たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。


1940年11月23日、
たこ八郎こと斎藤清作は、宮城県仙台市の外れ、外苦竹村の裕福な農家に生まれた。
8人兄弟の2番目、未熟児として生まれ、その後もずっと体は小さかった。
学校の成績は良くないが、優しくてサーボス精神旺盛な調子ノリ、誰からも好かれる人気者だった。
まだ戦後、間もない頃で、大陸から引き揚げてきたばかりの経済的に苦しい家庭も多く、仙台市立東仙台小学校には、弁当を持ってこられない子供もいた。
米に不自由したことがなかった斎藤清作は、母親に弁当を5つつくってもらい、
「弁当のない子に分けてあげよう」
と学校に向かった。
しかし学校に着いてみると弁当のない子は何十人もいた。
「これでは足りない。
分けてもらえない子が出たらもっとかわいそうだ。
どうしよう」
悩んだ末、結局、誰にも弁当を渡さず、家に引き返し、そのまま学校を休んでしまった。
斉藤家では、子供は農作業の手伝いをするには当たり前だったが、斎藤清作は農業が好きになれず、みんなが仕事をしていても1人だけ離れ、蔵の米を町で売ってお金を作って遊ぶこともあった。

9歳のある日、友達と、三角沼という膝までつかるほど深い沼地で、泥でつくった球をぶつけ合って遊んでいた。
そのとき友達の投げた泥球が斎藤清作の左目を直撃。
チカチカと痛みを感じ、川で洗ったが、こすったことで悪化させたかもしれない。
その後、友人のことを気遣い、親にも告げず、医者にも行かず、放っておくと左目は視力が低下していき、最終的に光を感じるだけとなり、左瞼も緩んでタレ落ち、小さい文字を読むときは少し首を捻って右目を近づけなければならなくなった。

仙台にサーカスがきたとき観にいって、おどけた仕草で拍手喝さいを浴びるピエロをみて
「いいなあ。
俺もあんなふうになりたいな」
「あちこち自由に旅できていいな」
と憧れた。
小さい頃、悪いことをしたとき、親に
「サーカスには人さらいがいてさらわれるぞ。
捕まると酢を飲まされて体を柔らかくされ曲芸師にされる」
と脅されていたので、楽屋の周りをうろついてドキドキしながらさらわれるのを待った。
中学生になると映画に夢中になった。
中でも好きだったのはアメリカ映画の「底抜けシリーズ」
コメディアンのジェリー・ルイス(ボケ)と歌手のディーン・マーティン(ツッコミ)の2人組「Martin and Lewis」のドタバタ喜劇。
激しい動きで笑わせるコメディアンに強く惹かれ、将来は人を笑わせて幸せにする喜劇俳優になりたいと思った。

スポーツが盛んな仙台育英学園高等学校に進学した斉藤清作は、まずサッカー部に入った。
ドリブルはうまかったが、キック力がなくてレギュラーになれなかった。
次にレスリング部に入ろうとしたが、52kgが最軽量クラスとなる競技で44kgの体は小さすぎると入れてもらえなかった。
その後、いくつかまわったっ果、モスキート級という44kgのクラスがあるボクシング部に入った。
2つ上の先輩に芳賀勝男(ローマオリンピック日本代表、プロでも日本バンタム級チャンピオン)がいた。
普通、右利きの人間は、左肩を前にして体を斜めにして構え、左で軽いジャブを放ち、相手を牽制しながら機をみて強い右を叩き込む。
しかし左目がみえない斉藤清作は、右利きだったが右肩を前に構えるサウスポースタイルで構えた。
みえる右目を前にして少しでも視界をよくし、利き腕の右のジャブでコントロールし、チャンスで左を思い切り打った。
片目のために相手との距離感やパンチがみえづらい上に、トドメを刺す左が非力なため、勝つために徹底的にヒット&アウェイ(打って離れる)スタイルのアウトボクシングをやって、2回、宮城県大会で優勝。
最終戦績は、20戦18勝2敗。
2つの負けは、県チャンピオンとして2度出場した東北大会の準決勝と準々決勝で、共に判定負け。
18勝中、KO勝ちは0だった。

卒業が近づき、進路を決めなければならなくなった。
日本は高度経済成長期に入り、企業側の求人に応じ、東北から東京へ、九州・四国・沖縄から大阪や名古屋へ、少年少女たちが出征兵士のごとく就職していく「集団就職」や農家の次男坊以降が中学校や高校を卒業した直後、都市部のの工場や商店などに就職するために臨時列車に乗って旅立つ「集団就職列車」が社会現象となっていた。
農業が嫌いでコメディアンを夢みる斎藤家の次男坊は、芸能界に何の情報もツテもなかったが、とりあえず上京することにした。
「おめえ、東京さいってどうすんだ」
「喜劇役者になりたいと思ってんだ」
「喜劇役者?」
「んだっちゃ。
でちたら俳優やりたいと思ってんだ」
「その面でか」
「・・・・・・・・・」
友人のあざけりに無言で応え、仙台駅に見送りに来た母親には
「偉くなるまで帰らない」
とだけ告げ、上野行の集団就職列車に乗った。
家族は次男が東京行きの真の目的を告げなかったため
「野良仕事がイヤなのだろう」
と思っていた。


1958年の3月29日、上京後、東京の銀座の貴金属店「銀パリ宝飾」に就職。
スーツを着て接客を行った。
芸能人のように着飾った客をみて
「こんなところにいても仕方ない。
サーカスでも何でもいい。
早く芸能の道へ入りたい」
と思いながら、必死に働き、イントネーションは東北弁のままだが東京弁をマスター。
秋になると、新聞で映画配給会社の求人広告を発見し応募。
採用が決まると銀パリ宝飾を辞め
「芸能界に近づいた」
と喜んだ。
しかし仕事は、映画フイルムを積んだ自転車で、映画館から映画館へ走って回る運び屋で、半年間、劇場に住み込んだ後、四畳半のアパートを借りた。
仕事自体は嫌ではなかったが、やがて映画関係とは名ばかりの仕事と気づくと、再び焦り始めた。
どこかで芸能関係の人に会ってスカウトされることを夢みて、冬でもアロハ1枚で目立つようにした。
しかしスクリーンやブラウン管の向こうの世界は遠く、むなしく時間は過ぎていった。
フィルムを運び始めて1年後、1959年の冬の夜、風がつらくて自転車を降りて歩いていると、暗い街でこうこうと明かりを灯す建物を見つけた。
シュッシュッとパンチを繰り出す音やパンチングボールやサンドバッグをたたく音を発しながら、若者たちが汗をかいて練習をしていた。
自宅近くのよく通る道だったが、ボクシングジムであることに、そのとき初めて気づいた。
思わず、その場で釘づけになり、いいようのない感情が込み上げてきた。
高校時代、プロになろうとも、なれるとも思わず、ボクシングは終わったはずだった。
故郷を出て2年、何もない自分と比べ、彼らは明日に向かって懸命にトレーニングしていた。
翌日、入会金2000円と月会費1000円を持っていき、手続きをした。
フィルム運びの仕事は不規則で、暇があれば東横線を隔てて反対側にあるアパートから歩いてジムに通い、汗を流した。

笹崎ボクシングジムは、300名以上の練習生を抱える大きなジムで、15時頃からポツポツと人が現れ始め、18時になると活気と熱気でむせ返った。
戦争で青春を奪われた白井義男が日本人として初めて世界チャンピオンになり、敗戦で自信を失っていた国民に計り知れない希望を与え、そのタイトルを失った後も、拳ひとつで天下をとろうという若者とスターの誕生を待ち望むファンが数多く存在し、ボクシング人気は衰えることはなかった。
笹崎たけし会長は、元東洋フェザー級チャンピオン。
北海道で手のつけられないガキ大将だった笹崎たけしは、アマチュアで鳴らした後、「拳闘は武道である」といってノーガードで前進あるのみというファイトスタイルを貫く「拳聖」ピストン堀口に憧れ、上京。
プロデビュー後、槍のようなストレートで9連勝。
無敗のまま兵役に就き、戦地で白内障を患い左目を失明。
傷夷軍人として戻った後、再び連勝。
26戦無敗の笹崎たけしとピストン堀口の対決を多くの人が熱望したが、所属ジムの問題
(笹崎たけしの所属する日本拳闘クラブの渡辺勇次郎は、「日本ボクシングの父」といわれる人物で、ピストン堀口を見出し、自分のジムにスカウトし育て上げた。
しかし諸事情からコーチだった岡本不二が、ピストン堀口を連れて不二拳(現:不二ボクシングジム)を設立。
師弟関係が現在より厳しかった時代、深い遺恨が残っていた)
で実現できずにいた。
笹崎たけしは、ボクシング誌で
「開かぬ城門、発展を遮断す」
と挑発。
するとピストン堀口は挑戦を受諾。
両会長も手打ち式を行い、
「世紀の一戦」
と大きな話題となった。
戦前の予想は「笹崎有利」だったが、 笹崎たけしは1Rにダウン。
その後、槍のストレートで一歩も退かない激闘を繰り広げた。
しかし4R、ピストン堀口の攻撃で右目がふさがり、6R、両目がみえなくなりタオルが投入されTKO負け。
現在でも伝説の試合として語り継がれる名勝負だった。
その後、
「世紀の一戦の再戦」
と銘打たれ再選が行われ、両雄は計5度の対戦し、堀口1勝、笹崎2勝、引き分け2。
指導者となった「槍の笹崎」は、「鬼の笹崎」と呼ばれるほど厳しい練習を課した。
笹崎たけしの母親(おばあちゃん)、季子夫人 、娘もジムを手伝い、一家でジムを経営していた。
特におばあちゃんは、無類のボクシング好きで、練習生の面倒見もよくみて、みんなに親しまれていた。

笹崎ジムの看板選手は、東洋ミドル級チャンピオンの梅津文雄。
斎藤清作が入会金と月謝を持ってジムを訪ねたとき、26歳の梅津文雄が玄関を掃除していて、掃除のおじさんと勘違いし軽口を叩いてしまい、後で驚愕した。
斉藤清作のフィルム運びの月給が1万円、大卒の初任給が1万3千円の時代、梅津文雄はノンタイトル戦でも30万円のギャラをもらっていた。
梅津文雄以外にも、
フライ級の矢尾板貞男
バンタム級の米倉健志
フェザー級の小林久雄
Jフェザー級の坂本春夫
Jライト級の大川寛
ウェルター級の福地健治
ライト級の小坂照男
フライ級の関光徳、野口恭
フェザー級の高山一夫
など戦後日本の復興と比例するように世界を狙う選手が続々と現れていた。
斉藤清作がボクシングに身を投じたのは、そんな激しい時代だった。

また笹崎ジムには、まだプロデビュー前の原田政彦がいた。
後に日本人として2人目の世界チャンピオンとなり、日本人初の2階級(世界フライ級・バンタム級)制覇を成し遂げるファイティング原田である。
「狂った風車」
と呼ばれた俊敏な動きで相手を追いつめ連打で仕留めるスタイルは、マイク・タイソンも影響を受けたといい、海外でも「すべての時代を通じて最も偉大なボクサー」の1人として名前が挙がるレジェンドである。
小学校6年生のとき、白井義男が日本人初の世界チャンピオンになるのをみてボクサーに憧れ、中学に入ると植木職人が大ケガで働けなくなったため、近所の米屋で働き出した。
「白井義男のようになりたい」
と笹崎ボクシングジムに入ると、学校の後、米屋で働き、さらにその後、練習。
その後、高校には進学せず、米屋とジムと家を往復する日々を送っていた。
ボクシングの階級は

ミニマム級      ~47.62kg
ライトフライ級    48.97kg
フライ級       50.80kg
スーパーフライ級    52.16kg
バンタム級      53.52kg
スーパーバンタム級   55.34kg
フェザー級      57.15kg
スーパーフェザー級   58.97kg
ライト級       61.23kg
スーパーライト級   63.50kg
ウェルター級     66.68kg
スーパーウェルター級 69.85kg
ミドル級        72.57kg
スーパーミドル級   76.20kg
ライトヘビー級    79.38kg
クルーザー級     90.71kg
ヘビー級       90.71kg~

があり、斎藤清作とファイティング原田は、白井義男と同じフライ級(50.8kg)だった。
年齢は、20歳と17歳で斎藤清作のほうが3つ上。
2人はすぐに意気投合し
「お前」
「セーサク」
と呼び合う仲になり、昼間、仕事の自転車でスレ違うときは
「オッス」
と声をかけ合った。
ジムでは練習を競い合い、2人でロードワークに出た。
ロードワークは多摩川近くまで遠征することもあったが、斉藤清作は、そこでハコバ、ミツバなどを摘んで川の水で洗って口に入れた。
小学校時代、野生動物が食べるものには普通の野菜の数倍の栄養があると教わったことと
「強くなるためにはなんでもする」
という一途な思いからそういった行動が起こるのだが、ファイティング原田は、牛のように草を食む姿を奇異の目でみた。
最初、
「お前も食べろ。
強くなるぞ」
といわれ、1度だけ口に入れたが吐き出してしまい、以後、1度も食べなかった。


