斉藤仁  エベレストを楽々と踏破しながら、ついに富士山に登ることはできなかった男。 無敵のロス、地獄のソウル、オリンピック2連覇。

斉藤仁 エベレストを楽々と踏破しながら、ついに富士山に登ることはできなかった男。 無敵のロス、地獄のソウル、オリンピック2連覇。

まるで北斗の拳だ。天は2人の天才を同時代に送り出し、まるでラオウとトキのように、斉藤仁は山下泰裕を超えることに人生をかけた。


生まれ育ったのは、JR青森駅から南東5kmくらいの一般住宅地で、両親と兄の4人暮らし。
父親は元ラグビー選手で炭鉱で働いていた肉体派で、なにかあると2人の息子に怒声とゲンコツを飛ばした。
「仁、これ履いていけ。
男は足腰鍛えなきゃイカン」
突然、鉄下駄を買ってこられた斉藤仁は、しばらくの間、2km離れた学校に鉄下駄で通った。
体が大きな斉藤仁は野球は4番、水泳も得意。
スキーもできて、10km離れたスキー場まで車で送ってもらい、楽しんだ後、帰りのバス代をもらっていたが内緒で家まで滑って帰った。
小学校6年生のとき、TVで「柔道一直線」というドラマの中で主人公が大きな相手を投げ飛ばしたり足でピアノを弾いたりするシーンをみて、
「死ぬまで柔道をやるから」
といって柔道着を買ってもらった。
そして家の中でドラマの主人公の必殺技「地獄車」を弟にかけた。
地獄車は、相手に組みついて回転しながら相手の頭部を畳に何度もたたきつける技で、100kg近くある兄につかまれた弟は鞠のように転がった。
その結果、家の壁は穴だらけになり、畳の下の板が割れた。
中学生になると柔道部に入り、町道場にも通い始め、本格的な練習を開始。
中学3年生になると同時に顧問が他校に転任になったため廃部のピンチになったが、斉藤仁は、半分泣き落としで柔道素人の教師に顧問になってもらった。
そして「柔道入門」という本を15人の部員で回し読みしながら、斉藤仁は、黒帯になり、県大会で優勝した。

「すごい子がいる」
青森県出身の同僚から情報を得た国士舘高校柔道部監督、川野一成は、斉藤仁と面会の約束を取り付けた。
面会の2日前、高校の寮が火事で焼け、そこで住んでいた川野一成も焼け出されてしまった。
翌日、夜行列車に乗り、朝6時、青森に到着。
そのときは12月で、ものすごい吹雪の中、筒井中学校に向かい、校長、父親、斎藤仁と会った。
「先生、寒くねんだか?」
火事で服をすべて焼かれてしまい、近所のスポーツ用品店で借りたジャージと学校の売店にあったペラペラの防寒着だけという姿を驚かれた。
そして川野一成も初めて会った斉藤仁をみて
「ただではない」
と思った。
彼の学生ズボンの股には当て布が縫いつけてあった。
腰や大腿が太く、既製のサイズでは入らないので、股の縫い目をほどいて当て布をつけ、股の部分を広げてあった。
「ドッシリとした足腰もさることながら、そういうズボンをはく純朴さに、私は惹かれました」
斉藤仁には相撲部屋からもスカウトが来ていたが、薄着の川野一成から逆に熱いものを感じた父親は息子の意見を聞かずに
「先生に預けます」
と国士舘高校への進学を決めた。

