の教員となり、柔道部の監督に就任。
教員としては体育学部の学生に柔道を教え、実技はもちろん、図書館で情報を収集したり、動画を編集したりしてパソコンとプロジェクターを使って講義も行った。
柔道部では自ら相手をした。

「柔道はシドニーでやめる」
と決めていた篠原信一だったが、
「勝ってからやめないと後悔するぞ」
と斎藤仁にいわれ、練習を継続。
しかしそれはしぶしぶ身の入らない稽古だった。
2001年春、全日本体重別で優勝し、5連覇達成。
しかし直後の全日本選手権(無差別)では決勝で井上康生に判定負け。
井上康生は、「最強の柔道家」と尊敬する篠原信一に3度目の対戦で初勝利し、初めて全日本チャンピオンになった。
秋の世界選手権で篠原信一は、準々決勝で、アレクサンドル・ミハイリン(ロシア)に開始早々、隅返で敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がって3位。
また国体成年男子の部に奈良県代表として出場し、準決勝で内股すかしで敗れた。

2003年、全日本選手権(無差別)に出場。
約1年半ぶりの試合だったが、準決勝で鈴木桂治に判定負けし、3位。
「やっぱり追い込んだ練習をしないと勝てないんだ」
と納得し、晴れ晴れとした気持ちで現役を引退。
以後、指導に専念した。
自身が3年生のとき以来、天理大学は全国大会で優勝できていない。
「ほな、俺がさせたろ」
そんな気持ちを持ちながら、教員としても柔道部監督としても充実した生活を送った。
東京の講道学舎にいた大谷将平をスカウトしたのもこの頃の話である。

指導に専念し始めて数年後、斎藤仁が天理大学にやって来て、突然
「篠原、全日本の監督をやれ」
といわれた。
篠原信一は
「無理っす」
と答えた。
全日本の監督になれば天理大学の監督はやめなければいけない。
篠原信一は全国優勝に向けて頑張っている途中で、それを投げ出すわけにはいかないと説明。
それでも斎藤仁は
「やれ」
といい続け、最後に
「まあ考えておけ」
といって帰っていった。
数週間後、斎藤仁が全柔連の強化委員長、吉村和郎を伴って再びやってきた。
「お前、監督やれ」
という吉村和郎に篠原信一は全日本代表でコーチ経験もない自分に監督なんて務まらないと断った。
「いいからやれ。
お前の好きなようにやれ」
「ゴチャゴチャいうな。
男らしく腹決めろ」
強引な2人をなんとか送り帰したが、
「断ることなんてできるんやろうか?」
と思った。
果たしてしばらくすると斎藤仁から呼び出しを喰らい、告げられた日時にその場所に行くと、記者会見が用意がされていた。
「新しい監督を発表します」

2008年11月、篠原信一は男子全日本代表監督となってロンドンオリンピックに向けて強化を始めた。
シドニーオリンピックで男子柔道は、金メダル3つ、(篠原信一が獲った)銀メダル1つ。
アテネも金3つ、銀1つ。
北京では金2つ。
「日本柔道は弱くなった」
「次回のロンドンオリンピックでは金メダル0もあり得るのでは・・・・」
「Xデーはいつだ」
と世間にいわれ全柔連も危機感を持っていた。
篠原信一は北京オリンピックを解説者として現地でみて
「変わってきているな」
と感じていた。
自分が現役の頃は、5分という試合時間の中で3分を過ぎると外国人選手の息が上がり始め、日本人選手はそこから攻め上げた。
そういった粘り強さこそ日本の強さだと思っていたが、北京では日本選手は外国人より先に息を切らしてしまい、後半に投げられてしまっていた。
「まずは体力を何とかしないといけない」
試合時間は5分間、ゴールデンスコア(延長戦)までフルに戦えば8分間。
8分×5試合=40分。
まずこの時間、試合で攻め続けられる体力をつけることをテーマとした。

前任の斎藤仁は選手の自主性を重んじ、合宿で選手たちの要望を受け入れて朝のランニングを廃止することもあった。
しかしその話を聞いたとき、篠原信一は
「お前らホンマに金メダル獲る気あるのか?」
と思ったという。
そして自分が監督になると代表合宿の数を増やし、メニューも大幅に変えた。
朝食前の走り込みも復活させ、5kmのランニングの後、400mと800mのインターバル走。
ダラダラ走っている者がいれば容赦なく蹴りを入れた。
気迫や粘りが足りない練習をみると大声で
「アホ」
「ボケ」
「ダボ」
「なにやっとんじゃ!」
山下康裕や斉藤仁が監督やコーチをしていた時代には考えられなかったことだった。
科学的データに基づいたトレーニングとコンディショニング、選手のモチベーションを上げるメンタルマネジメント、階級ごとに海外選手の研究と対策、そういったことはなしにして、ひたすら厳しい稽古とトレーニングで限界まで追い込むのみ。
当然、
「あまりに根性論過ぎる」
「もっと科学的にトレーニングをやるべきだ」
「長期的なビジョンがない」
とクレームが出たが
「ついてこれない奴は出ていけ」
と突き放した。