練習後は、2人で世田谷区にあったファイティング原田の実家に戻って食事。
周囲は瓦なのに原田家だけ、まだ藁ぶきだった。
両親、兄、姉、2人の弟、そしてファイティング原田、この家の住人は、全員、いかにも人が好さそうな丸顔をしていた。
父親の垣作と母親のヨシは、まるで子供がもう1人増えたかのように斎藤清作を迎え入れ、兄弟が食べ残した魚を頭までキレイに食べる斉藤清作をホメた。
B-29が東京に大量の爆弾を落としたとき、2歳のファイティング原田は背負って逃げた長男の一郎は、印刷会社に勤めていた。
斎藤清作は1つ上の一郎を
「あんちゃん」
と呼んだ。
2人は酒好きで、よく飲みに出かけたが、斎藤清作がお金を払ったことはなかった。
斎藤清作の酒好きは死ぬまで治らず、毎日、まるで仕事のように休みなく飲み続け、練習後も米の代わりに酒を飲んだ。
偉くなるまで故郷に帰れない斎藤清作にとって、原田家は暖かかった。
「うちに遊びに来てもね、俺より兄貴のほうがよくなってね。
というのはアイツもお酒飲むでしょ。
だから俺がいなくてもね、兄貴とお酒を飲んで楽しんでいたんじゃないの。
お袋なんかでも清作のほうがかわいかったんじゃないの。
よくお袋、お袋っていってくるから」
(ファイティング原田)

ファイティング原田がプロデビュー戦で4R TKO勝ちしたとき、斎藤清作にはプロテストが迫っていた。
入門して3ヵ月、練習を続ける中で高校時代のサウスポースタイルのアウトボクシングではプロでは通じないことを悟った。
「スパーリングお願いできないでしょうか」
ある日、斎藤清作は、梅津文雄に近づいて頭を下げた。
身長で20cm、体重で22kg上回るミドル級、しかも東洋チャンピオンである。
梅津文雄は相手にしなかったが、
「お願いします」
と斎藤清作は大先輩にしつこく迫った。
「失礼だぞ」
「ガードしても腕が折れる」
「1発で死ぬぞ」
周りの練習生が騒ぎ出し、パンチングボールを叩いていたファイティング原田も気づいて近寄っていった。
「清作、どうした」
練習生から事情を聞き
「こいつ、ちょっと変わってるんです。
ひとつご愛敬で・・・」
取りなそうとするファイティング原田を斎藤清作は
「愛嬌はいりません」
と遮った。
「本気で殴ってもらいたいです」
その真剣なまなざしに梅津文雄はうなずいた。
「準備しろ」
斎藤清作はヘッドギアをつけた。
本当はつけたくなかったが、それではやってもらえないに決まっていると思いつけた。
マウスピースを入れる前に
「1度倒れたらやめますから倒してください」
と頭を下げた。
「半分の力で十分だよ」
ヘッドギアもマウスピースもせずに梅津文雄が答えた。
「はい。
それでいいです。
倒れるまで打ってください」
「・・・・・・」

スパーリングが始まると斎藤清作は、左肩を前にした右利きのオーソドックススタイルで構え、左ジャブから右を狙ったがまったく届かない。
強引に飛び込むとアッパーで顔面を跳ね上げれた。
それでも梅津文雄のパンチを顔面にもらいながら前進。
明らかに手加減した攻撃にいらだち、相手を本気にさせようと、とにかく攻めた。
2R、右ストレートをもらって腰が落ちかけたが、すぐに立て直し反撃。
クリンチになったとき、梅津文雄にささやいた。
「お願いします。
本気で打ってください」
梅津文雄は不愉快そうに突き放し顔面へ連打。
斉藤清作は踏ん張ってしのいで渾身のフックを顔面に返した。
(まだ先輩はセーブしている)
そう思いながらガードを下げたまま前進。
怒った梅津文雄は、力をこめて左ジャブから右フック。
斉藤清作は顔を横に捻られたが、元の位置に戻るとロングフックを返した。
それが梅津文雄の顎をとらえ、そのままラッシュ。
梅津文雄の顔が真剣になり、斉藤清作を突き放し、腰の入ったパンチを顔面に浴びせた。
「我慢するな、清作。
倒れろ!」
ファイティング原田が怒鳴った。
棒立ちになった斉藤清作は、次の一撃でロープまで吹っ飛ばされ、顔を上に向けて後方に倒れた。
誰もがロープの反動で前方に倒れると思った瞬間、斉藤清作は、その弾みを利用してノーガードの梅津文雄の顔面にパンチをめり込ませた。
梅津文雄は腰を落として後退。
斉藤清作はそれを追った。
頭突きを交えてコーナーへ押し込み、ボディを連打。
ここで2Rが終わった。
ファイティング原田は、うがいをしている斉藤清作の肩に手を置いた。
「もうやめたらどうだ。
お前のタフネスはわかったよ。
もう十分だろう」
「やる」
と答え、心の中でつぶやいた。
3R、リーチで上回る梅津文雄はカウンター戦法に切り替え、前進してくる斉藤清作を槍で突くように遠い間合いからストレート系パンチを連打。
斉藤清作は打たれ、夢遊病者のようにフラフラになりながらも攻め続けた。
「ラスト30秒」
そう声がかかると、梅津文雄がはじめてボディを叩いた。
斉藤清作はうめき声を上げ、上体を折って横転。
リングの上でエビのように丸まった。
心配そうに上から屈みこんでみている梅津文雄に声を絞り出した。
「大丈夫です。
ありがとうございました」

さすがにダメージは大きく、早く寝ないと明日の仕事にさわるため、その日は原田家にいかず、2階建ての古い木造アパートに戻った。
共同の炊事場で湯を沸かし、インスタントコーヒーをつくり、それを持って4畳半の部屋に戻り、コタツに入った。
コタツ以外の電化製品は、40Wのはだか電球と畳の上に置いた白黒テレビだけという質素な部屋でコーヒーを飲みながらぼんやりとスパーリングを思い浮かべた
高校時代からタフさに自信があったが、改めて再確認できた。
本来の右利きで構えて戦うことがプロを目指すためには絶対に必要だったが、これでメドがついた。
「やれるだけやってやる」
右目だけでは距離感がつかみにくい。
非力で1発KOのパンチもない。
あるのは粘りだけ。
じゃあどうする。
結局、斉藤清作がとったのは前代未聞の奇策、ノーガード戦法だった。
顔面のガードを下げて前進。
当然、打ってくる相手に、防御は上体を動かしてパンチをかわしたり殺したりするダッキングとウィービングだけで、打たせて打つ、肉を斬らせて骨を断つという捨て身の戦法だった。
「どんなに打たれても倒れず、耳元で『効いてない効いてない』とささやき続け、相手が打ち疲れたところで猛反撃して、試合が終わってみると相手は打ちのめされていました。
対戦相手にとっては本当に怖かったと思いますよ」
(ファイティング原田)

プロテストの日、後楽園ジムで簡単なスパーリングと健康診断が行われた。
問題は視力検査だった。
検査員は20歳くらいの女性だった。
「はい、最初は右目です」
といわれ、結果は、1.0。
「次は左目です」
といわれると、黒いしゃもじで右目を浅く隠し、検査員が棒で指し示すために検査表に顔を向けた瞬間、スッと左目にスライド。
「これは?」
と聞かれ
「下」
と答えると注意されることはなかった。
(よし!イケる)
興奮を抑え平静を装いながら答え続け、結果は、1.0。
9月5日、ファイティング原田に数ヶ月遅れ、プロデビュー。
1発打たれたら3発返すボクシングで判定勝ち。

デビュー戦から2ヵ月後、第17回東日本新人王戦トーナメントが始まった。
毎年、行われる新人王戦トーナメントの出場対象は、プロで1戦以上4勝未満の新人ボクサー。
東日本と西日本に分かれ、各階級でトーナメントが行われ、勝ち上がってきた選手が、それぞれ東日本新人王、西日本新人王になる。
そして各階級の東日本新人王と西日本新人王が対戦し、勝者は全日本新人王となる。
全日本新人王は日本ランキング10位にランクされる。
笹崎ジムは、フライ級にファイティング原田と斉藤清作の2人を出場させた。
この年のフライ級は、ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利(あおきかつとし)という大型新人3名が同時にプロデビューしていて、「フライ級3羽カラス」と呼ばれていた。
根性とラッシュの原田、カミソリパンチの海老原、メガトンパンチの青木、3人3様の個性を持ち、このトーナメントで直接対決すればどうなるのか、誰が優勝するのか、ファンは興奮していた。
斎藤清作はあまり注目されていなかったが、ベスト16まで勝ち進み、3羽カラスの1人、青木勝利と対戦することになった。
「メガトン・パンチ」青木勝利は、3羽カラスの中で、最もイケメンで最もKO率が高く最も才能に恵まれているといわれていた。
反面、、練習嫌いで、結局、3羽カラスの中で唯一、世界チャンピオンになれなかった男でもあった。
試合前の控え室で、笹崎たけし会長はハッパをかけた。
「負けたら承知せんぞ」
「はい」
1R、青木勝利の強打がヒット。
2R、その圧倒的な攻撃に観客は早くも青木勝利のKOを期待。
斉藤清作はひるまず前進し、残り30秒で手数が落ちた青木勝利にラッシュをかけた。
3R、青木勝利はみるみる減速。
斉藤清作はボディから顔面へ連打。
接近戦では完全に打ち勝ち、青木勝利はたびたびクリンチで逃れた。
青木勝利は、パンチが強いだけに、それが効かなかったときの動揺は大きく、精神的に優勢になった斉藤清作の一方的な展開となった。
4R終了後、判定はドローだったが、ポイントで斉藤清作が優り、勝利。
周囲が番狂わせだと騒ぐ中、斉藤清作は
「青木のパンチは効かなかった」
とほくそ笑んだ。
同日の最終試合でファイティング原田も勝利し、共にベスト8に進んだ。

1週間後、21時に練習を終えた斉藤清作は、事務室に呼ばれた。
入ってみると笹崎たけし会長と茂野貞夫トレーナーがいた。
「まあ、かけなさい」
笹崎たけし会長はソファーを勧めた。
「前の試合は健闘したな」
茂野貞夫トレーナーは目を細めながらいった。
「はい。
思ったとおりの試合運びで」
「おばあちゃんがほめてたよ。
清作のボクシングはおもしろいって」
「はい」
「話というのはだね、ベスト8にうちから2人残った。
その対策のことなんだよ。
対戦相手をみると次の試合では原田もお前も勝つことに違いない。
ところがその場合、どういうことになるか、わかるだろう?」
「どういうことでしょうか?」
「ハッキリいおう。
君には次の試合で棄権してもらいたい」
「ハッ?」
「この世界では同門同士の対決は原則としてやらないことくらいわかっているね」
「・・・・・・・」
「このままではお前と原田は準決勝で顔を合わせることになる」
「・・・・・・・・」
「原田とは親しくしているそうだな」
「はい」
「お前は原田を殴れるか?」
「・・・・・・・・」
「殴れるか?」
「同門同士の対決が絶対に不可能というわけじゃない。
準決勝でお前が原田を倒すことは十分あり得るだろう。
アオキのパンチに動じなかったお前だからな。
そのときは原田が死ぬことになる」
「死ぬ?」
「そうだ」
「私は原田をとにかく大事に育て上げたいと思っている。
もちろん君もだ。
見捨てるわけじゃない。
戦ってどちらかが死ぬよりも戦わずしてどちらかが1歩譲るほうが、よほど2人のためでもあるんだよ」
「会長のおっしゃるとおりだ。
ボクシングは並みのスポーツじゃない。
いくら正々堂々のスポーツマンシップといったって陸上競技とは違うよ。
相手を、それこそ殺す気で殴らなければ勝てないのがプロボクシングだ」
「・・・・・・・・・・・」
「お前は原田を殺す気で殴れるか」
斉藤清作は首を振った。
「そうか」
茂野貞夫トレーナーはうなずいた。
「原田もお前を殴れないといっていたぞ」
「はい」
「もう帰っていいぞ」
「はい」
斉藤清作は立ち上がり、一礼して事務室を出た。
ジムを出ると、背後から声がした。
「清作、ちょっと」
おばあちゃんは斎藤清作に近づき、手をとってチリ紙に包んだお金を握らせ
「今夜は遊んでおいで」
と耳打ちした。
「ひねくれるんじゃないよ」
「わかってます」
斉藤清作は頭を下げた。
おばあちゃんは目を細めてうなずき、肩を抱き寄せ、ポンッポンッと背中を叩いた。
「おばあちゃんはお前の味方だよ」
チリ紙の中には3000円が入っていて、斉藤清作は夜の街で憂さを晴らそうとした。
心の中では
(バカな。
実力で勝負をつけるのがスポーツじゃないか)
という怒りと
(原田はスター選手だから仕方ない)
という優しい気持ちがジェットコースターのように交錯し続けていた。
結局、このことは斉藤清作の中で、一生、残った。
「自分はファイティング原田より強かった」
という自信があった。
少なくても「強かったかもしれない」ということは事実で、確かめようない事実を延々と追い続け、悔やみ続けることになった。

