伝説になった、江夏の21球

伝説になった、江夏の21球

「江夏の21球」は、山際淳司氏による短編ノンフィクション作品です。 1979年に行われた広島東洋カープと近鉄バッファローズの日本シリーズ第7戦。歴史に残る9回裏の攻防において、広島東洋カープの江夏豊が投じた全21球から起こったドラマに焦点が当てられたいます。しかし現在では、この9回裏の攻防自体を「江夏の21球」として呼ぶようになっています。


優勝請負人

プロ野球界には、複数のチームを渡り歩きながら優勝に大きく貢献する、「優勝請負人」と呼ばれる選手がいます。阪神タイガースのエースとして君臨し、その後南海ホークスに渡り、広島東洋カープに移籍してきた江夏豊は、その代表的な選手と言えるでしょう。

南海時代に野村克也から勝つためのノウハウを叩き込まれた江夏は、広島東洋カープの守護神として、その力をいかんなく発揮します。投手としての頂点は、若かった阪神タイガース時代だったかもしれませんが、優勝という頂点に初めて立った充実感は、まさに最高だったことでしょう。

江夏自身、広島での3年間が一番楽しかった、と振り返っています。もしクローザーとして広島に残っていたら、山本浩二や衣笠祥雄の領有も健在で、若手も台頭し充実の域に達し始めた広島、長期にわたって黄金時代を迎えたかもしれませんね。

江夏は、広島を退団してから日本ハムに移籍します。その後、西武ライオンズに移ってからメジャーリーグに挑戦。ブリュワーズとマイナー契約しましたがメジャー契約には至らず、移籍を繰り返した後、帰国し現役引退となります。

1979年の日本シリーズ

1979年の日本シリーズは、古葉竹識監督率いる広島東洋カープと、プレーオフで阪急ブレーブスに3連勝した、シリーズ初出場の西本幸雄監督率いる近鉄バファローズの対決となりました。今シリーズは、歴史に残るような日本シリーズになりましたが、広島が4勝3敗で日本一となります。

近鉄が主催する試合は、ホームグランドの日生球場か藤井寺球場を使用するところですが、日生球場は収容人数が少なく、藤井寺球場も当時はナイター設備がなかったということで、プレーオフ同様に南海ホークスの本拠地・大阪球場を使用することになりました。

手に汗握る大接戦

1979年の日本シリーズは、3勝3敗のタイで第7選を迎えることになりました、まさに日本一を決定する重要な試合です。第7戦の広島は当シリーズ好調の山根が先発、一方近鉄は絶対的なエース鈴木の先発で、両投手とも中2日での先発でした。

広島は1回表、高橋の右前ヒットをマニエルが後逸し、無死3塁のチャンスを迎えます。すると、スタメン復帰の衣笠がタイムリーを放ちまず先制。更に3回にも水谷のタイムリーで得点を重ねます。近鉄は5回裏、これまで不調だった平野がシリーズ初安打となる1号2ランを放ち同点に。

しかし広島は6回表、2死から捕手の水沼四郎が2ランホームランを放ち勝ち越します。6回裏の近鉄は1死2・3塁で羽田の内野ゴロで1点を返し。4対3で終盤に入ります。その後、広島は7回2死から早くも守護神江夏を投入し、近鉄も1点ビハインドの8回からこれまた守護神の山口を登板させる総力戦となり、9回裏の攻防となります。

無死満塁

9回裏、江夏が投じた21球の内、前半部の1球目から10球目を見ていきます。先頭打者の羽田耕一が、いきなり初球をセンター前にヒットします。江夏は、慎重に攻めてくると考え、初球からは打ってこないという読みが外れたもの。羽田はストレートならなんでも振るつもりだったそうです。

その後、代走の藤瀬史朗が盗塁、水沼の悪送球を誘って3塁まで進みます。実はこの盗塁、ヒットエンドランのサインをアーノルドが見落としたもので、完全にアウトのタイミングがワンバウンドになり、近鉄のベンチはツイてると思ったことでしょう。このワンプレーで一打同点の大チャンスが訪れます。

