たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。


1940年11月23日、
たこ八郎こと斎藤清作は、宮城県仙台市の外れ、外苦竹村の裕福な農家に生まれた。
8人兄弟の2番目、未熟児として生まれ、その後もずっと体は小さかった。
学校の成績は良くないが、優しくてサーボス精神旺盛な調子ノリ、誰からも好かれる人気者だった。
まだ戦後、間もない頃で、大陸から引き揚げてきたばかりの経済的に苦しい家庭も多く、仙台市立東仙台小学校には、弁当を持ってこられない子供もいた。
米に不自由したことがなかった斎藤清作は、母親に弁当を5つつくってもらい、
「弁当のない子に分けてあげよう」
と学校に向かった。
しかし学校に着いてみると弁当のない子は何十人もいた。
「これでは足りない。
分けてもらえない子が出たらもっとかわいそうだ。
どうしよう」
悩んだ末、結局、誰にも弁当を渡さず、家に引き返し、そのまま学校を休んでしまった。
斉藤家では、子供は農作業の手伝いをするには当たり前だったが、斎藤清作は農業が好きになれず、みんなが仕事をしていても1人だけ離れ、蔵の米を町で売ってお金を作って遊ぶこともあった。

9歳のある日、友達と、三角沼という膝までつかるほど深い沼地で、泥でつくった球をぶつけ合って遊んでいた。
そのとき友達の投げた泥球が斎藤清作の左目を直撃。
チカチカと痛みを感じ、川で洗ったが、こすったことで悪化させたかもしれない。
その後、友人のことを気遣い、親にも告げず、医者にも行かず、放っておくと左目は視力が低下していき、最終的に光を感じるだけとなり、左瞼も緩んでタレ落ち、小さい文字を読むときは少し首を捻って右目を近づけなければならなくなった。

仙台にサーカスがきたとき観にいって、おどけた仕草で拍手喝さいを浴びるピエロをみて
「いいなあ。
俺もあんなふうになりたいな」
「あちこち自由に旅できていいな」
と憧れた。
小さい頃、悪いことをしたとき、親に
「サーカスには人さらいがいてさらわれるぞ。
捕まると酢を飲まされて体を柔らかくされ曲芸師にされる」
と脅されていたので、楽屋の周りをうろついてドキドキしながらさらわれるのを待った。
中学生になると映画に夢中になった。
中でも好きだったのはアメリカ映画の「底抜けシリーズ」
コメディアンのジェリー・ルイス(ボケ)と歌手のディーン・マーティン(ツッコミ)の2人組「Martin and Lewis」のドタバタ喜劇。
激しい動きで笑わせるコメディアンに強く惹かれ、将来は人を笑わせて幸せにする喜劇俳優になりたいと思った。

スポーツが盛んな仙台育英学園高等学校に進学した斉藤清作は、まずサッカー部に入った。
ドリブルはうまかったが、キック力がなくてレギュラーになれなかった。
次にレスリング部に入ろうとしたが、52kgが最軽量クラスとなる競技で44kgの体は小さすぎると入れてもらえなかった。
その後、いくつかまわったっ果、モスキート級という44kgのクラスがあるボクシング部に入った。
2つ上の先輩に芳賀勝男(ローマオリンピック日本代表、プロでも日本バンタム級チャンピオン)がいた。
普通、右利きの人間は、左肩を前にして体を斜めにして構え、左で軽いジャブを放ち、相手を牽制しながら機をみて強い右を叩き込む。
しかし左目がみえない斉藤清作は、右利きだったが右肩を前に構えるサウスポースタイルで構えた。
みえる右目を前にして少しでも視界をよくし、利き腕の右のジャブでコントロールし、チャンスで左を思い切り打った。
片目のために相手との距離感やパンチがみえづらい上に、トドメを刺す左が非力なため、勝つために徹底的にヒット&アウェイ(打って離れる)スタイルのアウトボクシングをやって、2回、宮城県大会で優勝。
最終戦績は、20戦18勝2敗。
2つの負けは、県チャンピオンとして2度出場した東北大会の準決勝と準々決勝で、共に判定負け。
18勝中、KO勝ちは0だった。

卒業が近づき、進路を決めなければならなくなった。
日本は高度経済成長期に入り、企業側の求人に応じ、東北から東京へ、九州・四国・沖縄から大阪や名古屋へ、少年少女たちが出征兵士のごとく就職していく「集団就職」や農家の次男坊以降が中学校や高校を卒業した直後、都市部のの工場や商店などに就職するために臨時列車に乗って旅立つ「集団就職列車」が社会現象となっていた。
農業が嫌いでコメディアンを夢みる斎藤家の次男坊は、芸能界に何の情報もツテもなかったが、とりあえず上京することにした。
「おめえ、東京さいってどうすんだ」
「喜劇役者になりたいと思ってんだ」
「喜劇役者?」
「んだっちゃ。
でちたら俳優やりたいと思ってんだ」
「その面でか」
「・・・・・・・・・」
友人のあざけりに無言で応え、仙台駅に見送りに来た母親には
「偉くなるまで帰らない」
とだけ告げ、上野行の集団就職列車に乗った。
家族は次男が東京行きの真の目的を告げなかったため
「野良仕事がイヤなのだろう」
と思っていた。