クリスマスに行われた東日本新人王決定トーナメントの決勝戦は、ファイィング原田 vs 海老原博幸となった。
「原田の右、海老原の左、先に当たったほうが勝つ」
といわれ一瞬も目を離せないスリリングな戦いが予想された。
1R、開始のゴングと同時にファイティング原田は赤コーナーに一直線に向かってボディと顔面に左フック、そして右フック。
海老原も打ち返し、2人はにらみ合う暇もなく打ち合った。
1分過ぎ、ファイティング原田の右が海老原の顎にヒットしダウン。
カウント9で立ち上がった海老原にファイティング原田は猛然とラッシュ。
2分30秒、ファイティング原田が右のロングフックで2度目のダウンを奪った。
カウント8で立ち上がった海老原は、残り15秒をなんとかしのいだ。
海老原は生涯で72戦し、その中には世界戦も6戦あるが、KO負けは1度もなく、ダウンも、この試合での2度だけである。
3R、ファイティング原田は、海老原をロープに追い詰めて連打し、レフリーはロープダウンをとった。
「イケる」
観戦していた斉藤清作は拳を握り締めた。
4R、カミソリパンチの異名を持つ海老原博幸の左ストレートが決まり始める。
5R、海老原博幸の左が顎に刺さり、ファイティング原田が腰を落とした。
続くラッシュでファイティング原田はダウン寸前に追い込まれた。
「倒れるな!
この回さえ持てばお前の勝ちだ」
斉藤清作の思いに応えるように、ファイティング原田は逃げずに打ち返し、強烈なパンチの打ち合いとなった。
6R、最終回も好ファイトが行われ、熱狂のうちに終了のゴングがなった。
「ハラダ」
判定は3者共に2~3ポイント差でファイティング原田を支持。
「いい勝負だった」
斉藤清作は思った。
その夜、パーティが開かれ、笹崎たけし会長は新人戦に出た全選手の健闘を称えた・
「よかったな」
斉藤清作はファイティング原田に近づいて頭をなでた。
準々決勝での棄権以来、原田家に行くことも、2人でロードワークすることもなく、お互いに避け合っていた。
ファイティング原田は斉藤清作のグラスにビールをつぎ、斉藤清作もオレンジジュースをつぎ返し、乾杯した。
(新人王か)
斉藤清作の中で、これまでと違うライバル意識が芽生えた。
青木勝利に勝った斉藤清作には
「俺はファイティング原田よりも海老原博幸よりも強い」
という自信があった。
しかし今夜の2人のファイトをみて、かなわないものがあることも認めた。
それはスリル、迫力、テクニックなど誰もがわかるボクシングの面白さであり、スター選手の持つ輝きだった。
(なんとかする
俺が1番強いんだ)
戦うことができなかった男は、闘志をかき立てた。
海老原を下したファイティング原田は、その後西日本の新人王も倒し全日本新人王になった。
実力的に5分5分といわれていただけに、もし斉藤清作が棄権せずファイティング原田と戦っていれば、ボクシングの歴史は変り、「たこ八郎」も誕生しなかったかもしれない。
しかし斉藤清作が棄権の件で、ファイティング原田に不平不満を口にしたことは1度もなかった。
かえって切磋琢磨して友情を深め、そんなことはなかったかのように戦い続けた。

日本のプロボクシングにおいて、世界チャンピオンになるための一般的なコースは

・プロテストに合格しプロボクサーになる
・C級ボクサー(4回戦ボーイ)として、4R制の試合で4勝し、B級昇格
・B級ボクサー(6回戦ボクサー)として、6R制の試合で2勝し、A級昇格
・A級ボクサーとして、8R制の試合に勝って、10回戦、12回戦に進む
・日本ランキング10位以内に入り、日本タイトルへの挑戦権を得る
・日本チャンピオンになる
・日本タイトル防衛
・東洋大平洋チャンピオンになる
・世界ランキング上位入り
・世界チャンピオンになる

そして世界タイトルを防衛していく-と書くのはかんたんだが、実際は大変なプロスポーツである。
減量のためにストイック(禁欲的)な生活と勝つためにハードなトレーニングが要求され、大きな恐怖とロープを乗り越えリングに入って、凶器のような拳で殴り合う。
その上で勝てなければ、いつかリングから消えていくしかない世界だった。
ちなみにプロボクシングで、全日本新人王-日本チャンピオン-東洋太平洋チャンピオン-世界チャンピオンのすべて獲得することを「グランドスラム」という。
(強いアマチュアボクサーが新人王トーナメントを飛ばしたり、東洋太平洋チャンピオンにならずに世界チャンピオンになることもある)
ファイティング原田は、すでにB級ライセンス、6回戦に進んでいて、西日本新人王の田中利一を下し全日本新人王となり日本ランキング10位に入ると、すぐに10回戦のメインイベンター(その日の最後に行われる、興行の中心となる試合)となるなどグランドスラムロードを走っていた。
期せずしてその道から落っこちてしまった斉藤清作の次の目標は、1ヶ月に1~2回の試合を勝ち抜いてC級ライセンス(4回戦)からB級(6回戦)へ昇格することだった。
1度、バッティングでTKO負け
(当時はバッティングで出血し試合続行不可能になった場合、たとえそれまでの試合内容が優勢でも、「血を流すほうが弱い」とされ負けとなる)
した以外、4回戦では負けず、ファイティング原田が10回戦へ進む2ヶ月前に6回戦に昇格。
6回戦といえば、メインイベントの前座試合だが、高いチケットを買った観客の注目を浴びて戦う1人前のプロボクサーだった。
東京オリンピックまであと3年、新幹線や高速道の工事が始まり、大気汚染や公害を顧みず高度成長の狂騒に中にある日本で、力道山のプロレス、巨人・長嶋茂雄のプロ野球、そしてプロボクシングは大人気で、各局がボクシング番組を持ち、連日テレビで放送され、プロボクサーの仕事(試合)の数も多かった。
斉藤清作は6回戦の初戦を勝つとフィルム運びの仕事を辞めた。
月に1~2試合あり、1ファイトで祝儀を入れて6万円もらえたからだ。
朝起きるとロードワーク。
ジムで縄跳び、シャドーボクシング、サンドバッグ。
午後、少し休んでから、夜にまたジムで練習。
とますますボクシングに打ち込み、自分のボクシング、肉を斬らせて骨を断つ捨て身のノーガード戦法を完成させていった。

以前からパンチングボールはやらなかった。
小刻みな反動を繰り返すボールを打つパンチングボールは、パンチのスピード、リズム、タイミングを養うのに最適な練習だったが、片目なのでうまくできなかった。
「お前はなぜパンチングボールを叩かないんだ?」
笹崎たけし会長にとがめられても理由をいうわけにいかず、なんとかいい逃れをして黙々とサンドバッグを打ち続けた。
それに加えて
「逃げ足はいらない」
と縄跳びもやめた。
ジムではシャドーボクシングでアップした後、サンドバッグ、スパーリングに多くの時間を割いた。
サンドバッグは、実戦をイメージし、ディフェンスも忘れず、飛び込んで頭をつけて左右のボディ。
1歩引いてフックとアッパー。
3分打って、1分休む、その繰り返し、15回目、世界戦なら最終ラウンド、15Rの最後に猛然とラッシュした。
スパーリングには特に力を入れた。
通常は1日2、3Rだったが、5、6Rをこなした。
しかも相手は自分より重いクラスを選んだ。
試合では、これまでも突進して打たれていたが
「どうせパンチを喰うならハッキリ打たれたほうがいい。
打たれた瞬間、自覚して打たれたほうがダメージが少なくてすむ」
といって、より相手に打ちたいだけ打たせて誘い込むようになった。
腕はダラリ、拳を顎のはるか下で構え、首を振りながら前進。
相手のパンチを下がったり、左右にステップしてかわさず、クリンチもしない。
相手に真っ直ぐ進んでいき、周囲があきれるほど打たれながら、必ず打ち返す執念をみせる。
斉藤清作は、早ければ1Rから、少なくとも早い回から、まるでプロレスのように必ず流血。
やがて打ち疲れ、動きが鈍くなり、音を上げた相手に猛然とパンチを繰り出し反撃開始。
このとき観客は沸き、不死鳥のごとく蘇った斉藤清作に声援を送った。
そういう戦い方をしながら、6回戦の戦績は、16戦14勝(4KO)2敗
勝利はすべて逆転勝利。
2敗の1つはバッティング(頭突き)の減点、もう1つは風邪によるコンディションを崩していたための判定負け。
KO負けは0だった。

試合はファイティング原田のメインイベントの前座が多かったが、観客の中には斉藤清作目当ての客も多くいた。
ファイティング原田がバリカンでイタズラしたことから生まれた、頭頂部を丸く苅ってくぼみをつくったヘアースタイルが
「カッパの清作」
とウケると
「水がたまって気持ちいい」
とボケて、さらにウケた。

ファイティング原田が21連勝で日本ランキング1位となり、世界に照準を合わせた頃、斉藤清作も、日本ランキング入り。
同時期、帝拳ジムがフィリピンでの試合を企画。
フィリピン側から3試合(トリプルメインイベント)を要求され、自分のジムから、全日本ウェルター級チャンピオン:渡辺亮、同級2位:金田森男を出すことを決めたが、フライ級に適当な選手がいなかったので、笹崎ジム所属の斉藤清作が借り出されることになった。
こうして斉藤清作は、A級の初戦をフィリピンで行うことになった。
初の海外、初の10回戦、相手は、フィリピンのフライ級2位:ヘンリー・アシドだった。
雪がちらつく東京から移動するとマニラは連日、30度を超えた。
2年後の東京オリンピックには自由化が予想されていたが、まだ海外渡航は特殊な職業や階級に限られていて、フィリピンに日本人はいなかった。
食事は水牛のステーキ、デザートにマンゴーとパパイヤが出た。
太りやすいファイティング原田と違って、斉藤清作はどれだけ食べても50kgを超えなかった。
試合前日、海辺のホテルからロードワークに出ると、ビーチで人々が寄ってきて握手を求めてきた。
「Oh、サイトー、セーサク・サイト」
「ジャパン、フライウエイト、ナンバー5」
本当は斉藤清作は日本フライ級9位だったが、フィリピンでは5位になっていた。
おそらく賭けが偏り過ぎないようにするための措置だったが、それでも試合前の予想は、8対2で「アシド有利」だった。
しかし斉藤清作にとっては大チャンスで、フィリピン2位を敵国で、しかも10回戦で破れば、大きな実績となり、帰国後の出世は約束される。
外国人の歓待に感謝しながら走り去り、ロードワークを続けた。
走り終えた後、海岸で右目をつむると夕陽が消え、かすかな赤が滲んだ。
「自分のボクシング」
と善戦を誓った。
特別、作戦はなく、これまで通り、自分のボクシングをするだけだった。

1962年2月24日、試合会場には2万人の観衆が入った。
16時、トリプルメインイベントの1試合目、ヘンリー・アシド vs 斉藤清作の試合が開始。
タオルを頬かぶりした斉藤清作、帝拳ジムのケニー新保トレーナー、渡辺亮、金田森男が入場し、青コーナーからリングイン。
ほどなく赤コーナーにヘンリー・アシドが現れた。
褐色の肌で筋肉隆々、目が鋭い精悍な顔立ちで、近づいてよし離れてよしのボクサーファイター。
1R、足を使いながら左で探りを入れるヘンリー・アシドに、色白で一見ひ弱そうな体をした斉藤清作が、いきなりロングフック。
意表を突かれて後退した相手を前傾姿勢で追ってボディーを連打。
ヘンリー・アシドは顔面へパンチを放ってリング中央へ押し返した。
その後もしゃにむに前進する斉藤清作に、キレのいいヘンリー・アシドのストレートがヒット。
斉藤清作は、カウンターパンチをもらいながら前進し続け、ヘンリー・アシドはロープ際で押し倒した。
レフリーが割って入り、リング中央から試合再開。
頭を下げて突進してくる斉藤清作に、ヘンリー・アシドはアッパーを突き上げて上体を起こし、右ストレート。
斉藤清作の顔が後方へ折れた。
1Rが終わるとケニー新保は、斉藤清作からマウスピースをもぎ取りタオルで顔を拭った。
「もっとガード上げて!
まるでノーガードじゃないの。
どうしたのよ」
「わかってます」
「フルラウンドやるつもりでスタミナの配分も考えて」
「はい」
「左に回りながらリードから入ったほうがいい」
全日本ウェルター級チャンピオン:渡辺亮は首筋をもみながらアドバイス。
「そうよ。
相手は日本の6回戦ボーイじゃないのよ」
ケニー新保の大声に斉藤清作は無言でうなずいた。
2R、接近戦に持ち込もうとする斉藤清作にヘンリー・アシドは足を使って中間距離を維持。
槍のようなストレートパンチで迎え撃ち、ロープに押し込まれるとすぐに体を入れ替え、パンチを見舞った。
顔面のガードを下げてボディだけガッチリ固め、ダッキングとウィービングだけで前進する斉藤清作は、パンチをもらい続けた。
それで自分の距離になると連打を繰り出したが、ヘンリー・アシドはクリンチで逃れた。

2R終了後、
「聞かない小僧だね。
どうしてガード上げないの。
タフなのはわかるけど闘牛場じゃないんだからね」
とケニー新保は、再度、ガードを固めながら足を使って左ジャブから入っていくという基本的なボクシングをするよう指示。
笹崎ジムの人間ならこんなことはしない。
何度繰り返してもやらないことを知っていた。
斉藤清作が、何故、それをしないのか?
それともできないのか?
誰もわからなかった。
3R、ヘンリー・アシドは出てくる斉藤清作の顎に左アッパーを突き上げ、さらに右、左、右。
斉藤清作の顔から血が滴り落ちた。
さらにヘンリー・アシドは一方的に攻め、とどめの1発を炸裂させた。
しかし斉藤清作は倒れなかった。
顔をひん曲げ、血をたらしながら、頭を左右に振りながら、足でリングを踏んでいた。
「自分のパンチが効かない」
ヘンリー・アシドはうろたえた。
攻撃を止めたヘンリー・アシドに斉藤清作は突進し、ロープに詰めてボディーの連打から顔面に返した。