斎藤仁が上京したのは入学前の春で柔道部は春合宿中だった。
さっそく柔道着に着替え、練習に参加。
「ストレッチをやってみろ」
といわれ、178cm、100kgの斉藤仁は、開脚し上半身を前に倒し、頭を畳につけて川野一成を驚かせた。
「倒立はできるか?」
「はい」
逆立ちしたまま歩き、まさかできると思っていなかった川野一成をまた驚かせた。
前方宙返りも軽々とこなしたという。
学校が始まると、平日は朝1時間、夕方4時間の練習、そして寮で掃除と洗濯という毎日が始まった。
夏休みに青森に1度帰省したとき、
「俺、もう東京に戻りたくない」
と家族の前で泣きながらいった。
国士舘高校柔道部の稽古は半端ではない上、上下関係の厳しさ、1人暮らしの寂しさなどで精神的に追い詰められていた。
結局、しばらく実家で過ごした後、東京に戻ったが、寮に帰るのが嫌で山手線を何度もグルグル回ったという。

「お前、強くなりたいか?
山下(泰裕)に勝ちたいか?」
川野一成の問いに斉藤仁は
「勝ちたいです」
即答した斉藤仁に川野一成はいった。
「それなら組手を左に変えろ」
山下泰裕は、このとき東海大の1年生。
中学時代から「怪童」と呼ばれ、高校ではインターハイ優勝、大人も出場し体重無差別で行われる全日本柔道選手権大会で準決勝進出、19歳で全日本選手権を史上最年少優勝を果たした「天才」
山下泰裕は本来右利きだが、中学生から左利きで組むようにした。
柔道は2本の腕を「釣り手」「引き手」として使うが、一般的に引き手のほうが重要だといわれる。
「引く力の方が大事」なのだ。
右打ちのバッターが左打ちになるような感覚で、右利きの人間が左組みになると利き腕を引手にすることで強力に相手を崩すことができる。
また左利きは数が少ないため、右組みの人間は左組みの相手とやる機会が少なく不慣れだが、左組の人間は右組の人間とやることに慣れているというメリットもある。
斎藤仁も本来右利きで、それまで右手は相手の襟を握って釣り手として使っていたが、高校1年生から左手が釣り手、右手は引き手という左組みに変えた。

また川野一成は斎藤仁に背負い投げを練習させた。
背負い投げは背の低い、体の小さな選手に適した技で、斎藤仁のような体の大きな重量級は、払い腰、内股、大外刈りなどをやるのが一般的。
しかし川野一成は
「斎藤仁の体の柔らかさと身体能力ならできる。
(払い腰、内股、大外刈りに加え)背負い投げもできれば柔道の幅が広がる」
と考え、徹底的に背負い投げを教えた。

現在、高校柔道においては、全国高校柔道選手権(3月) 、金鷲旗高校柔道大会(7月、団体戦のみ)、インターハイ(8月)が3大メジャー大会。
斉藤仁の時代は全国高校柔道選手権(3月)はまだ行われていなかったので、その他の2つの大会が最大の目標だった。
1977年、国士舘高校は金鷲旗大会は3位だったが、インターハイで団体戦初優勝。
このとき唯一の2年生レギュラーだった斎藤仁は、決勝戦で代表戦に出て勝利。
高校3年生のとき、金鷲旗を準優勝に終わると川野一成は
「インターハイでは絶対に取り返す。
俺は命をかける。
お前らもかけろ」
といって以後、10日間、40度近い道場で連日、
「史上最高」
というキツい稽古を慣行。
そしてインターハイが開催される福島県会津若松に乗り込み、予選リーグを戦っている試合会場で川野一成は倒れた。
部員に集め、
「今までやってきたことをすべて出し切れ」
と言い残し意識を失った。
気がつくと病院で、看護師に
「先生、優勝しましたよ」
といわれた。
斎藤仁をはじめ部員にしてみれば
「先生が倒れたから絶対に負けるわけにはいかなかった」
という。
こうして国士舘高校柔道部は本当に命がけになりながらインターハイ2連覇。
斎藤仁は個人戦でも準優勝した。
「あの頃は、柔軟性を活かして、相手を跳ね上げて、根こそぎ持って1本をとりにいく。
そんな柔道でした」
(斎藤仁)