1958年の3月29日、上京後、東京の銀座の貴金属店「銀パリ宝飾」に就職。
スーツを着て接客を行った。
芸能人のように着飾った客をみて
「こんなところにいても仕方ない。
サーカスでも何でもいい。
早く芸能の道へ入りたい」
と思いながら、必死に働き、イントネーションは東北弁のままだが東京弁をマスター。
秋になると、新聞で映画配給会社の求人広告を発見し応募。
採用が決まると銀パリ宝飾を辞め
「芸能界に近づいた」
と喜んだ。
しかし仕事は、映画フイルムを積んだ自転車で、映画館から映画館へ走って回る運び屋で、半年間、劇場に住み込んだ後、四畳半のアパートを借りた。
仕事自体は嫌ではなかったが、やがて映画関係とは名ばかりの仕事と気づくと、再び焦り始めた。
どこかで芸能関係の人に会ってスカウトされることを夢みて、冬でもアロハ1枚で目立つようにした。
しかしスクリーンやブラウン管の向こうの世界は遠く、むなしく時間は過ぎていった。
フィルムを運び始めて1年後、1959年の冬の夜、風がつらくて自転車を降りて歩いていると、暗い街でこうこうと明かりを灯す建物を見つけた。
シュッシュッとパンチを繰り出す音やパンチングボールやサンドバッグをたたく音を発しながら、若者たちが汗をかいて練習をしていた。
自宅近くのよく通る道だったが、ボクシングジムであることに、そのとき初めて気づいた。
思わず、その場で釘づけになり、いいようのない感情が込み上げてきた。
高校時代、プロになろうとも、なれるとも思わず、ボクシングは終わったはずだった。
故郷を出て2年、何もない自分と比べ、彼らは明日に向かって懸命にトレーニングしていた。
翌日、入会金2000円と月会費1000円を持っていき、手続きをした。
フィルム運びの仕事は不規則で、暇があれば東横線を隔てて反対側にあるアパートから歩いてジムに通い、汗を流した。

笹崎ボクシングジムは、300名以上の練習生を抱える大きなジムで、15時頃からポツポツと人が現れ始め、18時になると活気と熱気でむせ返った。
戦争で青春を奪われた白井義男が日本人として初めて世界チャンピオンになり、敗戦で自信を失っていた国民に計り知れない希望を与え、そのタイトルを失った後も、拳ひとつで天下をとろうという若者とスターの誕生を待ち望むファンが数多く存在し、ボクシング人気は衰えることはなかった。
笹崎たけし会長は、元東洋フェザー級チャンピオン。
北海道で手のつけられないガキ大将だった笹崎たけしは、アマチュアで鳴らした後、「拳闘は武道である」といってノーガードで前進あるのみというファイトスタイルを貫く「拳聖」ピストン堀口に憧れ、上京。
プロデビュー後、槍のようなストレートで9連勝。
無敗のまま兵役に就き、戦地で白内障を患い左目を失明。
傷夷軍人として戻った後、再び連勝。
26戦無敗の笹崎たけしとピストン堀口の対決を多くの人が熱望したが、所属ジムの問題
(笹崎たけしの所属する日本拳闘クラブの渡辺勇次郎は、「日本ボクシングの父」といわれる人物で、ピストン堀口を見出し、自分のジムにスカウトし育て上げた。
しかし諸事情からコーチだった岡本不二が、ピストン堀口を連れて不二拳(現:不二ボクシングジム)を設立。
師弟関係が現在より厳しかった時代、深い遺恨が残っていた)
で実現できずにいた。
笹崎たけしは、ボクシング誌で
「開かぬ城門、発展を遮断す」
と挑発。
するとピストン堀口は挑戦を受諾。
両会長も手打ち式を行い、
「世紀の一戦」
と大きな話題となった。
戦前の予想は「笹崎有利」だったが、 笹崎たけしは1Rにダウン。
その後、槍のストレートで一歩も退かない激闘を繰り広げた。
しかし4R、ピストン堀口の攻撃で右目がふさがり、6R、両目がみえなくなりタオルが投入されTKO負け。
現在でも伝説の試合として語り継がれる名勝負だった。
その後、
「世紀の一戦の再戦」
と銘打たれ再選が行われ、両雄は計5度の対戦し、堀口1勝、笹崎2勝、引き分け2。
指導者となった「槍の笹崎」は、「鬼の笹崎」と呼ばれるほど厳しい練習を課した。
笹崎たけしの母親(おばあちゃん)、季子夫人 、娘もジムを手伝い、一家でジムを経営していた。
特におばあちゃんは、無類のボクシング好きで、練習生の面倒見もよくみて、みんなに親しまれていた。

笹崎ジムの看板選手は、東洋ミドル級チャンピオンの梅津文雄。
斎藤清作が入会金と月謝を持ってジムを訪ねたとき、26歳の梅津文雄が玄関を掃除していて、掃除のおじさんと勘違いし軽口を叩いてしまい、後で驚愕した。
斉藤清作のフィルム運びの月給が1万円、大卒の初任給が1万3千円の時代、梅津文雄はノンタイトル戦でも30万円のギャラをもらっていた。
梅津文雄以外にも、
フライ級の矢尾板貞男
バンタム級の米倉健志
フェザー級の小林久雄
Jフェザー級の坂本春夫
Jライト級の大川寛
ウェルター級の福地健治
ライト級の小坂照男
フライ級の関光徳、野口恭
フェザー級の高山一夫
など戦後日本の復興と比例するように世界を狙う選手が続々と現れていた。
斉藤清作がボクシングに身を投じたのは、そんな激しい時代だった。