6R、
「サイトー」
試合が後半に入ると、日本人への声援が多くなった。
斉藤清作がコーナーに押し込んでメッタ打ちすると、アシドはクリンチ。
するとレフリーが割って入り中央に戻した。
しかしすぐに斉藤清作は左右を炸裂させ、アシドはすぐにロープを背負った。
足が鈍ったアシドはメッタ打ちになった。
アシドはまぶたを切り、斉藤清作は鼻血を出していて両者血まみれだった。
流血戦に観衆は、熱狂し、レフリーが試合を止めることを恐れた。
自分のパンチが通用しないことに失望したアシドは失速。
「音を上げやがった」
それを肌で感じた斉藤清作の執拗に攻めた。
「やるじゃないの、ボウヤ
ほんとブルファイターね」
ケニー新保はいった。
10R、最終ラウンドが始まると、このままでは勝ちはないアシドがラッシュ。
斉藤清作はそれをノーガードで受け、すぐに反撃を開始。
歓声を受けながら相手をコーナーに追い込んでパンチを連打した。
ゴングが歓声にかき消され聞こえなかったため、レフリーは3分を超過してやっと斉藤清作の攻撃をストップさせた。
「グッドファイト」
「ベリーグッドファイト」
斉藤清作は観客を聞いて
(勝った)
と思った。
ホームタウンディシジョンを許さない試合をした自身があった。
「セーサク・サイトー」
判定は2対1で斉藤清作の勝利を支持。
「鉄の顎、ヘンリー・アシドを寄せつけず」
「まるで人間の壁 アシド打ち疲れ敗れる」
翌日、マニラの新聞は斉藤清作の強さを称えた。

あまりの人気に、急遽、もう1戦組まれ、セブ島でフィリピンのフライ級10位:ビリー・ブラウンと対戦することになった。
こうして斉藤清作一行は、戦後、初めてセブ島に入った日本人となった。
「殺されるんじゃないか」
と思っていたが、大歓迎され、対戦相手とパレードまで行った。
試合前の予想は、圧倒的に「斉藤清作有利」だったが、結果は惨敗だった。
理由は、試合前日に食べたアイスクリームだった。
「デッカいんだ、向こうのは。
残すのはもったいないと思ってみんな食った。
そしたら・・」
(斉藤清作)
「この子ね、リングに上がる1分前までトイレにかけっこよ。
リングに上がっても、いつクソたれるか気が気でないの」
(ケニー新保)
「リングでウンコして帰れないよ。
我慢するのが精一杯でパンチに全然力が入らなくて・・・」
お腹は冷えたかもしれないが、ふところは温かかった。
アシド戦のファイトマネーが10万円だったが、番狂わせで賭けで大儲けした客や、純粋なファイトを称えるための祝儀が20万円もあった。

アシド戦から2ヵ月後、世界ウェルター級タイトルマッチで死亡事故が起こった。
12R、すでにグロッキーだったチャンピオン:ベニー・パレットが、挑戦者:エミール・グリフィスにTKOされ、意識不明となり脳手術の甲斐なく亡くなった。
すでにグロッキーだったチャンピオンがロープによりかかったまま打たれ続けたのが直接的な原因だが、その前の試合で強烈なKO負けをしており、そのときの脳のダメージも回復し切っていなかったことも間接的な原因と考えられた。
事故後、アメリカでは「ボクシング禁止論」が巻き起こった。
1対1で長時間殴り合うボクシングはとても危険で、例えば前から強いパンチを顔面に受けると、脳が頭蓋骨の後頭部側に激突し、さらに反動で前側にもぶつかる。
いわゆる脳震盪の状態に陥ったり、脳が腫れ、出血し血腫ができると記憶喪失、脳梗塞、動脈瘤、血管破損なども起こり、多くのボクサーは何らかの脳損傷に苦しむことになる。
脳のダメージの度合いによっては死に至ることもあり、試合直後は、変わった様子がなくても、数日後、突然倒れることもある。
試合後、控室でトレーナーに負けたことを詫び、頭が痛いと訴えていたボクサーが、倒れこみ、そのまま意識が戻らず数日後亡くなったこともある。
ボクサーは、厳しい体重制限があるため、禁欲的な生活を強いられる。
勝つためには激しい練習が必要で、肉体的にも精神的も苦しい思いをしなければならない。
そして試合では命がけで戦う。
その上、何の保証もないため、常に将来の生活に不安を抱えている。
その上、健康を損なう危険性も高く、底辺から頂点に這い上がるサクセスストーリーには必ず悲話もつきまとった。
ボクシング禁止論は、このときに始まったことではなかったが、世界タイトルマッチでのチャンピオンの死がつくった波紋は大きかった。
マスコミは
「合法的殺人」
と強く非難し、議会でボクシング禁止法案を通すべきと主張した。
これがカナダやイギリスにも飛び火。
トロントはボクシングのラジオ放送を中止。
BBC(イギリスの公共放送)もタイトルマッチの放映を中止。

日本のマスコミも
「戦後、世界で194名、年間10名以上のボクサーが試合が原因で死亡し、うち6名が日本人」
「対岸の悲劇ではない」
「興行本位に猛省のとき」
「急務の健康管理」
「レフリーにも資格審査の必要」
とこの問題を取り上げた。
医学界も反応し、日本ボクシングコミッションドクターの医学博士ら数人が
「プロボクサーの災害に関する研究」
をまとめた。
それによると1956~1961年の5年間で、外傷を受けたボクサーは310人。
外科が178人、眼科42人、耳鼻咽喉科31人、内科9人、泌尿器科1人。
圧倒的に多い外科の大部分が、頭部外傷。
脳障害が最も危険な症状とされ、死亡者のほとんどがこれに該当した。
死亡しなくとも脳障害や視力障害でリングを去る者も多かった。
脳障害はボクシングを辞めた後も尾を引くことがあった。
真っ直ぐ歩けなかったり、酒に酔ったようにろれつが回らない肉体的障害。
記憶力が低下したり、怒りっぽくなったり、威張ったり、嘘をついたり精神的障害。
これらは「進行性障害」といわれ、いわゆる「パンチドランカー」といわれる状態だった。
彼らは、脳障害を防ぐために、定期的に脳波検査を受けることを薦めた。

日本フライ級チャンピオンの野口恭は、積極的に協力した。
試合前、翌日、1週間後の3回、頭部に12本の針を刺して脳波を測定するテストを行った。
その結果、試合前、正常だった脳波は、翌日には打たれた影響で乱れ、数日間ゆっくり休養すると正常に回復していた。
現実的に健康管理はボクサー自身に、試合でのストップするか否かはレフリーに任せられる。
この時期の日本ボクシングは、何度ダウンしても起き上がってくれば、選手の意志を尊重し戦わせるのが普通で、流血してもよほどのない限り続行した。
もし中途半端に試合が止まろうなら、観客は
「もっとやれ」
「バカ野郎、金返せ」
と抗議しモノを投げた。
日本のボクシングは、後にも先にもこれ以上ないだろうというくらい熱狂していた。
「清作みたいにメッタ打ちにされて血を噴いてもレフリーストップになならいのは、今しかないかも知れん」
ベニー・パレットの事故後、一連の流れをみながら笹崎たけし会長はいった。
ファイティング原田の世界挑戦を進める一方、斉藤清作の次の相手については日本の上位ランカーと考えていた。
「清作。
これから上位ランカーとやっていくには今までと同じような戦法じゃ通用しないかもしれないぞ」
「はあ」
「確かに客は喜ぶよ。
人気も出る。
しかしオリンピック選手じゃあるまいし国民の要求に応えてばかりいるとバカをみることもある。
少し自分を大事にすることも考えろ」
「はい」
斉藤清作うなずいたが戦い方を変えるつもりはなかった。

ベニー・パレットの事故から1ヵ月後、斉藤清作は、中村剛との対戦が決まった。
日本フライ級は、チャンピオンが野口恭、1位がファイティング原田、2位が海老原博幸、そして3位が中村剛だった。
野口恭は、世界チャンピオンのポーン・キングピッチとのタイトルマッチを控え、ファイティング原田はその勝者に挑戦することが決まっていた。
斉藤清作にとって、初めての上位ランカーとの対戦、初めてのメインイベンターで、試合2週間前になると、練習後、飲み歩くのをやめ、原田家に帰って寝酒だけ飲んで寝た。
原田家は、この1年で様変わりした。
カマドがあった土間にはコンクリートが打たれ、新しいキッチンができていた。
回転代つきの最新型テレビ、電気冷蔵庫、2層式電気洗濯機など最先端の家電がそろった。
屋根はまだ藁だったが、ファイティング原田のファイトマネーで改造されるのは時間の問題だった。


試合1週間前の練習後、斎藤清作はファイティング原田にいった。
「中村に負けたらやめる。
逃げ足達者なやつに負けるほど恥ずかしいことはない。
逃げ専門、判定専門のボクシングなんてプロじゃない。
どっちがプロか思い知らせてやる」
中村剛は、ヒット&アウェイの技巧派。
打っては離れ、相手のパンチはステップバックでかわし、回り込んでパンチを入れ、またスッと離れる。
相手は追い切れず、ポイントを失い続け、中村剛は、ほとんど打たれることなく、多くの判定勝ちを積み重ね、日本ランキング3位になった。
一部の専門家はその戦い方を
「ボクシングの教科書」
とほめたが、一般のファンにはあまり人気がなく、接戦での判定勝ちが多かったことから
「写真判定男」
というニックネームをつけた。
ファイティング原田はいった。
「相打ちで行くんだ。
ヒット&アウェイの泣き所はそこだよ。
自分より数段タフなやつに合わせて打ってこられるのが厄介なんだ。
もちろん打たなきゃ勝てないから打ってくる。
そこへ必ずパンチを乗っけてく。
後はラッシュだ。
お前が中村のパンチで倒れるわけがない。
相手はお前のパンチでグラつくよ。
どうだ?」
「俺はいい友達を持ったよ」
試合当日、斉藤清作は初めから打って出た。
打たして誘い込む戦法は積極的に売ってこないボクサーには通用しない。
中村剛は足を使った。
カウンターでポイントを稼ごうとする意図を感じた斉藤清作は、そのカウンターを顔にもらいながら、かまわずボディにパンチを合わせた。
斎藤清作は、顔面を打たせながら、徹底的にボディを打った。
中村剛は、カウンターでも前進を阻めず、打つと退がる暇もなく倍のパンチを返され、クリンチに逃れた。
試合が進むほど、中村剛の足は鈍りクリンチが多くなった。
あまりにクリンチばかりでいらだった斉藤清作が下手投げで投げ飛ばすシーンもあり、果敢に打ち合おうとしない中村剛に野次や罵声が飛んだ。
試合は最終ラウンドまでもつれたが、斉藤清作の圧勝だった。
試合の次の日、原田家を訪ねると、3日前にエドモンド・エスパルサに判定負けし休養中のファイティング原田がパジャマ姿でいた。


1962年5月30日、蔵前国技館で、日本フライ級チャンピオン:野口恭が、世界フライ級チャンピオン:ポーン・キングピッチに挑戦。
もし野口恭が負ければ、ファイティング原田がポーン・キングピッチに、そして斉藤清作は、日本チャンピオンである野口恭に挑戦することが決まっていたが、結果は、野口恭の判定負け。
その後、 すぐに ポーン・キングピッチ vs ファイティング原田戦は5ヵ月後の10月10日と決まったが、野口恭介 vs 斉藤清作戦は、野口恭介がポーン・キングピッチ戦で左拳を痛めたため、
「秋頃までに」
ということになった。
斉藤清作は、それまで数戦、メインイベンターとして、ランキング下位や外国人選手相手にノーガード戦法で凄絶に打ち合い、勝ち続けた。
斉藤清作のブルファイトは、ファイティング原田のラッシュや海老原博幸のカミソリパンチに負けないインパクトがあり、、ファンを熱狂させた。
メインイベンターのファイトマネーは、1試合20万円。
祝儀を加えると30万円に達することもあった。
しかし相変わらず住まいは4畳半のアパートで、電化製品も裸電球と畳の上に置いた白黒だけで、ファイトマネーは夜の街に消えた。

日本ランキング2位、日本チャンピオンでさえないファイティング原田の世界挑戦について
「時期尚早」
「完全に格下」
というマスコミの論調に、本人は
「ナニクソ!」
と死に物狂いで練習した。
チャンピオンが来日し、羽田空港に迎えにいったときも、握手をしようと手伸ばしたが、ポーン・キングピッチに無視された。
「ナメやがって、この野郎、絶対に勝ってやる」
試合当日、リングでコールされたとき、ファイティング原田は笑っていた。
「苦しい練習を積み重ねてきて、それをやっと発散できるんだ。
楽しくないはずないじゃないか」
一部の専門家は、プロ2年半、19歳のファイティング原田のキャリア不足、テクニック不足、パンチ力不足を指摘し、ポーン・キングピッチ有利と予想していた。
しかし斉藤清作は、ファイティング原田の勝利を信じていた。
ゴングが鳴ると、ファイティング原田は、相手コーナーに向かって突進。
ポーン・キングピッチは2、3歩前に出たところで奇襲のフックを顔面にもらい後退。
ファイティング原田は猛然とラッシュ。
11R、ファイティング原田は、右ストレートでポーン・キングピッチをロープまでフッ飛ばすと狂った風車のようにラッシュ。
ポーン・キングピッチは少しずつ落ちていき、2分59秒、ファイティング原田のKO勝ち。
日本人で2人目の世界チャンピオンとなった。