国士舘大学体育学部へ進学した斉藤仁は、その年の10月、全日本学生選手権を勝ち進み、決勝戦で東海大学4年生の山下泰裕と初対戦。
6分半に及ぶ激闘の末、崩上四方固に抑え込まれ1本負け。
しかし大内刈りを返してグラつかせたり、寝技でも腕ひしぎ十字固めを外すなど健闘をみせたので、翌日、新聞に、
「山下ヒヤリ」
「山下康裕のライバル出現」
などと書かれ、注目された。
「山下先輩と初めて対戦したのは、俺が大学1年生のときで、山下先輩4年生のとき。
俺がたまたま決勝戦までいったんだよね。
で、山下先輩の技をたまたま返したんだよ。
ポイントにはならなかったけど。
そしたら次の日の新聞で負けた俺が1面よ。
『山下二世現る』とか、『ポスト山下、斎藤!』ときたわけ。
それからだよ、「俺は山下先輩の二世なんだ」「ポスト山下なんだ」と思うようになったの。
ということは、山下さん以外には負けられないと。
そこからのスタートだったんだよね。
それから頑張るしかない、やるしかないって。
心地よかったんだよ『ポスト山下』って。
ところが実力がついてきて、他の選手に負けなくなってきたときに、なんで俺はいつまでも『ポスト山下』とか『山下二世』なんだって。
「俺は国士舘の斎藤だ」という気持ちが出てきた。
だいたいよく考えたら、山下さん以外に負けられないと思っているうちは、山下先輩に勝てるはずがないんだよね。
それで、これじゃいかんという気持ちになった」

1980年2月、19歳の斉藤仁は初の国際試合、ハワイで行われた環太平洋柔道選手権に出場。
ホテルで29歳の上村春樹(旭化成、1973、75年全日本優勝、1976年、モントリオールオリンピック無差別級で金)と同部屋となった。
上村春樹は斉藤仁のイビキで眠れなった。
試合の結果は、斉藤仁が3位。
上村春樹は1位だったが、この大会を最後に現役引退。
翌年、明治大学柔道部の監督、そして日本代表重量級コーチにもなった。
日本代表の合宿や明治大学の道場に斉藤仁が来ると熱心に指導した。
「彼は体が柔らかくパワーもあり柔道は豪快だったが、大雑把。
必殺技といえる得意技もなかった。
そのため高校時代に負けることもあったし、無敵というわけではなかった。
しかも国際大会に出て外国人と戦うようになるとパワーに頼るだけでは勝てません。
それで体落としや大内刈りなど自分より大きな相手を投げられる技をできるだけ多く身につけさせることにしました」
上村春樹は技の正確さを重視して指導。
畳の上にチョークで印をつけ
「まずここに足を置け」
「次はここ」
という風に、足の位置、足の運び方、重心移動をうるさいほど細かく指導し、踏み込む足が少しでもズレたら
「やり直し!」
上村春樹は、
「これを1ヵ月くらい練習すればスピーディーに技に入れるようになるだろうから、そのときまた来なさい」
といって送り帰したが、内心、
(才能がある選手は得てしてこういう地味な基本の反復は不得意だから、斎藤仁も続くかどうか・・・・)
と思っていた。
しかし斉藤仁は最初の技、体落としを1週間でマスターしてしまった。
何度も繰り返し、繰り返し、かなりの数をしかも正確に反復しなければできないはずで、斉藤仁の粘り強さに驚いた。

こうして斉藤仁は、足の位置、足の運び方、重心移動、身体の動き、使い方を、mm単位で突き詰めるようになった。
下半身や腰だけでなく、腕や上半身の使い方も熱心に研究し工夫を重ねた。
「身体をいかに、よりうまく動かすか」
それを意識しながら練習し、桁違いの量をこなすようになった。
その後、山下康裕がいなくなった後、大学では敵なし。
シニアでも全日本選抜体重別選手権優勝、全日本選手権に2度出場した。