江夏が投じた6球目、アーノルドは四球で1塁に。この時、広島サイドは前進守備で、内野ゴロでの失点に備えます。古葉監督は同点にされたら負けると考え、1点も与えないシフトを敷いたのです。ただ、1人ランナー代走吹石の盗塁が容易になるので、サヨナラ負けに繋がる可能性も増大させる作戦ではあったのですが。

この時、北別府学と池谷公二郎が投球練習を開始。この行動を見た江夏の心境に変化が。オレに任せられないにかと憤り、変えられるくらいなら辞めてやるとまで思ったとか。実は古葉は、同点延長になった場合のことを想定し、江夏に代打を送った後の準備をしたで、途中交代は考えていませんでした。

無死1.3塁で、次の打者は平野光泰。この時投げた江夏の8球目が、膝元へ落ちる江夏独特のカーブでした。そして、平野のハーフスイングを見て、この球は使えると確信します。次の投球の際に吹石が盗塁、1塁が空いたため、広島サイドは満塁策を取ります。この時、選手と観客の誰もが、近鉄の大逆転勝利を確信したのでした。

覚悟した敗戦

江夏の投げた11球目は、敬遠のための投球となり、無死満塁と近鉄のチャンスは更に広がっていきます。この時、センターの守備についていた山本浩二でさえ、負けを覚悟したそうです。次打者は、後に近鉄の監督を務める佐々木恭介。しかしここで江夏は開き直り、強気の投球を展開することに。ここで開き直れるのが、江夏たる由縁なんでしょうね。

江夏が投げた14球目、佐々木の打球は三塁線に飛ぶ際どいファウル。この時、一塁の衣笠祥雄がマウンドに行き、先ほどからブルペンの動きにわだかまりを待ったまま投げている江夏に、ベンチやブルペンは気にするな、その時は一緒に辞めてやるよって声を掛けます。

その衣笠の一言で、平静さと集中力を取り戻した江夏は、その直後の投球に、平野に投じて手ごたえを感じていた膝元へ落ちるカーブを選択、佐々木を三振に打ち取ります。そして1死となって、石渡茂がバッターボックスに入り、いよいよ江夏の21球がクライマックスに向かいます。

江夏が投げた18球目、外角からのカーブに無反応の石渡の態度に、バッテリーは、スクイズを確信したそうです。しかし、いつスクイズのサインが出るかはわかりませんでした。三塁走者の藤瀬は、3塁に行った際にスクイズもあるとコーチから言われたそうです。実際に江夏が18球目を投じた後に、スクイズのサインが出たと言っています。

そして、この試合最大のポイントとなる19球目。広島バッテリーは見事にスクイズを外して、3塁走者の藤瀬をアウトにします。実は江夏はこの時、カーブの握りのままでウエストボールを投げたのです。この時のウエストボールに関しては、かなり話題にもなっていますので、この後で詳しく深堀します。

近鉄のチャンスはついえたようにも思えましたが、それでも2死2・3塁で、一打逆転サヨナラのチャンスは変わりません。全ては、江夏と石渡の勝負になりました。そして、江夏の投げた21球目は、平野の時に手ごたえを感じて、佐々木を三振に取った、江夏独特のカーブ。この球で石渡を空振りの三振に取り、江夏の21球が完成したのです。

伝説を演出した裏のエピソード

江夏の6球目の直後に、古葉監督が指示した北別府と池谷のブルペン入り。信用してないのかと憤った江夏の心情を聞いた古葉監督は、江夏ほどの投手ならそう思って当然だと語っています。しかし、江夏自身もあの状況では同点も覚悟していたし、後年になってから、古葉さんの行動は理解できたと語っているんですよ。

吹石が2塁への盗塁を決めた後、勝負をするか満塁策を取るかで田中コーチに聞かれます。その時、内心は違っていましたが野手に合わせることも必要と思い満塁策を選んだそうです。ちなみに歩かせた平野は、高校時代の対戦で、江夏から本塁打(ランニング)を放っているんです。大阪学院高校のエースだった江夏が、本塁打をたれた唯一の打者だったんですよ。