ポーン・キングピッチ戦から2ヵ月後の12月、年明け早々に行われるリターンマッチに向け、ファイティング原田は、伊豆下田の蓮台寺で強化合宿が行った。
これに日本タイトル挑戦を控えた斉藤清作も参加。
朝7時から約1時間、ロードワーク。
斉藤清作は、ファイティング原田の後方を、両脇を締めて胸の前に拳を揃えた姿勢で走った。
その後、朝食。
ファイティング原田の朝食は、トースト3枚、ハム2枚、大根おろし。
ちなみに昨日の夜は、トースト2枚、鶏のから揚げ、卵スープ、果物だった。
ポーン・キングピッチ戦後、自由に食べ、数週間後に練習を再開したとき、体重は57.1kg。
この合宿に入った時点で54.4kg。
試合まで1ヵ月でフライ級のリミット、50.8kgまで落とさなければならなかった。
朝食後、軽く仮眠をとって練習再開。
シャドーボクシングやサンドバッグを3分間やって1分間休むことを繰り返す。
昼食後、午後はスパーリング。
斉藤清作はヘッドギアをつけずにマウスピースだけくわえて打たれる訓練を重視。
普通は顔面に向かってくるパンチを、かわす練習をする。
その場合、いかに最小限の動きでかわすかが課題となる。
しかし斉藤清作は、いかにパンチを殺すかを磨いた。
首を柔らかくしてパンチの破壊力をそぐのである。
フックを受けるとブンッと顔が回転し、ストレートやアッパーを受けると頭が後方に折れるが、そういう派手な動きはパンチ力をそぐと共に相手の対する演技となった。
すごいパンチを入れたはずなのに効かない、俺のパンチでは倒れないというマイナスの暗示を植えつけるのである。
17時に夕食となり、20時には就寝。
酒を飲まなければ寝られない斉藤清作は、みんなが寝静まったのを見計らって、隠しておいた一升瓶を出した。
宿舎を抜け出して飲み屋にいくこともあった。

合宿中、ポーン・キングピッチ戦の日程が正式に決まった。
試合は1月12日。
場所は敵地タイ。
時間は、現地時間の19時半、日本では21時半開始だった。
「日本とタイは時間が違うんですか?」
(斉藤清作)
「なにいってるんだ。
フィリッピンへいっただろう」
(ファイティング原田)
「あ、そうだ。
時間、そういえば違ってたっけ」
みんなが爆笑したので斉藤清作が
「そんなにおかしいですか?」
と聞くとまた爆笑された。
「でも不思議だな。
どうして時間、違ってんのかな」
「そりゃお前、地球が丸いからだよ。
回っているからだよ」
「地球が丸いから時計も丸いのかな?
四角い時計もあるから、それは違うな。
地球が回るから時計の針も回るんだね」
「何をブツブツいってるんだ」
「むずかしいな。
ついていけねえな、俺。
ずっと時間は回ってるんだね。
時間は過ぎるんじゃなくて回るものなんだ。
違ってっかな」
「お前、たまに気に利いたこというんだよな。
なかなか哲学的だよ」
「たまにこう、何が何だかよくわかんなくなっちゃうんだよね。
こんがらがっちゃって」
みんなまた爆笑。
昔から人を笑わせることは好きだったので、笑われることはよかったが、最近では別に笑わせようと思ってなくても笑われることが多く、どうしてか疑問だった。
自分でも笑わせようと思っているのか、無意識なのか、わからないときもあった。
ひょっとすると自分は笑いの天才ではないかと思うこともあったが自信はなかった。

1962年12月28日の朝、ファイティング原田は、笹崎たけし会長らと共に羽田空港からタイへ出発。
そして夜になると後楽園で、日本フライ級チャンピオン:野口恭 vs 挑戦者:斉藤清作戦が行われた。
「殺されるつもりで打たれ、殺すつもりで打ち返す」
そう誓っていた斉藤清作は、ゴングが鳴るといきなり右フックをヒットさせラッシュ。
前進してくる斉藤清作に野口恭は、左アッパーと右フック。
それを顎にもらいながら斉藤清作は、右より左が弱いことに気づいた。
サウスポーの野口恭にあり得ないことだった。
(左が治っていない!)
その後、わざと不用意に接近し、ワンツーを受けてみて相手の左拳の故障を確信した。
3R、野口恭は左を出すたびに顔を歪めうめき声をもらした。
斉藤清作は心を鬼にして容赦なく攻めた。
打たれても打たれても執拗に前に出てくる型破りのボクシングにチャンピオンの華麗なテクニックは徐々に狂い始めた。
野口恭は果敢に打ち合ったが、やがて右目が完全にふさがり、ノーガードの相手にパンチを外すようになった。
チャンピオンの意地で倒れず戦い続けた野口恭だったが、10Rの死闘の後にレフリーが挙げたのは斉藤清作の手だった。
勝ち名乗りを受けた後、斉藤清作は、野口恭介に向かって深々と礼をした。
腰に巻かれたチャンピオンベルトはズシリと重かった。
「チャンピオンになった感想は?」
「ラッキー、もっけもんです」
笑いが起こったが
「実力だぞ」
という声も飛んだ。
こうして22歳の斉藤清作は35戦目で第13代全日本フライ級チャンピオンとなった
これで笹崎ジムは
・東洋太平洋ミドル級チャンピオン:梅津文雄
・日本ミドル級チャンピオン:斉藤登
・世界フライ級チャンピオン:ファイティング原田
・日本フライ級チャンピオン:斉藤清作
と4人のチャンピオンが在籍することになった。
次の日、マスコミは、斉藤清作の闘志を称えると共に野口恭の故障を伝えた。
斉藤清作は、自力ではなく、まるで棚ボタでチャンピオンになったような気になり、また野口恭が気の毒に思えた。
「勝ちは勝ちだ。
みんなどこか悪くて、爆弾を抱えてて、それでも勝負しなくちゃならないのがプロなんだ。
言い訳ナシだ」
思い直し、部屋のある一升瓶に手を伸ばした。
そして不意に思った。
「ボクシングをやめたい」

数週間後、斉藤清作は、意を決し由利徹の家を訪ねた。
由利徹は斉藤清作と同じ宮城県出身。
大工の家の9人兄弟の次男として生まれ、ピストン堀口に憧れたが、新宿の大衆劇場「ムーランルージュムーランルージュ新宿座」の芝居に感動し、中卒で上京。
ムーランルージュに入団した翌年、大日本帝国陸軍に入って中国華北地方へ赴任し悲惨な体験をした。
帰国後、ストリップ劇場のコントで活躍。
本来は喜劇役者になろうと考えておらず、2枚目の役者や歌手を目指していた。
「ガキの頃は、お袋やお父っつぁんに人に笑われるような人間になっちゃいけないよっていわれたけどね。
それじゃ食ってけないんでね。
一生懸命笑ってもらえるような芝居やります」
その人柄から多くに慕われ、テレビドラマやバラエティー番組、映画にも出演。
「オシャ、マンベ!」
のギャグが有名でサインを求められたとき書く言葉は、
「子供の涙は虹の色、喜劇役者の涙は血の色」
とそのドタバタ喜劇ぶりから想像もつかない言葉だった。
斉藤清作にしてみれば由利徹は、崇め畏れる大御所で、相手にしてもらえるのは日本チャンピオンという肩書きがある今だけという思いがあった。
王座を陥落する前に行かなければ滑り落ちてからではもう遅い。
渋谷区笹塚の住宅街にある由利家にいき、玄関に出てきた夫人にオドオドと告げた。
「あの、僕、斉藤清作といいますけど、先生はいらっしゃいますか」
「おりますが・・・」
夫人が消えた奥から
「斉藤清作?
聞いたことあるな」
という声を聞いた斉藤清作はワクワクした。
「ボクサーの君が俺に何の用かね」
着物姿でやってきた大御所に斉藤清作は身を強張らせた。
「あの、ボ、僕を弟子にしてください」
いきなりいって、カッパ刈りの頭頂部を由利徹に向け、深く頭を下げた。
「君は近頃フライ級で活躍しているカッパボクサーだな」
「はい、間違いありません」
「弟子になりたいとはどういうことかね」
「弟子にしていただけたら僕、ボ、ボクシングやめます」
緊張で舌をもつれ、尿意がもよおし、脚はふるえていた。
「俺は弟子をとらねえんだよ」
「お、お願えします。
僕、仙台苦竹村の出身です。
腺性に弟子入りしたくて東京へやってまいりました」
斉藤清作は土下座して声を張り上げた。
「まあ、上がりなさい」
「ありがとうごぜえます」

由利徹は応接間に入って、夫人に運んできた酒を斉藤清作のお猪口についだ。
「君はチャンピオンになったばかりじゃないか」
「はい」
「何を考えているのかね。
弟子にしてくれたらボクシングやめますだって?
冗談じゃないよ、君」
由利徹は厳しいまなざしを向けた。
「僕、ボクシングが嫌いなんです」
「好きも嫌いもないよ。
それで喰ってるんだろう」
「はあ」
「チャンピオンになったんだろう」
「はい」
「甘ったれるな。
君のような男に負けた前のチャンピオンはどう思うかね」
「・・・・・・」
「ろくに防衛もしないような野郎に負けた男はさぞかし悔しいだろうよ」
「・・・・・・」
「君のボクシングはテレビでみて知っているよ
なかなかのファイトぶりじゃないか。
打たれて打たれも前へ出る。
いいねえ」
「どうか僕を弟子に・・」
「ブルファイターっていうんだろう。
下手な闘牛士の手に負えない。
ジョー・メデル(「ロープ際の魔術師」といわれファイティング原田をKOした)あたりとやらせてみたいね。
ありゃ、名闘牛士だから」
「ボ、僕を弟子に・・・」
「うっせえ。
何べんいったらわかるんだ。
俺のファンだからっていちいち弟子にするわけにはいかねえんだ」
「才能あると思ってるんです」
「ボクシングの才能だろう」
「ボクシングの才能はないです」
「なくてチャンピオンになれるか」
「なれたんです。
どういうわけか。
運がよくって。
部屋掃除、庭掃除、便所掃除なんでもやります。
小間使い、小僧、丁稚、そう思って使ってください。
師匠!」
「師匠?
おい、ちょっと待てよ」
斉再び土下座する藤清作を由利徹を立たせソファーに座らせた。
「困った野郎だな。
じゃ、こうしよう。
とにかく今はダメだ。
君はチャンピオンなんだからファンもジムも許すわけがない。
ファンを見捨てるようじゃ役者としても失格だよ。
とにかく今はボクシングを続けなさい。
今のうちにウンと多くのファンをつくっておくことこそ大事だ。
できるだけ長く防衛して、そしてボクシングができなくなったらもう1度来てみなさい」
「ボクシングができなくなったら弟子にしていただけるんですね」
「わからん。
それはそのときだ」
「わかりました。
よろしくお願えします」
斉藤清作は、額をテーブルに打ちつけしばらく動かなかった。
その後、斉藤清作はボクシングに打ち込み、由利徹は、斉藤清作のファンとなり、リングサイドまでいくこともあった。

タイのバンコクでファイティング原田が、初防衛戦となるポーン・キングピッチのリターンマッチにのぞんだ。
笹崎ジムでは、斉藤清作を含むジム仲間と報道陣がラジオを取り囲み、6000km離れた場所で行われている試合の模様をかじりついて聞いた。
8Rと9Rにファイティング原田のパンチでポーン・キングピッチが倒れたが、レフリーはダウンを取らなかった。
そして終盤、ポーン・キングピッチが反撃し優勢になり、判定勝ち。
タイトルを失ったファイティング原田は、帰国後、バンタム級に転向を表明した。
翌日、ジムで顔を合わせた斉藤清作とファイティング原田は、軽く汗を流した後、赤坂の焼肉屋にいった。
「お前は日本チャンプ、俺はただの男になったよ。
会長は次にお前にポーンへ挑戦させたいといってる」
「まさか」
「何がまさかだ。
お前はもうれっきとした世界ランカーだよ。
次の発表で9位にはランクされるはずだ。
飛行機の中で何べんも次は清作だって・・・」
「次は海老原だよ。
俺は日本で十分だよ。、
俺に世界チャンピオンなんて似合わないよ」
「なにいってるんだ。
ポーンにも勝つ自信があるっていってたじゃないか」
「あるよ。
でも自分はこれでいいと思ってる」
斉藤清作は
(原田だけには・・・)
と由利徹に会いにいったことや、ボクシングをやめた後、喜劇役者になりたいことを打ち明けた。
「やめた後のほうが長いからな」
ファイティング原田はいった。
「役者なら、片目でもずっとやっていけるし」
「片目?」
(とうとういってしまった)
斉藤清作はそう思いながら
「こっちの目、みえねえんだ」
といってしまった。
「何だと?
お前・・・」
「うん、昔っから」
「・・・・・」
笑顔でいう斉藤清作に唖然としたファイティング原田はテーブルに視線を落とした。
しばらくして
「知らなかった」
とつぶやき、さらに目を伏せた。
「黙ってろよ。
相手に知られたらヤバいから」
「当たり前だ」
軽くいう斉藤清作にファイティング原田は目を濡らしながら精いっぱい答えた。
焼き肉を出ると斉藤清作は馴染みのクラブへ向かった。
一郎あんちゃんとはよくいくが、笹崎たけし会長に飲みに誘うことを禁じられていたのでファイティング原田は1度も連れていったことがなかった。
(今夜は特別だ。
明日からは誘わない)
片目で世界ランカーになった男は、そう心に決め、2階級制覇に向かうファイティング原田の新しい門出を祝って大いに飲んだ。