国士舘大学を卒業し、同大学の体育学部助手となった直後の4月、全日本体重別選手権に3度目の出場。
準決勝で天理大学の巨漢学生、正木嘉美を大外刈、大内刈、体落し、背負投と攻め続け判定勝ち。
そして初対戦から4年後、ついにチャンスが訪れた。
決勝戦では山下泰裕と2度目の対決。
斎藤仁は投技で1本を狙っていたが、攻め込めない。
やがて組手争いで有利に立った山下泰裕が、試合場の隅に追い込んでからの大外刈りを連発。
試合終了間際、斎藤仁は大外刈りを小外刈りで返され、場外ながら尻もちをつき、自分の柔道ができないまま判定負けし2位。
しかし山下泰裕は驚いていた
「自分で『いった』と・・・
絶妙のタイミングで思い通りに大外刈りをかけたと・・・
それが効かなかったですね。
『いった』と思っていかなかったのは彼が初めてですね」
数ヵ月後、モスクワ世界選手権では山下康裕が95kg級で無差別級で斉藤仁が優勝した。

打倒!山下に燃える斉藤仁は、全柔連の合宿などで一緒になると、進んでその胸を借り、乱取りになると離さなかった。
「イヤでした。
やればやるほどこちらの技がかからなくなるんです。
とあまりメリットがない山下泰裕は、最初は斎藤仁から離れた場所で練習するなどして逃げたが、どこまでも追ってくるので
「もう来るな」
とばかりにあえて大勢の前で投げて恥をかかせた。
しかし斉藤仁は何度も
「お願いします」
と頭を下げてぶつかっていき、練習後のトレーニングでも山下泰裕と競い争った。
闘志むき出しで迫ってくる後輩に、「まだ負けるわけにはいかない」と山下泰裕もヒートアップ。
燃えるように練習に打ち込んだ。
そして翌年の1983年の全日本選手権でも再び斎藤仁の挑戦を退け、7連覇を達成した。

1984年4月、全日本選手権決勝で斎藤仁は8連覇を狙う山下康裕と4度目の対決し判定負け。
直後、東海大学湘南キャンパスで行われた全日本の合宿に2人は一緒に参加。
ハードな稽古の後、合宿で出された食事だけでは物足りない山下泰裕は、斎藤仁を誘って行きつけの寿司屋にいった。
そして1時間、寿司、焼き鳥、ウナギのかば焼き、天ぷら、ビールも大ジョッキでたいらげながら、真剣に柔道について語り合った。
畳の上では敵だが、降りればお互いを信頼し尊敬し合う、よき先輩後輩の関係だった。
8月、23歳の斉藤仁は95kg級、山下康裕が無差別級に日本代表としてロサンゼルスオリンピックに参加。
斉藤仁は柔道競技の7日目、山下康裕は最終日が出番だった。
日本は初日と2日目に金メダルを獲ったが、その後、4日間は銅メダル1つ。
そして7日目、斉藤仁は試合に行くまでに山下康裕の部屋を訪ね
「先輩、行ってきます。
勝ってきます」
練習の準備をしていた山下も
「頼んだぞ」
と応じ、2人はガッチリ握手。
山下康裕が無差別級にエントリーしたため、多くの強豪外国人が95kg級で出ていた。
しかし斉藤仁は準決勝までALL1本勝ち。
決勝は判定になったが、前大会王者、アンジェロ・パリジに圧倒的な強さで勝利し、金メダル獲得。
試合後、まず山下康裕のところにいき
「先輩、勝ちました」
と報告した。