江夏が佐々木に投じた13球目、実は佐々木ほどの打者なら、楽に外野フライを打てるボールだったそうです。見逃した佐々木にとっては、まさに痛恨の1球になっています。見逃した佐々木は、後に野球生活最大の後悔と述べているとか。捕手の水沼も、やられたっと思うほどの一球だったそうです。一方で江夏は、この1球がきっかけになり、佐々木を三振に仕留める配球が閃いたと言っています。

もやもやした気持ちで投げていた江夏に、15球目の前に言った衣笠が江夏にかけた言葉。「俺も同じ気持ちだから気にするな、中途半端に投げて打たれるようなことはするなよ。全力で投げて打たれたのなら納得もできるだろ。」といったような内容でした。更に、「お前がこのことで辞めるようなことがあったら一緒に辞めるよ」って励まし、これで一気に江夏がっ切れることになります。まさに勝負を左右する、ファインプレーだったのです。

スクイズを見抜いていたバッテリー

当時広島の捕手だった水沼は、次打者の石渡をしっかりと観察していました。かなりの緊張した様子で、スクイズの可能性が限りなく高いと判断したそうです。しかも水沼は、中央大学の石渡の先輩に当たり、「いつ、するんだ?」って、言葉のプレッシャーもかけていました。

中央大学で2年違いの先輩後輩だった水沼と石渡。寮で同室だったこともあり、お互いを良く知る間柄でした。普段は打席でも愛想の好い石渡が、この打席ばかりは水沼の言葉にも無反応だったそうで、スクイズが来ると確信できたそうです。

そして、スクイズのサインを出した3塁コーチの仰木は、石渡の背後からじっと自分を見つめる水沼を見て、失敗しそうな予感に包まれたと言っています。江夏の方も、スクイズの予感があったそうです。個人的にも仰木と親しい江夏は、その時たまたま三塁コーチの仰木を見ます。いつもならにやりとする仰木なのですが、その時ばかりは目をそらしたそうです。この瞬間を見逃さなかった江夏はスクイズを確信、あとはカウントの問題だけでした。広島バッテリーは、見事にスクイズを見抜いていたことになりますね。

奇跡のウエストボール

江夏の21球の中で、最も注目されるのが、スクイズを外した19球目のウエストボール。その時の球種はカーブだったのですが、後に書かれた自著の中で「水沼じゃなきゃ捕れなかった球だった」と語っています。

解説者の豊田泰光は、偶然外れたのだと述べています。それは、左腕の江夏からは、三塁走者の動きは見えないのが理由。石渡の引退後、に聞いたところ、豊田と同意見だったそうです。それにしても、石渡及び近鉄サイドは、「外された」のか、偶然「外れたのか」のかの違いは、大いに気になるところですね。

西部時代の名捕手である後に監督となる伊東勤は、真逆の考えをしています。西武時代において、同様の場面があって、江夏が瞬時に高めに投球コースを変えた経験を持っているのです。ですので、今回の場面も江夏の意思で外したと、確信を持っていると話しています。

実際に捕手であった水沼は、当時江夏とスクイズに関しての話はしていませんでした。タイムを取ったら、近鉄ベンチがスクイズのサインを取り消すかもと考えたためです。水沼は、敢えて動かないようにしたと語っています。スクイズの瞬間、水沼が立ち上がったのは、三塁走者の藤瀬が視界を動いたための咄嗟の行動だったといいいます。

水沼は、カーブの握りでウエストボールを投げるなんて、江夏にしかできない芸当だと話します。普通の投手なら急に立ち上がった捕手を見たら、驚いて暴投したりワンバウンドになったりするだろうとも。

変化球でウエストするなどありえないとする、様々な人の主張もありますが、伊東以外にも、そのような状況で投げるコースを変えられる江夏を知っているという証言もあります。後に監督となる安藤統男は、選手時代は江夏とチームメートで、巨人戦において瞬時にコースを変更した江夏の投球を見ている一人です。その経験から、今回のスクイズ外しは意図的にだったと主張されています。

たまたまあの時に、偶然に球のコースが外れて、水沼の構えるところに投げてしまった。普通に考えたら、そんな偶然が起こることは考えられません。水沼の洞察力の深さと、江夏の技術力の高さが生み出した、まさに奇跡のウエストボールだったと言えるのでしょう。

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