また笹崎ジムには、まだプロデビュー前の原田政彦がいた。
後に日本人として2人目の世界チャンピオンとなり、日本人初の2階級(世界フライ級・バンタム級)制覇を成し遂げるファイティング原田である。
「狂った風車」
と呼ばれた俊敏な動きで相手を追いつめ連打で仕留めるスタイルは、マイク・タイソンも影響を受けたといい、海外でも「すべての時代を通じて最も偉大なボクサー」の1人として名前が挙がるレジェンドである。
小学校6年生のとき、白井義男が日本人初の世界チャンピオンになるのをみてボクサーに憧れ、中学に入ると植木職人が大ケガで働けなくなったため、近所の米屋で働き出した。
「白井義男のようになりたい」
と笹崎ボクシングジムに入ると、学校の後、米屋で働き、さらにその後、練習。
その後、高校には進学せず、米屋とジムと家を往復する日々を送っていた。
ボクシングの階級は

ミニマム級      ~47.62kg
ライトフライ級    48.97kg
フライ級       50.80kg
スーパーフライ級    52.16kg
バンタム級      53.52kg
スーパーバンタム級   55.34kg
フェザー級      57.15kg
スーパーフェザー級   58.97kg
ライト級       61.23kg
スーパーライト級   63.50kg
ウェルター級     66.68kg
スーパーウェルター級 69.85kg
ミドル級        72.57kg
スーパーミドル級   76.20kg
ライトヘビー級    79.38kg
クルーザー級     90.71kg
ヘビー級       90.71kg~

があり、斎藤清作とファイティング原田は、白井義男と同じフライ級(50.8kg)だった。
年齢は、20歳と17歳で斎藤清作のほうが3つ上。
2人はすぐに意気投合し
「お前」
「セーサク」
と呼び合う仲になり、昼間、仕事の自転車でスレ違うときは
「オッス」
と声をかけ合った。
ジムでは練習を競い合い、2人でロードワークに出た。
ロードワークは多摩川近くまで遠征することもあったが、斉藤清作は、そこでハコバ、ミツバなどを摘んで川の水で洗って口に入れた。
小学校時代、野生動物が食べるものには普通の野菜の数倍の栄養があると教わったことと
「強くなるためにはなんでもする」
という一途な思いからそういった行動が起こるのだが、ファイティング原田は、牛のように草を食む姿を奇異の目でみた。
最初、
「お前も食べろ。
強くなるぞ」
といわれ、1度だけ口に入れたが吐き出してしまい、以後、1度も食べなかった。


練習後は、2人で世田谷区にあったファイティング原田の実家に戻って食事。
周囲は瓦なのに原田家だけ、まだ藁ぶきだった。
両親、兄、姉、2人の弟、そしてファイティング原田、この家の住人は、全員、いかにも人が好さそうな丸顔をしていた。
父親の垣作と母親のヨシは、まるで子供がもう1人増えたかのように斎藤清作を迎え入れ、兄弟が食べ残した魚を頭までキレイに食べる斉藤清作をホメた。
B-29が東京に大量の爆弾を落としたとき、2歳のファイティング原田は背負って逃げた長男の一郎は、印刷会社に勤めていた。
斎藤清作は1つ上の一郎を
「あんちゃん」
と呼んだ。
2人は酒好きで、よく飲みに出かけたが、斎藤清作がお金を払ったことはなかった。
斎藤清作の酒好きは死ぬまで治らず、毎日、まるで仕事のように休みなく飲み続け、練習後も米の代わりに酒を飲んだ。
偉くなるまで故郷に帰れない斎藤清作にとって、原田家は暖かかった。
「うちに遊びに来てもね、俺より兄貴のほうがよくなってね。
というのはアイツもお酒飲むでしょ。
だから俺がいなくてもね、兄貴とお酒を飲んで楽しんでいたんじゃないの。
お袋なんかでも清作のほうがかわいかったんじゃないの。
よくお袋、お袋っていってくるから」
(ファイティング原田)

ファイティング原田がプロデビュー戦で4R TKO勝ちしたとき、斎藤清作にはプロテストが迫っていた。
入門して3ヵ月、練習を続ける中で高校時代のサウスポースタイルのアウトボクシングではプロでは通じないことを悟った。
「スパーリングお願いできないでしょうか」
ある日、斎藤清作は、梅津文雄に近づいて頭を下げた。
身長で20cm、体重で22kg上回るミドル級、しかも東洋チャンピオンである。
梅津文雄は相手にしなかったが、
「お願いします」
と斎藤清作は大先輩にしつこく迫った。
「失礼だぞ」
「ガードしても腕が折れる」
「1発で死ぬぞ」
周りの練習生が騒ぎ出し、パンチングボールを叩いていたファイティング原田も気づいて近寄っていった。
「清作、どうした」
練習生から事情を聞き
「こいつ、ちょっと変わってるんです。
ひとつご愛敬で・・・」
取りなそうとするファイティング原田を斎藤清作は
「愛嬌はいりません」
と遮った。
「本気で殴ってもらいたいです」
その真剣なまなざしに梅津文雄はうなずいた。
「準備しろ」
斎藤清作はヘッドギアをつけた。
本当はつけたくなかったが、それではやってもらえないに決まっていると思いつけた。
マウスピースを入れる前に
「1度倒れたらやめますから倒してください」
と頭を下げた。
「半分の力で十分だよ」
ヘッドギアもマウスピースもせずに梅津文雄が答えた。
「はい。
それでいいです。
倒れるまで打ってください」
「・・・・・・」