そして最終日、無差別級の山下泰裕が登場。
1回戦、27秒で1本勝ち。
2回戦、相手の背負い投げを潰し寝技で1本勝ちしたが、内股をかけたとき右ふくらはぎが肉離れを起こし、足をひきずって畳を降りた。
準決勝、193cmのデルコロンボ(フランス)に大外刈りで「効果」のポイントをとられた。
「山下が負ける!!」
日本中が思う中が、痛む右足に体重を乗せて大内刈りで「技あり」
そのまま寝技で1本勝ちした。
決勝戦ではモハメド・ラシュワン(エジプト)の払い腰をかわし、崩れた相手を横四方固めで抑え込み。
一瞬のスキを逃さない柔道で、でに勝って金メダルを獲得。
劇的なドラマに人々は感動。
斉藤仁の強さと活躍はあまり注目されなかった。

誰もが『右足の大ケガした山下は金メダルを花道に引退するだろう』と思っていたが、山下泰裕は
「ロスで勝って引退するのは勝ち逃げのような気がしました。
彼(斎藤仁)がずっと打倒、山下で一生懸命努力してきたのはわかってましたから・・・
とにかくもう1回全日本選手権に出て斎藤選手の挑戦を受ける
それが自分の最後の戦いだと・・」
と現役を続行。
斎藤仁は最後のチャンスに燃えた。
山下泰裕を研究し、得意技である大外刈りをかけるときに軸足が倒れるのを発見。
左足を振り上げて踏み込むとき、軸足となる右足が大きく傾き不安定になっていて、この軸足に向かって全体重を浴びせ倒す「大外返し」で勝負するという作戦を立てた。
山下泰裕のパワーを想定し、2人がかりで大外刈りをかけさせ、それを返す練習を繰り返した。
失敗すると2人にのしかかられて投げられ、斎藤仁は何度も脳震盪を起こした。
一方の山下泰裕は、オリンピック後、お祝いやあいさつ回り、イベント、講演会、取材、テレビ出演などで、ケガの治療とトレーニングに専念できず、試合4ヵ月前から練習を再開。
しかし調子は全く上がらない。
それは稽古相手を務めた東海大学柔道部員は
「山下先生は棄権して引退するんじゃないか」
と思うほどだったが、
3週間前くらいからようやく調子が上がっていき、なんとか戦える状態になって当日を迎えた。

1985年4月、全日本選手権の決勝戦で2人は再び対戦。
斎藤仁は、これまで相手の肘の下の袖を握っていた右手(引き手)を、山下泰裕のわきの下を持って突いた。
そしてニヤッと笑った。
「山下先輩との試合では投げられないでチャンスを活かそうと思ったけど、そのチャンスが出てこない。
投げられないということは防御の間合いということ。
山下先輩は常に投げようという攻めの間合いで、俺は防御の間合い。
攻めの間合いにはどうしてもなれなかった。
それが最後の試合で自分の攻撃の間合いになれた。
なんかそれが嬉しくて嬉しくて、ニヤッと笑ったんですよ。
自分の攻撃の間合いになって「おー、攻めれるじゃん!」って」
斉藤仁は、大内刈とか大外刈と攻めた。
山下泰裕は攻めあぐねながらも、一瞬のスキをうかがっていながらアクションをとり続けた。
「それまでは攻撃の間合いでしかこなかった山下先輩がちょっと防御の間合いになった。
そしたらまた入れなくなったわけよ。
それでしょうがないから奥襟を切って、「大外来い、大外来い」って誘った」
斎藤仁はひたすら大外刈りを待った。
その瞬間は4分過ぎに訪れた。
山下康裕が大外刈のフェイントから支釣込足。
大外刈りがきたと思った斉藤仁は大外返し。
結果、斉藤仁が巻き込みながら浴びせ倒すような形で、山下康裕は背中から畳に倒れた。
「来たっと思って前にガーンと出て、足が掛かんないなと思ったらドーンと倒れていた」
(斉藤仁)
審判は、山下泰裕の転倒をスリップとみなし、ポイントをとらず
寝技に入っていた2人に
「待て」
をかけた。
ポイントこそなかったが、この時点で斎藤仁が圧倒的に有利になった。