一方、練習後は積極的にコミュニケーションを図り、選手と一緒にメシに行くと対等な立場で話し、男同士で盛り上がった。
妻帯者には
「奥さんと仲ええの?」
彼女持ちには
「ちょっと写真みせろ」
お独り君には
「どんな子がタイプなん?」
と話しかけ、その後、得意の下ネタに持ち込み、1本級の爆笑を量産していった。
小学校時代、「うしろの百太郎」というマンガを読んで以来、篠原信一は幽霊が苦手だった。
地縛霊やコックリさんの話を読んだその日の夜は頭まで布団をかぶって寝た。
代表合宿でも夜、押入れから
「カタカタッ」
と音がしたため
「おい、穴井、起きろ」
と同部屋の100kg級日本代表、穴井隆将を無理やり起こし確認させた。
「何もないですよ」
穴井隆将はまったく気にせずに寝たが、篠原信一は一睡もできなかった。
「襟でもつかめたら大外刈りかましたるのに・・・」

2009年1月、国際柔道連盟は「世界ランキング制」を導入した。
主要な大会の成績に応じポイントを与え、その合計ポイント数によって世界ランキングを決定。
男子はランキング上位22名、女子は14名がオリンピックの出場権を得るというシステム。
日本の場合、オリンピックに出場するためには、全日本選手権(無差別)、全日本体重別選手権、世界選手権で勝つことが条件だったが、ランキング制の導入によって国際試合に出てランクを上げることが必要になった。
必然的に出場試合数が増え、特に減量がある選手はキツくなった。
その上、外国のナショナルチームに比べ、日本は代表合宿の数が多かった。
そして篠原信一はトコトン追い込む練習を行ったので、オーバーワークやスランプに陥る代表選手が続出。
ケガを抱えたまま、数ヵ月間、合宿と試合に出続ける選手もいた。
「スランプ(Slump)」は本来、経済用語。
需要が高まって価格が暴騰することをブーム(景気)、逆に暴落することをスランプ(不景気)というが、スポーツでは、心身のコンディション不良や練習や試合で成果が出ないときにいわれる。
その原因の多くが、オーバーストレス(オーバーワーク)
日々の苦しいトレーニングや練習、ウエイトコントロール、ストイック(禁欲的)な生活、目標達成のプレッシャーなど様々なストレスに心身が蝕まれているケースが多い。
心身のストレスレベルが高まると心身に悪影響をもたらし、練習効果の停滞やパフォーマンス低下が起こる。
すると焦燥感や不安、自己嫌悪、罪悪感などネガティブな感情が起き、さらにオーバーワークを起こし、練習効果の停滞、パフォーマンスの低下を引き起こすという悪循環に陥る。
この状態がスランプ。
トレーニング&レスト(休息、休養)バランスが重要視される所以だが、男子柔道日本代表のランキング制への対応の遅れを指摘する声が国内の指導者からも上がっていた。

2009年8月26~30日、オランダのロッテルダムで世界選手権が行われた。
篠原信一にとって初陣となるこの大会で、日本男子代表は、

60kg級、平岡拓晃、銀
66kg級、メダルなし
73kg級、メダルなし
81kg級、メダルなし
90kg級、メダルなし
100kg級、穴井隆将、銅
100kg超級、メダルなし

と金メダルなしという歴史的敗北。
100kg超級の棟田康幸は、
「待て」
がかかった後、引き落とされ、左肩を痛め、その後、右大大腿裏も故障し、立つのがやっとの状態となり、戦う姿勢をみせられず、4度の「指導」を受けて反則負け。
100kg級の穴井隆将は準々決勝で負け、敗者復活を勝ち上がって3位。
全7階級で決勝に進んだのは平岡拓晃だけだった。
平岡拓晃を除いて、日本選手に勝った外国人選手の中で、優勝した選手は0人。
つまり日本人選手は、格下といわれる選手に負けたケースが多かった。
11月、講道館杯が行われ、篠原信一が代表選手に出場を義務づけたため、全7階級に全柔連の強化指定選手、13人が出場。
13人の中で優勝したのは2人だけ。
穴井隆将が初戦で1本負けするなど世界選手権に出た6人の中に優勝者はなかった。