スパーリングが始まると斎藤清作は、左肩を前にした右利きのオーソドックススタイルで構え、左ジャブから右を狙ったがまったく届かない。
強引に飛び込むとアッパーで顔面を跳ね上げれた。
それでも梅津文雄のパンチを顔面にもらいながら前進。
明らかに手加減した攻撃にいらだち、相手を本気にさせようと、とにかく攻めた。
2R、右ストレートをもらって腰が落ちかけたが、すぐに立て直し反撃。
クリンチになったとき、梅津文雄にささやいた。
「お願いします。
本気で打ってください」
梅津文雄は不愉快そうに突き放し顔面へ連打。
斉藤清作は踏ん張ってしのいで渾身のフックを顔面に返した。
(まだ先輩はセーブしている)
そう思いながらガードを下げたまま前進。
怒った梅津文雄は、力をこめて左ジャブから右フック。
斉藤清作は顔を横に捻られたが、元の位置に戻るとロングフックを返した。
それが梅津文雄の顎をとらえ、そのままラッシュ。
梅津文雄の顔が真剣になり、斉藤清作を突き放し、腰の入ったパンチを顔面に浴びせた。
「我慢するな、清作。
倒れろ!」
ファイティング原田が怒鳴った。
棒立ちになった斉藤清作は、次の一撃でロープまで吹っ飛ばされ、顔を上に向けて後方に倒れた。
誰もがロープの反動で前方に倒れると思った瞬間、斉藤清作は、その弾みを利用してノーガードの梅津文雄の顔面にパンチをめり込ませた。
梅津文雄は腰を落として後退。
斉藤清作はそれを追った。
頭突きを交えてコーナーへ押し込み、ボディを連打。
ここで2Rが終わった。
ファイティング原田は、うがいをしている斉藤清作の肩に手を置いた。
「もうやめたらどうだ。
お前のタフネスはわかったよ。
もう十分だろう」
「やる」
と答え、心の中でつぶやいた。
3R、リーチで上回る梅津文雄はカウンター戦法に切り替え、前進してくる斉藤清作を槍で突くように遠い間合いからストレート系パンチを連打。
斉藤清作は打たれ、夢遊病者のようにフラフラになりながらも攻め続けた。
「ラスト30秒」
そう声がかかると、梅津文雄がはじめてボディを叩いた。
斉藤清作はうめき声を上げ、上体を折って横転。
リングの上でエビのように丸まった。
心配そうに上から屈みこんでみている梅津文雄に声を絞り出した。
「大丈夫です。
ありがとうございました」

さすがにダメージは大きく、早く寝ないと明日の仕事にさわるため、その日は原田家にいかず、2階建ての古い木造アパートに戻った。
共同の炊事場で湯を沸かし、インスタントコーヒーをつくり、それを持って4畳半の部屋に戻り、コタツに入った。
コタツ以外の電化製品は、40Wのはだか電球と畳の上に置いた白黒テレビだけという質素な部屋でコーヒーを飲みながらぼんやりとスパーリングを思い浮かべた
高校時代からタフさに自信があったが、改めて再確認できた。
本来の右利きで構えて戦うことがプロを目指すためには絶対に必要だったが、これでメドがついた。
「やれるだけやってやる」
右目だけでは距離感がつかみにくい。
非力で1発KOのパンチもない。
あるのは粘りだけ。
じゃあどうする。
結局、斉藤清作がとったのは前代未聞の奇策、ノーガード戦法だった。
顔面のガードを下げて前進。
当然、打ってくる相手に、防御は上体を動かしてパンチをかわしたり殺したりするダッキングとウィービングだけで、打たせて打つ、肉を斬らせて骨を断つという捨て身の戦法だった。
「どんなに打たれても倒れず、耳元で『効いてない効いてない』とささやき続け、相手が打ち疲れたところで猛反撃して、試合が終わってみると相手は打ちのめされていました。
対戦相手にとっては本当に怖かったと思いますよ」
(ファイティング原田)

プロテストの日、後楽園ジムで簡単なスパーリングと健康診断が行われた。
問題は視力検査だった。
検査員は20歳くらいの女性だった。
「はい、最初は右目です」
といわれ、結果は、1.0。
「次は左目です」
といわれると、黒いしゃもじで右目を浅く隠し、検査員が棒で指し示すために検査表に顔を向けた瞬間、スッと左目にスライド。
「これは?」
と聞かれ
「下」
と答えると注意されることはなかった。
(よし!イケる)
興奮を抑え平静を装いながら答え続け、結果は、1.0。
9月5日、ファイティング原田に数ヶ月遅れ、プロデビュー。
1発打たれたら3発返すボクシングで判定勝ち。