斎藤仁は、ここで主審にタイムを要求。
倒れこんだときに痛めた右膝をドクターにチェックしてもらったが、おそらく本当の目的は、浮かれすぎないように自分を落ち着かせることだった。
一方、この時間に山下泰裕は気持ちを立て直した。
「今の流れと仁ちゃんの圧力では、俺はどうやっても投げることはできないだろう。
勝つための唯一の策はとにかく攻めて攻めて仁ちゃんを精神的にプレッシャーを与えて追い込むことだ。
そうすればミスするかもしれないし、チャンスが生まれるかもしれない」
再開後、山下泰裕の動きが変わった。
物凄い形相で技を出し続けた。
斉藤仁は「勝ちたい」という気持ちが逆に守勢をとらせ、技が出ない、いや出せない。
試合終了と同時に斉藤仁はガッツポーズ。
しかし判定は判定は主審が斉藤、副審2名が山下。
山下康裕がこの大会9連覇を達成。
非常に微妙な判定であったことを認めつつ、
「タイムをとったことは彼(斎藤仁)の過ちだった」
といっている。
一方、斉藤仁は

1979年、全日本学生選手権
1981年、日本国際大会
1982年、全日本体重別選手権
1982年、嘉納杯
1983年、全日本選手権
1983年、全日本体重別選手権
1984年、全日本選手権
1985年、全日本選手権

と山下泰裕と8戦8敗で1度も勝てなかった。

オリンピック、世界選手権、全日本選手権、この3大大会で優勝することをグランドスラムと呼ぶ。
ロスオリンピックが終わった時点でグランドスラム達成者は猪熊功、岡野功、上村春樹、山下康裕の4人のみ。
斉藤仁は、オリンピック、世界選手権と世界の頂点に立ちながら、全日本選手権ではずっと2位。
ずっと
「俺はエベレストには登ったけど、富士山はまだだ」
と思っていた。
山下泰裕の引退後は、それもすぐに果たされ、斉藤仁の時代が来るはずだった。
しかし1985年9月、ソウルで開催された世界選手権の決勝戦で地元・韓国の趙容徹と対戦。
試合開始早々、趙容徹が立った姿勢からいきなり腕挫腋固。
斉藤仁は左腕の肘を脱臼。
どうみても反則技だったが、審判は試合続行不可能となった斉藤仁の棄権負けとした。
山下泰裕コーチをはじめ日本代表の首脳陣は抗議したが認められなかった。
(斉藤仁は、翌日の無差別級も欠場し、代わりに出た正木嘉美が優勝)

この後、ケガが回復すると左腕は細くなってしまい、肘にチューブを巻いて保護しながら練習。
翌1986年4月の全日本選手権では準決勝で正木嘉美に判定負け。
1987年の同大会では、試合1ヶ月前の練習で軸足となる右脚の膝を捻って十字靭帯および外側靭帯の断裂、半月板損傷という大ケガ。
試合を棄権し手術を受けて、リハビリ生活に入った。
翌年のソウルオリンピック出場が危なくなってしまった斉藤仁は、自暴自棄になってしまい
「周囲から見たら不快な患者だったのではないか」
という。
しかし老人が不自由な懸命に動かそうとしている姿をみてハッとなった。
「リハビリ病院でおじいちゃんやおばあちゃんと一緒にリハビリして、絶対に生きるんだという執念を見せてもらってね。
あれで俺は這い上がれたと思います。
俺はなんてちっぽけなことで悩んでいるんだろうって。
手術して、その病院に行ったときは「俺はもう終わった」って、諦めながらリハビリしていたんです。
そしたら、俺の近くで、自力で必死にリハビリしていたおじさんがあるとき「斎藤さん、ここまで動くようになった」というわけよ。
「やればできるんだ」って。
「斎藤さんも頑張ってくんなよ、俺たちも頑張るから」っていわれて初めてハッと気がついた。
俺は膝と肘しか悪くないし、松葉杖はついているけど、ピンピンしている。
そのときトンカチかなんかで、ガーンと頭を叩かれるような衝撃を受けたんですよ。
それで初めて、学療法士の先生が汗をダラダラかきながら無理やり硬直した身体を引き裂くようなリハビリをしている様子が目に入ってきて、音、悲鳴というのが聞こえてきた。それまで、俺の目には全然周囲は映らなかったんですよね。
あの出来事がなかったら、俺はここまで頑張れなかったと思う」
その後は懸命にリハビリに取り組んだ。
それでも右脚は左脚よりも10cmも細くなった。