1963年2月19日、ファイティング原田がタイでタイトルを失った1ヵ月後、世界ランキング9位の斉藤清作はノンタイトル戦で、世界フライ級10位、東洋太平洋フライ級チャンピオン、「タイの稲妻小僧」チャチャイ・チオノイと対戦。
「タイトル防衛戦のつもりでいけ」
そうハッパをかける笹崎たけし会長には、「勝てば世界挑戦という目論見があった。
一方、斉藤清作は、チャチャイ・チオノイはいずれ間違いなく世界を制するとみていて、この強敵に勝つことは大きな誇りになると燃え、ヘアスタイルをカッパ刈りから丸坊主に改めた。
「世界ランキングではお前のほうが格上だぞ」
と茂野貞夫トレーナーがいう通り、ランキングでは上にいたが、東洋太平洋チャンピオンという肩書きは日本チャンピオンより格上。
斉藤清作は、挑戦者サイドである青コーナーからリングに上がった。
1R、斉藤清作はノーガードで前進。
的確なパンチをもらって首を後ろに折られながら踏み込んでパンチを放つがチャチャイ・チオノイはもうそこにいない。
斉藤清作は追ったが俊敏なチャチャイ・チオノイにパンチが流れ、体制が崩れたところにパンチをもらい鼻血が噴き出した。
2R、斉藤清作はいつもの打たせて打つボクシングができない。
打とうと出れば打たれ、追えば追いつめる前に打たれるか、クリンチされてしまう。
3R、やっと斉藤清作のパンチが決まる。
4R、気負って飛び込んでいく斉藤清作に、チャチャイ・チオノイはわずかにステップバックした足を踏ん張って右ストレート。
これが顎に命中。
腰の入ったパンチをもらった斉藤清作は棒立ち。
さらに右ストレートが2つ顎を打ち抜き、斉藤清作の膝が折れた。
これまでどれだけ打たれても決して倒れなかった男が、ついに倒れた。
観客がどよめいたが、カウント8で立ち上がると声援を送った。
斉藤清作は何事もなかったように攻め始め、チャチャイ・チオノイはクリンチに逃れた。
ラウンド終了のゴングが鳴ってコーナーに戻った斉藤清作は呆然としていた。
効いたパンチではなくタイミングを合わされたパンチだったが、自分がダウンしたことが信じられなかった。
「まだいけるか」
「もちろんです」
笹崎たけし会長に吐き捨てるように答えた。
セコンドについたファイティング原田はタオルで顔を拭ってワセリンを塗った。
鼻に内出血があり、目も腫れていて、思いつめた表情のファイティング原田は一言も発せなかった。
「さあ、いけ」
ゴングと共に笹崎たけし会長に送り出された斉藤清作は突進。
しかしチャチャイ・チオノイはそれをかわし、機をみて集中打を浴びせ、接近戦になるとクリンチ。
そういう展開が続いた。

6R終了後、戻ってきた斉藤清作に笹崎たけし会長は、試合を止めるとを告げた。
「これ以上やってもムダだろう」
斉藤清作は激しく首を振った。
「まだやれます。
これからです」
「これからこれからって打たれてばかりじゃないか」
鼻は真っ青で、みえない左目が完全につぶれたのはいいとしても、頼りの右目も半分ふさがっていた。
「やめたらどうだ。
もうみえないんじゃないか」
ファイティング原田にいわれても
「大丈夫。
やれるよ。
あのクリンチは減点だよ」
と返した。
「あと1回だけだぞ」
笹崎たけし会長はいわれ
「本気はこれからだ。
見せ場をつくってやる。
最終ラウンドまであと4回ある。
必ずとらえてみせる」
そうつぶやいて斉藤清作は立ち向かっていった。
そこへチャチャイ・チオノイのカウンターパンチが突き刺さった。
顔面が左右、後方に弾かれ、鮮血が散った。
(2度とダウンはしない)
斉藤清作は足を踏ん張ってパンチを受け、連打が止むと突進。
右目がますますふさがって視界が狭まり、目の前しかみえない。
少しでも左右にステップされると相手は消え、やっと目の前にとらえても先にパンチを浴びた。
斉藤清作はそれでも前に出た。
「やらせてください。
最後までやります」
ラウンドが終わりコーナーに戻ると試合放棄をいわれる前にいった。
「・・・・・」
笹崎たけし会長は無言。
「もういいよ、清作」
肩に置かれたファイティング原田の手を斉藤清作は払いのけた。
続行か、ストップか、笹崎たけし会長が判断を迷っているうちに8R開始のゴングが鳴った。
斉藤清作は飛び出した。
そのフックをブロックしたチャチャイ・チオノイは、ワンツーからアッパーを突き上げた。
斉藤清作の体がのけ反った瞬間、笹崎たけし会長はリングにタオルが投げ入れ、ゴングが鳴らされた。
それでも斉藤清作はレフリーを押しのけ、チャチャイ・チオノイに襲いかかろうとしたが、相手はすでに背中を向けていた。
怒りに顔を歪め、投げ入れられたタオルをグローブですくい上げ、自コーナーに投げ返した。
「やれる。
まだやれる」
必死の形相で叫ぶ斉藤清作をみて笹崎たけし会長は首を振った。
チャチャイ・チオノイがレフリーに手を挙げてもらっている横で斉藤清作は、自コーナーのイスを蹴飛ばした。
「これからってときにどうして!」
「半殺しにされたのか!」
笹崎たけし会長は怒鳴った。

控え室に戻っても斉藤清作の怒りは収まらず壁を蹴った。
ファイティング原田がなだめてイスに座らせ鼻血をタオルで拭った。
その周りを記者が取り囲んだ。
「見せ場はこれからだった」
『チャチャイのパンチはどうでした?』
「俺には効かなかった」
『完敗ですか?』
「7回まではね。
10回やりゃわかんなかったよ」
『チャチャイはKO賞ないのかって余裕しゃくしゃくでしたが』
「KOじゃないよ、TKOだよ。
(殴り倒されて10カウント以内に立てなかったKO(KnockOut)負けと、第3者に試合を止められるTKO(TechnicalKnockOut))負けは、ボクサーにとってまったく違う)
冗談じゃないよ。
クリンチ賞でもやってくれ」
8R 44秒 TKO負け。
4回戦で1度、バッティングによるTKO負け(当時のルールではバッティングで試合続行が不可能と判断された場合、血を流した方が弱者であると負傷したほうがTKO負けとなった)を喫して以来、スリップダウン以外したことがなく、プロ3年で初めてレフリーのカウントを聞いた。
(この埋め合わせは必ずする。
10Rまでやらなきゃ勝負はわからないってことを見せつけないと気がすまない)

1963年4月14日、チャチャイ・チオノイ戦から2ヵ月後、斎藤清作は、ビリー・ブラウンとノンタイトル戦で判定勝ちして再起を飾った。
この後、前王者の野口恭との初防衛戦が決まり、試合が近づくにつれ、毎晩、自分が敗れる夢をみるようになり、うなされて起きて、ホッとした。
今回は日本チャンピオンのタイトルがかかっていた。
無様に負けたチャチャイ・チオノイ戦に続き、野口恭に負けてタイトルを失えば、やっぱり棚ボタのラッキーチャンピオンだったと笑われてしまう。
不安になればなるほどジムでトレーニングに熱を入れ、練習に打ち込むことで恐れや不安から逃れようとした。
試合前夜、
「野口の拳が治っていなければいいのに」
と願い、その後、自分嫌悪に陥った。

1963年5月17日、ビリー・ブラウン戦から1ヵ月後、タイトルを賭けて日本フライ級チャンピオン:斎藤清作と前王者、日本フライ級2位:野口恭とのリターンマッチが行われた。
試合前、茂野貞夫トレーナーは斎藤清作に
「野口の左は治っていないようだ。
いったん治っていたのをこないだ、また痛めたらしい」
と耳打ち。
すると斎藤清作の恐れは和らぎ
(片手で勝てると思っているのか)
と怒りがわき出し
(倒す)
と拳を握り締めた。
1R、両者の頭と頭がぶつかり、斉藤清作の額が割れた。
それは右側の髪の毛の生え際あたりで、血が右目に落ちてきた。
1R終了後、笹崎たけし会長に
「深いですか」
と聞くと
「前半で勝負しろ」
と返ってきた。
2R、傷が深いことを悟った斉藤清作は、ドクターストップを避けるために一気に攻めた。
野口恭のパンチで出血が増え、ほとんどみえなくなった。
野口恭も不調で、左右にステップしてサイドから攻撃すればよいのに、相手に容易に接近を許し、足を止めて打ち合い、真っ直ぐ後退してロープやコーナーに詰まった。
4R途中、レフリーが試合を止めて斉藤清作の額をドクターにチェックさせた。
「まだ大丈夫でしょう」
ストップをかけてもよいレベルの負傷だったが、止めると圧倒的に試合を進めているチャンピオンがTKO負けになってしまうので、判断は難しい。
ドクターの手当てを受けて視界がよくなった斉藤清作は、渾身のパンチを浴びせた。
5R、これ以上傷が開いて出血が増えるとTKO負けになってしまうと判断した斉藤清作は、最終ラウンドのつもりで打って出た。
野口恭も勝負を賭けてきたが、左のパンチを出すたびにうめき声が出てマウスピースがむき出しになった。
斉藤清作はグローブで血を拭いながら相手を追い、もはや体に触れて戦うしかないとばかりにコーナーに押し込んで、歯を食いしばって連打した。
ゴングが鳴って、引き返す斉藤清作をレフリーが引き止めてドクターのところへ連れていった。
「大丈夫ですよ」
斉藤清作は主張したが、レフリーはドクターに状態を聞いた。
ドクターが答えを出しかねていると
「これからだぞ」
「まだまだイケるぞ」
「やらせろ」
と熱狂した観客の野次が飛んだ。
そのとき野口恭のセコンドがレフリーに歩み寄っていった。
「棄権します」
斉藤清作は、5R TKO勝ちで初防衛に成功した。
試合後、野口恭の拳は全治2、3年という報道が出た。
事実上の引退だった。
それを知って
「しょうがないよ」
とつぶやく斉藤清作の額の傷も、長さ3.5cm、深さ3mmで骨まで達していて、少なくとも1ヵ月の休養が必要とされた。
以後、チャンピオンとして招待が増えたこともあり、毎晩、飲み歩いた。
1晩に2、3件重なることもあったが、どうせ誘いがなくても飲んでいると開き直って飲み、フラフラになって部屋に帰った。

野口戦から2ヵ月後、15連勝中の新人で、日本フライ級7位の高山勝義戦と対戦。
「タオルは投げないで」
7R終了後、何もできず打たれ続けた斉藤清作は笹崎たけし会長に懇願した。
これまで打たせたのは作戦で、若く勢いのある相手を徹底的に疲れさすのに7Rかかった。
期せずチャチャイ・チオノイ戦と同じ展開で、斉藤清作は、あのときの悔しさと決意を思い出した。
(あのときも10Rまでやってたら勝負はわからなかったってことを証明してやる)
8R、高山勝義の手数が減り、足もスピードと動きを失っていた。
クリンチに逃れる高山勝義の耳元で
「お前のパンチは効いてないぞ」
とささやき、マウスピースを吐き捨ててニヤリと笑った。
高山勝義の顔が引きつり、怒りをこめたパンチを繰り出した。
斉藤清作は平然とそれを受け、一気に反撃。
足を失った高山勝義はかんたんに接近戦を許してしまい、コーナーに押し込まれ、クリンチ。
そしてホールドを強引に振りほどかれ膝から倒されてしまった。
斉藤清作の反撃開始に待ってましたとばかりに観客は熱狂した。
久しぶりの拍手と声援を浴びた斉藤清作は内からエネルギーが湧き出てきた。
「この瞬間のためにボクシングをやってきた」
9R、高山勝義はますます失速し、斉藤清作の攻撃が炸裂。
フックでマウスピースをフッ飛ばされた。
しかしラウンド終了間際、頭と頭がぶつかり、斉藤清作は額から出血。
右目に血が入ってきた。
「古傷ですか?」
ゴングが鳴りコーナーに戻り尋ねたが、笹崎たけし会長は無言で処置をした後、
「あと1回だ」
といった。
「倒さないと負けるぞ」
茂野貞夫トレーナーの声に斉藤清作はうなずいた。
(倒せる)
試合は最終ラウンドまでもつれ込んだ。
斉藤清作は、右でロープまでフッ飛ばして反動を利用してアッパーを突き上げた。
高山勝義は腰を落としかけながらクリンチ。
レフリーが割って入る。
グロッキーの高山勝義にとどめの1発を叩き込もうとした瞬間、不意に視界がボヤけた。
ラウンド前半、止まっていた血が右目を覆っていた。
高山勝義を追ってパンチを繰り出すがことごとく空を切った。
終了のゴングが鳴って、逆転KOを逃した斉藤清作は判定で負けた。
早々とリングを下りた。
頭は自然と垂れて足は定まらずフラフラだった。
「ノンタイトルだ。
気にするな」
茂野貞夫トレーナーは斉藤清作の耳元でいった。
「あのバッティングさえなければ倒せていたかもしれない」
という悔いが残った。
出血したのは野口恭とのリターンマッチで受けた古傷で全治2週間とされた。
こうして斉藤清作の体は、新たな爆弾を抱えることになった。

高山勝義戦から1ヵ月後、斉藤清作はタイのフライ級チャンピオン:パンチップ・ケオスリヤと対戦。
ノーガード戦法で前進し玉砕した。
インファイトに持ち込もうと大きなモーションで踏み込み、まったくディフェンスがないためカウンターパンチをもらった。
これはいつものことだが、この試合は後半になっても打たれっぱなしで完璧な敗戦を喫した。
返り血でパンチップ・ケオスリヤも真っ赤になり、斉藤清作の見せ場は、8Rに口から血を吐きながら決めた右のロングフックを3発だけだった。
何度も自分に
「これからだ」
といい聞かせたが、最後まで体がいうことを聞かなかった。
高山勝義戦は負けたものの、最後まで相手を追い続け、あわや逆転と期待させたが、今回の試合はいいところをみせられなかった。
(追い込みがきかなくなってきたな)
(自分はもう終わっているのではないか)
(俺は今度こそダメになる)
試合後、自分の部屋に帰って酒を飲むと次々にネガティブな考えが浮かんできて頭がいっぱいになった。
1人、布団に入りこらえていると、やがて睡魔がそれを追いやって安らかになり
(このまま目が覚めないかもしれない)
と考えながら眠りに落ちていった。