デビュー戦から2ヵ月後、第17回東日本新人王戦トーナメントが始まった。
毎年、行われる新人王戦トーナメントの出場対象は、プロで1戦以上4勝未満の新人ボクサー。
東日本と西日本に分かれ、各階級でトーナメントが行われ、勝ち上がってきた選手が、それぞれ東日本新人王、西日本新人王になる。
そして各階級の東日本新人王と西日本新人王が対戦し、勝者は全日本新人王となる。
全日本新人王は日本ランキング10位にランクされる。
笹崎ジムは、フライ級にファイティング原田と斉藤清作の2人を出場させた。
この年のフライ級は、ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利(あおきかつとし)という大型新人3名が同時にプロデビューしていて、「フライ級3羽カラス」と呼ばれていた。
根性とラッシュの原田、カミソリパンチの海老原、メガトンパンチの青木、3人3様の個性を持ち、このトーナメントで直接対決すればどうなるのか、誰が優勝するのか、ファンは興奮していた。
斎藤清作はあまり注目されていなかったが、ベスト16まで勝ち進み、3羽カラスの1人、青木勝利と対戦することになった。
「メガトン・パンチ」青木勝利は、3羽カラスの中で、最もイケメンで最もKO率が高く最も才能に恵まれているといわれていた。
反面、、練習嫌いで、結局、3羽カラスの中で唯一、世界チャンピオンになれなかった男でもあった。
試合前の控え室で、笹崎たけし会長はハッパをかけた。
「負けたら承知せんぞ」
「はい」
1R、青木勝利の強打がヒット。
2R、その圧倒的な攻撃に観客は早くも青木勝利のKOを期待。
斉藤清作はひるまず前進し、残り30秒で手数が落ちた青木勝利にラッシュをかけた。
3R、青木勝利はみるみる減速。
斉藤清作はボディから顔面へ連打。
接近戦では完全に打ち勝ち、青木勝利はたびたびクリンチで逃れた。
青木勝利は、パンチが強いだけに、それが効かなかったときの動揺は大きく、精神的に優勢になった斉藤清作の一方的な展開となった。
4R終了後、判定はドローだったが、ポイントで斉藤清作が優り、勝利。
周囲が番狂わせだと騒ぐ中、斉藤清作は
「青木のパンチは効かなかった」
とほくそ笑んだ。
同日の最終試合でファイティング原田も勝利し、共にベスト8に進んだ。

1週間後、21時に練習を終えた斉藤清作は、事務室に呼ばれた。
入ってみると笹崎たけし会長と茂野貞夫トレーナーがいた。
「まあ、かけなさい」
笹崎たけし会長はソファーを勧めた。
「前の試合は健闘したな」
茂野貞夫トレーナーは目を細めながらいった。
「はい。
思ったとおりの試合運びで」
「おばあちゃんがほめてたよ。
清作のボクシングはおもしろいって」
「はい」
「話というのはだね、ベスト8にうちから2人残った。
その対策のことなんだよ。
対戦相手をみると次の試合では原田もお前も勝つことに違いない。
ところがその場合、どういうことになるか、わかるだろう?」
「どういうことでしょうか?」
「ハッキリいおう。
君には次の試合で棄権してもらいたい」
「ハッ?」
「この世界では同門同士の対決は原則としてやらないことくらいわかっているね」
「・・・・・・・」
「このままではお前と原田は準決勝で顔を合わせることになる」
「・・・・・・・・」
「原田とは親しくしているそうだな」
「はい」
「お前は原田を殴れるか?」
「・・・・・・・・」
「殴れるか?」
「同門同士の対決が絶対に不可能というわけじゃない。
準決勝でお前が原田を倒すことは十分あり得るだろう。
アオキのパンチに動じなかったお前だからな。
そのときは原田が死ぬことになる」
「死ぬ?」
「そうだ」
「私は原田をとにかく大事に育て上げたいと思っている。
もちろん君もだ。
見捨てるわけじゃない。
戦ってどちらかが死ぬよりも戦わずしてどちらかが1歩譲るほうが、よほど2人のためでもあるんだよ」
「会長のおっしゃるとおりだ。
ボクシングは並みのスポーツじゃない。
いくら正々堂々のスポーツマンシップといったって陸上競技とは違うよ。
相手を、それこそ殺す気で殴らなければ勝てないのがプロボクシングだ」
「・・・・・・・・・・・」
「お前は原田を殺す気で殴れるか」
斉藤清作は首を振った。
「そうか」
茂野貞夫トレーナーはうなずいた。
「原田もお前を殴れないといっていたぞ」
「はい」
「もう帰っていいぞ」
「はい」
斉藤清作は立ち上がり、一礼して事務室を出た。
ジムを出ると、背後から声がした。
「清作、ちょっと」
おばあちゃんは斎藤清作に近づき、手をとってチリ紙に包んだお金を握らせ
「今夜は遊んでおいで」
と耳打ちした。
「ひねくれるんじゃないよ」
「わかってます」
斉藤清作は頭を下げた。
おばあちゃんは目を細めてうなずき、肩を抱き寄せ、ポンッポンッと背中を叩いた。
「おばあちゃんはお前の味方だよ」
チリ紙の中には3000円が入っていて、斉藤清作は夜の街で憂さを晴らそうとした。
心の中では
(バカな。
実力で勝負をつけるのがスポーツじゃないか)
という怒りと
(原田はスター選手だから仕方ない)
という優しい気持ちがジェットコースターのように交錯し続けていた。
結局、このことは斉藤清作の中で、一生、残った。
「自分はファイティング原田より強かった」
という自信があった。
少なくても「強かったかもしれない」ということは事実で、確かめようない事実を延々と追い続け、悔やみ続けることになった。