26歳で独身の斉藤仁は金メダリストでありながら国士舘大学の近くのアパートに住んでいた。
リハビリトレーニングに通う日々は、身体だけでなく精神的にも辛く、夜はよく飲みにいった。
飲むととにかく明るくなって店で逆立ちで歩いて
「サーカスの熊みたい」
と盛り上げた。
「格闘技にはリズム感が大事だ」
とディスコでダンス!
焼き鳥店に行くとメニューをみながら
「ここからここまで」
と頼み、それを数回繰り返し、信じられない量を食べた。
金メダリストサービスがあって数千円ですむこともあったが、毎晩飲み歩いた結果
「ロスオリンピックのときにあった貯金は全部なくなった」
という。
飲み友達が部屋に泊まることもあったが大きなイビキのために朝起きたらいなくなっていたという。

1988年の全日本選手権は、大会3連覇を狙う正木嘉美、前年準優勝の元谷金次郎、世界選手権無差別級王者、まだ学生の小川直也と勢いのある3人が出場していた。
左肘と右膝、2つも大ケガが重なり、年齢的にもベテランの斉藤仁には
「もう斉藤は終わった」
と限界説も囁かれていた。
実際、試合前、ガチガチに緊張し、鬼のような形相をみせて戦った。
元谷金次郎、小川直也が3回戦で敗退し、決勝は斉藤仁 vs 正木嘉美となった。
激しい攻防となったが、斉藤仁は気迫の攻めをみせ判定勝ち。
山下泰裕が引退してから3年、27歳、7度目の挑戦で悲願の全日本選手権初制覇。
そしてグランドスラム達成。
その後、全日本選抜体重別でも小川直也を破り優勝した。

上村春樹監督は、ソウルオリンピックの95kg超級の日本代表に斉藤仁を選んだ。
このオリンピックから無差別級が廃止され、95kg超級が最重量級となっていたので、斉藤仁は最強のクラスを任されたことになる。
しかし斉藤仁を日本代表にすることに疑問視する声もあった。
肘と膝に爆弾を抱え、全日本選手権と全日本選抜体重別で優勝したときも全盛期のような技は出ていなかった。
斉藤仁も代表になった後、他のメンバーと同じメニューが全然こなせず、
「俺はオリンピックに出ていいのかな?」
「辞退したほうがいいんじゃないか?」
と悩んだことがあった。
そんなとき(当時はまだJOCがなかったので)日本体育協会から
「日本選手団全体のキャプテンをお願いしたい」
という依頼が来たため、腹をくくった。
「やるしかない」

ソウルオリンピックで、日本男子柔道は、

60kg級 細川伸二 銅
65kg級 山本洋祐 銅
71kg級 メダルなし
78kg級 メダルなし
86kg級 大迫明伸 銅
95kg級 メダルなし

と6日を終わって銅メダル3個。
そして1988年10月1日、最終日、95kg超級の斉藤仁が登場。
日本はここまでは銅メダル3個のみ。
1964年の東京オリンピック以来、続く金メダル獲得に黄色信号。
「俺がそんなに気張んなくても、その前に2つか3つは金メダルを獲っているだろうと。
それが、あれ?あれ?って。
あれよ、あれよで(金メダル0の状態で)来ちゃいましたからね」
斉藤仁は膝の状態は悪く、
「明日持てよ、頼むぞ」
という気持ちだけ緊張や不安、プレッシャーを感じる余裕もなかった。
吉村和郎に
「斎藤、お前が勝つためだったらなんでもしてやる。
なんでもいえ」
といわれ
「先生、試合の朝、炭水化物をいっぱい摂りたいんで、スパゲッティを作ってもらえますか」
と頼んだ。
吉村和郎は買い物に出た。
しかし韓国にスパゲッティはなく、南大門市場からロッテデパート、そこら中を探したが見つからず、結局、細いうどんをパスタの代わりにした。