2010年5月、篠原信一は奈良を離れ、都内で単身赴任を始めた。
この年の世界選手権は日本開催。
東京の国立代々木競技場で行われ、フジテレビによって中継放送されるため、篠原信一も積極的にPR活動に起用された。
あるバラエティー番組にも出演したとき、全裸で合宿先の風呂場を紹介し、選手のアソコにかかったボカシには「重量級」と書かれたが、篠原信一は「軽量級」と書かれてしまった。
9月9日~13日、世界選手権が行われ、昨年、金メダル0だった日本男子代表は、

60kg級、平岡拓晃、銅
66kg級、森下純平、金
73kg級、秋本啓之、金
81kg級、高松正裕、銅
90kg級、西山大希、銀
100kg級、穴井隆将、金
100kg超級、メダルなし
無差別級、上川大樹、金

と新鋭の活躍が光り、最大のメダル獲得数を記録した。

ロンドンオリンピックで男子柔道は、7人の代表のうち4人が世界選手権で優勝しており、金メダルを何個獲得できるか注目されていた。
しかし結果は

60kg級 平岡拓晃 銀
66kg級 海老沼匡 銅
73kg級 中矢力 銀
81kg級 メダルなし
90kg級 西山将士 銅
100kg級 メダルなし
100kg超級 メダルなし

と史上初の金メダル0個。
1964年に正式競技になった東京オリンピック以来、男子柔道が金メダルを獲れなかったことは1度もなかった。
100kg、100kg超級という最強のクラスで日本選手が共に2回戦で敗退したことも衝撃的な出来事だった。
山下泰裕は
「最低の結果。
この事実を真摯に受け止め、ゼロからつくり上げていかないと、なかなか上がれないでしょう」
と語った。
帰国後、篠原信一は叩かれた。
オリンピックイヤーに11回も合宿を行ない、オーバーワークによってケガをする選手が続出させたことを問題視され、
「篠原信一の精神主義が敗因」
という意見もあった。
篠原信一は代表監督を辞任。
選手としても監督としてもオリンピックの金メダルには縁がなかった。
「もちろん選手に勝ってもらいたいと、しっかり練習はさせていたと思う。
でも練習する環境は整えてやるから、あとは勝ちたかったら自分でやれよという感じだったのがいけなかった。
例えば自分は、『内股は、ガッと引き出して、タタンッと入って、バシッと投げるねん!』とか『釣手をつかまれたらはじいて技をかけたらいいやろ』という指導だったけど、井上康生は『何でかわかる?』と選手に聞き、理解・納得してやらせるという指導をしていた」

翌年には天理大学の教員も辞めた。
理由は
「このままなんとなく柔道着を着たまま人生をなあなあで過ごしていくと、将来、元オリンピックメダリスト、しかも金ではないというどうしようもないジジイになってしまう!」
という危機感。
今までに人生に囚われない、何か新しいことをしようと、40歳にして廃棄物の会社「株式会社マイドス」を立ち上げた。
周囲には
「安定した収入捨ててもったいない」
「なんで大学の先生やめてまでゴミ屋やねん」
といわれ、嫁、幸世には
「アホか」
といわれ、自分でも自分に
「華麗ではない加齢なる転身」
と突っ込んだ。
この業種を選んだのは、同じ神戸、長田区出身の天理大学の先輩、そして育英高校の先輩、尊敬する2人の先輩が廃棄物回収業をしていたからだった。
許可関係が難しかったため、「マイドス」は事業系廃棄物の管理業。
1つの会社の廃棄物処理の窓口を一手に請け負う仕事だが、いきなりはできないので、1年間、先輩の仕事を手伝って、車でスーパーや市場を周って魚のアラを回収する作業をした。
回収車に乗るオリンピックメダリストをネガティブな目でみる人もいた。
しかし篠原信一はポジティブだった。
柔道を始めたのも、大学や日本代表の監督になったのも誰かに頼まれたり断れなかったから。
これまでは流されて生きてきたが、マイドスは人生で初めて自分からやりたいと思って始めたことだった。

しっかり者の嫁、幸世が社長となって、1人の社員も雇わずに4人の子供を育てながら仕事をこなし、専務の篠原信一を
「なにも専務」
と呼んでいる。
2人でいるとき、篠原信一はほとんどずっとしゃべっているという。
車の中でも買い物しているときも、子供が寝た後も話し続け、
「うっさいわ」
「あんたアホか」
「黙れ、ボケ」
と突っ込まれている。
唯一の娘、海帆に篠原信一はデレデレで、3人の息子には厳格に接することもできるが、娘には嫌われたくないので何かあると
「お姉ちゃんにいうとけよ」
と嫁にいってもらっているという。
篠原信一は、人生で1番長続きしているのは「タバコ」、2番目は「柔道」、3番目「嫁」という。
ついにオリンピックの女神を微笑んでもらえなかったが、最強の女神様がついているようである。

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