クリスマスに行われた東日本新人王決定トーナメントの決勝戦は、ファイィング原田 vs 海老原博幸となった。
「原田の右、海老原の左、先に当たったほうが勝つ」
といわれ一瞬も目を離せないスリリングな戦いが予想された。
1R、開始のゴングと同時にファイティング原田は赤コーナーに一直線に向かってボディと顔面に左フック、そして右フック。
海老原も打ち返し、2人はにらみ合う暇もなく打ち合った。
1分過ぎ、ファイティング原田の右が海老原の顎にヒットしダウン。
カウント9で立ち上がった海老原にファイティング原田は猛然とラッシュ。
2分30秒、ファイティング原田が右のロングフックで2度目のダウンを奪った。
カウント8で立ち上がった海老原は、残り15秒をなんとかしのいだ。
海老原は生涯で72戦し、その中には世界戦も6戦あるが、KO負けは1度もなく、ダウンも、この試合での2度だけである。
3R、ファイティング原田は、海老原をロープに追い詰めて連打し、レフリーはロープダウンをとった。
「イケる」
観戦していた斉藤清作は拳を握り締めた。
4R、カミソリパンチの異名を持つ海老原博幸の左ストレートが決まり始める。
5R、海老原博幸の左が顎に刺さり、ファイティング原田が腰を落とした。
続くラッシュでファイティング原田はダウン寸前に追い込まれた。
「倒れるな!
この回さえ持てばお前の勝ちだ」
斉藤清作の思いに応えるように、ファイティング原田は逃げずに打ち返し、強烈なパンチの打ち合いとなった。
6R、最終回も好ファイトが行われ、熱狂のうちに終了のゴングがなった。
「ハラダ」
判定は3者共に2~3ポイント差でファイティング原田を支持。
「いい勝負だった」
斉藤清作は思った。
その夜、パーティが開かれ、笹崎たけし会長は新人戦に出た全選手の健闘を称えた・
「よかったな」
斉藤清作はファイティング原田に近づいて頭をなでた。
準々決勝での棄権以来、原田家に行くことも、2人でロードワークすることもなく、お互いに避け合っていた。
ファイティング原田は斉藤清作のグラスにビールをつぎ、斉藤清作もオレンジジュースをつぎ返し、乾杯した。
(新人王か)
斉藤清作の中で、これまでと違うライバル意識が芽生えた。
青木勝利に勝った斉藤清作には
「俺はファイティング原田よりも海老原博幸よりも強い」
という自信があった。
しかし今夜の2人のファイトをみて、かなわないものがあることも認めた。
それはスリル、迫力、テクニックなど誰もがわかるボクシングの面白さであり、スター選手の持つ輝きだった。
(なんとかする
俺が1番強いんだ)
戦うことができなかった男は、闘志をかき立てた。
海老原を下したファイティング原田は、その後西日本の新人王も倒し全日本新人王になった。
実力的に5分5分といわれていただけに、もし斉藤清作が棄権せずファイティング原田と戦っていれば、ボクシングの歴史は変り、「たこ八郎」も誕生しなかったかもしれない。
しかし斉藤清作が棄権の件で、ファイティング原田に不平不満を口にしたことは1度もなかった。
かえって切磋琢磨して友情を深め、そんなことはなかったかのように戦い続けた。

日本のプロボクシングにおいて、世界チャンピオンになるための一般的なコースは

・プロテストに合格しプロボクサーになる
・C級ボクサー(4回戦ボーイ)として、4R制の試合で4勝し、B級昇格
・B級ボクサー(6回戦ボクサー)として、6R制の試合で2勝し、A級昇格
・A級ボクサーとして、8R制の試合に勝って、10回戦、12回戦に進む
・日本ランキング10位以内に入り、日本タイトルへの挑戦権を得る
・日本チャンピオンになる
・日本タイトル防衛
・東洋大平洋チャンピオンになる
・世界ランキング上位入り
・世界チャンピオンになる

そして世界タイトルを防衛していく-と書くのはかんたんだが、実際は大変なプロスポーツである。
減量のためにストイック(禁欲的)な生活と勝つためにハードなトレーニングが要求され、大きな恐怖とロープを乗り越えリングに入って、凶器のような拳で殴り合う。
その上で勝てなければ、いつかリングから消えていくしかない世界だった。
ちなみにプロボクシングで、全日本新人王-日本チャンピオン-東洋太平洋チャンピオン-世界チャンピオンのすべて獲得することを「グランドスラム」という。
(強いアマチュアボクサーが新人王トーナメントを飛ばしたり、東洋太平洋チャンピオンにならずに世界チャンピオンになることもある)
ファイティング原田は、すでにB級ライセンス、6回戦に進んでいて、西日本新人王の田中利一を下し全日本新人王となり日本ランキング10位に入ると、すぐに10回戦のメインイベンター(その日の最後に行われる、興行の中心となる試合)となるなどグランドスラムロードを走っていた。
期せずしてその道から落っこちてしまった斉藤清作の次の目標は、1ヶ月に1~2回の試合を勝ち抜いてC級ライセンス(4回戦)からB級(6回戦)へ昇格することだった。
1度、バッティングでTKO負け
(当時はバッティングで出血し試合続行不可能になった場合、たとえそれまでの試合内容が優勢でも、「血を流すほうが弱い」とされ負けとなる)
した以外、4回戦では負けず、ファイティング原田が10回戦へ進む2ヶ月前に6回戦に昇格。
6回戦といえば、メインイベントの前座試合だが、高いチケットを買った観客の注目を浴びて戦う1人前のプロボクサーだった。
東京オリンピックまであと3年、新幹線や高速道の工事が始まり、大気汚染や公害を顧みず高度成長の狂騒に中にある日本で、力道山のプロレス、巨人・長嶋茂雄のプロ野球、そしてプロボクシングは大人気で、各局がボクシング番組を持ち、連日テレビで放送され、プロボクサーの仕事(試合)の数も多かった。
斉藤清作は6回戦の初戦を勝つとフィルム運びの仕事を辞めた。
月に1~2試合あり、1ファイトで祝儀を入れて6万円もらえたからだ。
朝起きるとロードワーク。
ジムで縄跳び、シャドーボクシング、サンドバッグ。
午後、少し休んでから、夜にまたジムで練習。
とますますボクシングに打ち込み、自分のボクシング、肉を斬らせて骨を断つ捨て身のノーガード戦法を完成させていった。