異様な重圧の中、斉藤仁は1回戦、2回戦、準々決勝と寝技による1本勝ち。
準決勝で反則技で地獄に落とされた因縁の相手、趙容徹と対戦。
2人が畳に上がると、さすが地元、会場は嵐のような趙容徹コール。
「趙への声援がすごいですね」
試合を実況していたTVアナウンサーがいうと、解説者だった山下泰裕は、
「そうですか、私にはサイトウ、サイトウと聞こえますけど」
とサラリと答えた。
そして試合は、完全に斉藤仁ペース。
途中、斉藤仁の圧力に趙容徹は下がりながら場外間際で技をかけて倒れるようになる。
斉藤仁が追い趙容徹が掛け逃げ。
鬼ごっこのような展開が繰り返され、斉藤仁も
「やってられない」
と両手でアピール。
試合残り20秒、消極的な趙容徹に主審は
「指導」
さらに残り10秒、不用意に場外に出た趙容徹に
「注意」
を与えた。
その後、趙容徹は戦意を喪失し構えもせずに棒立ち。
「趙は、もう試合をしない!」
TVアナウンサーが絶叫。
地元の大歓声を受けながら趙容徹は、斉藤仁に手も足も出ず、最後はほぼ試合放棄という異様な展開で試合は終わった。
決勝戦で斉藤仁はヘンリー・ストール(東ドイツ)と対戦。
右足を引きづりながらも前に前にひたすら攻め続け、根負けしたヘンリー・ストールに「指導」が与えられ、判定勝ち。
男子柔道、唯一の金メダリストとなって日本の威信を守り、男子柔道史上初のオリンピック2連覇を達成。
オリンピックの金メダルの数で山下泰裕に勝った。

「選手時代の後半はケガが多かったけど、それは神様が『お前はまだまだチャンピオンになる器じゃないんだ』と『もう少し、人間的にしっかりしなさい』と。
『チャンピオンになるためには、チャンピオンになれる権利のある心を身につけなければダメなんだよ』ということを神様に教えてもらったのかなと。
肘をケガして、それでも気がつかない自分がいて、今度は膝をケガした。
ケガをしたことで感謝という気持ちを教えてもらった。
そう思うんですよね」

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山下泰裕が持っていた全日本選手権最年少優勝記録を破り、井上康生、鈴木桂治、棟田康幸とのライバルに競り勝って北京オリンピックに出場し、金メダル獲得。「屁のツッパリにもなりません」「すごい純粋さが伝わってきました。そして腹黒くないからこそ、政治家として人気が出ない」


「キン肉マン」超人オリンピックに出場したスイス出身の『ウォッチマン』のフィギュアが登場!!

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ハイクオリティフィギュアの製造・販売で好評を博しているSpiceSeed フィギュア事業部より、キン肉マンシリーズのフィギュア『ウォッチマン』が発売されます。


イベンダー・ホリフィールド  圧倒的!!  無敵のクルーザー級時代。

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悲劇のロスアンゼルスオリンピックの後、プロに転向。超タフなドワイト・ムハマド・カウィとの死闘を制しWBA世界クルーザー級チャンピオンとなり、WBA、WBC、IBF、3団体のタイトルの統一にも成功。すぐに「最強」の称号を得るため、マイク・タイソンが君臨するヘビー級への殴りこみを宣言した。


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世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

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葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

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人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

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開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

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ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

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2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。