次の日の15時、電話で起こされ、出てみると笹崎たけし会長で、ジムに呼び出された。
夕方、ジムにいき、1週間後に試合を控え、汗をかいているファイティング原田を横目に事務室に入った。
「そこに座れ」
(笹崎たけし会長)
「体の具合はどうだ。
どこも悪くなうようだが」
(茂野貞夫トレーナー)
「はい、別に・・」
(斉藤清作)
「悪くないようにみえてわるいこともある。
どういう意味かわかるな」
「さあ」
「君に精密検査を受けてもらいたいんだ」
「えっ検査?
なんですか、それ」
「脳の状態を調べてもらうんだ。
最近はコミッションのほうでもうるさくなってきたもんでね。
ボクサーの健康管理が何より優先するという考え方さ」
「僕がどうして検査を」
「どうして?
それはお前が1番よく知っているだろう」
「大丈夫ですよ、僕は」
斉藤清作は動揺を必死に抑え答えた。
「あれだけ打たれて平気なやつはいないよ。
それに君の場合、これまでの蓄積がある。
何れ検査をしなければと思っていた。
別に恥ずかしいことじゃないだろう。
ひどいノックアウトを喰った場合は、誰でもやってるんだ」
「僕はノックアウトされていません」
「だから余計にいけないんだよ」
「手遅れにならないうちに、ここらで検査しておいたほうがいい」
「検査は受けません」
「お前・・・」
「とにかく受けてもらう」
「嫌です。
検査なんか受けるとよけいにおかしくなりそうですから」
「バカ者!
君にはなにをいっても通じないのか!」
「チャンピオンになってから勝てなくなった原因は何だと思う?」
「・・・・・」
「6回戦の頃のお前なら世界チャンピオンとやっても勝てたかもしれない。
俺は本気でそう思ってる。
4回戦の頃は原田より強かった。
それも確かだ。
しかし誰もが将来性は原田にあるとみた。
理由はお前のボクシングの短命を予想できたからだ」
「わかってます」
「わかっているなら検査を受けろよ」
「・・・・・」
「心配してるのは俺たちだけじゃない。
他のジムの連中もコミッション関係者もあんなボクシングしかできないんならやめさせたほうがいいとまでいってきている。
これまでお前のファンだった客の中にもみちゃいられないという人もいるんだよ」
「お願いです。
検査だけは勘弁してください。
お願いします」
「こわいのか」
「いえ・・・」
「そうだろう、お前。
もう自分でわかってるんじゃないのか」
「本当になんでもないんです
次の試合は必ずちゃんと勝ってみせますから」
「そこまでいうなら仕方ない。
今回だけは見送ろう。
ただし次の試合であんなボクシングをやったら、そのときは覚悟しろ」
梅津文雄が東洋太平洋ミドル級王座から、斉藤登が日本ミドル級王座から、そしてファイティング原田が世界フライ級王座から陥落し、斉藤清作は笹崎ジムで唯一のチャンピオンだった。
ジムを出ると外は夜になっていた。
「もうすぐ終わる。
俺のボクシングは終わる」
斉藤清作はつぶやいた。


1963年11月14日、 堤五郎に判定勝ちし2度目の防衛に成功。
日本フライ級タイトルマッチで、チャンピオンの斉藤清作は、アマからプロに転向した新鋭、堤五郎と対戦。
高校時代のサウスポースタイルにスイッチするなど、これまでにないこともしながら乱打戦を制して2度目の防衛に成功。
故郷の人々に薦められ、苦竹駅から実家まで約2kmを徒歩でパレードを行い錦を飾った。
1964年4月2日、
3度目の防衛戦で、飯田健一に10回判定で敗れ、タイトルを失った。
飯田健一と壮絶な打撃戦の末、判定負けし王座陥落。
1964年4月3日、飯田健一戦の翌日、引退を表明。
24歳。
41戦32勝10KO8敗1分。
KO負けは1度もなかった。
引退届を出したときは
「負けて嬉しい」
という心境だった。

1964年4月4日、引退した翌日、由利徹の家を訪ね、再び土下座すると意外なほどあっさり認められた。
由利徹の家で住み込みの内弟子となり、付き人をしながら、由利徹の舞台で脇役として出演し演技を仕込まれていった。
由利徹は、行きつけの飲み屋「たこ九」から、
「多古八郎」
という芸名をつけようとしたが、斎藤清作が、
「先生、タコって漢字、僕、書けねえ」
って訴えたため
「たこ八郎」
となった。
公演後の打ち上げで由利徹が、女優を口説いて断られ
「カックン」
とやっているのをみて、酔ったたこ八郎は静かに笑った。
「由利徹ってのは、やっぱ日本一だね。
喜劇役者ったら由利徹しかいないね。
あんなにできる人、いない。
古典を知ってるから。
新しいもんだけじゃなく古いもんも知ってて、それが全部できていて、それを崩したりできるの。
動けるんだもん。
忠臣蔵の山崎街道でも、赤城の山の所作でもちゃんとやれるの。
赤城なんて、島田正吾、辰巳柳太郎をちゃんと使い分けるからね。
両方できんの」

内弟子になって半年後、体に異変が起き始めた。
夜、寝ていると寝小便をするようになった。
排便コントロールを失って小便に大便が加わることもあった。
車に乗ると揺られてすぐに眠ってしまい、気がつくと失禁していて、車のシートがビショビショになっていた。
師匠と一緒にタクシーに乗っているときに後部座席で漏らしてしまい、シートに溜まった小便があふれて由利徹の靴に入ったこともあった。
あまりに寝小便の布団を干してばかりなので、由利の息子は
「自分がやったと思われるから止めてくれ」
と懇願した。
記憶障害と言語障害も出てきて、まったくセリフも覚えられず、なんとか覚えても満足にしゃべれなかった。
3年間、ノーガードで戦い、パンチを浴び続けた結果、脳と硬膜の間に血種ができて脳を圧迫することで起こったパンチドランカー症状の可能性が高かった。
「ボチボチ起きて掃除でもしてんのかなと思ったら、とんでもない、まだグーグー寝てんだ。
(部屋のドアを)開けたらよぉ、オシッコの臭いがプンプンすんだよ。
寝ションベンが大人のションベンだから、もうスゲエんだよ」
(由利徹)
「KO負けした選手は3ヵ月間から半年、試合ができないとか、いまは健康管理がキッチリしてますが、昔はないんですよ。
たこさんの時代は、1週間に2回試合したり、傷だらけのまま次の試合に出たりしてドンドン体をダメにしていっちゃう」
(渡嘉敷勝男)

「師匠にこれ以上迷惑はかけられない」
26歳の斉藤清作は入門1年で由利徹の家を出た。
「いつでも戻ってこいよ」
由利徹はそういって送り出した。
直後、一郎あんちゃんが列車事故で死亡し、心の拠り所を失った。
たこ八郎は、由利徹の家を出た後、10年以上、友人の家を転々としながら、浅草のストリップやキャバレーでコントを演じた。
夜になると飲み歩き、居候している家に戻って寝ると寝小便。
友人達は決して邪険にせず
「たこちゃん、大丈夫か」
と面倒をみた。
売れていないのに毎晩、新宿ゴールデン街に飲み歩けたのも、多くの人にオゴッてもらえたから。
とても元プロボクサー、元日本チャンピオンにみえない容姿から、数人のチンピラにケンカを売られ、次々に眠らせ、留置場に入れられ
「過剰防衛だから気をつけるように」
と諭され釈放されたこともあった。
以後、腹が立つとズボンのポケットに手を突っ込むようにした。
パンチドランカーで住所不定、すごく困った人であるにも関わらず、なぜか多くの人に愛された。

1965年、テレビアニメ「恐妻天国」で怪獣の声優をすると共に、団鬼六監督のピンク映画「花と蛇」にも出演。
1966年、「河童の清作」時代のカッパ刈り、日本チャンピオン時代の丸坊主を経て、丸坊主で前髪だけ残して垂らす独自のヘアスタイルを確立。
1968年1月、斉藤清作が引退して4年後、週刊少年マガジンで「あしたのジョー」が連載開始。
フラリと東京・山谷にあらわれた孤児で不良の矢吹丈(ジョー)が、元プロボクサーで現アル中の丹下団平と知り合い、ボクシングをはじめ、幾多の困難に出会いながら、最後は世界チャンピオンと戦い、完全燃焼し真っ白な灰になって死んでしまう?というストーリー。
辰吉丈一郎の名前とボクシングを始まるきっかけになったのをはじめ、多くの若者がボクシングを志し、ライバル、力石徹が作中で死んだとき、葬儀が行われたり
(1970年3月24日)
よど号ハイジャック事件(1970年3月31日)で、ハイジャック犯が
「われわれは明日のジョーである」
という声明を残すなど、その影響は大きく「戦後最大のヒットマンガ」の1つといわれる作品。
この中で矢吹丈はノーガード戦法をとるが、斉藤清作がそのモデルとなったといわれている。
1969年、団鬼六が『鬼プロ』を設立。
渋谷の桜ヶ丘にアパートを借りて事務所としたが、自分の作品に出演したことがあり、浅草のストリップ劇場に出演していたたこ八郎をアシスタントとして雇った。
事務所の留守番が主な仕事で、食事、掃除、洗濯なども行った。
酔って大切な将棋盤をタクシーに忘れたり、将棋の駒を磨くようにいわれ、石鹸を使って水洗いしてフニャフニャにしてしまったり、食事は前日の飲み会の残りものを入れただけの「ちゃんこ鍋」ばからだったが、団鬼六は
「或る意味では彼は私にとって欠くべからざる人間であった」
といい、たこ八郎を座長とする「たこ劇団」をプロデュース。
主にポルノ映画館で映画の前座として裸踊りをやって好評を得た。
「ピンク実演は信じられないほどの入りだった。
たこ八郎がベットシーンやりながら『ベトナムでは戦争しているのにこれでいいのだろーか』といったのが印象に残っている」
(山本晋也)
1970年、外波山文明の劇団に参加。
演劇に一途な外波山文明は、野外テント劇を行うなど、既存の概念にとらわれることがなかった。
たこ八郎は、意欲ある座長の下で、セリフはあまりないが、舞台袖からヒョロヒョロと叫びながら走り出て舞台を横切ったり、女優に思いきり殴れたりするボケ役を演じた。
殴られてひっくり返り、立ち上がってまた殴られてひっくり返り、客はドッと沸かせ、劇団に欠かせない存在となった。
夜は外波山文明が新宿ゴールデン街に経営するバー「クラクラ」を根城とした。

30歳で売れないコメディアンだったたこ八郎は、山本晋也のピンクコメディ映画をみて、直接、家に電話をかけた。
電話をとった山本晋也の妻は
「たこの八ちゃんという人からかかってきた」
とゲラゲラ笑いながら受話器を渡した。
「あのぉ監督の映画が大好きなんです
僕も一応、役者なんですが、1度使ってもらえませんか?
名前、たこです。
たこ八郎です」
山本晋也はたこ八郎と会い、その持ち味にほれ込み、すぐに自分の映画に起用することを決めた。
「おかしかったよ。
あれは何の映画だったか、たこちゃんが意味なく鉄棒にぶら下がってるんだよね。
そういう非常に奇妙な映画ですよ。
そうじゃないとしようがないんだよ。
セリフはいえないし、
『しようがねえなあ、ここ公園だろう。
じゃ、たこちゃん、そこにぶら下がってるか』
っていうと
『へーい』
なんてぶら下がってるんだよね。
するとそこへ多少セリフいえるやつがやってくる。
そこで下手にからかうと自分の芝居が殺されちゃうから、それを無視してやっている。
これで実に面白い画面が構成できたわけですね」

ある夜、行きつけの店で飲んでいたたこ八郎は、男と口論となりケンカに発展。
元ボクサーとして拳は使わなかったが、右耳にかみつかれ、1/3をカジりとられてしまった。
「耳がとれちゃった!
もう映画にも出られない」
たこ八郎は、あわてて山本晋也に電話を入れた。
「電話でね、なんかね、耳とられちゃったってなんだかわかんないだよ。
まあ耳とられたっていうから、まさか耳カジられたとは思わないじゃないですか。
わかった、わかった、わかった。
とられれたんだろ、わかった。
とりかえしてやるからって、俺、バカなこといって切っちゃったんだよ。
それでその後、どうもそうらしいと。
本人は役者はもうダメだと。
なくなっちゃったものはいいじゃない、しょうがないじゃないかって。
そのときアイツ、おかしいんだよね、やっぱり。
人の顔ジーッとみてんだよ。
なんかね、みてるようでみてないような妙な目つきでね
で、俺の顔みてるから、こっちもそういうときって正直にいわなきゃしょうがないからね。
とれちゃったものはしょうがないんだからつって。
それモンで映画やろうじゃないかって。
そしたら(右耳を指で指しながら)コレもんですかっていうもんだからね」
このときの山本晋也との会話がたこ八郎の中で何かと共鳴した。
「そうか、そういうことか!
左目がみえない。
耳がない。
でもそうなっちゃったんだからしょうがない。
これが私ですってみてもらえばいいじゃないか。
それでお客さんが喜んでくれるなら」