以前からパンチングボールはやらなかった。
小刻みな反動を繰り返すボールを打つパンチングボールは、パンチのスピード、リズム、タイミングを養うのに最適な練習だったが、片目なのでうまくできなかった。
「お前はなぜパンチングボールを叩かないんだ?」
笹崎たけし会長にとがめられても理由をいうわけにいかず、なんとかいい逃れをして黙々とサンドバッグを打ち続けた。
それに加えて
「逃げ足はいらない」
と縄跳びもやめた。
ジムではシャドーボクシングでアップした後、サンドバッグ、スパーリングに多くの時間を割いた。
サンドバッグは、実戦をイメージし、ディフェンスも忘れず、飛び込んで頭をつけて左右のボディ。
1歩引いてフックとアッパー。
3分打って、1分休む、その繰り返し、15回目、世界戦なら最終ラウンド、15Rの最後に猛然とラッシュした。
スパーリングには特に力を入れた。
通常は1日2、3Rだったが、5、6Rをこなした。
しかも相手は自分より重いクラスを選んだ。
試合では、これまでも突進して打たれていたが
「どうせパンチを喰うならハッキリ打たれたほうがいい。
打たれた瞬間、自覚して打たれたほうがダメージが少なくてすむ」
といって、より相手に打ちたいだけ打たせて誘い込むようになった。
腕はダラリ、拳を顎のはるか下で構え、首を振りながら前進。
相手のパンチを下がったり、左右にステップしてかわさず、クリンチもしない。
相手に真っ直ぐ進んでいき、周囲があきれるほど打たれながら、必ず打ち返す執念をみせる。
斉藤清作は、早ければ1Rから、少なくとも早い回から、まるでプロレスのように必ず流血。
やがて打ち疲れ、動きが鈍くなり、音を上げた相手に猛然とパンチを繰り出し反撃開始。
このとき観客は沸き、不死鳥のごとく蘇った斉藤清作に声援を送った。
そういう戦い方をしながら、6回戦の戦績は、16戦14勝(4KO)2敗
勝利はすべて逆転勝利。
2敗の1つはバッティング(頭突き)の減点、もう1つは風邪によるコンディションを崩していたための判定負け。
KO負けは0だった。

試合はファイティング原田のメインイベントの前座が多かったが、観客の中には斉藤清作目当ての客も多くいた。
ファイティング原田がバリカンでイタズラしたことから生まれた、頭頂部を丸く苅ってくぼみをつくったヘアースタイルが
「カッパの清作」
とウケると
「水がたまって気持ちいい」
とボケて、さらにウケた。

ファイティング原田が21連勝で日本ランキング1位となり、世界に照準を合わせた頃、斉藤清作も、日本ランキング入り。
同時期、帝拳ジムがフィリピンでの試合を企画。
フィリピン側から3試合(トリプルメインイベント)を要求され、自分のジムから、全日本ウェルター級チャンピオン:渡辺亮、同級2位:金田森男を出すことを決めたが、フライ級に適当な選手がいなかったので、笹崎ジム所属の斉藤清作が借り出されることになった。
こうして斉藤清作は、A級の初戦をフィリピンで行うことになった。
初の海外、初の10回戦、相手は、フィリピンのフライ級2位:ヘンリー・アシドだった。
雪がちらつく東京から移動するとマニラは連日、30度を超えた。
2年後の東京オリンピックには自由化が予想されていたが、まだ海外渡航は特殊な職業や階級に限られていて、フィリピンに日本人はいなかった。
食事は水牛のステーキ、デザートにマンゴーとパパイヤが出た。
太りやすいファイティング原田と違って、斉藤清作はどれだけ食べても50kgを超えなかった。
試合前日、海辺のホテルからロードワークに出ると、ビーチで人々が寄ってきて握手を求めてきた。
「Oh、サイトー、セーサク・サイト」
「ジャパン、フライウエイト、ナンバー5」
本当は斉藤清作は日本フライ級9位だったが、フィリピンでは5位になっていた。
おそらく賭けが偏り過ぎないようにするための措置だったが、それでも試合前の予想は、8対2で「アシド有利」だった。
しかし斉藤清作にとっては大チャンスで、フィリピン2位を敵国で、しかも10回戦で破れば、大きな実績となり、帰国後の出世は約束される。
外国人の歓待に感謝しながら走り去り、ロードワークを続けた。
走り終えた後、海岸で右目をつむると夕陽が消え、かすかな赤が滲んだ。
「自分のボクシング」
と善戦を誓った。
特別、作戦はなく、これまで通り、自分のボクシングをするだけだった。