不思議なことに、この後、寝小便が止まり始めた。
おそらく硬膜下血腫が徐々に吸収されていったと思われ、記憶障害や言語障害も消えていったが、芸人としてしゃべり方は戻さなかった。
「今度、寝小便するのは死ぬときだ」
と思えるようになり、由利徹の家を出て以来、12年ぶりに、新宿百人町の木造モルタル2階建てのアパートで自分の部屋を借りた。
百人町は、韓国系、中国系、アラブ系、エスニック系、多くの外国人が生活し、多様性に富んだ町。
玄関は、住人の靴が脱ぎ捨てられていて、2階への階段には太いロープが渡してあって、
「これあっから便利なの」
とたこ八郎はそれにつまって1段1段ゆっくり上がる。
2階の廊下の突き当たり左の角部屋が自分の部屋で、6畳にベッドとコタツ、カラーテレビがあり、2つある窓の1つにはカーテンはなく、向こうには新宿歌舞伎町が、下には墓場がみえた。
「俺、マンションって嫌いなんだよね。
冷たい感じがすっから。
木がいいよ。
やっぱり木だよ。
うん」
たこ八郎は、数年後、新宿区富久町に最後の引っ越しを行うが、そこも木造モルタルのアパートだった。
どれだけギャラをもらっても、木造モルタルのアパートで、ベッド、コタツ、14インチのカラーテレビだけ。
マンションに移ったり、ましてや一軒家を構えるつもりなんぞ、まったくなかった。
脳の障害が治っても酒好きは直らず、仕事中を除いてほとんど毎日、酒を飲んでは眠り、目覚めては飲んだ。
若い女性がファンだといって近寄ってくると、その手に触れたがり、柔らかい指をつまむように持って飲み続けた。
気の向くまま新宿をさまよい、新宿界隈をトボトボとほっつき歩き、安い酒をたくさん飲んで、アパートに帰ると、
「自分のウチが1番いいや」
とホッとしながら、また一杯。
寝転べば3分以内にいびきをかいた。
欠損した右耳については、こう思っていた。
「この耳もこれで結構いいんだよ。
人の話が少しずつ聞けるようになった。
前はそういうことなかったからね。
『俺が、俺が』だったから。
俺、この耳がね、ちゃんとしてたら、今ごろ生きていられないんじゃないかなって思ったりするのね」

1971年、引退以来、7年間、ボクシング界から消息を絶っていたたこ八郎が、おばあちゃん(笹崎たけし会長の母親)が亡くなると、ひょっこり姿を現した。
その間、たこ八郎に負けた中村剛は、たこ八郎に勝ったチャチャイ・チオノイに勝って東洋太平洋チャンピオンになっていて、海老原博幸は、2度、世界フライ級チャンピオンになっていた。
そしてファイティング原田は、世界バンタム級チャンピオンとなって日本人初の2階級制覇を成し遂げていたが、そのときもたこ八郎は激励にも祝いにもいかなかった。
たこ八郎は火葬場で遺骨をもらって持ち帰り、
「おばあちゃん、僕の中に入っててね」
と語りかけながらポリポリと食べた。
同年、高倉健主演のシリーズ映画『新・網走番外地』に出演。
チンピラ役をやらせれば右に出る者がいないといわれるほどハマり役となった。
1973年、TBS、小川真由美主演のドラマ『アイフル大作戦』のチョイ役でテレビ初出演。
新宿百人町に飲み屋『たこ部屋』を開いた。
(この店は数年続いた)
1974年、鈴木則文監督『聖獣学園』に出演。
1976年、TBS のテレビドラマ「さくらの唄」にレギュラー出演。
桃井かおりに惚れている男役で、みとれてしまって自転車で電柱にぶつかったり川に落ちたりした。
「日本ではそういうのあんまりないんだけど、僕は好きなのね。
無機的な役っていうか。
『さぞ痛いだろうな』というところで、おかしさと憐びんというか同情を買うと。
アメリカ映画ではよくあるギャグなんだけどね。
ドーンとブチ当たっといてパッとシーンが変わるという。
とにかく凄いんだよ、アイツは。
何に当たっても平気なんだよ。
僕はホントにやるに勝るものはないと思うのね。
とくにギャグの場合はね。
高いところから飛び下りるスタントにしてもそうなんだけど、おかしいってことはね、『可哀いそう』とか『痛いだろうな』っていうのはシンパシィになるのね」
(久世光彦、テレビプロデューサー)

1977年、37歳のたこ八郎は、わずか数分ながら、山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』に出演。
主演の高倉健が山田監督に「網走番外地」シリーズで共演したたこ八郎の起用を進言したことで実現した。
刑務所帰りの中年男が、偶然出会った若い男女と共に妻の元へ向かうというストーリーの中で、たこ八郎は、駐車場で武田鉄也に暴行を加え、それを止めようとする高倉健を殴り、反撃され、頭をボンネットに叩きつけられるチンピラ役だった。
その高倉健に頭を掴まれ車のボンネットに打ち据えられるシーンで本領を発揮。
遠慮する高倉健を促し、自ら頭をぶつけ、1発OK。
この大ヒット作品への出演を機に、映画やテレビの仕事が増えていき、お茶の間の人気者になっていった。
「晩メシのときに2人きりになって、たこさんが子供みたいに名誉だ、名誉だっていいながら、小さい役でも健さんの相手ができることが名誉だ、名誉だっていうのはよく覚えてます。
健さんはああいう人だから、よーいハイってカチンコが鳴って、演出家の山田(洋二)さんも厳しいんだけど、健さんの手はやっぱりボンネットの上で止めるんですよね。
ボンッとやるのが嫌で。
自分で頭を打ちつけるたこさんていうのがね。
自分の体を傷つけてでも監督からOKの大きい表彰状をもらいたいという一途に張り切っている小学生もいたいな純情さっていうのがすごい好きだったです」
(武田鉄也)
1978年、TBSのコメディドラマ『ム~一族』に憎めないチンピラの八郎役で出演し、東北なまりのセリフで茶の間を笑わせた。
1979年、松田優作さん主演のドラマ「探偵物語」に出演。
1981年、友川カズキのアルバム『海静か、魂は病み』に、たこ八郎はコーラス(叫び声)で参加。

1983年4月、「笑っていいとも!」にレギュラー出演開始。
毎晩、居酒屋で過ごし、酩酊状態で収録現場に現れ、一見、お昼のテレビ向きではない風貌から一言、
「たこでーす」
地なのか計算なのか不明のボケ。
「納豆はなぜ糸を引くのか。
それはピタゴラスなのです」
「やはり自分は罪を憎んで罪を憎まず」
回らない呂律で意味不明だが、どこか哲学的な発言。
予測不能な笑いを生み出した。
テリー伊藤発案の、『バカなたこ八郎に東大生の血を輸血したら知能指数が上がるのか?』という今なら間違いなく問題になる企画も2つ返事で引き受け、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』などでお馴染みの「金粉マラソン」を最初にやったのもたこ八郎。
金粉を塗ると皮膚呼吸できないので途中、呼吸困難となりリタイア。
どんなひどい目にあっても素朴なコメントとリアクション。
ここまでおバカで愛らしくてわかりやすい人はいなかった。

反面、ライターに
「たこさんの話、書きたいんだけど」
といわれると
「任せるよ。
カッコよく書いちゃダメよ。
キレイに書いちゃ」
と答えた。
彼女ができて結婚を迫られると
「うん、うん」
とうなずきながら、少し後になって
「やっぱりやめとうこう」
とやんわり拒んだ。
手も握ったことのない女子大生との交際が週刊誌に掲載されたときは
「俺はいいよ。
何を書かれようとね。
でも彼女は普通の女の子なんだ。
ただのファンだよ。
変に騒がれて迷惑だろうな」
と心を痛めた。
一見、飄々とした物腰と周囲への優しさと気づかいは、決してテクニックではなく地獄を体験した者しか得ることのできないものだった。
周囲は、大きな哀しみを背負って生きる者が持つ寛容さを尊敬し愛した。

1983年
『たこでーす。オレが主役でいいのかなぁー』が発刊。
1984年6月4日、
NHK銀河テレビ小説でたこ八郎の半生を描いた『迷惑かけてありがとう』が放映開始。
たこ八郎役は、柄本 明。
その他、サントリー、金鳥マット、エースコック、宝酒造、オートバックスとCMにも出演。
でも引っ張りだこ。
毎日、テレビ、ラジオ、出演する最強の芸人だった。
気が向けば、横浜市都築区にあるファイティング原田ジムにいきサンドバッグを相手に汗を流し、後楽園ホールに顔パスで入り、同門対決は当然のように行われ、バッティングで血を流しても、それまでの採点次第で勝者となるようになったボクシングの試合を観戦することもあった。
「あれはあれで幸せなんだろうな
あいつの人生はあいつのボクシングそのものだ」
(ファイティング原田)

1985年7月24日、朝までゴールデン街で飲み明かし
「久しぶりに真鶴の海に行ってきます」
といって神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海水浴場に出かけ、車の中でも飲み続け、海水浴場に着いても海の家で飲んでいた。
そして10時20分頃、青春時代に何度も訪れた海に入り100mほど泳いで海岸まで戻ろうとして、残り20mほどの地点で心臓マヒを起こした。
まだ44歳、人気絶頂の中、突然の死んでしまった。
事故から1時間半後、たこ八郎の死はレギュラー出演していた「笑っていいとも!」の生放送中にタモリによって伝えられ、日本中に衝撃が走った。
新聞は
「たこ、海で溺死」
の見出し。
葬儀では、赤塚不二夫は、泣きながら
「この野郎、逝きやがったな」
とたこ八郎の額を叩いて最後のお別れ。
由利 徹は
「あの、たこ野郎!
俺より先に逝きやがって、なんてことするんだ」
と嗚咽。
式中、涙を流していたタモリは、
「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」
とコメント。
最後は
「みなさん、お手を拝借・・・いよ~っ」
と由利徹が先導、立川談志、ビートたけしをはじめ、多くの著名人と多くのファンが
「 パパパン パパパン パパパンパン、パパパン パパパン パパパンパン、パパパン パパパン パパパンパン」
と3本締めで出棺。
たこ八郎は、物事が丸く収まったときや、宴会やめでたい席の終了時に全員で行う3本締めが大好きだった。

「フォークの神様」友川カズキの「彼が居た - そうだ!たこ八郎がいた」
ロックバンドのムーンライダーズの「悲しいしらせ」
ジャズサックス奏者の坂田明の「BALLAD FOR TACO」
など、たこ八郎の死を受けて曲がつくられた。
同じ東北出身のあき竹城は、
「お酒ばかり飲んでないでちゃんとご飯を食べなきゃダメだよ」
などと恋人疑惑がかかるほど、よくたこ八郎の世話を焼いていた。
実際に男女の関係はなかったが、亡くなる直前のたこ八郎にサイパン旅行に誘われていて、
「もし一緒に旅行に行っていたら死ななかったんじゃないか?」
と後悔。
亡くなった後、なかなか墓参りに行けず、ようやく叶ったとき
「生まれ変わったらまた一緒にサイパンに行こうね」
と墓前で号泣した。

「人間じゃないみたいな感じがするんだよな
あれは怪物だよな」
(ファイティング原田)

「たこちゃんてのはね、なんてのかな、誰かがね、あの人妖精みたいですねっていったよ」
(赤塚不二夫)

「初めてお会いしたとき、目がきれいでね。
澄んでて、子供のような純粋さを持っている人じゃないかなと思いました。
あの人はセリフが覚えられないんです。
1行のセリフも覚えられないから、当然、NGが出ますよね。
でもなんかたこさんの場合は、いくらNG出してもちっとも嫌な顔する人がいなくてね。
これは稀有な存在だと思いますよ」
(森光子)

「あの人は、裸の王様を見抜く、子供のような人」
(武田鉄矢)

「初めてお会いしたのは15歳だったんですけど、いつも稽古場にいくと由利さんが、『またコイツ寝小便しやがって』って入ってらっしゃるんですよ。
たこさんは頭かいてらして。
最初はどういう人かと思ったんですけど、なんかこう、ご一緒させていただくと泣けてくるくらいいい人。
大好きでした。
全然威張んないんですよ。
どんな後輩でも敬語でおっしゃるし、いっつも控え目なんですよね
(岸本加世子)


1985年、斉藤清作の墓は、故郷の宮城県仙台市にあったが、
「東京で参詣できる場所を・・」
と赤塚不二夫、由利徹、山本晋也、タモリ、らを発起人と有志らによって、東京都台東区下谷2-10-6にある法昌寺に「たこ地蔵」という地蔵尊が建立された。
たこ地蔵は特徴的なヘアースタイルと右耳が再現され、
「迷惑かけてありがとう」
という座右の銘も刻まれている。
法昌寺は、江戸時代初期(1648年)、下谷御切手町付近にあった光長寺の末寺(本山の支配下にある寺)。
現在、静岡県沼津市岡宮にある光長寺、鷲山寺(千葉県茂原市)、織田信長が果てた本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)は、法華宗本門流の4大本山といわれている。
法晶寺住職の福島康樹は、歌人でもあり、自作の短歌をギター伴奏で朗読する『短歌絶叫コンサート』でたこ八郎と知り合い、たこ八郎を詠んだ歌集『養成伝』もつくった。
「彼は2歳上でね。
晩年なんですけど、とってもいいつき合いをさせてもらいました。
彼は欲がなかった。
でも欲がないってのはモノに対する欲でね。
芸に対する欲はすごかった。
だからあんな捨て身な芸をしたんじゃないでしょうか」
1990年3月5日、亡くなって5年目後、TBSの2時間ドラマ『昭和のチャンプ たこ八郎物語』が放送された。
斉藤清作役は、『オレたちひょうきん族』でたこ八郎のものまねをやっていた片岡 鶴太郎、ファイティング原田役は、この仕事をするまで片目で戦っていたことを知らなかった渡嘉敷勝男だった。

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