1962年2月24日、試合会場には2万人の観衆が入った。
16時、トリプルメインイベントの1試合目、ヘンリー・アシド vs 斉藤清作の試合が開始。
タオルを頬かぶりした斉藤清作、帝拳ジムのケニー新保トレーナー、渡辺亮、金田森男が入場し、青コーナーからリングイン。
ほどなく赤コーナーにヘンリー・アシドが現れた。
褐色の肌で筋肉隆々、目が鋭い精悍な顔立ちで、近づいてよし離れてよしのボクサーファイター。
1R、足を使いながら左で探りを入れるヘンリー・アシドに、色白で一見ひ弱そうな体をした斉藤清作が、いきなりロングフック。
意表を突かれて後退した相手を前傾姿勢で追ってボディーを連打。
ヘンリー・アシドは顔面へパンチを放ってリング中央へ押し返した。
その後もしゃにむに前進する斉藤清作に、キレのいいヘンリー・アシドのストレートがヒット。
斉藤清作は、カウンターパンチをもらいながら前進し続け、ヘンリー・アシドはロープ際で押し倒した。
レフリーが割って入り、リング中央から試合再開。
頭を下げて突進してくる斉藤清作に、ヘンリー・アシドはアッパーを突き上げて上体を起こし、右ストレート。
斉藤清作の顔が後方へ折れた。
1Rが終わるとケニー新保は、斉藤清作からマウスピースをもぎ取りタオルで顔を拭った。
「もっとガード上げて!
まるでノーガードじゃないの。
どうしたのよ」
「わかってます」
「フルラウンドやるつもりでスタミナの配分も考えて」
「はい」
「左に回りながらリードから入ったほうがいい」
全日本ウェルター級チャンピオン:渡辺亮は首筋をもみながらアドバイス。
「そうよ。
相手は日本の6回戦ボーイじゃないのよ」
ケニー新保の大声に斉藤清作は無言でうなずいた。
2R、接近戦に持ち込もうとする斉藤清作にヘンリー・アシドは足を使って中間距離を維持。
槍のようなストレートパンチで迎え撃ち、ロープに押し込まれるとすぐに体を入れ替え、パンチを見舞った。
顔面のガードを下げてボディだけガッチリ固め、ダッキングとウィービングだけで前進する斉藤清作は、パンチをもらい続けた。
それで自分の距離になると連打を繰り出したが、ヘンリー・アシドはクリンチで逃れた。

2R終了後、
「聞かない小僧だね。
どうしてガード上げないの。
タフなのはわかるけど闘牛場じゃないんだからね」
とケニー新保は、再度、ガードを固めながら足を使って左ジャブから入っていくという基本的なボクシングをするよう指示。
笹崎ジムの人間ならこんなことはしない。
何度繰り返してもやらないことを知っていた。
斉藤清作が、何故、それをしないのか?
それともできないのか?
誰もわからなかった。
3R、ヘンリー・アシドは出てくる斉藤清作の顎に左アッパーを突き上げ、さらに右、左、右。
斉藤清作の顔から血が滴り落ちた。
さらにヘンリー・アシドは一方的に攻め、とどめの1発を炸裂させた。
しかし斉藤清作は倒れなかった。
顔をひん曲げ、血をたらしながら、頭を左右に振りながら、足でリングを踏んでいた。
「自分のパンチが効かない」
ヘンリー・アシドはうろたえた。
攻撃を止めたヘンリー・アシドに斉藤清作は突進し、ロープに詰めてボディーの連打から顔面に返した。

6R、
「サイトー」
試合が後半に入ると、日本人への声援が多くなった。
斉藤清作がコーナーに押し込んでメッタ打ちすると、アシドはクリンチ。
するとレフリーが割って入り中央に戻した。
しかしすぐに斉藤清作は左右を炸裂させ、アシドはすぐにロープを背負った。
足が鈍ったアシドはメッタ打ちになった。
アシドはまぶたを切り、斉藤清作は鼻血を出していて両者血まみれだった。
流血戦に観衆は、熱狂し、レフリーが試合を止めることを恐れた。
自分のパンチが通用しないことに失望したアシドは失速。
「音を上げやがった」
それを肌で感じた斉藤清作の執拗に攻めた。
「やるじゃないの、ボウヤ
ほんとブルファイターね」
ケニー新保はいった。
10R、最終ラウンドが始まると、このままでは勝ちはないアシドがラッシュ。
斉藤清作はそれをノーガードで受け、すぐに反撃を開始。
歓声を受けながら相手をコーナーに追い込んでパンチを連打した。
ゴングが歓声にかき消され聞こえなかったため、レフリーは3分を超過してやっと斉藤清作の攻撃をストップさせた。
「グッドファイト」
「ベリーグッドファイト」
斉藤清作は観客を聞いて
(勝った)
と思った。
ホームタウンディシジョンを許さない試合をした自身があった。
「セーサク・サイトー」
判定は2対1で斉藤清作の勝利を支持。
「鉄の顎、ヘンリー・アシドを寄せつけず」
「まるで人間の壁 アシド打ち疲れ敗れる」
翌日、マニラの新聞は斉藤清作の強さを称えた。

あまりの人気に、急遽、もう1戦組まれ、セブ島でフィリピンのフライ級10位:ビリー・ブラウンと対戦することになった。
こうして斉藤清作一行は、戦後、初めてセブ島に入った日本人となった。
「殺されるんじゃないか」
と思っていたが、大歓迎され、対戦相手とパレードまで行った。
試合前の予想は、圧倒的に「斉藤清作有利」だったが、結果は惨敗だった。
理由は、試合前日に食べたアイスクリームだった。
「デッカいんだ、向こうのは。
残すのはもったいないと思ってみんな食った。
そしたら・・」
(斉藤清作)
「この子ね、リングに上がる1分前までトイレにかけっこよ。
リングに上がっても、いつクソたれるか気が気でないの」
(ケニー新保)
「リングでウンコして帰れないよ。
我慢するのが精一杯でパンチに全然力が入らなくて・・・」
お腹は冷えたかもしれないが、ふところは温かかった。
アシド戦のファイトマネーが10万円だったが、番狂わせで賭けで大儲けした客や、純粋なファイトを称えるための祝儀が20万円もあった。

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